最新作『無人地帯 No Man's Zone』(2012)
〜福島第一原発事故、失われゆく風景、そこに生きて来た人々〜
第62回ベルリン国際映画祭フォーラム部門正式出品作品
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11/29/2015

侯孝賢と久隅守景、それでも世界はあまりにも豊かで、かくも美しい


久隅守景は、恐らく慶長年間に生まれ元禄時代まで活躍した画家だが、生没年すらはっきり分からない。徳川幕府の御用絵師・狩野探幽の弟子として頭角を現し、狩野派四天王とも呼ばれ、師・探幽の姪を妻ともしているが、生涯養子になるなどして狩野の名を名乗ることはなく、なんらかの事情で探幽門下を離れている。一説には娘でやはり絵師となった清原雪信の駆け落ち騒動や、息子でやはり狩野派門下だった彦十郎(狩野胖幽)が破門・佐渡に遠島となった責任を取ったとも言われるが、詳しいことは分かっていない。

久隅守景「納涼図屏風」(国宝)東京国立博物館蔵
いずれにせよ狩野派の有力な弟子という絵師のエリートコースを外れ、流浪の身となった守景の生涯には、分かっていることがほとんどないが、作品だけは遺されている。それを見ると狩野派を離れたことで、その高い技巧をしっかり継承しつつも権威的な形式や約束事の体裁から離れた独自の画風を打ち立てたことが歴然としている。

こと耕作図などの主題で庶民の生活に類い稀な感性を見せたことに評価は高く、例えば晩年の作と推測される「納涼図」は国宝に指定されている。

サントリー美術館 逆境の絵師 久隅守景展 29日まで

圧倒的な技量を持ち、狩野派一門では特に淡彩や水墨の風景画を特に得意とした守景は、その狩野派を離れた後、どうも加賀の前田潘に招かれ(狩野派にいたときには前田家の菩提寺の襖絵を手がけている)逗留していたらしい時期から、農耕生活を主題とした作品を多く残している。『納涼図』もそんな一枚だとみなされるが、他にも例えば傑作が多い何枚もの四季耕作図では、石川県立美術館、京都国立博物館の所蔵作がそれぞれ重文に指定されている。

四季耕作図 石川県立美術館 (右隻)
個人蔵でサントリー美術館の展覧会で展示されている「旧・浅野家本(重要美術品)」も驚くべき傑作…と言うより「驚き」つつもまず、いとおしい傑作だ。どうも加賀の前田家から広島の浅野家に、輿入れに際して贈られたものらしい。

四季耕作図 旧浅野家本(左隻)
日本の絵巻物や屏風は、時系列や物語が普通は右から左に展開する。守景の耕作図ではこれを逆転させ、四季の春が右端ではなく左端から始まる構成を好んだ。

通常とは逆に左から右に展開する流れを自然に見せるため、守景は随所に左から右に向かう動きを描き込んでいる。旧小坂家本の四季耕作図では最後は米俵が蔵に入れられる所で終わるが、つい右から見始めると蔵から俵を出しているように見えてしまいかねない。それではおかしいので左から見始めると、例えば左から右に旅する人や川を渡る人や牛がいる。

四季耕作図屏風・旧小坂家本、左隻
定石通りに右から左へ四季を移り変わらせるのであれば必要ないが、それを逆にして理解させる工夫が、画面に人が生きる運動を組み込むことで生き生きとした効果に結びついてもいる。

公式の美術や文化では中国の意匠を借りるのが律令制の時代以降、江戸時代でも日本の慣例で、耕作図はただ目を楽しませるだけでなく、藩主など武家の棟梁や跡取りに庶民の生活を想起させる儒教的な徳育の役割もあり、だから人物の服装などは中国風が慣例だった。旧浅野家本の四季耕作図もこれに倣っているが、実際の日本の農民の生活をつぶさに見つめたのであろう細やかな表現が、狩野派では山水画の名手として知られた山河の描写との絶妙な組み合わせと並んで、守景の耕作図の特徴として挙げられる。



例えば旧浅野家本の春では、父親が田起こしをする背後の家には母親が幼子とともにいて、その家の脇では二人の息子であろう子どもたちが遊んでいる。

田植え前の初夏の場面の驟雨の描写、雨宿りで慌てて駆け込んだ人で小屋がすし詰めになっている様子など、まことに生き生きとして楽しい。

守景の耕作図では儒教的な目的に基づく約束ごとに従った農作業の風景は画面の主役ではなくなり、風景や農作業以外の描写が、等価に存在する。そんな全体像の美しい統合のなかに、ささやかな庶民の生活が類い稀に美しいものであることが慎ましくも豊かに謳い上げられている。

どの人物も、もちろん耕作図の約束事である農作業の情景でも、細やかに描き分けられたその顔には、さりげなく、ささやかながらも安らかな、幸福の表情が丁寧に描き込まれている。このように守景の大作屏風は、まずとにかく描写が細かく、その丁寧さにばかり目が行きがちだが、それを成立させている構成力の凄さを見逃してはなるまい。



わざとルール通りで見るものにとっても当然の右から左という展開を逆転させても成立させていることも、その高い構成力の好例だろう。

だからといって別に守景が力量を誇示しているのではあるまい。

見せ方を変えることで見る者の感受性を呼び覚まし、より丁寧に、新鮮な気持ちを設定することが、丁寧な細部へと観察を自然に誘う。そうやって左から右へと見て行くと、守景の耕作図にはハッとさせられ立ち止まる瞬間が度々ある。


逆転させられた展開は、ただ漫然といつも通りに右から左に見て行くのではないため、見る者にその絵を追って行く時間を意識させる。するとその目の動きの視野に突然、丘の向こうに上半身だけ見える後ろ姿、空を飛ぶ渡り鳥の群れ、慎ましやかな小屋、薄墨でサッと描かれた山、木の下でまどろむ男などが突然目に入って来るのだ。

観客の視線の動き、つまり絵の四季の時系列の流れに、さざ波や、波紋が立つような瞬間が次々と介入していく。単に描写が細かいだけでなくこうした発見がさりげなく組み込まれ、見れば見るほど引き込まれて行く守景の絵には、だからこそ一日中見続けても飽きることのない豊かさがある。

そんな久隅守景の絵を見に行ったのは、侯孝賢の『悲情城市』(1989)がかなり久しぶりに大スクリーンで上映された後だった。

侯孝賢『悲情城市』
そうすると『悲情城市』でやっていることが、時代も場所はもちろん、主題性や政治性でもなんの共通項もないはずなのに、二人の芸術家がとても近いなにかを持っていることを意識させられてしまう。

『悲情城市』は1945年の日本の敗戦で台湾が中華民国に帰属してから今度は本土を追われた民国政府が台湾に移るまでの4年間を背景とし、国民党独裁の戒厳令下では語られなかった現代台湾建国史の暗黒面を初めて正面から描いた作品であり、その意味で極めて政治性も強い。


『悲情城市』林家の人々
と同時に(より厄介なことに)、この映画の見せる台湾現代史は台湾の人間であれば(本省人にせよ、外省人にせよ)なんとなく直感的に勘づいていたり、国民党の独裁・戒厳令下では語り得なかったものの実体験していた、つまりは実は知っていたことや自身の記憶と即座に結びつくのに対し、初上映されたヴェネチア映画祭(金獅子賞を獲得)でもどこでも、観客にとってはまったく知らない、そんなことがあったと考えもしなかった歴史であり、しかもその状況の複雑さは想像もつかないだろう。

台湾に漢民族が定着したのは、明朝の頃だ。外からは「同じ中国人」に見えても、その頃から台湾に住み続けた漢民族(本省人)の言葉は文字や文法は同じでも語彙やとくに発音が異なるし、一方で漢民族にはいわゆる客家など、商業民族として東アジア・東南アジアに幅広く展開して来た者も少なくない。

そして1895年から半世紀、台湾は清朝から日本に割譲されその植民地支配下にあり、日本語も教育されたし、1930年代からは皇民化教育もあり、1937年の盧溝橋事件以来の日中戦争では、日本の一部として中華民国と戦争状態だった(台湾は中華民国の成立以前から中国本土から離れているし、中華民国側に立って日本支配に対抗するという考えもあまり広まらなかった)。要するに、事実上別の国として半世紀かそれ以上歩んで来た上に、こないだまで敵どうしで戦争もやっていた間柄である、それが台湾省としてめでたく中華民国に「復帰」するなどと、およそ言える状態であったはずもなく、国民党に限らず本土から新たにやって来た人たち(外省人)との軋轢が起こるのも必然だった。

だがこうして歴史背景を説明すること自体が、侯の映画の精神に反してしまっている気がする。

『悲情城市』では、観客がなにも知らないからといって映画が説明して情報を補ってくれることはない。代わりに例えば酒席の笑い話で、中華民国の青天白日旗の揚げ方が分からなかったから太陽が昇るのだろうと思って逆さに掲揚したとか、そんな話題が出て来る。あるいは、映画の中心となる林家の人々、その四男・文清(トニー・レオン)の写真館を兼ねた家の居間は、日本式の座敷で床の間もある。



台詞が台湾語であることも外国人にはあまり関係がないことだが、よく聞くと「父さん」という意味で「トウサン(発音の当て字で「多桑」と書く)」と言っている。文清の親友である寛栄(呉義芳)の名前の読みは「ヒロエ」であり、妹の寛美(辛樹芬)は「ヒロミ」と呼ばれている。

侯孝賢『悲情城市』、文清と寛美
映画が1945年8月15日から始まって最初に聴こえるのが玉音放送だし、文清たちの小学校の恩師だった小川先生が認知症を患い、娘の静子が困惑していたり、そして日本に引き揚げることになった静子が寛栄には兄の遺品の竹刀と漢詩、寛美には和服を記念に贈るといったシーンもあるが、それを物語上の情報としてだけ見て「日本人と台湾人の交流」とか「台湾人は日本を恨んでいない、親日なんだ」などと日本人観客が都合良く思い込めるようには、この映画は演出されていない。

玉音放送のあいだじゅう、林家では長男・文雄(陳松勇)の妾のお産でそれどころではなく誰も聞いていないし、林家の隠居した父(李天禄)は国民党の官吏に自分は日本人に「やくざ」と言われても従わずやりやっていたと誇らしげに言う。


林家では次男と三男・文良(高捷)が出征し、次男はルソン戦線で行方不明のまま、三男は中国本土の戦線から発狂して帰郷する。やはり酒席のシーンで、台北からやって来た呉先生という民主活動家が「清朝も日本も台湾人のことなんてなにも考えていなかった」と断ずる。ちなみにこの呉先生を演ずるのがこの映画の脚本家で台湾人の呉念真、共同脚本の朱天文の家系は大陸出身、侯孝賢自身は客家の家系で戦後台湾に来た外省人だ(それが『悲情城市』も次の『戯夢人生』(1993)も、徹底して台湾人の視点から見た台湾史であることにも注目)。


当然のことだが(しかし日本人には誤解する人も多い)『悲情城市』はそもそも、日本時代を評価するかどうかという映画ではない。ただ現実として台湾は50年間日本統治下にあったのだし、台湾人は日本人と接して暮らし、親しくもなり、日本の文化や、日本経由で入って来る西洋の文化も、吸収して来たのだ(文清が蓄音機で寛美に、元はドイツ民謡の「ローレライ」を聴かせるシーンもある。寛栄や文清、それに呉先生たち民主派は、マルクスも読んでいるが、これは台湾だけでなく中国本土にも、日本経由でもたらされたものだ)。

国家を巡る大文字の政治ではなく生活であり、侯孝賢はその生活つまり人の生きる現実から台湾の政治史を見よう/見せようとしている。この視点の取り方こそが真に政治的であると同時に、生活の細部から人間性を構築するデリケートな眼差しこそが侯の演出の骨肉であり、それは時代や国を超えて久隅守景の納涼図や農耕図と通じ合っているのではないか?



こと四季農耕図の描写が服装・風俗では中国のそれに倣っていることに、中国服を着ていても守景が描いたのは日本の農民であり、侯の映画では台湾人(漢民族)が日本家屋に住んでいることの親和性も作用するのかも知れない。

いや侯孝賢の映画に久隅守景の絵画に共通するものを見出し得るのは、別に偶然の一致でも単なる思い込みでもなく、台湾、中国、日本の歴史的な、文化史上の関係性からして、そうなっていてもなんの不思議もない。

久隅守景「耕織図屏風」東京国立博物館
侯の映画というとカメラの動きを最小限に抑えた引き気味の画面構成や長廻しが、1980年代末に国際的な注目を集めた頃から小津安二郎、溝口健二の影響とみなされることも多かったが、何本か恋愛コメディなどのいわば商業的な映画を手がけ、『風櫃(フンクイ)の少年』(1983)辺りから次第にその作家性があきらかになった時、決定的な変化は、侯本人によれば中国絵画を見始めたこと、そこでとくに宋代の山水水墨画の表現がリアリズムだと気付いたことから、彼の映画における空間の捉え方が決まって来たのだという。

宋の山水画といえば禅宗と一緒に日本に伝わり、今日では中国本土でも宋・禅宗の山水水墨画の最高峰であり完成者との評価が固まりつつあるのが、日本の禅僧・雪舟等楊である。

雪舟等楊『天橋立図』(国宝)
守景が学んだ狩野派は、その中国由来の禅画の伝統に、日本の「やまとえ」の影響も交えたスタイルで名声を確立した。

久隅守景「宇治茶摘み図屏風」
久隅守景もまた単に日本の画家と言うのではなく、中国絵画の強い影響からもまた多くを学んだ画家なのだ。

侯孝賢『恋恋風塵』(1987)

侯孝賢は久隅守景の絵画を見たことなぞまずないはずだが、それでも両者に共通点があるのは大きな歴史の流れから見れば当然になるし、『悲城城市』の上映後の質疑応答では、侯自身が同様のことを言っていた。


唐代を舞台にした最新作『黒衣の刺客』では唐招提寺でのロケもやりたかったとか、奈良や京都に現存する中国の文化や様式通りの建物の存在も指摘しつつ、遣唐使や更にその前の法隆寺にも遡って侯は「中国、日本、台湾は本来ひとつの文化圏でいろいろな交流や影響関係がずっとあった」と言うのだ。

侯孝賢『黒衣の刺客』(2015)

『童年往時』(1985)で国際的な注目を浴びるに至った時、世界の映画界が侯の作家性がどこにあるのかを把握出来ていたとは言い難い。過去の映画からレファランスとして溝口健二や小津安二郎との関係性が盛んに例示もされたが、彼の映画が本当に衝撃的だったのは、時間と空間の捉え方がそれまでの、ほとんどの場合いわば西洋文化圏の影響下にあり続けて来た映画とどこか根本的に異なっていることであって、ただ当時の批評がそこをうまく指摘できていなかったのではないか?

それは西洋絵画と東洋絵画の根本的な空間構成の在り方の違いにも起因している。一言でいってしまえば、ことルネサンス以降、西洋絵画とは画面をひとつの自己充足した空間と捕らえてその枠内を満たして統合的な美を創造する営みだった。

侯孝賢『風櫃の少年』

対して、侯が影響を受けた宋代の風景描写などはむしろ目の前の世界の要所要所を切り取りつつ、前景、中景、遠景へと複合的に再構成していく描き方がされていて、空間遠近法の消点のような中心を必ずしも持たず、多中心的で重層的である、あるいは中心よりは枠組みの絵画であって、つまり絵自体の画面の枠組みがあり、そのどこを見るのかで視野の枠組みが意識される。

久隅守景色「山水図襖絵」瑞龍寺(前田家菩提寺・富山県
そうした表現の発展のなかで必然的に枠には常に外側があることを前提とし、直接見えるものと見えないもの、そしてその相互の関係性に意識が向かうことにもなる。

侯が自分の映画の画面構成においてそんな意識を継承していることが明確になったのが『風櫃の少年』だろう。



この映画では画面の枠外に、視野から外れた空間があることへの意識が極めて明確で、画面の外からのアクションの闖入や、カットが変わったりパンすることで、見えていなかった外側の空間があきらかになるシーンであるとかが非常に多く、主人公の三人組がその一人の姉を頼って高雄に行く時に、ギャグとしてさえ使われている。

探している通りの看板が彼らの視界の外、そしてフレーム外にあって、道を尋ねた相手が上を指差し、カメラがパンアップすると街路表示の大きな看板が見える。ここでは通りの反対側にカメラがあって、西洋的な映画叙述なら完全な客観ショットとみなされるにも関わらず、まったく立ち位置が違う人物たちとカメラにとっての見えるものと見えないもの、つまり主観性が一致していることも注目すべきだろう。



この主観描写の物理的な位置関係に必ずしも囚われない見せ方が『風櫃の少年』では、空間だけでなく時間にも援用される。回想シーンの挿入され方、回想への移行の仕方が独特であるだけでなく、その回想のなかで過去の自分自身を思い出している本人が見るのだ。



従来の、単一の視点から見た空間描写という西洋絵画の伝統の影響下にある映画叙述で見てしまえば、侯がいわゆるPOV(視点・主観ショット、人物の見ている位置にカメラが置かれる)を滅多に用いず、カメラは常に物理的に人物たちの外側の、いわば客観的な位置にあって、それも引き目に置かれ続けることから、彼の映画が実は主観描写を多用していること、ただしそれが西洋的な単一の視点その延長上で整合性が付与される時系列に囚われるものではないことが、意識されにくかったこともあるのかも知れない。


こうした回想への入り方は、『悲情城市』ではさらに発展する。回想が誰かの視点に必ずしも囚われるものですらなくなるのが、日本に引き揚げる静子が寛美と会うシーンに日本時代の回想が挿入される時だ。その過去の光景が寛美の記憶なのか、静子の記憶なのか、その場にいない寛栄の記憶なのかは、むしろ意図的に混合されている。いや、むしろその回想は寛美と静子が語り合った内容なのかも知れず、三人の共有する記憶なのだ。


あるいは、国民党の弾圧を逃れ山中に拠点を作った寛栄達を文清が訪ねるシーンは、聾唖の文清と寛美の筆談による会話から突然山の中にシーンが切り替わり、その最後に再び寛美と文清のシーンに戻ることで、初めて回想だったことが分かる。



『鷹狩り図』は、久隅守景の最後期に描かれたとみなされる大作だ。

久隅守景色『鷹狩り図屏風』右隻
一見、大きな画面に縦横無尽に鷹が宙を舞い、白鷺や鶴を捕らえ、所々に緑の木々の生い茂った地面を、鷹匠や鷹狩りの人足が走り回っているだけの絵に見える。

久隅守景色『鷹狩り図屏風』左隻
日本美術の慣例に従って右から見て行くと、まず右下には休憩している人足達がいて、あくびをしている者なども見える。



一方、左下の隅では子どもたちが松の木の下で遊び、そのすぐ近くで松に止まった小鳥を捕らえようとする鳥刺しが見え、その上を鷹狩りに到着した殿様の一行が歩いている。



つまりこの屏風もまた守景流に、普通とは逆に左から右に時系列が展開しているのだ。

だがそう気付いて、左から右へと見て行くと、狩の光景では右から左、左から右、上から下と鳥たちと人々の運動のベクトルはダイナミックに全方位に向き、ある一群の動きを目で追うと、突然別の一群の別の運動の力学的な線と衝突する。


ぱっと絵の全体を見ただけでは見落とすディテールがそうした運動の線、画家が仕込んだ観客の視点の動きを誘導する線に従って見て行くことで、新たな発見として視野に入り込んではっとさせられるのだ。

静止した絵画画面のなかに時間と運動を描き込んで行く守景の真骨頂は、見ていて飽きることがなく、絵に描き込まれた動線に心地よく誘われながら凝視するほどに、いろいろなものが見えて来る。



単に生活への眼差しと言ったアーティストの精神的な態度だけでなく、静止して見えるものの中に動きと驚きを仕込み、描かれた内容ではなく視線の運動がこそがドラマとなる表現もまた、久隅守景と侯孝賢に合い通ずるものであり、17世紀の日本の画家が機械としての映画が19世紀の末に発明される200年以上前に、映画あるいはアニメーションを、表現としてはモンタージュも含めて、発明していたのかも知れない。



『悲情城市』はカメラがほとんど動かない映画で、多くのショットは端正な構図で情景を見つめ続け、せいぜいが緩やかなパンでひとつの場の別の方向に移るだけだが、その静的なカメラワークでもって『悲情城市』をただ静的な映画と見るべきではない。

なんと言っても中心となる林家は「やくざ」であり、家業はその側面も含めて長男が継いでいるが、精神病から快復した三男や子分たちが大陸から入って来た麻薬や闇紙幣の取引に手を出して、本土系のやくざと争いが起こる。そうした本省人(台湾人)と外省人の庶民レベルの衝突の中から、日本軍に従軍した台湾人の密告も始まり、三男・文良は「売国奴」つまり中国本土での戦犯容疑で捕らえられ、拷問されて再び発狂してしまう。そんな軋轢のなか、中華民国・国民党の初代台湾総督陳儀の腐敗した地方政権が、四男の文清たちの台湾民主化運動の人々の弾圧を始める。最新作の『黒衣の刺客』は唐代を舞台にした時代劇でこの監督初のアクション映画だと言われているがとんでもない、『悲情城市』で既に侯孝賢はアクション映画を、それも斬新な演出で撮っていた。

わけてもギョっとさせられるのが、動きの少ない構図のその画面外から、突然暴力がフレームインするやり方だ。



また直接のアクションのないシーンでも、例えばまず林家の本家の玄関ホールからその置くの部屋にカメラが向けられ、そこから文雄たちが驚きの声を上げて出て来る。カメラは彼らを追ってゆっくり右、入り口がある方にパンすると、拷問された文良が担ぎ込まれて来る。

このように、観客の見ているものの中になにかが突然入り込んで来る表現は、『四季耕作図』などで久隅守景が使いこなし、『鷹狩り図』屏風で完成された視覚情報による話術・叙述のテクニックにとてもよく似ている。



人生は驚きに満ちている。その驚きをどう見て、どう受け止めればいいのかに気付くとき、世界はあまりに豊かさに溢れている、侯の映画と、守景の絵は、そのことをこそ表現しているのかも知れない。


『悲情城市』の終わりに、林家ではやくざの抗争で長男・文雄が殺され、次男は未だ南洋から復員せず、三男の文良は日本の戦争犯罪に加担した疑いで国民党の拷問を受け再び発狂し、民主化運動に参加していた四男の文清は国民党に逮捕される。それでも残された家族は、四人の息子をすべて失ったに等しい隠居した父(李天禄)を中心に食卓を囲み、黙々と食べ続ける。



1949年12月、国民党は台湾に移った。それから30余年を経て、台湾は民主化する。

この映画が作られたのはそのほんの数年後、蒋介石が台北に移った40年後だ。食べ続け、生き続け、そして台湾は真に解放された。

出世や成功の道を閉ざされて名もなきとは言わずとも地位なき画家になった久隅守景が到達した農耕画の世界はその世界の豊かな美しさに満ち、侯孝賢のそれ自体は残酷な歴史の悲劇である『悲情城市』は、悲劇であるにも関わらずだから根源的に楽観的な映画なのだ。

それは久隅守景が狩野派を離れ流浪の身で描き続けた絵の至った境地にも通じる。

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