最新作『無人地帯 No Man's Zone』(2012)
〜福島第一原発事故、失われゆく風景、そこに生きて来た人々〜
第62回ベルリン国際映画祭フォーラム部門正式出品作品

12/10/2017

「日本の伝統」が聞いて呆れる 深川八幡「御家騒動」殺人に見え隠れする神社本庁と、大相撲「暴行」問題と「国體」


江戸時代後期の深川八幡(広重)拡大はこちら

富岡八幡宮で殺傷事件が、という速報が夜のニュースで突然流れたとき、通り魔事件でないならもしや関連が、とふと頭をよぎったのが、この八幡宮が神社本庁とトラブルになり脱退していたことだった。

まさかこのからみで刃傷沙汰か、というのもさすがにあるまいと思えば、なんとその通りだった。

多くの神社でそうであるように、ここの神職も世襲で、代々富岡家で引き継がれて来たものだったが、跡取り息子が不倫セクハラと使い込みで宮司の地位を追われ、そこでいったんは父である先代の宮司が復職し、氏子さんたちの総意もあってそのお姉さんである長女の富岡長子さんが神職を引き継ぐことになった。

ところが神社本庁はこの人事を許可せず、まともな返答もなく棚晒しにし続け、しびれを切らした氏子さんたちが神社本庁から脱退させ、長子さんが宮司になっていた。今回の事件の被害者である。

同じ八幡宮がらみでは、八幡信仰の総本宮である九州の宇佐神宮も神社本庁とのトラブルになっていて、地元の地域社会や氏子さん、さらにはこの由緒正しい八幡信仰のメッカを支えて来た同じ地方の神社(県神社庁支部)からの怒りを買っている。

毎日新聞の報道
https://mainichi.jp/articles/20160607/ddl/k44/040/300000c

ここでも世襲の神職一族の後継者の女性宮司を神社本庁が認めなかったのが混乱の始まりだ。解任された女性宮司は神社本庁相手に裁判係争中だ。

富岡八幡宮の事件は宮司一族の御家騒動という報道で、現職宮司を殺害した弟の元宮司が自殺しているので、マスコミでも動機はうやむやに済まされそうだが、神社本庁の不思議な対応が事件の原因に関係していることには、なぜかほとんど言及がない。

なぜ報道各社が、神社本庁が富岡長子さんによる継承を拒否し続けたのかを追及するというか、せめて神社本庁に取材を申し込むくらいのことはしないのか、理解に苦しむ。

長子さんが宮司を継ぐことがすんなり決まっていれば、いかに多々問題があって追い出されたも同然の元宮司の弟とはいえ、ここまで話がこじれることにはなっていなかったのではないか?

神社本庁の奇妙な対応が、犯人にあらぬ期待といか妙な自己正当化の理屈を与えたことはなかったのか?

少なくとも、神社本庁から脱退しなければ長子さんが正式に宮司になれなかったということは、姉殺しの殺人犯になった弟からみれば「ほら見ろ、姉は正規の宮司ではない。自分こそが本当の宮司なのに乗っ取られた」という逆恨みを信じ込み続けられる大きな根拠のひとつにはなる。

神社本庁もなにも言わないので憶測しかできないが、気になるというかとっかかりになりそうなのは、富岡長子さんの公式ブログの最後のエントリーだ。

12月7日づけの富岡長子さんのブログ「世の中間違ってやしませんか」
https://ameblo.jp/tomiokashrine/entry-12334480912.html

彼女はここで他所の神社の神職との忘年会が億劫であること、自分がセクハラに遭ったこと、その加害者である神主を他の神主が言い訳にならない言い訳でかばおうとした経緯を赤裸裸に語り、今後も同じようなことが続くなら実名を公表するとすら言っている。

神社の神職のオジサンたちの世界というのは所詮こういうものであり、宇佐八幡宮の場合も同様で、神社本庁側ではぶっちゃけ、もともと軍神である八幡大菩薩のお宮の宮司を女性が務めるなんて許せん、という男尊女卑丸出しだったのではないか?

男女平等は「現代の価値観」などという以前の問題だ。富岡長子さんはセクハラを告発したブログで、

「深川の人達は普通の街の人達ですけど、万が一、そういう事があればキチンと注意してくれます。「失礼だろう」と……」

…とも書かれている。

こんな普通の道徳が通用しないのが神主とか全国の多くの神社とか神社本庁の体質なら、曲がりなりにも宗教どころか、人としてあまりに非常識だろう。ましてかように人としてあるまじき歪んだ価値観に染まった人達が宗教を語る(騙る)こと自体、なにをかいわんや、となろう。

どうせ神社本庁なんてそんな自称「保守」な身勝手オジサンの集団でしかなく、曲がりなりにも宗教なのだからと期待する方が間違いだろう、と言われるかも知れない。ちなみに自民党の有力支持団体でもあるわけで、現政権の閣僚も大半がその政治団体のメンバーでもあるが、その自民党の方でもさる議員の「巫女さんが自民党を支持しないとはけしからん」暴言が問題になったこともあった。

宇佐八幡に神社本庁の要職から天下った、というか天皇家の重要な祖先神で第十五代応神天皇を神として祀り、清和源氏の氏神となりその系譜を称する徳川将軍家の崇敬も集めた全国の八幡社のなかで最も格式高い伝統を持つ総本社・宇佐八幡に神社本庁からの天下りで押し付けられた現宮司の振る舞いも、評判を聞く限りではさすがに宗教者として、あるいは地域の地縁コミュニティの要である神主として、というかそれ以前に人として、あまりにあるまじき人格と言わざるを得ないような話だ。

いずれにせよ神社本庁は「脱退した神社のことだから」「富岡家のトラブルだから」として関知しない、などと逃げずに、この事件についてしっかりしたコメントなりなんなりをしなくては、曲がりなりにも宗教団体、それも日本の民俗信仰を統括する団体としての責任は果たせまい。

百歩譲ってこれが富岡八幡宮の宮司一族の御家騒動に過ぎないとしても、そうしたトラブルがあった際に調整役・調停役として事態の解決に当たることもできず、氏子つまり信者の信頼を裏切るようでは、いったいなんのための全国の神社を統合する団体なのか?

神社本庁の側から積極的にコメントを出すべきことについて、マスコミがまったく及び腰なのも困ったものだ。 
自民党つまり政権与党の有力支持団体で、昨今はとりわけ同党内の右派や安倍政権との結びつき、森友・加計両学園のスキャンダルでにわかに注目される「日本会議」と癒着している可能性もあるから、政権に忖度してこの事件を単なる家族トラブルで片付けようとでも言うのだろうか?

広重 江戸名所深川八幡の社

それにしても、昨今はやたらと「日本の伝統」を強調したがる傾向が強い。東京オリンピックのエンブレムだけでなく、小学生の投票で選ばせるというマスコットでも「日本の伝統」が強調されている。

だがその肝心の「伝統」の担い手だったり、自分達こそその「伝統」を尊重しているのだと自負しているつもりの人々…とすら言う気が失せる、【そんな輩】に限って、この一件に限らずあまりに不道徳というか倒錯というか、堕落して劣化していないだろうか?

「国技・伝統」の大相撲の「暴行」問題も世間を騒がしているが、このスキャンダルでみんな気付いているのに誰も言わないことがひとつある…と思っていたら「被害者側」の貴乃花がミもフタもなく、この「暴行問題」の彼にとっての本質というか、なぜ必要以上に事態を混乱させているのかを、あられもなく口にしてしまっていた。

支援者に囲まれた「内輪」の席とはいえここまでバカ正直でどうするだ、とびっくりさせられるのだが、貴乃花は…

「国體を担っていける」

…大相撲を守るために戦っているのだそうだ。おいおいおい…

現役時代の末期には、晩年の父・藤島親方が「息子は洗脳されている」と週刊誌に漏らしてちょっとした騒動になったこともあったが、「あぁ、やっぱりそういうことなのね(呆)」というか、またとんでもないものに洗脳されてしまっているのか?

さすがにマスコミの前ではなく部屋の打ち上げパーティーでの発言で、しかし一度は報じられたものの、これまたこの事件に関する報道がこれだけ多い割には、まったく無視されているのも気になる。

貴乃花が相撲協会内の「改革派」というのも、要はこういうことなのは、業界内ではみんな分かっているのかも知れないが、それでも誰も明言はしないのだが、喩えて言うならやっぱり誰かさんの「戦後レジュームの打倒」みたいな保守懐古趣味の方向での右翼というか極右排外志向の「改革」で、狙われたのが白鵬・日馬富士らモンゴル勢というのが、少なくとも白鵬が優勝インタビューであえて口にした「膿を出し切る」の意味するところにしか見えない。

40回優勝という大記録の優勝パレードでも、白鵬はわざわざ宮城野部屋の弟弟子ではなく、モンゴル出身の後輩を、介添えでオープンカーに同乗させた。モンゴル人力士達は、最初からこの事態を貴乃花の狭量な国粋主義の差別排外主義の動きだと見て、抵抗の意思表示を念頭に動いているのもかなり露骨だ。

白鵬がわざわざ「貴乃花親方が巡業部長では安心して相撲が取れない」と言い放ち、相撲協会がその上下関係を無視した異例の言い分をあえて受け入れたところ、今度はあたかも白鵬と貴乃花の個人的な確執であるかのように話を矮小化しているマスコミ報道もいかがなものか?

暴行事件それ自体は、もちろんどんな理由であれ殴ってしまった日馬富士が悪い、となるのが現代の標準的価値観では当然なわけだし、それは建前で「口で言っても分からない奴には」的な保守的な「伝統」が相撲界の内部では未だ日常化しているままだとしたら(そういう世界は相撲に限らずスポーツの世界では、高校の部活などでも常態化しているらしいが)、それはちゃんと明らかにした上で「膿を出し切って」体質を改めることは必要だろう。だが貴乃花の動きはどうみても、そうした相撲協会や相撲界の「体質」を改革するためではないし、少なくともモンゴル出身力士たちはそうは受け取っていない。

なにしろ「國體」だけでなく、「角道の精華」とやらで「八州に輝く」のが理想なのだそうだ。またずいぶん時代錯誤な国粋主義もあったものだが、さすがにこれはもう相撲協会の新人養成では使ってないそうだが、ちょっとびっくりしてしまう内容である。

事件初期に出た報道だと、土俵で闘う相手と酒を飲んで仲良くなんてとんでもない、というわけで貴乃花は貴乃岩にモンゴル力士会に参加することを許さなかったという。これも相撲協会が「生活互助会で飲み会ではない」と慌てて訂正を出す話になったが、モンゴル人力士たちから見れば貴乃花がモンゴル人を弟子にする条件は、モンゴル人と付き合わないこと(同朋と縁を切って日本人に同化しきること)にしか見えまい。

そして協会の危機管理委員会が発表した事件の経緯によれば、貴乃岩はしきりにモンゴル人横綱たちにわざと反抗するような態度を取り続けたらしい。もちろん一方的だ、貴乃岩の言い分も、という意見はあろうが、「睨んでない、話を聞くので見ていただけ」と言うのでは下手な言い訳にもなっていないし、白鵬や日馬富士、鶴竜から見れば、単に貴乃岩が「生意気」ということには見えまい。

はっきり言えば、貴乃花親方の反モンゴル国粋主義にかわいい後輩が洗脳されているようにしか見えまい。

その貴乃花はしかも、「弟子を思う」どころか自分の部屋の出世頭の貴乃岩を却って苦しめるように、その立場が悪くなるようにしか動いていない。

貴乃岩本人が事情を協会に話しそれがマスコミに出るのがよほど嫌なのだろうか、隠して部屋に閉じ込めて、「容態が良くない」と被害者側ぶりながら医者にも診せていない(本当に深刻なら、マスコミを避けるためにも入院させるのが最良の手のはずだ)のは、いったいどういうことなのか? PTSDなどの精神症状が問題なのだとしたら部屋の九州場所での宿舎のプレハブに窓を目張りして閉じ込めておくなんて扱いがいいわけがない。

こうなると暴行事件それ自体については加害者である日馬富士も被害者だし、その意味でも言うまでもなく、もちろんもっともかわいそうな被害者は貴乃岩本人だ。

もちろん相撲界全体が、単に相撲協会がというのではなく、むしろそれを取り巻く相撲マスコミなども含めて(というか、そっちの方がむしろ激しく)、いわば「保守的」というか、一皮むけば相当に人種差別的なものであり続けている。

日馬富士といえば先々場所に満身創痍の1人横綱で最後には見事に優勝を勝ち取ったのも記憶に新しいが、それ以上に印象が強いのが、稀勢の里が横綱としての初の場所で全勝を阻んだ凄まじい気迫の取り組みだった。結果、稀勢の里はこの時の怪我が元で苦しみ続けているわけでもあるが、この一戦だけは絶対に負けまい、と決意した日馬富士の気持ちはよく分かる。

その前の場所では、稀勢の里が白鵬を敗ったこと自体は結構なことだが(全勝優勝で横綱昇進になった)、あの観客の喜び方はいったい何だったのか? 白鵬も日馬富士も、そうなるのが分かってはいても、それでも愕然としただろう。

かつて朝青龍が引退に追い込まれた時の悪夢が2人の頭をよぎったとしてもなんの不思議もない。こと白鵬はああはならないように、土俵の外では慎重な「優等生」に一生懸命徹して来た。一方で土俵上では「勝つことが品格」と開き直った、というか覚悟を決めるようになったのも気持ちは分かる。どんなに頑張っても、稀勢の里以前では日本人最後の横綱だった貴乃花が「土俵の鬼」、横綱の鑑だと言われ続けるのだ。

ではかつての貴乃花と白鵬、どちらの相撲が「土俵の鬼」と言えるのか?

貴乃花の名勝負というと2001年の武蔵丸との優勝決定戦がすぐ持ち出されるが、これもひどい。「痛みに耐えてよく頑張った」というが、あの取り組み、どうみても武蔵丸は手加減をしている。ここで本当に「土俵の鬼」になって怪我をしている貴乃花を打ち負かせば、ハワイ人である(日本人ではない)自分にどんな怨嗟が向けられるか、分かったものではないし、そうでなくとも手負いの相手に本気の取り組みはできないことの方が「相撲道」だろう。

藤島親方は貴乃花に、あの千秋楽は休場するように説得しようとしたそうだが、それが「横綱の品格」というものではないか?

こんな「国技」相撲を取り巻く環境のなかで、元北勝海の八角親方は実はよくやっていると思う。世論に押されて稀勢の里を久々の日本人横綱にした時に、同時に売り出したのが弟弟子の高安だ。高安は日本国籍とはいえ母親はフィリピン人で、日本国内のフィリピン人コミュニティが高安を応援している姿もマスコミで流れるように仕向けた。

相撲は「国技」だ、「日本の伝統」だというが、モンゴル人力士を含めた多くの外国人をこれだけ受け入れて来ている今、相撲界は(協会が、というのではなく観客や相撲マスコミやワイドショーも含めて)その現実をもう一度よく考えるべきではないか…と思ったら、相撲解説者になった舞の海などは、「憲法九条があるから日本の力士は強くなれない」などという暴言まで言っているらしい。ちょっといい加減にして欲しい。

念のため言っておくが、プロレスに転向した力道山は言うまでもなく在日コリアンだし、昭和の名横綱・大鵬は樺太産まれの引揚者で、父はウクライナ系のロシア人だ。

そのウクライナ(冷戦後の現代では俗に「世界一の美人の産地」とまで言われ人気モデルにもその出身者が多い)の血が入った、目鼻立ちのはっきりした美男ぶりから、大鵬人気には女性ファンも多かった。

だいたい相撲が江戸時代から大人気の日本の伝統の大衆娯楽なのはその通りだが、「国技」というのは近代の産物であって伝統でもなんでもない。むしろ近代化のなかでいかがわしい野蛮な見せ物のように誹られることもあり、そこで相撲専門の競技場を造るときのネーミングで「国技館」と大きく打って出て権威化をでっち上げようとしたのが、相撲が「伝統の国技」になった始まりだ。

同じような道をたどったのが歌舞伎だ。

今ある歌舞伎の名家・大名跡は市川団十郎家にしても尾上菊五郎家にしても中村勘三郎家にしても、確かに江戸時代の「大芝居」に遡るものだが、歌舞伎座のようなステータス・シンボル的な権威付けも含めた今の上演形態は、西洋演劇のぶっちゃけ模倣である「新劇」がインテリ的にもてはやされて大衆芸能である歌舞伎が「古くさいもの」として貶められようとしていたのに対抗した団菊佐時代に基礎があるもので、江戸時代の歌舞伎そのままでは決してない。


ちなみにこの歌舞伎の「伝統」とナショナリズム的な純血主義の関係で言えば、十五代市川羽左衛門がフランス系アメリカ人の子だという噂があるが公式にそう認定されたことはなく、「歌舞伎俳優=純粋日本人」というか、日本人でなければ歌舞伎なんて演じられないという固定観念は根強い。 
こうした偏屈な保守性(と言っていいだろう)に風穴を空けようとしているのが七代目尾上菊五郎、フランス人を父に持つ菊五郎の孫・寺嶋眞秀(母は女優の寺島しのぶ)が今年、「初お目見え」と言いながら実際には「初舞台」と言っていい大役で歌舞伎座デビューしている。 
幸い、眞秀くんの堂に入った演技で(ほんの二日目か三日目には観客の喝采や笑いを計算したタイミングで台詞を言うようになっているのだからたいしたものだ…)好評に終わったものの、ここに漕ぎ着けるには相当に抵抗もあったであろうことは容易に想像できるし、こと菊五郎は記者発表で「ポスターに『グナシア寺嶋眞秀』と本名を出したかったが会社に『字数が多過ぎて入らない』と言われた」という冗談に、しっかりと抵抗の大きさとそれに屈しない音羽屋の決意を滲ませていた。


いやだいたい、明治の産物でしかない「伝統」を言うのなら、話を深川の八幡宮に戻せば「神道」なるもの自体が、明治に国がかりで作り上げられた新興宗教なのが実態だ。

まず江戸時代までの日本人は「神仏」を信仰していたのであって、教義的には「神道」というか「社」に祀られたカミガミへの信仰は仏教に取り込まれることで体系化されたのが、平安時代の空海と最澄による密教の導入以降1000年以上の日本の「伝統」だ。

富岡八幡宮や宇佐神宮の祭神である第十五代応神天皇は、仏教伝来前の天皇(ちなみにこの応神帝が実在した可能性が高い天皇と神話上の天皇の境目になる)だが、明治以前の神号は「八幡大菩薩」であり、視覚化されて表象される場合には仏僧の姿が一般的だった。

快慶 僧形八幡神坐像 建仁2(1201)年
本来は手向山八幡宮の本尊 明治の神仏判然令で東大寺に移された

あらゆる仏、ひいては世界そのものが究極的には大日如来から派生するとみなす密教の教義理論で、日本のカミガミは仏が日本向けにカミの姿を取った存在(権現)とみなされるように体系化され、「神仏習合」が理論的にも裏付けられるようになった(本地垂迹説)のが平安時代以降だが、神仏「集合」と言うものの、それ以前に仏教とカミガミへの信仰が別個のものだったかどうかも、そもそもよく分からない。

むしろ例えば東大寺には創建当時から鎮守社として八幡神が勧請され手向山八幡が付随していたり、飛鳥時代に遡れば今も続くなかでは最古の仏教寺院である大阪の四天王寺には物部氏の屋敷の跡地ないしその古墳に建てられたという伝承があるように、仏教の伝来とほぼ同時に漠然と「神聖なるもの」としてカミも仏も同列に信仰対象だったと考えた方が合理的だ。

奈良・東大寺総鎮守 手向山八幡宮 神門 江戸時代

京都の賀茂川の東側の花街が祇園と呼ばれる、その地名の起源が仏教の経典にある「祇園精舎」であることが、明治以降にはよく分からなくなっているが、明治以降は「八坂神社」と呼ばれている社の本来の名が「祇園社」ないし「祇園感神院」だから「祇園」と呼ばれるようになったもので、花街の起源はその門前にあって参拝客を接待した茶屋だ。

祇園社(祇園感神院・現「八坂神社」)本殿 承応3(1654)年

明治以降はスサノオノミコトが主祭神とされているが、元々は仏教で閻魔大王の両脇に控える牛頭馬頭の二神の牛頭大王(祇園精舎の守護神ともされる)が祀られており、本地垂迹でスサノオと同一視されていた。だいたい「感神院」という名称はつまり寺院だったのだし、高句麗からの渡来人が建立したという社伝の一方で、歴史研究によれば9世紀に元は寺として建てられた可能性も高い。元は興福寺の末社で、その後室町時代までは比叡山に属していた。


「祇園社」が「八坂神社」になったり、東京の浅草寺に付随する三社権現が「浅草神社」になったりしたのは、あまりに極端な違いだが、類推がつく範囲の改変は「八幡大菩薩」では仏教になってしまうので神号が変わった八幡神の総本社が「宇佐神宮」になったのも明治以降である(正しくは「八幡大菩薩宇佐宮」ないし「宇佐八幡宮弥勒寺」)など、枚挙に暇がない。

むしろ名前が変わっていない神社を探した方が早いかもしれないほどだ。

東大寺と興福寺の隣にある藤原氏の氏神が「春日大社」なのも「春日明神」「春日権現」ないし「春日社」が明治以降に変えられたものだし、元は興福寺と一体だった。ここの四つの本殿の周囲は20年ごとの式年造替で修理(かつては建て替え)がある時以外にはほとんど誰も立ち入れない聖域だが、その本殿を取り囲む回廊の正面部分(ただし本殿とのあいだには冊が)は、かつては興福寺の仏僧が読経し祭礼を行うスペースだったと、今の春日社ではしっかり説明看板も立てている。

春日大社 中門より本殿第三殿 この左右の御廊が興福寺の僧侶の読経スペース






12/05/2017

「本能寺の変」は起こって当然でミステリーでもなんでもない


前回エントリーに続き、前代未聞な大河ドラマの、というか戦国時代時代劇の革命『おんな城主直虎』がらみの話。

記録上、このドラマでは井伊直虎を名乗った説をとっている法名・祐圓尼、次郎法師とも名乗っていたらしい井伊家直系の尼僧は(ややこしくて恐縮だが断片的にしか分からない史実をつなぎ合わせると言えるのはここまで)本能寺の変の約2ヶ月後に亡くなっている。

と言うことは、ドラマのほぼ最終回で本能寺の変が起こって、堺にいた家康一行が「伊賀越え」を敢行し、井伊万千代が元服して井伊直政となり、直虎は井伊家の将来を託して安心して生涯を閉じるところで大団円…という普通に期待されそうな展開には、どうも絶対になりそうにない。

というのもまずこのヒロインの直虎、まだまだとても死にそうにないし、今死んでしまっては「戦のない世を見とうございます」、そのためには家康が天下の要に、という彼女がたどり着いた決意には、まだまだ当分が決着がつかない。

それになによりも、この脚本の本能寺の変の解釈では「突然の明智の謀反でびっくり」といった突発的な事件とは、まったくみなしてはないのだ。

むしろひとつの必然として光秀が信長を殺すに至る展開は、とてもではないが家康が伊賀越えを成功させて「ああ良かった」では済みそうにないほど複雑で、しかも井伊万千代だけでなく井伊直虎までが、そこに深く関わることになりそうだ。

「あと二回しかないんじゃないの?これどうやって丸く収めるんだ?」と余計な心配はともかく、この本能寺の変の大胆な解釈は、史実上の具体的な根拠があるわけではないが、にも関わらずこの事件の歴史的な本質をしっかり踏まえ、井伊家の関わり方の部分はともかく全体的には十分にあり得るリアルで切実な話になっているのが、これまで小説家やアマチュア歴史家や映画やテレビの脚本家があまた提示して来た様々な俗説とは、一線を画している。

明智光秀像 大阪府・本徳寺蔵

明智光秀が織田信長に突然謀反を起こし殺害したことは、俗に「日本史上最大のミステリー」と言われ、最近では光秀が土岐氏の血統なのでその復興を目指していたといったまことしやかな俗説も唱えられたり、はるかに真面目な話として直接のきっかけと関係がありそうな書状も数年前に発見された。


長宗我部氏の支配する四国に武力で侵攻して滅ぼすのか、臣従をさせるのかをめぐって、その交渉を命じられた光秀は、長宗我部と縁戚関係にもあって、交渉に成功しつつあったのに、信長が平然と反故にして長宗我部を滅ぼそうとしていた。

この路線対立が光秀が謀反を決意するきっかけのひとつだったことは十分にあり得る。だがそれとて、ひとつのきっかけに過ぎないだろう。

これ以前にも、この対長宗我部のように、和睦や平和裏の臣従の可能性もあるのに冷酷無比に残虐な戦争を強行するよう(させるよう)になっていたのが当時の信長だった。

比叡山や本願寺派など仏教勢力との対立では虐殺行為さえ繰り返し、この前年には高野山とも対立を深め千数百名の高野聖を虐殺同然に賀茂川の河原で見せしめに処刑までしていた信長が、今度はいよいよ高野山本体も焼き討ちし、四国も武力征圧しようとしていたのだ。

長宗我部との交渉が信長の気まぐれで破綻しつつあったのがきっかけになったとしても、ついに光秀が付き合いきれなくなった最終局面のようなことだろう。

比叡山延暦寺の釈迦堂 信長焼き討ち以前の鎌倉時代にさかのぼる数少ない建築

実を言えば本能寺の変はミステリーでもなんでもない。光秀が信長を討たなければ、他の誰がやってもおかしくはなかったのだから「なぜ?」も謎もなにもないのだ。

俗説に黒幕説も後を断たないのも、光秀以外の織田家臣団の誰でも、当時の徳川のような同盟と言いつつ事実上の属国でも、機会さえあれば信長を殺すのに十分な動機はあった。

端的に言えば、織田信長をここまで強大な勢力に成長させた家臣団それ自体が、主家が大きくなったぶん、彼らそれぞれも織田家にとって脅威になるほど大きくなっていたことがある。そうやって力を持った家臣は、今度は信長や後継者の息子たちにとってはむしろ邪魔か脅威になり得るし、ならばその力を抑制し疲弊させ、チャンスがあれば殺した方がいい。

逆に言えば、家臣達それぞれから見れば、そんな主君に殺されるくらいなら、先手を打って謀反を起こして主君を討った方がいい。

武家の「忠義」という儒教道徳はむしろ江戸時代にこそ推奨され、普及し、武家の骨身にまで刷り込まれたものだ。だいたい儒教それ自体が、中国皇帝が官僚機構で全土を支配するため、つまり安定した政権に合わせた政治・道徳理論だ。 
主君が臣下に所領を与え安堵することとの引き換えに臣下が武功で主君に尽くすという中世の日本の、いわば契約関係と利害の一致する共同体としての大名たちの「家」の現実には、必ずしもそぐわない。 
まして当時は室町幕府の統治秩序が応仁の乱で崩壊した後の、「下克上」が当たり前の戦国時代だった。 


比叡山延暦寺 西塔 釈迦堂 鎌倉時代

本能寺の変が起こった天正10(1582)年に、織田軍は3月に徳川との連合で甲斐の武田勝頼を滅ぼしている。西では羽柴秀吉が中国地方で毛利攻めの真っ最中で、北陸では柴田勝家が上杉と対峙していた。さらに高野山攻略も秒読み段階で、先述の通り信長は(最新発見の一連の書状のやりとりによれば)これから四国攻めも始めようとしていた。

信長がこのように多方面で同時並行で軍事力を行使できたのは、家臣たちがそれだけ有力な、ほとんど大名クラスの武将に成長していたからでもある。

信長は所領を広げるたびにかなり広大な領地を家臣に恩賞として与えてその所領についてはかなりの自由度・独立性の高い統治を許し、またそれぞれの家臣に自分の強力な軍団も組織させていた。こうした家臣達の競争関係がまた、織田全体にとって大きな活力にもなっていた。

また濃尾平野の平定を出発点にした信長は、畿内を中心に農業生産性も高く特産品も多い土地を押さえて来れた上に、教科書でも習う「楽市・楽座」制のように商業振興にも力を入れ、家臣団も自分の所領でそれに倣ったため、軍事力以上に強大な経済力を織田は持つことができた。

「勇ましい戦国武将」のファンタジーへの憧れで目を曇らされることなく史実を見れば、当時軍事力、戦争が強いことを誇り恐れられた勢力といえば、まず武田だ。織田の強みはむしろ豊かだったこと、財力・経済力だった。
その「戦国最強」の武田を破ることができた長篠の戦いの信長の斬新な作戦も、この大きな財力があってこそのものだ。 
長篠合戦図屏風 左に鉄砲を全面に出した織田・徳川連合軍
当時の日本で鉄砲はすでに完全に国産化されていて、その保有数は戦国時代末期の時点で当時世界一の十五万丁という試算にも相当に現実味があるが、それでも長篠の合戦の時点であれだけの数の鉄砲をひとつの戦場に集約させ、しかもこちらは硝石を輸入するしかなかった火薬を惜しげなく使えるほど潤沢に揃えるには、相当な資金力と流通ルートの確保が必要だったはずだ。


時代劇や戦国時代マンガや時代小説やゲームではほとんど無視されているが、天下統一にあと一歩までに至った織田の力というのは、信長の強烈な残酷独裁キャラとか、そのキャラ故に戦争が強かったのではなく、こうした統治機構や政策の先進性で強い経済と強い家臣団を育てて来れたことが大きい。

信長本人は確かに気まぐれで厳しく、突飛な発想についていくのも大変な、いわば無茶苦茶怖い上司ではあったが、ただ横暴な強権で押さえつけるだけの独裁者だったら、当時の日本でこんなに成功できていたはずがない。

むしろ織田の家臣はそれぞれに大きな自由度を与えられ、そのあいだで競争も激しかったからこそ、信長に忠実にそれぞれに大きな働きをなして、天下統一の一歩手前まで信長を押し上げることができたのだ。

延暦寺釈迦堂 鎌倉時代

だがこうした信長の統治手法は、織田がここまで大きくなってしまったとなると、信長と織田家それ自体にとっては両刃の剣にもなって来る。

それぞれの家臣が力を持ち過ぎれば、信長本人の強力な指導力に従ってくれているあいだはともかく、次の代にでもなればいつ力を持った家臣に取って替わられるかも分からない。

そこで信長は巨大な権勢を見せつけるような安土城の築城と並行して、強力な自分の直属部隊を組織するなどして織田家本体にも力を集約させ、さらに後継世代での権力の安泰を狙って、家臣には難癖をつけたり無茶な軍役を課してその力を削いだり、それでうまく行かなければ叱責し処罰するような動きを始めていた。

これまで信長に忠実であることで自分も成長できた家臣達にしてみれば、今度は自分がその主君にとって大きくなり過ぎたので潰される危険を考えなければいけない。

そうでなくとも信長の、「天下布武」を標榜するその戦い方や圧力のかけ方、権力の見せつけ方は、はっきり言って当時の日本人の普通の価値観からすれば、よく言えば型破りで中世的なしがらみを打破し先進的、それだけについていくのも大変な、人を人とも思わず、当時であればもっとも気にされたであろう仏罰天罰をまったく意に介していなさそうな、空恐ろしいものでもあった。

天下統一が射程に入って来たとなると、征服する敵がいなくなった信長が今度は誰に矛先を向けるのか、分かったものではない。またそうなってくれば、征服戦争と支配地域拡大が続くあいだは武功の競争で成立していた家臣団のなかでも、軋轢も当然起こって来る。気に入らない同輩を主君を動かして亡き者にするというのも、当然あり得た展開だろう。

釈迦堂の前の山の上にあるにない堂 江戸時代寛永期の再建
今ある比叡山延暦寺のほとんどの堂舎は徳川家が再興したもの

明智光秀から見ればこの主君が天下を統一するまではいいが、その先が怖い。統一されたあとの天下の先行きの将来像がまったく見えない上に、自分の身も危ないかも知れないのは、柴田勝家にせよ丹羽長秀にせよ、羽柴秀吉でさえ、織田の有力家臣にとっては大なり小なり似たような事情だった。

いつ突然自分に謀反の言いがかりがつけられて、処刑されたり暗殺されたり自害が強要されるか、所領の居城で決死の籠城戦になり、召し上げられた所領が信長の息子の誰かに与えられる事態になってもおかしくないし、他の大名が和睦・臣従しそうな時に皆殺しの全面戦闘を命じるのだって、他国に織田の強さ恐ろしさを見せつけることだけが目的ではなく、うがった見方をすれば激しい戦闘で自分達を疲弊させて主家への脅威を減じるのが狙いかも知れない。

つまり誰が信長を殺しても不思議ではなかった。あとは実現可能性、信長を討った後での勝算があったのかの問題でしかない。

信長の墓所 大徳寺塔頭・総見院

小説的なロマンチシズムで見れば、信長の死は天下統一の夢の途中で明智の裏切りに潰えた悲劇にもなろうが、歴史学的に大局を見れば、武力統一までは漕ぎ着けて天皇から征夷大将軍なり関白なり太政大臣の官位を得て大義名分も整えられたとしても、それで「天下布武」「天下統一」が実現したとは限らない。むしろそれだけでは「戦国時代」は終わらなかった。歴史や政治というのは、ゲーム的な戦争の勝ち負けでは済まない。

今年の大河ドラマが革命的なのは、詳細がまったく分からない主人公なのでストーリーの主筋がフィクションだからこそ、そのフィクションを構築するために当時の社会のあり方や価値観、歴史の流れを徹底的に踏まえ、絵空事的な英雄譚としての戦国時代を見せるのではなく、時代背景とその社会のあり方をリアルに浮かび上がらせようとしているところだ。

そうして見えて来る「戦国時代」の全体像は、家康が直虎に「わしはこの世が嫌いだ」「誰がこんな世にしてしまったのか」と言うように、そうとうに嫌なものである。

だからと言って家康は、この時点ではまだ「だから自分がこんな戦国の世を終わらせるのだ」とは考えていない。 
後代の、結果を知っている偏向史観ではなく家康のそれまでの人生を辿って当時の立場を考えてみれば、天下統一などとこの時点の彼が思いついたはずが…というより、思いつけたはずがない。

既に直虎が、織田の「天下布武」が成功するとは思えない、と台詞で言ってしまっているのは説明し過ぎというかテレビ的だが、そう言われなくとも無理であることが、二つの点で十分に表現されて来ている。

まず直接的な見た目では、つまり誰が見ても分かり易いポイントでは、市川海老蔵演ずる信長をあまりにエキセントリックな魔王・鬼として見せて来たこと(これはスターにしかできない荒唐無稽スレスレの造形で、海老蔵というのはまさにキャスティングの妙)だ。

市川海老蔵の織田信長

だがそれ以上に見事な作劇の妙は、11ヶ月間かけてじっくり「戦国時代」というか中世末期の日本社会の現実のロジックと当時の価値観をできる限り再現してでドラマを構築して来たことだ。それも武家だけでなく農民や商人、僧侶、果ては流浪民まで含めて当時の社会の全階級をほぼ網羅しながら、である。

直接的にはこの直前まで、徳川信康自刃事件をじっくり見せ、そこに小さな井伊家をこれまで何度も襲って来た悲劇を丁寧に重ね合わせてもいたので、今さら説明がなくとも明智光秀(光石研)が今川氏真(尾上松也)に「共に信長を殺しましょうぞ」と言うだけで、いきなり出て来た意外性はあっても、「誰が殺しても当たり前」とすぐ納得できてしまう。

ところで明智光秀は唯一残っている肖像画(上掲)が若い頃の、おっとりした童顔にも見えるものなので、これまでの映画やドラマではかなり誤ったイメージが流布されて来た。実際には本能寺の変の時点で数えで56歳、初老どころか当時ならとっくに隠居していてもおかしくない。

だから『おんな城主直虎』で白髪の老人になっているのは正確だし、まただからこそ本能寺の変を若気の至りの思いつきの突発的謀反であるかのように演出して来た既存の定型には無理があった。

史実の通り思慮深い老人としての明智光秀(光石研)

明智光秀は丹波亀山の城主として善政を強いた有能な人物だったし(ことその河川整備は今でも十分に役に立っている)、思慮深い教養人でもあった。今川氏真と親交があったというのは脚本家のフィクションだろうが、文化人で連歌・和歌にも堪能だったのだから、徳川家に仕えるようになっていた今川の、当時すでに隠居・出家していて京都に遊ぶことも多かったであろう氏真と懇意だったか、少なくとも顔見知りだったのも大いにあり得る。

大枠でいえば『おんな城主直虎』は本能寺について、一応は「徳川家康黒幕説」を取っていることになるが、単純化された陰謀論に陥らないのは、あくまで光秀が主体的に考えて徳川に持ちかけた話にしているところだ。それも明智が信長暗殺計画を今川を通して徳川に持ちかけるのに十分過ぎる理由を、しっかり史実を元にしながら、このドラマではすでにおなじみになったうがった逆転の「実はこうだった」発想で設定している。

本能寺の変が起きたとき、家康は主要な家臣たちとわずかな供のものだけを連れて堺にいたのは、よく考えれば奇妙で異例な事態の不運な偶然だった。家康たちはこの前に信長の招待で安土城を訪れ、これから織田の案内で京都見物も楽しむことになっていた。

織田と徳川の力関係から言えば、接待する側の織田から主要家臣もねぎらいたいと言われれば、こういう体制でしか動けなかっただろう。万が一の身辺の警護も考えて軍勢を引き連れてというのは、信長がこの前にやったように駿河や遠江を訪れるのならその軍勢も含めて接待を要求できるが(というか要求をするまでもないが)、家康がそれをやろうとすれば「織田が守っているのに信用しないのか?さては離反を企んではいないか?」と痛くもない腹を探られるだけだ。

信長は本当に家康たちを接待したかっただけなのかも知れないが、大きくなり過ぎた徳川をこの際厄介払いしてしまおうと考えていてもおかしくはない。殺すことを狙ってわずかな供だけでいいと強要したわけではないが、強要するまでもなく家康には反論が出来ないのだから、どっちにしろ同じことだ。

現在の京都市内の本能寺(その後移転されている)

『おんな城主直虎』はこの信長の家康接待を家康暗殺計画と捉え、それを任された明智光秀が今川氏真を通して徳川に内通し、信長を逆に暗殺する、という仮説を取っている。もちろんそんな根拠は史料にないが、荒唐無稽な陰謀論と片付けられることでもない。

テレビドラマとして普通にうわべだけ見ていても、信長がなにを考えているのか分からない魔神のような人物として演じられているので、今度は家康を殺そうとしていても視聴者は納得するし、この脚本はそれだけで済ましていないところが見事だ。冷徹に利害関係だけを考えれば、信長がそう判断したとしても、それは信長なりの合理的判断でしかない。

織田・徳川連合軍の甲斐攻めが成功した祝いというのなら、ならば家康はこの一連の流れの中で3年前に信長の言いがかりに抗しきれず、嫡男・信康とその母の正室・築山殿の首を差し出しているのだ。

徳川幕府を開いた偉人のあまりに陰惨な過去なのでタブーになり過ぎて、従来はその禍根や影響の大きさすら十分に考慮されずに済まされがちだったが、考えてみればこの事件が織田・徳川双方に残した怨恨の深さ、徳川に残した傷は、とてつもなく大きかったはずだ。

家康が建立した松平(徳川)信康の霊廟 清龍寺

この徳川信康の粛清事件をクロースアップしたのも、『おんな城主直虎』が革命的と言えるところだ。最初から、少女時代の築山殿が後の井伊直虎と親戚の幼なじみという重要な登場人物で、井伊家を襲う数々の悲劇ですらこの信康事件の一種の伏線としてドラマが構築されて来た。だから徳川方も今川氏真も、そして井伊にとってすら、信長を密かに恨み仇とみなす十分な理由があるし、だからこそ徳川が恨んでいてもおかしくないと百も承知の信長が、この禍根を未然に取り除き、関東・小田原の北条を使った両面作戦で三河・遠江・駿河という温暖で発展の可能性も大きい地方を直接手中に収めようとすることにも、なんの不思議もない。

信康事件は直接には信長の気まぐれのように見えながらも、決してそれだけではないように演出されていた。井伊家がかつて当主・直親(三浦春馬)を今川方に暗殺され、後を継いだ信虎にはそれでもその仇を討とうなどと考えることすら出来ない状況だった。ひたすら今川氏真とその祖母(義元の母)寿桂尼(浅丘ルリ子)に恭順の意を示して当主として認められなければならなかった彼女の過去と、信康と築山殿を殺さなければならなかった家や寸の悲劇が、執拗なまでに重ね合わされて来たのだ。

その上で、氏真が明智光秀の信長暗殺計画に乗るのも「瀬名(築山殿)と信康の仇」と言う。

今川氏真(尾上松也)

こうした悲劇が「戦国時代」では当然のロジックでもあったのだと再確認しながら、それを口にする氏真もまた井伊にとっては「直親の仇」でもある。だからこそ直虎は「ゆえに誰が仇かということをわたしは考えないようにしております」と返答する。これまで「戦国時代」が実際にはどんな時代だったかを見せ続けたことで、信長の暴虐が単に信長個人の「キャラ」の問題ではなくこの時代の権力の論理的な必然であると同時にその限界を示し、だからこそこんな世を終わらせることの意味と、その難しさがテーマとして浮かび上がって来る。

つまりとりあえずは、その「戦国時代ロジック」の究極形である今の信長は排除されなければならない。

ただしそれで戦国時代が終わるわけではない。実際の歴史では織田政権はまず豊臣秀吉に引き継がれ、「戦国時代の終わり」がようやく見えて来るのは本能寺の変の21年後、家康を天皇が征夷大将軍に任命するまで待たなければならない。なお井伊直政は関ヶ原の戦いの最後の最後で重傷を負った傷が元で、この前年に亡くなっている。

じゃあこの大河ドラマはどうやって終わらせるつもりなのか、というのはともかく、晩年の織田信長がかくも冷酷で残虐で横暴だったのは、必ずしも最初からこういう型破りな人物だったわけではない。

狩野永徳 織田信長像 大徳寺総見院

後代の、結果を知った上での歴史観だと、信長も秀吉も家康も最初から天下人になる野心があったかのように思われがちだが、『おんな城主直虎』は家康についてそんなことはまったくなかったであろう現実をかなりはっきり示して来た(むしろ直虎と万千代が、泰平の世を造るために家康に「天下人になるべきだ」と説き伏せる展開)。

実は同じようなことは、織田信長についても言える。

結果を知っている後代の発想では、織田信長が足利義昭を立てて京に上ったのは、足利将軍家の権威を利用した野心的行動に見えるし、義昭がその信長を討てと諸大名に密命を出したのは、信長に利用される形だけの将軍であることに怒ったように思えてしまう(し、我々の世代の学校の日本史ではそう習っている)。

だが実際にはそうではなかった。信長は義昭の要請があったので、その時点の実力ではまだまだ相当に無理があったのに、それでも将軍家の頼みだから応じたのであって、しかもその義昭の将軍権威の復興に懸命に尽くしている。

京にこの新たに将軍のための御所を造営する際、信長は建設工事を自ら指揮したどころか、自分でも人夫人足たちに混じって工事そのものに参加までしている。

足利義昭が密かに諸大名に信長に敵対するよう煽動したのも、自分が形だけの将軍で信長の専横が目に余ったからではない。むしろ義昭の身勝手で、自分に近いお気に入りばかりを優遇するやり方で政治が混乱し、信長がそんな義昭に将軍として自覚を持って欲しいと懸命に諌めようとしたことが煩わしかったからだ。

足利義昭の裏切り(それも二度も)による織田包囲網の危機を乗り切った信長は、それでも義昭を最後まで殺しはしていない。

秀吉が建立した信長の菩提所・大徳寺総見院

信長は将軍の権威で天下が再びまとまるようにと期待して献身的に協力し、要請された時点ではまだまだかなり無理があったのに、それでも義昭を立てたと考えた方が説明がつく。この時には「天下布武」という旗印もその使い方の意味が違っていて、自分の「武」で「天下を」ではなく、むしろ「武」の棟梁たる将軍の権威による全国統治の復興、という標語に読める。

なお明智光秀が信長の家臣になったのはこれがきっかけで、元々は足利義昭に仕えていた。光秀はどちらかと言えば保守的で真面目な性格だったと言われる。信長が義昭を諌めた意見書を出した元亀3(1572)年の時点ですでに光秀は40代半ばの分別盛り、その光秀が主君を替えたのにも、やはり義昭についてよほどのことがあったのかも知れない。

それより以前に、濃尾平野を平定した信長は、その全体が見渡せる岐阜城に本拠を置いている。逆に言えば濃尾平野全体から見える山頂にある岐阜城を、あえて目立ち飾り立てるように改造しているのも、武力の直接行使よりも「戦わずして勝つ」、つまり戦おう、歯向かおうとは思わせない演出だろう。

山頂の居城では行政になにかと不便を来すので実際には山の麓にも館を置き、この館の方には見事な庭園や豪華な建造物を配していたのも、同じような政治的効果を狙ったものだろうし、城下町も整備して特産品の生産を奨励し、楽市楽座制度で商業の発展も計っている。

足軽を城下町に住まわせる兵農分離も、確かに軍団の強化にもつながっただろうが、足軽に給金を保証して生活を安定させることと、農民に軍役が課されて農作業や生活が阻害されるのを防ぐことの二本立ての意味合いだって小さくはなかったはずだ。

むろん経済的な豊かさは軍事力の強化にもつながりはする。 
逆に甲斐の武田が信玄の下で「戦国最強」になったのは、信玄が野心家だったというだけではなく、領地の拡大が山間部で冬は雪深い土地で領民が少しでも食べて行けるようにするための選択でもあった。

信長が岐阜の居館に見事な庭園を設けたりしたこととの関連で言えば、千利休を重用したのも、茶の湯はいわば接待のとてつもなく有効な政治的手段だった。

利休のすべてを削ぎ落としたかのような美学は一方で、たとえばにじり口の二畳台目の茶室は武力ではなく腹を割った話し合いで問題を解決する場所としても設計されている。

千利休 二畳台目茶室「待庵」

刀を持ち込むことが出来ないし、その中では客と主人のあいだに上下関係が成立しないのが元々のコンセプトだ(より広い茶室となると上座や下座や陪席などの席次が設定されるが)。

 大井戸茶碗 銘「信長」 織田信長・豊臣秀吉・古田織部所用 畠山記念館蔵

信長は信長で、始めは少しでも戦争を避けよう、戦ではない手段で繁栄しよう、戦乱で民を泣かすことなく少しでも暮らしやすい社会を造ろうという意思もあって、室町幕府を建て直して秩序ある世の中にしようとも思っていたのではないか、とも考えられるのだ。

だとしたらその信長が変質したのは、具体的には足利義昭に裏切られたこと、より大きな視野で言うなら幕府の復興による秩序の回復は非現実的な夢でしかない(足利将軍家はおよそその器ではない)と気付かされたからだった、とも言えるのかも知れない。

総見院は明治の廃仏毀釈で襲撃され 創建当時のまま残るのはこの鐘楼と門だけ

さて、同じく後代の、結果を知っている故の歴史観では、本能寺の変が無謀に思え、それも「最大のミステリー」と言われる理由のひとつになっているのは、そのクーデタ計画の実現可能性が問題になるからだ。

つまり、明智光秀は俗に言う「三日天下」で終わって、わずか十一日後に山崎の合戦で豊臣秀吉に敗れている。

芳員『粟津ヶ原の戦い』  弘化四年(1847)~嘉永五年(1852)
山崎の合戦で敗走する光秀を木曾義仲に見立てた浮世絵

確かに、光秀にとって信長を討つことは大きな賭けだったが、まったく勝算がなかったわけではもちろんない。

信長の嫡男で名目上はすでに家督を継いでいた信忠も合わせて殺しているので、織田家臣団の誰でも謀反人である自分を討つことで織田家中の最大の実力者になれるし、しかも後継者が決まっていないのだから事実上の天下人にもなることができる…というか、結果として豊臣秀吉がそうやって天下人になっているわけだが、これも後付けの歴史観の偏向した思い込み過ぎないのかも知れない。

実際には、光秀は秀吉に討たれるまでの十一日間になにもしなかったわけでは無論ない。即座に安土城も攻め落とす一方で、朝廷に働きかけて自らの行為と地位は早々に正当化しているのはいかにも折り目正しい光秀らしく、当時の価値観で言っても定石だったし、必ずしも好意的な返答には至っていなくとも、織田の他の家臣たちを説得もしている。

「光秀でなければ誰がやってもおかしくなかった」のがその家臣団の現実だったのであれば、光秀にだって普通に考えれば相当に勝算があったことになるし、その意味で「黒幕説」、つまり光秀が誰かに踊らされて主君を討ったという俗説はナンセンスだ。

だいたい経験も豊富で教養人としても知られる有能で老獪なベテラン政治家だった明智光秀が、そう簡単にそそのかされたり、まして「若気の至り」の野心の暴発的にこんなことをやるとも思えない。

むしろ秘密裏に周到に準備され、考え抜かれて計画されたクーデタだったはずだし、証拠となる文書記録が残っていないから根拠がないと言っても、たとえば密かに共謀関係だった相手がそんな文書を残すわけがない。

徳川家康(阿部サダヲ)

逆に言えば、『おんな城主直虎』では井伊家が主人公なのでその主家である徳川が明智の密かな共謀者という仮説を取っているが、本能寺の変が光秀の独断先行ではなく有力な共謀者さえいれば、これは無謀な賭けではなく、それでも相当にハイリスクではあるが、しかし実現可能性が十分にある計画になる。

その共謀の可能性がいちばん高いのは誰かと言えば、3年前に信長の横暴で妻子を自らの手で殺すまで追い込まれ、それでも信長に臣従を続けて(面従腹背?)駿河まで手に入れた徳川家康だろう。

羽柴(豊臣)秀吉

結局は光秀を倒して信長の後継者候補ナンバーワンに躍り出た羽柴(豊臣)秀吉にしてみれば、光秀が乱心して主君を討ったというくらいの話にしておいた方が、いろいろ自己正当化の上で都合がよくもあった。

もちろん光秀があてにした共謀者が羽柴秀吉で、秀吉が信長を裏切った上でしかも今度は光秀も裏切った、という「真相」だってまったくあり得ないわけではない…というか、後述するような秀吉の性格を考えれば大いにあり得る。

また秀吉が光秀を討ってしまえば、もともと仲間の信頼で結び付いたというよりもライバル関係だった他の織田家臣団にしてみれば、「光秀でなければ自分がやっていた」「信長は自分達にとって危険な主君だった」なととはおくびにも出さなくなる(決して言えなくなる)のも当然だ。

そしてなによりも、明智光秀の立場から見れば、毛利攻めで備中高松城包囲戦の真っ最中だった羽柴秀吉が、まさかこうも速やかに自分を倒しに戻って来るなどとは、まったくの想定外だったことを忘れてはならない。

むしろ水攻めの兵糧攻めという時間のかかるやり方で戦争中だった秀吉は、光秀から見ればノーマークでおかしくない相手だった。

ところが秀吉は、高松城攻防戦をあっというまに和睦に持ち込み(毛利側に信長の死を知られる前に、というギリギリの交渉術の離れ業)、その軍団に全力疾走させて、それこそあっというまに備中(岡山県)から山城(京都府)まで戻って来るという「中国大返し」をやってのけた。

そして最終的には、もっととんでもない想定外の積み重ねが、光秀の計画を破綻させることになった。

月岡芳年 「大日本名将鑑」より『織田右大臣平信長』明治時代

本能寺で寝込みを襲われた信長はすぐさま宿泊する客殿に火をつけているので、どのように死んだのかの模様はまったく分からない(これまでの大河ドラマでもおなじみの、森蘭丸がどうこう等は基本的にすべて後代のフィクション)。

自害はしたのだろうが、まず光秀にとっての第一の想定外として、遺体が見つからなかった。

大徳寺総見院の信長の墓 ただしこの下には遺体も遺骨もない

光秀が計画通りに信長の首をあげていれば、状況はまったく異なっていただろう。

しかも遺体が見つからなかったことを秀吉が早々に察知しただけでは済まなかった。その情報に飛びついた秀吉が、信長は生きていて無事本能寺を抜け出し、中国からとって返している途中の自分に合流する、という手紙を各所に送りまくるなんてことは、光秀にとっても(もし共謀があったとしたら家康にとっても)まったく予想などしていなかった事態だったに違いない。

総見院 加藤清正が朝鮮出兵で持ち帰った石を寄進したとされる井戸

この秀吉の「信長は生きている」デマだけで、他の家臣団や同盟諸侯はまったく動けなくなった。

光秀に共謀者がいても、これではその共謀自体がなかったことにする他はない。光秀が信長を殺してくれて実はほっとしていても、そんなことは絶対に言えないし、共鳴して味方として動くなんてもっての他となった。

かと言って他の有力家臣の多くが秀吉側についたわけではない。ただ、動かなかっただけだ。

それにしても、こんな大噓をこの状況下で思いつける(いきなり主君が謀反に倒れただけでなく、自分は最前線で持久戦の真っ最中で、しかも遠く離れていた)秀吉というのも相当なものだ。

この後、秀吉が信長の後継者として執り行なった葬儀も凄い。遺体が見つからなかったので等身大の木像を棺桶に収めて火葬にしたのだが、その木像はわざわざ貴重な香木の沈香で造らせたのだ。ちょっと炊いただけでも強い香りを放つ沈香を大量に燃やしたわけで、その香りは北の大徳寺の方角から京中に広がった。ド派手なパフォーマンスを、それも見せるのでなく匂いで印象づけたわけだ。

織田信長坐像 大徳寺総見院 火葬された木像の写しと思われる

織田信長は今で言うサイコパスだったのではないかという見解は根強く、今回の市川海老蔵演ずる信長でその印象はさらに強くなるのだろうが、サイコパス性では秀吉も負けてはいない…というより、よほど本格的なサイコパスではないのか?

なおサイコパス、非社会性パーソナリティ障害というのもかなり誤解されている現象で、この『おんな城主直虎』で最後の方になって突然出番が増えた信長がただ怖い、常軌を逸していて血も涙もないだけで「サイコパス」と断言できるものでもない。 
むしろ足利義昭を最終的に追放するまでの信長が妙に真面目と言うか、かなり浮世離れした正義感の強そうな行動と、それ以降のあまりもの極端な切り替えの早さの方が、サイコパスだった可能性を示唆するところだったりもする。 
「サイコパス」は端的に「良心がない」と形容される。この俗流定義はもちろん、では「良心」とはなんぞや、という禅問答にすぐに陥ってしまうわけだが、「良心」という曖昧模糊とした概念は、足利将軍家の末裔を立てて「天下布武」で秩序の復興、というような明快な「正義」とはかなり異なったものだ。 
その意味で「正義」は合理主義で明快に理論化して割り切れるものだが、「良心」はそうではない。 
たとえば「正義」に反する者は殺していい、いや殺すべきだ、というのは、その「正義」を信奉する者の内面では理論的な合理化が可能だが、そこで殺人自体に躊躇する本能的な心の動きが「良心」だ。「サイコパスには良心がない」ないし共感能力がない、人間性がない、というのはこういう意味で、現に晩年の信長の行動でさえ、戦国時代のロジックのなかで完全に合理的ではあった。 
秀吉が「信長は生きていて」という大噓を平然と流布して他の織田家臣や同盟諸侯を動けなくしたのも、戦略的には完全に合理的な判断ではある。だがいわゆる普通の人間には、そこで「嘘をつく」ということに対する本能的な躊躇が働き、ここまでは出来ないだろう。 
結局一般人にいちばん分かり易い「サイコパス」の判断基準は、この秀吉のように自分の目的のための合理性さえあれば平気で噓をつける人というのは、相当に危ない。


総見院は明治の廃仏毀釈で略奪に遭いほとんどの堂舎を失った後
大徳寺の修行道場として使われた 本堂はその大正時代の禅堂を改装したもの

歴史的な出来事について「現代の価値観で過去を判断してはいけない」という教訓めいたことを言うのは、たいがいは歴史を知らず過去の価値観も理解できていない(し興味もない)人たちが反論できなくなった時に無責任の言い訳か、自分の現代の身勝手な価値観を押し付けている場合がほとんどだ。戦時中に日本軍がやったことの多くは普遍的にあきらかに酷いことであって「みんな(他の国)もやっていた」は言い訳にならないし、晩年の織田信長がひどい虐殺魔だったというのは、信長にはそうなる理由もあったにせよ、だからといって正当化できるわけではないし情状酌量の余地もあるとは思えず、もちろん当時の日本の道徳では許されたなんてこともない。単に信長に逆らえなかった、現実と妥協するしかなかっただけだ。

信長にとってそうした残虐行為が「当時では仕方がなかった」というのなら、それは「戦国時代」がそれだけ、当時の人間にとってもひどい時代だったというだけのことだ。

信長が父・信秀の菩提所として建立し秀吉が再建した大徳寺黄梅院

そうした色眼鏡を排して言うのであれば、明智光秀というのはもっと評価されていい人物だろうし、本能寺の変はただ「動機が分からない、しかも無謀」だから「日本史上最大のミステリー」と言うのも、そこで光秀の動機についていろいろと俗説を空想するのも(「土岐氏の再興」に至っては「そういうこともなかったと断言はできませんがねえ…」としか言いようがないし)、趣味としてはおもしろいかも知れないが、あまり意味はない。

むしろそうなるに至った事態の推移と、そうした事態を醸成した「戦国時代」の武家社会のあり方をまず分析的に見るべきだし、その時代と社会の全体像をちゃんと見ることからなぜそうなったのかを考えてこそ歴史が教訓になるのが、真の意味での「現代の価値観で過去を判断してはいけない」のはずであって、秀吉が信長の後継者というイメージを巧妙に利用するために構築した後付けの歴史観で明智光秀の行動を云々することの方こそ「現代の価値観で過去を判断」でしかあるまい。

信長の比叡山焼き討ちも本願寺派大弾圧・大虐殺も高野山襲撃計画も、普遍的な道徳として虐殺は虐殺だし、「当時の価値観」を言うのなら敬虔な仏教国では「罰当たり」「天も恐れぬ」の極みだ。 
単に信長がそうした人間的な価値観というか良心の躊躇を超越した極度な合理主義者だった、つまりサイコパスだったというだけのことで、そういう信長に強制されたからって家康が信康や築山殿の死に自らの罪や責任を感じなかったわけもない。
戦時中の日本軍の慰安婦制度などというのはもちろん当時の軍に求められた正義感でこそまったく不道徳な暴虐であり、だから軍専用のただの(強制)売春制度を国が大掛かりに運用していた不道徳の極みを誤摩化すために、将兵の「慰安」をもっともらしく装った「慰安婦」なる呼称をでっち上げたのが「当時の価値観」の実際だ。軍の内部だとかでは皇軍の兵士に性奉仕するのは当然だなどと実は思われていたとしても、そんな価値観は当時でもおよそ社会的に許容されるものではない。
まして武装した兵士がやってきて脅して強引に慰安婦をリクルートなぞ、完全に当時の一般的な価値観や道徳観に反して大問題(というか立憲国家では許されない組織犯罪)だからこそ、公式な命令書に「強制連行しろ」と明記なぞ最初からしているはずもない。 
国民相手には「八紘一宇」の「大東亜共栄圏」という偽善プロパガンダを吹聴していたからこそ、南京攻略時に大虐殺をやったことだって隠蔽するしかなく、だから「証拠がない」「被害者数が分からない」ようにしたのが実態だ。それを現代の価値観というか都合で「証拠がないからでっち上げだ」などというのは、「現代の価値観で過去をねじ曲げる」の典型でしかない。

そうすることでこそ光秀がなぜ信長を討とうと決意したのかも自ずから見えて来るし、具体的な契機などについては史料が残っていない以上は謎のままでも、史料で抜け落ちている部分で起こったであろうことも、抽象的なレベルでは自ずから輪郭が浮かび上がって来るだろう。

黄梅院の庫裏 天正17(1589)年 小早川隆景による建立・寄進

もちろんそのような抽象的な推論のレベルでは、映画やテレビドラマの時代劇にはならないわけで、その部分を巧みに構築されたリアリティ性の高いフィクションで補っている『おんな城主直虎』での本能寺の変の展開は、これまで日本人が漠然と、後世の後付けの合理化を鵜呑みにして信じて来た歴史観を鋭く問うてもいる。

これからも「大河ドラマ」でNHKが、つまり公共放送が日本史上の出来事や人物を取り上げ続けるのなら、近現代に国家政府の都合いろいろねじ曲げられて来たことも多い我々の歴史観を、このように問うものであるべきだろう。

「戦国時代」ひとつとっても、我々が思って来たようなイメージは、史実や歴史的な現実とはかなり異なっている場合も多いのだ。

それにしても記録上の史実ではこの本能寺の変の直後に亡くなっている井伊直虎の話を、脚本家はどうやって終わらせるつもりなんだろう? 
井伊直虎(柴咲コウ)
これまでも信虎が考え抜いた計画が、思わぬ番狂わせでひっくり返ってしまう展開が相次ぎ、井伊家は先祖代々の所領である井伊谷(いいのや)まで失ってしまった。 
そして最後のクライマックスの本能寺の変もまた、豊臣秀吉の想定外・奇抜過ぎる発想と行動の番狂わせで、明智光秀や家康や万千代、直虎が願ったような結果にはならない。 
もしかして直虎が「井伊直虎」としては亡くなったことにして、家康の影の側近として供に泰平の世を目指すことを決意する、というようなラストにでもなるんだろうか? 
その直虎の下には明智光秀の幼い息子も預けられているのも、この子はいったいどうなる(誰になる?)のやら… 
直虎については、まさかとは思うが…家康の身近には確かに、彼女が「井伊直虎」の名を捨てて(死んだことにして)この人物になった、と言えそうな側近はいて、徳川の平和統治の理念的な礎を築いた大功労者ながら、その前半生がよく分かっていない。 
家康・秀忠・家光の三代に渡って徳川家を理念的に支え、とりわけ家光に深く慕われた天海(慈眼大師)だ。 
天海僧正坐像 喜多院慈眼堂 寛永20(1643)年
天海の没する数ヶ月前に生き写し像として作られたと言われる
 
川越喜多院・天海を祀る慈眼堂
ちなみに天海については「実は明智光秀だった」という俗説もあるのだが、「実は女だった」でもこのドラマなんだから構わないのではないか、と…。 
いや天海は天台宗で、井伊次郎法師は臨済宗の尼僧だったんだから、とは言っても、いくらなんでも直虎が実は以心崇伝になった、というのはさすがに年齢的にもあり得ないと思いますが…。
天海が家康の一周忌に法要を行った仙波東照宮

11/19/2017

「戦国時代」の大タブーにしてもっとも陰惨な悲劇、徳川信康事件について


井伊直虎、あるいは井伊家出身の尼僧・次郎法師は、当主が暗殺され男の後継者がわずか2歳の子どもしかいなくなったので女ながら領主となり、井伊を守り抜いてこの幼少の虎松を育て上げたとされる。虎松は成長して井伊直政となり、徳川幕府の成立後、彦根30万石の藩主になった井伊家は徳川の譜代筆頭として老中、大老を輩出し続けた。

しかし当時はしょせん、遠江の西端(今の静岡県浜松市)の、井伊谷の小さな領主でしかなかった井伊家だ。京の公家の日記に残るには遠過ぎるし、生涯の記録が書かれるような大物でもなく、直接の文献史料がほとんどないなかで、分かっていることは井伊家の伝承をまとめた江戸中期の文献以外はほとんどない。「直虎」という署名の当時の古文書もあるが、それが尼僧の次郎法師と同一人物かも、最近になって疑義も提示されている。

それが今年の大河ドラマの主人公なのだから、NHKも大胆なことをやるものだ。基本史料そのものが「作り事」である可能性が高い(直虎・次郎法師が虎松の父の井伊直親とかつては許嫁であったとする伝承も、実年齢の差を考えるとかなり怪しい)、いずれにせよ神話伝説めいた話である上に、『おんな城主』といいながら、井伊家を守ったというその功績は、戦争ではなく主家の今川に命じられた徳政令(農民の借金棒引き)を、領民を説得してその生活を守る代わりに先延ばしにした、経済政策なのだ。

だからこその異色大河ドラマは、武家に限らぬ当時の社会情勢と経済産業構造を丁寧に描写することで直虎の政策とその意味をリアルに浮かび上がらせる。だから十分に説得力はあるのだが、それでも直虎が徳政を先延ばしにする代わりに実行する政策の先進性にはやはり驚く。中世末期の新規産業振興イノベーションに治水灌漑などの住環境・職業環境に整備で時代に適応した豊かな土地にし、しかも労働力を確保するためにも住みやすい、今でいえば高度福祉社会まで作ろうという、「民富んでこそ国栄える」精神の実践なのだ。

先進的というのも、ドラマのなかの直虎がやることのほとんどが、井伊直政が仕えることになる徳川家康と、その後継の将軍たちが実践するか試そうとした政策だったりする。この大河ドラマは実のところ、徳川家康をいわば「裏主人公」に、戦国時代が本当はどんな時代で、徳川家康がそれを終わらせることがいかに歴史的な必然だったのかをテーマにしている。

しかもこの「裏・家康」設定は、非常に不吉な伏線を最初から設定することで始まっていた。家康の正妻・築山殿(ドラマの役名は瀬名)が最初から重要な登場人物なのだ。

直虎・次郎法師のことを伝えるのと同じ井伊家の伝承には、徳川家康の正妻で今川義元の親戚(姪というのが定説)になる築山殿の、生母が井伊家の出だったとも書かれている。そこで幼少時の直虎(「とわ」という役名はフィクション、当時は武家の女性の本名はめったに公にされず記録もされないのが一般的)と瀬名つまり後の築山殿が幼なじみで、縁戚でもありずっと親交を持ち、瀬名は直虎を「姉さま」と呼び、瀬名と松平元康(後の家康)の新婚生活も描写されていた。

桶狭間の合戦を機に家康が今川の支配から独立すると、駿府に残された瀬名とその子の竹千代(これは松平・徳川家の嫡子の幼名、のちの徳川信康)は人質状態で今川に殺されそうになる。この時に駿府に乗り込んで助命嘆願に奔走するのも、ドラマでは次郎法師(後の井伊直虎)だった。

言うまでもなく、この築山殿と、家康とのあいだに産まれた長男・徳川(松平)信康は、天正7(1579)年に非業の死を遂げる。殺したのは夫であり父である家康だ。

築山殿 静岡県 西来寺蔵

こればかりは多少は日本史に興味がある人なら知っている有名事件なのだが、ただし今度は大タブー、それもあまりに陰惨な悲劇だ。

クライマックスにこのとんでもなく悲痛な事件が起こることだけははっきりしているのだから、なんとも大胆不敵な野心的ドラマなのだが、案の定といえば案の定とはいえ、残すところもうあと数回になってやっと、というかついに、信康と瀬名に突然悲劇が襲いかかる(第45回ダイジェスト https://www.youtube.com/watch?v=eKCA8ZeV32g)。

とはいえ今度は捕らえられ幽閉された築山殿と信康をなんとか殺させずに済まさせようとする努力を見せるようで、このなんとも後味の悪い事件の余韻で1年のドラマが終わってしまいそうな勢いだ。

これ、大丈夫なんだろうか? どういう結末があるのだろうか? 史実としての井伊直虎は、この事件の3年後、今度はこの信康の死を家康に命じた織田信長が明智光秀に討たれた、その約2ヶ月後に亡くなっているのだが…

いやこのドラマのことだから、直虎は名目上天正10年に死んだことになっているが実は… 
…なんてことになりはしないかとも思えるのはこの直虎、とてもではなないがあと3年では死にそうには見えないそれにこうした「記録ではこうだが、実は」展開は、このドラマで幾度も用いられて来てもいる。
それこそ実は家康・秀忠・家光三代のアドバイザー、天海(慈眼大師)は直虎だったとか、そういう展開になってもテーマ的におかしくない。
天海が住職を務めた川越・喜多院の慈眼堂 徳川家光の建立
なお天海の墓所は輪王寺の慈眼堂(やはり家光建立)だが現在非公開
 
ちなみに天海は、実は明智光秀だった、という俗説も有名なわけだが、そうなると106歳の長寿をまっとうした天海が光秀ならさらに8歳上の114歳(!)になる。 
死の直前の姿とされる喜多院慈眼堂の慈眼大師(天海)像
直虎の生年は不明だが、ドラマではだいたい天海と同じ天文5(1536)年かその前後っぽい設定にはなっている。
東叡山寛永寺(現上野公園内)の天海の遺髪塔
剃髪した僧侶なのにそんなに髪があった?
 
日光山輪王寺 天海の墓所である慈眼堂への門


さて、その信康事件である。

岡崎三郎信康(徳川信康) 勝蓮寺蔵 

徳川家康の生涯でもっとも暗い歴史、妻を惨殺し長男に切腹を強いることになったのは、当時同盟関係にあった織田信長の要求だったと言われているが、詳しい理由や背景は、実は分かっていない。

「信長公記」によれば信長の娘で信康の正室だった徳姫が、信康が舅の織田家に無断で側室を置いたことなどの不行跡を訴え、信長が激怒したとされているが、最新の研究では、信長が直接に信康の死を命じてはいなかったかもしれない、というのだからさらに驚く。

もしかして信長は、実は関係なかったというのか?

狩野永徳 織田信長像 天正12(1584)年 大徳寺蔵

あるいは、「同盟」とはいえ軍事力でも経済力でも強大な信長に、「弟と思っている」と言われ続ける家康が隷属する関係が実際だったわけだが、つまり家康が長男を殺したのは、信長に逆らえない究極の過剰忖度だったのか?

信長=秀吉=家康の「天下統一」期、つまり「戦国時代」の最後の方だけに関心が向かいがちな「戦国武将ファン」には見落とされがちのことかも知れないが、この時期のほんの少し前まで、「戦国最強」でもっとも恐れられていたのは、甲斐の武田信玄だった。

武田信玄像 高野山成徳院蔵

跡をついだ四男の武田勝頼は長篠の合戦で大敗した無能な二代目的に思われがちだが(黒澤明監督の『影武者』などが典型)、それは結果として勝頼が織田・徳川連合軍に滅ぼされたからであって、一時は父・信玄をもしのぐ最大支配地域を実現したし、長篠の合戦で多くの重臣を失った後のこの時期でも、未だに強大な権勢を維持していた。

武田勝頼・夫人・武田信勝像 高野山持明院

だからその武田を信康が密かに味方につけて織田、さらには家康への謀反を企んでいたから処罰されたというのは、当時数えで21歳の若き信康が、というのであれば確かに、まったくあり得ないことではない。

この当時の家康に「天下統一」の野心があったとはとても思えない。家康は今川義元が桶狭間の戦いで急死したことで今川から独立できたものの、今度は織田と「同盟」と言いながら、限りなく主従関係に近いものだった。

後世の、いわば後付け歴史観では、松平(のちの徳川)家は今川に臣従する屈辱とその抑圧に耐え続け、桶狭間をひとつのチャンスと捉えたのだろうと単純にみなされがちだが、家臣の三河武士団についてはそうだったろうにしても、家康本人についてはとてもそうとは思えない逸話も残されている。 
むしろ今川の敗北に将来を悲観した家康は三河・岡崎の菩提寺で自刃しようとして、その住職に止められて「厭離穢土欣求浄土」の言葉を授けられ、後にそれを馬印としたというのだ。 
元々は穢れた現世を離れ浄土への往生を求めるという浄土信仰の標語だが、家康がこれを自らのいわば座右の銘としたのは、私利私欲と殺戮に満ちた世を厭い、平和で清らかな新たな世を実現したい、というように解釈される。

後には「戦上手」と言われた家康だが、武田の駿河攻めと組んで遠江に攻め込んだ時には堀川城の攻防戦で一般庶民の非戦闘員まで虐殺するような戦い方をさせたかと思えば、今川氏真を攻めあぐね、武田に無断で和睦して氏真を生かし、信玄を怒らせ…というか呆れさせている。

徳川流の戦い方があったとはとても思えないこの支離滅裂ぶりは、しまいには武田と決裂しその武田が遠江に攻め込んで来る結果になり、家康は三方ヶ原の戦いでは明らかに焦って浮き足立ち、あっけなく信玄の陽動作戦に乗せられてしまって大惨敗している。

伝・徳川家康三方ヶ原戦役画像 通称「しかみ像」徳川美術館蔵
ただし家康が自戒で書かせたという伝承に根拠はない

この時には信玄が急死したことで、辛うじて徳川は命脈をつなぐことができた。

信玄の後を継いだ武田勝頼が再び侵攻して来た時に長篠の合戦で打破できたのは、織田の援軍のおかげというか、あくまで徳川の防衛戦だったはずのこの戦いで主導権を握ったのは鉄砲隊を大々的に導入した織田で、徳川は織田に守ってもらったようなものだ。

家康の若い頃の甲冑 久能山東照宮蔵

若き信康はこんな徳川のふがいなさに不満を感じ、むしろ武田と結ぶことで織田からの「独立」を考えたのかも知れない。

父の家康はといえば、このまま織田が天下を治めることになれば自分は三河・遠江を支配する一大名ではあり続けられるのだし、行く行くは頭もよく美男で、将来を嘱望していた息子に無事家督を譲りたい、というくらいの将来像しか持っていなかっただろうし、それだけでもとくに不満もなかっただろう。

家康自身が織田と今川という二大強国に挟まれた三河・松平家の嫡子として産まれ、父の代では松平家が尾張の織田か駿河・遠江の今川のどちらかに隷属することで生き延びるために、自分は織田の人質になったり今川の人質になったりして育っている。家督を継いでも三河ではなく駿府で生活していた自分の青年時代に較べれば、徳川家は遥かにマシな立場だったのだ。

だが若い信康がそれでは満足できなかったとしても、不思議ではないが、だから信康が武田と内通していたという説に立つなら、説明がつかないこともある。

「信康」の「信」は元服時に烏帽子親となった信長からもらった字で、同時にその娘の徳姫を正妻に迎えている。家康は本拠を東の遠江・浜松城に移していたので、尾張により近い三河の岡崎城を預かっていた信康こそが織田・徳川同盟の要になっていたし、能や茶の湯でも優れた素養を見せていた信康は(それ自体が信長に合わせた趣味なのかも知れないが)、個人的にも信長に気に入られていたはずだ。

そんな重要な後ろ盾になる信長を、果たして信康がそうそう裏切るものだろうか? 徳川の織田からの「独立」は、自分が家督を継いでからの方が良かったのではないか?

むしろ家督を狙うなら、まずは織田を動かして家康を隠居させてもいいし、信長にしてみれば徳川家内の岡崎と浜松の確執は、むしろ信康を取り込むことでこそ利用できただろう。なにも信康の死を強要することで徳川に織田への恨みを残すことなどなかったはずだ(信長がそうした他人の普通の感情にまるで興味がなかったとしても)。

一方、その徳川の家中で、信康の立場は必ずしも安泰ではなかった。

母の築山殿(瀬名)は今川の出で、立場こそ人質とはいっても親子三人は駿府でかなり恵まれた環境で幸せに暮らしていた。今川義元は駿府に京風の先進地域を作ろうと、応仁の乱後に荒廃した京の代わりとなるようなものを目指してもいて、家康・瀬名と信康の親子はその豊かな文化教養のなかで育ち、とくに信康は今川義元の姪である瀬名を通じて、今川の血統でもある。

築山殿の墓所(愛知県岡崎市の八柱神社)

今川義元が死んで解放されて三河に戻り独立できたとはいえ、逆に家康自身ですら立場がむしろ微妙になった面すらあった。というか、主君であるにも関わらずその家中でかなり「浮いた」存在だった。

井伊万千代(後の直政)を家康がかわいがったのは、旧来の三河家臣団と違って万千代とは話が合ったからではないか、と言われている。

虎松(のちの万千代)は今川に命を狙われたことがあり、その時以降は禅寺に預けられている。禅宗寺院は当時の最先端の知識が集まり、勉学や教養を身につけるには理想的な環境だった。一流の武将となると子弟の教育のために禅僧を(家の宗派が天台宗だったり浄土宗だったりしても)側近にすることも多かった。

万千代はそういう教育的には恵まれた環境で育ち、現に後の井伊直政は「赤鬼」と恐れられた武勇だけでなく、美男で教養も豊かだったのを活かして外交交渉でも活躍したし、江戸時代の井伊家は武芸や政治だけでなく芸術文化でも知られる家になった。

幕末期の大老・井伊直弼は開国を主導した政治的手腕とその後の安政の大獄で有名だが、超一級の茶人でもあった。「一期一会」というのは利休の精神だと思われがちだが、井伊直弼が作った言葉だ。

酒井忠次や本多忠勝、榊原康政ら松平家に代々仕えて来た家臣にはなかったものが井伊直政にあったというのは、逆に言えば家康自身はそうした譜代の家臣とあまり話が合わなかったことでもある。三河武士ははっきり言えば、がさつな田舎者の集団だったのだ。

晩年の家康が駿府に隠居し、墓所も久能山にと遺言していたことからも、家康にとって三河ではなく駿府への思いが強かったことが分かる。
家康がまず葬られた墓所 久能山東照宮
家康は三河よりも駿府こそが故郷だと感じていたのではないか?

そして駿府で産まれ育ったせいもあるのか、今川の家系である母・築山殿の影響もあったのか、信康もまた教養豊かだった。

信長とうまく付き合うためもあったのだろうが、茶の湯や能でも才能を見せたらしく、なおその信長はといえば堺の商人出身の千利休を重用し、その鑑定で高値をつけた茶碗を恩賞代わりに臣下に与えるなど、茶の湯も政治的手段として大いに活用した(俗に茶碗ひとつに城ひとつ以上の価値とも言われる)。

ちなみにその信長以上の茶の湯マニアになったのが豊臣秀吉で、勝手に茶会を開くのは禁じた信長の命に密かに反して、長丁場の戦地でちょくちょく茶会をやったり、信長の死後には北条攻めの長期の包囲戦などで陣地に茶室を建てたりまでしている。 
お茶自体に精神安定効果がある上に、利休好みの侘び茶の簡素で土壁などの質感を活かし、しかも暗い茶室にも同じ効果がある。秀吉が茶に凝ったのは、ストレス解消の必要があったのかも知れない。 
利休の最高傑作とされる茶室・待庵 
なにしろ主君はあの失敗を許さず傍若無人な信長だし、奇抜な発想の心理戦や陰謀・調略には長じた秀吉だが、実戦でそこまで強かったわけでもなかった。包囲戦や兵糧攻めで敵を降伏させるのが得意で、これには忍耐力も必要だし、せっかちな信長に「まだか、遅い!」と叱られそうでもある。

一方、家康の家臣団である三河武士団はといえば、そんな文化教養には縁がない、はっきり言えば無骨でがさつな田舎武士だらけだった。しかも永年隷属を強いられて来た今川への恨みも大きかった。築山殿はその今川の出で、信康もまた今川の血を引く者でもある。

今川義元が討たれると家康は桶狭間から三河に直行してしまったので、築山殿と竹千代(後の信康)は駿府に取り残されてしまった。家臣団のなかには、どうせ「今川の者」である2人はこのまま見殺しにしていい、という意見すらあった。徳川が捕虜にした今川方との人質交換を申し出て、なんとか親子は救い出されたものの、今度は家臣団の意向なのか、家康の家臣達への遠慮だったのか、三河・岡崎城では家康から遠ざけられ、城中に住むことすら許されず、城下の西行寺で暮らしていた時期もある。この扱いについては、正式には離縁されていたのではないか、という説もある。

たとえば筆頭家老だった酒井忠次は家康より16歳も歳上で、家康が駿府に人質に出された時に守役的な立場で随行している。桶狭間での今川軍の敗退をチャンスと捉えて今川からの独立を主張した最右翼でもあり、家康としてもなかなか頭が上がらなかった相手だ。

遠江を押さえた家康が浜松城に移って信康を岡崎城主にした(以降、岡崎三郎とも呼ばれた)のには、今川の血統というだけで家臣から好ましく思われていない息子が、確かに自分の後継者であることをはっきりさせる意味もあった。

築山殿がこの時から、「お方さま」つまり正室ではなく嫡子の生母という身分で岡崎城で信康と同居しているのも、彼女の出自に関わって家中での立場がぎくしゃくしていた(ないし、離縁されていた?)ことをうかがわせる。

逆に言えば酒井忠次たち三河家臣団からすれば、「今川の者」である信康は望ましくない跡取りであり、チャンスがあれば排除したい存在だった。

それでも家康に信康以外の男子がなければしぶしぶ納得するしかなかったが、そこで家康の側室に新たに男子が生まれてしまった。後の徳川秀忠である。こうなると信康の立場は決定的に悪化する。信康がいなくなっても後継者はいる。むしろこの側室の子の方が家臣団にとっては嬉しいくらいなのだ。

「戦国時代」の武士というのは、後代に神話化された我々の思っているようなイメージとはかなり違っていた。戦乱の時代に武勇はもちろん褒められもてはやされたが、明治の(新渡戸稲造の)捏造である「武士道」などというものではない。「忠義」が重視されたのは江戸時代の儒教朱子学であって、下克上が当たり前ということは、利害が一致しなくなった主君を裏切るのはもっと当たり前だったというか、その倫理的なハードルは乱世であればこそ平時より遥かに低かっただろう。

逆に言えば、徳川幕府が儒教・朱子学を公式学問に定めて忠義や孝行の倫理に基づく秩序を強調したのは、再び戦乱の世になってしまうのを恐れたからでもある。 
二代秀忠の2人の息子のうち弟の国松(のちの松平忠長)の方が美男で利発で勇気もあるともっぱらの評判でも、病弱で内気な長男の竹千代を将軍後嗣にと家康が確定したのは、長子相続を制度化することでお家騒動を防止して秩序ある政治体制を優先させるためでもあった。
江戸城の奥御殿を移設した川越喜多院客殿 家光はこの建物で産まれたとされる
果たして文化芸術を好み、引っ込み思案だがやさしい性格ではあった竹千代は、それでも徳川15代のなかでもっとも強い権力を発揮した将軍・家光となり、その統治の基礎となる武家諸法度、公事御定書などの法制度を整備し、泰平の世がやっと最終的に出来上がった。 
 今でいう「法の支配」の確立だ。これも実は徳川以前に今川がやっていて(今川仮名目録)、家康が今川から学んだことでもある。
喜多院書院 家光の乳母・春日局の居室を移築した
こうした法制度を執筆したのは南禅寺の禅僧・金地院崇伝(以心崇伝)であり、平和統治の確立を理念的に支えたのが天海だった家光にとくに慕われた天海は、平和の世になったことを確かめて106歳という長寿をまっとうした。
喜多院書院 埼玉県川越市 旧江戸城遺構
なお家光の治世が厳格だったのは諸大名の力を押さえることが主で、これも内乱の防止が大きな目的だった切支丹禁制と鎖国制度(これも以心崇伝の制度設計)ですら、実は対西洋貿易が幕府が独占することで諸大名が火薬などを輸入したり財力をつけることを防ぐ政策でもあった。

中世の封建制というのは要するに、主君が領土を分配しその支配権を保証するのと引き換えにその主君に従う関係のことだ。

こと中央の秩序(足利幕府)の権威が崩壊した室町時代後期となると、強い家には中央の権威付けがなくとも家臣が集まるし、逆に家の勢いが傾けば敵対する側に寝返ることを考えるのも、それぞれの国衆にとってはむしろ家臣領民に対する責任みたいなものにすらなる。

たとえば武田信玄のようにやたら強くて残虐な戦い方をする大名が国境を侵す勢いを見せるなら、その国境を領地にしていた国衆にとっては、田畑や家々に火をかけられ領民まで皆殺しにされるよりは、武田と内通して武田軍を通過させる密約を結ぶだけでも、まだ命や生活は守れるだろう。

主君、大名であるということは、こうした様々な利害や欲望を持った臣下の意見を調整してまとめる立場でもあった。領地を次々と広げる強い大名のために手柄を立てればそれだけ恩賞として分け与える土地も増え、家臣は満足してまとまるだろうが、家中で意見対立や感情的な確執が高まれば、肝心の戦に勝つ力すら弱まってしまうし、そうやって家中に不満が鬱屈して結束が乱れると、密使を送られて内通を画策されたり、間者を送り込まれて内部から撹乱され、分断されるリスクも増える。

またこの武田信玄が、実戦でやたら強かっただけでなく、今で言う「忍者」を駆使した協力な諜報組織と情報網を持っていたといわれ、調略で内通を工作し、時には暗殺者すら送り込むことでも恐れられていた。勝敗は合戦以上に、こうした事前工作でついていたのだ。

逆に言えば日本の「戦国時代」は生き残るための打算にばかり満ちていて、そんなに勇ましい時代ではなかった。

久能山から日光に家康の墓所を移す途中で祭事が行われた仙波東照宮
仙波東照宮 本殿(川越市・喜多院内)
徳川家康の墓所 日光東照宮の奥ノ院

徳川家康はなぜ長男・信康を殺さなければならなくなったかと言えば、こうした「戦国時代」特有の武家のあり方の煮詰まった究極の悲劇であって、誰か1人のひとつの動機では説明しきれないことなのかも知れない。

信康が「今川の者」として家臣に白眼視されていても、信長の後ろ盾があれば、家康に次男が産まれいても、家督を継ぐことまでは出来ただろう。

だが仮に信康が武田と結ぶことで織田に隷属する関係を解消したいと考えていたとしても、織田のバックアップがなければ家中の支持が集められないようでは、その織田に「守って」もらいながらその力に怯え続けて来た重臣たちが乗ってくるとも思えない。逆に信長に訴えられるのがオチだし、弟に徳川の主君をすげ替えられるだけで済めばいい方だ。だいたい父・家康と家臣の関係を見ても、この頃の家康は織田への配慮を欠かさない以上に酒井忠次らに気を遣い通しだった。

あるいは武田への密通がまったくの濡れ衣だったとしたら、「今川の者」が家督を継ぐのがおもしろくない家臣団の誰かの讒言だった可能性も否定できない。

信康はこの頃、家康に新たな男子が生まれたことを警戒した母・築山殿の意見で、男子を産むための側室を持たされている(嫡子の長男が産まれれば、長男による相続はある程度は安定する)が、その側室が武田の旧臣の娘で、だから武田と内通したと言われる根拠にもされている。

徳川信康霊廟 浜松市天竜区の清龍寺

すべてが信長の言いがかりだった可能性も、もちろん否定できない。今年の大河ドラマでも基本はこの解釈だが、徳川家内での浜松と岡崎の確執と、信康と築山殿が「今川の者」であったことへの反発、武田内通説、信康が側室を置いたことがきっかけだった説、さらには信長が直接命じたわけではないという最新の説まで網羅しながら、作りあげたドラマが凄い。

信長(市川海老蔵)はまず浜松と岡崎の軋轢と、家康(阿部サダヲ)の側室に男子・長丸が誕生したので信康(平埜生成)の立場が微妙になったことに目を付け、信康を自分の側に取り込む動きを見せる。

信長の意図が徳川を分断させることで、自分に父に対する謀反を起こさせようとすらしかねないと見抜いた信康は、信長の申し出を「心配して下さるお気持ちだけで十分にありがたい」と丁寧に断る。

『おんな城主直虎』の信康(平埜生成)と家康(阿部サダヲ)

とたんに信長は手のひらを返したように、安土城に挨拶に来た酒井忠次(みのすけ)に、信康が武田と通じているらしいと告げ、娘・徳姫からの書状を見せ、そこには信康が舅・信長に断りもなく新しく側室を置いたこと(ドラマでは、徳姫自身は男子が産まれたら自分の子の扱いになるので心配は要らないと書いていたはずだが)などの不行跡が訴えられていると詰め寄る。

忠次は信長の言いがかりに反論できないまま浜松に持ち帰り、信康を殺すしかないと示唆して家康を激怒させると、問いつめられうろたえた態度を装いながら、逆に三河家臣団の本音を突きつける。「今川の者」である築山殿と信康は自分達にとっては今でも好ましい存在ではない。家康がこの前に今川氏真(尾上松也)を諏訪山城主にしていたのを忠次たちがおもしく思っていなかったことも描かれていた。跡取りならば長丸もいるのだし、むしろ厄介払いになるではないか。

それに信康の新しい側室が武田の旧臣の娘である以上、織田の疑いは払拭しきれないし、どうせ織田の意向に逆らうことは徳川には出来ないのだから、素直に従った方が家のためではないのか。酒井がそう言い出してしまうと、家康に同情的だった本多忠勝(高嶋政宏)や、榊原康政(尾美としのり)も同意せざるを得ない。

実はよく見れば、信長は酒井に信康を殺せとは言っていない(つまり最新の説の通りだ)。ただ信康が武田と内通しているようだが徳川はどうする気か、と問うただけなのだから、嫡子の首を差し出すのはあくまで徳川の判断、まさに究極の過剰忖度ワールドであると同時に、酒井忠次はちゃっかりと「今川の者」の嫡子の排除という永年の宿願を果たしてもいる。

家臣に理解のある徳のある主君であろうとして来た(言い換えれば弱気で優柔不断でもある)家康は、その忠次の下心を見抜きはしても「そなたはいっそ織田に馳せ参じればいい」と捨て台詞しか言えない。

『おんな城主直虎』の徳川信康(平埜生成)

どっちにしろ「とにかく織田には逆らえない」というだけで、家康の最愛の息子の信康が、ちょっと信長に言いがかりをほのめかされただけで、徳川の手で殺されなければならなくなるのだ。最終的に家康を説得するのは生母・於大の方(栗原小巻)だ。於大自身、家康の父の側室だったのが、松平家は当時は信長の父と結んでいて、自分の兄が武田との密通を問われて処刑され、自分も離縁された過去がある(ドラマではそれも事実無根の言いがかりとなっている)。

その母(つまり信康の祖母)があえて、家の存続のために親子兄弟、時には自分自身さえ人身御供に差し出すのが武家の当主の宿命だと家康に説く。あえて幼名の竹千代と呼びかけ、自分だけがその宿命を逃れようという身勝手は通らないと言うのだ。

信長の動きは自分への忠誠度を試してみて、100%服従するのでなければ見限るという冷酷な計算であるようにも、結局は「鬼神・魔王」のただの気まぐれにも見える。その「魔王」の気まぐれかも知れない理解不能さが、また徳川にとっては決して逆らえないと思い込む圧力になっている。

井伊直虎(柴咲コウ)と瀬名(菜々緒)

真相がよく分からない事件の様々な要素を勘案しながら、考えられる限りもっとも残酷な展開を構成してしまうのだから、脚本の森下桂子とNHKと、歴史考証の小和田恒男、大石泰史両氏の確信犯っぷりが凄い。これこそまさに我々がこれまで「戦国時代」と美化して来た日本史のなかの一時期の実態に、もっとも近いと思えると同時に、しょせん同じ日本人の歴史であるせいか、現代の日本の政治についても、似たようなことはすぐ思いつく。

たとえば先の総選挙の公示直前に、できたての希望の党の中で小池百合子の「排除します」発言が巻き起こした疑心暗鬼の踏み絵騒動はなんだったのだろう? 民進党から合流したうちのいわゆる保守派が「魔王」的な小池に忖度しまくりつつ、自分たちが嫌いないわゆる「リベラル派」を追い出そうとしたのも、忠次と同じパターンではないか?

織田信長(市川海老蔵)

あるいは、折しも放送が偶然にも時期的に重なったトランプ来日と、安倍のゴルフに鉄板焼きにトランプ娘の財団に国民の血税57億円まで差し出した「おもてなし」で、なぜかかえって内閣支持率は上がった。徳川家で織田には逆らえないと思い込まれていたように「日本はアメリカに逆らえない」のだ。

安倍政権はそんな「現代の気まぐれ魔王」トランプに必死に媚を売り抱きつくことで、トランプがやる気ゼロでただのブラフで言っているだけなのは自明の「武力行使」を煽って、自分こそがやりたがっている北朝鮮との戦争を始めさせようとしているか、その戦争の可能性で国民を脅すことで政権の求心力を高めようともしている(で、トランプにはやる気ゼロなので、これから安倍がどう収拾させるのかは見物だ)。

徳川家康(死後神格化された神像の形式の肖像)

溺愛していた息子の信康を切腹させ、妻の築山殿を打ち首にせざるを得なくなった最悪の悲劇を経て、徳川家康は変わった。あまりに陰惨なタブーであったためにこの事件の意味は従来あまり考察されて来なかったようだが、こんなことが起こるなら、家康は変わらざるを得ない。

信長が天下を治めれば辛い戦国時代も終わりが見え、徳川家はその天下人に臣従しながら三河と遠江、もしかして駿河くらいまでは治める大名として安泰だろうとなんとなく思っていたであろう当時の家康の将来像は、明らかにこの事件で完全に覆ったはずだ。

こうして家康の雌伏が始まって3年後の天正10(1582)年6月2日深夜、織田信長は突如叛旗を翻した腹心の明智光秀に京・本能寺で討たれる。

光秀の決起は俗に「日本史上最大のミステリー」と言われ、根拠はまずない俗説の類いではあるが、家康黒幕説も根強い。

もっとも、学術的に言えば、光秀の動機はたいしてミステリーですらない

なぜこの時にという直接のきっかけはいろいろ考えられるにせよ、光秀が信長に仇をなす理由ならいくらでもあるし、勝算がなかったわけでは必ずしもないし(秀吉の中国大返しと、遺体が見つからなかったことを知って信長は生きているデマを流布するなんていう謀略は、さすがに想定外)、だからわざわざ黒幕を想定する必要もない。

いずれにせよ、光秀でなければ同じように自分の立場や天下の行く末に危機感を抱いた織田家臣団の誰かが、いずれは信長を殺していた。

ただでさえ気まぐれですぐ怒り、冷酷と恐れられた信長は、信康事件以降、一族に権力や財力を集中させるためにやたら家臣に難癖をつけて処罰するような姿勢すら見せていたし、四国討伐も長宗我部氏が基本、臣従の意思を示していたにも関わらず、滅ぼそうとしていた(その調停に当たっていたのが光秀)。

そんな信長を討った光秀に、仮に黒幕がいたとしても、それが誰であろうがたいした問題ではない。織田家臣団の誰でも、十分過ぎる動機はあったのだ。


信長の墓所は秀吉がその葬儀のために建てさせた大徳寺塔頭の総見院に置かれた。息子たちの墓と並んだその中央が、信長の墓になる。


ただし本能寺で遺体は発見されなかったため、葬儀のために香木の沈香で等身大の木造がつくられ、それを棺に納めて火葬された。大徳寺の方角から京都中に高価な沈香の匂いが漂うように、という秀吉の派手なパフォーマンスだった。 
この像の写しの織田信長坐像が今も総見院にあり、重要文化財に指定されている。


本能寺の変の直後、秀吉は明智軍が遺骸を見つけられなかったという情報を即座に得て、織田家臣の武将に片っ端から信長は本能寺で亡くなっておらず、まもなく自分に合流するという書状を書き送った。

信長の墓 大徳寺塔頭総見院
光秀が朝廷などを速やかに味方につけたにも関わらず「三日天下」に終わったのには、ひとつにはこのデマで信長を恐れた織田の家臣が、誰も味方につかなかったからだ。
総見院は明治の廃仏棄釈の際に襲撃され
この唐門と鐘楼以外のすべての建造物を失った


逆に言えば家康が信康事件を恨んで、あるいは織田=徳川同盟で自分と徳川家が置かれた立場への危機感から、信長を殺すチャンスを狙っていたとしても、そのこと自体は驚くに値しない。

肝心なのはそこではない。

既にこの前に家康は、織田=徳川連合軍が最終的に武田勝頼を滅ぼしたとき、熱心に武田の旧臣をリクルートしている。徳川は武田の旧家臣団を吸収することで、戦国最強だった信玄の軍略と、それを実践できる能力を手に入れたのだ。

その後の江戸時代には、信玄の「甲陽軍監」は幕臣を中心にさかんに研究された。開国で西洋の軍略を学んだ勝海舟は「なんだ、ぜんぶ武田が言ってることだ」と言ったそうだ。

本能寺の変の時に井伊万千代ら少数の側近だけを連れて堺にいた家康は、紀伊半島を徒歩で横断する大脱出を敢行、この時の「伊賀越え」で、いわゆる伊賀忍者も味方につけている。

家康が天下無双の戦上手と呼ばれるようになったのはこの武田の旧家臣団の高い軍事能力と、さらに伊賀者のもっている諜報能力、情報収集能力が大きい。

そして羽柴(豊臣)秀吉が信長の事実上の後継者となると、信長の息子の味方という大義名分で秀吉軍との軍事衝突も辞さず、小牧長久手の戦で数の上では圧倒していた秀吉軍をさんざん翻弄して、実際の戦争だけを見れば勝利している。

だがこの時はまだ、秀吉を倒して天下に覇を唱えることが家康の目的ではなかった。

勢力・戦力的にはまだまだ秀吉を越えるのは難しいのだから当分は雌伏するにしても、秀吉が天下人になるからと言って織田=徳川同盟が至った信康事件のような悪夢は決して繰り返させてはならない。だから秀吉に自分に一目置かせること、秀吉に臣下の礼を取るにしても徳川の協力を高く売りつけることが、この時の家康の狙いだった。

はたして秀吉は妹を家康の妻を差し出し、母・大政所まで家康の下に派遣することで和睦を申し出、家康は豊臣政権のなかでも五大老の筆頭として大きな発言力を持つことになり、秀吉の死後には加藤清正や福島正則など、その恩顧の武将を積極的に自分の側に取り込んだ。

秀吉が関東の北条を倒す(この勝利も秀吉のやや苦手な実際の戦闘ではなく、ハッタリと包囲戦の兵糧攻めの末の和睦)ことで天下を統一し、潜在的な脅威にもなっていた家康を中央から遠ざけようとその北条領だった関八州に国替えさせると、家康は当時の関東が未開の土地が多い僻地だったことを逆手に取って、「戦国時代後」の新たな国づくりを既に始めていた。

全国統一を成し遂げた秀吉が朝鮮半島侵略を始めても、家康は国替えしたばかりの関東の領国経営に忙しいことを理由に参戦を断っている。無益な戦争に参加させられても疲弊するだけなので断って力を温存するための言い訳でもあったのだろうが、一方で家康は本当に関東の再開発に熱中していて、軍事力を労働力に転換するかのような大土木工事に次々と着手していたのでそんな余裕もなかったかも知れない。

本能寺の変のあと、家康はそれまで小姓として仕えさせて来た井伊万千代を元服させ、最重要の側近に取り立て、武田の旧家臣団を任せている。直政はやがて「井伊の赤備え」「井伊の赤鬼」として武勇で知られることになるが、元を糾せばこれは武田の赤備えだった。

大河ドラマの井伊万千代(菅田将暉)信康に「かわいい顔をしている」
と言われ 家康には「色小姓にしてやろうか」とからかわれるが
実際に井伊直政は童顔の美男だった

一方で童顔の美男で文化教養もあった直政は、豊臣相手の交渉などの外交でも頭角を現している。

北政所(秀吉正室・おね)を始め豊臣家の女性達が直政の色男ぶりに熱狂したとも言うのだから、以前の徳川家臣の三河武士団では考えられないことだが、信康事件以降、それまで三河以来の旧臣に遠慮しがちだった家康の態度も変わり、学問や文化教養を重視し、家中で奨励するようになっていった。

井伊直政

家康自身も(青年期までの今川の影響で)深く身に付けていた教養からすれば、秀吉が朝鮮半島を侵略して明の首都の北京まで攻略しようなどと言っていたのは考えられない素っ頓狂な話だったろう(距離と面積だけでもちょっと考えれば気付くこと)。

この暴挙は今では晩年の秀吉の狂気というか、側室の淀殿に男子が生まれると養子で後継関白だった秀次に難癖をつけて殺したり、息子秀頼を溺愛するあまり気に入らない女中がいれば父が帰って来るまで縛っておけ、父が直々に斬り殺してくれよう、などと書き送ったのとも合わせて、高齢の秀吉がおかしくなっていたとみなすのが一般的だ。

しかし一方で、中世封建制の主君が領土を分配しその支配権を保証するのと引き換えにその主君に従う関係を「戦国時代」のままに維持しようとするなら、国内統一を果たした秀吉が今度は対外侵略を始めたことそれ自体は、理の当然でもあった。

統一が完了すれば、家臣の恩賞とすることでその支持をつなぎとめるために分け与えるための領地はもう増えない。秀吉が戦国のロジックのまま全国統治を続けようとし続けていた以上は、どこかで戦争を続けなければ恩賞として分け与える新たな領地もなく、政権の求心力は維持できない。

朝鮮出兵で首の代わりに持ち帰った耳や鼻を埋めた「耳塚」 京都・豊国神社の門前

この発想そのものを変えたのが徳川家康だった。そこには「戦国時代を終わらせる」という確固たる意思が必要だったはずだ。

信康事件が起こるまでの家康が、信長が天下を統一して戦国が終わればいい、というくらいのいわば他力本願の意識だったとしても、信康事件と、その後はさらに冷酷な気まぐれさが激しくなった信長や、後を継いだ秀吉のやり方では、このままでは戦国は決して終わらなかった。

「戦国時代」の論理に従って我が子を殺すしかなくなってしまった家康は、その我が子の犠牲を戒めに、自分こそがいずれ戦国を終わらせることにこそ、生涯の目標を置いたのかも知れない。またそうとでも考えないと、こんな陰惨で後味の悪い歴史はなかなか受け止められないわけでもある。

信康の妻だった徳姫の墓は大徳寺総見院の
父・織田信長の墓所の片隅にある

「戦国時代」の武家社会とは、こんなにも嫌な、悲惨なものだった。そうそう安易に「信長かっこいい」などと美化するものではない。