最新作『無人地帯 No Man's Zone』(2012)
〜福島第一原発事故、失われゆく風景、そこに生きて来た人々〜
第62回ベルリン国際映画祭フォーラム部門正式出品作品

7/31/2013

終末論的なるものの悦楽としての「日本を取り戻す」、そして「反原発」


先の参議院選挙に大勝した安倍晋三総理の自民党のキャッチフレーズは「日本を取り戻す」である。「取り戻す」ってどこから「取り戻す」のか? だいたい日本がいつ失われたのだか、奪われたりした事実がどこかにあったわけでもないはずだが、昨日は近所の駅前でこんな街宣カーを見かけた。


「再生」って、いや別に死んでないし、この国の将来を不安に思うべき理由も、現状の問題も山ほどあるにせよ、およそ終末論ごっこを始めるような現状なぞどこにもないどころか、日本は未だに世界で屈指の豊かな国だ

「中国に抜かれた」と数年前にえらく自信喪失したのも、よく考えれば相手は人口が我が国の10倍以上ではないか。中国の経済発展が目覚ましかっただけで日本がとりたてて衰えたわけでもなく、むしろ商売相手がより豊かになれば、こっちの商売にだって好都合なはずなのだが。


終末論的な気分に浸りたがっているのは、与党や右派だけではなく、いわゆる左派リベラルだって似たようなものだ。たとえば安倍晋三政権の大勝で、憲法が改正され日本がまた戦争をするみたいなことを、すぐに言い出す。

安倍やあるいは橋下徹、石原慎太郎の歴史修正主義的な言動が国際的に警戒され、あるいは鬱陶しく思われて外交で国益を大いに損ねているのは確かだが、国内の情勢でなんら「日本が再び軍国主義に!」に確たる根拠が、今のところあるわけではない。

よく考えて欲しい。自民党が勝った大きな理由のひとつは、安倍晋三本人がどんなに「憲法を改正して誇りのある国を取り戻すんです!」と叫んだところで、熱狂したのは秋葉原の演説に集まって日の丸を振り回していたおかしな連中くらいなもので、マスコミ等は徹底して憲法改正問題に言及しなかった、それが明らかに安倍政権にとってマイナス要因になるから無視した、そのお陰である。

せっかくこれから三年間国政選挙のない安定政権を確保したのに、わざわざ世論の反発を呼ぶ憲法論議なんて、今の自民党なら安倍と大差ない二世三世のボンクラばかりだとしても、だからこそせっかくその操り人形に出来る政権をこれから利用する気の霞ヶ関が、許すわけもなかろうに。 
政策が作れない、自力では政治が出来ない安倍政権が、霞ヶ関に逆らえるわけもなかろうに。 
集団的自衛権を認める憲法解釈くらいなら、と思ってみても、肝心の同盟相手のアメリカが、少なくとも2016年の大統領選挙までは、オバマ政権が興味すら示していないのだから、外交カードとして切ることも出来ない。 
せいぜいが96条を改正して、国会2/3がなくても発議が出来るようにする程度だろうし、だいたい与党に公明党が入っている以上、9条改正や人権保護条項をいじることは、31条の生活権も含め、現実的にあり得ないのだし。

から左派の側だってそんなに「大変だぁ」と終末論の気分に浸る必要は、今のところはない

それよりも現実的に、官僚独裁には震災復興なんてなにも進める気がないであろうこと、原発に関しては現状維持の先延ばしにしか興味がないこと、そして「グローバル・スタンダード」と称して労働法制や社会保障などを変えたがっていること、社会保障の財源論を人質に消費増税を強行すること、安倍が首相では外交がぐちゃぐちゃになることなど、個々の実際の諸々の問題にこそ注意すべきであり、安倍の暴走を抑えるべきなのだし、そういう積み重ねで、三年後の次の選挙結果だって変わるはずなのだ。

いやその個々の、細かな、瑣末で平凡に見え、煩雑で粘り強い議論を要し、しばしば金勘定の話に陥りがちな、べったりと実生活の手垢のついた現実政治の問題を考えるのが面倒だから、「再び戦争をする日本」という終末論的な気分を、たぶんそれがファンタジーでしかないと実は分かりつつ、むしろ希求しているのかも知れない。

なるほど、「生活の党」の人気が出ないわけだ。 
ネット上の小沢支持派だって、その理念をどこまで本気で理解しているのやら。 
むしろ「 巨悪の検察に潰された悲劇のヒーロー」というだけで支持しているのだし。

言論の自由がなくなる云々という危機感に至っては…そんなもの、マスコミ業界でも、左派右派双方の陣営でも、すでに私たち自身がそんな自由は売り払ってしまっているじゃないか。

僕たちの映画の世界で言えば、表現の自由なんてとっくの昔になくなっているし、またほとんどの映画を作る側にとって、そんな自由自体が宝の持ち腐れでしかない。どうせ行使する気、みんなないじゃん。 
「これが映画的だ」という教科書的な共有幻想を業界の仲間うちや、さらに細分化した派閥内で消費して、そのカタチをなぞることしか、やる気ないでしょう? 
これならばマニュアルに黙々従っているのではあろうがそれでも感じよく、きめ細かい気配りでお客にコーヒーを出してるスタバのバイトさんの謙虚な日常の繰り返し方が、「映画を勉強しています」気取りの高慢ちきより、実は日々の時間に意味をきちんと与えている気すら、してくる。 
(実際、マクドナルドやコンビニに較べ、スタバだとかは「コーヒーをもっともおいしく召し上がって頂く」ためのリアルな生活の知恵の手続きが、いろいろマニュアルに組み込まれているのであり) 
スタバは冗談にしても、毎年この季節になれば、黙々と草刈りを続ける農家の、繰り返される日常の方が、禅の日々のご精進にも通じ、哲学的な意味が大きい気すらして来る。

自分の属する陣営や、自分達の周囲と違ったことをやる自由、仲間の反発を買うことになっても、正しいと考えることを口にする自由なんて、私たちの大半が求めてすらいない

そんな言論の、表現の自由を行使しようとする者がいれば、国家権力の介入を待つまでもなく、自分達の内輪でパージにかけるのが、私たちの日常ではないか。

「あなたの言ってることはおかしいのではないか?」と指摘されたら、「じゃあ周囲のみんなに訊いてみましょう」で反論になると思い込んでいるほどに頭が悪い、「自由」の意味がなにも分かってないまま無神経に幼稚な集団全体主義と排除の論理を押し付けるだけの、哲学的な思弁など皆無な体制順応者が、左右を問わずこの社会の大勢ではないか。

こんな調子でいれば確実に、日本はやがて衰退するだろうとは言えるのだが、しかしそれは持続する、緩慢な時間の流れのプロセスとしてしか起こらないものだ。

そんな緩慢さの、ほどほどの抑圧の中にいる欲求不満があるからこそ希求したくなるカタストロフィの麻薬的な悦楽とは無縁の、退屈な、何も起こらない、10年とか20年のスパンで徐々にグズグズが進行し、気がついたらボロボロになっていく継続性の衰退の成れの果てが、退屈で、何も起こらないが故に皆が苛立っている、だからこそ終末論にも憧れてしまう現在の延長に、恐ろしく平凡な論理的帰結として、あるだけだろう。

一昨年の4月、NHK-BSの気の効く担当者が、震災後では初の映画放映で、黒沢清の『トウキョウソナタ』をとりあげた。ラストで小学生の主人公が奏でるドビュッシーの『月の光』があの時の鎮魂にふさわしかったからだろうが、その前に、この映画にはアルバイト学生の青年のぎょっとする台詞があった。 
「あ〜あ、起こんねえかなぁ、大地震」 
それこそがこの社会の、正直な本音だったのかも知れない。

逆に、だからこそ、この時間の流れは心底恐ろしいのでもある。

ダラダラと、なんら決定的な瞬間や契機が見えず、規則正しさもない怠惰さの、自分達が抑圧されていることを意識すらしにくいこの耐え難い抑圧のなかで、我々はすでに、そこからの逃げ道を探る努力すらまったく怠りながら、ただ日々を漫然と過ごしているのではないだろうか?

だいたい、「憲法が改正されて日本がまた戦争になる!」と言い出す前に、よく考えて欲しい。 
確かに今の日本社会の空気は、戦前の末期、昭和恐慌を経て戦争に向かった時代に似通っていると、例えば故・黒木和雄に「私たちの子供の頃とそっくりだ」と僕もよく言われたし、靖国神社に来ている戦場を生き残った日本兵にも同じ警告を何度もされた、「あんな時代にしちゃだめだよ、注意しないと」と。 
確かに似通っている、あの戦争もまた外の世界が見えず日本の内輪に引きこもって現実離れした狂った行動に走ったものであるのはその通りだ。 
しかし今と当時では決定的な違いがある。 
1920年代、30年代に、日本は戦争に強い国だった。日本人の兵士には戦争が出来たし、そのための訓練にも耐えて来た。今の日本人のほとんどが、兵士の生活に耐えられるわけもない。 
中国大陸でがむしゃらに(兵站確保なしに)戦争を遂行し、人体実験に手を出し、興奮状態で大虐殺をするような意志の力や体力なぞ、安倍晋三にも、秋葉原で日の丸を振ってた連中にも、期待するだけ間違っている。 
勝てるかも知れないと思ってるからこそ、戦争に走ったりもするのだ。現代の日本は、憲法を変えたところで絶対に戦争なんてやらない方がいい。 
お話にならないほど弱いに決まっているのだから 
そして確実に、すぐに負ける国だということは、要は憲法に関係なく、最初から「戦争が出来ない」国でしかない

戦争というカタストロフィのカタルシスに実は期待も出来ず実際にありえないからこそ、「普通の国」だか「国防軍」といった夢を見るのにもちょうどいいわけだが)、ただ国内の、さらに狭い周囲の同質性の内輪に引きこもって、戦前戦中のもっとも下劣でいやらしい世界だけを国内で再生産・模倣するのが関の山だ。

つまり、下衆な井戸端会議といじめ遊びに「お国のため」の看板を掲げて自己正当化していた国防婦人会みたいに、道徳的堕落に耽溺しきって、外敵や他者と闘うよりも、国内・内輪での排除と差別に終始するだけだろう。

…というか、現にそうなっているじゃないか。 
だから「韓国政府は、北朝鮮が」と言いながら、デモをやる場所は韓国大使館前などではまったくなく、新大久保や大阪の鶴橋の韓国料理店街に営業妨害をやって満足出来てしまう阿呆も出て来るのだ。

バブルの崩壊の直後にも、終末論的な気分が蔓延したことがあった。

そんななかで95年1月に神戸の震災があり、同年3月20日に東京の地下鉄にサリン・ガスの袋が仕掛けられた。実際にサリンを生成させる化学的知識さえなければ、驚くほど児戯めいたやり口だった「日本史上最悪の無差別テロ事件」である。

オウム真理教はまさに当時の、行き着くところまで成長し切った末に、その先が見えない終末論の気分を凝縮したような信仰でもあったのだが、そのことの総括もこの国は出来ていない。


オウム・ネタの映画は当時流行ったものの、しょせん興味本位な薄っぺらでしかなく、村上春樹という希有な例外を除けば、日本が自らを省みなければならなかったはずの歴史的瞬間に、その役割を果たそうとした芸術家や表現者はいなかった。

村上が『アンダーグラウンド』と、その姉妹編『約束された場所で』で、真摯に現実の人間から紡ぎ出した言葉は、そんな終末論的な浮ついた気分とは似ても似つかぬものだった。ことサリン事件の被害者というか体験者の言葉をまとめた前者に浮かび上がるのは、バブルの軽薄でも失われなかった日本の名もなき普通の人々の、堅実で素朴な知性だった。


だが驚くべきことに、秘かなベストセラーにこそなった『アンダーグラウンド』について、まともな分析や書評すら書かれていないし、仮名を条件に取材に応じた人も多い中、現実的に難しい面もあるにせよ(僕自身は、実際の人物が特定出来ずに済む脚本が書けたらやってもいい、脚本を書いたらそれを読んで決める、と村上さんに言われている)、映画化とまでは言わずともそこにインスピレーションを受けた映画すら、一本も作られていない。


地下で巨大な災難に遭った人々の、地に足のついた言葉とは裏腹に、日本という社会の総体の意識は、バブルの余韻を匂わせながらふわふわと漂白を続け、「再生」とか「取り戻す」とか「改革」とか繰り返しながら停滞した時間がそろそろ20年も経過しようとしている


「もう日本は終わりだ」めいたカタストロフィな気分の悦楽を、20年近くも麻薬のようにむさぼりながら。

(そして当然ながら、その現実の日本はまったく終わっていないし、終わりそうにないから安心して終末論という麻薬に中毒していられるのだ)

結果として現代日本文学の金字塔と評されてしかるべき、そして20世紀の終わりの日本人という総体のもっとも誠実な自画像であったはずの『アンダーグラウンド』が影響を与えた芸術作品は、なんと村上春樹本人の『東京奇譚集』や『1Q84』くらいしか見当たらないのである。

よく考えれば、私たちは終末論の気分を楽しんだけで、人生がひっくり返るような困難に直面した個々の他人の体験や、それが私たちの社会や、個々の人生にどれだけのインパクトを持つのかには、ほんとんど関心がなかったのではないか?


一昨年の東日本大震災と原発事故も、結局は消費されるカタストロフィな気分を一時的に提供しただけに思える。そしてその終末論の気分の賞味期限が切れてしまえば、もう忘れられている。


たとえば昨年度末に「警戒区域」が一応はなくなっていることを、地元以外でどれだけの人が気づいているだろうか?

原発事故への関心、たとえば再稼働反対デモの盛り上がりが、実は終末論的な気分を求める欲望でしかなかったとするなら、こうなるのもまた理の当然だろう。

そういえばそんな報道もあったね、という程度でも、憶えているだけ、まだましな方ではないか?

別に「被災者のことを考えないのはけしからん」という道徳論ではない。 
ただ都合のいいときにはさんざん「フクシマの人々」とか言って味方のフリをしたり、「原発マネーで汚れているとかクサしてみたり、放射能が大変だと騒いで玩具にして来たのに、どうも期待通りのカタストロフィにならないから「もう飽きた」というのなら、そりゃあんまりだろう?

実際に避難させられた市町村とその住民にとって、現実はそんなカタストロフィの気分のワクワクする終末論とはほど遠い、果てしなく続きそうな緩慢なる苦悩、停滞する現実のなかで宙づりにされた実存でしかない。


今は「帰宅困難地域」とされた場所でも、「放射能が強い」と分かるのはガイガーカウンターなどがピーピーと機械的な警告音を出すことだけだ

事故直後ならそれだけでパニックになったかも知れないが、今ではそこで数値をちょっと確認して「やっぱりここは高いね」「帰れるようになるのはいつのことになるんだろうね」と、この二年間ですっかりおなじみになってしまった言葉を交わす。

二年前、三年前には田畑であり、美しい田園であったところには、外来生物のセイタカアワダチソウなどの雑草がみっしり生い茂っている。

双葉郡の多くの人は丹念な庭作りが生活の一部であり、季節の花々を楽しんでもきたし、それが老人の健康の秘訣のひとつでもあったのが、今では荒れ果ててしまっている。

藤原敏史『無人地帯』より
だが雑草は雑草だから、地味が豊かだから生えているだけのことだ。放射能の突然変異ではない

避難の際に農家が飢え死には忍びないと放した家畜のブタが、山中にいたイノシシと交配し、イノブタが闊歩したところで、それは自然の健康な営みであって、遺伝子の異常でもなんでもない


この土地のかつての美しい田園を見たことがない者、それこそ田んぼや畑をあまり知らない都会の人に、この故郷の風景がどれだけ変わってしまったのか、写真や映像を見せても、それだけで伝わるかどうかも怪しい、と地元の人たちは思っている。


非日常が延々と続く日常になる。そこに娯楽映画みたいなモンスターや、分かり易く刺激的なホラーの要素はかけらもない。

終末論の悦楽なんて、原発事故に巻き込まれた人々の現実には、まるで縁のないことだ


「メルトダウン」「政府の嘘だ、東電の隠蔽だ」

挙げ句に「放射能で牛の畸形が」「脱毛、大量の鼻血」挙げ句に「福島の女は将来奇形児を産む」

ちょっと『ゴジラ』の見過ぎじゃないですか、と僕なぞはシラけてしまう終末論的な気分満載のハルマゲドンを、「レベル7」に思わず無自覚に期待してしまった人たちが夢見た「史上最悪の原発事故」は、ここにはない
…っていうか、福一事故が「レベル7」という政治的バイアスのたっぷりかかった評価は、いくらなんでも誇張が過ぎるわけだし。 
原子炉が4基だから量がもの凄いとはいえ、停止している原子炉が崩壊熱で壊れた事故であって、臨界状態の炉心メルトダウンとか、その状態で圧力容器が爆発したとか、それこそ核爆発だとかじゃないわけで。

現実の福一事故の現場は、亡くなった前所長の吉田さんが最初から言っていたように、ひたすら水の問題、原子炉を冷やすための水がどんどん溜まって行くだけという、これまた華やかなカタストロフィ願望には期待はずれの、地味な日々の蓄積との闘いしか、そこにはないのだ。


これは終末論的な空気を背景に、「原子力ムラの隠蔽だ」「利権だ巨悪だ」に対抗する正義気取りが出来るような話ではない。

東電にせよ政府にせよ、よく見ればそのやり口で目につくのは、むしろ平々凡々たる責任逃れの論理の、今の日本でうんざりするほど目にするような、凡庸でみすぼらしい保身の狡猾さの帰結か、下手すれば幼稚なプライドの意地っ張りの話でしかない。

ここにあるのは、バブル崩壊後の停滞した20年の動かない時間が我々の多くの知る唯一の日常となり、右肩上がり社会の幻想を未だに棄てられずにそんな日本を「再生」だか「取り戻す」と言い続ける、終末論的なガラガラポンを夢想し続ける以外に未来像すら持てなくなった、うんざりするように平凡で、ほどほどに根腐りれが始まった日本の現実が持続して来たことの澱が、日々の蓄積の末に肥大した結果であり、私たちがその現実を直視し受け止めることを拒絶し続けた、なし崩しの、成れの果てなのだ。

浪江町の中心街。線量はいわき市と変わらない

結局、この場以外の日本にとっては、カタストロフィのカタルシスを求めていたのに、期待はずれだっただけなのかも知れない。

地下鉄サリン事件も同じだ。オウム叩きには日本中が熱狂し、今でも「カルトは怖い」と便利に引き合いに出されるが、私たちの便利な都市生活の日常がどれだけ危ういものなのかを直接体験してしまった、3月20日にたまたま地下鉄に乗っていた人たちのことは、すぐに忘れてしまった。

だから忘れたくなっている私たちの政治ごっこ、もう賞味期限切れになりつつある正義気取りの「反原発」の陰には、終末論的スペクタクルではなく、ただ目に見えぬ潜在的な危険を前にする非日常が日常と化してしまった、果てしなく宙づりの現実の時間がある

それこそがリアル、ここ以外の場所の私たちにとっても、自分のリアルの延長だと、私たち自身にも分かった瞬間に、興味すら失ってしまった、「私たちの平凡だがもの凄く便利な日常」のツケとしての(しかし浜通りの人たちがそんな「文明化された日常」の恩恵に、そんなに預かっていたわけでもあるまい)、日常になってしまった非日常。

ここに残され、ここ以外の日本から忘れられつつあるのは、帰れるかどうかも分からない(放射線値だけ見れば帰れるはずだが、生活が立ち行かないであろう人々。どうも線量からしても帰れそうにないが、補償が決まらないので動きがとれず、家を諦めるわけにもいかない人々)、避難させられた人たちだ。

浪江町。スマホの画面に写るのは、三年前の同じ場所の風景
その人々の「自分達の現状はなにも変わらない、しかし自然はどんどん変わって行く」宙づりの時間は、延々と続いている。浜通りが自然の豊かな、本来なら恵まれた土地だったからこそ、人がいなくなった自然は、めまぐるしく変化しているのだ。

元の警戒区域や、仮設住宅、借り上げ住宅には、その場とそこに生きる人々をもはや見捨てようとしている、終末論幻想に踊り時間感覚を失った「そこ以外の日本」とはまるで異なった、現実の重々しい、宙づりの時間が、停滞している

その周辺では、なんとなく日常が続いているように見え、また日常を取り戻そうとしながら、震災前にあった日常が決して取り戻せないこともまたよく分かっている人たちの町がある。

相馬野馬追いのお行列にて、桜井南相馬市長の口上

だがその人たちが、それでも「ここで死んでたまるか」と、人として生き延びようとしていること、「どうこの大地で今後生きていくのか」を考え抜いていることもまた、忘れてはならない。

南相馬市・原町では、今年も相馬野馬追いが盛大に行われていた。
この人たちの慎ましやかな、本来の人間としての尊厳は、守られなければならない。

7/25/2013

参院選の結果と広島の死体遺棄事件に通底するもの


恐らくロクな結果にはならないだろうと思っていた参院選だが、思った以上にすごい結果になってしまった。投票率が50%をちょっと越える程度の史上最低レベルであったことについて、僕が棄権した人たちを責める気になれないのは、投票日前にこのブログに書いた通りだ(「本当に選挙を「棄権」してはいけないのか?」)。

「ねじれ解消」をいかにもポジティブなことのように書く報道については、内田樹さんがいかにそれがおかしな話、ねじれこそ民主主義の二院制の機能であり、これでは民主主義の放棄に通ずる話でしかないか、ご自分のブログで適確に論じているので、今さらここでは書くまい。

内田樹の研究室「参院選の総括」
http://blog.tatsuru.com/2013/07/23_0850.php

しいて付け加えるなら、従来の自民支持者こそ、この結果に危機感を抱くのが当然ではないだろうか。

思い返せば一年ほど前には、安倍晋三氏が自民党総裁に再登板することは、悪い冗談としか思われていなかった。

周知の通り、総裁選挙で党員、つまり一般の自民支持者が選んだのは石破茂氏だ。

以前に政権を丸投げした安倍晋三のことを信用する自民支持層は少なかったわけだし、それなりに政策通の、一応は勉強はしている石破氏が、実際に生活もかかっている自民党組織票の保守志向の支持者(たとえば地方の商工会議所や農協の人脈)に選ばれるのは、当然だろう。

安倍氏が勉強が足りない、政策を知らない、あまり頭も良くない、中身がない、こう言っては悪いがボンクラなお坊ちゃんであるのも、第一次の安倍政権の際に、旧来の自民党支持の庶民ほど気づいていたことだし、挙げ句に体調不振を理由に丸投げ辞任…

…それも倒れて入院でもしたのならまだ納得するのが、本人が元気な顔して記者会見をわざわざやってしまう世間知らずっぷりでは、呆れられて当然だった。

安全保障通を自認しながら、兵器のプラモデルを集めるのが好きな男の子の趣味でしかないと揶揄される石破さんでも、軍事や外交安全保障のイロハどころか世間の常識すら知らない安倍さんよりはマシだ。

なのに国会議員たちは(大切なはずの支持者を裏切って)安倍氏を選んだ。

この時には誰もがその結果に鼻白んだはずだ。

どうも石破氏を直接知る国会議員のあいだでは、ちょっと勉強してるからって知識を鼻にかけて傲慢、しかも粘着質で執念深い、性格が悪くて友達がいない、ともっぱらの噂であるにせよ。

その安倍氏が衆院選だけでなく、参院選まで大勝となれば、安倍氏とその周辺の軽薄なお調子者たちだからこそ、自分達が勝ったのだと驕り高ぶるのは目に見えた話だ。

しかも彼らには実際に政策を作ったり実行する能力がない。安倍政権の「お友達」内閣メンバーに至っては、こんな幼い顔した人が大臣ですか、と驚くような顔ぶれだ。

薄っぺらなかけ声と、岸信介の孫という血筋だけが売り物の首相が勘違いで鼻高々になれば、肝心の政治は結局は官僚の言うなりになる(本ブログ 「全体主義国家へようこそ」 の項参照)。そしてその霞ヶ関にとって、安倍晋三は消費増税にもっとも好都合な総理でしかない。

その安倍晋三と言う猫の首に、これでは自民党の誰もが鈴をつけられなくなってしまう。

石破茂氏は選挙後あえて低姿勢を貫き、長年連立を組んで来た公明党を裏切って憲法改正を強行などはしない、と安倍氏の浮かれ方を尻目に慎重さをアピールしていたが(それだけまだ、石破氏の方がまともだ)。

東京選挙区で言えば自公で三議席過半数をとるのは想定の範囲内とはいえ、ダントツのトップ当選が丸川珠代というのは驚きというか、投票した人はなにを考えているのか分からない。

武見敬三氏ならまだ、TPPとのからみもあってせっかくの国民会皆保険制度がなし崩しにされようとしていることへの反対勢力にもなり得るなど、とにかくバランスはとれたはずだ。

別に女子アナ出身のタレント議員がすべて駄目だと言うつもりはないが、よりにもよって丸川氏が110万、しょせん大物の息子の二世とはいえそれなりにベテランで、医療政策などが分かっている方の武見氏に、ダブルスコアに近いトップ得票とは。

出産を経たら案の定「女性にやさしい社会」を演説で繰り返すのはいいが、だったらあなたは自民党でなにをやってるんだ、それも安倍晋三の忠実な着せ替え人形アイドルがなにを言ってるんだ、としか思えない。

その政治手腕に本気で期待して投票する人というのも、想像がつかない。


世論調査をすれば、多数が原発の再稼働には反対ないし慎重、TPP参加にも多くの国民が懐疑を抱き、今のままの消費増税も納得せず、「ブラック企業」という非難に代表されるように雇用制度の規制緩和にも疑問が多い。にも関わらずそのいずれをも公約に含んでいる自民党が大勝したのも奇異だ。

とはいえこれですら、必ずしも自民に投票した有権者を責められた話でもない。そうした本来なら争点であったはずのことが、選挙前にほとんど報道されていないのだ。

丸川珠代が「女性にやさしい社会」とか言ったって、マスコミは誰もその珍妙さを指摘しなかったのだ。

NHKと、テレビ朝日系の人気番組TVタックルでは、投票日の翌日に討論番組を組んで、野党に与党の政策への疑問や批判を挙げさせた(NHKの番組を報じた赤旗新聞の記事はこちら)。

司会者も含めて選挙前とはがらりと違った雰囲気だ。これでは文字通り後の祭り、国民が「騙された」と怒ったって無理のない話であり、なのに怒らない人が多いのはさすがに奇妙だとは思うが。

いったいなんのためのマスコミ、なんのための報道なのだろう?選挙で投票する判断材料を国民に与えもしないでおいて、棄権した国民をけなすのだからいい気なものだ。

投票日二日前の金曜日に、米国デトロイト市の財政破綻が報じられた。オバマ政権の財政支援などのテコ入れで、アメリカの大手自動車製造会社は持ち直しているのにも関わらず、である。

実際、アメリカの自動車産業自体は、今も好調だ。(GMの好業績を伝えるBloomberg日本版の記事はこちら

いや当然の話として、設備投資の余裕ができたビッグ3は、しかしそれをデトロイトなど米国内に投下するつもりなどさらさらなかったのだから、こうなるのはある意味、目に見えていたし理の当然でもある。

教科書通りの「産業空洞化」なのだ。

なのにマスコミで識者ぶったベテラン政治記者は、「日本も他人事ではない」と口先では言いながら、持ち出した比較例はなんと夕張である。

どこまで安倍政権に気を遣っているのだろうか?

同じように、仰々しくも「アベノミクス」と銘打った、タガの外れた金融緩和による円安誘導しかやっていない安倍晋三首相の経済政策も、それで大手企業に(おもに為替差益の帳簿上のからくりだけとはいえ)余裕が出たとしても、それが日本国内の設備投資や雇用創出に廻ることはまずあるまい。

先進国では人件費がアップするため、より労働力が安い新興国や発展途上国には価格競争で勝てなくなるのは、資本主義では自然な流れだ。

だから先進国の「産業空洞化」なんてもう20年前からよく聞く常識で、高度な技術力と労働者全般の質の高さで、その打撃が他の先進国ほどではなかったバブル後の日本でさえ、小泉時代の規制緩和による非正規雇用の爆発的な増加などで対処しなければ、国内の工場を維持するのがすでに難しくなっていたではないか。

ところがデトロイト市の財政破綻の理由を分析するのでも、「産業空洞化」という、ごく当たり前に出て来るはずのタームを口にするのは、せいぜいが一部のコメンテーターだけだ。

アベノミクスが「第三の矢」である成長戦略でよほど日本でなければ出来ない分野を強力に底入れしない限り、大手製造業に余裕が出来たところで、デトロイトと同じ展開が日本でも起こり、一般雇用の拡大や安定、ないし地方経済への波及は期待できず、日本全体が第二第三のデトロイトになりかねないことも、なかなか遠慮して言及されない−−中学で習うような経済学の知識で、すぐに分かることなのに。

この参議院選挙で、せめてこれは公約で出して来るだろうと誰もが思っていた「第三の矢」の中身を、首相や自民党がアピールすることすらなかったし、報道もあえて不問に伏して放置した。

産業空洞化で元の木阿弥、ますます雇用が痛み格差が広がるという結果にならないため、今のところ人工ミニ・バブルでしかないアベノミクスを実態経済への好影響につなげるには、この「第三の矢」の中身がすべてだと言うのに。

首相と来たらなんの根拠も具体性もないまま「10年後に一人当たりの国民所得を150万増やす」と吹聴し、それが出来るとする理由は「70年代や80年代の日本人に出来たことが、今の日本人に出来ないわけがない」という空っぽなかけ声だけだった。

申し訳ないが高度成長の時代の日本に出来たことを、今の日本に期待するだけおかしい。日本は今や成長するだけ成長してしまった、成熟した資本主義国だ。これ以上経済成長をする余地はあまり残されていない。

かつて安価で良質な労働力を武器に世界の市場を席巻したメイド・イン・ジャパンだが、今では労働力は高価だし、その質のほうは逆に、今の日本人の総体は昔ほど実直な働き者ではない。教育も育ちも違うし、それに大企業ですら家族的な雰囲気の演出で忠誠度を高めていた日本的な経営も、もはや過去のものだ。

中国や東南アジアで勤勉で優秀な労働力が育っている今、産業空洞化をどう阻止するのか、あるいはそれに替えてどう言う手段で将来の日本が食って行くのか、それを提示するのが、責任ある与党の選挙公約のはずなのだが。

これも投票日前に出てるのだから、普通に報道されていれば確実に与党への逆風になった話題だが、東京電力では福島原発事故以降、退職者が後を絶たない管理職を引き止めるため、一律10万を支給するという(東京新聞の記事)。 
総額がまたかなりの額になるのは当然で、原発事故の保障賠償もままならず、燃料費コストの価格転嫁で電気代は上がってるのに、いったいどういうつもりなのか東電さんにもつくづく愛想がつきるわけだが、一方で会社が危機の時に責任ある管理職から辞めて行く、だから現ナマで懐柔なんてことは、高度成長時代の日本企業では考えられない話だ。

だがどうも、安倍晋三さんの周囲だけ、日本は未だに高度成長時代であるらしい。

この時代錯誤な幻想(こうなると「信ずる者は救われる、だからひたすら信じろ」というカルトでしかない)を見て見ぬ振りしてオブラートに包んだ報道に徹した大手メディアというのも、これでは民主政治に不可欠な権力の監視役としての言論の役割など、およそ期待できない。

そしてここまで大勝してしまえば、もう誰も安倍さんの勘違いした傲慢なひとりよがりを、自民党内ですら止められないのだ。

始末の悪いことに自民党でも政策が分かっていた、族議員と批判されながらも、その専門分野の実態についての知識は馬鹿にならず、官僚に対抗して自ら政策をつくれるような長老陣は、あらかた引退してしまった。 
残ったのは二世三世が過半の、それも三年間の野党暮らしでなんの政策知識も持っていないことがバレてしまった(国会でもロクに質問も議論も出来なかった)面々がほとんどである。

もはや雰囲気だけの選挙、それも「風が吹く」のならまだ以前にも何度かあったものの、極めて刹那的で、ほんの半年前、一年前のことも忘れたその場限りの突風みたいなものだ。

なるほど、政治も景気もある程度は「気」、気分の面があることは否定しない。しかしその「気分」があまりにも軽薄で散漫として刹那的で、なにも考えていない、本来なら政治が担保すべき国と社会の将来に、あまりに投げやりになっているとしか思えないのだ。

民主党は歴史的な惨敗に終わった。確かに2009年の政権交代マニフェストをほとんどなにも実践出来なかった民主党も情けない限りだが、いつの間にかその三年間に景気が最悪になるような、とんでもない悪政をやったということになっている。

民主党政権が呆れられたのは単に自民党となにも変わらなかったことであり、アベノミクスの元になったインフレ・ターゲット論ですら、元は民主党の菅や前原が言い出したことだと言うのに。

すでに安倍政権発足直後のこのブログで書いたことなのでいちいち繰り返さないが(「日本は本当の危機なのか」日本は本当に危機なのか・その2 」 )民主党政権時代に、日本の経済は別に悪くなってはいない。

むしろ先進国のなかではもっともリーマン・ショックの打撃から早く立ち直り、失業率などの数字も決して悪くない(ただし実際の雇用では給与水準がどんどん落ちているが、これは数字上は好況だったことになっている小泉時代からだし、むしろ労働法制と労働市場の管理の問題だ)。原発が止まって行くことで景気に悪影響としきりにプロパガンダされたことですら、事実はまったく異なった結果になった。

民主党に政権交替する前、第一次の安倍や麻生の内閣の頃、年越し派遣村があれだけ話題になったことすら、もう忘れたのだろうか?

経済政策で民主党政権の最大の失敗は、菅・野田の両首相が尖閣諸島の問題で中国との関係を悪化させたことであり、東京開催のIMF総会を失敗させたて世界の顰蹙を買い、ユーロ危機の解消を送らせたこと、今や世界の組み立て工場である中国相手に日本の国内産業で最大の売り物の高度な部品の輸出が滞ったことくらいだし、こうした外交面の失敗の経済への影響は、安倍政権になってむしろ悪化している。

安倍首相が喧伝するほど、日本の経済はファンダメンタルの部分で悪くなっていない(麻生氏が総理のとき、「日本のファンダメンタルは悪くなっていない」と言って顰蹙を買ったのも、それ自体は間違いとは言えなかった)。決して良好とは言えないし問題は山積している、将来はもたなくなるだろうとはいえ、今日明日にそこまで悲観する理由は実はない。

だが一方で、安倍首相が言い張る楽観論もまた、今後の日本の現実とはまるで異なる。

いかに安倍さんが人差し指を振り上げて「一番」のポーズをとろうが、今さら高度成長など出来るはずもないし、別に彼が人差し指を振り上げるまでもなく過去30年近く、世界でもっとも豊かな国のひとつなのだ。

なのに不況感が漂い、欲求不満が溜まっていることは、否定のしようがない。

問題なのは企業経営のルールや倫理だけは日本式経営の美点をかなぐり棄て雇用制度はガタガタにしながらも、経済の構造というか、我々の意識が未だに輸出偏重構造の高度成長型である時代錯誤、実態に合ない経済構造を維持していることであり、我々もまた今よりも高度成長時代は良かった、と無邪気なノスタルジアに浸ってしまっている(いわゆる「昭和ブーム」)。

だが日本は80年末代にはとっくに高度に成熟した資本主義の、安定した低成長ベースのフェーズに入っている。

その転換期に経済政策を誤ったが故にバブルになり、そのバブルが崩壊してからの「失われた20年」、「規制緩和」を唱え続けても、結果は労働市場が不安定化して非正規雇用と正社員の格差が増えたくらいのことで、バブル崩壊から順調に回復できたわけでもない。

ところで未だにバブルの時代の再来を望むような論調も見かけるから驚く。あれは経済政策の失敗なんだって。その後遺症に今も日本は苦しんでいるんだって。 
いや「バブルは良かった」という感覚こそが、その最大の後遺症なのだろうか?

にもかかわらず国は未だに膨大な資産を持っているので、赤字国債を発行したって日本国債の価値は下がらなかったし、悪者扱いされた円高は実は世界のどの通貨よりも円が信頼されていた結果に過ぎず、不景気とか言いながら銀行には投資先が見当たらずに困る世界最大級の預貯金が唸っている(アベノミクスの為替差損で相当に目減りしたとはいえ)。

経済構造を安定持続型に変える余力はまだあるし、今が最後のチャンス…なのに、「再び日本を一番に」と人差し指を振りかざす軽薄な絶叫の奇妙さを経済学者や歴史学者が指摘しようとしたら、マスコミにコメンテーターとして呼ばれなくなる国になり、その結果、衆院だけでなく参院の過半数まで与えてしまい、これから三年間は大きな選挙もない、よほどの失政がない限り安泰の、霞ヶ関の言いなり政権が続くのだ。

ここまで勝たれてしまうと、消費増税などいろいろ都合がよかった霞ヶ関も困ってしまうかも知れない。 
調子に乗った安倍晋三が、確実に世論の反発を買う憲法改正などを強行したりはしないだろうか?
日中関係や日韓関係をこれ以上悪化させては日米関係まで揺らぐだけでなく、経済に響く。
それに自民党の現在の憲法草案がお話にならない内容なのは以前に述べた通りで、あまりにみっともないので今回の選挙でも報道でほとんど触れられなかったのだが、逆に言えばこれを持ち出しでもしない限り(三年後に選挙に大敗する可能性さえ覚悟しておけば)、安倍政権は安泰だ。 
逆に言えば、憲法改正や集団的自衛権の問題は、多くの人が危惧しているように強行されることはないように思える。霞ヶ関、とくに財務省がそれをやらせたがらないだろう。せっかくの、頭が良くないぶんもっとも操り人形にしやすい、便利な政権なのだから。



投票日直前にもうひとつ、本来なら大きなニュースになってしかるべきだったのは、中国の習近平・李克強政権の経済政策の転換だ。

デトロイトの破綻と同じ日に、人民銀行が闇金融対策で金利政策を変えることが発表された。その前に輸出にかげりが見えたと指摘され、「大規模公共投資で景気の底上げはしない」と李克強首相が明言したことも、世界経済の新しい流れを予測させる重大なニュースだったのが、安倍の政策がいかに時代錯誤化をあからさまにしてしまう話であったせいか、ろくに報道されなかった。

中国の現政権ははっきりと、今の急激な経済発展に多少はブレーキがかかる結果になっても、中国経済の構造を今の輸出偏重型から、格差を是正し安定した国内需要で支えられた持続型に変える必要性を述べているのだ。

本来なら日本もまた20年前、30年前に取り組み始めておくべきだったことだ。

たとえば小沢一郎が2009年マニフェストで提案し、菅や野田の(松下政経塾に毒された)民主党と決別したあとも、今回は「生活の党」で主張していたのもこうした政策変換だ。

アベノミクスの問題点を指摘し今後日本がどういう国になるべきかをもっとも論理的かつ分かり易く述べていたのは、今回の選挙でも誰よりも小沢さんたちだった。

その生活の党が、今回はいわゆる反自民勢力の中でも、もっとも惨憺たる結果になった。

もちろん小沢さん本人の問題も大きかったことは否定できない。震災のときにもっとも東北のニーズが分かっていて、被災地の救援や復興援助の要になる理論を提示出来たはずの彼が、なにも動かなかったことで失った信頼は、あまりにも大きい。

自分の周囲の議員たちの興奮を押さえきれず、民主党と袂を分かってしまったのも、民主党にとっても小沢さん本人にとってもあまりにも痛恨の失策だ。小沢さんにしても鳩山さんにしても、いざと言うときに人が良過ぎて、権力闘争を勝ち抜く狡猾さやパワーに欠けているのが最大の欠点なのだろう。

…というか、この二人のどちらも、世の中には(そして自分の周囲に)私利私欲や名誉心や身勝手な嫉妬、あるいは保身がなによりも優先してしまう身勝手で狡い人間だって多いことがどうにも認識出来ていないか、分かっていてもそういう人たちがどれだけ嫌らしい行動原理を持っているのか、まるで理解できないらしい。 
いい意味で「お坊ちゃん」、小沢さんの場合はしかも「田舎のお坊ちゃん」だけにシャイ過ぎることまで、おまけでつくのだから、権力闘争が苦手なのも、まあ、やむを得ないのかも知れないが、えらく歯がゆい話だ。

とはいえそれでも、派手さはないにせよ理路整然として分かり易い小沢さんと生活の党の主張がこうも無視されるてしまうのでは、やはり日本の現在と将来にあまり明るい展望は見えて来ないのだ。

後世の歴史家は今回の参院選挙を、1992年と2009年に政権交代があり、自民独裁体制が覆えされ得る可能性も日本の政治にはあった、その選択肢が完全に葬り去られた選挙だったと評価するだろう(産經新聞などはすでに大喜びで「鳩山・菅・小沢時代が終わる」と分析記事を出している)。

安倍晋三は「戦後レジュームを終わらせる」とやたらと口にする。「Regime」なんだから「レジーム」ろう、読みがおかしいという突っ込みはともかく、戦後日本のRegimeつまり支配体制がむしろ完成し、オルタネイティヴがあらかた排除されたのが、この選挙の結果だ。

そして、その行き着く先が自民独裁や安倍独裁ではなく、実態が官僚独裁全体主義であることは、衆院選直後のこのブログで書いた通りだ。

…ということは、完成したのは単に戦後のレジームではなく、明治に急ごしらえされた国民国家としての日本の、中央集権の官僚体制の完成である。 
菅直人に続いて安倍晋三という旧長州藩出身の政治家によってそれが成されたというのだから、ある意味で馬鹿みたいに分かり易い。 
震災と原発事故発生の直後、あまりに政府の対応が薄情で地元のことをなにも考えてないことに、福島県では冗談とも本気ともつかぬように「もしかして今の首相が山口の出身だからだろうか?」という人も少なくなかった。 
まさにその長州主導の明治維新がいかに暴力的で冷酷な「東北侵略の植民地戦争」であったかを告発するのが今年のNHK大河ドラマ『八重の桜』であり、しかし低視聴率なのだそうだから話が出来過ぎている。

だがそれ以上に僕が注目したいのは、この選挙によって知性や理念が日本の政治風景から完全に消え去ったことだ。

菅・野田の民主党政権の公約違反に敢然と異を唱えた女性議員集団「みどりの風」も消えてしまった。



理念だけでなく、信念も日本の政治風景から失われたことの、象徴的な例といえよう。

知性も理念も信念も消えてしまったことは、単に自公の大勝だけでなく、反自公の側の動向でもはっきりしている。

たとえば「反原発」「脱原発」「原発ゼロ」は世論の支持するところであり、野党は大なり小なりそのスローガンを掲げて闘ったのだが、政策的な方法論の提示がないので全体としては争点になりようがなかっただけでなく、それでもその争点で勝ってしまった(票の行き場がなく集中した?)のが、東京選挙区なら山本太郎氏だということにはっきりしている。

日経新聞のベタ記事に寄ればこと原発の問題では、自民党はなるべく街頭演説ではこの話題を避けるよう指示を出していた。

繰り返すがタレント候補だから駄目だと言いたいわけではない。齋藤(謝)蓮舫氏のように、タレント出身だって優秀な政治家はいる(案外と芯が弱く、民主党内の松下政経塾勢力に骨抜きにされたけれど)。

とはいえ東京選挙区5議席のうち2議席が丸川珠代と山本太郎、文字通りただの「タレント候補」、まともな日本語の議論すら不自由そうな、短いフレーズのかけ声だけで、その主張の根拠もあやしい(デマも多い)点で、岸の孫という血統以外にとりえがない安倍晋三首相に、輪をかけたような存在なのだ。

ネットでの選挙活動が解禁された今回、ツイッターでいちばん盛り上がったのが山本太郎陣営による民主党の鈴木寛候補への攻撃だったと朝日新聞が分析していたが、本当だとしたら目も当てられない。

震災当時に文部科学副大臣だった鈴木氏が、SPEEDI情報を隠蔽したのだという、もの凄く薄っぺらで中身も根拠も特にない中傷まがいの、軽薄なイメージだけの選挙闘争だ。

もちろん鈴木寛氏だって決してそんなに褒められた人じゃない、民主党が政権に入ったら官僚の言いなりになった典型みたいな人だが、山本陣営の支持者のやり口はさすがに衆愚的なヒステリーに過ぎる。

これではヒステリックな陶片追放みたいな魔女狩りだし、積極的な再稼働を実は主張していた自民の票でなく、反自民票を狙って、それを奪って当選したのであれば、大きな政策理念や目標が、まるで無視された話でしかない。

実は原発の再稼働にもっとも真剣に考え、慎重で、疑問が多く出ているのは、よく考えれば当たり前のこととして、他ならぬ福島浜通りなど、原発が立地する地元である。 
だが山本氏らの言うことがあまりに極端で現実離れしていて、デマも多く、そのデマによる差別風評でいちばん苦しむのがその原発立地地域だからこそ、山本氏は実はいちばん熱心にこの問題を考えている人々の支持や支援、共感を、決して得られない立場に自らを置いてしまっている。 
他者、自分と立場の違う他人の存在を認識・尊重出来ない結果、なにがやりたいのか結局よく分からなくなってしまう典型だ。いや実際、なにがやりたくて彼は選挙に出たのかすら分からない。 
芸能人としてはあのキャラで使うのは歳をとり過ぎて、俳優として使い道がなくなってしまったから、ただの打算の売名と言い切ってしまうのはさすがにかわいそうだが。

この選挙期間に、選挙戦の報道よりもマスコミがはるかに熱中したのが、呉市の郊外で遺体で発見された少女が、中学時代の元同級生の少女らのグループにリンチで殺害されて遺体が遺棄されていたと分かった事件だ。

最初はスマホのメッセージ機能アプリLINEでのやり取りで悪口を言われたのが動機と報じられ、一応は主犯に見える、自首した少女の一連のLINEでのやりとりが、共犯グループとの関係まで含めて、テレビでさんざん紹介されているのだが、これには強烈な違和感を覚えずにはいられない。

比較で思い起こすのは、もう5年前の、秋葉原連続殺傷事件の加藤智宏が書いたとされる一連の掲示板への書き込みだ(その抜粋はTwitterでもボットで今も流されている https://twitter.com/katou_tomohiro)。

なるほど、加藤の場合にもその書き込みの異常さが喧伝されたわけだが、彼が至る結論がいずれも常軌を逸した自己嫌悪ではあっても、その書いていること、言っていることには明確なロジックがあった。至った結論とそこでやったことは理解不能にしても、彼がその行為に至る過程は、その言葉を通して論理的に、動機と心理がちゃんと理解できた。

検察は念のため加藤被告の精神鑑定を行っているが、案の定、精神疾患という結論は出なかった。不運な状況が重なって彼がああいう行動をやるのだと結論した、その結果が異常なだけで、思考の過程に病理が見られないのだから当然だ

広島県の事件で報道されるLINEのやり取りを見ていて困惑するのは、コミュニケーションが成立してないどころか、人間として、言葉を通じて他人とコミュニケートしよう、自分のことを伝えようとする意志すら感じられないことだ。

なぜこんな事件を彼女達が起こしたのか、いくらそのメッセージのやり取りをテレビで見させられても、手がかりすら見つからない。

自分のことを人に伝えようという意思すらないのだから当然ではあるが、そこにあるのは幼稚で自己中心的な感情論だけであり、その感情もただ「傷ついた!許せない!」という程度の、単純過ぎてなんの人間的な厚みもない。

だが彼女達のやり取りと違ってさすがに「てにをは」くらいは文法を踏まえ、「ゆう」ではなく「言う」とちゃんと表記はされている、場合によっては丁寧語にはなっているなど、一見まともに見えるものの、たとえば山本太郎氏のツイートとか、山本氏の演説やテレビでの発言とか、あるいは山本氏を支持する人たちのインターネット上の言動を見ていても、実はあまり変わらないし、その山本氏を叩くネット上の発言の半分くらいも、やはり大差ないのだ。

「ネット選挙」が解禁されたものの、本質的に広島の事件の彼女達と大差がないくらい、恐ろしく自己中心的で他者が存在しない世界の住人たちの、多くの場合は読解力の絶望的な不足に根ざした、ただ「傷ついた!許せない!」の、感情論とすら言う気がしないほどの機械的な感情しかなく、政治的な議論としてはまったく成立していない。

しかもこれは山本氏を支持する人たち、あるいは原発事故後あまりに極端なデマ、パニック体質の言動に走って「放射脳」と揶揄された人たちに限った話ではない。そうした彼らを批判する側も、大差ないのだ。

挙げ句に反原発が大事なのか、あるいは原発がなければ日本のエネルギー供給が立ち行かないと確信していることが最重要なわけでもなく、その実、自分達が批判されたことが許せないのかの区別もないまぜになった、刹那的な、感情論ですらない乱暴で皮相な感情だけが、ツイッターならツイッターの「クラスタ」を成立させ、自分(ないし自分達)が批判されでもしたら即脊髄反射、嘘でも出鱈目でも論点が完全にズレていてもなんでもいいから、とにかく攻撃に走り、仲間うちでつるんで誰かを攻撃することのカタルシスをまるで麻薬のように求めている。

先日このブログでも触れた、これまた時代錯誤に「反韓デモ」とやらをやっている人たちと、そこに対する「カウンター」の一部(というかネットでいちばん威張っている人たち)も、似たようなものだ。だから差別発言と同じくらいに、彼らが「反日」とみなす在日コリアンや「サヨク」を執拗に攻撃する。

これは恐ろしく反知性的なだけでなく、根本的に非人間的な光景であり、長期で社会の将来を考える政治的な議論の役割におよそ無縁な、ファシスト的な党派性でしかない。

こうしたやり方では「運動」や「社会のうねり」は拡大しない。 
ただたまたま同じ脊髄反射的な感情を共有する「内輪」が広がるだけだ。 
そしてそうした「内輪」は、他者からの批判を「攻撃」と誤認することで、いっそう結束を強める−−同じ集団内からの批判が出た途端に分裂し、昨日までの仲間に暴力性を剥き出しにする危険を、常に秘めながら。

そしてこの薄っぺらさと空虚さは、広島県でおそらくはもののはずみで同級生を殺してしまった少女達や、あるいは秋葉原で「誇りのある国を取り戻す」と内容空虚に絶叫する安倍晋三や、彼をとりまいて日の丸を振って熱狂している輩に、限ったことではないのだ。

参議院選挙の結果全体が、そのようなものに見えてしまう。杞憂であって欲しいのだが、「政策で決める」選挙からもっともかけ離れた投票行動になっていることだけは間違いない。

共産党の市田氏が、「衆参のねじれ」ではなく「与党と国民の希望の間のねじれ」に言及していた。繰り返しになるが、大勝した与党の政策の多くが、TPPでも原発でも消費税でも、世論調査では国民が反対ないし慎重なことばかりなのだから、「ねじれている」のは確かだ。

安倍晋三首相は微妙な争点を避け、経済政策の議論に特化することでこの選挙に勝ったという分析がマスコミでは主流なのだが、経済についてすら、実際にはまるで議論などしていないのである。

ひたすら気分だけの幻影の経済政策と、中国を叩く、韓国を叩く、民主党を叩くだけの攻撃性。そのいずれも、現実の把握も批判も二の次で、やはり薄っぺらなただの気分でしかない。

しかもこうした薄っぺらな気分は、予め閉ざされた自分(ないし「自分達」)の内部だけで通用するものであり、「外」に向けて恐ろしく押し付けがましい無自覚な身勝手の自己満足か、攻撃的な、排除の論理しか持っていない。

7/17/2013

他者への想像力について〜相手を「反日」などと思うことそれ自体、差別でしかない


2週間ほど前の本ブログで、東京だとニューカマー韓国人が多い新大久保、大阪なら歴史的に在日人口が多い鶴橋など生野区(たとえば御幸通り商店街)が「コリアタウン」として売り出していること、日本人と朝鮮民族の関係のここ十数年の変化(全般的に好転していることは、素直に評価すべきだと僕は思う)、そしてごく一部の反動分子(笑)がやっている「反韓デモ」なるものに触れた。

現実社会になんの影響力も持たない、いわば “世間知らずな引きこもり” 的な層が、匿名性のインターネットで妙な万能感を抱いた結果の滑稽で憐れな勘違いの問題はさておき、さすがに「朝鮮人は殺せ」などと言い出すことに関して反発が広がるのは当然だし、悪いことではない。

その「カウンター」を自称する運動の標語が「仲良くしようぜ」であることも、まあそれ自体は、とりあえず、ほほえましく、可愛らしい


実際に学生さん達のグループがその標語を日本語とハングルと英語で書いたハート型の風船を配っている姿とか、実に愛くるしいし、在日なのかニューカマーなのかは分からないが、お孫さんに風船をもらったおばあさんが、「ありがとう、ありがとう」と繰り返していたりして、本当にいいことをやっていると思った。

写真を撮ってただけの僕にまでお礼を言われても困るんですけどね。いやでも、その光景を記録する(もしかしたら世間に流す)ことだけでも、おばあさんから見れば「ありがとう」なのかも知れない。 
だとしたら写真を、もう一枚掲載。

ただしこうした善意は善意として、それがどんなに個人的には純粋さから出た行為であっても、日本人の側から韓国人や朝鮮人に「仲良くしようぜ」というのが、本来ならいかに厚かましい話になるのかという自覚は、やはり持っていなくては困る。

だいたい、「仲良くしようぜ」という標語、学生さん、若者や子供がやってるからまだサマになるわけで、世の中が分かって来ている大の大人がこれじゃ、やはり恥ずかしいだろう?

戦後に「在日」という階層が産まれて60年以上、「朝鮮人」が日本人に差別され支配され搾取された歴史からすれば100年以上、いきなりその過去を忘れたかのように「仲良くしよう」とか言われても、「その前に言うべきこと、やるべきことがあるだろう?」と思われたところで、なんの不思議もないことは、相手の立場になって考えればすぐ分かるはずだ。

いじめの被害者がある日突然、加害者グループに「仲良くしようぜ」と言われて納得するだろうか?

そんな手前勝手な話を真に受けられるのは…

  • a) よほどの人格者か(もう尊敬するしかない) 
  • b) よほどのお人好しか(気持ちはよく分かる) 
  • c) 真に受けるはずもないが、そんな下衆で卑怯な二枚舌の加害者連中と同等に成り下がりたくないがために、真に受けたフリはするか、一方的に自分の敵意は封じこめる意地っ張り(僕はこの部類になるだろう) 
  • d) 今のところは一応は「味方」のつもり/そのフリをしている彼らにまで、露骨に差別されて攻撃されるのは怖いからなにも言えない(これがいちばん多いであろうことは、相手の立場を想像すれば簡単に推測がつく) 
  • e)自分が差別されていることに気づかない方が楽だから自分を殺している(こうなると日本人の側としてはあまり言いたくはないが、「目を醒せ」と言わざるを得ない) 
  • f) 下手すりゃ自分も「いじめる側」に仲間入りしたいだけ(ただの加害者以上に許し難い下衆であり、人種民族無関係に心を鬼にすべし)

…というくらいしか、理由が思いつかない。

まして「仲良くしよう」とか言いながら、一方で日本政府は今でも「国民感情」をタテに朝鮮学校を高校無償化対象から外しているし、ずいぶん減ったとはいえ、まだまだ通名を用い、在日であることを隠さなければ、生活が成り立たない人も多いのである。

…と思っていたら、ツイッターにこんな投稿があった 


なんなん、これ? 
総聯と民団は敵対し合ってるから、民団が自分達朝鮮民族への差別政策に他ならない高校無償化外しに賛成すると思い込み、自分たち日本人の側の都合で他人様の民族を分断させよう、っていうこの無自覚な差別意識って… 
仮に民団が「朝鮮高校の無償化外し反対」に難色を示すなら、日本の差別に反対する日本人であればこそ、そこは「あなた方が日本政府による自民族差別に加担してどうするんです?」と民団を説得しなきゃダメなところだろうに、なにこの腫れ物扱いは? 
…っていうかそれ以前に、民団が「民族差別に反対する」という大義・正義よりも、しょせん日本側に実は押し付けられただけの差別の構造に基づく分断・対立にしか興味がないと思い込めるって、どこまで他人様を馬鹿にしてるんだ?  
朝鮮人だからそんな愚かな内輪の衝突の恨みつらみに走るとでも決めつけているわけ?
いや、結局は民団を利用して、自分達のお祭り騒ぎの正義ごっこを盛り上げたいだけ、そのためにわざわざ「反レイシズム」の運動が、在日どうしを総聯と民団で対立させる、差別する側の作った分断支配の構図を利用するのだからお話にならない。 
…というか、この 「カウンター」側のリーダー格自身が、無償化には反対らしいんだから呆れてものが言えない。それでどうやって「仲良く」出来るの?

こんな妄言が飛び出す以前に、「仲良くしようぜ」と言われたってシラけるだけ、偽善じゃないかと見抜く在日コリアンの方が多くたって、なんの不思議もない

そんなの5秒も考えれば分かるはずのことだし、分からない、考えないだけでも、怠惰の誹りは逃れ得ないし、それだけ相手の人間性を無視できること自体が差別的だ

日本人の差別は過去の軍国主義・植民地支配の時代だけに限ったことではなく、まして「殺せ」とか騒いでいる連中だけに限定されるものでもない。

僕たちが日本社会の民族的マジョリティである限り、僕たちもまたその差別の構造のなかに産まれその立場の恩恵も無自覚に受け続けているのだし、なによりもその日本という社会の構造を変えることは、僕たち日本人の側にしか出来ない

「いやお互いに、朝鮮人だって努力しなきゃ不公平だ」とか言うのなら、地方参政権くらいごちゃごちゃ文句を言わずに与えるのが筋だろう?

そんな不均衡な押しつけにしかならないことを無視して「仲良くしようぜ」は「お互いの存在を認め合うこと」であり、だから「反差別」で正義なんだと言い張る人に至っては、寝言もたいがいにしろ、と言わざるを得ない。


第一に、あなた方無自覚に傲慢な上から目線マジョリティに「認めて」もらわずとも、鶴橋のおばちゃんはチヂミを焼いてるし、生野区のオモニは美味しいキムチを漬け、飛田のお姐さんたちは日々店先に座る覚悟を決め、釜ヶ崎・三角公園のおっちゃんらは元気にがなっている。何様のつもりか知らんが、他人様の生を自分が支配出来ると思うコロニアリストの傲慢もいい加減にして欲しい。 
大阪、浪速区の、ゴーストタウン化して見える芦原橋駅前の公共住宅でさえ、人々はちゃんと存在している。「なにわお買い物センター」のビルから飛び降り自殺が昨今とても多いとしても、そうやって彼らの存在が潰えることを阻止するつもりなら、「認める」だけじゃ済まないだろう? 

藤原敏史『ほんの少しだけでも愛を』(編集中)より、日本人の差別の構造
まして僕たちのこの国が、かつて朝鮮民族がひとつの民族であること、だからその民族の国家を持ってしかるべきであること、その民族と国家の存在を否定しようとしたし、今も彼らが統一国家を持てないのは、その日本支配の失敗に直接の原因がある(宗主国だと威張るなら、せめてその領土を守ってからにしろ)歴史的事実は、忘れるわけにはいかない。 
第二に、それこそ在日に僕たち日本人が「存在を認めてくれ」って、なんなのそれ?いつ彼らが我々の存在を否定したんだ? 
まさかとは思うが、戦争責任を指摘されたら「反日だ!俺たちの存在を認めてない!」とか、身勝手な被害妄想に耽溺するのだとか?在日に地方参政権を認めたら日本人の「存在」が脅かされるとでも?朝鮮高校を無償化したら「日本人の学校だけの特権」じゃなくなるから「存在が」とか言い出すんじゃなかろうな?
第三に、「お互いの世界を知り合う」?その前に日本人の側がやって来たことを日本人自身が知らないことが問題なんだろうに。 
だいたい日本人のことなら、在日は十二分に知ってますよ。ずっと日本人がマジョリティの国で暮して来たんだから知らないわけないし、朝鮮学校では日本語も、日本国憲法も教えてますが?日本人が一方的に、日本と朝鮮民族の歴史すら知らないだけじゃないか。
「在日の存在を認める」だの「日本人の存在を認めろ(=俺たちの方がえらいんだ、文句言うな、ってこと?)」だの「認め合う」だのの絵空事とは無関係に、差別は現実として、日常的に存在しているということくらい、まずちゃんと認識して欲しい。 
だいたい、「知らない」ことが相手を蔑視していい、対等の人間として認識しなくていい理由になるのか?


別に「朝鮮人を殺せ」と怒鳴ることだけが差別じゃない

就職差別は法的に禁止されているとはいえ、別のエクスキューズをでっち上げて在日を、あるいは部落出身者を雇わない、家族と結婚させない等の不当な話は、隠蔽されているだけでまだまだ続いているのである。

コンビニでもスーパーでも居酒屋でも、アルバイトさんの名札が韓国名だったり、外国人であるだけで感じが悪くなる客も未だに多い。本人は無自覚なのかも知れないが(いや無自覚だから問題なんだが)、レジの後ろで見ている僕が不愉快になることだってある。そりゃ日本語があまりに不自由だったら客も困るだろうが、ちょっと訛りがあるくらいで目くじら立てますか?相手の立場をちょっとでも想像すれば、外国で、外国語で頑張ってるんだから褒めてあげたっていいくらいだろう?

日本人はアメリカの人種対立が深刻だと、なにかあるごとに言いたがる。だがロサンゼルスやニューヨークで、黒人やヒスパニックや韓国系、中国系であるだけで、店員が客に不快な思いをさせられるなんてことはまずない。

ところが日本では、そういう在日だったり留学生の人たちは、必ずと言っていいほどアルバイト先の客の無自覚な無神経さに不快さを味あわされていて、それを日本人には滅多に言えないままでいるのだ。

簡単に言えるわけないでしょう?その不満を言ったとたんに、「お前は日本が嫌いなんだな、反日だ」とか、ますます差別されたらかなわないもの。

そんな差別を陰でコソコソと、しかし日常的に、延々と存続させ続けている側が、なんの反省もせず「仲良くしようぜ」だって?

「そりゃおかしいだろ?お前らが一方的に悪いんじゃんか。まず差別をやめろよ、反省しろよ、話はそれからだ」、 こう言われたら、反論はできないはずだ。


…と当然、誰でも気づかなきゃおかしい話のはずが…これはなんなんだ?


これが「反レイシズム」を主張してるはずの人たちの言い草なのだから、ここで怒ってる在日の人たちでなくても「ふざけるな」と思って当然だ。


これが「反差別のカウンター運動」なんだろうか?

無論、自分達が本来ならそれを言えた義理ではないことをじゅうじゅうに自覚しながら、それでもあえて、後ろめたさを感じつつも「仲良くしよう」と言うことは、いっこうに構わないとは思う。

繰り返しになるが、それ自体はいかにも平和的で、無邪気で、可愛らしくほほえましいスローガンであるだけに、有効性はある。

たとえば過去や自分の感情ににこだわらない、シンプルに善良な人なら、涙を流して喜んだっておかしくない。

あるいは分かっていても、子供の前ではこう言っておいた方がいい場合だってある。

ただし被害者や、「差別される側」の弱者は、このように無邪気で善良でなければ認ない、と言わんばかりの、日本人にありがちな態度もまた、いかに相手の人格の自由を無視した差別的なもの言いであるかくらいにも、気づけないようでは困る。 
彼らが善良であろう、人格者たろうとするのであれば、それはあくまで自分を高めるためであって、差別する側の我々に気に入られるためではない。

その一方で、「仲良く」一緒になって誰か別の他者(最悪、他ならぬ同朋の在日コリアン)をいじめられる立場になると思って、「仲良くしようぜ」に喜んで一緒になってつるむ人間だっている(上記のカテゴリーでは(f)の「下衆」の部類)のも、残念な現実だ。

いや、その方が多くたって、外的環境からすればおかしくもなんともないわけで、そのことを持って「だから朝鮮人は」などと言い出す日本人が多いのだから困る。

いやむしろ、そういう「いじめ」大好きになってしまうのって、今の日本人によく見られる心理、現代の日本社会で刷り込まれる行動原理ですよ。なんせ30年以上「学校でのいじめ」が社会問題のまま、なんの解決の試みすらなされていないのがこの国ですから、もう子供の頃から刷り込まれている。

「差別される被害者は、純粋でかわいそうな弱者だから助けましょう」なんて、しょせんは差別出来る側に胡座をかいている側の傲慢でしかない

それが『ヴェニスの商人』でシャイロックが裁判に負けたあとの大ドンデン返しのように「我々ユダヤ人もまた同じ人間」なのだから「復讐する」のであれば、少なくとも「差別する側」には、非難のしようがない。批判する権利は、その「復讐」が向けられる先である我々にはない

『ヴェニスの商人』のモノローグ、アル・パチーノのシャイロック

多くの演出家がこの戯曲の本質に気づいていないで、どう解釈すべきか分かってないようだが、『ヴェニスの商人』のキモはこのモノローグであり、だからこそシェイクスピアは天才なのだ。 
裁判がクライマックスでモノローグがアンチクライマックスなのではない。裁判までシャイロックをユダヤ人差別類型の悪役に見せていた構成は、この真実の発露をよりドラマティックに見せるための誤誘導のテクニックに過ぎない。

ただし現実にはこのシャイロックのように、ここまで自我、自分という個/孤を守れない者も多く、「やられたらやり返す」ことで対等を担保すべくあがくのではなく、自分をいじめる側がさぞ楽しそうなのを見て、「俺もやってみたい」と思う者だっている…

…というか、これは言いにくいことながら、在日にだってこういう人も少なくないし、だから日本人に在日についての差別的悪口を吹き込んで仲間入りさせてもらおうとしてしまう。これは編集中の『ほんの少しだけでも愛を』でも扱った主題だが、残念ながらもの凄く多いパターンではある。 
そして、そういう在日の「友達」と意気投合してるから「俺は差別なんてしてない」と自己満足できる日本人が、それ以上に多いのは言うまでもない。 
こう言っては悪いが大阪なんて「市民派」「リベラル」ほど、そんな「俺が差別なんてしてるわけがない」おっさんばっかり、だったりする。 
しょせん “上から目線” の傲慢で、ぜんぜん相手を見ていない、他者への想像力の著しく欠けた話でしかない。 
(その想像力なしにどうやって映画なんて見て楽しめるんだろう、っていうのは謎だが。こんな無神経だったら、映画なんて見る意味ないじゃん)

ましてこと差別を受けて来た(今もなお受けている)当事者である在日コリアンから「今さら『仲良くしようぜ』なんてよく言うわ、厚かましい!」と怒られることくらいは、覚悟しておくべきなのが当然だ

…と思っていたら、こんなツイッター上の投稿に出くわして、ますます目眩がして来るのである。

いやだからね、「お前の祖父母も、父母も」だけじゃなくて、「お前」自身がその無神経さと身勝手さ、自己中っぷりで、既に立派な “加害者” になってるから、そこ勘違いしないように。

一瞬、「反韓デモ」をやってる自称右翼の、安倍晋三だか自民党だかの支持者の側の自己撞着した、言い訳になってない言い訳かと思ったら、彼らが「カウンター」側のリーダー格なのだそうだ。
ここまで来ると、「こいつらのアタマんなかはいったいどないなっとるねん?」と、怒りを通り越して呆れて嗤うしかない。
なんなんやねん、この「仲良くしようぜ、だから俺たちのイヤがること言うのは禁止ね」っていう身勝手は?

自分たちの差別性が指摘されたら「協力してやってるのに、たかがチョンのクセに生意気だ」と言わんばかり、としか読めないのだが?

「お前らに協力してやってるんだから俺たちのイヤがること言うなよ。さあ仲良くしようぜ」という論理しか、ここには見えて来ない。こんな一方的で子供じみた、他人様がまるで見えていない押しつけ・封じ込めが、より広範な支持を日本人から得るための戦略のつもりだとしたら、これは差別反対の運動ではまったくない。

「仲良くしようぜ」と言うことで在日コリアンには当然の感情を強引に押し殺し、黙らせようとする差別運動でしかなく、それも味方のフリをしつつ、差別の構造、自分たちが「差別する側」に産まれたことに安住した、おためごかしの脅迫じゃないか。

しかも無責任な身勝手の押しつけに無自覚である、相手から見える客体としての自己にまったく考えが及んでいないことが、決定的に差別的であるだけでなく、絶望的に幼稚なひとりよがりでしかない。

あるいは、これが先日、大阪で行われたパレードの日本人参加者の声だという。


なるほど、中には(おそろしく寛大なことに)在日の側から日本人に「仲良くしようぜ、一緒に歩こう」と言ってくれる場合もある。だがこういう自分たちに都合のいい在日だけは認めるのはいいが「仲良くしようぜ」に違和感や反発を持つ在日はどうするのか?しかもどちらかと言えば、違和感を抱き反発を感じても当然の話だ

ところがそんなことは考えもしないで「日本人の内輪」に引きこもり、その身勝手なご都合主義を受け入れる在日とは「仲良く」する運動をやってる人々は、性懲りもなくこんな調子で開き直るわけである。   

 日本人マジョリティが「仲良くしようぜ」と言ってるんだから、在日は日本人の側の反発を買ってはいけない、というへ理屈のつもりなのか? 
これじゃ朝鮮民族に「仲良くしようぜ」にあたって差別する側が勝手なルールを押し付けて、支配/従属関係で「仲良くする」ことを求める運動でしかない。 
…っていうかこの人、さっきは「協力者」ぶって「俺たちが助けてやってるのに植民地主義批判なんて生意気だ、反日だ」と言っていたり、今度はマジョリティの当事者意識と言ってみたり、支離滅裂なご都合主義がひど過ぎるのだが…

そもそも在日コリアンへの差別は、一方的に日本人がやって来て、現に今もやっていることだ。日本人の側の責任であって、本来なら在日や朝鮮民族が努力しなければならないことではない。声をかけてくれただけでも、頭を下げ、恐縮し、自らを恥じるのが筋だろうに…

…「拒む理由はない」というこの恩着せがましさは、いったいなんなのだろう?

「拒む理由はない」ってあなた何様なの?

なに「拒む理由はない」って??

「拒む理由はない」???

挙げ句にこんな開き直りの言い草だ…

いや、あなたが勝手に卑屈になっていようが、「共に未来を造る」とか自己陶酔してようが、そんなのどうでもいいんだけど、完全に日本人の側が、差別出来る立場の恩恵に胡座をかいているだけの、ひとりよがりの世界でしょうに、これでは。

この人たちは「差別に反対」とか言いながら、当の差別されて来た、そして今も差別に遭っている相手の立場になって考える、ということを、ちょっとはやってみないのだろうか? 自分たちの発言が他者、相手からどう見えるのか、想像してみる手間も惜しむのだろうか?

はっきり言っておくが、僕たち個々人にたとえ差別意識などまったくなかったとしても、その相手である在日の人たち、他人様、他者から見れば、そんなこと分からない、疑い警戒するのが当然なのだ

僕なら僕自身という個人については、仮にそれがまったくの誤解だったとしても、その誤解を解く責任は、全面的に僕の側にしかない。相手に「ほら僕はこんなに善良な、差別しない人間なんですよ。僕と仲良くするのが当然でしょう」なんてことは、相手がそれに納得してくれるレベルで証明出来ない限り、言えるわけがない。

だいたい、そんなこと証明出来るかどうかも怪しいし。

まして差別意識なんてたいがい無自覚なものであり、僕自身が「僕は差別はしていません、そんなつもりはない」なんて言ったところで、なんの意味もない

このように「他人様からどう見えるのか」にあまりに無頓着な自己閉塞、もっと言えば「被害者の側から見たらどう見えるのか」をまったく想像すらしないことが、今の日本の重大な病理だろう。


先日、プルーストの『失われた時を求めて』の完訳新版という偉業(この翻訳は本当に素晴らしく、ニュアンスまでとても正確であるだけでなくものすごく面白くて、偉業としか言い様がない)を成し遂げられた鈴木道彦先生の講演会に行って来た。

講演のテーマは、プルーストとはまったく無縁に、1968年の金嬉老事件を切り口に、在日と日本人の関係を基軸に(金嬉老事件以上に、その10年前の小松川事件もとりあげつつ)、日本人の側がいかに「在日」という身近な他者への想像力を欠いているか、である。

実は鈴木先生はプルースト以前にサルトルの研究者であり、サルトルが高く評価したジャン・ジュネや、積極的に紹介したフランス植民地文学を読まれ、そしてご自身が最初にフランス留学されたのがまさにアルジェリア戦争のまっただ中であったことから、それを「では日本人である自分はどうなのか」に引き寄せ、在日コリアンをめぐる問題になみなみならぬ興味を持たれ、研究し、ゼミで学生と論じ合い、また金嬉老の事件では裁判の応援で活躍されるなどして来られたのである。

ジャン・ジュネの映画『愛の歌』(1960)

いやそんなご経歴をまったく知らず、不勉強を恥じるばかりです。

鈴木先生がそんなご自分の歴史と戦後日本の近代史を綴ったご著書『越境の時〜一九六〇年代と在日』(集英社新書)は、ぜひご一読お薦めです。
*先日の講演も、ほぼ本書の内容に沿ったものでした。 

実は小松川事件と李珍宇(日本名:金子鎮宇)死刑囚については、僕なぞは大島渚の傑作『絞死刑』のモデルであったことくらいしか知らず、金嬉老元受刑者についても、ほとんど知らなかった。

   大島渚『絞死刑』(1968)

無理もないといえば無理もないのは、自分が産まれる前のことであるだけでなく、現代の日本でほとんど触れられない話だからだ。

だから個人として「知らない」のはやむを得ないとはいえ、在日の友人とかに「そんなことも知らんのか!」と一喝されれば、文句は言えまい

少なくともそこで僕が怒るべき相手は、そんな自分を一喝をした人ではなく、自分にそれを教えて来なかった、むしろ隠して来た、「忘れて来た」社会、自分の所属する「日本人」という民族の総体に対して、である

怒るか、絶望するか−いずれにせよ「差別する側」に産まれた、自分を「差別する側」に閉じ込めるべく出来上がっているこの構造に、僕という個/孤が打ち勝ち、自由になるには、ここでその構造に屈服するわけには、絶対にいかない。

僕以下の世代の日本人は、金嬉老の怒りについてどころか、1910年から1945年の日本敗戦まで続いた日韓併合・植民地時代についてすらほとんど知らない。

教科書には書いてあるものの、なぜか中学でも高校でも、日本史の授業はそこに行き着く前に年度末の時間切れになったり、駆け足でなぞるだけで、テストにもあまり出ない。

植民地化の過程で日本が李氏朝鮮の皇帝の母を暗殺するなど、極めて野蛮な力づくで、いわば拳銃を頭につきつけて契約書にサインするようなやり方で「合意」を取り付けたことすら習っていない。

だがそれを「知らない」、なぜなら「学校でちゃんと教えていないから」であるのは、あくまで日本側の、僕たちの勝手な事情に過ぎない

被害を受けた側からすれば「知らない」だけでも驚きというか侮辱であり、そこで延々といいわけをされたところで「ふざけるな」としか思えないだろう、という程度の想像力も持てずに、どうするのだろう?

そこで開き直ってしまなら、根本的に相手の人間性を無視している、つまりは差別以外のなにものでもないだろう。

民主党の有田芳生参議院議員などを中心に、ドイツなどをお手本に「ヘイトスピーチ禁止」の法制化の動きもあるようだ。それ自体は決して悪いことではないのだが、なにか肝心なことが抜け落ちていないだろうか?


ドイツはナチズムの歴史をきっちり国民に啓蒙しようと努力を続けている。 
ベルリンなどは国会議事堂の横に「ヨーロッパにおけるユダヤ人虐殺慰霊碑」があり、やはり中心街、それこそポツダム広場のすぐ近くではヒトラーの官邸遺構の地下壕も保存されて「恐怖の地政学」として公開されるなど、都市の随所に自国の負の歴史の記憶が顕在的に刻み込まれている。 




たとえば1923年の関東大震災における朝鮮人虐殺は、記念碑すらない。日本軍の犠牲になった慰安婦の人たちの慰霊碑も国内にはなく、アメリカで作られたりしたら、日本の政治家が意見広告を出して抗議するような、独善的な恥さらしっぷりである。 

ポーランド政府は自国民がホロコーストに積極的に参加したことを政府の責任で追及し、国内世論の反発すら省みず、立証した。(詳しくは NHKスペシャル『沈黙の村』 http://www.nhk.or.jp/special/detail/2002/0914/を参照)

「戦勝国」であったフランスですら、ヴィシー政権が関わったユダヤ人強制移送については、綿密な調査の上で被害者遺族への補償を続けている。 
これが国際標準、他者に見られる客体としての自分の責任を果たす上で、当たり前でなければならないことなのだ。 
A級戦犯が合祀されている靖国神社に現職閣僚が参拝し、従軍慰安婦についてあたかもそれがなかったか、日本という国家の責任ではないようなことを言い張る(業者がやった、とか強制はなかった、とか)日本側のやり方が、ドイツやポーランドやフランスと比較することも自由な他者から見て、決して納得できるはずもないものであるのは、明らかだろうに。
ドイツやカナダなどが刑法で禁止しているのは「ヘイトスピーチ」以上に、歴史を歪め人種民族差別を助長する言動、歴史修正主義だ。はっきり言えばホロコースト否定論を法律で禁止しているのである。同じ論理で、戦前戦中の日本の人道犯罪を否定したり美化する行為は「ヘイトスピーチ」同様に禁止されなければおかしい。

先日(7月13日)、北朝鮮による拉致事件被害者の蓮池薫さんの兄、蓮池透さんが、朝日新聞にこのような記事を寄せていた。


「ずっと加害者だと言われ続けて来た、その鬱屈から解き放たれ、あえて言うと、偏狭なナショナリズムが出来上がってしまったと思います」 
「拉致事件を解決するには、日本はまず過去の戦争責任に向き合わなければならないはずです。しかし棚上げ、先送り、その場しのぎが日本政治の習い症になっている。拉致も原発も経済政策も、みんなそうじゃないですか」
日本社会は被害者ファンタジーのようなものを共有していて、そこからはみ出すと排除の論理にさらされる。被害者意識の高進が、狭量な社会を生んでいるのではないでしょうか?

蓮池さんが指摘した病理はいずれも、日本国内で、同じ日本人どうしの顔色しか見ていなかったらすぐにはまりこんでしまいそうな話だ(蓮池透さんご自身も一度はそうなっていたことを、率直に反省されている)。だがハタ目には、国際的には、他者の視点から見れば、通用するはずもない内輪の身勝手でしかない。

これは倫理・道徳以前の問題だ。「為政者にとっては、北朝鮮が『敵』でいてくれると都合がいいのかも知れません。しかし対話や交渉はますます困難となり、拉致問題の解決は遠のくばかり」と蓮池さんは言う。

当たり前のことだが、交渉ごとには必ず、納得させなければならない相手がいるのだ。

エロール・モリス『フォッグ・オブ・ウォー マクナマラ国防長官の告白』
マクナマラはソ連側、フルシチョフの立場をアメリカ側が理解していなかった、誤解していたことが、キューバ危機が起きた理由だと断言する。ヴェトナム戦争の激化も「アメリカがヴェトナムを誤解していた」。

戦争にだって敵がいる。その敵を理解しその行動を読まなければ、無駄な戦闘で自軍に損害を出し、結局戦争に負けることにだってなる。

当たり前の大人の世界のリアリティであり、それが分からないようでは子供の論理にも及ばない幼稚な絵空事のはずなのだが、これではいわゆるコミュニケーション障碍に、日本全体が集団で陥っているようなものだ

尖閣諸島問題でも、竹島の領有権主張でも、日本のマスコミだとかは完全にこの内輪の病理しか語っていない。中国も韓国も同じ位に自分の領有権を主張する理由があるからこそ領土紛争になることを無視して、「国際法上」を馬鹿みたいに持ち出している(だからそれは日本側の解釈でしかないってば)。

慰安婦に関しても、元慰安婦が訴訟を起こしても、個人賠償は日韓基本条約で解決済み、として裁判所は事実確認すら怠って来た。これも他者、ハタ目にはただの不正直な逃げにしか見えないし、そもそも金目当てで訴訟を起こしているわけではない、事実をちゃんと認め、反省を示して欲しい、という相手に対して失礼千万ではないか。

わざと怒らしているようにしか見えない。

それに日韓基本条約で「個人賠償は」というのは、あくまで日本兵であった朝鮮人の人たちへの恩給や、日本で働くために連れて来られた人たちの未払いの給金のことしか、日韓基本条約では議題になっていない。これに慰安婦を当てはめるとしたらやはり給料だけのことであり、虐待的な扱い(あまりにも待遇がひどく、一説には3/4が命を落としたと言われる)への損害賠償は別の話だ。

あまりにも人を馬鹿にした話でしかないことに、即座に気づいて当然なはずだ。ところがこの人を小馬鹿にした話に当然相手が(そりゃ怒らないわけにもかないから)抗議したり批判したりすると、「反日だ」とヒステリーを起こす。

他者、相手を人間扱いしていないのだ。

「抑圧し、差別する側」であった日本人の責任は、もはや戦前の36年間のそれだけではない。戦後ずっとやって来た、この人を人と思わないやり口も、すでにそこに含まれてしまうのである。つまりもはや「過去だから、産まれる前のことだし、関係ないじゃないか」という言い訳すら、通用しない。これは現代の僕たちの国が、今もやっていることだ。

そういった自分たちの側、自分たちの国がやって来たことを批判されたら「反日だ」と言い張ること自体、いかに他人様が見えてない身勝手であることか。他者を同等・対等の人間として見られない差別意識の、無自覚の発露であることか。

…と思ったらこんな調子である。


繰り返すが、これは「反韓デモ」なるものをやって新大久保や鶴橋で暴れている、世間知らずの引きこもりな勘違いに陥った、自分では「右翼」だか「保守」のつもり(ただの倫理観のぶっ飛んだわがままに「日本の保守」を名乗られても困るが)の輩の寝言ではない


その彼らの言動を「ヘイトスピーチ」だと批判し、自分たちは「反レイシズム」だと自称している人たちが、こんな大雑把で出鱈目なことを平気で言って、在日コリアンを差別意識丸出しに罵倒しているわけだ。

いったいどうなっとるねん?

子供たちが学校で習ってない、大人に教わっていなかったから分からない段階で、無邪気に「仲良くしようぜ」と言っているのは、まだ「知らないんだからしょうがない」のだし、ほほえましくて可愛らしい…と言ったって、それが通用するのは子供だけ、学生までだ。

その学生でさえ、「それじゃ済まない過去があったことをどうするのか?」と問われたとき、「知らない自分は悪くない」に固執するのは明らかにおかしい。「知らない」ことそれ自体が問題だとすら気づけないのなら、明らかに他人様が見えていない、他者を人間として認識出来ていない

つまりそれもまた、差別以外のなにものでもない


先日の講演で、鈴木道彦先生は最後に現代の日本に触れ、こうおっしゃった。

「美しいとか醜いとか、それはあくまで他者から見て言うはずのことです。他者が見た客体としての自分。それを自分達で『美しい国』と言っているのですから、私は今の日本はとても危険なところにあると思います。ひとりよがりの国です」

世の中が自分達以外は、自分とは異なる他人で構成されていること、この世界で生きると言うことは、自分とは異なった他者に囲まれ、自分は自分でありながら、その無数の他者たちから見られる客体であり、その他者たちと関係をつくって行くことでしか自己実現などないと気づけないのなら、それは自分達の内輪だけの世界に引きこもっているだけだ。

誰もが知っていてもおかしくない自国の過去も知らず、「日本を責めるなんて反日」とか、「戦争責任を追及なんて私たちの存在を認めてないんだわ」とでも思い込んでいるのが「右翼」だけでなく「リベラル」「市民派」、良心的なはずの「反差別」も同様ならば、僕に言わせりゃ「ニッポン全国引きこもり」だ。

自分達の内輪で引きこもるのもまた自由だ。だが、ならば外に出て来るべきではない。自分たちが拒絶したはずの社会や世界から「認められたい」などと甘えるのならば、いったいどういう了見で引きこもってるのかすら疑わしい。

あなた方が引きこもっていることについて、あなた方にとって他者である我々は、なんら影響力を行使できる立場にはない。だからあなたたち自身が社会を拒絶するのなら、その社会に「認めて欲しい」だの勘違いも甚だしい。

そんなわがままを叫んでないで、他人の迷惑も考えろ。考えたくないのなら、世間に出て来て他人を巻き込むべきではない。

まして被差別者である他者をそこに巻き込んで、自分たちマジョリティの免罪符に利用できる被差別者は「仲良くしよう」、そうでなければ排除する、では本当に邪悪な身勝手でしかない

原発事故でも、「フクシマの人々」をそうやって利用しようとした人たちがいて、その結果が例えば双葉町の分断だ。ひとりよがりの正義のフリ、正義ごっこもたいがいにすべきだろう?

ところがこの上記の「反レイシズム」を自称する人たちは、自分たちの運動に参加する在日コリアンに、自分達を批判する在日コリアンを叩かせたりまでしているのだから呆れる。

先述の「仲良くしよう」を真に受けられる被差別者側のカテゴリーのうち(f)に該当する人が、そんなに多いのだろうか?

なるほど、「仲良くしようぜ」風船に涙を流して喜ばれたおばあさんもいる。

だがその言い草に納得しない在日の人も当然ながら多いのだ。そこで個人的な好き嫌いならともかく、自分達の運動を正当化したいだけの都合で彼らを裁いたり判断する資格は、我々「差別する側」の日本人にはない

金嬉老事件の裁判で、弁護側は最終的にこう主張した。


「金嬉老は確かに殺人や拉致監禁などの犯罪行為は犯した。だが日本の裁判所には、彼を裁く資格がない」

誰か日本人の監督が、金嬉老事件をあらためて映画化するべきだとすら思う。

ニヒリズムを漂わせながらその実思いっきり勧善懲悪の、サム・ペキンパーばりの痛快アクション映画として。それが出来たとき、初めて我々の「日本映画」は、差別する側のコロニアリズムから解放されるだろう。

過去にテレビドラマになった金嬉老事件では、まるで『狼たちの午後』である。だからシドニー・ルメット的な「哀れな弱者達の逆ギレ」じゃ駄目だって。アウトローたちの土壇場の正義、『ワイルド・バンチ』を目指さなくては、この事件を描いたことにならないのではないか?

サム・ペキンパー『ワイルド・バンチ』より

当たり前のことだ。差別される側が、自分達が差別されることを正当化する体制の法や倫理の体系に従う謂れはない。これは基本的人権のなかでももっとも重要な部類に入る「抵抗権」の範疇のはずだ。

正義とは我々の社会の身勝手に内在するものでは決してなく、不完全な我々人間たちの「外」にしかあり得ない究極の他者に属するものだ。

私たちの自己中心的な都合に左右されるものなど(ましてそれが「差別する側」の都合である場合は)、正義であるわけがない。

  大島渚『絞死刑』予告編

もっとも、僕自身がやるべき映画は、むしろ小松川事件の李珍宇だと思う。大島さんの傑作はすでにあるが、あれは痛烈に戯画的な日本社会批判ではあっても、主人公の死刑囚を「R」という匿名で、記憶喪失にしたことも含め、李珍宇という青年の抱えた複雑な人間性には、むしろ意図的に触れていない。

李珍宇の支援者らは、彼の犯罪を「在日のめぐまれない環境で育った結果」であって、彼自身の罪ではない、という論戦を張ったわけだ(大島の映画も、その偽善性については痛烈に皮肉だ)。そのなかには彼と長く文通関係にあり、彼が「姉さん」と呼んでいた、総連系イデオロギーの民族主義で彼を説得しようとする在日の女性もいた。

李はその論理を敢然と拒絶し、犯罪を犯したのは自分の本性である、「悪は私の本性」とすら言い放ち、自ら死刑になることを選ぶ。

自分の犯罪を、自らの命すら賭して、自分の責任として捉えること、この時に彼は「差別される側」から解放され、独立した一人の個/孤としての自分を取り戻したのだと思う。

原理的に日本人の側からしか変えられない差別の構造に、どう差別される側にある個/孤が立ち向かうのか?金嬉老のアクション映画ばりの痛快さはひとつのやり方だが、李珍宇はより本質的で根本的な「自由」と「解放」を選んだのではないか?

小松川事件の李珍宇の生き様/死に様は、圧倒的な、古典的とも言える、実存的な悲劇なのだ。彼は差別する側の「日本」だけでなく、「差別される側」に凝り固まった在日社会にNOを突きつけるために殺人を犯し、その犠牲者への自分の責任も含めて、死を選んだ。

彼が言う「悪は私の本性」とは、そういう意味なのだろう。

この悲劇を生んだのは、鈴木道彦先生の表現を借りれば、我々の「民族責任」に他ならない。

だからって殺された若い女性二人の罪とか、日本人だから殺されて当然、という理屈には決してならないので念のため。だからこそ李は自らの行為への責任として死を選んだのだ。

それは「自殺」ではなく、自らを死刑にするしかなかった-実はもの凄く日本的な死の選択、いわば「切腹」とも言える。

まったく無反省な僕らの国がこの自民族の責任を克服する気概なぞまったく欠いている以上、李珍宇は死によって自分を取り戻すしかなかった。それが彼が、類い稀な感性と知力で(22歳で死刑になった彼は、少年時代から万引きした本や、獄中では差し入れなどで、膨大な本を読みこなしており、IQ検査も135という凄い数字を叩き出している)嗅ぎ取った、これしかないという結論だった。

そしてこの魂のドラマは、すさまじく映画的にもなるはずだ。

映画とはキャメラという自分ではない機械を介在させ、その前にいる他者を撮り、その姿が投影されたスクリーンのなかに、他者を通して自分自身を表現する/見る、あらゆる芸術のなかで最も「他者性」の強い表現なのだから。 
キャメラはしょせん機械であり、こっちの「思い」とは無関係に世界を写す、観客は巨大なスクリーンに映し出されたその世界の似姿と向き合うという、もっとも実存的なメディアなのだから。

大島さんですらあの傑作を持ってしても成し遂げられなかったことを描くのは、「リベンジ(笑)」も含めてやりがいがあるしね。

7/14/2013

日曜日の子供、イングマル・ベルイマン生誕95周年

7月14日はフランス革命記念日ではなく、イングマル・ベルイマンの誕生日だ。1918年7月14日の日曜日に、彼は産まれた。

『ファニーとアレクサンデル』撮影中のベルイマン

「日曜日の子供」なんだからハッピーな子供のはずである。そして「難解・哲学的」な芸術家イメージとは裏腹に、映像で残っている彼の演出風景だとか、ものすごくハッピーなおじいちゃんだったりする。

「私は直感でやりたいことをやってるだけ、自分の直感しか信じないし、難しいことを訊かれても困る」とか平然と言っている。演技の質の高さの評価が高いことも、「俳優と映画のテーマを論じあったり伝えたりするかって?私だって分からないのに、そんなこと訊かれたら逃げ出すよ」

 AFIで特別講義をするベルイマン(音声のみ)。けっこう冗談ばっかり

来週からは『第七の封印』『野いちご』『処女の泉』という、あまりに有名代表作過ぎて、かえって見忘れていたり見直し損ねている三本のリバイバルが始まる。

『ベルイマン三大傑作選』http://www.bergman.jp/3/  7月20日より、渋谷ユーロスペースにて


『第七の封印』冒頭から、どう撮ったのか分からない不思議な映像


60年代に映画の「作家主義」、映画とは個人の芸術家の芸術的な表現である、という認識を確立させた監督たちのなかでも、最も尊敬される巨匠でありながら、日本では80年代後半からのミニシアター・ブームで育った世代にとって、ベルイマンはいささか馴染みがない作家だったりする。

ひとつには1982年の『ファニーとアレクサンデル』を最後に、巨匠が「映画はもう作らない」と宣言したせいもある。

“最後のベルイマン映画”になった『ファニーとアレクサンデル』
中央は特別出演のギュンナー・ビョーンストランド
劇中劇でシェイクスピアの『十二夜』の道化を演ずる
ギュンナー・ビョーンストランド
「映画を愛する」といういささか気恥ずかしいことを大真面目に公言する世代にとっては、「本妻は芝居で映画は愛人(本人はその後これを撤回し「私は重婚者」と笑っていた)」と言い放った人にはいささか反発もあったのだろうし、なにしろ「新作がない」過去の作家になってしまったのだ。

『ファニーとアレクサンデル』アラン・エドワルと子どもたち
この「映画撤退」宣言の動機も本人の説明は明解だった。

映画が嫌いなのではぜんぜんなく、ただ映画監督の仕事は「肉体的にも大変」で、「体力がもたない」から。芝居ならリハーサル室で俳優と一緒に楽しいんでいるだけだからまだ続けられる、というだけ。

…とか言いながら、実際のベルイマンは、その後もテレビ用として翌年には『リハーサルの後で』を作り、遺作『サラバンド』に至るまで、何本も映画と呼んで差し支えない作品を、撮り続けていたわけなのだが。

遺作『サラバンド』、リヴ・ウルマン

もうひとつには、ベルイマンが「敷居が高い」作家だったからである。

今度リバイバルされる、50年代末の、国際的な名声を確立した三本のあと、ベルイマンは少人数キャストの、室内劇的で濃厚なドラマ、それも「神の不在」の問題など哲学性の濃厚な、「難解」とレッテルを貼られる(実際には「どんなに考えても答えがない」)、本人が「三部作」と呼ぶ作品を立て続けに発表した。

三部作、『鏡のなかにある如く』『冬の光』『沈黙』の三本だ。

『鏡の中にある如く』ギュンナー・ビョーンストランド、ハリエット・アンデルショーン
『冬の光』イングリット・チューリン、ギュンナー・ビョーンストランド
『沈黙』イングリット・チューリン

すでに『第七の封印』が、十字軍から帰った騎士が死神とチェスの勝負をするという、それだけ言われると難しいだけに思える映画だ。『処女の泉』も、クライマックスの不条理に娘を殺された父の嘆きが、「神の不在」を明確に打ち出している…と、テーマ論的にだけ論ずれば、そういう難しい作品に誤解されかねない。

またリアルタイムで圧倒的な批評家の評価を得たぶん、その批評家たちが難解とされるテーマ性を難しく論ずることに格好な題材となってしまったため、たぶんにベルイマンの作る映画の、純粋に映画としての、直感的なおもしろさが却って伝わらず、ますます敷居の高い作家になってしまった面も否めないのかも知れない。

 『処女の泉』を見た衝撃を語るアン・リー監督。父の嘆きと絶望がアップでなくロングショットで表現されていることは、「自分もよく真似をする」という。

イングマル・ベルイマン自身は、父親がスウェーデン王室付きの牧師、自身の受けたプロテスタント中産階級の厳しい子育てへの反発をまったく隠さず、その父的なるものとの葛藤を、この時期の映画のテーマ上の中枢に据え、それは今回リバイバルされる三本のなかではとりわけ『野いちご』に顕著であり、『処女の泉』でもマックス・フォン・シドウ円ずる父親と二人の、対照的な娘との関係(野性的なブルネットのグンネル・リンドブロムの養女と、金髪で天真爛漫なビルギット・ペテルソンの実の娘)にも反映されている。


『処女の泉』のグンネル・リンドブロム
『第七の封印』のグンネル・リンドブロム、
マックス・フォン・シドウ、ギュンナー・ビョーンストランド
…というか「父的なるものとの葛藤」は、『ファニーとアレクサンデル』でも少年アレクサンデルは冷酷な牧師の義父を“呪い殺す”ことになるし(なのにハッピーエンド?)、『サラバンド』でも86歳の父と61歳の息子は憎み合っている。

母と娘の葛藤がテーマの『秋のソナタ』にしてもこれは父と息子の葛藤の変奏とも言え、78歳の老教授が人生を振り返る旅といえば叙情的に思える『野いちご』も、主人公の老教授は一見善良で優秀な医者に見えながら、やはり息子と対立し、その対立が息子とその妻の不仲を産んでいると、主人公はその嫁に指摘される。

『サラバンド』父エルランド・ヨセフソン(ベルイマンが息子に言われた言葉を、自分が息子に言われた言葉としてそのまま引用している)

『サラバンド』息子ビョーレ・アールステッド
『野いちご』息子ギュンナー・ビョーンストランド、父ヴィクトル・シェーストレム

『冬の光』、多分にベルイマンの父がモデルと言われる牧師を演じるギュンナー・ビョーンストランド

『ファニーとアレクサンデル』冷酷な牧師の義父

『鏡のなかにある如く』は『処女の泉』に続いて米アカデミー外国語映画賞をとったものの(後に『ファニーとアレクサンデル』を併せて、三冠達成)、そして『冬の光』がこと本人にとってもっとも私的な愛着のある作品であったが、『沈黙』は大胆な性描写で世界中で観客動員だけは稼げたものの、悪い意味で「芸術的でよく分からない」イメージがつきまとう作家になってしまった。

しかもこの三部作に続いて、ベルイマン自身がもっとも前衛性を突き詰めた問題作『ペルソナ』まで発表して、いわばダメ押しをしている。

『ペルソナ』で初めてベルイマンと組んだリヴ・ウルマン

今日では最高傑作のひとつとされ、ゴダールなどファンというよりもはや崇拝者が多い『叫びとささやき』も、公開当時はヒットはしていない。むしろ金銭的には困難な状況に陥り、ベルイマンは低予算のテレビ用作品『ある結婚の風景』しか作れない状況に追い込まれている。


『叫びとささやき』は、ベルイマンがある晩見た、
赤い部屋に白い服の女達がいた夢に着想されたという

…ところがこの『ある結婚の風景』こそが彼の最大のヒット作、スカンジナビアでは放映時間帯に街から人が消えた、離婚率が上昇したという伝説の映画にまでなってしまった、あまりの評判に世界中の映画配給業者が劇場公開を望み、3時間の劇場公開版が作られて大ヒットになったのだから、世の中分からないものである。
『ある結婚の風景』エルランド・ヨセフソンとリヴ・ウルマン



『第七の封印』について、ベルイマン自身は「私自身が死が怖かったから書いた脚本」と公言して憚らず、この死の恐怖の主題も、『ファニーとアレクサンデル』『サラバンド』に至るまで、ベルイマンが度々繰り返し描いて来た主題であり、三部作では真っ正面から向き合っている。つまり、テーマ論だけで論じると、もの凄く難しくて理屈っぽい映画に思われてしまう-実際にはぜんぜん違うのだが。


映画の原点となるモチーフは、死神とチェスで勝負する騎士。これはスウェーデン南部、当時ベルイマンが常任演出家だった劇場のある近くの教会に描かれた壁画から想を得たイメージで…などと難しそうな、あたかも海の向こうのような話を持ち出すから「難解」に思ってしまうだけなのかも知れない。

実際には「三部作」ですら、ちっとも「難解」ではなく、ただ映画のなかにとりあえげた主題への回答がないだけなのだが(「死」と「生きることの意味」なんて、答えようがない問いだし)、まして『第七の封印』となると、たぶん20年くらい見直してない(DVDは買っていても、『ある結婚の風景』や『叫びとささやき』、あるいは『狼の時』のようないささかマイナーな映画さえ見直しているのに)と、「え?こんな映画だったっけ?」と素直に驚いてしまうのである。

なにが印象が違うって、「普通におもしろい」映画なのだ。

死神との勝負を通じて死の恐怖と人間の生への意志を問う…その『第七の封印』は、よく考えれば当たり前の話としてとても巧妙に演出されたホラー映画であり(死は怖いんだから)、ブラック・コメディの要素も多く(怖いからこそ斜に構えるのも、人として当たり前)、そしてもの凄く適確でシンプルな構造とシャープでサスペンスとサプライズをふんだんに取り込んだ演出で、映画としては実はとても分かり易いのである。


劇的な構図として「若々しい生の喜び」を体現するキャラクター、ということになるビビ・アンデルショーンなんてひたすらかわいいし(つまり、実はえらく分かり易いことをベルイマンはちゃんと踏まえている)。


『鏡のなかにある如く』では、統合失調症を病んだ娘の病状を最後まで観察して創作に生かしたい、と日記に書いてしまった作家の父、そして『冬の光』では愛を受け入れられず、信者を絶望と自殺から救うことが出来ない牧師を演じ、深刻なベルイマン映画の、苦悩する深刻な顔のイメージが強いギュンナー・ビョーンストランドが、ここでは騎士の従者を演じていて、ツッコミ満載の台詞が、ひたすらおかしい。



しかも腕っぷしは強いし、まるでギャング映画のヒーローみたい(笑)。





『第七の封印』マックス・フォン・シドウ、ギュンナー・ビョーンストランド
 ところで騎士マックス・フォン・シドウと従者ギュンナー・ビョーンストランドの「カップル」は、この後の『魔術師』で科学者と奇術師で敵対するどうし、『鏡のなかにある如く』では精神を病んだ娘を持った作家の父と彼女を愛してやまない夫、核兵器の時代に世界の存在そのものに絶望する漁師と、彼を救えない牧師という組み合わせで繰り返されている。 



気の合う同じ俳優を繰り返し使いながら、ぜんぜん違う役をやらせるのがベルイマンの特徴でもある。 
映画やテレビは40本以上、演劇の演出は200本以上、そこで知り尽くした俳優たちを、ベルイマンは好んで使い、自らスターに仕立て上げてもいった。 
ちなみにマックス・フォン・シドウは『第七の封印』で十字軍に10年間参加して中近東から戻って来た騎士を演じたときで26歳、『処女の泉』の父役は27歳である。よく考えるとベルイマンのキャスティングは、年齢的にはしばしば無茶苦茶…であることに計算してみないとまるで気づかないから凄い。 
『ペルソナ』でも、失語症の大女優を演じるリヴ・ウルマンと若い看護婦のビビ・アンデルショーン、実は彼女の方がキャリアも年齢もよほど大女優だったりする。 
『第七の封印』ビビ・アンデルショーン
『ペルソナ』ビビ・アンデルショーン
『ある結婚の風景』ビビ・アンデルショーン

『野いちご』も、以前見ていた時と、ぜんぜん印象が違って驚いた。こんなにダイナミックで若い映画だったっけ?

主人公は当時78歳のスウェーデン映画の巨匠ヴィクトル・シェーストルム監督が演じているのだし、「若者には分かりにくい」という先入観を持ちそうになるが、考えてみたらベルイマンは当時まだ40前、5回の結婚歴を持ち、50代になってやっと「思春期が終わった」と豪語した彼だけに、けっこう若者の映画で、老人抱える心の葛藤も、思いっきり生々しい。

「頑固な老人」ではなく、ストレートにけっこうわがまま(笑)、そして自分が78歳になっても本質的に子供であり、人生の諸問題にこの年齢でも直面できないと自覚せざるを得ない物語なのだ。


『野いちご』冒頭の悪夢。
ことアップの積み重ねから突然フルショットに切り替える瞬間とか、
まさにベルイマンの演出の力技が冴え渡っている

78歳にしてほとんど「若きウェルテルの悩み」そのまんま、さて私の人生はなんだったのだ、という問題にぶちあたった時、ビビ・アンデルショーンが別れ際に「おじさんやさしくて素敵。大好きよ」といい、それでけっこう人生救われてしまうはずが、「辛い時には子供の頃を思い出すことにしている」と78歳の老人が、というまあなんというか…人生そんなもんだという希望まで、最後に待っている映画なのである。


『野いちご』で二役を演じるビビ・アンデルショーン
…というか、案外とベルイマンの映画はたいてい、ハッピーエンドとまでは言わないが、必ずラストになにかの「救い」があったりする。『鏡のなかにある如く』のラストとかになると、多少無理があり過ぎにも思えるが、『処女の泉』の謎めいた「救済」など、まさに圧倒的な説得力だ。



37歳のベルイマンのオリジナル脚本がなぜここまで78歳の老人の複雑な心境を…と思いきや、当時かなり不仲だったらしい父をたぶんに踏まえながらも、自分自身がビビ・アンデルショーンとの破局の後、『真夏の夜は三度微笑む』『第七の封印』で国際的な成功を収めながら、実はものすごく落ち込んで自信喪失のなかで書いた脚本でもあるらしい。

『野いちご』の悪夢、ヴィクトル・シュエーストレム監督
の代表作『霊魂の不滅』へのオマージュ
『処女の泉』も、中世が舞台で、キリスト教信仰と土俗信仰の衝突とか、難しいことを論じ始めたらいくらでも難しい映画になりそう…であり、現におえらい映画批評がそう論じて来た「名作」なのだが…

…それ以前に、もの凄く出来のいい超一級のサスペンス映画であり、巧妙に演出されたホラー映画なのである。

『第七の封印』も『処女の泉』もなるほど、中世ヨーロッパの世界観を忠実に踏まえた映画ではあり、キリスト教の主題が随所で繰り返されてはいる。


『処女の泉』インゲリ(グンネル・リンドブロム)はオーディーンの神に
カーリン(ビルギット・ペテルソン)への呪いをかけるように祈る
マックス・フォン・シドウ、グンネル・リンドブロム

たとえば『処女の泉』では、敬虔なキリスト教徒の主人公一家と対比されるように、キリスト教の普及以前の北欧のオーディーン信仰が出て来るわけで、この土俗信仰を表す象徴的な図像(たとえばガマガエル)も多用されたり、「難解」「知識がなければ」と言い始めるのは簡単かも知れず、また映画評論家の多くがそうやって難解に論じようともして来た。

金髪のカーリン(ブルギッテ・ペテルショーン)と
野性的な黒髪のインゲリ(グンネル・リンドブロム)
『沈黙』の理知的な姉(イングリット・チューリン)と
官能的な妹(グンネル・リンドボルム)
だがこの作品で初めてベルイマンと組み、以後ほぼ全作品で撮影を担当したスヴェン・ニクヴィストの、自然光を大胆に生かした艶かしい映像に注視し、あるいはとりわけ女優の演出には定評があるベルイマンが見事に演じ分けさせている、二人の若い女優の対照的な個性をストレートに感じていれば、そういう“知的”な解釈が実はぜんぜん必要ないことが分かるはずだ。



とりわけ、二人の対照的な娘が教会に蝋燭を届けるために通り抜ける森の描写のなまめかしさ、わけてもインゲリが同じオーディーン崇拝の仲間だと直感する男(アラン・エドワル)の住む、水がふんだんにあふれる小川沿いの小屋には、これが宗教の対立などと言った観念的、ないし薄っぺらなものでなく、「人間に従順な文明化された世界」と「飼いならされない野性・自然としての世界」の対立なのであることが、ほとんど肉体的なレベルで体感出来てしまう。


『処女の泉』、オーディン崇拝者どうし、
アラン・エドヴァル、グンネル・リンドボルム
外から入り込む光の織りなす陰影のパターンと、水の音を生かした音響設計の融合も凄いし、黒沢清監督などは明らかにこうしたベルイマンの表現に強い影響を受けている。

『ファニーとアレクサンデル』
死んだ父(アラン・エドヴァル)の遺体が安置された寝室は、
ふんだんに自然の要素で装飾されている
対照的にほとんどモノクロの、義父となる牧師(ヤン・マルムショ)の屋敷
『第七の封印』で死神が伐った木の切り株の上にリスが現れる
のは、偶然起こったことをそのまま撮影したのだという。
そしてベルイマンの映画では、こと『処女の泉』の場合にも、決して「文明=キリスト教=善」「野蛮=土着神=悪」という単純な図式や、あるいはそれを逆転させた反キリスト教というか、いわゆる近代主義の構図には、決して収まらない。


『処女の泉』撮影の想い出を語るブリギッテ・ペテルショーンとグンネル・リンドブロム



もしかしたらベルイマンがどうも決定的に誤解されがちというか、「難解」と思われがちなのは、むしろそうした構図や図式を拒否し、人間を取り囲む謎めいた世界の、人間の外にある自然も、人間のうちなる野性もまとめて受け止めることからしか「生きる」と言うことは始まらない、この根本的にはもの凄くシンプルな世界観に、多くの人がなかなか気づけないからなのかも知れない。


『処女の泉』マックス・フォン・シドウの父が復讐を前に身体を清めるのも、水である
そして父マックス・フォン・シドウが、殺された娘の復讐をするアクション・シーンは、映画史上屈指の暴力描写だ。これだけでも必見。

復讐の準備をするマックス・フォン・シドウ

三人を殺すなかでどう殺したのかがはっきりしてるのは一人目だけ、っていう演出も大胆不敵だ。



とにかく恐るべしベルイマン、なのである。