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11/09/2013

ミケランジェロの正体

ミケランジェロ・ブオナローティ
『最後の審判』ないし『嘆きの聖母』のための習作

国立西洋美術館で開催中のミケランジェロ展は、ずいぶん変わった展覧会だ。

考えてみればこれほど展覧会がやりにくい美術家もいないわけで、フィレンツェにあるダビデ像なら高さ5.17mの巨大な大理石像。切り出した石からぎりぎり一杯で彫り出したので頭頂部に元の岩肌が残っているくらいで、とにかく大きいし、その置かれた空間における存在感はもっと凄い。

ミケランジェロ・ブオナローティ『ダビデ』

絵画作品でもまず思いつくのはローマのヴァチカン、システィナ礼拝堂の天井画『天地創造』と、祭壇壁画『最後の審判』だし、聖ピエトロ大聖堂のピエタ(嘆きの聖母)像や、彼が設計した大伽藍のドームおよび主祭壇にせよ、どれもよその美術館に運び出せるものではない上に、その置かれた空間の主役だから、常にそこになければ困る。

いや彫刻・壁画・建築によって、ミケランジェロが創造したのは、「作品」以上に、「空間」だったのかも知れない。

今でこそ彫刻家であり画家として知られるミケランジェロだが、ルネサンスの時代に究極の芸術とされたのは建築、空間を作り出すことだった。

イタリア各地を旅行しなければ本性がつかめない芸術家を上野で、というのもムシが良過ぎる、無理な相談ではあり、だからミケランジェロの作品世界の体感を期待して展覧会に行くと、クライマックスは4Kのカメラで撮影したTBS製作のシスティナ礼拝堂の記録映像だったりする。

4Kはデジタル撮影映画で使われるフォーマットで画素数はHDの4倍、映画館でのデジタル上映の現行DCP規格は2K、上野の西洋美術館の地下の仮設の上映施設は、実は映画館より高画質なのだ。



いやこの十数分の映像だけでも一見の価値…どころではなく、高さが十数メートルはある礼拝堂の天井画と、前方壁面を覆い尽くす巨大壁画、現地では見上げるだけなのから、高精細の画像でこんなに間近に、フレスコ画に手早く描かれた画家の筆の勢いまで見えるなんてことはない。

ミケランジェロ・ブオナローティ、システィナ礼拝堂天井画(主祭壇側)
同、礼拝堂後方

そしてもう、『最後の審判』に肉感的なアップで迫ることの凄みと言ったら…。

システィナ礼拝堂は今世紀初頭に大修復工事が行われ、壁画の色彩の軽やかな明るさ、鮮やかさが目を見射る。

ミケランジェロ・ブオナローティ『最後の審判』

とはいえ実際のミケランジェロの、作品として完成されたものはほとんどない展覧会である。展示品は膨大なデッサン、建築家としての顔も持つ総合芸術家が遺したスケッチや設計図等など、そしてかなりの数の書簡が中心だ。

作品よりもその芸術家の実像を浮かび上がらせる展覧会なのでかなりアカデミックではあり、たとえば建築家・軍事技師としての仕事は、せめて完成した建物の模型や、実現しなかったものについても想像模型くらい作ってくれれば、まだミケランジェロのビジョンが分かり易く伝わったと思う。

書簡だって、翻訳くらいつけてくれたっていいじゃないか。要約しかない。

デッサンの数々は、『レダと白鳥』のためのレダの頭部のスケッチなど、実際の作品のための下絵も何点かあるが、人体の表現に取り憑かれた画家が遺した、肉体の部分部分の研究のための素描がかなりの数を占める。

ミケランジェロ・ブオナローティ『「レダと白鳥」のための頭部の習作』
完成作は焼失

これが案外におもしろい。やがて『最後の審判』の筋肉表現、裸体表現の圧巻に連なったのであろう日々の積み重ねの一端を伺い知ることが出来るのだが、いやまあなんとこの人は、人間の身体のさまざまなポーズの、その筋肉にこだわったものか!


『最後の審判』はルネサンス絵画の完成と爛熟から、絵画史のマニエリスム時代への転換を代表する作品だが、そこに至る画家の道程がコンセプチャルなものであるよりも、ほとんど偏執狂的な筋肉フェチの積み重ねの結果なのだと、とてもよく理解出来た。

それにしても『最後の審判』も、システィナ礼拝堂天井画も、完成作には男性も女性もいるが、デッサンはすべてが男の裸である。

『最後の審判』のための習作

いや『レダと白鳥』のためのレダの頭部の習作だって、モデルは男性、当時のミケランジェロの若い助手である。当時の習慣で女性モデルは滅多に使われなかったから、美青年をモデルにした、と一応解説にはあるのだが。

そう言われてみれば、システィナ礼拝堂天井画の巫女たちも、巫女だから女性のはずが、ずいぶん筋骨隆々の男性的な体つきだ。実はこれも、モデルは男であり、ミケランジェロは顔こそ端正で女性的かも知れないが、立派な筋肉の堂々たる男性的肉体を用い、それを女性像でもそのまま描写している。


ところでミケランジェロは終生独身で、甥のレオポルドを養子同然に可愛がっていた。今回の展覧会の展示品はほとんどが、レオポルドが相続したフィレンツェの屋敷、カーサ・ブオナローティに伝承されて来たものだ。

そのレオポルドとのずいぶん親密な手紙のやり取りとかを見て、膨大な男性裸体のスケッチ、そして女性の裸身も実は男がモデルと言われれば納得する『最後の審判』などの完成作の表現に接すれば、この展覧会が明言こそしないものの、そうとうにはっきり暗示していることがある。

そして最後の展示作品が、油彩ではなく素描だがこれはこれで完成作である『クレオパトラ』、それがとても深い親愛で結ばれた青年貴族へのプレゼントだったと言われれば、この展覧会が伝えるミケランジェロの実像は、たいがいの人には明らかだろう。

ミケランジェロ・ブオナローティ『クレオパトラ』
『クレオパトラ』は若い男性貴族だった恋人へのプレゼントだ。

カトリック総本山のヴァチカンを美の空間として創造したもっとも重要な芸術家ミケランジェロは、キリスト教で禁忌とされたはずの同性愛者だった。

あ、はいごめんなさい。こんなに勿体ぶっておいて、当たり前の常識みたいな結論で。

ミケランジェロと、フィレンツェ時代に壮絶な火花を散らしたライバルのレオナルド・ダ・ヴィンチが同性愛者だったなんてことは、たとえばレオナルドのほぼ遺作の『洗礼者ヨハネ』のモデルが彼の愛人だったとか、美術史では公然の秘密というか、今回のミケランジェロ展だって、日本の国立美術館だから明言は出来なかった程度の話だろう。

レオナルド・ダ・ヴィンチ『洗礼者聖ヨハネ』

また同じ時代の、同じ職業でも、二人の男の趣味はずいぶん違ってたわけでもある…。

またたとえばレオナルドの晩年の傑作『岩窟の聖母』にしても、聖母たちのモデルは美青年だったのだろう。

レオナルド・ダ・ヴィンチ『岩窟の聖母』
(ロンドン、ナショナル・ギャラリー版)
ほぼ同じ構図の作品はパリ、ルーヴル美術館にもある

キリスト教ではタブーなので明言されるようになったのは近代以降とはいえ、これまで書かれて来たミケランジェロ伝も、彼が同性愛者だったことは暗黙の前提になっている。

ローマ教皇に寵愛され、自身も敬虔な信者でもあった。肉を食しなかったことから粗食に徹したと思われ、システィナ礼拝堂では無理な姿勢で何年間もかけて天井に絵を描き続けた求道者。マゾヒスティックなまでに自分を追いつめた芸術家というイメージを裏で補完して来たのは、ミケランジェロが名声をほしいままにしながら、同性愛者であることの罪悪感を抱えて来たのではないか、という発想である。

『最後の審判』では、皮を剥いで復活した聖バルトロメオの、その脱ぎ捨てた皮の顔がミケランジェロの自画像になっている。

『最後の審判』の聖バルトロメオ

こんな崩れたような、疲れたような顔。彼が他に遺した自画像でも、ミケランジェロはどうも自分が醜男だと思っていた節が伺われる。これがまた、ミケランジェロの罪悪感と自己否定に苛まれたマゾヒズム的なイメージを作り出して来た。

だが修復のなったシスティナ礼拝堂の鮮やか色彩と勇ましい筆の勢いを再発見するだけでも、この罪悪感に苛まれて宗教的な求道に徹した芸術家のイメージは随分変わる。

システィナ礼拝堂天井画(部分)

どっちかと言えば、自分が逞しく美しい肉体ではないからこそ、そのコンプレックスも含めてそういう美しい肉体を愛した、と考えた方が自然だろう(同性愛者にはよくあることだし)。

どうも我々は、永い年月の煤がたまり(20世紀以前、礼拝堂の照明は当然ながら蝋燭などの灯火だ)、後代の修復でより暗い色に補色もされた、たぶんに暗く見えていたその感覚で、この一連の壁画を見て来たようである。

実はミケランジェロが描いていたのは、本当はもっと明るく力強くドラマチックな、裸体の讃歌、肉体へのオマージュ、その筋肉にこそ真実が宿るとでも言わんばかりの、官能的な絵画だった。

『最後の審判』のための習作

彼がほとんどマニアックなまでに描き溜め続けた男性の裸体の筋肉表現の習作にしても、その偏愛とまで言えそうな人間の、それも男性の肉体への讃歌は、およそ罪悪感など感じさせない。

もう描きたいから描いている、大好きだからこそ執拗に研究した、その官能的な眼差しはまったく隠されていない。

最新の修復は煤だけでなく、後代の修復加筆を出来る限り取り除くことが主眼だった。

『最後の審判』では、あまりに裸が多いので顔をしかめる教会関係者も出て来て、後に下半身を覆う腰布が描き加えられたことは記録に残っている。修復を通じてその事実も確認され、取り除けるものは一部取り除かれた。

それでも不自然な加筆の腰布は残っているのだが、修復の結果それが別の画家が描き加えただけにすいぶん場違いなことも明瞭になった。あらためて、まあよくもまあヴァチカンで第二の地位を占める神聖な礼拝施設の正面を、自分がゲイであることを隠しもしない表現で埋め尽くしたものだ。


どうもキリスト教では同性愛はタブー、性と官能は罪に結びつくというイメージは、ミケランジェロの時代にはいささか異なっていたのではないか。

ルネサンス、つまり「再生」「人間復興」と呼ばれた時代、カトリックはプロテスタントの勃興で教義的に危機にあったのと同時に、だからこそ案外と自由に信仰を問い直す空気もあったのかも知れない。

『最後の審判』はまさにそういう絵だった、ミケランジェロが教皇庁に寵愛されたのはまさにそういう理由だったからかもしれず、精神論の論理性に極度に傾き罪の意識、人間の原罪を強調したプロテスタントのカルヴァン派の対極としてこそ、この壮麗な肉体=人間性の讃歌は、描かれたのかも知れない。

なんと言っても、ミケランジェロが描いた時にローマはこの壮麗な裸体群像を賞讃したのだ。淫らだとして腰布で隠されたのは、その翌世紀のことである。

ちなみに書簡に直接当たれば、例の粗食伝説も、どうも彼が肉が嫌いだっただけに思えて来る。というか、おしゃれなゲイだからヴェジタリアンっぽかっただけで、晩年には甥がせっせと叔父の好きなワインやチーズを送っていたらしい。

今回のミケランジェロ展の最後の展示品である『クレオパトラ』は、修復で裏打ちを剥がした結果、裏面が描かれていたことが分かった。

毒蛇に乳房を噛ませて自殺し、愛するアントニウスの後を追った古代エジプト最後の女王は、表面では憂いを帯びた、哲学的な表情を見せている。

だがその表にぴったり合わせて描かれた裏面では、彼女は蛇に噛まれてびっくりしたように口を開けている。



美術史家はこの表裏一体の絵になにか深い意味、画家の人生観や哲学を探ろうとして来たのだが、僕にはどうも考え過ぎな気がしてならない。

なんと言ったってこれは若い恋人へのプレゼントである。その恋人相手にちょっとカジュアルな愛情表現も含めて、裏面にはミケランジェロの茶目っ気あるユーモアが表現されているように思えてならないのだ。

…というか、いかにもゲイ・テイストなギャグにすら見える…

これをプレゼントされた若い貴族は確か彼よりも20年以上若かったと思うが、天才画家・彫刻家・建築家の尊敬される、名誉名声を一身に浴びた巨匠が、しかし若い恋人の前では別人のように、ずいぶん仲睦まじかったことが伺える気がする。


ミケランジェロ・ブオナローティ『階段の聖母』

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