
溝口がこの映画にえらく悩んだのは事実らしい。岩波文庫版の原作の解説では、著者・真山青果の娘・美保氏が、溝口が真山邸をしょっちゅう訪れては父と話し込み、「しかし先生、いかにも大変な仕事です。手にあまる仕事でございます」と繰り返していたと述懐している。その真山美保氏の演出、初演時の伊藤喜塑の美術(ちなみに映画美術では溝口の戦後の名作『雨月物語』『山椒大夫』を担当)を再現した舞台が、今月の歌舞伎座の三月大歌舞伎で昨日から上演中。2005年に国立劇場で上演されて同劇場史上最大のヒットとなったので、好評に付き再演といったところか、悪評プンプンの歌舞伎座建て替え前の、現・歌舞伎座さよなら公演の一貫。





まあそんなキャスト紹介などの解説なんてどうでもよく、誰がなんといおうが『元禄忠臣蔵』は傑作である。溝口の最高傑作かも知れない。真山青果の戯曲も当時の江戸城や吉良屋敷の図面やら地図やら、資料がたっぷりついての出版で非常に歴史考証が細かいのだが、溝口の映画がセットだけでなく衣装、髪型など徹底的に時代考証と史実にこだわっているのも、進藤兼人が言っているような理由よりは、真山青果の精神を踏襲しようという試みと考えるべきだろう。討ち入りがないのも、実は原作の通り。

富森助右衛門(中村翫右衛門)
映画版ではあえて時系列を無視して、後編の冒頭に配された濱御殿綱豊卿で、右太衛門の見せ場としてちょっとした立ち回りがある以外はアクションがほとんどないのも、真山青果の原作が重厚な論理劇、政治的/倫理的ディスカッション・ドラマとして構築されていることをそのまま踏襲している。この前にもこの後にも忠臣蔵は映画でもテレビでもさんざん映像化されているが、恐らくここまでリアルな忠臣蔵はなく、そしてそれは単に表層の問題に留まらない。赤穂浪士、ひいては江戸幕府体制が確立した元禄期の武士の精神と倫理の構造について恐ろしくリアリであり、そして国策映画として忠君の精神を盛り上げるために陸軍省が関わった映画でありながら、その忠義について恐ろしく冷徹でもある。
今見ると江戸時代中期という時代精神についてだけでなく、この映画が作られた第二次大戦直前の日本という社会を覆う精神についても、これほど見事な作品はといえば、あとは文学でやはり忠臣蔵神話を扱った(というか見事なまでに呆気なくひっくり返した)野上弥生子の『大石良雄』(岩波文庫刊)を挙げられるくらいかも知れず、それは集団的狂気とか忠君愛国ファナティズムといったかっこうで片付けられるものではまったくない。2005年国立劇場公演の『元禄忠臣蔵』では忠義と自己犠牲の論理が繰り返されることが、とくに第一部の吉右衛門の心を打つ名演で観客の号泣を誘ったのだが、これと比較すると溝口の演出と、大石役・長十郎のやっていることの凄さがより際立つ。まったく泣かせてくれないのだ。

むしろ内蔵助たちの忠義の論理が議論で戦わされ、言葉で繰り返されれば繰り返されるほど、その論理自体の空虚さ、それが論理であって決して本心の心情ではないことが、溝口一流の引きのロングテイクによる凝視のなかに浮かび上がる。「心情が分からない」だから「共感できない」などの苦情はよく聞かれ、この映画を評価するごく一部の人々ですら主に溝口的な長廻しの形式的完成によってこの映画を讃えているのだが、いやこの映画の凄さは実は単なる形式の問題ではなく、ドラマの必然なのだ。溝口がここで映し出すのは、武家社会の倫理という論理にがんじがらめにされ、そこから逃れることが出来ない人間たちなのである。彼らは彼ら自身が口にする言葉によってがんじがらめになっているだけでなく、厳密な時代考証で再現された彼らの生存空間によってもがんじがらめにされている。実物大のセットもまた、江戸城という巨大な威圧的空間のなかに押しつぶされて人間性を失った武士たちを見せるための必然なのだ。

(1939)
戦前の溝口のなかでとりわけ評価の高い『残菊物語』でも、献身的なヒロインお徳の顔がほとんど映らない。お徳の献身に素直に感動してもいいように『残菊物語』はまだ作られているのだが、『元禄忠臣蔵』の溝口はそれを許さない。江戸城御本丸松の廊下での内匠頭刃傷事件のあと、内匠頭に切腹の沙汰が下される時、決定を読み上げる幕府側の使者に対してそれを聞く浅野家側は、10分近い長いフィックスショットのシーンの間、ずっと平身低頭状態だ。一見垂直の線と水平の線だけで構成される日本的建築空間にはしかし必ず上位の場と下位の場、上座と下座があり、そのなかの人間の位置関係が常に、身分と社会的・政治的に上位か下位かが反映されなければならない。我々は未だに、ほとんど無自覚にそのような位置の感覚を日常的に実践している。

内蔵助(河原崎長十郎)、堀内伝右衛門(中村鶴蔵)、おみの(高峰三枝子)
その社会の構造を常に映画に反映させる溝口の演出は『残菊物語』でもかなり徹底されているのだが、『元禄忠臣蔵』では顔が写るのは主に後編でいわばゲスト出演の右太衛門と高峰三枝子くらい。溝口が注目するのは感情表現の表層としての顔ではなく、むしろ背中を見せるショットが多いのは、武士の背中であれば着物に家紋が入っているからではないか。個人よりも家、人間は自分自身よりも家と身分を体現している、そういう社会を、そしてそこにがんじがらめにされた人間たちをこそ、この映画は見せる。
大石最後の一日で、男装に身をやつした高峰三枝子が大石に恋人の助命を必死で訴えるときだけ、この映画でほとんど初めて、サイレント時代の『瀧の白糸』や『折鶴お千』のように、あるいは戦後の『雨月物語』や『近松物語』のときのように、溝口のキャメラは突然、流麗な移動を開始する。

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