最新作『無人地帯 No Man's Zone』(2012)
〜福島第一原発事故、失われゆく風景、そこに生きて来た人々〜
第62回ベルリン国際映画祭フォーラム部門正式出品作品

1/01/2010

2010年:日本人は自らを自由にできるのか?

大晦日の日経新聞一面に、この一年を象徴するデータをグラフにして紹介するコーナーがあった。経済について「成長回復するが雇用は厳しく」という見出しがついている。素朴な疑問−−この見出しを書いたデスクは、自分があまりに奇妙な文を書いていることに「これってあまりにヘンじゃない?」と思わなかったのだろうか?

経済が成長しているのならなぜ雇用が厳しいって、「成長」の基準や指標に意味がないだけではないか。2008年の世界金融危機以来、世界経済は実はまったく回復していない。株価は上がっても欧米でも失業率はむしろ悪くなっている。それを「成長回復」と言っている経済って、いったいどういう経済なの? 人々と社会を豊かにすることなく、いったいなんのための経済システム、経済政策なの?

市場を流通するキャッシュフローの総額だけで経済を計ろうとしたところで、現在の経済システムではその金額自体が多分にヴァーチャルなものであることは、リーマン・ショック前に先物相場だけで原油価格や穀物価格が乱高下し高騰した事態だけでも十分に学習できたはずだ。ところがドバイ・ショックが引き金を引いた円高に、「今がFXのチャンス」と金融業界の宣伝がまことに賑やかである。

一昨年の米国の大統領選挙を左右する大きな要因はリーマン・ショックによる大不況、レーガノミクス以来の金融資本主義の破綻に米国民が嫌気が差して求めたCHANGEだとされるし、今年の日本の政権交代も小泉的市場原理主義、「負け組」とかのイヤな言葉や、深い哲学的な意味があることを薄っぺらの表層に勘違いした「自己責任」が横行し、政府は「イザナギ景気以来の長期の経済成長」と言い続けるのに一般生活者には実感がなかったどころではない、「派遣切り」のルサンチマンがひとつの動機とも推測されている秋葉原の無差別殺傷事件だってリーマン・ショックの前の話だった。

まあ「イザナギ景気以来の長期の経済成長」だって実態は自民党政権が日銀に(好景気で成長基調なはずなのになんで?)超低金利政策を押しつけ続けて市場に流通するマネーを水増ししてたこともあるんだろうし、現政権の予算編成が始まったら税収見積もりが9兆円も減った−−というか前政権下での見積もりが、麻生サンへの官僚からのリップサービス(というか選挙対策)で9兆水増しされてたわけでしょ、要するに。

そうしたフィクショナルでヴァーチャルなマネーが現実になって現実生活を破壊し、それをヴァーチャルでフィクショナルな政治的欺瞞で誤摩化し続けた末に、ついにアメリカで、続けて日本で起った政権交代とはなんだったのだろう?

アメリカでほぼ一年、日本でも百日が過ぎたこの年越しの時に、もう一度我々もまたその一部であった(まあこのブログを読んでる人はあえて共産党とか、連立するのは分かっていても社民党に入れた人も多いのかも知れないけど)変化の意味、そこで我々が意思表明したことはなんだったのかを考えてもいいように思う。

たとえば、果たして我々はガソリン税が半額になることのために「暫定税率撤廃」に賛成したのか? 「ガソリン値下げ隊」をやってた原油価格高騰時には値下げも切迫した問題だったにせよ、むしろ「暫定」と言いながら何十年もその税率が維持されていたり、高速道路にしてもいずれ無料になるという約束だったのにそれを履行できないことをおかしな理屈で誤摩化し続ける、その欺瞞的なやり方がイヤになったのであって、一方で地球の未来を考えれば高速道路が無料になって車の利用やガソリンの消費が増えるのはそれはそれで問題なわけだし、民主党は環境重視も政策に掲げていたのだし、我々がもっとも腹が立ったのは、政府が守ろうとしていた制度そのものの、隠しようもない不正直さではなかっただろうか?

あるいは市場のキャッシュフローの量だけで「イザナギ以来の長期経済成長」と詐欺めいた数字が踊り、我々の生活は問題だらけなのにそのフィクショナルな数字だけで為政者が自己満足し、ちまたでは「負け組」だとか言われてしまう世の中。ちょっと社会にでて仕事をすれば役人がえらくお金もマンパワーも無駄遣いしてるのも分かってしまうし、しかしそこから我々の給金とかギャラも出ていたりすると(ゼネコンならまさにその金で会社がもうかってるわけだし)文句も言うに言えない不正直さのしがらみに自身も絡めとられてしまい、社会の不平等の共犯者にされてしまう、そんな政治にウンザリしたのではなかったのだろうか?

いろいろ差し支えがあるので特定は伏せるが、僕の周囲でもどっちかといえば左派あるいはリベラルな人々のなかで、事業仕分けに恐々としている人々が最近多いのに驚く。

だいたい文部科学省・文化庁所轄の事業とか独立行政法人、あるいは助成金の対象だったり、こないだの事業仕分けで見事に仕分けられてしまった国際交流基金がらみで助成金があったり外郭団体だったりのことである。自民党政権が嫌いで、小泉内閣の脅威の支持率に「絶対に水増しされた数字だ」とか「周りに支持している人なんていないのにどうなってるんだろう?」と言ってたような人たちが、今や自民党と言う名目で官僚支配だった時代が懐かしいかのような口ぶりで、「経済効率だけ考慮して一時間の話だけの事業仕分けはけしからん」みたいなことを言うのは、なかなか不思議な光景に思える。

僕自身もそういったところと仕事をしたり、助成金をもらってたりもするから、逆に事業仕分けがあれば、たとえば交流基金関連で外務省天下りの「理事」とかが仕事もしないお飾りで高給を取っていたり、海外映画祭で交流基金の助成で招聘されたりするといかにも「俺が呼んでやったんだ」みたいな態度でこちらがどんな映画を持って来ているのかも知らない現地代表者にウンザリする(ちなみにたとえばフランス政府で同等の機能を持つCultures Franceだと、招聘した作家をいろんな人に紹介して頑張って売り込みしてくれる)、そういった連中に消えてもらう大きなチャンスだと思うのだが。

実際、事業仕分けで切られた事業の多くは、担当官庁のお役人が事業内容の説明もちゃんと出来ずに厳しい判定を食らっているわけで、問題は彼らに自分たちを代表させていることに過ぎない。たとえばフィルムセンターならフィルムセンターで、本当に予算を切られたくないのなら、文化庁は現場で働いている主幹だとかに仕分けで説明させるだけで、説得力も結果もずいぶん違うはずだ。

いや省庁の担当者が行かせてくれない、彼らが自分で行ってしまうというのなら、まず自分のやってる仕事の意味を守るためにも「現場が行くべきだ」と主張だけはするべきだし、一方で民主党は陳情を党に一本化するということをやっている…というのもマスコミは「自民党潰し」としか報道しないので意味が分かってないのかも知れないが、要するに自分の地元の民主党代議士であるとかに陳情しても、これまでの政官財の癒着で有力者とか官庁の紹介やコネがないとと言った制約ぬきに、説得さえできれば党の上に上げてもらえる可能性もあるはずなのだ。その陳情制度改革とセットで、小沢一郎は新人議員を「次の選挙のため」と口説き落として精力的に地元周りをやらせているではないか。

だいたい文化事業の独立法人に独立採算制だなんて強引でバカ単純な経済効率を持ち込んだのは自民党の「行政改革」である。公開が原則の民主の事業仕分けは、単に金銭の収支の問題ではない経済効率、文化政策が国として必要なのを認識した上でそのなかで官僚の中抜きや天下り官僚などの無駄がないかをチェックするようになっている。しかし文科省の官僚とかに代弁させたら、彼らは当然ながらその事業を守るかどうかよりも自分たちと自分たちの先輩のポストを守ることを最優先する…と説明がちゃんとできないから当然ながら事業が切られる可能性が高いわけで、だから官僚やお飾りの天下り理事でなく、現場で実際の事業をやっている人間が行けばいいだけの話ではないか? それは現政権の掲げる「脱官僚」「財政規律の健全化」「国民のための政治」といった目的にも、少なくとも理屈の上では合致するはずなのである。

ところがそう言う話をしても、周囲で理解してくれる人はいない−−というか、つまりは自分が行けばいいのだと言うところまでは分かったところで拒絶反応が起る。そんな説明したって議員とか仕分け人には通じない、とか言い出すに至っては、なにあなた方がやっている文化事業とか国際交流とか、そんな説明もできないほど社会に無益で無意味なものなんですか、と毒づきたくもなってしまう。「いや彼らは素人だから…」って文化ってそんな専門家だけが共有するスノッブなものなんでしょうか? それなら公金を使ってそれを維持する必然がそもそもないでしょう?

なにも難しい理論が要るわけではない。川端達夫 文科相がフィルムセンターの相模原倉庫を視察し、映画の復元のための細かな手作業をつぶさに見た上でぶらさがりの記者団に「こういうものはきちんと守っていけないといけませんね」とコメントしたそうだ。残念ながらそれはまったくマスコミ報道に使用されなかったらしいが、今回の政権交代が与えてくれるいろんな効果のひとつというのは、そういう本来の人間的な価値の側に向けた価値観の転倒、これまでの元からたぶんに非人間的だった上に経済観念のレベルでも虚飾が崩壊した価値観(「成長回復するが雇用は厳しい」のならそれはその「成長」の基準となる価値観の誤りが証明されただけだ)や、耐用年数を過ぎた官僚制度にまとわりついたしがらみを断ち切り、はっきり言えば我々日本人が人間としての本来の自由を取り戻すチャンスであるはずだ。

僕自身、かなり先鋭的な手法を使って、いわゆるテレビ・ドラマとかハリウッド商業映画、ドキュメンタリーなら「NHKスペシャル」とはぜんぜん違うスタイルで映画を作っているし、そういう基準から言えば「難解」な作品なのかも知れないし、『フェンス 第一部 失楽園 第二部 断絶された地層』(2008) なんてのを長島防衛政務官あたりに事業仕分けされたら日米安保の是非を巡ってまったく違った次元の大激論になるかも知れず(勝つ自信はありますよ、ちなみに)、年を越して大阪で撮影が続く即興フィクション映画『ほんの少しでも愛を(仮題)』では差別とか偏見、加虐とか虐待的な人間関係などの、かなりディープで必ずしも心地よいものでもないテーマも背景に、大阪の淀んだ地下水脈とも言うべき歴史の地層を意識化させる映画になって来てしまいつつもあるから、薄っぺらな「事業仕分け」なら、あるいは仮に助成金をくれる側の官僚が行ったりしたら、たぶん真っ先に「マニア向けのもので公共性がない」として切られてしまうだろう。

だが作っている側からすれば、見た人が「素人」でもなんでも誰でもいい、あくまでまともに知性と感性のある普通に賢い人々に見てもらえれば、そこで映画と一緒に考えてもらうための映画であり、一部の批評家だとか業界人には偏執狂的だとも言われるほどの執拗なスタイルと複雑な構成も、我々の生きている世界が複雑な場所である以上、その複雑さについて考えてもらうための選択であるつもりでやってることだ。

別にただ長廻しや断片を重層化する構成が好きだからというだけでやってるわけではない。フィクション映画であえて素人を使うのも、(もちろん映画的な実験でもある一方で)そこから真実の演技を引き出せれば職業俳優には難しい生身の人間の深みを見いだせるからだ。

通じるかどうかはともかく、一応自分のやっていることをただ「映画好き」とか「映画業界」のなかだけで通じるボキャブラリー以外のやり方で説明し正当化が出来るだけの論理は、日頃から準備しているし、そうやって常に意識化しているからこういうことをやり続けられるという面もある。というかたとえば素人を使うことについては、「演技」とか「俳優の仕事」に興味がある人以外は意識してもらう必要すらない、そのレベルで通用するくらいのことはやってもらっている(し、出来なければ消えてもらうしかない)。

そこから先は自分の説得力、それ以上に自分の作品の説得力の問題だろう。こちらは年に何本もある助成金の対象のせいぜい数年に一度の対象に過ぎないし、一応は芸術家のはしくれである以上、故ロバート・アルトマンに口癖のように言われ続けた「ヴァン・ゴッホは生涯で一枚しか絵を売っていない。芸術とはそういうものだよ。私は運がいいだけだ」という言葉をかみしめるしかないし、その覚悟は最初からしていなければならない。

公金を使った文化事業ともなれば、もっと普遍性のある一般的な議論でその事業の正当性を、突き詰めれば文化とは国や民族のアイデンティティの根本であることも含めて、堂々と理論化できる同時に、自分たちの事業がいかに社会にとっていちばん大切な人が人として生きるということの意味に貢献しているかくらい、いろんな形で説明できるはずだ。

もちろんそこには、小泉時代に嫌らしい勘違いで喧伝された「自己責任」とは違った次元の、真に哲学的な意味での「自己責任」を一人一人の日本人のなかで回復させる必要がある。小泉純一郎の時代のまっただ中に作った『ぼくらはもう帰れない』(2006年ベルリン映画祭出品作品、同年ペサロ国際映画祭『未来の映画』最優秀賞)という映画は、コメディタッチではあるものの、中心にあるのはそんな時代のなかでも本当の意味で自分の人生に責任を持つということの意味を模索する、模索しなければならない人間たちを見せることだった。もっともそれをやったのは別に僕の意図ですらない。集団即興のフィクションだったこの映画がそういう方向に収斂したのは、出演していた若者たちが自らそういう模索をすることの大切さに自然に気付いて行ったからに他ならない。

そういうことに気付くフィクショナルな映画の枠組みがあったから出来たことなのかも知れないが、今のこの新しい時代、歴史的転換のまっただ中とは、そういう枠組みが現実に我々を取り囲んでいることに他ならない。そのなかで我々にそれができるのだろうか? 政権交代から百日ちょっと経った今、そこに大いに不安を覚えてしまうのも確かだ。

率直なところ、昨年のうち半分以上を新しい集団即興劇映画、つまり出演者が自由にやりたいこと、表現したいことをやることからすべてが始まるはずの映画『ほんの少しだけでも愛を』を撮り続け、未だクランクアップできずに延々と続けているなかで気付いたことでもあり、「事業仕分け」をめぐっていろいろな知り合いと議論したことにもつながる−−この国の少なくとも半分以上の人々は、自由であるということ、自分が自由な一個人として自分の意思と良心でこの世界に関わって行くという、近現代の到達した人間存在の根本であるはずのことを、不思議なほど、まったく不条理なほどに、恐れているのではないか?

2010年がいろんな意味でこの僕の危惧が単なる杞憂、誤りであったことが証明される年になることを祈らずにはいられない。

…っていうか、そのためにも映画撮り終えないといけないな…。

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