最新作『無人地帯 No Man's Zone』(2012)
〜福島第一原発事故、失われゆく風景、そこに生きて来た人々〜
第62回ベルリン国際映画祭フォーラム部門正式出品作品

3/10/2017

「教育勅語」が日本の伝統なのか?



安倍晋三首相の夫人が「名誉校長」まで務める癒着っぷりが効果を発揮して、国有地が異常な大値引きお買い得価格で(しかも異例なことに分割払いで)払い下げられた大阪の学校法人・森友学園の運営する塚本幼稚園では、子どもに教育勅語を集団で暗唱させている。

これは自民党大阪府連が提案したことだそうで、またその幼稚園での講演会や、親向けの配布物に名前や文章が出ている面々が、分かりやすく「日本会議」の重要メンバー、天皇の退位の意向をめぐる有識者会議やそこにヒアリングで呼ばれた、なんの専門知識もない「専門家」とまったく同じ人脈であることとか、これでも払い下げについて「関与していない」「無関係だ」「政治的な働きかけはない」と言い張る安倍氏の無茶苦茶は相当なものだ。

「日本会議」系の政治家による口利きがあっただろうと誰でも想像がつくところへ、金銭の授受つまり賄賂まで介在した可能性すら出て来ているが、それがなくとも総理やその周辺に連なる人脈があるというだけで議員が官庁に口利きをしてくれるというのでは、政治の公平性が根幹から崩壊する。

そんなものは近代民主主義の法治理念以前の問題で、過去の、歴史上の名君とされる者は常に不公平の排除に腐心して来た。 
公平であることは政治倫理の一丁目一番地のはずであり、封建制などの身分制社会であってもその身分内での公平性を担保できない、為政者が公私混同に陥った政治は、常に結局のところ瓦解しているのが歴史の教訓だ。

財務省もついに「様々な働きかけ」に政治家も含まれる “可能性” は否定できなくなったが、議員が陳情を聞き入れるならば、あくまでその中身に正当性が見出せた場合のみのはずだ。

ところがこの森友学園の場合、教育内容が教育基本法や憲法に反しているとも指摘できるのに、妻が名誉校長をやっていた安倍首相でさえ、この学校法人をなぜ支援して来たのかの理由すら議論の俎上に乗せることから逃げている。

当の安倍首相に至っては、最初は森友学園について「教育方針が素晴らしい」と聞いていたはずの、「私の考え方に共鳴している方」だったのが、掌を返したように理事長が「しつこい」人で自分の妻は名誉校長職を押し付けられただの、一時は「安倍晋三記念小学校」だったのも「名前を勝手に使われた」とまで言い出しているが、ならば総理の名が騙られていたこと自体が国民の不利益になる以上は、とっくの昔に出入り禁止・絶縁くらいはしておかなければ筋が通らないし、それも出来なかったのでは国政を左右する大きな責任を負った政治家としての資質そのものが疑わしい。

繰り返すが、広く国民の生の声や要望を聴くのは議員の仕事だが、取り次いでいいのは正当で政治的に必要だと判断するものだけだ。それとも議員たろうものが陳情を官庁に自動的に取り次ぐ使いっ走りに成り下がっているのだろうか?

ならば公選制の政治家なんて不要だ。近い将来には政治は人工知能に任せるのがいちばんいい、ということになる。

森友学園のように学校法人の陳情を取り次ぐのなら、最低限でもその教育内容や方針に賛同するか価値を認めていなくてはならないし、賄賂を持って来られて「無礼者!」と痛罵したという鴻池参議院議員のように、相手に人格上の明らかな問題があると判断すれば「出入り禁止」にするのが筋だ。逆にそのような自立的な判断能力も持たない人間に、誰が議員としての職権を信託するというのか?

有権者を愚弄するのもほどほどにして欲しい(松井大阪府知事、あなたのことです)。

陳情を受け官庁に取り次ぐ側が側について、一部のメディアでは「金銭の授受がなければ問題がない」「陳情を受けるのは議員の通常の業務」などと言い出す者たちまでいるに至っては、現代の日本の政治には、為政者は常になによりも公平性に腐心すべきというモラルが欠如しているのだろうか?

たとえ金銭の授受がなくとも、身内だから、知り合いだからと言うだけで優遇をしてしまうだけでも政治家失格であり、政治道徳の欠如そのものだ。

だいたい、あらゆるまっとうな宗教の倫理体系は、人間は生まれながらには平等であると説いて来たはずだ。

仏教となると、人間だけに限らずあらゆる生命が、究極的には平等になる。

陳情して来た側の理念を共有したり支持するのであれば、その理念を堂々と述べてその正当性を論じないことには始まらない。議会制民主主義ならば、その行政府の政策はまず立法府の監視を経なければならないのに、そうした正論のルートではなく国有地払い下げ手続きをねじ曲げて悪用するようなやり方は、あまりに姑息過ぎる。

賄賂を拒絶したと証言した鴻池議員はそこまでの党内権力者ではないものの、「任侠」的にざっくばらんなぶん親切な人柄で人望は篤いと言われる。

賄賂を持って来たのを「無礼者」と追い返したような相手であれば、鴻池氏は党内の同僚議員にも「あんな奴とつき合ってはならん」くらいのことは忠告していると思われる。なのに鴻池事務所が断ったはずの森友学園の働きかけは、ことごとくその思い通りの結果を実現している。

ならば鴻池氏の忠告も無視されるほどの党内権力の意向が働いていないとおかしいわけで、ではそれが誰かといえばもちろん、最大の容疑者は妻が「名誉校長」をやっているほどこの学園との関係が密接な自民党の最高権力者、安倍晋三首相だ。

安倍自身が財務省や国交省に働きかけるとは、いくらこの首相が愚かだからといってさすがに考えにくいが(と思っていたら安倍自身が、妻が「名誉校長」になる二日前に、異例なことに財務省の担当の理財局長を、財務大臣を飛び越えて自ら呼び出しているらしい)、それでも森友学園側がこの安倍とそこに連なる日本会議人脈をひけらかすだけでも、財務省や国交省が特別な配慮を考えざるを得なくなるのは当たり前だ。

籠池氏の人脈に安倍夫妻が直接含まれる時点で、すでに関与は十分にしている。まして首相夫人が「名誉校長」をやることの影響力も考えられないほど愚劣な世間知らずなのか、と思えば、なんと総理夫妻の名が出ることで忖度されることなどあり得ない、実例の証拠を出せ、という呆れた答弁まで飛び出した。

いったいなにを言っているのやら。

安倍首相の「正論のつもり」が一般市民の感覚からかけ離れが絵空事でしかないことは呆れる他はないし、安倍内閣の閣僚でも若い頃に下着泥棒をやっていたのが、国会議員の息子だという「忖度」で被害者が泣き寝入りになっている事例まであっただろうに。

だが「警察が事件化していないのだから証拠はない」と言い出しそうなのが安倍総理だ。「関与があれば首相どころか国会議員も辞任する」というのも、自分の権力があれば証言が出て来たり官庁から証拠文書が発見されることはない、とたかをくくっているのではないか?

だとしたら、この総理大臣には倫理観がまったく欠如し、主体的な倫理観と規則への盲従を混同している。法制度を運用するのが責務の行政府の長としてまったく不適格だ。

森友学園をめぐる疑惑の関係者の参考人招致も「違法性があるかどうか分からない」と拒否しているのが自民党だが、その理屈を真に受けるなら、この人たちは道徳で自らを律するということが一切なく、法律の縛りさえなければどんな反社会的で非人道的なことでもやり出しそうだ。

ちなみに違法行為が見つかれば国会の国勢調査権では済まない。もう検察と裁判所の仕事だ。この人たちは国会議員のくせに、三権分立、立法府と司法の役割分担も分かっていないのか?

かくも不道徳で自らを律する意識に欠けた人たちが、「教育勅語」に書かれた徳目は正しいので、子どもに暗唱させるのは素晴らしいのだという。ここから分かることは、教育勅語にどんなに立派な徳目が書かれていようが、道徳教育の効果がほとんど認められない、ということだろう。

安倍は自分の名前を冠した名称を「知らなかった」「すぐに断った」はずが、フジTV系がすっぱ抜いた幼稚園側の内部映像では、たとえば2014年4月の段階でも園児たちが「安倍晋三記念小学校、よろしくお願いします」と園長に言わされる姿に、安倍昭恵氏が涙ぐんで喜ぶ姿が映っている。これでは夫が総理になったから昭恵氏に断わられたという森友学園側の説明にすら矛盾するはずだ。
首相は森友学園の籠池理事長とほとんど面識がないと言うが、籠池氏側は安倍首相が幼稚園を訪れていることも過去におおっぴらに言及…というか自慢しているし、昭恵氏が2014年12月に幼稚園でやった講演では、彼女がそう言っている。首相は妻や籠池氏が噓つきだというのか? 
噓をついてまで自分の名前を利用されたのなら、最低限でもとっくに絶縁・出入り禁止にしていなければおかしいし、ならば国会に呼び出し白黒をはっきりさせなければ、それこそ首相の名誉が問われる。

安倍夫人の昭恵氏によれば夫が「素晴らしい」と言っていた(首相は妻が噓つきだとでも言うのか?)教育方針の「教育勅語」の暗唱だが、その信奉者を見る限り道徳教育の効果がまったくなさそうであるだけでなく、政治的刷り込み以前の問題で、幼稚園児にやらせる、それも集団での暗唱を強要するなら、それだけでも発達心理学、児童心理学、精神医学の見地から、立派に虐待でしかない。

子どもの教育はその年齢年齢での発達段階に合わせて体系的にやらなければ無理が出て虐待になるなんてことは、西洋では18世紀には完璧に理論化されていることだ(アンリ・ルソーの『エーミール』)。

また別にそんな教育学や啓蒙思想の歴史を知らなくとも、まともな感覚さえあれば、よほどの天才児でもない限り擬古文調・擬漢文調の教育勅語を現代日本語で育っている幼児にいきなり強要するだけでも無理があると分かるだろう。

しかも塚本幼稚園では明治維新の「五個条御誓文」まで集団で暗唱させているという。 
国家という概念が意識されているとも言い難いどころか、江戸幕府があって明治維新のクーデタによる政権交替と体制変換があったという歴史理解や、150年前とか200年前という時間感覚すらまだ未発達な幼児に、文脈もなにも示さずに教え込むのもおかしい…というか無理があり過ぎる。

「神道に基づいた日本の伝統を教える」のなら、「古事記」のなかから「因幡の白兎」でも子ども向けに書き直し、集団で暗唱させたいのならこの話を基にした小学校唱歌の「大黒さま」の合唱ならまだ分かる。


大きなふくろを かたにかけ
大黒さまが 来かかると
ここにいなばの 白うさぎ
皮をむかれて あかはだか 
大黒さまは あわれがり
「きれいな水に 身を洗い
がまのほわたに くるまれ」と
よくよくおしえて やりました 
大黒さまの いうとおり
きれいな水に 身を洗い
がまのほわたに くるまれば
うさぎはもとの 白うさぎ 
大黒さまは たれだろう
おおくにぬしの みこととて
国をひらきて 世の人を
たすけなされた 神さまよ 
小学唱歌「大黒さま」作詞 石原和三郎 作曲 田村虎蔵


因幡の白兎と大国主命をめぐる物語では、意地悪な兄の神々が全身に怪我をした兎を騙して体中の傷に塩を塗り込ませ、それで激痛に泣き叫ぶ兎をやさしい大国主命が哀れんで、正しい治療法を教わった兎の傷はめでたく全快する。

このお話ならばまだ、子どもに道徳を理解させ教えることになるだろう。

ちなみに実際の「古事記」では、大国主命に救われた兎は突然カミ的な存在になり、大国主はそのお告げに従って妻を娶る、という展開になる。今では大国主命を祀る出雲大社が「縁結びの神さま」になっている由縁だ。 
まあここまでは、幼稚園児に教えることもあるまい。

この逸話のメッセージは「弱いものにやさしくしなさい」なのだろうが、しかしそれをただお題目として覚え込ませるだけなら、中身がどんなに正しいことだとしても、幼児相手には押しつけでしかない。

幼児にはその道徳がなぜ大切なことなのかの因果関係や因果応報、良い行いがどんな良い結果を産むのかをまず理解させなければ、それが「良い行いである」という説得力を持たないし、だからこそ物語の形式、童話というかたちが幼児教育では重要視されて来たのが、人類共通の普遍的な知恵ではないのか?

教育勅語に並んだ徳目は親孝行や勤勉など立派なことばかりじゃないか、と言い張るのはあまりに「教育」が理解を出来ていない時点で、そんな者たちがこと幼児教育に口を出すこと自体がすでに虐待の構図だ。

しかもその人々は、文章はまずその字面に書かれた内容を把握するという当たり前の読解能力も欠如しているし、いかに擬古文調ないし疑似漢文書き下し調の、現代人にはなじみのない文体で書かれているとはいえ、文法構造も理解できないらしい。

教育勅語のロジックは、単に列挙された徳目を、一人称の主語「朕」(つまり天皇)が守れと国民に命じているだけだ。「なぜ」そうすべきなのかの理由と来たら、まず日本が天照大神以来の長い歴史を通じて徳を樹立して来た国だったから云々と言っているに過ぎない。まずそれ自体が史実に反する上に、抽象的過ぎてそもそもなんのことか、国家どころか社会の認識すらまだまだ未成熟で抽象概念の理解も育っていない幼児には、分かるはずもない。

そもそも、教育勅語でただ列挙されただけの「十二の徳目」とやらは、ちっとも日本のオリジナルではない。


基本、儒教の引き写しで「論語」から理論・論理構成を無視してただ題目のスローガンだけを引き写し列挙した劣化ダイジェストでしかなく、十二番目に至っては「義」の解釈がおかしい。

「義」は普遍的な道徳概念、正義であって「国」を超越するものだ。むしろ国家の統治を担う側が「義」を体現しなければならない、とするのが儒教の論理なのが、教育勅語ではその逆に、「皇国イコール義」となっている。

使われている言語の点でも、教育勅語の擬漢文調の悪文を無理矢理覚え込ませるくらいなら、まだ本物の漢文で文学性や韻律の上では名文の「論語」を暗唱させた方が遥かにマシだろう(だとしても幼稚園児には無理で、どんなに英才教育でも小学生が限度、現代なら早くとも小学校高学年だろう)。

賛否や好悪はともかく、儒教がひとつの政治的思想の道徳体系として歴史的に大きな役割を果たしたことは否定しようがなく、また論理的にも破綻しないように構築されているからこそ、それが可能だった。

一方「教育勅語」はといえば、そもそも論理的な根拠に乏しく、たいした論旨展開もないにも関わらず、歴史的な儒教とその受容の伝統に反する上に、思いっきり論理的な欠陥も露呈している。

なにしろ儒教倫理を援用・列挙しながらその全体の論理構成が非儒教的というか、儒教のロジックのもっとも肝心な部分が欠落しているどころか、倒錯的に逆転しているのだ。

長幼の順や親孝行などの家庭内の私的レベルに始まって、忠義などの社会的レベルまで上下関係により人間社会の全体をヒエラルキーで理論化しているのが孔子の思想の基本だ。だからこそその権威・権力の最上位(ヒエラルキーの頂点)がどこに定義され、それが人間であるのなら、その行動がどう道徳的に規制され得るのか抜きには、儒教は政治思想としても哲学としても、成立もしなかっただろうし相手にもされなかっただろう。

上下関係を基本に社会を見た場合、そのなかでひとつの権威・権力が恒久的に上位にあるのなら、それが専横に走ることに歯止めがなくなるし、そんな権力体系のなかでは、逆に下位にあるものが上位に従う理由が恐怖か抑圧への隷属以外にはなくなってしまう。

むろん実際の政治に当てはめれば、これでは腐敗と政治体制の硬直・形骸化、ひいては独裁と没落の温床にしかならない。

孔子がそこで導入したのが「義」と「仁」を追及することの「徳」と「天命」、そして「易姓革命」の原理であり、ここにこそ儒教の本質があるとすら言える。

ただ「上にある者は偉いのだから従え」だけなら、孔子の思想は無能な独裁専制君主以外にはおよそ相手にされなかっただろうし、そんな王朝は早晩死に絶えたはずだし、実際に中華帝国の歴史では、一時は優れた政治で隆盛を極めた王朝であっても、やがて淘汰されては交替を繰り返して来た。

例えば前の王朝の臣下が忠節の義務を覆して新王朝を樹立することをどう正当化し得るのかといえば、最上位の権力・権威を皇帝が持ち得るのは自らの「徳」によって「天命」を受けるからであり、「徳」を失った瞬間にその権威は消失し、別の一族(姓)が天命を受け、「徳」を失った皇帝とその一族は新たな「天命」を受けた新王朝に淘汰されるのが「易姓革命」だ。この原理によって儒教は権力の淘汰と更新を理論化し、権力者にこそより厳しく道徳的な抑制を課すことで、辛亥革命までの数千年にわって中華帝国の統治理念として機能し続けた。

日本に儒教が伝わったのは「日本書紀」の記述によれば5世紀だ。

より後の6世紀に伝来した仏教の方は、排仏を唱えた敏達天皇が疫病で急死したことへの畏怖もあり(この辺りがいかにも日本的だ)、また尊仏派の蘇我系の皇子・厩戸王(聖徳太子)が四天王に祈願したところ物部氏との内乱に勝利したことが決定的になり、7世紀初頭にはすっかり定着していたことが明らかだ。それも当時の国家中心だった大和地方(奈良県)に残る、蘇我氏の氏寺だった飛鳥寺とその系譜を継ぐ奈良の元興寺や、聖徳太子ゆかりの法隆寺や、摂津の四天王寺だけではない。

元興寺極楽本坊金堂 外観は鎌倉時代
元興寺極楽本坊金堂 鎌倉時代の和様建築だが内陣の柱などは奈良時代
元興寺 金堂と禅堂の屋根瓦の一部は飛鳥寺のものだと言われる

全国各地でも長野の善光寺はもちろん、なんと東京の浅草寺も推古朝の時代に遡る。

そんな仏教の受容定着の早さに較べて、伝来はより遡る儒教はといえば、本格的に統治原理に導入されたのが確実だと言えるのは8世紀初頭まで待たなばならないだろう。天武天皇の命で編纂が始まった「古事記」がその妻の持統天皇の代に完成されたはずが、そのほんの数年後には「日本書紀」が新たに作られて正史となった経緯は、律令国家の完成期に儒教が本格導入されたことを示唆していると考えられる。

「日本書紀」は完全に儒教のロジックに則った歴史書であり、その編纂によって排除された「古事記」とは、世界観や善悪の概念がかなり異なっているのだ。

結果、「古事記」は永らく私的文書として省みられないか、カミ信仰の縁起としてのみ生き残った。 
今でも多くの神社の由来が「古事記」に基づいていること、つまり民俗信仰と深く結びついていることからも推測できるように、儒教的に論理化された「日本書紀」に較べて、「古事記」はより文化的な潜在意識というか、民族的な集合記憶に親和性が高い物語体系と価値観を表現しているとも言えるだろう。
それがいわば「神道」の起源であり、その論理は必ずしも儒教的なものではない。
というか儒教とはかけ離れている面こそ多々あるわけで、ヤマト王権に滅ぼされたり淘汰された出雲系の神々もいるし、その長の大国主命は儒教的な長幼の順に反して末っ子だ。後にカミとなった者も、朝廷に左遷された菅原道真を祀る天神信仰や、逆臣だった平将門が神田明神の祭神、金比羅信仰は廃位・流島に処せられ狂い死にした崇徳天皇が祭神、と言った具合だ。

だが儒教に併せて書き直された神話と古代史とみなせる「日本書紀」の、つまり律令国家の完成期のロジックでも、「易姓革命」だけは受け入れていない。

天皇の地位が「古事記」的世界観の、カミの子孫という神秘的な位置づけで維持されたままでは、その血統が「徳」を失えば淘汰されるという原理とは相容れないからだろう。

「易姓革命」がない儒教を統治理論とすることは一種のダブルスタンダードであり、また厩戸王(聖徳太子)の推古朝から律令期、奈良時代を経て平安時代の半ばまで、日本は対外的には中華帝国の朝貢国でありながら、国内的には土着の神話体系に基づく祭司王を「天皇」としたことにもダブルスタンダードが見られる。

逆に言えばだからこそ、カミを先祖とする天皇家が「徳」を失うことを許さないのが、このダブルスタンダードを破綻させないための日本の統治原理となった。

天皇が天皇だから偉いのではなく、天皇だからこそ「徳」を保ち続けなければならない。私欲ではなく民の幸福を願い臣下に耳を傾け、徹底して無私で、自らの利のための罪に手を染めるなぞもっての他となり、もし天皇が「徳」を失っても、淘汰されるのでなく自らが身を引かなければならないことにもなった。

中国の三国時代の歴史に基づく「三国志演義」は儒教的な世界観、政治観が凝縮された物語だが、とりわけ日本で人気がある劉備玄徳は、日本で受容されたその無私で仁愛にあふれたイメージがかなり「天皇的」だとも指摘できるだろうし、だからこそ三国の君主のなかでとくに人気があるとも思われる。 
実際の三国時代で最大の覇権国は曹操の魏だったし、オリジナルの中国では三国それぞれの君主の勇敢さや知略、政治力や「徳」がかなり平等に受容・評価されている。 
もちろんそれでも、諸葛孔明や関羽など、道教で神格化された臣下を持った劉備は、その意味ではやはり別格だが。

まず日本の律令制が完成したときには、中華帝国の統治制度の模倣でありながら、肝心の天皇には、権力が集中するようには必ずしもなっていなかった。

最高権力者として機能するよりは、権力の直接行使から一定の距離を置くように制度が作られていたのだ。権力闘争からある意味切り離された天皇であれば、権力闘争の主役・主導者とはなりにくいので自らの個人的野心から権力を行使しにくくなるので、その「徳」つまり道徳的な権威を維持するには、むしろ都合がいい。

現に7世紀後半の、天智天皇の没後であれば、壬申の乱でその天智帝の弟が兄の子を滅ぼして天武天皇となったように、まだ天皇家の内部で直接に殺し合っていたのが、8世紀の長屋王の変では天皇家それ自体が皇位継承をめぐって手を血で汚したわけではなく、長屋王を滅ぼしたのはあくまで臣下の立場の藤原氏だ。

つまり天皇が直接に、権力行使に伴う「悪」に手を染めることを避けることができ、天皇が自分の野心や権力欲で行動することもなければ、「無私の、有徳の権威」としての天皇の地位が守られるわけだ。

その藤原氏の娘を皇后とした聖武天皇は、即位の直後には首都を内政、外交、宗教という三つの機能に分けて三つの都を設けるといった自分なりの国家像を具現する野心もあったようだが、その計画が疫病や天災で頓挫すると、大仏造営を発願し、権力の行使よりは国とその国民の安寧を祈った天皇のイメージが強い。

東大寺大仏殿 度重なる戦火を経て江戸時代の再建

言い換えれば、「象徴天皇制」はなにも戦後憲法で出て来た新しい概念ではない。

むしろ日本という国家の原型ができあがったときにはすでに天皇は多分に象徴的な、世俗権力よりは神仏と連なる道徳権威を担う君主になっていたし、歴代天皇で「親政」を敷いたと言える例が数えるほどしかいないのを見ても分かるように、天皇は権力の行使や権力をめぐる闘争の主体とはならないことでこそ「徳」を保って来られたのだとも言えよう。

平安時代の大半で政治を主導したのは藤原摂関家だし、平安末期の社会とその経済構造の転換期にその律令的な官僚制が機能不全になると、退位した元天皇(上皇・法皇)が政治を主導したのも、絶対的な「徳」を維持しなければならない天皇位にあっては政治権力を左右することが難しかったからだったとも考えられる。

戦国時代に政治的に無力だった朝廷の 後奈良天皇宸筆の般若心経
先ごろ皇太子が誕生日会見で言及した

後醍醐天皇の建武の親政を最後に、天皇が自ら政治的野心を持つことは事実上の禁忌となり、国民になにかを命ずる存在というよりは、「徳」を保ち続けることで実態権力を握った政治的支配層の倫理的権威付けとなると同時に、その倫理的な歯止めとしても機能し、ふだんは学問や風流に専心し教養を高めることで自らの「徳」を保ち範を示す存在であり続けたのが、幕末の孝明天皇までの役割だった。

紫衣事件で徳川幕府と対立して退位した後水尾上皇の修学院離宮
普段の御座所である壽月観 洗練はされているが簡素な造り
皇位を退いた後水尾上皇は風流・趣味の世界に没入したとも言えるが
この離宮は一般庶民にもしばしば開放されていたという
修学院離宮には水田も広がり 農家が耕作に当たっている
奥に見えるのは上御茶屋・浴龍池を形成する堰 石垣は緑で覆われている
上御茶屋・浴龍池 実は山の中腹に水を堰き止めて造営された人造湖
後水尾上皇が具現化した詩歌と風流・文化の理想郷
上御茶屋の御座所 窮邃亭 風景こそが最大の贅沢とはいえ極めて簡素な造り

孝明天皇に関しては、過去に流布した俗説では尊王攘夷運動はこの天皇が西洋人嫌いだったからと言われがちだが、史実はかなり異なる。孝明帝はむしろ西洋列強の進出で幕府の権力基盤が流動化したことを憂慮し、国民のために平和が続くよう幕府や諸大名を戒め、政治の安定を求め続けたという方が正確だろう。

後水尾天皇の中宮 徳川秀忠の娘・徳川和子建立の鐘楼 京都 六地蔵

最初は以前からの決まりごとだからと鎖国政策の維持を求めた孝明天皇だが、それは非現実的だと一橋慶喜に説得されると納得し、妹の和宮を14代将軍家茂の妻とする公武合体に同意し、慶喜が15代将軍とって徳川家を中心としつつ外様の有力大名も加えた新体制の成立を模索したことにも協力を惜しまなかった。

だがその孝明天皇が急死し、少年だった明治天皇を味方につけて(「傀儡にした」という方が精確かもしれない)、その先帝の信頼が篤かった徳川慶喜の江戸幕府を倒したのが明治維新だ。

その政府が明治21年に天皇の名で出したのが「教育勅語」である。

すでに述べた通り、そこに列挙された(「皇国」の子どもが守るべきとされた)徳目は、最後のひとつを除いて儒教の引き写しだ。江戸時代でも朱子学は武家の公式学問だったので、一見歴史伝統を引き継いでいるように見えるが、基本的な一点で決定的な逆転があることに気づく。

江戸幕府が朱子学を学ぶように定めたのはあくまで武家相手、つまり支配階層に対してだ。

儒教的な論理が最初に直接日本史に登場するのは「日本書紀」に書かれた聖徳太子(厩戸王)の「十七条憲法」だが、これも官吏の服務心得であって、国民に向けて発せられた国家理念ではない(この辺りは現代では誤解が多い)。

聖徳太子の古代から(ただし「十七条憲法」は「日本書紀」の創作とみなす説もある)江戸時代の朱子学まで、儒教の倫理はまず支配階層相手のもの、統治する側が自らを律し範を示すものであって、統治者の側から一般人に課されたものでは必ずしもない。

だいたい、その道徳に従えば敬われることになる側が「これが道徳だから従え」というのでは自己撞着の手前勝手に過ぎるし、江戸時代に寺子屋で論語の素読が一般庶民レベルで普及しても、それは「聖賢の教え」だから将軍家が筆頭になって(範を示して)尊重したのであって、上位にある者が自らに従えと言いたいことの自己正当化で儒教の徳目の遵守を命じた(押し付けた)わけではない。

だが教育勅語は、こういう当たり前の論理にはまったくなっていないのだ。

まず「朕」つまり天皇自身が、2600年近く日本という国が存続したのは天皇家(つまり自分の一族)が君臨したからであり、そこで儒教引き写しの徳目を列挙した上で、国民がそれを守ることで天皇家が今後も維持され栄えることに貢献せよ、と結んでいる。

何重にも奇妙な話だ。

天皇とその一族に「徳」があるとしたら、その「徳」はその行いから自然ににじみ出るものでなければ「徳」とは言い難いはずが、逆に自分たちが栄えるために国民は道徳を守れ、と命じていることになっているのが、教育勅語の転倒した論理だ。

これでは「実るほど 頭を垂れる 稲穂かな」とも喩えられたような日本的な「徳」からはほど遠い。あまりに厚かましくて「徳」どころではなく、「あさましい」し、あまりに「はしたない」。

明治政府が公式に信じていたことにしていた通り、天皇家が2600年間(記紀の記述を単純計算で加算すると、初期の天皇が極端に長寿なのでこうなる)日本の単独王朝として維持されているとしても、それは歴史上の然るべき、複雑にからみあった理由が積み重なっているからであって、天皇がいたから日本が2600年続いたというのではまるでカルト信仰だし、ましてこれだけ続いたのだから天皇の系譜には(自動的に?)徳があると言うのでは、話がアベコベの論理倒錯だ。

今の政界でこれもひどく揉めていて、これまた自民党の特に右派にとってはおもしろくないらしい「天皇の生前退位」問題にしても、明治維新の以前には天皇は退位できるのが当たり前だった。
ほとんどの場合、その理由は「徳がなくなった」、つまり自らが天皇の位にふさわしい「有徳の君主」であり続ける自信がなくなったから位を譲ったとされている。 
だいたい謙譲の美徳も確か教育勅語に入っていたはずだが、なのに命じている天皇が「自分には生まれからして絶対的で不滅な徳がある」とふんぞり返っているのなら、なんとも謙虚さに欠けた増長慢・傲慢でしかないだろう。

そもそも徳目を尊重することで自らを高められるから道徳、モラルというのであって、上位にあるものが「これを守れ」というのはただのルール、命令で、従ったところでその本人の「徳」とはなんの関係もない。

「徳」とはあくまで自らの内から発するものだからこそ他者からの尊敬に値するわけで、命令に従うだけならその本人の人格の良し悪しにはなんの関係もなく誰でもできること、本来「徳」とは無縁の話だ。

まただからこそ、儒教は本来なら封建的社会構造においてまず統治する側に課せられた倫理規範だったわけでもある。従うだけの統治される側が「徳」を持つことは、そもそも原理的に不要だった。

江戸時代には朱子学の倫理観から不貞は「不義密通」として処罰対象だったが、これは武家および一部の格式を与えられた豪商には適用された罪だったが、一般庶民は自由恋愛を楽しんでいた。 
夫に愛想を尽かした妻から切り出した離婚の成立も、考えようによっては現代よりも通り易かったとさえ言える。

近代の意識変革で、明治政府が個々の国民が「徳」を高めれば結果として社会全体がうまく行くはずだと考え、それを国民に提案したのならまだ分かる。

だが教育勅語では十二番目の徳目つまりは最重要の結論の位置づけで、天皇の国家をなぜか「義」として論理を歪め、そのためにいざというときは死ぬことを「徳」とみなしている。天皇が自分とその一族のために死ねというだけでもおよそ「有徳の君」とは言い難い厚かましさであり、「義」の概念を自分の一族が繁栄することと掏り替えているのは公私混同も甚だしい。「有徳の者」となることを命じられた国民の側にしても(そもそも命令するものではない)、普遍的な社会的正義(「義」)ではなく天皇自身の私的な一族のために、それも死んでしまうのでは、なんのインセンティヴもなければ本来の「義」つまり社会正義にも貢献できないわけで、ますます持ってえらく厚かましい公私混同、天皇家による国民の私物化でしかなく、「徳」のかけらもない。

歴史的な天皇制の(それ自体人間的には不可能に近い)原理は、天皇が完全に「私」を棄てて「公」の存在になることを要求するものだったと言えるが、明治の新体制のなかで教育勅語はこれを逆転させて、国とその民の「公」を天皇とその一族の「私」にスリ替える公私混同に基づいている。これでは、それが国民に道徳的な範を垂れる天皇の言うことか、という話にしかなるまい(もちろん一人称が「朕」つまり天皇であるのは、単に天皇がそう「言わされている」だけだろうが)。

まっとうな信仰や宗教といわゆるカルトをどう見分けるのかにはいろいろな価値基準があり得るが、まず不合理があからさまで論理的に破綻しているもの、そして教組なりなんなりの教団トップが自らを神と同一視して、その身勝手を神格化によって野放しが許されてしまう、崇拝される側の人間に一方的に都合が良いものを、危険なカルトとみなすことには、まず異論はないだろう。

だとしたら「朕」つまり天皇の一人称で国民に命じる形で書かれた教育勅語のロジックは、カルトそのものだ。

だいたい「自分のために死ね」というのを道徳として言って来る側こそえらく不道徳ではないか、としかならないわけだが、それ以外の(儒教模倣の)11の徳目にしても、個々に文句をつけるほどのものでもない一方で、およそ絶対的なものでもないのも分かり切ったことだ。

親孝行が道徳だからと言ってDV虐待親だったり反社会的な犯罪者だったりしたら「親に従え」もその限りではないし、夫婦和合でもそれが夫唱婦随を前提とするなら、夫の側が自制心(つまりは徳)を持っていて始めて成立するものだろうし、どちらも逆にうまく行っている家庭ではわざわざ言うほどのことでもない。

だいたい、いくら親孝行が道徳と言ったところで、親が子、特に父親が子らに親孝行を直接に要求するのは控えめに言ってもあまりに手前勝手ということになろうし、一方では子が親を、とりわけ男子が父親をなんらかの形で超えることは、少なくとも父権優位の社会では成長の過程で避けられないと同時に、それがなければ社会の進歩もない。

儒教の孔子のロジックに立ち返れば、孝養の義務は子にある一方で、より大きな社会的な大義や天命があれば、横暴な父が子に排除されることもあり得るはずだ。

ちなみに今では戦国武将といえば織田信長や豊臣秀吉が圧倒的な人気を持っているが、かつてもっとも尊敬され崇拝された戦国大名は軍神・武田信玄だ。 
その武田晴信(信玄は出家後の名)は父・信虎をクーデタで排除した「親不孝もの」でもある。さらにちなみに言えば、信虎が亡くなったのは信玄の死の翌年だ。 
親より先に死ぬのも、まあ親不孝そのものだろう。

教育勅語に列挙された徳目それ自体にしても、「日本人として当然」でもなければ、決してそんな絶対的なものでも、反論の余地がないものでもないのだ。

道徳的な項目というのは自ずから限界があるか、普遍的な倫理規範であってもそれを解釈する個々の人間の側の限界の壁が常に立ちはだかる。だから儒教ですら「易姓革命」のロジックを組み込んで道徳の絶対的な金科玉条化は避けているし、それでもおよそ普遍性のある思想とは言い難いのが率直なところだ。

たとえば仏教のようなより普遍的な思想体系は、より成熟した哲学体系にこそ裏打ちされている。歴史的に生き残っている思想や宗教の体系は、基本論理や基本的な倫理は絶対的かつ普遍的であるとしても、現実への援用は常に相対的で解釈の幅を持つと同時に、その人間による解釈はどれひとつ絶対的にならないように出来上がっているのだ。

ではそういったさじ加減(釈迦によれば中庸の道、中道)を見極める知恵はどこから得られるのかと言えば、その規範こそが倫理道徳の本質であり、近代科学以前には哲学と宗教が担って来た領域だ。だからこそ倫理・道徳的なメッセージは古代の神話以来、常に物語や説話にこそ託されて来たのでもあって、倫理道徳を説く説話構造の物語というのは、なにも子ども相手に限ったことでもない。

本当に子ども達に道徳を教え込みたい、現代の教育には道徳観が欠如していると危機感を抱くのなら、幼児には幼児に分かるレベルの物語(それこそ「因幡の白兎」だっていい)を教えた方がいいし、もっと言えば自分達が教わった道徳が現実の世界で有用であることを大人が範を示すことで理解させなければ、どんなに立派な「道徳ルール」を連ねようが、子どもだましにしかならない…というよりも、子どもこそ騙されないだろう。

いやこの森友学園をめぐるスキャンダルを見ていると、教育勅語だの五個条御誓文だの、あるいは「十七条憲法」よりも遥かに簡単に子どもが覚えられる日本的なモラルがあったことを思い出さずにはいられない。

「噓つきは泥棒のはじまり」

この極めて単純な道徳が、日本では危機に瀕しているどころか、完全に崩壊してしまっている。