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2/21/2011

『暗殺の森』〜憧れの都市としての巴里/煉獄としてのパリ

ベルナルド・ベルトルッチ『暗殺の森』

承前。

『暗殺の森』の冒頭、ホテルの窓からはジャン・ルノワール監督の『人生は我らのもの』を上映する映画館のネオン・サインが見える。

つまり時代は1937年、フランス人民戦線内閣の年だ。

もっとも、オルセー駅のそばに映画館はないし、夜明け直前にネオンサインも奇妙だし、映画題名がネオンになってるのはもっと変だし…つまりはこの人民戦線政権のパリは、映画の幻想であり、主人公の憧れ、「ありえなかったもうひとつの自分」の幻影を映画が共有するものだ。

『暗殺の森』オープニング・タイトル

夜明けのオルセー駅前で、主人公クレリチは部下のマンガニェッロの運転する車に乗る。パリで展開する屋外シーンは、ほとんどがこの同じ色調の、夜明け直後か日没直前の、青い光のなかで展開する。

『暗殺の森』のマジックアワー撮影

昼と夜のはざまの、曖昧な時間だ。いわゆるマジックアワー撮影だが、この映画でそれは、単に美的なフェティシズムではない。

主人公は常にこの光と闇のあいだの煉獄の状態、善悪の狭間、善悪の彼岸にある。それがファシズムであると同時に、その訪れる人民戦線のパリもまた、その合わせ鏡に過ぎないのかも知れない。

クレリチとマンガニェッロの自動車は、オルセー駅から車はビルアーケム橋を渡り、トロカデロ宮の前を通る。

 ビルアーケム橋

これは実はかなりおかしい。オルセー駅はセーヌ左岸、トロカデロの向こうにエッフェル塔が見えるのは右岸なのに、車はなぜか橋を右岸から左岸に走っているのだ。幻想・迷宮のパリ、青い光の煉獄。

同じ橋と同じ地理的な逆転の詐術を、ベルトルッチは『暗殺の森』の次作『ラストタンゴ・イン・パリ』の冒頭でも繰り返している。再びビルアーケム橋を進む向きとセーヌの右岸と左岸を逆転させ、さらにご丁寧にエッフェル塔をオプチカル処理で消してまでいる。

『ラストタンゴ・イン・パリ』のビルアーケム橋


パリに到着し、教授宅を訪ねると、そこにはこの前にファシスト秘密組織の指令を受ける際に娼婦として登場していたドミニク・サンダが、今度は教授の娘…ではなく妻として現れる。

人民戦線のパリの性的な自由と、ファシストの性的な頽廃。その曖昧で危うい境界が、彼女によって体現されているかのように。

アンナ(ドミニク・サンダ)

クワドリ教授と娘のように若い妻のアンナ(サンダは当時まだ10代)の関係は、クレリチにとっては母と自分より若い愛人で運転手で麻薬売人のアルベリの関係と合わせ鏡のように見えるはずだ。

さらに少年の彼と性交を持ったリーノも、運転手だった。

ちなみに教授宅に電話をかけるときの番号は、当時のゴダールの電話番号。ベルトルッチは憧れの対象だったゴダールへのエディプス的な感情の発露だと笑っているが、人民戦線とファシズム、教授の若い妻と母の若い愛人という文脈で見ると、もっと複雑に錯綜した意味が、そこには見いだせるかも知れない。


マルチェロ・クレリチ(ジャン=ルイ・トランティヤン)

『暗殺の森』において、エディプス的なもの、反発するものは常に自分自身の合わせ鏡でもあるのだ。

それはクレリチにとってそうであるだけでなく、ベルトルッチにとってもそうなのかも知れない。この映画の反ファシズムは、決して単純な左右対立ではないのである。

反発するものは、同時に性的・官能的に魅了され誘惑されるものでもある。パリの表象する憧れと自由を、クレリチは受け入れることも拒絶することも出来ず、ただ逃げるしかない。

 『暗殺の森』、「青い煉獄」であるパリの花売り娘は、
インターナショナルを歌う


魅了される自分を拒絶し、そのコンプレックスから逃避しようとすればするほど、主人公は日中でも夜でもない青い光の迷宮のなか、その誘惑そのものに囚われて行くのだ。

それこそが『暗殺の森』における同性愛であり、主人公がその誘惑から逃れようとするのは官能そのものの拒絶だ。

性的な官能から逃避するなら幼児に戻るしかないから、クレリチは彼にとってマッチョ的父権の象徴となる部下のマンガニェッロの車から、駄々っ子のように振る舞って降りる。


だが、その行為がそのまま、クレリチを子どもの頃の同性愛体験の記憶に誘ってしまう。

逃げ続けるしかないとファシズムという体制に同化しようとも、「自分自身」からは決して逃れられない。


彼にとって教授の暗殺とは父殺しである(だからベルトルッチは、電話番号がゴダールのそれだったのだと笑う)と同時に、自分殺しなのである。彼がアンナと寝るのは、父を否認するエディプス的行為であると同時に、父と寝ることでもあり、自分と寝ることでもある。

だから『暗殺の森』における性的な頽廃と性的な自由の境界は、実は人民戦線とファシスト、反ファシズムとファシズムの境界と同様、極度に曖昧である。


クレリチが耐え切れずファシズムに走るのは、その自分自身の曖昧さから逃げるためなのかも知れない。

その曖昧なる境界がもっともはっきり現れるのが、タンゴのシーンだ。クレリチは女二人のタンゴを「やめさせましょう」と言う。教授は「いいじゃないか、美しい」と微笑む。

『暗殺の森』より、タンゴ

受け入れるか、拒絶するか、ただそれだけの違い。

だがそれはクレリチにとって自分を受け入れられるか、自分が自分であることを拒絶しそこから逃避するかの違いに他ならないが故に、決定的だ。だから彼は自分を殺すために教授とアンナを殺すしかない。


このダンスのシーンは、この映画でもっとも自由と平等と官能が発露される場面だ。

たとえばブルジョワジーのドレス姿の二人の女と、他の人々の多くは労働者階級の普段着姿。しかし彼女達は場違いではまったくなく、その場のスターになるのだが、それは彼女たちが階級的に上位にあるからではなく、ただ単に美しく官能的だからである。

そして二人が先導して、すべての人が手をつなぎ輪になって踊るユートピア的な瞬間が一瞬具現するが、クレリチだけはそこに属せない。これまで暗殺を躊躇していたクレリチが最終的に決意するのは、楽しげに踊る人々の輪の中心に取り込まれてしまったその瞬間なのだろう。


クレリチの暗殺の決意は、だからこそ倒錯的であり、実のところ逃避でしかない。

これはクローゼットなゲイであるから「普通」「平凡」「健全」に所属する居場所を求めていた彼が、自分が「普通の人々」には決して属せないと自覚した瞬間であり、 自分がファシズムに求めていたものが決して得られないのだと思ってしまった瞬間でもある。

そのファシストであるための指令の実行を決意する一方で、クレリチはそうなりたいと思った憧れの父的存在であるクワドリ教授を、だからこそ殺す決意をしているのだ。


しかしクレリチにとっての「普通」「健全」も、ファシズムへの埋没も、暗殺の決意すら、自分が逃げ切れない自分自身からの逃避に過ぎない。

だから彼は暗殺の途上でも、駄々っ子として振る舞ってしまうのだろう。

『暗殺の森』の複雑に錯綜する時系列上、この暗殺の決意からすら逃げてしまうクレリチとそのトラウマのフラッシュバックは、映画ではこのずっと前に既に見せられている。蛇が自身の尾を呑むようなこの映画の時間構造は、そのまま主人公自身のあり方なのだ。

この映画は間違った自分探しの物語であり、ファシズムはその究極の逃避先でしかない。なにが間違っているって、自分を否認することで自分の居場所を探したり望んだりしたところで、自分から逃げることはとうてい適わない。そんなこと最初から無理に決まっているのだし。

そしてそれは、今の日本と日本人の現状にも、あまりにも似通っている


クレリチが自分自身から逃げ続ける男である以上、暗殺すら彼にはけっきょくは出来ない。自分を棄て、自分から逃避し続ける人間は、自分ではなにも出来ないのだ。

『暗殺の森』は最後に、ムッソリーニの失脚とファシズム政権崩壊の夜のクレリチを見せる。彼はイタロと共に街に出て、少年時代に自分と性交を持った運転手のリーノと出会い、大声で「こいつはファシストだ!」と叫ぶ。


続けて彼は、イタロを指差し、彼のことも「ファシストだ」と叫び、群衆のなかに盲人の、自分の助けを必要とする(=自分がその点で上位で居られる)友を見捨てる。

こうしてすべてを裏切ることで、彼はやっと自分から逃げ続けた旅から、自分から逃げ続けて来たその自分自身から、解放されるのだ。

赤旗を持った集団とすれ違った彼は、やっと個に、自分に戻ることができる。孤独を取り戻したクレリチは、コロッセウムの片隅で男達のセックスを横目で見ている。何も出来ないし、何もしない。

やっと病理の共同幻想から自分を取り戻したとき、彼は同性愛者としての自分としてそれを見ているはずだ。だがその自分はファシズムの病理によって喰い尽くされ、もはや自分で出来ることはなにもない。

教授とアンナの暗殺をただ目撃しかできなかった時以上に空虚な、このラストの主人公の顔こそが、『暗殺の森』の最も怖い瞬間なのかもしれない。

『暗殺の森』(1970年、ベルナルド・ベルトルッチ)は2/19日より京都みなみ会館、大阪シネヌーヴォで上映中。3月には横浜シネマ・ジャック&ベティでも上映。


この項目は『暗殺の森』その3・父殺しに続く

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