最新作『無人地帯 No Man's Zone』(2012)
〜福島第一原発事故、失われゆく風景、そこに生きて来た人々〜
第62回ベルリン国際映画祭フォーラム部門正式出品作品
DVD 2月20日より発売!amazon.co.jp 配信はこちら

10/04/2012

トルコで『無人地帯』を上映して来ました

前項でも触れた通り、トルコの地中海岸に近いアダナ市で、『無人地帯』を上映して来た。

市行政の主催で、映画祭のポスターには市長をあしらったものも多く、そしてトルコにはそこらじゅうに、共和国の建国の祖であるアタトゥルクの肖像が飾ってある社会でもある。

そんな映画祭なので、宿泊先はアダナでたぶん最も高価なのであろうヒルトン・ホテル。

大変名誉ある、歓迎されまくりの「国外からの賓客」扱いである。

その高級ホテルから、通りを挟んだ反対側が、クルド人やシーア派も多いというスラムなのだから驚く。


このホテルはトルコの工業系財閥のサバンジが、繊維工場の跡に建てたものなのだそうで、だからどちらかといえば貧しい地域にあるのも分からなくもないとはいえ、目眩がするような格差が目の前にある。

アダナ地方は、かつては地中海沿岸でも有数の綿花の産地だった。

今はヒルトン・ホテルになっている工場も、その綿花生産を前提にしていたのだろう。

だが過去10数年のあいだに、綿花の生産は経済的に割が合わないために縮小が続き、工場も廃止され、そしてそこに国際フランチャイズの豪華ホテルが建っているわけだ。


こうして経済発展を続け、軽工業から重工業へと舵を切ったトルコは、現在、原子力発電所の建設を計画している。

その立地のひとつがこのアダナ市の近郊なわけで、ここで上映できることの意味は大きいだろう。

この5年くらいで、アダナの人口は2倍だか3倍に膨れ上がったそうだ。

新たな生活や仕事を求めて、田園地帯から都市に移動して行くことは、この国でも起こっている。あまりに急激な都市の人口増加に、インフラ整備もなかなか追いついていない。

中心部の旧市街から少し外れると、高層アパートが立ち並ぶ、その構造は、日本に比べれば湿気があまりないこの地域とはいっても、エアコン、つまり潤沢な電力供給が確実に必要だろう。



一方で、そんなモールのすぐ側に、スラムが広がっていたりする。

映画祭での上映後の質疑応答でも、アダナ郊外の原発計画のことは話題になった。

福島の原発事故を経た日本人として言えることは、「原発が出来るともの凄く便利になるように思えるかも知れない。でもだからこそ始めてしまえば、絶対に止められないことをよく考えた方がいい」だった。

原発の安定電力供給に依存した社会システムにしてしまうと、そう簡単に変えられないまでに生活がそこに浸り切ってしまうのだ。

たとえば、日本は典型的な24時間型の先進国である。これは深夜の電力が安いことの結果でもある。 
日本の深夜電力が安いのは、原発の存在を前提にしているわけで、原発はコンスタントに同じ量の電力を出力し続けることしか出来ず、電気が溜められない以上、その生産された電気は割引してでも使ってもらわなければならない。 
その割引の電気料金で成立しているのが、たとえば東京や大阪のような大都市ではもう生活に不可欠になっている24時間営業のコンビニであり、そのコンビニのある便利さを前提にしている我々の生活だ。 
昨年の震災と原発事故発生の後、ほとんどの原子炉が停止していても、この営業形態を変えようという話は出て来ていない。 
「原発をすぐ止めろ」と主張する人たちですら、原発による安定電力供給を前提にした24時間型の社会を変える話はしない。 
テレビの深夜番組、24時間放送も、どれだけ視聴率が稼げているか怪しくとも、止める話はない。 
昼間の、夏場なら電力消費ピークになる1時から3時代だって、見る人は少ないんだから止めていいじゃないか、有益な節電アピールになるじゃないか、と思えるのだが。

現在、日本では関西電力の大飯原発の3号4号炉以外の原子炉は、まだ停止している。「それでも電気は足りているじゃないか」と言うのは、停電が実際には起こっていないので、一見説得力がある。

…というのも、我々の生活に直接影響がないからだ。

これは日本企業の独特の倫理観とでも言うべきだろうか、「一般のお客様」には絶対に迷惑をかけないことだけは、驚くほど徹底している。

だから渋谷や新宿にでも行けばネオンは煌煌と輝いているし、昼間でも商業施設内は冷房で寒いくらいだ。

一般家庭の節電努力に至っては、統計を細かく取るのも大変なのだろうけど、効果が公表すらされていない。東京電力から来る「お願い」は、「節電のお願い」よりも「料金値上げのお願い」の方が印象が強い。

実は火力発電を大量に増設し、従来の火力発電所も合せてフル稼働させているからだ。

首都圏では誰も気にもしないが、福島浜通りに行けば、広野町の火力発電所(福島第一からほぼ20Km)はフル稼働中だ。 
東京電力管内で昨夏も今夏も停電を免れたのは、もの凄いスピードで火力発電ぶんを増加させたことがひとつには大きい。 
ただ化石燃料を燃やす以上、発電の直接コストは上がる。 
原子力のように間接コストを帳簿上安く見せかけるようなことは出来ないので、帳簿上、目に見えて上昇するわけで、値上げに関しては現代の資本主義の理論では「やむを得ない」として受け入れる他ない。 
かといって、じゃあ電気代が高いからお財布を気にして節電を、というインセンティブが働いているとも思えない。 
そりゃ不便だし、現代の気密性の高い建築では、夏場はひたすら暑いのだから、仕方がないのだが…。

もう一点、停電が起きない大きな理由、電気が一見足りているように見える理由は、製造業を中心に、大規模需要口に厳しい節電義務を課しているからだ。

製造業の現場−−これも我々「一般のお客様」の目には触れないところだ。

昨年も今年も、10%とか15%とかの相当に厳しい節電義務を、製造業は乗り切って来た。

そのおかげで我々は「電気は足りているではないか」という幻想を抱けるのだが、このやり方ははっきりいえば、二、三年の我慢を前提に、とりあえ急場しのぎで、多分に無理のある我慢を耐えていることでしかない。

この程度の「節電計画」や「代替エネルギー政策」も準備していない、ということは、政府やこの国を左右する力を持っている者達が、原発事故へのリアクションは二、三年の一過性のものであって、国民世論もすぐに忘れるだろう、それまでの辛抱だ、としか思っていないことを示してもいるだろう。

そしてその政府の読みも間違っていないだろう、残念ながらそう思う他はない。

コンビニの営業形態を考えるとか、テレビの放映時間とか、直接に生活を左右するわけでは実はないものを変えることですら、我々「一般のお客様」たち自身が考えもしないで、しかし問われれば機械的に「いや、原発はやっぱりやめるべきですよ」と口だけは言う。 
経済産業省が一般意見を公募したのだって、こういう現実が前提にあってのことだろう。その結果を受けた2030年には原発ゼロというのも、閣議決定や国会での議論を経るわけでもなく、つまりなんの拘束力もないままのアドバルーンでしかない。 
野田首相は「党が決めたことですから」と目指すフリをしてみたり、その数日後には撤回したり、とまるで一貫性がない(それにしたって話を変えるにはあまりに早過ぎると思うが)。

政府の無責任を責めるのは簡単だ。

だが本当は、我々の社会の、我々「一般のお客様」自身が、2030年までに原発をどうやったら止められるのかなんてなにも考えていない以前に、考えたくないのではないか。

製造業が2、3年辛抱すれば、あとはなし崩しで元に戻して行くことを、我々自身が潜在的に期待していないと、果たして言いきれるだろうか?

こと都市部では、我々は原子力の電気がある生活に、すっかり慣れ切ってしまっている。それを変えたくないから、慣れ切ってしまっていることにすら無自覚であろうとばかり頑張っている。


だからこそ、原子力に手を出す前に、トルコであるとか、あるいは11月にはイランとタイでの映画祭での上映が控えているのだが、発展途上国の人たちはもう一度真剣に考えた方がいい。

始めてしまっては手遅れだから、いったん原発に依存してしまった社会は、そう簡単には変えられないのだから。

…と理屈では言えるものの、目の前にスラムと冷暖房完備のモールや高級ホテルが隣接しているような現実や、インフラ整備の遅れを見てしまうと、それでも原発に手を出すのはやめた方がいい、とはなかなか言えない気分にもなるのである。

「この貧しさを見ても、それでも万が一の原発事故のことを語るのか?」と言われて、反論出来るだろうか?

でも、こうして悩むべき課題を突き付けられるからこそ、『無人地帯』という映画を作ってよかったとも思うのだ。

率直に言えば、この映画に出て来る福島浜通りや、あるいは飯舘村の人々、農村であるとか漁師の人々と比べて、原発の電気の恩恵に40年間浴し続けた我々東京の人間は、より幸福だったと言えるのだろうかと、考え始めるのだ。

物質的に我々は豊かになった。それは間違いない。

だが心の問題はどうだろう?



アダナの旧市街も、どちらかと言えば貧困層が多い地域だ。たぶん我々が参加している映画祭などには、ほとんどなんの縁もない。

だがそこで働いている子どもたちでさえ、人懐っこくて親切で愛嬌がよい。明らかに兼ね持ちそうな外人が写真を撮ると、むしろ喜んで写ってくれたりする。


果たして日本の今の子どもたちより「不幸」だとは、断言は出来ないと、思うのである。

もちろんトルコの人々、あるいはこれから行くイランにせよタイにせよ、あるいは8月に行ったブラジルでも、お隣の中国でも、その国の人々が「豊かさ」を求めるのは、それ自体は正しいことだ。

だが果たして我々のような「先進国」がその「豊かさ」の唯一のお手本なのかと言えば、それは絶対に違うと思う。


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