最新作『無人地帯 No Man's Zone』(2012)
〜福島第一原発事故、失われゆく風景、そこに生きて来た人々〜
第62回ベルリン国際映画祭フォーラム部門正式出品作品

5/05/2008

土本典昭についての覚え書き


 拙作『映画は生きものの記録である〜土本典昭の仕事』もそろそろ初公開から1年ほど、山形、イギリス、ポルトガルなどの映画祭でも上映し、地方公開も先日の名古屋シネマテーク、まもなく大阪のシネヌーヴォでも上映される。

http://www.cinenouveau.com/x_cinemalib2008/tutimoto/tutimoto_Frame.html

土本自身の作品と一緒に上映され、土本典昭の再評価の契機となるべきなのだが、契機は仕掛けても実際の再評価、土本映画をちゃんと映画として見直すことになかなか結びついていない。つまり、元から土本という存在を知っているつもりでいる人々のノスタルジーのなかで消費されるだけで、土本という映画作家が実は何者で、その映画がどういう映画なのかを考え直すためにこそ作ったはずの映画が、その役を果たしていない。

 自分が作った映画であからさまに表現していて誰にでも分かるはずのことをいちいち言うのも野暮だと思ってこれまで口にしないで来たが、こうなるとやはり言った方がいいのかも知れない。見れば分かるはずのことを映画を専門としているはずの人々が誰も指摘しないことに違和感は禁じ得ないのだが、自分が失敗しているせいかもしれないし、実際のところこれが元々注文仕事で、注文を受けた時点で出来上がっていた撮影の体制がそもそも映画の撮影では決してあってはならないはずのものだったこと(書籍にするための資料的なインタビューで映画作品を作れと言うのは無理があり過ぎる)もあり、あまり自信もなかった映画なのだが、先日東京・江戸川の小岩のメイシネマで上映して頂いた際に久々に見直したら、思ったよりもずっといい映画だったし、こっちの考えて来たそもそもの原点はやり過ぎなほど明確だ。なのになぜ多くの批評家が指摘もせず、そこを見逃しているがためにほとんどが見当違いの評価にしかならないのか(ちなみに岩佐寿弥氏など、土本本人と親しかったり共に映画を作って来た人が評価しているのはまさにその点なのだが)さっぱり分からない。しかも極めて単純なことであり、そこを踏み越えないことには土本典昭の映画作家としての本質を再評価することなんてあり得ないはずなのだが。

 その原点とは何かと言えば、土本典昭を60〜70年代の政治運動的映画作家とみなすことぐらい下らなく、本質を見逃した話もないから、一切無視している、ということだ。まして全共闘とかいう文脈に土本典昭を組み込むなんて、『映画は生きものの記録である』は最初からそんな下らなさになんの関心も示していない。はっきり言ってその不愉快な世代に多大な迷惑を被っている我々からすれば、土本典昭についての映画でそんなことに触れること自体が、土本の映画とそこに浮かび上がる彼や水俣の患者さんたちの生き方の美しさに対する冒涜にしか思えない。

 だって国家や民族と個人がどう関わるのかという根の深い問題を「国旗・国歌」を卒業式で上げるかどうかという皮層な記号のレベルでしか考えられなくなったり、社会の安全の維持のために社会が犯罪者であってもその人間を「殺す」という罰を与える資格が我々にあるのかどうかという倫理的問題をただ裁判で死刑が回避できるかどうかと勘違いして挙げ句に被害者遺族を敵視してしまう「人権派弁護士」とか、最初から「賛成」か「反対」かの踏み絵にしかなってない「靖国問題」とか「護憲・改憲」とか、この最低に下らない思想的状況を作り出したのはどこの誰か? 非暴力の絶対平和主義と思いやりを語り続けるダライ・ラマと、権力に弾圧されているチベット人の人権のために「左派」がなにも言わず、右翼が日の丸とチベットの旗を振って中国人留学生に喧嘩売ってるこのみっともなさに、呆れる以外になにができるのか? こう問うても無反省な元全共闘な皆さんは自分たちの責任など一抹も感じずに、「国家権力が悪い」とか、バカ単純な論法に逃げるだけなのだろう。そのバカ単純なレッテル貼りによる低級な自己正当化が、この下らなさを引き起こした要因のひとつであることにも気づかずに。

 果ては今更「西洋帝国主義」などと言い出して、中国の人権問題が主に西欧先進国やアメリカのリベラル派から批判されていることを問題にするのだから笑っちゃう。「中国は永年、帝国主義列強に侵略されて来た」から「解放」と称して少数民族を弾圧してもいいのなら、それって「大東亜共栄圏」とまったく同じ論理ですよ。そりゃ「チャンネル桜」あたりから「反日」と言われても、その指摘自体は間違ってないことになってしまう。そんなこと言われるくらいの低レベルでどうするつもりなんだろ?

 どんな人間であっても、自分の行いが正しいかどうかなんて、後になってでしか分からないし、だいたいどこかで過ちは犯しているものだ。だから常に自分を問い直して変わり続けなければいけないし、自己中心的で空虚な「正しさ」の幻影ではなく、自分が他者とどう接して関係を生み出し、理解しあおうとし、その人と人との関係を発展させてなにかを生み出していくのか? 土本典昭においてはそれが彼の映画に結晶したのであり、土本はその意味で政治的映画作家であるよりも遥かに、まずなによりも倫理的な映画作家だ。土本の倫理とは世界の複雑さと向き合うことであり、身勝手さを棄てて極度な思いやりを持って他者と向き合うことにあり、土本の生き方/映画作りはその倫理を探求して常に変わり続けて来た。『映画は生きものの記録である』が興味を示しているのはただ一点、土本がどのように自分の映画と、自分の映画の主人公となる人たちと接して来て、そのなかでどう自分を問うて来たかの変遷だけだ。そこにこそ土本典昭という希有の映画作家の真の価値があるのであり、そこを再評価できないのならわざわざ土本映画を見直すこともないだろうし、少なくとも『映画は生きものの記録である』を見てもらう意味はまったくない。見たってご自分たちの下らないプライドを守るために思考停止に陥るだけで、なんの足しにもならないでしょうから。

 だいたい政治運動と甘やかされた若者の欲求不満を混同するほど倫理観が根本的に欠落し、自身の良心と身勝手な欲望が異なった精神的次元に属していてその両者が一致することはむしろ稀であって相当な精神的修練が必要だという当たり前のことも自覚できず、自身の内なる空虚を「運動」とやらに自己同一化する幻想で誤摩化して「我々は正しい」という自己満足に耽溺し、正義というものが超越的に普遍的なものであってそこに到達するという最初から不可能なことをあえて追求し続けることの意味も理解できない幼稚さで「革命」を気取った結果、日本における左派・リベラリズムの将来を根っこから堕落させた上に、還暦にさしかかってもその若気の至り、自分たちに何が欠けていたのかを精確に反省・省察・自己分析すらできない「全共闘」とかいう傲慢で愚かしい世代など、土本典昭の映画を見て、考え、語り、あるいは彼についての映画を作ることにおいて、まったくどうでもいい話なのだ。なぜなら、この上なく倫理的な映画作家である土本典昭のすべてが、まったくその正反対を指し示している。

 先行する世代がここまで見事に堕落させてくれた我々にとっては、「右派」と「左派」の区分けすら意味があるかどうかも疑問だが、あえて「左派」の政治的文脈で土本典昭を考えるとしたら、その意味とは土本が日本の「左派」がこうであるべきであったそのあり方、ものの見方、考え方を体現しているからだ。それは「全共闘」以降がその足下にも到達できなければ、そのかけらも理解できていないことだという覚悟くらいは、して頂きたい。そんなに心配することもない−−まさに土本の生き方が体現しているように、人間は変わり続け、自らを刷新し続けることはできるのだから。人類の最も崇高な理想を目指したはずの共産主義が現実には内部抗争とか抹殺・虐殺ばかり繰り返した現実に、「なにがなんだか分からない、というのが正直なところ」と言い切り、「目の前にある事実を出来うる限り忠実に記録するということ以外に、自分を規定できなかった」と苦渋を込めて語ることができる、その正直さと誠実さだけでも、土本典昭は自分らのくだらないプライドだけで思考停止している連中などと比べるのが失礼なほど、美しい人間だ。これを言えるようになるだけで、人生の意味がどれだけ変わりうるか。

 だいたい、無反省な元全共闘の連中は、なぜ若者が「右傾化」するのか、考えたことがあるだろうか? 全共闘以降の「左派」の大人たちのほとんどがおよそ人間として信用するに値しない嘘つきの偽善者か、バカにしか見えないからですよ。若者が土本典昭の映画を見たり、土本典昭の話を聞いていたら、そうは思わなかったでしょう。だから今からでも、土本典昭の映画を見るべきなのだ。

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