最新作『無人地帯 No Man's Zone』(2012)
〜福島第一原発事故、失われゆく風景、そこに生きて来た人々〜
第62回ベルリン国際映画祭フォーラム部門正式出品作品

12/31/2015

2016年の新年のご挨拶に代えて


今年もあと数十分を残すだけとなりましたが、喪中につき新年のご挨拶などは控えさせて頂きます。

父・藤原尊信、8月3日に肺がんで逝去致しました。昨年12月5日に脳梗塞の発作を起こし、右半身の運動機能を喪失、喉の機能も損なわれ発語、嚥下に障害が出て、年を越して1月からはリハビリテーション病院に転院したものの思うように回復は進まず、それと前後してレントゲンで悪性腫瘍らしき影が肺に写っていたものが、体力と免疫力の低下で4月末頃から急に進行を始め、そのまま手の出しようもなく死に至った次第です。

がん治療も昨今は日進月歩で進化しているものの、その治療どころか確定診断の検査にも耐えられない身体の状態では、いかんともしようがありません。急な進行が始り悪性腫瘍であることが確実になってからはもっとも恐れていた、がん性の激痛に苦しむことがなかったのは幸いでした。享年は76歳となります。

入院後まもなく母に任せておくわけにも行かない状況になり、僕も今年の初めから8月まで、ほぼ毎日病院に通うことになりました。入院しているのだからといって病院に任せておけばいいはずが、そうにもいかない状況で、毎日数時間は必ず病院で過ごすようになってから、老人介護医療というのがいかに大変なことか、その一端を思い知らされることとなりました。

父の場合は認知症、知能の低下はなかったものの、脳梗塞の損傷に伴う高次脳機能障害に伴う知覚認識の変化などに本人も対応できず、これがリハビリテーションがうまく行かなかった理由のひとつでもあろうかと推測は出来ましたし、元々お世辞にも物わかりがいい方だとは言えない性格などから僕自身には説明はついたものの、一般論で言って家人が突然人が変わってしまったかのような状態は、精神面だけでも耐えるのはなかなか難しいもののはずです。まだ自分の場合は三人兄弟の末っ子で父にとって比較的遅い子であり、仕事に熱中してほとんど家にいなかったのであまりにも縁がなかったのが、不幸中の幸いだったと言いましょうか、比較的冷静に対処出来たわけですが、なまじ親子の情愛や夫婦の絆の強い間柄であれば、その義務感・責任感の強さが仇になることもあるのは容易に想像がつくことでもあり、在宅介護の推奨を基本とする現行の日本の医療政策には大いに疑問が残り続けています。

折しも介護 “地獄” から無理心中や尊属殺人に至った事件や、老人施設での虐待事件が頻繁に報道されたのが今年でもありました。加害者とされる側を一様に責められるものなのか、その苦労のほんの一端を自分も体験しただけでも、疑問を覚えざるを得ませんし、コメンテーターが繰り返し「誰か相談出来る人を」と訴えるのも、なかなか現実的には無理があるように思えてなりません。それまで家族が抱えて来た歴史の複雑さも良きにつけ悪しきにつけ噴出する状況であり、その数十年のこじれた歴史をどうまったくの他人に説明が出来るのか、一歩間違えれば「親不孝」などと誤解され誹られかねないこともであり、あまりにもハードルが高いし、対応できる人がどれだけいるのかも疑問です。

うちの場合はまだ病院にいられたから良かったようなものの、このような状態が家庭内で延々と続けば、あるいは介護施設の職員も日々そんな状態で過重な労働を連続して強いられれば、果たしてどこまで追いつめられるのかは想像を絶するものがあります。一般には残酷に見られかねない身体の拘束も、本人の安全のために必要になる場合も多いのです。一般論でいえば介護する側がやさしさを持って、その人格を尊重して接すれば、認知症でも患者が暴れることも少なくなるはずだとはいえ、そもそも病によって自分が置かれた状況を、患者それぞれがどう受け止めるのか、人間は複雑な生物であり、ことその内面にそれまで生きて来た何十年もの人生が堆積された高齢者の場合、千差万別でしょう。

個人的には、その8ヶ月間ほぼ毎日、数時間を病院に行っていたのか、初めて父と過ごす時間であったのも皮肉なことですが、あまりよく知っていたわけでもない、ことさら親しみもなかったから、まだなんとかなったのかも知れません。父はそれだけ激しい部分がある人でもあり、身体の自由を失ったことや、高次脳機能障害による知覚や認識の変化もあって、入院中にはたびたび凄まじく攻撃的になったりもし、また医学的なことはなにも知らないし興味もなかった人なので、病状について誰がなにを説明してもなかなか納得してくれずに途方に暮れるばかりではありました。

率直なところ、みすみす自ら命を縮めるとこちらには分かっているようなことに頑固に固執する人を説得も出来ないのは、なかなか辛いことです。

僕自身のことで言えば、これまで作って来た映画はいずれも「生きる」こと、「何があっても、困難を引き受けながら生き続ける人々に尊厳を見出す」という中心的な主題を持ったもの(少なくとも本人はそのつもり)でした。それがこのような家族の状況を体験した時、心情的には疎遠であったとしてもやはり家族の価値観というものはあるはずである時、果たして自分もまたそのような映画を作り続けていいものなのかどうか、演出家として自分の映画に登場する人たちを理解出来ているのだろうか、これまで特に意識することもなくそのような主題性やドラマチックな構造をとって来た自分自身に、疑問を覚えずにはいられなくもなりました。自分にとって自然な選択だと思っていた主題性や構造が、実は自分には縁がない、とても語るべき資格なぞないものなのではないか、という疑問でもあります。

正直、そこから抜け出すことは4ヶ月経った今もなかなか難しいもので、福島第一原発事故の被災地・避難地域を撮った最新作『…そして、春』(まさに逆境にあって「自分として生きる」ことをやめない福島の人々の姿)の完成は、今暫くお待ち頂くことになりますこと、お詫び申し上げます。そうはいっても、2016年の前半にはなんとか完成の目処はつけたいと思ってはおります。

今年はまた、戦後70年の節目の年でした。

よりによってそんな年に安保法制が強行で国会を通過する、衆院での強行採決の時には父はまだ存命でしたが、なにも生涯の終わりに、6歳で神戸の空襲を経験した父が、そんな日本の激変というかていたらくを目の当たりにしなければなたない、というのも気の毒ではありました。言葉を発するのが不自由でなければ、言いたいこと、言わねばならないと思っていたことも多々あったことでしょう。

衆院を法案が通過した新聞を読み聞かせても、半ば呆れ、力なく「アホか」と言っただけの父でした。考えてみれば、戦後焼け跡派の典型でもあった父に、このようにまったく異次元の、危険な国にどんどん変貌している日本で、頑張って生き続けるよう励ましたり叱咤するのも、無理があった、残酷なだけだったのかも知れません。

その70年の節目に、僕自身としてはとりわけ、沖縄の戦争と戦後について今までほとんど知らなかったことを知らされて、愕然とさせられたのが特に印象に残った年でした。集団自決やひめゆり部隊程度しか知らなかったのが、そんなのはまだ「かわいい方」だった沖縄戦と、そこに巻き込まれ自分達を守るはずの日本軍に追いつめられ、命まで奪われた民間人の凄惨な死の実態。 戦後まもなく昭和天皇がアメリカに沖縄の返還を希望しない旨を伝えていたという、その事実が本土復帰と前後して沖縄では報道されて県民の皆さんは知っていたのが、本土の我々はなにも知らなかった。そんな何重にもひどい仕打ちを自分の国がやり続けていたことには、深く考えさせられずにはいられません。

わけても今年になって初めてその一端だけでも知る機会があった沖縄戦の現実は、一方で「これは可能な限りありのままに、映画にしなければならない」と強く思うものでもありました。

先に申し上げましたように、新年のご挨拶は遠慮させて頂きますが、皆様くれぐれもよいお年をお迎え下さい。

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