恐らくロクな結果にはならないだろうと思っていた参院選だが、思った以上にすごい結果になってしまった。投票率が50%をちょっと越える程度の史上最低レベルであったことについて、僕が棄権した人たちを責める気になれないのは、投票日前にこのブログに書いた通りだ(「本当に選挙を「棄権」してはいけないのか?」)。
「ねじれ解消」をいかにもポジティブなことのように書く報道については、内田樹さんがいかにそれがおかしな話、ねじれこそ民主主義の二院制の機能であり、これでは民主主義の放棄に通ずる話でしかないか、ご自分のブログで適確に論じているので、今さらここでは書くまい。
内田樹の研究室「参院選の総括」
http://blog.tatsuru.com/2013/07/23_0850.php
しいて付け加えるなら、従来の自民支持者こそ、この結果に危機感を抱くのが当然ではないだろうか。
思い返せば一年ほど前には、安倍晋三氏が自民党総裁に再登板することは、悪い冗談としか思われていなかった。
周知の通り、総裁選挙で党員、つまり一般の自民支持者が選んだのは石破茂氏だ。
以前に政権を丸投げした安倍晋三のことを信用する自民支持層は少なかったわけだし、それなりに政策通の、一応は勉強はしている石破氏が、実際に生活もかかっている自民党組織票の保守志向の支持者(たとえば地方の商工会議所や農協の人脈)に選ばれるのは、当然だろう。
安倍氏が勉強が足りない、政策を知らない、あまり頭も良くない、中身がない、こう言っては悪いがボンクラなお坊ちゃんであるのも、第一次の安倍政権の際に、旧来の自民党支持の庶民ほど気づいていたことだし、挙げ句に体調不振を理由に丸投げ辞任…
…それも倒れて入院でもしたのならまだ納得するのが、本人が元気な顔して記者会見をわざわざやってしまう世間知らずっぷりでは、呆れられて当然だった。
安全保障通を自認しながら、兵器のプラモデルを集めるのが好きな男の子の趣味でしかないと揶揄される石破さんでも、軍事や外交安全保障のイロハどころか世間の常識すら知らない安倍さんよりはマシだ。
なのに国会議員たちは(大切なはずの支持者を裏切って)安倍氏を選んだ。
この時には誰もがその結果に鼻白んだはずだ。
どうも石破氏を直接知る国会議員のあいだでは、ちょっと勉強してるからって知識を鼻にかけて傲慢、しかも粘着質で執念深い、性格が悪くて友達がいない、ともっぱらの噂であるにせよ。
その安倍氏が衆院選だけでなく、参院選まで大勝となれば、安倍氏とその周辺の軽薄なお調子者たちだからこそ、自分達が勝ったのだと驕り高ぶるのは目に見えた話だ。
しかも彼らには実際に政策を作ったり実行する能力がない。安倍政権の「お友達」内閣メンバーに至っては、こんな幼い顔した人が大臣ですか、と驚くような顔ぶれだ。
薄っぺらなかけ声と、岸信介の孫という血筋だけが売り物の首相が勘違いで鼻高々になれば、肝心の政治は結局は官僚の言うなりになる(本ブログ 「全体主義国家へようこそ」 の項参照)。そしてその霞ヶ関にとって、安倍晋三は消費増税にもっとも好都合な総理でしかない。
その安倍晋三と言う猫の首に、これでは自民党の誰もが鈴をつけられなくなってしまう。
石破茂氏は選挙後あえて低姿勢を貫き、長年連立を組んで来た公明党を裏切って憲法改正を強行などはしない、と安倍氏の浮かれ方を尻目に慎重さをアピールしていたが(それだけまだ、石破氏の方がまともだ)。
東京選挙区で言えば自公で三議席過半数をとるのは想定の範囲内とはいえ、ダントツのトップ当選が丸川珠代というのは驚きというか、投票した人はなにを考えているのか分からない。
武見敬三氏ならまだ、TPPとのからみもあってせっかくの国民会皆保険制度がなし崩しにされようとしていることへの反対勢力にもなり得るなど、とにかくバランスはとれたはずだ。
別に女子アナ出身のタレント議員がすべて駄目だと言うつもりはないが、よりにもよって丸川氏が110万、しょせん大物の息子の二世とはいえそれなりにベテランで、医療政策などが分かっている方の武見氏に、ダブルスコアに近いトップ得票とは。
出産を経たら案の定「女性にやさしい社会」を演説で繰り返すのはいいが、だったらあなたは自民党でなにをやってるんだ、それも安倍晋三の忠実な着せ替え人形アイドルがなにを言ってるんだ、としか思えない。
その政治手腕に本気で期待して投票する人というのも、想像がつかない。
世論調査をすれば、多数が原発の再稼働には反対ないし慎重、TPP参加にも多くの国民が懐疑を抱き、今のままの消費増税も納得せず、「ブラック企業」という非難に代表されるように雇用制度の規制緩和にも疑問が多い。にも関わらずそのいずれをも公約に含んでいる自民党が大勝したのも奇異だ。
とはいえこれですら、必ずしも自民に投票した有権者を責められた話でもない。そうした本来なら争点であったはずのことが、選挙前にほとんど報道されていないのだ。
丸川珠代が「女性にやさしい社会」とか言ったって、マスコミは誰もその珍妙さを指摘しなかったのだ。
NHKと、テレビ朝日系の人気番組TVタックルでは、投票日の翌日に討論番組を組んで、野党に与党の政策への疑問や批判を挙げさせた(NHKの番組を報じた赤旗新聞の記事はこちら)。
司会者も含めて選挙前とはがらりと違った雰囲気だ。これでは文字通り後の祭り、国民が「騙された」と怒ったって無理のない話であり、なのに怒らない人が多いのはさすがに奇妙だとは思うが。
いったいなんのためのマスコミ、なんのための報道なのだろう?選挙で投票する判断材料を国民に与えもしないでおいて、棄権した国民をけなすのだからいい気なものだ。
投票日二日前の金曜日に、米国デトロイト市の財政破綻が報じられた。オバマ政権の財政支援などのテコ入れで、アメリカの大手自動車製造会社は持ち直しているのにも関わらず、である。
実際、アメリカの自動車産業自体は、今も好調だ。(GMの好業績を伝えるBloomberg日本版の記事はこちら)
いや当然の話として、設備投資の余裕ができたビッグ3は、しかしそれをデトロイトなど米国内に投下するつもりなどさらさらなかったのだから、こうなるのはある意味、目に見えていたし理の当然でもある。
教科書通りの「産業空洞化」なのだ。
なのにマスコミで識者ぶったベテラン政治記者は、「日本も他人事ではない」と口先では言いながら、持ち出した比較例はなんと夕張である。
どこまで安倍政権に気を遣っているのだろうか?
同じように、仰々しくも「アベノミクス」と銘打った、タガの外れた金融緩和による円安誘導しかやっていない安倍晋三首相の経済政策も、それで大手企業に(おもに為替差益の帳簿上のからくりだけとはいえ)余裕が出たとしても、それが日本国内の設備投資や雇用創出に廻ることはまずあるまい。
先進国では人件費がアップするため、より労働力が安い新興国や発展途上国には価格競争で勝てなくなるのは、資本主義では自然な流れだ。
だから先進国の「産業空洞化」なんてもう20年前からよく聞く常識で、高度な技術力と労働者全般の質の高さで、その打撃が他の先進国ほどではなかったバブル後の日本でさえ、小泉時代の規制緩和による非正規雇用の爆発的な増加などで対処しなければ、国内の工場を維持するのがすでに難しくなっていたではないか。
ところがデトロイト市の財政破綻の理由を分析するのでも、「産業空洞化」という、ごく当たり前に出て来るはずのタームを口にするのは、せいぜいが一部のコメンテーターだけだ。
アベノミクスが「第三の矢」である成長戦略でよほど日本でなければ出来ない分野を強力に底入れしない限り、大手製造業に余裕が出来たところで、デトロイトと同じ展開が日本でも起こり、一般雇用の拡大や安定、ないし地方経済への波及は期待できず、日本全体が第二第三のデトロイトになりかねないことも、なかなか遠慮して言及されない−−中学で習うような経済学の知識で、すぐに分かることなのに。
この参議院選挙で、せめてこれは公約で出して来るだろうと誰もが思っていた「第三の矢」の中身を、首相や自民党がアピールすることすらなかったし、報道もあえて不問に伏して放置した。
産業空洞化で元の木阿弥、ますます雇用が痛み格差が広がるという結果にならないため、今のところ人工ミニ・バブルでしかないアベノミクスを実態経済への好影響につなげるには、この「第三の矢」の中身がすべてだと言うのに。
首相と来たらなんの根拠も具体性もないまま「10年後に一人当たりの国民所得を150万増やす」と吹聴し、それが出来るとする理由は「70年代や80年代の日本人に出来たことが、今の日本人に出来ないわけがない」という空っぽなかけ声だけだった。
申し訳ないが高度成長の時代の日本に出来たことを、今の日本に期待するだけおかしい。日本は今や成長するだけ成長してしまった、成熟した資本主義国だ。これ以上経済成長をする余地はあまり残されていない。
かつて安価で良質な労働力を武器に世界の市場を席巻したメイド・イン・ジャパンだが、今では労働力は高価だし、その質のほうは逆に、今の日本人の総体は昔ほど実直な働き者ではない。教育も育ちも違うし、それに大企業ですら家族的な雰囲気の演出で忠誠度を高めていた日本的な経営も、もはや過去のものだ。
中国や東南アジアで勤勉で優秀な労働力が育っている今、産業空洞化をどう阻止するのか、あるいはそれに替えてどう言う手段で将来の日本が食って行くのか、それを提示するのが、責任ある与党の選挙公約のはずなのだが。
これも投票日前に出てるのだから、普通に報道されていれば確実に与党への逆風になった話題だが、東京電力では福島原発事故以降、退職者が後を絶たない管理職を引き止めるため、一律10万を支給するという(東京新聞の記事)。
総額がまたかなりの額になるのは当然で、原発事故の保障賠償もままならず、燃料費コストの価格転嫁で電気代は上がってるのに、いったいどういうつもりなのか東電さんにもつくづく愛想がつきるわけだが、一方で会社が危機の時に責任ある管理職から辞めて行く、だから現ナマで懐柔なんてことは、高度成長時代の日本企業では考えられない話だ。
だがどうも、安倍晋三さんの周囲だけ、日本は未だに高度成長時代であるらしい。
この時代錯誤な幻想(こうなると「信ずる者は救われる、だからひたすら信じろ」というカルトでしかない)を見て見ぬ振りしてオブラートに包んだ報道に徹した大手メディアというのも、これでは民主政治に不可欠な権力の監視役としての言論の役割など、およそ期待できない。
そしてここまで大勝してしまえば、もう誰も安倍さんの勘違いした傲慢なひとりよがりを、自民党内ですら止められないのだ。
始末の悪いことに自民党でも政策が分かっていた、族議員と批判されながらも、その専門分野の実態についての知識は馬鹿にならず、官僚に対抗して自ら政策をつくれるような長老陣は、あらかた引退してしまった。
残ったのは二世三世が過半の、それも三年間の野党暮らしでなんの政策知識も持っていないことがバレてしまった(国会でもロクに質問も議論も出来なかった)面々がほとんどである。
もはや雰囲気だけの選挙、それも「風が吹く」のならまだ以前にも何度かあったものの、極めて刹那的で、ほんの半年前、一年前のことも忘れたその場限りの突風みたいなものだ。
なるほど、政治も景気もある程度は「気」、気分の面があることは否定しない。しかしその「気分」があまりにも軽薄で散漫として刹那的で、なにも考えていない、本来なら政治が担保すべき国と社会の将来に、あまりに投げやりになっているとしか思えないのだ。
民主党は歴史的な惨敗に終わった。確かに2009年の政権交代マニフェストをほとんどなにも実践出来なかった民主党も情けない限りだが、いつの間にかその三年間に景気が最悪になるような、とんでもない悪政をやったということになっている。
民主党政権が呆れられたのは単に自民党となにも変わらなかったことであり、アベノミクスの元になったインフレ・ターゲット論ですら、元は民主党の菅や前原が言い出したことだと言うのに。
すでに安倍政権発足直後のこのブログで書いたことなのでいちいち繰り返さないが(「日本は本当の危機なのか」「日本は本当に危機なのか・その2 」 )民主党政権時代に、日本の経済は別に悪くなってはいない。
むしろ先進国のなかではもっともリーマン・ショックの打撃から早く立ち直り、失業率などの数字も決して悪くない(ただし実際の雇用では給与水準がどんどん落ちているが、これは数字上は好況だったことになっている小泉時代からだし、むしろ労働法制と労働市場の管理の問題だ)。原発が止まって行くことで景気に悪影響としきりにプロパガンダされたことですら、事実はまったく異なった結果になった。
民主党に政権交替する前、第一次の安倍や麻生の内閣の頃、年越し派遣村があれだけ話題になったことすら、もう忘れたのだろうか?
経済政策で民主党政権の最大の失敗は、菅・野田の両首相が尖閣諸島の問題で中国との関係を悪化させたことであり、東京開催のIMF総会を失敗させたて世界の顰蹙を買い、ユーロ危機の解消を送らせたこと、今や世界の組み立て工場である中国相手に日本の国内産業で最大の売り物の高度な部品の輸出が滞ったことくらいだし、こうした外交面の失敗の経済への影響は、安倍政権になってむしろ悪化している。
安倍首相が喧伝するほど、日本の経済はファンダメンタルの部分で悪くなっていない(麻生氏が総理のとき、「日本のファンダメンタルは悪くなっていない」と言って顰蹙を買ったのも、それ自体は間違いとは言えなかった)。決して良好とは言えないし問題は山積している、将来はもたなくなるだろうとはいえ、今日明日にそこまで悲観する理由は実はない。
だが一方で、安倍首相が言い張る楽観論もまた、今後の日本の現実とはまるで異なる。
いかに安倍さんが人差し指を振り上げて「一番」のポーズをとろうが、今さら高度成長など出来るはずもないし、別に彼が人差し指を振り上げるまでもなく過去30年近く、世界でもっとも豊かな国のひとつなのだ。
なのに不況感が漂い、欲求不満が溜まっていることは、否定のしようがない。
問題なのは企業経営のルールや倫理だけは日本式経営の美点をかなぐり棄て雇用制度はガタガタにしながらも、経済の構造というか、我々の意識が未だに輸出偏重構造の高度成長型である時代錯誤、実態に合ない経済構造を維持していることであり、我々もまた今よりも高度成長時代は良かった、と無邪気なノスタルジアに浸ってしまっている(いわゆる「昭和ブーム」)。
だが日本は80年末代にはとっくに高度に成熟した資本主義の、安定した低成長ベースのフェーズに入っている。
その転換期に経済政策を誤ったが故にバブルになり、そのバブルが崩壊してからの「失われた20年」、「規制緩和」を唱え続けても、結果は労働市場が不安定化して非正規雇用と正社員の格差が増えたくらいのことで、バブル崩壊から順調に回復できたわけでもない。
ところで未だにバブルの時代の再来を望むような論調も見かけるから驚く。あれは経済政策の失敗なんだって。その後遺症に今も日本は苦しんでいるんだって。
いや「バブルは良かった」という感覚こそが、その最大の後遺症なのだろうか?
にもかかわらず国は未だに膨大な資産を持っているので、赤字国債を発行したって日本国債の価値は下がらなかったし、悪者扱いされた円高は実は世界のどの通貨よりも円が信頼されていた結果に過ぎず、不景気とか言いながら銀行には投資先が見当たらずに困る世界最大級の預貯金が唸っている(アベノミクスの為替差損で相当に目減りしたとはいえ)。
経済構造を安定持続型に変える余力はまだあるし、今が最後のチャンス…なのに、「再び日本を一番に」と人差し指を振りかざす軽薄な絶叫の奇妙さを経済学者や歴史学者が指摘しようとしたら、マスコミにコメンテーターとして呼ばれなくなる国になり、その結果、衆院だけでなく参院の過半数まで与えてしまい、これから三年間は大きな選挙もない、よほどの失政がない限り安泰の、霞ヶ関の言いなり政権が続くのだ。
ここまで勝たれてしまうと、消費増税などいろいろ都合がよかった霞ヶ関も困ってしまうかも知れない。
調子に乗った安倍晋三が、確実に世論の反発を買う憲法改正などを強行したりはしないだろうか?
日中関係や日韓関係をこれ以上悪化させては日米関係まで揺らぐだけでなく、経済に響く。
それに自民党の現在の憲法草案がお話にならない内容なのは以前に述べた通りで、あまりにみっともないので今回の選挙でも報道でほとんど触れられなかったのだが、逆に言えばこれを持ち出しでもしない限り(三年後に選挙に大敗する可能性さえ覚悟しておけば)、安倍政権は安泰だ。
逆に言えば、憲法改正や集団的自衛権の問題は、多くの人が危惧しているように強行されることはないように思える。霞ヶ関、とくに財務省がそれをやらせたがらないだろう。せっかくの、頭が良くないぶんもっとも操り人形にしやすい、便利な政権なのだから。
投票日直前にもうひとつ、本来なら大きなニュースになってしかるべきだったのは、中国の習近平・李克強政権の経済政策の転換だ。
デトロイトの破綻と同じ日に、人民銀行が闇金融対策で金利政策を変えることが発表された。その前に輸出にかげりが見えたと指摘され、「大規模公共投資で景気の底上げはしない」と李克強首相が明言したことも、世界経済の新しい流れを予測させる重大なニュースだったのが、安倍の政策がいかに時代錯誤化をあからさまにしてしまう話であったせいか、ろくに報道されなかった。
中国の現政権ははっきりと、今の急激な経済発展に多少はブレーキがかかる結果になっても、中国経済の構造を今の輸出偏重型から、格差を是正し安定した国内需要で支えられた持続型に変える必要性を述べているのだ。
本来なら日本もまた20年前、30年前に取り組み始めておくべきだったことだ。
たとえば小沢一郎が2009年マニフェストで提案し、菅や野田の(松下政経塾に毒された)民主党と決別したあとも、今回は「生活の党」で主張していたのもこうした政策変換だ。
アベノミクスの問題点を指摘し今後日本がどういう国になるべきかをもっとも論理的かつ分かり易く述べていたのは、今回の選挙でも誰よりも小沢さんたちだった。
その生活の党が、今回はいわゆる反自民勢力の中でも、もっとも惨憺たる結果になった。
もちろん小沢さん本人の問題も大きかったことは否定できない。震災のときにもっとも東北のニーズが分かっていて、被災地の救援や復興援助の要になる理論を提示出来たはずの彼が、なにも動かなかったことで失った信頼は、あまりにも大きい。
自分の周囲の議員たちの興奮を押さえきれず、民主党と袂を分かってしまったのも、民主党にとっても小沢さん本人にとってもあまりにも痛恨の失策だ。小沢さんにしても鳩山さんにしても、いざと言うときに人が良過ぎて、権力闘争を勝ち抜く狡猾さやパワーに欠けているのが最大の欠点なのだろう。
…というか、この二人のどちらも、世の中には(そして自分の周囲に)私利私欲や名誉心や身勝手な嫉妬、あるいは保身がなによりも優先してしまう身勝手で狡い人間だって多いことがどうにも認識出来ていないか、分かっていてもそういう人たちがどれだけ嫌らしい行動原理を持っているのか、まるで理解できないらしい。
いい意味で「お坊ちゃん」、小沢さんの場合はしかも「田舎のお坊ちゃん」だけにシャイ過ぎることまで、おまけでつくのだから、権力闘争が苦手なのも、まあ、やむを得ないのかも知れないが、えらく歯がゆい話だ。
とはいえそれでも、派手さはないにせよ理路整然として分かり易い小沢さんと生活の党の主張がこうも無視されるてしまうのでは、やはり日本の現在と将来にあまり明るい展望は見えて来ないのだ。
後世の歴史家は今回の参院選挙を、1992年と2009年に政権交代があり、自民独裁体制が覆えされ得る可能性も日本の政治にはあった、その選択肢が完全に葬り去られた選挙だったと評価するだろう(産經新聞などはすでに大喜びで「鳩山・菅・小沢時代が終わる」と分析記事を出している)。
安倍晋三は「戦後レジュームを終わらせる」とやたらと口にする。「Regime」なんだから「レジーム」ろう、読みがおかしいという突っ込みはともかく、戦後日本のRegimeつまり支配体制がむしろ完成し、オルタネイティヴがあらかた排除されたのが、この選挙の結果だ。
そして、その行き着く先が自民独裁や安倍独裁ではなく、実態が官僚独裁全体主義であることは、衆院選直後のこのブログで書いた通りだ。
…ということは、完成したのは単に戦後のレジームではなく、明治に急ごしらえされた国民国家としての日本の、中央集権の官僚体制の完成である。
菅直人に続いて安倍晋三という旧長州藩出身の政治家によってそれが成されたというのだから、ある意味で馬鹿みたいに分かり易い。
震災と原発事故発生の直後、あまりに政府の対応が薄情で地元のことをなにも考えてないことに、福島県では冗談とも本気ともつかぬように「もしかして今の首相が山口の出身だからだろうか?」という人も少なくなかった。
まさにその長州主導の明治維新がいかに暴力的で冷酷な「東北侵略の植民地戦争」であったかを告発するのが今年のNHK大河ドラマ『八重の桜』であり、しかし低視聴率なのだそうだから話が出来過ぎている。
だがそれ以上に僕が注目したいのは、この選挙によって知性や理念が日本の政治風景から完全に消え去ったことだ。
菅・野田の民主党政権の公約違反に敢然と異を唱えた女性議員集団「みどりの風」も消えてしまった。
理念だけでなく、信念も日本の政治風景から失われたことの、象徴的な例といえよう。
知性も理念も信念も消えてしまったことは、単に自公の大勝だけでなく、反自公の側の動向でもはっきりしている。
たとえば「反原発」「脱原発」「原発ゼロ」は世論の支持するところであり、野党は大なり小なりそのスローガンを掲げて闘ったのだが、政策的な方法論の提示がないので全体としては争点になりようがなかっただけでなく、それでもその争点で勝ってしまった(票の行き場がなく集中した?)のが、東京選挙区なら山本太郎氏だということにはっきりしている。
日経新聞のベタ記事に寄ればこと原発の問題では、自民党はなるべく街頭演説ではこの話題を避けるよう指示を出していた。
繰り返すがタレント候補だから駄目だと言いたいわけではない。齋藤(謝)蓮舫氏のように、タレント出身だって優秀な政治家はいる(案外と芯が弱く、民主党内の松下政経塾勢力に骨抜きにされたけれど)。
とはいえ東京選挙区5議席のうち2議席が丸川珠代と山本太郎、文字通りただの「タレント候補」、まともな日本語の議論すら不自由そうな、短いフレーズのかけ声だけで、その主張の根拠もあやしい(デマも多い)点で、岸の孫という血統以外にとりえがない安倍晋三首相に、輪をかけたような存在なのだ。
ネットでの選挙活動が解禁された今回、ツイッターでいちばん盛り上がったのが山本太郎陣営による民主党の鈴木寛候補への攻撃だったと朝日新聞が分析していたが、本当だとしたら目も当てられない。
震災当時に文部科学副大臣だった鈴木氏が、SPEEDI情報を隠蔽したのだという、もの凄く薄っぺらで中身も根拠も特にない中傷まがいの、軽薄なイメージだけの選挙闘争だ。
もちろん鈴木寛氏だって決してそんなに褒められた人じゃない、民主党が政権に入ったら官僚の言いなりになった典型みたいな人だが、山本陣営の支持者のやり口はさすがに衆愚的なヒステリーに過ぎる。
これではヒステリックな陶片追放みたいな魔女狩りだし、積極的な再稼働を実は主張していた自民の票でなく、反自民票を狙って、それを奪って当選したのであれば、大きな政策理念や目標が、まるで無視された話でしかない。
実は原発の再稼働にもっとも真剣に考え、慎重で、疑問が多く出ているのは、よく考えれば当たり前のこととして、他ならぬ福島浜通りなど、原発が立地する地元である。
だが山本氏らの言うことがあまりに極端で現実離れしていて、デマも多く、そのデマによる差別風評でいちばん苦しむのがその原発立地地域だからこそ、山本氏は実はいちばん熱心にこの問題を考えている人々の支持や支援、共感を、決して得られない立場に自らを置いてしまっている。
他者、自分と立場の違う他人の存在を認識・尊重出来ない結果、なにがやりたいのか結局よく分からなくなってしまう典型だ。いや実際、なにがやりたくて彼は選挙に出たのかすら分からない。
芸能人としてはあのキャラで使うのは歳をとり過ぎて、俳優として使い道がなくなってしまったから、ただの打算の売名と言い切ってしまうのはさすがにかわいそうだが。
この選挙期間に、選挙戦の報道よりもマスコミがはるかに熱中したのが、呉市の郊外で遺体で発見された少女が、中学時代の元同級生の少女らのグループにリンチで殺害されて遺体が遺棄されていたと分かった事件だ。
最初はスマホのメッセージ機能アプリLINEでのやり取りで悪口を言われたのが動機と報じられ、一応は主犯に見える、自首した少女の一連のLINEでのやりとりが、共犯グループとの関係まで含めて、テレビでさんざん紹介されているのだが、これには強烈な違和感を覚えずにはいられない。
比較で思い起こすのは、もう5年前の、秋葉原連続殺傷事件の加藤智宏が書いたとされる一連の掲示板への書き込みだ(その抜粋はTwitterでもボットで今も流されている https://twitter.com/katou_tomohiro)。
なるほど、加藤の場合にもその書き込みの異常さが喧伝されたわけだが、彼が至る結論がいずれも常軌を逸した自己嫌悪ではあっても、その書いていること、言っていることには明確なロジックがあった。至った結論とそこでやったことは理解不能にしても、彼がその行為に至る過程は、その言葉を通して論理的に、動機と心理がちゃんと理解できた。
検察は念のため加藤被告の精神鑑定を行っているが、案の定、精神疾患という結論は出なかった。不運な状況が重なって彼がああいう行動をやるのだと結論した、その結果が異常なだけで、思考の過程に病理が見られないのだから当然だ。
広島県の事件で報道されるLINEのやり取りを見ていて困惑するのは、コミュニケーションが成立してないどころか、人間として、言葉を通じて他人とコミュニケートしよう、自分のことを伝えようとする意志すら感じられないことだ。
なぜこんな事件を彼女達が起こしたのか、いくらそのメッセージのやり取りをテレビで見させられても、手がかりすら見つからない。
自分のことを人に伝えようという意思すらないのだから当然ではあるが、そこにあるのは幼稚で自己中心的な感情論だけであり、その感情もただ「傷ついた!許せない!」という程度の、単純過ぎてなんの人間的な厚みもない。
だが彼女達のやり取りと違ってさすがに「てにをは」くらいは文法を踏まえ、「ゆう」ではなく「言う」とちゃんと表記はされている、場合によっては丁寧語にはなっているなど、一見まともに見えるものの、たとえば山本太郎氏のツイートとか、山本氏の演説やテレビでの発言とか、あるいは山本氏を支持する人たちのインターネット上の言動を見ていても、実はあまり変わらないし、その山本氏を叩くネット上の発言の半分くらいも、やはり大差ないのだ。
「ネット選挙」が解禁されたものの、本質的に広島の事件の彼女達と大差がないくらい、恐ろしく自己中心的で他者が存在しない世界の住人たちの、多くの場合は読解力の絶望的な不足に根ざした、ただ「傷ついた!許せない!」の、感情論とすら言う気がしないほどの機械的な感情しかなく、政治的な議論としてはまったく成立していない。
しかもこれは山本氏を支持する人たち、あるいは原発事故後あまりに極端なデマ、パニック体質の言動に走って「放射脳」と揶揄された人たちに限った話ではない。そうした彼らを批判する側も、大差ないのだ。
挙げ句に反原発が大事なのか、あるいは原発がなければ日本のエネルギー供給が立ち行かないと確信していることが最重要なわけでもなく、その実、自分達が批判されたことが許せないのかの区別もないまぜになった、刹那的な、感情論ですらない乱暴で皮相な感情だけが、ツイッターならツイッターの「クラスタ」を成立させ、自分(ないし自分達)が批判されでもしたら即脊髄反射、嘘でも出鱈目でも論点が完全にズレていてもなんでもいいから、とにかく攻撃に走り、仲間うちでつるんで誰かを攻撃することのカタルシスをまるで麻薬のように求めている。
先日このブログでも触れた、これまた時代錯誤に「反韓デモ」とやらをやっている人たちと、そこに対する「カウンター」の一部(というかネットでいちばん威張っている人たち)も、似たようなものだ。だから差別発言と同じくらいに、彼らが「反日」とみなす在日コリアンや「サヨク」を執拗に攻撃する。
これは恐ろしく反知性的なだけでなく、根本的に非人間的な光景であり、長期で社会の将来を考える政治的な議論の役割におよそ無縁な、ファシスト的な党派性でしかない。
こうしたやり方では「運動」や「社会のうねり」は拡大しない。
ただたまたま同じ脊髄反射的な感情を共有する「内輪」が広がるだけだ。
そしてそうした「内輪」は、他者からの批判を「攻撃」と誤認することで、いっそう結束を強める−−同じ集団内からの批判が出た途端に分裂し、昨日までの仲間に暴力性を剥き出しにする危険を、常に秘めながら。
そしてこの薄っぺらさと空虚さは、広島県でおそらくはもののはずみで同級生を殺してしまった少女達や、あるいは秋葉原で「誇りのある国を取り戻す」と内容空虚に絶叫する安倍晋三や、彼をとりまいて日の丸を振って熱狂している輩に、限ったことではないのだ。
参議院選挙の結果全体が、そのようなものに見えてしまう。杞憂であって欲しいのだが、「政策で決める」選挙からもっともかけ離れた投票行動になっていることだけは間違いない。
共産党の市田氏が、「衆参のねじれ」ではなく「与党と国民の希望の間のねじれ」に言及していた。繰り返しになるが、大勝した与党の政策の多くが、TPPでも原発でも消費税でも、世論調査では国民が反対ないし慎重なことばかりなのだから、「ねじれている」のは確かだ。
安倍晋三首相は微妙な争点を避け、経済政策の議論に特化することでこの選挙に勝ったという分析がマスコミでは主流なのだが、経済についてすら、実際にはまるで議論などしていないのである。
ひたすら気分だけの幻影の経済政策と、中国を叩く、韓国を叩く、民主党を叩くだけの攻撃性。そのいずれも、現実の把握も批判も二の次で、やはり薄っぺらなただの気分でしかない。
しかもこうした薄っぺらな気分は、予め閉ざされた自分(ないし「自分達」)の内部だけで通用するものであり、「外」に向けて恐ろしく押し付けがましい無自覚な身勝手の自己満足か、攻撃的な、排除の論理しか持っていない。
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