最新作『無人地帯 No Man's Zone』(2012)
〜福島第一原発事故、失われゆく風景、そこに生きて来た人々〜
第62回ベルリン国際映画祭フォーラム部門正式出品作品

10/22/2012

龍安寺の石庭を見る “正しい順番” について


所用で京都に行って来たついでに、(実はこれまで機会がなく、初めて)龍安寺の石庭を訪ねたのだが、観光客の入り口である庫裏から、方丈に入って石庭に面したところで写真を撮ると、なにかおかしいのである。

いや写真を撮るまでもなく、見るだけでなにかおかしいのだが、写真を撮ろうとすると、手持ちだとうっかり、このように微妙に斜めになるというか、水平が取りにくくて困る。

さらに近寄ってみると、やっぱりおかしい。



この写真で右手に見える、つまり庫裏から直接方丈縁側に出た際に、石庭のいちばん奥に見える土塀が、どこか変に見えている。

写真を撮る時には普通、この壁に合せて水平をとろうとしてしまうので、なんとも混乱してしまうのである。


ここまで近寄るとさすがに、なにがおかしかったのかは一目瞭然…でもなくこのアングルだと逆に返って自然に見えてしまうかも知れないが、上の二枚の写真と比べて下さい。

そう、土塀の上部が、水平ではない、斜めになっているのだ。

下の写真のように座敷の方向から見た際(つまり観光客向けの順路で最初に見るのと90度違うアングルになった際)に、視野の奥に向かって遠近感が誇張されているのである。



この写真では、斜めになっている壁は画面の右側外。よく見るとこの塀も右に向かって低くなっている。

ちなみに、今では石庭を見終わった拝観客が出て行く、方丈の庫裏から見て奥側の縁側で、振り返ってみるとこのように見える。


まだ紅葉していないので緑のかえでの向こうに真っ白な石庭が見える、これがもう少しすると色鮮やかな紅葉の彼方に、石庭が見えることになる。

そしてその時には、視野に入った右側の塀が、視野の奥に向かって低くなっている、つまり遠近感が誇張されているので、白い石庭がより広がりを持って体感出来るのだ。

今の龍安寺さんが指定している順路だと、庫裏にあがると右手にお土産屋があり、その向こうに縦長の長方形に伸びる石庭を見ることになるわけだが…


…とたんに「あれ、奥の塀がなにか変じゃないか」「ああ、斜めになってるんだ。なぜなんだろ?」とまでは考えるにせよ、意味が分からなくなってしまう。

しかも実は、砂利の敷き詰められた地面も、この写真の左手前側に向かって、ほんの微妙にだが、低くなっている。

これを逆から、つまり庫裏の反対側から見れば、遠近感が強調されるはずが、いきなりこちらから見ると(意識はしない程度であるにせよ)水平感覚がおかしい、不安定な気分になる。

この庭の設計上、正しい導線ではないのだ。

正しくは、お土産屋の前を通り過ぎたあと、奥に見える石庭の方にすぐに行きたい欲望を抑えて、右に曲がって方丈の緑あふれる裏庭に進んで…

…気を落ち着けたところでさらに右に曲がって縁側を進み…

…その向こうに石庭が垣間見えるところから石庭に進むように、この瞑想空間は設計されているのである。


そこで目に入るのがまずこの手前の三つの石…と言っても一瞬、二つに見えるかも知れないが、中央の大きな石の向こう、手前の平らな石のちょうど反対側に、同じ様に平らな石があるので、三つ、その奥にはさらに(ほぼ同じ高さの)石が二つある。ここで見えている石は、合計5個だ。

座敷の中央の前辺りの縁側に進むと、右手のグループの石はもう2個しか見えない。その奥に2個のグループ、その左に3個の石のグループ。



龍安寺の石庭には、合計15の石が配されている。だがどの位置からも、15の石を全部見ることはできない。

誇張遠近法の使い方から推論できる正しい導線に従って、あえてぐるりと方丈の裏を廻って、逆側の縁側から入っていくと、見える石、見えない石の関係も、すんなり頭に入って来る。


さらに左に目をやると、この写真で中央に見える、庭の奥の壁の前に横長の石が1個と、そのそばに小さな石が1個で、ここまでで計10個。左奥には2個しか見えない。

それがもう少し先に進んで、いちばん奥のグループに近づくと、ひとつに見えた石が実は2個に分かれていて、その反対側にも砂に埋め込まれたような平たい石がもう1個あることが分かる。

でもこれでは、合計まだ14個だ。

ところが、方丈の縁側を歩き切って、庫裏に抜ける前にもう一度石庭の方に振り返ると、今度はさきほど手前に見えた石は隠れてしまう代わりに、その反対側で1個独立した石になっていることが、分かる。

これで合計15個。

石が15個配置されていると言われて、数えてみようとすることで、人間の視野と言うものがいかに限定されたものであるか、いかに我々が見ているようで実はなにも見ていないかが、具体的に理解できるように、この庭は設計されているのである。


あ、この角度だと、今度は2個あるはずの、塀の前の石が、1個に見えてしまう!

禅宗の瞑想というと、なにか浮世離れしたといっては失礼だが、抽象的でよく分からないものだというイメージを我々はなんとなく持ってしまっている。

石庭にしてもなにか抽象化された世界のなかに森羅万象が組み込まれている、それを読み解くようなイマジネーションの世界だけが瞑想なのだと、思い込みがちだ。

むろん瞑想には究極、そういう面はあるのだろう。いずれ「悟り」に到達すべきものなのだし。

でも一方で、龍安寺の石庭に凝縮された瞑想の思想は、石の数という極めて具体的なものを出発点とするように、周到に設計されているのだ。

庫裏から入ったときにすぐに向こうに目に入る石庭にすぐには行かず、あえて緑あふれる裏庭を通ってから方丈の石庭に入る動線も、心をシンプルな状態に落ち着けるための、極めて具体的な知恵なのだろう。

いやはや、すごい導線と視線の計算、建築家の才覚である。


だが通常の観光コースで最初に見るこの位置からだと、奥の土塀の遠近感が誇張された土塀の仕掛けがかなりよく分かる…というよりも、このアングルからでは、ただ変なだけだ。

逆の順番で見ていけば、後になって最初に見た時に感じた空間の広がりが、実は遠近感を操作したものであることが分かって、納得できるはずなのだが。


…というわけで、今の龍安寺さんには、先人の知恵を鑑みて、もうちょっと順路を工夫して頂けないものかなぁ、と思う次第である。

ところで、昼間に行くと庫裏の前はこんなに人だかり、というくらい、それは世界遺産であり国の特別名勝なんだからお客も多いわけで、朝の8時から開いているので、なるべく朝早めに行くことをお薦めする次第です。

こちらの、龍安寺前まで直行できるJRの路線バスは、なぜか観光案内やルート検索であまり出て来ないが、いちばん手軽 http://www.nishinihonjrbus.co.jp/other_bus/takao-keihoku_information.html


東京から深夜バスなら朝7時前について、京都駅前のカフェで朝飯食べて、龍安寺前まで、と行くと完璧ですね。今度はそうしようっと(…と、最後はえらく貧乏臭い話ですみません)。

3 件のコメント:

  1. はじめまして
    大変面白く ブログ記事拝見いたしました

    私も 非常に 龍安寺石庭に興味をもっていまして
    さまざま 角度から 検証を進めています
    もしよろしければ サイト ご覧ください
    http://sekitei.oknext.net

    OIP 齋藤

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  2. 匿名3/13/2014

    確かに、石庭の作者の意図とは逆の導線になっているのかもしれませんね…!それが余計に謎を深めているように思いました。遠近法を利用しているなら明らかに反対ですね。

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