7/28/2010
子どもの虐待事件
ここのところ毎日のように、虐待死事件の報道を聞いている気がする。
先週末には昨年、大阪市西淀川区で9歳の娘をベランダに閉め出してまな板で殴る等の虐待を続けて死なせた男女の公判が報じられ、日曜には横浜市港北区で一歳の娘を木箱に閉じ込めて窒息死させた事件、今日は大阪府寝屋川市で、父親が中学生の息子にライターのオイルをかけて火をつけたという事件だ。
2009年度の全国の児童相談所に寄せられた虐待の通報や相談は4万4千210件、地域別には神奈川県が最も多く5676件、次いで大阪府の5436件だそうだ。市町村では大阪市1606件、京都市611件、神戸市381件。
児童相談所の立ち入りによる検査がわずか1件だと言うからにはたぶん氷山の一角に過ぎないのだろうし、だから地域別のデータでとやかく言うべきことでもないのだが、しかし人口が多いにも関わらず神奈川はともかく東京は少なく、人口比からすると関西の都市部が多い。
とくに虐待死など、報道されるような重大事件が、大阪府に多いのは、なんとなく分からないことでもない気がする。
大阪が残酷な町だからとか、そういう意味ではないので誤解のないように。むしろ逆だ。
家族というものの比重が個人の人生/生活のなかでより大きい、家族関係がより濃密で、親から引き継いだりしたものの意識がより大きい文化的風土があるから、そこでの関係の矛盾が暴発点に達する可能性もまた、大きくなってしまうのではないか?
逆にたとえば東京であれば、一人暮らし世帯が多いし、家族のなかでの暴力の暴発が起こる前に、離婚だとかでその関係を解消してしまえるオプションも、比較的選ぶことに躊躇が少ないこともある。
その意味で、関西の方が関東よりやさしい。
しかしその一方で、関西だとDV被害の話を、非常によく聞いたりもするのである。
もっともそれを言うなら、だいたい東京の人間は、家族の話をあまりしない。親がかわいい子どもの話を自慢げに語るのは多いが、子が親のこととか、ほとんど話さない。
関西では子供がけっこう親のことをいう。20代にもなる男の子が母親を他人に「かあさん」とか「おかん」とか平気で言う。普通は「母」か「おふくろ」だろうと思うんだが…
自由ということも、愛情も、複雑で矛盾に満ちたものだ。たぶん今の世界でいちばん問題なのは、そうした複雑さから目を背けて、すぐに善悪のレッテル貼りを即断して、表面的な解決ばかりを指向してしまうことなのだろう。
7/24/2010
『ひきこもり』70万人、予備軍155万人
藤原敏史『ほんの少しだけでも愛を』(2010)
今朝の新聞で内閣府の調査の “衝撃の” 結果が報じられている。
実を言えばそんなに「衝撃」だとは思わないし、とくに「予備軍」については定義にもよるが、もっと多いだろうと思っている。
むしろ驚くのは、いったい何年前から引きこもりが問題になっているのかを考えたとき、なんとこれが初の全国規模の統計的/網羅的調査だったということだ。
全国規模と言っても設問項目も大雑把だし、サンプル数も少な過ぎるし、大げさに発表して大きく報道させている割には、真剣さが見えない。
調査結果のなかで衝撃なのはむしろ、30代がいちばん多いということ。バブル後のロストジェネレーション、就職氷河期世代だ。
しかも引きこもりになったきっかけでいちばん多いのが、職場の人間関係の失敗、病気、それに就職難だという。
もちろん本人達の耐性の弱さの問題だってあるのは確かだろうが、こうなると個々人や家庭にのみ責任を押し付けるのは間違いだという論評だって、少しは出て来てもおかしくない。
ここでまたもや明らかになってしまったのは戦後日本社会の世代的構造の弱点であり、まずバブルを膨れあがらせて崩壊させた責任がある世代、さらにはその当時の企業文化、とくにその時代に採用担当だったり直接の上司だった世代の責任も、考えなければなるまい。
どういいわけしようが、後続世代を育てる責任や、時代に合わせて社会を変えて行く責任を負っていたはずの先行世代が、その責任を放棄して失敗したことは、間違いないのだから。
精神分析的に言えば、引きこもり、社会との関連を遮断するということは、消極的な自殺の代償行為とみなすことができる。
しかもこの調査で出て来たデータで見る限り、「引きこもり」の動機は、これも大きな社会問題である自殺の動機とも、過労死の理由とも、非常に似通っていることにも、気付くべきだ。
どうも自殺率の高さと同様に、「引きこもり」もまた、本人たちやその家族だけのせいにして他人事を決め込むわけにはいかない問題のようだ。
藤原敏史『ほんの少しだけでも愛を』(2010)
やはりこの社会全体が病んでいることを、我々はもっと本気で考えなければいけない。我々自身が病んでいるのだということも含めて。
「引きこもり」だから「弱い」、「親が甘やかす」だけで済むことではないし、「親が甘やかさなければいい」のなら、今度は本気で「自殺」という選択肢しか、当事者には残らなくなる(「親が甘やかす」と言っている人たちには、そこが分かってない。分かった上であえて言っているのならまだいいのだが)。
しかも引きこもっている本人達の側の問題にしても、バブル後のロストジェネレーション世代とは、子どもの頃にはいじめ自殺に不登校が社会問題になった世代である、そして社会に出てからの社会不適合。
同じある特定世代の子どもたち以降に集中しているのだとすると(内閣府の調査は15歳から39歳までなのでそれより上のことは分からないが、統計的に自殺がとくに多いことは分かっている)、その世代が子ども時代に敬虔した子育てや学校教育におけるとかの価値観にも、問題があった可能性を考察するのが、合理的な論証というものだ。
つまり、いじめ自殺に深刻な不登校、長じては引きこもり…世代論で言えば団塊ジュニア、ということでもある。
だが最も我々がまず深刻に考えなければいけないことは恐らく、「ひきこもり」が社会問題化してもう10数年、そろそろ20年になるのに、もう30年も日本の教育現場における最大の問題であり続けている「いじめ」同様、この社会がその問題に対してなにもしていないということだ。
今さら手遅れ、なのかも知れない。
たとえば「いじめ」については、今やその問題で加害者であり、あるいは被害者だった子が、それを解決されない問題として引きずったままに大人になって、親になって、その子が今では問題の渦中で加害者になり、あるいは被害者になっている。
日本社会は自分たちの問題を自分たちのこととして考え、解決する能力を失ってしまっている。機能しないことが分かってることですら、自分たちの価値観を問い直すのが怖いというただのそのことのためだけに、必死で保守するしかない社会。
藤原敏史『ほんの少しだけでも愛を』(2010)
いや問題を自分たちのものとして認識することが、そもそも出来ていない。
「すべてが人のせい」の前提では、現実に問題が表出している少数者の側の問題としてのみ考えるのが、いちばん安易だからだ。
「ひきこもり」であれば社会不適合なのは「ひきこもる」側の方だと思えば、多数派は楽になる。彼らの方からこそ今の社会を、自分の生存の場としては「不適合」だと実は認識しいるのだということは、絶対に考えようとしない。
それに気付いた瞬間に、多数派の側は自分たちの方にこそ問題があること、だから問題解決に努力する責任があることを認識しなければならなくなるからだろう。
新入社員が会社に来れなくなってしまうのは、新入社員の問題だとしておいた方が会社は楽だ。実は自分たちの組織が排他的で合理性に欠け、上司である自分たちが理不尽な理由で若い部下を怒ったり排除したりしてしまう傾向があるのかも知れないことだって、考えるべきかも知れないのに。
しかしそれは、絶対に出来ないのが今の日本社会の「大人たち」なのだ。
実はこれ、すでに心理構造として、完全に内向きの、自分たちの内輪しか見られず、その外の世界が認識できない、まさに「引きこもり」のそれなのである。
引きこもりどうしの強固なコミュニティが形成されているところに、その価値観を共有しない人間が自分の居場所を作り出すのは、なかなか難しい。
一皮むけば、マジョリティがマイノリティを排除することに懸命になって、社会の多様性をぶっ壊している構造なのかも知れない。
今朝の新聞で内閣府の調査の “衝撃の” 結果が報じられている。
実を言えばそんなに「衝撃」だとは思わないし、とくに「予備軍」については定義にもよるが、もっと多いだろうと思っている。
むしろ驚くのは、いったい何年前から引きこもりが問題になっているのかを考えたとき、なんとこれが初の全国規模の統計的/網羅的調査だったということだ。
全国規模と言っても設問項目も大雑把だし、サンプル数も少な過ぎるし、大げさに発表して大きく報道させている割には、真剣さが見えない。
調査結果のなかで衝撃なのはむしろ、30代がいちばん多いということ。バブル後のロストジェネレーション、就職氷河期世代だ。
しかも引きこもりになったきっかけでいちばん多いのが、職場の人間関係の失敗、病気、それに就職難だという。
もちろん本人達の耐性の弱さの問題だってあるのは確かだろうが、こうなると個々人や家庭にのみ責任を押し付けるのは間違いだという論評だって、少しは出て来てもおかしくない。
ここでまたもや明らかになってしまったのは戦後日本社会の世代的構造の弱点であり、まずバブルを膨れあがらせて崩壊させた責任がある世代、さらにはその当時の企業文化、とくにその時代に採用担当だったり直接の上司だった世代の責任も、考えなければなるまい。
どういいわけしようが、後続世代を育てる責任や、時代に合わせて社会を変えて行く責任を負っていたはずの先行世代が、その責任を放棄して失敗したことは、間違いないのだから。
…と言ったところで、また溜息が出てしまうのは、このブログの過去ログをご覧の方にはお分かりだろう。
また、あいつらかよ…。
そうなんです、団塊の世代よ反省しろ、って話にどうしてもなってしまうんです。
データがそれを示しているんだからしょうがない。
病気で外に出られないのは別にして、なにしろ職場の人間関係(第一位)と就職難(第三位)とがきっかけで、社会参加ができない人間がこれだけの人数になれば、個々のひきこもりを抱える家庭だけに問題とその解決を押し付けるのには、無理があり過ぎる。
でも団塊の世代に反省させるなんてことは、引きこもりの人に社会復帰をさせることよりも、はるかに難しいんだよな。
精神分析的に言えば、引きこもり、社会との関連を遮断するということは、消極的な自殺の代償行為とみなすことができる。
しかもこの調査で出て来たデータで見る限り、「引きこもり」の動機は、これも大きな社会問題である自殺の動機とも、過労死の理由とも、非常に似通っていることにも、気付くべきだ。
どうも自殺率の高さと同様に、「引きこもり」もまた、本人たちやその家族だけのせいにして他人事を決め込むわけにはいかない問題のようだ。
藤原敏史『ほんの少しだけでも愛を』(2010)
やはりこの社会全体が病んでいることを、我々はもっと本気で考えなければいけない。我々自身が病んでいるのだということも含めて。
「引きこもり」だから「弱い」、「親が甘やかす」だけで済むことではないし、「親が甘やかさなければいい」のなら、今度は本気で「自殺」という選択肢しか、当事者には残らなくなる(「親が甘やかす」と言っている人たちには、そこが分かってない。分かった上であえて言っているのならまだいいのだが)。
しかも引きこもっている本人達の側の問題にしても、バブル後のロストジェネレーション世代とは、子どもの頃にはいじめ自殺に不登校が社会問題になった世代である、そして社会に出てからの社会不適合。
同じある特定世代の子どもたち以降に集中しているのだとすると(内閣府の調査は15歳から39歳までなのでそれより上のことは分からないが、統計的に自殺がとくに多いことは分かっている)、その世代が子ども時代に敬虔した子育てや学校教育におけるとかの価値観にも、問題があった可能性を考察するのが、合理的な論証というものだ。
つまり、いじめ自殺に深刻な不登校、長じては引きこもり…世代論で言えば団塊ジュニア、ということでもある。
今度は団塊の子育ての失敗かよ…。
だが最も我々がまず深刻に考えなければいけないことは恐らく、「ひきこもり」が社会問題化してもう10数年、そろそろ20年になるのに、もう30年も日本の教育現場における最大の問題であり続けている「いじめ」同様、この社会がその問題に対してなにもしていないということだ。
今さら手遅れ、なのかも知れない。
たとえば「いじめ」については、今やその問題で加害者であり、あるいは被害者だった子が、それを解決されない問題として引きずったままに大人になって、親になって、その子が今では問題の渦中で加害者になり、あるいは被害者になっている。
日本社会は自分たちの問題を自分たちのこととして考え、解決する能力を失ってしまっている。機能しないことが分かってることですら、自分たちの価値観を問い直すのが怖いというただのそのことのためだけに、必死で保守するしかない社会。
藤原敏史『ほんの少しだけでも愛を』(2010)
いや問題を自分たちのものとして認識することが、そもそも出来ていない。
「すべてが人のせい」の前提では、現実に問題が表出している少数者の側の問題としてのみ考えるのが、いちばん安易だからだ。
「ひきこもり」であれば社会不適合なのは「ひきこもる」側の方だと思えば、多数派は楽になる。彼らの方からこそ今の社会を、自分の生存の場としては「不適合」だと実は認識しいるのだということは、絶対に考えようとしない。
それに気付いた瞬間に、多数派の側は自分たちの方にこそ問題があること、だから問題解決に努力する責任があることを認識しなければならなくなるからだろう。
新入社員が会社に来れなくなってしまうのは、新入社員の問題だとしておいた方が会社は楽だ。実は自分たちの組織が排他的で合理性に欠け、上司である自分たちが理不尽な理由で若い部下を怒ったり排除したりしてしまう傾向があるのかも知れないことだって、考えるべきかも知れないのに。
しかしそれは、絶対に出来ないのが今の日本社会の「大人たち」なのだ。
実はこれ、すでに心理構造として、完全に内向きの、自分たちの内輪しか見られず、その外の世界が認識できない、まさに「引きこもり」のそれなのである。
引きこもりどうしの強固なコミュニティが形成されているところに、その価値観を共有しない人間が自分の居場所を作り出すのは、なかなか難しい。
一皮むけば、マジョリティがマイノリティを排除することに懸命になって、社会の多様性をぶっ壊している構造なのかも知れない。
7/23/2010
7/22/2010
2010年7月22日
昭和45年7月23日が、自分の生年月日である。
今日が最後の一日となるわけだが、この39歳の一年間というのは、我ながら最悪の一年だった気がする。
10年前20年前には、40の一歩手前には(経済面のことは、わざわざ商業性を排除する映画作りをしてるんだから自業自得だが)もっと明るい将来を期待してた気がする。
先日、たまたま深大寺に行って気づいたのだが、昭和45年生まれは今年は前厄なのだそうだ。
別にそういうことを信じるつもりもないし、だいたい前厄に該当するのは数え年41歳つまり今年の正月以降のはずなのが、前厄に入る前から昨年11月には風邪をこじらして慢性の炎症が肺の隅に残ったままになっているし。
今年に入れば1月には足首を骨折の一歩手前。3月には帯状疱疹が、しかも連休中の発症だったせいで医者に行くのが手遅れの一歩寸前。その前には躁鬱病の症状は出るし、一昨日は手首に激痛が出て昨日医者に診てもらったら、打ち身の記憶などないのに手首の骨が一部欠けているようで、とたんに身体にガタが来ているのかも知れない。
いずれにしろ、もう若くはない、ということのようだ。
というより、この一年ちょっとは編集中の即興フィクション新作『ほんの少しだけでも愛を』に明け暮れたわけで、あまりに疲労が溜まって精神的な負担も大き過ぎ、ガタが来たということなんだろうか?
藤原敏史『ほんの少しだけでも愛を』(2010)
思い出すにちょうど一年ほど前に、「これはいつまで経っても完成なんかできないからやめよう」と考えていた。なぜその時に、とっとと諦めておかなかったのだろう?
「内輪ばかり見てその上下関係にしか興味が持てないのなら、こういうことは無理だよ」と一年前に言っていた。
20人近いキャストでは監督が全員に完全な目配りはできない。こちらは休止期間には東京にいるので、監督ヌキでも友達、仲間としての意識を持ってもらわないと出来ないし、そういう人間関係になった方が、かえって映画もうまく行くはずだ。
だいたい、20人全員が主役になれるはずがない。だから大変な競争にもなるはずだし。
競争とは言っても、あくまで友愛と信頼に満ちたそれだ。即興の個々のシーンは、相手役との共同作業なしには成立しないのだから。
そうやっておもしろい役といいシーンを創り出せれば主役級になるし、つまらなければ脇役か、消えるしかない。
「こういうことは主体性がなければ、自分にやりたいことがなければ出来ないから、それが見つからないならいつでもやめていいよ。そうでなくても向き不向きはあるんだし」と最初から言い続けていたはずなのだが。
「関西圏には、アプリオリの上限関係がなくてはなにも始まらない文化が、あるのだろうか?」とすら思ったこともあった。いや大阪に限らず、日本全体にそういう横並び的な傾向はあるのだから、地域的特性とは言い切れない。
上位の権威者に好かれてるか嫌われてるか、お互いの間でどっちが上位かみたいなことにはやたら気を使うときに、発言はそうしたゲームのためのジェスチャーに過ぎず、言葉そのものの意味は、ほとんど認識されないのか?
いずれにせよそんな心理的な前提に囚われていては、平等ということ、その平等なスタートラインだからこそ個性の差、個人の能力差で勝負することを、理解するのは限りなく難しいことになるのだろう。
逆に言えば、個性や個人の能力では勝負したくない(負けたら自分のダメさが突きつけられるのが怖い?)から、そこに依存出来る上下関係が欲しいのだろうとも、言うこともできる。
そんな心理的な条件付けのもとでは、作っている映画という目標ではなく、内輪のヒエラルキー体制を維持継続し、その頂点に「監督」を想定してその上下関係のなかに自分を位置づけることに、最大のエネルギーを費やしてしまうことになる。
それは今の日本社会の現状の見事な縮図でもある。目的を見失い、目的のための手段に過ぎないはずのものが、自己目的化する。たとえば硬直した官僚機構の組織防衛などは、まさにその状態にある。
「もう少しねばってもいいんじゃないですか」「自分ももっと頑張るから映画を作ろうよ」と説得され、というか期待を抱いて続けるわけだが、そこから先が地獄になる。
そう言っている本人たちですら、もしかしたらいちばん重要なのは「続ける」という状態、つまりはその集団が保守されることに安心できるためだけのジェスチャーであって、言葉自体に意味を考えてはいけなかったのかも知れない。
「そんなに簡単に諦めるのもどうかと思いますよ」的なことを言って説得してくれたはずの人間も、「自分は他の連中と違ってちゃんと分かってるから」といわんばかりの顔をすることこそが、目的だったのかも。他のキャストが先に壁にぶち当たっているのを批判的に語っていたりしたのも上下関係、ヒエラルキー構造、つまり「自分の方が上」の状態を作るためのジェスチャーであって、言葉自体の意味は考えてはいけなかったのかも知れない。
まして「他人を批判するからには同じ過ちを自分がやってしまうわけにはいかない」という不文律なんて、想定して考えてはいけないのだろう。
だからなのか、自分が壁にぶつかったとたん、批判した相手以上にものの見事に、文字通り「切れて」しまう。
そうは言っても、一般論的な傾向がすべての人間に必ずあてはまるわけではないし、今年の5月までかかって、映画がそれなりの結論に到達できただけでも、この一年はそんなに「最低」ではなかったと、むしろものすごく幸運だったと、思うべきなのかもしれない。
後半から編集を始めて(というより、ラストになるものが撮れるまでは撮り続け、編集はまず終わりから始めるのが僕のやり方)、その後半部分はもう棒つなぎ的なものができているのだが、それだけ見れば確かに、これはいい映画になると思える。
問題は前半だ。
映画の前半なんだから人物を手際よく紹介して、ストーリーの流れに観客を招き入れなければいけないのが、思っていた以上にいいシーンがないし、うまくつながらない。
いったいこの一年はなんだったんだろう? 編集が進行中のコンピューターのディスプレイを見ながら、どうしてもそう思ってしまう30代最後の一日なのだった。
そんな個人的な苦悶と並行して、一年前には、政権交代に向けた総選挙が秒読み段階だった。今ではまるで大昔のようにも、思えるのだが。
9月には、鳩山「友愛」政権、あるいは小沢一郎が「これは革命なんです」と言っていた新しい政治の流れが、始まったはずだった。
10月に『フェンス』を山形で上映したとき、舞台挨拶で撮影の大津幸四郎が、「この映画は新しく出来た鳩山政権にプレゼントしたい」と言った。
日米関係の見直し−−『フェンス』で映し出した安保条約体制の根源的な不条理が、いろいろな困難は予想していても、それでも変えよう,変えられる、変えなければ行けないという期待は、確かにあったはずだ。
いくらなんでも、5月になって鳩山が「やはり抑止力というものが」と言い出して、普天間問題は自民党案に限りなく近いものに収まるとは、まさか思っていなかったはずだ。
鳩山の辞任から菅直人への政権移行、そのあいだに岡田、前原、北澤などの閣僚たちの変遷で証明されたのは、与党がどの政党だろうが、官僚の作ったレールに乗らない限り、この国では政権を維持することなど出来ないということ。そして国民もたぶん、官僚の悪口で鬱憤を晴らすことには惹かれているとしても、本質的な改革や変化は、求めていないのではないか?
よく考えれば、もう20年くらいのあいだ、「改革」は日本の最大の政治的テーマとして掲げられ続けていたのだ。それが看板倒れでなく本気だったのなら、とっくに変わっているはずだ。
しかし国民が菅直人を「現実主義」と評価するのだとしたら、つまりは官僚が出してくるデータに示された「現実」しか、国民もまた認めようとはしていないのではないか?
これを書いていて気づくのは、今日のエントリーの前半の私的な映画作りの話と、後半の日本の総体の政治の話が、まったくパラレルであるということだ。
横並びの集団のなかのヒエラルキーに自分を位置づけることで、自分自身の意思でなにかをやることなんて考えないでいい状態、その逃げ道ばかりを探し続け、なんでも人のせいにしてしまうこと、責任は決してとらないことに、我々日本人は慣れきってしまっている。
これまでの人生で最悪かも知れない一年にも、そうした現代ニッポンの Status Quo が鮮明に見えて来たという意味だけは、見いだせるのかも知れない。
裏切られて幻滅したのだって、化けの皮が剥がれて現実が見えただけでも、良かったと思うことはできるのかな?
かなり難しいかな? やはり自分も、ただの弱い人間だからね。
どんなにやせ我慢しようが、精神的なダメージは大きいですよ。
今日が最後の一日となるわけだが、この39歳の一年間というのは、我ながら最悪の一年だった気がする。
10年前20年前には、40の一歩手前には(経済面のことは、わざわざ商業性を排除する映画作りをしてるんだから自業自得だが)もっと明るい将来を期待してた気がする。
先日、たまたま深大寺に行って気づいたのだが、昭和45年生まれは今年は前厄なのだそうだ。
別にそういうことを信じるつもりもないし、だいたい前厄に該当するのは数え年41歳つまり今年の正月以降のはずなのが、前厄に入る前から昨年11月には風邪をこじらして慢性の炎症が肺の隅に残ったままになっているし。
今年に入れば1月には足首を骨折の一歩手前。3月には帯状疱疹が、しかも連休中の発症だったせいで医者に行くのが手遅れの一歩寸前。その前には躁鬱病の症状は出るし、一昨日は手首に激痛が出て昨日医者に診てもらったら、打ち身の記憶などないのに手首の骨が一部欠けているようで、とたんに身体にガタが来ているのかも知れない。
いずれにしろ、もう若くはない、ということのようだ。
というより、この一年ちょっとは編集中の即興フィクション新作『ほんの少しだけでも愛を』に明け暮れたわけで、あまりに疲労が溜まって精神的な負担も大き過ぎ、ガタが来たということなんだろうか?
藤原敏史『ほんの少しだけでも愛を』(2010)
思い出すにちょうど一年ほど前に、「これはいつまで経っても完成なんかできないからやめよう」と考えていた。なぜその時に、とっとと諦めておかなかったのだろう?
「内輪ばかり見てその上下関係にしか興味が持てないのなら、こういうことは無理だよ」と一年前に言っていた。
20人近いキャストでは監督が全員に完全な目配りはできない。こちらは休止期間には東京にいるので、監督ヌキでも友達、仲間としての意識を持ってもらわないと出来ないし、そういう人間関係になった方が、かえって映画もうまく行くはずだ。
だいたい、20人全員が主役になれるはずがない。だから大変な競争にもなるはずだし。
競争とは言っても、あくまで友愛と信頼に満ちたそれだ。即興の個々のシーンは、相手役との共同作業なしには成立しないのだから。
そうやっておもしろい役といいシーンを創り出せれば主役級になるし、つまらなければ脇役か、消えるしかない。
「こういうことは主体性がなければ、自分にやりたいことがなければ出来ないから、それが見つからないならいつでもやめていいよ。そうでなくても向き不向きはあるんだし」と最初から言い続けていたはずなのだが。
「関西圏には、アプリオリの上限関係がなくてはなにも始まらない文化が、あるのだろうか?」とすら思ったこともあった。いや大阪に限らず、日本全体にそういう横並び的な傾向はあるのだから、地域的特性とは言い切れない。
上位の権威者に好かれてるか嫌われてるか、お互いの間でどっちが上位かみたいなことにはやたら気を使うときに、発言はそうしたゲームのためのジェスチャーに過ぎず、言葉そのものの意味は、ほとんど認識されないのか?
いずれにせよそんな心理的な前提に囚われていては、平等ということ、その平等なスタートラインだからこそ個性の差、個人の能力差で勝負することを、理解するのは限りなく難しいことになるのだろう。
逆に言えば、個性や個人の能力では勝負したくない(負けたら自分のダメさが突きつけられるのが怖い?)から、そこに依存出来る上下関係が欲しいのだろうとも、言うこともできる。
そんな心理的な条件付けのもとでは、作っている映画という目標ではなく、内輪のヒエラルキー体制を維持継続し、その頂点に「監督」を想定してその上下関係のなかに自分を位置づけることに、最大のエネルギーを費やしてしまうことになる。
それは今の日本社会の現状の見事な縮図でもある。目的を見失い、目的のための手段に過ぎないはずのものが、自己目的化する。たとえば硬直した官僚機構の組織防衛などは、まさにその状態にある。
大阪が商業の町だというのは、現代では大嘘だし、日本人がエコノミック・アニマル」だったのも、もはやはるかに遠い過去のことなのだろう。
だいたい、20年前から経済成長はほとんど止まっているのだし。
経済性のリアリティの合理性にもほとんど関心が向かず、かといって信念やプライドがあるわけでもない。大事なのは一銭の得にも、人間的な成長にも無縁で、社会的にはほとんど意味を持たないような、内輪のあいだでの「見栄」だけ。
経営者のアイデンティティは経営能力やリーダーシップ、決断力ではない。ただ子分がいるかいないかだけ。だから親分の威光を発揮しながらも、「子分」を手離さないためには、結局は甘やかすしかない。
そんな大人が社会の主流を握っていれば、次を担う若者もまた内輪しか見えず、この世界が実は広くて多様で美しいことも、自分が本当は持っているであろう可能性も、見抜く力を育てられないようになる。
目を開かせ,解放の方向を指し示そうにも、認識する回路が、もはや最初からないのかも知れない。なにしろそういうロールモデルとしての大人がいないし、そういう見栄にばかりこだわる人の子分にならなければ生き延びられないのだから。
こういう60〜70年代的な発想がベースにある集団即興は、その日本の現代とは完全に矛盾する。
どれだけ自分の個性・持ち味を出せるかの競争こそが勝負なのに、ヒエラルキーの秩序が優先し、自分の意見すらなかなか出すのが遠慮されるのだから。
自分から先に行くことができないからなのか、お互いの足を引っ張ることにばかり興味が向くことになってしまう。
むしろ足をひっぱられないためには、先に行かないように注意しなければならない。
上下関係のなかの立ち位置に自分を当てはめようとしていれば、「なんだかんだ言っても同じ人間」としての関係は、なくなってしまうし、お互いのこともちゃんと見られなくなる。よく見て深く考える必要のないロール、“キャラ”が認識されれば済むのだし、それ以上は認識されないのだから。
これでは集団即興で芝居が成立し、ストーリーが発展するというのは、理屈からしてそもそもあり得ない。あるのはいつまで経っても発展も進歩もない「キャラ」の繰り返しだけ。
「もう少しねばってもいいんじゃないですか」「自分ももっと頑張るから映画を作ろうよ」と説得され、というか期待を抱いて続けるわけだが、そこから先が地獄になる。
そう言っている本人たちですら、もしかしたらいちばん重要なのは「続ける」という状態、つまりはその集団が保守されることに安心できるためだけのジェスチャーであって、言葉自体に意味を考えてはいけなかったのかも知れない。
「そんなに簡単に諦めるのもどうかと思いますよ」的なことを言って説得してくれたはずの人間も、「自分は他の連中と違ってちゃんと分かってるから」といわんばかりの顔をすることこそが、目的だったのかも。他のキャストが先に壁にぶち当たっているのを批判的に語っていたりしたのも上下関係、ヒエラルキー構造、つまり「自分の方が上」の状態を作るためのジェスチャーであって、言葉自体の意味は考えてはいけなかったのかも知れない。
まして「他人を批判するからには同じ過ちを自分がやってしまうわけにはいかない」という不文律なんて、想定して考えてはいけないのだろう。
だからなのか、自分が壁にぶつかったとたん、批判した相手以上にものの見事に、文字通り「切れて」しまう。
いわゆる「キレる若者」という意味ではない。精神の糸が文字通り、プッツリ切れて、いわばフリーズ状態になり、そして人間関係も文字通り「切って」しまうというような。
そうなると「やりたいこと」と言っていたのが口先だけだったと平然と暴露するかのように、「お手伝いしようと思ってたのだけど」「力になりたかったのに」と言う話になり、挙げ句に「誘導された」「言われた通りにやってたのに」という理屈になる。
自分の意思というものを、持つことがあらかじめ禁じられているような世界。
そうは言っても、一般論的な傾向がすべての人間に必ずあてはまるわけではないし、今年の5月までかかって、映画がそれなりの結論に到達できただけでも、この一年はそんなに「最低」ではなかったと、むしろものすごく幸運だったと、思うべきなのかもしれない。
後半から編集を始めて(というより、ラストになるものが撮れるまでは撮り続け、編集はまず終わりから始めるのが僕のやり方)、その後半部分はもう棒つなぎ的なものができているのだが、それだけ見れば確かに、これはいい映画になると思える。
問題は前半だ。
映画の前半なんだから人物を手際よく紹介して、ストーリーの流れに観客を招き入れなければいけないのが、思っていた以上にいいシーンがないし、うまくつながらない。
これが自分の4本目だか5本目の長編になるわけだから、さすがに自分の演出の手際、フレームのなかでどう人物の動きを振り付けし、という技術というか腕前は、より器用になっているのは自分でも分かる。
だがそれだけ「うまい」「器用」なぶん、自分の撮り方に、以前の作品にはあった乱暴で荒削りであるがゆえに「生き生きして見えるもの」が、なくなって来ているのも確かだ。無駄に端正過ぎるのだ。
平たく言えば「老けた」ということか?
しかも撮っている対象が、なにしろほとんどが「人物」でなく「キャラ」に過ぎず、人間としての自分探しよりもヒエラルキー組織のなかの快適な立場の確保に、オフスクリーンでもオンスクリーンでもキャストの動機が向かって行ってしまってる以上、ますますもってそこには「生き生きしたもの」は、なかなか写っていない。
いったいこの一年はなんだったんだろう? 編集が進行中のコンピューターのディスプレイを見ながら、どうしてもそう思ってしまう30代最後の一日なのだった。
そんな個人的な苦悶と並行して、一年前には、政権交代に向けた総選挙が秒読み段階だった。今ではまるで大昔のようにも、思えるのだが。
9月には、鳩山「友愛」政権、あるいは小沢一郎が「これは革命なんです」と言っていた新しい政治の流れが、始まったはずだった。
10月に『フェンス』を山形で上映したとき、舞台挨拶で撮影の大津幸四郎が、「この映画は新しく出来た鳩山政権にプレゼントしたい」と言った。
日米関係の見直し−−『フェンス』で映し出した安保条約体制の根源的な不条理が、いろいろな困難は予想していても、それでも変えよう,変えられる、変えなければ行けないという期待は、確かにあったはずだ。
いくらなんでも、5月になって鳩山が「やはり抑止力というものが」と言い出して、普天間問題は自民党案に限りなく近いものに収まるとは、まさか思っていなかったはずだ。
鳩山の辞任から菅直人への政権移行、そのあいだに岡田、前原、北澤などの閣僚たちの変遷で証明されたのは、与党がどの政党だろうが、官僚の作ったレールに乗らない限り、この国では政権を維持することなど出来ないということ。そして国民もたぶん、官僚の悪口で鬱憤を晴らすことには惹かれているとしても、本質的な改革や変化は、求めていないのではないか?
よく考えれば、もう20年くらいのあいだ、「改革」は日本の最大の政治的テーマとして掲げられ続けていたのだ。それが看板倒れでなく本気だったのなら、とっくに変わっているはずだ。
しかし国民が菅直人を「現実主義」と評価するのだとしたら、つまりは官僚が出してくるデータに示された「現実」しか、国民もまた認めようとはしていないのではないか?
政権交代がまだ「夢」であったときには、選挙で今までとは違った将来を、我々は期待することがまだ出来ていたのかも知れない。
だがこの一年で証明されたのは、そんな違った将来なんて、未知であるから怖いだけだということ。
実は、誰もそんな違った、自分たちが主役になる将来なんて、求めていなかったということではないか?
しょせんはエリートであるはずの官僚の言う通りにした方が、「国民の力」で政権交代するよりも、よほど安心できるのが我々日本人なのではないか?
これを書いていて気づくのは、今日のエントリーの前半の私的な映画作りの話と、後半の日本の総体の政治の話が、まったくパラレルであるということだ。
横並びの集団のなかのヒエラルキーに自分を位置づけることで、自分自身の意思でなにかをやることなんて考えないでいい状態、その逃げ道ばかりを探し続け、なんでも人のせいにしてしまうこと、責任は決してとらないことに、我々日本人は慣れきってしまっている。
これまでの人生で最悪かも知れない一年にも、そうした現代ニッポンの Status Quo が鮮明に見えて来たという意味だけは、見いだせるのかも知れない。
つまり、僕の映画作りのもっとも根源的な動機は、「日本人とは何者なのか?」という、まるごと日本で育ったわけではない人間ならではの疑問にあるのだと、自分では思っているのだが、その自覚が正しいのであれば、この最悪の一年は、「日本人」という民族の現状のある本質だけは、痛いほどよく分からせてくれるものではあった。
裏切られて幻滅したのだって、化けの皮が剥がれて現実が見えただけでも、良かったと思うことはできるのかな?
かなり難しいかな? やはり自分も、ただの弱い人間だからね。
どんなにやせ我慢しようが、精神的なダメージは大きいですよ。
7/14/2010
La Passion de Jeanne D'Arc (1928)
http://www.youtube.com/watch?v=BLBn9KK2Ss0
久々に、ドライヤーの『裁かるるジャンヌ』を見る…と言って、自作の編集中には、必ず一度は見るので、そこまで「久々」でもないのだけど。
7/11/2010
選挙に行っても意味がない
成人してからこの方、海外に居たりなどの場合を除いて、少なくとも国政選挙はちゃんと投票するように心がけて来たのは、まあ我が家の家訓みたいなものである。
「せっかく権利があるのにもったいない」と言ったところか。
もう少し言うなら、どうせ自民党が勝つのだとしても、なんにも言わないよりは言った方がいいはずだし、最低限誰でもできる意思表明も放棄して政治に文句を言うわけにもいかない、ということもあった。
習い性みたいなもので今日も参議院選挙には行ったものの、しかし今回ばかりは、学生や若い人に「ちゃんと選挙は行った方がいいよ」と言うのは控えて来た。
今回ばかりは、「この国の政治では選挙なんてしょせん、形式だけで本質的な意味などないのではないか?」と思わざるを得ないからだ。
マスコミによれば「争点は消費税」なのだそうだ。
…ってちょっと待ってくれ。最大野党が10%の消費税といい、与党第一党党首で首相でもある菅直人が同じ数字を上げているのに、なんでそれが「争点」になるんだ?
どっちが勝っても消費税が10%になることが選挙の審判を経たということになるのが争点なら、選挙には意味がほとんどない。
いやこれはもっと深刻な、選挙とそれを通した政治の完膚なきまでの無意味化を、内包した問題である。
つまり選挙によって実現した昨年の政権交代は、いったいなんだったのか?
与党第一党も、最大野党も、そろって財務省の悲願であった消費税増税を政策にし、一方で経産省の意向通りに法人税減税をやはり政策にしている。
選挙結果がどうなろうが、日本の真の権力エスタッブリシュメントとしての官僚と、そこと利害を実は共有している一流大卒のエリート層(そこには「一流大学」を出て「一流・大手新聞社」などに入った人々も当然含まれる)は、安泰なのである。
鳩山や小沢が掲げた、今後の、新しい日本の国としての方向性の理念としての「友愛」や「国民の生活がいちばん」、その手段としての脱官僚支配こそが、選挙によって国民が選択した政権交代で示された意思だったはずだ。
それが気がつけば、あたかもそれこそが正しい選択だったかのように、菅直人の「現実路線」「現実主義」が評価される。
だが菅の言う「現実路線」、「だから消費税の増税もやむなし」を含むその「現実」の認識を構成するデータは、どこから来たものか? 言うまでもなく官僚である。
官僚のいう「現実」に沿った政治しかできず、その認識の枠からはみ出た瞬間に「現実的でない」と言われるなら、しょせん選挙も政権交代も政治も形式論に過ぎず、実態は官僚支配のエクスキューズにしかなるまい。
記者クラブ制度によって官僚システムとくっついているマスコミも、「政治とカネ」を喧伝することで、このまやかしを見事なまでに糊塗してくれているし、「政治とカネ」というと「政治家にはカネがあって我々にはない」という庶民のやっかみ根性を刺激してこのキャンペーンは非常にうまく行ったわけで、騙される我々も我々だ。
「まず隗より始めよ」の美辞麗句で、各党は国会議員の定数削減を謳い、「カネのかからない政治」を訴える−−そうでないとマスコミに批判され魔女狩りでバッシングされ潰されるから。
ちょっと待って欲しい。たとえば民主党が次第に自民・公明連立政権を追いつめて行った年金問題は、どうやってデータを集めて整理して告発できたのか? 長妻氏を中心に、官僚に頼らない情報ルートがあったから、そのデータを検証して不備や不正を明らかに出来たからだ。
言うまでもなく、そういう調査には人件費がかかる。優秀なスタッフを1年雇うだけで、いったい何百万人件費が必要だと思っているのだろう?
情報収集能力とその処理能力、それを可能にするマンパワーを持たない(つまりは人件費にかけるカネもない)政治家は、結局は官庁が出して来るデータに頼って政治をするしか、なくなってしまう。
それは日本の官僚機構の強固さというコップの中の現実に過ぎず、我々国民の実生活の基盤となっている本当のこの国の現実とは、必ずしも一致するものではない。
野党が民主党政権を「予算を組み替えれば20兆くらいは出て来ると言ったのはウソだったのだろう」と責め、マスコミがそれに同調するのも悪質なプロパガンダでしかない。
国家予算に無駄がないという現実があったのではまったくない。ただその無駄を明らかにするには、情報まですべて握っている官僚機構の抵抗があまりにも大きいという現実がある、というだけなのに、官僚からのデータに頼るだけで、その本当の現実が見えるわけもない。
そのことがひた隠しに誤摩化されている現状のなかでは、真面目に投票なんぞしたところでところで、現実にはほとんど意味がない。
その現状を変えようと思うどころか、認識することすら忌避しようとする国民が大多数の国では、民主主義ということそれ自体が、幻想に過ぎないことになる。
すべては実態権力が本当はどこにあるかを隠す、見かけは壮大にして実態はまるで空虚な、儀式でしかないのではないか?
「せっかく権利があるのにもったいない」と言ったところか。
もう少し言うなら、どうせ自民党が勝つのだとしても、なんにも言わないよりは言った方がいいはずだし、最低限誰でもできる意思表明も放棄して政治に文句を言うわけにもいかない、ということもあった。
習い性みたいなもので今日も参議院選挙には行ったものの、しかし今回ばかりは、学生や若い人に「ちゃんと選挙は行った方がいいよ」と言うのは控えて来た。
今回ばかりは、「この国の政治では選挙なんてしょせん、形式だけで本質的な意味などないのではないか?」と思わざるを得ないからだ。
マスコミによれば「争点は消費税」なのだそうだ。
…ってちょっと待ってくれ。最大野党が10%の消費税といい、与党第一党党首で首相でもある菅直人が同じ数字を上げているのに、なんでそれが「争点」になるんだ?
どっちが勝っても消費税が10%になることが選挙の審判を経たということになるのが争点なら、選挙には意味がほとんどない。
いやこれはもっと深刻な、選挙とそれを通した政治の完膚なきまでの無意味化を、内包した問題である。
つまり選挙によって実現した昨年の政権交代は、いったいなんだったのか?
与党第一党も、最大野党も、そろって財務省の悲願であった消費税増税を政策にし、一方で経産省の意向通りに法人税減税をやはり政策にしている。
選挙結果がどうなろうが、日本の真の権力エスタッブリシュメントとしての官僚と、そこと利害を実は共有している一流大卒のエリート層(そこには「一流大学」を出て「一流・大手新聞社」などに入った人々も当然含まれる)は、安泰なのである。
鳩山や小沢が掲げた、今後の、新しい日本の国としての方向性の理念としての「友愛」や「国民の生活がいちばん」、その手段としての脱官僚支配こそが、選挙によって国民が選択した政権交代で示された意思だったはずだ。
それが気がつけば、あたかもそれこそが正しい選択だったかのように、菅直人の「現実路線」「現実主義」が評価される。
だが菅の言う「現実路線」、「だから消費税の増税もやむなし」を含むその「現実」の認識を構成するデータは、どこから来たものか? 言うまでもなく官僚である。
官僚のいう「現実」に沿った政治しかできず、その認識の枠からはみ出た瞬間に「現実的でない」と言われるなら、しょせん選挙も政権交代も政治も形式論に過ぎず、実態は官僚支配のエクスキューズにしかなるまい。
記者クラブ制度によって官僚システムとくっついているマスコミも、「政治とカネ」を喧伝することで、このまやかしを見事なまでに糊塗してくれているし、「政治とカネ」というと「政治家にはカネがあって我々にはない」という庶民のやっかみ根性を刺激してこのキャンペーンは非常にうまく行ったわけで、騙される我々も我々だ。
「まず隗より始めよ」の美辞麗句で、各党は国会議員の定数削減を謳い、「カネのかからない政治」を訴える−−そうでないとマスコミに批判され魔女狩りでバッシングされ潰されるから。
ちょっと待って欲しい。たとえば民主党が次第に自民・公明連立政権を追いつめて行った年金問題は、どうやってデータを集めて整理して告発できたのか? 長妻氏を中心に、官僚に頼らない情報ルートがあったから、そのデータを検証して不備や不正を明らかに出来たからだ。
言うまでもなく、そういう調査には人件費がかかる。優秀なスタッフを1年雇うだけで、いったい何百万人件費が必要だと思っているのだろう?
情報収集能力とその処理能力、それを可能にするマンパワーを持たない(つまりは人件費にかけるカネもない)政治家は、結局は官庁が出して来るデータに頼って政治をするしか、なくなってしまう。
それは日本の官僚機構の強固さというコップの中の現実に過ぎず、我々国民の実生活の基盤となっている本当のこの国の現実とは、必ずしも一致するものではない。
野党が民主党政権を「予算を組み替えれば20兆くらいは出て来ると言ったのはウソだったのだろう」と責め、マスコミがそれに同調するのも悪質なプロパガンダでしかない。
国家予算に無駄がないという現実があったのではまったくない。ただその無駄を明らかにするには、情報まですべて握っている官僚機構の抵抗があまりにも大きいという現実がある、というだけなのに、官僚からのデータに頼るだけで、その本当の現実が見えるわけもない。
そのことがひた隠しに誤摩化されている現状のなかでは、真面目に投票なんぞしたところでところで、現実にはほとんど意味がない。
その現状を変えようと思うどころか、認識することすら忌避しようとする国民が大多数の国では、民主主義ということそれ自体が、幻想に過ぎないことになる。
すべては実態権力が本当はどこにあるかを隠す、見かけは壮大にして実態はまるで空虚な、儀式でしかないのではないか?
7/07/2010
マノエル・デ・オリヴェイラ Manoel de Oliveira
昨日はオリヴェイラの新作の試写を見ることができて、まだ気分がウキウキしている。
…と言って、この秋に公開予定の、100歳のときの『ブロンド少女は過激に美しく Singularidades de uma Rapariga Loura』(2009)は、すでに彼の最新作では、ない。
なんという人なんだまったく。
現役最高齢なだけでなく、現代の映画作家たちのなかでもっとも旺盛な創作活動を続けている一人。
マノエル・デ・オリヴィラ 『ブロンド少女は過激に美しく』(2009) 予告編
いやまあなんというか…。あり得ないくらいに凄い、とんでもなく知性と気品にあふれながら、とほうもなく意地悪で人を食った、恐ろしく野蛮な映画であるという以外に、形容が今のところ思いつかない。
100歳過ぎると人間、いよいよ怖いものなんてなにもなくなるということか…。
以前に巨匠に「どうやったらあなたのようなシンプルな映画を作れるようになるのでしょう?」と訊いたことがある。
巨匠は一言、「それにはいろいろ経験が必要なのだよ」だって(苦笑)。
ところが話はこれでは終わらない。同席していた夫人のイザベルが、「マノエルの場合はね、いろいろな経験というのはね、棒高跳びでポルトガル代表になって、カーレースをやって、曲芸飛行を学んで、ワイナリーを経営し、それとね…」
「分かりました。つまり貴族だからこそ、というわけですね。ふん、どうせ僕はプロレタリアートだもん」とスネてしまい、巨匠は大爆笑…。
今回の映画も、「テーマはなんですか?」と訊ねたら、ニヤっと笑って「西洋文明の没落だよ。お前はなんでいつも同じことを訊くんだ?」と言われるんだろうなぁ…。
しかし巨匠がどの映画でもそう語るのも、あながちシャレではないのかも知れない。2002年の『家宝 O PRINCÍPIO DA INCERTEZA』には、二人の女優のあいだでこういうやりとりがあった。
我々の文明は、その最初の段階に達することもないまま、没落に向かっているのかもしれない…。
いずれにしても確かなのは、1873年の原作小説の、時代設定以外はまったく忠実な映画化であるらしいこの新作『ブロンド少女は過激に美しく』がとてつもなく現代映画の最先端、現代という時代をあっぱれなまでに見せてしまっている映画であるということは、機械文明がどれだけ発達しようが、我々の精神の文明はまったくどこにも行っていない、ということなのかも知れない。
…と言って、この秋に公開予定の、100歳のときの『ブロンド少女は過激に美しく Singularidades de uma Rapariga Loura』(2009)は、すでに彼の最新作では、ない。
なんという人なんだまったく。
現役最高齢なだけでなく、現代の映画作家たちのなかでもっとも旺盛な創作活動を続けている一人。
マノエル・デ・オリヴィラ 『ブロンド少女は過激に美しく』(2009) 予告編
いやまあなんというか…。あり得ないくらいに凄い、とんでもなく知性と気品にあふれながら、とほうもなく意地悪で人を食った、恐ろしく野蛮な映画であるという以外に、形容が今のところ思いつかない。
100歳過ぎると人間、いよいよ怖いものなんてなにもなくなるということか…。
以前に巨匠に「どうやったらあなたのようなシンプルな映画を作れるようになるのでしょう?」と訊いたことがある。
巨匠は一言、「それにはいろいろ経験が必要なのだよ」だって(苦笑)。
ところが話はこれでは終わらない。同席していた夫人のイザベルが、「マノエルの場合はね、いろいろな経験というのはね、棒高跳びでポルトガル代表になって、カーレースをやって、曲芸飛行を学んで、ワイナリーを経営し、それとね…」
「分かりました。つまり貴族だからこそ、というわけですね。ふん、どうせ僕はプロレタリアートだもん」とスネてしまい、巨匠は大爆笑…。
今回の映画も、「テーマはなんですか?」と訊ねたら、ニヤっと笑って「西洋文明の没落だよ。お前はなんでいつも同じことを訊くんだ?」と言われるんだろうなぁ…。
しかし巨匠がどの映画でもそう語るのも、あながちシャレではないのかも知れない。2002年の『家宝 O PRINCÍPIO DA INCERTEZA』には、二人の女優のあいだでこういうやりとりがあった。
レオノール・バルダック:あなたはまだ、文明の最初の段階にも達してないわ。
レオノール・シルヴェイラ:なに、文明の最初の段階って?
レオノール・バルダック:善意よ。
マノエル・デ・オリヴィラ 『家宝』(2002)
我々の文明は、その最初の段階に達することもないまま、没落に向かっているのかもしれない…。
いずれにしても確かなのは、1873年の原作小説の、時代設定以外はまったく忠実な映画化であるらしいこの新作『ブロンド少女は過激に美しく』がとてつもなく現代映画の最先端、現代という時代をあっぱれなまでに見せてしまっている映画であるということは、機械文明がどれだけ発達しようが、我々の精神の文明はまったくどこにも行っていない、ということなのかも知れない。
*配給はフランス映画社、TOHOシネマズ・シャンテにて今秋公開
7/02/2010
『フェンス』特別上映
7月3日(土)13時から、慶應大学の「日吉台地下壕保存の会」http://hiyoshidai-chikagou.net/の集まりで、2008年の拙作『フェンス 第一部 失楽園/第二部 断絶された地層』を上映します。
『フェンス 第一部 失楽園』より
会場:慶應大学日吉校舎 「来往舎」シンポジウムスペース
日時:7月3日(土)13時〜
(上映後、トークあり)
『フェンス 第一部 失楽園/第二部 断絶された地層』
FENCE part one:lost paradise/part two:fragmented starum撮影 大津幸四郎
音響監督 久保田幸雄
製作 安岡卓治 藤原敏史
製作協力 逗子市 長島一由
監督/編集 藤原敏史
2008年シェフィールド国際ドキュメンタリー祭
2009年シネマ・デジタル・ソウル映画祭
2009年山形国際ドキュメンタリー映画祭
2009年サンパウロ国際映画祭
正式招待作品
2008年/カラー/日本語、英語/第一部81分、第二部83分/ハイビジョン
「藤原監督はとても自然にインタビュアーとして画面に映っていますし、何より特徴的だと思ったのは、何の気負いもない少し不器用なくらいのナレーションが入っていることなんです。そうした作家の等身大の身体性みたいなものによって、世界と真摯に向き合っていく。それがおばあさんたちの本当に魅力的なインタビューを際立たせていているように感じました。3時間あるのに長さを感じさせない、というよりも、時間を追うごとに彼女たちの語りが、藤原さんとの関係性においてたしかに輝きを増していくんですね。不器用さとないまぜの作家の真摯さみたいなものを、大津幸四郎さんの構えた画面のそこかしこから感じられるんです。いくつもの質の異なる時間軸が交差する中で、ひとつの場所についての物語が思考され語られていく。硬派なテーマなのに、観客を選ばない作りの映画になっています。」 萩野亮、「ドキュメンタリー映画の最前線メールマガジンneoneo」2009.12.1号
『フェンス 第一部 失楽園』より
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