最新作『無人地帯 No Man's Zone』(2012)
〜福島第一原発事故、失われゆく風景、そこに生きて来た人々〜
第62回ベルリン国際映画祭フォーラム部門正式出品作品
DVD 2月20日より発売!amazon.co.jp 配信はこちら

7/21/2012

被災地で映画を撮るということ・その2




7月17日から飯舘村の長泥地区が、「帰宅困難地域」としてバリケードで閉鎖されるので、先々週の日曜日、『無人地帯』の出演者であった長泥在住の鴫原さんに、ご自宅に連れ行ってもらった。

一年の歳月は重い。昨年、桃源郷の春と見紛うばかりの長泥は、農地には雑草が生い茂り、同じ風景でもどこか別のものに変わっている。日本の自然というものが、人の営みと寄り添ってこそのものなのだと、改めて痛感される。鴫原家から見える山の一部は、害虫が発生したらしく、木が枯れてしまっていた。自家用の菜園では、アスパラガスが灌木のように育ってしまっている。ハウスで栽培していた花は、避難後、手つかずのままだ。「なにもする気がなくなってしまって」と鴫原さんは言う。

それでも、それは立派な造りの鴫原家は、ほぼ元のままだ。しょっちゅうここに戻っては、掃除をし、風を入れ、仏壇の花も欠かしていない。

だがこれからは、地元の人だけは立ち入りが許可されるとはいえ、そういつでも戻るわけにも行かなくなる。なによりも、5年間はこのまま…ではその5年後にどうなるのか、政府が今言っているように除染が終わっているのか、その結果住めるようになるのかも、なにも分からないのだ。

『無人地帯』の、いわば続編の撮影である。

当初は富岡町の夜の森の桜をクライマックスに、一年後の春を撮る、というコンセプトで進めていた。町の人たちが地元の誇りである夜の森の桜で花見をしたい、花見の時だけは帰らせて欲しい、と要望していて、町長も最初は乗り気だったらしいのだが…結局は報道陣には公開…つまり「テレビで見て下さい」という形でお茶を濁されてしまった。

テレビで見たからいいでしょう、で気が済むものでもあるまい、かえって辛くなるんじゃないかとすら思うのだが、テレビ局などは律儀に「被災者の皆さん、見て下さい」と、あたかも「いいこと」をした気分である。ひどく虚しい。

皆さんが戻って花見をする姿に、失われた過去を未来への意思につなぐシーンで終わらせるはずだった映画も、終わらなくなってしまった。

そもそも3月末に避難区域の見直しがあるという話だったから、夜の森は線量からして、日中の立ち入りは自由になるはずだった。それが結局、先延ばしになった。時々、政府や行政は、地元の人々が諦めるよう、気力を失うように、わざとイヤがらせでこういことをやってるんじゃないか、とすら思えて来る。

映画の方は映画で、こちらも思うように予算が集まらないこともあり、春、夏、秋、冬と少しずつ、震災一年後からの一年間を記録する映画にしようと、企画を作り直しているわけである。

夜の森にご自宅があった西原さん(今はいわき市泉玉露にある富岡町の仮設の自治会副会長を務めている)の奥さんは、「一年間ずっと、非日常が続いている。これは決して日常ではない」と言う。過去を奪われ、未来の展望はまるで立たない宙づり状態の「非日常」が続くなか、原発事故で避難させられた人たちは、その「非日常」のままが延々と続く現在の、弛緩した時間が、大変な重荷になって来ている。

西原さんは夜の森の桜についても、こうはっきり言っていた--「あの人たちは分かっていない。望郷の念なのだ。テレビで見るだけで慰めになるはずがない。」

思い返せば、事故発生から40日前後に撮影した『無人地帯』の時の方が、ある意味で皆さん元気だった。立ちはだかる巨大なこんなを前に覚悟を決めた直後の人間の強さといえども、それがそのまま何ヶ月も一年以上も、なんの展望もないのに、そう簡単に維持出来るわけがない。

6月には、浪江町に一時帰宅したスーパー経営者の男性が、そのスーパーの倉庫で首吊り死体で見つかった。自殺してしまいたくなる気持ちも、痛い程わかる。なにも変わらぬ非日常が、ただひたすら持続することは、それほどに耐え難い。

人間の社会とは滑稽なものだ。現状、放射能汚染とはいえ相当に低濃度なもので、この程度の被曝によって将来がんが発生する確率はそんなに高くない。本来なら生存本能の延長としてそうした危険を警戒し、然るべき対処を行うことのストレスが、鬱病などの精神疾患や、様々なストレス性の病を引き起こすことの確率の方が、このままだと恐らくは確実に高くなるのではないか。

現状のような低線量被曝の被害はもはや、科学的な次元の問題ではない。純粋に社会的な問題であり、こうした危機に対応できない我々の社会の構造的な脆弱さが、呆気なく曝け出されているとすら言える。

事故を起こした発電所の現状は、よく言えば、まあここ数ヶ月は「安定している」…というよりも冷却サイクルが一応出来上がって以来数ヶ月、基本的に何も変わらないままだ。もっとも、溶け出した燃料を冷やすだけで10年はかかるというのだから、新しいことなど滅多に起こるわけもないのだし、そうなると発電所のことはニュースから消える。

原発事故は継続する事態、持続する非日常であって、なにか新しいことが起こる度にそれで騒げる現代の報道のあり方とは、根本的に矛盾するのだ。

「ニュース」とは文字通り「新しい出来事」であって、持続し継続する状態を報じる仕組みにはなっていない。だから「ニュース」は、やれ4号炉のポンプが故障した、やれ倒壊の危険がある、やれ放射性キセノンが検出されたから再臨界の可能性がある、といった発表には飛びつくが、キセノンの量が分かった結果再臨界はあり得ないこととか、ポンプがあっけなく復旧したこと、汚染水の再利用処理システムがまだ万全でなく、増える汚染水で敷地内がタンクだらけになっていること、そうした事故対応施設が現段階ではどれも仮設であること、作業員の雇用の問題などは、注目を集めることも滅多になく、すぐに忘れられるか、最初から話題にならない。

新たな「危機」がなければ報道が続けられない、だから何かあった時だけは大騒ぎしては数日後には忘れるニュースと、その報道によって福一のことに関心を取り戻す我々の「その他の日本」、その一方には非日常が持続する日常となってしまったまま宙吊り状態の実存に置かれた現実の被災者たちがいて、その間の温度差は、開くばかりだ。

こと我々の側がそのことに無自覚である限り、これは大きな断絶へと繋がって行くだろう。日本の人口は1億3千万、原発事故の避難者10万超、東北三県の津波地震被害も合わせても、たかが30万だ。無視しようと思えば、無視するのは容易い。

宮城以北の津波被災地でも、「過去が失われ、未来が見えない」宙吊り状態の実存は、同じだ。かつて海辺の町並みがあったことを知らない全国の視聴者は、一応は瓦礫が片付けられた(一カ所に集められた)風景を「更地」と勘違いするし、その更地に見える一カ所に瓦礫がうずたかく、丁寧に分別されたまま山積みになっているのを見ても、なんとも思わない。そこが決して「更地」ではなく、ただ今後も利用出来る土地にするのかどうか、決定が先送りにされたままだから、なにも出来ない。待っているしかない。

被災者は無視されるか、自分たちのために政府や社会を動かすには、自分達自身をいわば「見せ物」に供するしかない。だがそれは常に、逆に自分たちの利益に反することに利用されるリスクを負ってもいる。

浪江町や双葉町の町長は、あえてそれをやろうとしたが、本当にそんなこと言ったのかと驚くような発言も、町長が言ったとして話題になった。「毎日鼻血が出て、脱毛もしている」。これはほぼ確実にインターネット上のガセだろうが(急性放射線障害が出るような事態でないことは、地元の人はみんな知っている)、こと双葉町の場合は町役場が埼玉の加須、町民の大半が今はいわき市など福島県内への避難と、ただでさえ「溝」が出来ている。そこへこのような発言をしたということが流れれば、存亡の危機にあるコミュニティに疑心暗鬼を引き起こすだけだ。

そして彼らが国会などで証言したことが話題になったのはほんの数日間だけだ。世間はすぐに、別の話題に飛びつく。

宮城以北の瓦礫処理にしても、瓦礫の有効な活用法を被災地の町長・市長が提案するたびに「被災地は広域処理に反対しているじゃないか」と誤解が広まる…いや誤解ではなく、恣意的な虚偽で被災地を利用しつつ、自分達は被災地の代弁者であるかのように装う、はっきり言えば「人でなし」が多すぎるのだ。

被災地で映画を撮ると言うことは、そんな複雑な困難に直面する地元の人に、直接的に貢献することにはなかなかつながらない。我々が映画で見せることで問題が認識され、それで解決が図られることがあればいいのだが、残念ながら滅多にそうはならないのだ。

映画は速報性のあるニュース・メディアではないし、完成させるだけで早くても数ヶ月はかかるし、リアルタイムで困っていることを世間に伝えて改善を促すような役割は、なかなか果たせない。そのことが起こってから映画が見られるまでには、だいたい1年以上のタイムラグがあるのだ。

あえて言ってしまえば、我々はたかが自分の映画のために出演している人たちを利用しているに過ぎない。

最低限の倫理として、だから我々は、仮に出演してもらった人と必ずしも意見が合わなくとも、それはそれで一人の人間の正当な意見として誠実に伝えることと、仮に意見は相反しても決してその人たちの不利益になってはならない、という倫理的な義務だけは、背負わなければならない。

そのことには、一見矛盾するようだが、ある種の発言は映画では使わないという高度な判断も含まれる。

誤解を招いたり、結果としてその人たちへの観客の評価が不当に低いものとなりかねない発言を、本来の文脈から外して用いてしまうことは、不利益にもつながる。平時ならともかく、今たいへんな困難に向き合っている人たちだ。そこになんの意味もない(誤解が理由でしかない)ネガティブな評価が殺到してしまっては、ただでさえ大変な非日常の生活が、ますます脅かされることになる。

これは映画作家でないと判断出来ないことだ。我々の映画には、魅力的な登場人物が必要なのであって、魅力ある現実の人間というのは必然的に、言うことにも(仮にどんなに意表をつく発言でも)説得力がある。それを見極め、場合によっては引き出すという、ドキュメンタリー映画をやる場合の基本中の基本を、これほど求められるテーマも、「被災者」以外にはめったにないのかも知れない。

一年以上も「非日常」の「宙づり状態の実存」が持続するなかでは、さらに大きな問題がある。「被災者」とひとくちで言っても、立場も様々だし、こと原発事故で避難させられた地域コミュニティでは、今後は「帰れるのか、帰れないのか」「帰らないのか、帰るのか」によって、対立しかねない状況は確実に生まれる。

報道や、ドキュメンタリー映画の撮影が、その対立の火種に着火させてしまったり、その火を煽ることは、やはりあってはならないことだし、それ以前に「撮れなくなる」、つまり撮影は遠慮してくれといわれる事態だってあり得る。

だからといって、あたかも理想的に、皆が仲良く暮して何の問題もないかのように美化することもまた許されない。ドキュメンタリー映画にフィクションの要素が入り込むのは構わないし、むしろ当たり前のことだ。だがそれはそこに登場する人々の真実としてのフィクションであって、決して我々の側のファンタジーを押し付けるものであってはならないのだ。

そして7月16日の深夜、鴫原さん達のかけがいのない土地、長泥は封鎖された。5年間はこのままだという。5年後どうなるのか、誰にも分からない。宙づり状態の非日常は続く。


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