高校生のころ、保護者会から帰って来た母がなにか怒っている。当時の担任だったか学年主任だったかの、旧制松本高校を経て東京帝大出の先生の言ったことが気に入らないらしい。
「どうしたの?」
「◯◯先生ったら、『受験教育の流れに棹さして』なんて言うのよ」
「またバカ正直な開き直りだねぇ。でもいいんじゃない、あの学校たしかに進学率あまりよくないし(とまるで他人事)」
「なに言ってるのよ、あの学校では受験教育偏重はやらない、という意味で言ったのよ!」
「へ?」
そう言われてみればしょうがないなぁ。棹で川底をつっついて手動で舟を動かしてた江戸時代じゃあるまいし、「流れ」に「棹」ならともかく「竿」がささってるイメージなら、「流れに逆らって」という意味に勘違いするかも知れんなぁ、現代人だもの。
「でもあの先生は旧制松本高校出身が自慢で、しかも国語の先生でしょ!」
はいはい、母は常にまったく正しいのである、反論できない末っ子のマザコン甘えん坊には(汗)。
まあ「竿」じゃなくて「棹」なんだけど、と言ったって現代生活ではほとんどピンと来ないだろうから、この慣用句の意味が正反対になってしまうのは分かる。もっとも、川の流れに「竿」を突き立ててなんの意味があるのかさっぱり分からないんだけど。釣りで水のなか、つまり流れに入る部分は、竿ではなくて糸だと思うんだけどなぁ。
それでもこの程度なら罪はないと思いたいが(しかし確かに、旧制松本高校出身で東大出がウリの国語教師だもんなぁ←ひつこい)、同じことわざの勘違いでも「情けは人のためならず」にまつわる誤解だと、どうにも理解できない誤解(どうやったらそう考えられるんだ?)があまりに世の中に蔓延して、今や正しい意味で使う人が少数派になってるほどだ。
ちなみに正しい用法は、たとえば駅で重い荷物を持ったおばあさんに「持ちましょうか」と言ったときなど:
「すみませんねぇ。見ず知らずの方にこんなに親切にして頂いて」
「いえいえ、情けは人のためならずとも申しますし、困ったときはお互い様ですから」
「あらお若いのに感心ねぇ」
このフジワラはこの種の手練手管で高齢者の女性の心をつかんで『フェンス』のような映画を作ってしまう偽善者…というわけでもなく『フェンス』に出て来る旧池子村・柏原村出身の女性となると健康すぎて重い荷物でもとっとと担いで歩いて行ってしまいそうなのだが(笑)、閑話休題。
もしかして上で「他人事のように」と書いたト書きも、「たにんごと」と読む人がいたら困る…。これはもちろん「ひとごと」と読みます。「情けは人のためならず」も本当は「他人のためならず」と書いて「ひと」と読ませた方がまだ誤解がないのかも知れないけど、どうも最近ではテレビだとかのコメンテーターでもまったく正反対の意味で使ったりしているのだから怖い。
日本語の「ひと」には「他人」つまり自分と直接関わりのない不特定多数の他人様(よみは「ひとさま」ですよ)の意味があって英語でいえば「パブリック」(不特定多数の他人どうしが構成する社会全般)に近い意味だったりするのだけど、明治になって「パブリック」を「おおやけ」だけならいいけど「公」と、官僚国家主義的戦略もあって意図的に誤解させたんじゃないかとも思わなくもないのだけどこれはますます話がそれるので再び閑話休題。「情けは人のためならず」に話を戻せば、現在に流布する誤解はどうも、言葉の意味をとれてないという問題だけでないような気がする。
だって今や、ほとんどの人が「人を甘やかすとその人のためにならない」という恐ろしく倒錯した意味にとって、そうやってこのありがたいことわざの意味をねじ曲げることで他人に親切をできない自分への言い訳に利用しているようにしか見えないのだ。元々は巡り巡って自分に帰って来ることもあるから、他人には親切にしなさい、という教訓なのに。
たとえば障害者の人が困っているときにちょっと荷物を持ってあげるようなことまで、否定されるような世の中になりつつある。いやもちろんご本人のプライドもある、他人の情けに頼っては自分がダメになって自立できないとか、リハビリの一貫と考えて努力されている時もあるだろう。でもそんなときには「結構です」と言うだろうし、言われればこっちだってただの小さな親切なんだから「ああそうですか。ではお気をつけて」と言えば済むだけの話。「この人のためにならない」なんて考えて手伝おうとしないとか、「結構です」と言われて怒るようなことの方がよほど傲岸不遜で他人様(「ひとさま」ですよ)への配慮の欠けた自惚れた話、精神医学でいえばほとんど人格障害のレベルに達する精神のゆがみじゃないかとすら思えて来る。なんというか、人格障害かどうかはともかく、そういう発想ってすごくいやらしくありません? 誰のために親切をやってるんだか。「いい人」である自分のイメージに自己陶酔するため?
いやな世の中になったもんだなぁ。どーってことない小さな親切でやたら恩着せがましくしたがることの裏返し、その小さな親切が出来ない自分への言い訳として、こうもありがたいことわざ「情けは人のためならず」の意味を変えちゃうなんて。これってけっこう人生における倫理的真実を突いている言葉だと思うんですけどねぇ。
日本のことわざで、英語にそんなことわざがあるかどうか知りませんが、このアメリカ映画でもっとも愛される古典だってまさに「情けは他人のためならず」という教訓についての映画ですしねぇ。
いや、奇跡が羽根をもらえない二級天使のクラレンスという形で現れるおとぎ話以上に、イーストウッド『グラン・トリノ』こそ本当はそのシンプルな真実についてのもの凄くディープな映画なのかも知れない。イーストウッドの場合の奇跡は、たまたま目の前に鏡があってイーストウッドがその鏡のなかの自分に向かって自嘲的に「Happy Birthday!」と言う瞬間にあるのだからとんでもない哲学的ディープさなのだが。
しかも別に巡りに巡ってでもない。素直にやさしい(でもないか、見た目は相変わらず苦みばしった毒舌ガンコ親父だし)おじちゃんになることで、『グラン・トリノ』の主人公の、戦争のトラウマに苛まれ他人を嫌い続けた人生は初めて本当の意味を持つのだから。
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