たとえば遊郭があった江戸の吉原のような場所を、昔は「悪所」とも言った。
広重、名所江戸百景、よし原日本堤 |
だが江戸時代の文化や生活風俗の、明治以降の道徳律や人工的な歴史観を排した歴史学的な研究が進むにつれ、今風の日本語で言うところの「悪い」ところとは、たとえば吉原は違ったらしい、ということが明らかになって来ている。
新しい国家や民族像を作り出してそれを国民に刷り込むには、過去の価値観を否定的に見るように教育や文化政策、それに生活上の習慣儀礼を通じて仕向けなければいけない。植民地帝国主義の時代の最盛期に開国・明治維新・近代国民国家化を進めざるを得なかった日本の場合、それは恐ろしく急激で乱暴な、文化と意識の大改造として行われた。
過去を知る手がかりとなるものでさえ、たとえばかつて生活に密着した信仰体系だったはずだと誰もが思う寺社仏閣は、寺と神社が分かれていること自体が明治の捏造だ。日本の伝統信仰だと我々が思い込んでいる「神道」なるもの自体が、社殿の様式から礼拝の作法から、ほとんどが近代の急ごしらえなのだ。
たとえば、我々は神社には鳥居があるものだと思い込んでいるが、あんなものは明治以降の決まり事に過ぎない。三拍手なども明治以降に仏教の礼拝との差別化を計ったものでしかない。一方、社殿の代表的な建築様式である「権現作り」には、神仏分離が土台無理な話で徹底できなかった矛盾が現れている。
「権現」とは密教的な仏教の用語で、仏が日本で日本の神の形をとっていることだ。だいたい明治以前の日本のカミ信仰には言語化された理論体系がなく、あったのは仏教に基づいた仏と日本のカミの関連の説明だけだ。
日の丸・君が代に国家イメージを仮託し、それを教育現場であたかも道徳的義務のように強制するに至っては、悪い冗談である。日の丸は元来、ただ太陽を表すおめでたい図像に過ぎないし君が代は雅歌。いやだいたい、国旗国歌なんてこと自体が明治初期に西洋の儀礼に合わせて慌てて決めたものに過ぎない。
吉原は流行の最先端発信地でもあり、決して「夜の街」だけでなく、たとえば桜の季節には大通りに運ばれて来た桜がずらりと並び、ただ遊女を買う場であったわけでなく、女子供も花見に興ずる、それは賑やかで華やかな祭りの場であったという。
歌川国貞「北郭月の夜桜』 |
明暦の大火のあとに死者を慰霊する廟が江戸市中から見て隅田川の向こう岸にあたる両国に建てられて以来、次第にその周囲に見世物小屋や芝居小屋が立ち並び、江戸の一大エンタテインメント・センターとなった。大相撲もそうした見せ物のひとつとしてここで興行していたのが、今の国技館の由来である。
「川向こう」、つまり「彼岸」である。橋を渡ることは古来、日本人にとって特別な意味があった。
ぶっちゃけ、幽霊や魔物が出て来たりする場が橋であるのは、たとえば牛若丸(源義経)と弁慶の京・五条大橋の伝説を見れば分かる通りである。
その鴨川の四条河原付近に中世から近世にかけて見世物小屋や遊女が集まったのが「かわらもの」の語源と言われるが、川を超えれば八坂神社と、祇園や島原遊郭。一方河原を南に下がれば、そこには刑場が置かれた。
広重、島原遊郭の大門 |
現代語では春分、秋分の日の前後の墓参りシーズンくらいの意味しかない「彼岸」とは、生死を隔てる川の文字通り「向こう側」が本来の意味だ。川という天然の境界(とは限らない。たとえば神田川は人造だし、現在の隅田川や利根川の経路も江戸幕府が人工的に作り出したものだ)は、日本の都市文化において極めて重要な意味を持っている。遊びや文化は日常の延長であると同時に、生死を隔てる意味ももつ川の「向こう側」にあるものなのだ。
両国が明暦の大火の死者の慰霊の廟から遊び場になったことが典型なように、遊び、享楽は「死」の世界に近づくことでもある。
江戸城から見て吉原の遊郭の方角、谷中の巨大墓地から、上野の寛永寺と東照宮(現在の恩師上野公園はこの境内地に当り、明治維新で徳川将軍家から天皇家に移り、東京市に下賜された)に浅草や吉原からさらに隅田川を超えて新吉原、刑場のあった骨ケ原といった地域は、江戸の聖地であるとともに「悪所」の密集地帯であり、その名残は今でも明らかだ。
明治以降に発達した銀座のような商業地に今でこそ地位を奪われているが、明治時代の東京の最初の繁華街・歓楽街といえば浅草であり、日本初のデパート、日本初の遊園地(浅草花やしき)、日本初の映画館などもここに作られた。
つまり「悪所」の「悪」とは元はどういう意味なのか、ということだ。確かに「いかがわしい」かも知れないが、だから拒絶し忌避すべきなのかと言えば、いかがわしさは神聖なるものと共に「彼岸」ないしその境界に置かれて来た。ちなみに上野・浅草の方角は、江戸城からみて陰陽五行の方位学で鬼門にあたり、つまり上野を中心とする江戸周縁の聖地と悪所は、鬼門封じにもなっている。
広重、『上野不忍池雪の景』 |
日本史の教科書で「悪党」という用語が出て来て、それが決して「悪い奴」という意味ではなかったことを覚えている人もいるだろう。
むしろこの場合の「悪」は「強い」、かつ既存の支配「体制外」で要は標準や基準の「外」、という意味で、たとえば平安時代であれば後の武家階級の起原のひとつである。
広重、名所江戸百景。上野・清水観音堂の月の松と不忍池 |
その「悪所」は、江戸の場合の上野から吉原方面や両国のように、都市の中心でなくその周縁部や川向こうにあった。京都なら四条河原がありその向こうが八坂神社と祇園だ。南に下れば、同じ河原は刑場になる。
大坂(今の大阪)となると今でこそ大阪駅と、阪急や阪神の梅田駅などが集中しているので大阪の中心地に見える梅田近辺は、本来なら大坂の街の端っこで巨大な墓地だった所である。
JR大阪駅北側の貨物基地と、再開発で高層ビルが建った元の北ヤード。 この辺りが明治以前には梅田墓地だった。 |
地図で見てみると分かり易いだろうが、大阪の繁華街はどれも、歴史的な町の中心地域にはない。現在の大阪環状線は過去の大阪の市域の外周部にほぼ沿うように走っていてその沿線が多い。
難波宮大内裏の遺構。上町台地には平城京以前に二度、都が置かれていた。 奥にはNHK大阪放送局と大阪府庁。この右手に大阪城(旧・石山本願寺) |
都市の中心地域は大坂城(江戸期には幕府の西国出先機関)などの政治中心の上町台地や経済中心の問屋街・船場であり、上町台地は今でも府庁や府警本部やNHK大阪放送局が集中するいわばお役所街(というか東京中央集権の出先機関)で一応は発展しているが、かつての大坂経済どころか日本経済の中心であった船場の廃れようと言ったらない。
大坂と呼ばれていた近世までの大阪は、7つの巨大墓地に囲まれていた。その墓地のほとんどは、今では跡形もない。わずかに阿倍野の市設南霊園にその面影が見えるが、この近くにかつて鳶田の巨大墓地があり、市設南霊園自体は他の墓地から明治時代に移転したものだとも言われるものの、鳶田(今の飛田新地)との関係も含めて由来が実はあまりよく分からない。
大阪・阿倍野にある巨大墓地 |
飛田新地・遊郭。かつての鳶田墓地 |
映画『ローマ環状線 めぐりゆく人生たち』予告編
日本の場合、城壁がなかったので、都市の周縁はたとえば江戸の場合元からかなり曖昧で江戸の外れの田園や自然の風景も庶民が親しむものだったし、近代化と人口増加で都市化は際限なく外側へと進み、今ではほとんど見分けがつかない。
だが日本の歴史都市に城壁がなく、都市境界が外の世界と曖昧につながっていたことと並ぶもうひとつ顕著な特徴は、西洋や中国大陸の都市と異なり中心があまり賑やかでない、むしろ空虚ですらあることだ。これは京都からしてそうで、政治と権威の中心である内裏とは、禁裏、つまり立ち入れない場でもあり、平安時代末期に政治中心の機能も失ったからこそ、京都はその後も成立し続けて来た。今の東京は、中心は皇居という巨大な森だ。
そうした都市の歴史を知らなければ、今は東京の大きな中心のひとつに見える新宿が、実は江戸と東京の歴史では端の部分だったことにも気づかないかも知れない。
現在の東京都庁展望台から見た中野方面 |
たとえば、新宿から池袋にかけては、案外と寺社仏閣と墓地が多い。高層ビル街はかつての淀橋浄水場でその一部が新宿中央公園になっているが、平安時代の創建と伝えられる熊野神社がその一隅にあり、この辺りは十二社という旧地名が今でも残っている。
広重、名所江戸百景、角筈熊野十二社 (現在の東京都庁、新宿中央公園近辺) |
新大久保駅付近 |
日本では東京つまり江戸にせよ、大坂(大阪)にせよ、あるいは京都でも鴨川の川向こうに祇園など、大なり小なり昔からある都市では、華やかな文化中心は中央ではなく都市の周縁部、西洋や中国の都市だったら城壁があったであろう部分に位置しているのだ。
華やかな一方で貧富の格差も明白でしかも隣接し混在している、というか現代では経済的な一等地で立地からして地価も高いはずにも関わらず、未だに基本的に高級住宅街ではなく区割りの狭い、いささか雑然とした、決して豊かとは言えない場所と隣接している。いやその賑やかに繁盛していそうな街でさえ、地価の高さにも関わらず必ずしも高価な商売が行われている場所ではない。
新宿西口から靖国通り、西武新宿駅近くにかけてのガード沿い地区、通称「しょんべん横町」ないし「思い出横町」は典型だろう。
二つのターミナル駅に挟まれながら安物紳士服と一杯飲み屋に焼き鳥屋などが路地に面して集中しているこの場所は、10数年前に大火災があり、更地にされて再開発が入って商業ビルでも立つのだろうと思われたのが、結局は元に戻っている。
東京の北への玄関口となる上野駅周辺も同様だ。駅ビルこそきれいに改築され、かつて映画館などがあったところには真新しい商業ビルが建ったものの、やはり上野は上野だ。
改築が済んだ上野駅 |
上野、アメ横界隈の、道にまで進出した飲み屋 |
最近ではこの中国系の食料品店など、日本以外の店が増えている |
そう、今でも東南アジアに行けば通りには屋台や行商がひしめき合っているが、かつての日本にもあったそうした生活文化が、上野には残っているか、新たに再生しているのだ。
タイ、バンコク、シローム地区 |
広重、東海道五十三次、品川宿 |
広重、名所江戸百景、高輪うしまち |
京都に対する比叡山と琵琶湖を模して東叡山寛永寺と不忍池、さらに清水寺を模した清水観音堂、というと上野のお山一帯は江戸開府にあたって新しく、人工的に作られたものと思いがちだ。
広重、名所江戸百景、清水観音堂から不忍池 |
ちなみに大阪の天王寺公園内にある(つまりかつての大坂市域の南の端)茶臼山は、大坂夏の陣に真田幸村が豊臣方の最前線を置いた場所だったが、ここも実は古墳だ。
上野公園の今は博物館が並んでいる辺りから東京芸大にかけて、実は掘れば江戸以前からの墓地や礼拝施設などの遺跡が、縄文期にまで遡ってかなり出て来るという。その歴史が文書ではまったく残されていないため、永久にその意味は解明不能だろうが、また意味論的に完全に把握されてしまっては、曖昧なること、判然としないが故に魔性であり神性であることにならない。
いずれにせよ家康が江戸に幕府の首府を定めた時には、今の銀座から築地にかけて大規模な埋め立て工事を実施して(その土を運び出したのが神田川)半ば人工都市として江戸を作り上げる一方で、その歴史的かつ霊的なパラメーターがきちんと踏襲されていたことが伺われる。
いやむしろ、もしかしたら古代からの霊場との位置関係に応じて、江戸城の造営拡張が進められたのかも知れない。
そしてその、実は歴史的に予め定まっていたことも最近は分かって来た江戸と言う都市の周縁部に、いわゆる「悪所」とも呼ばれる、祝祭と祭礼の場所があったり、新たに発展したりして行ったし、そうした場所は江戸から東京への大改造、さらに関東大震災と東京大空襲という二度の破壊と復興を経ながら、結局は昔と同じ役割を今でも担っていたりもするのである。
たとえば、なぜ将軍家菩提寺の寛永寺の門前町だったり境内だったりしたはずの鴬谷がラブホテルだらけなのかも、歴史的な経緯によるものなのだ。
寛永寺墓地より鴬谷、上野方面。遠景に深川の東京スカイツリー |
新大久保のコリアンタウン化が典型なように、そこに「外国」といっても西洋ではなくアジア的なもの、つまり日本と西洋の「あいだ」にある、普通の日常的「日本人」とはどこか違うがそんなに異なるわけでもない、あるいは過去の日本人に通ずる存在が集中するのも、実は歴史的な必然だと言えよう。そして江戸時代というと「鎖国」というイメージに反し、当時の日本人は無類の外国好きの新しいもの好き、鎖国しているからこそ外の世界への好奇心に旺盛な民族だった。
エキゾチックなものは日本人にとってエンタテインメントであり、エロチックでもあった。
年に一度の朝鮮通信使の長崎から江戸を往復する行列は、沿道に人だかりが常であり、行列の面々を描いた浮世絵版画がいわばブロマイドのようにバカ売れした人気だった。
両国の見世物小屋には、虎やラクダやゾウまでいたという(本物かどうかは定かではないが)。その役割が今では上野の動物園のパンダ人気へと引き継がれているのかも知れない。
開国と同時にフランスで印象派を驚愕させた北斎や広重の浮世絵表現は、実は長崎経由で入って来た西洋の絵画技法である遠近法を独創的に取り入れたものであり、「ベロ藍」と呼ばれた特徴的な深い青はプロシアン・ブルー、ドイツで開発された化学染料だ。
葛飾北斎、富岳三十六景、神奈川沖浪裏 |
西洋渡来の解剖学の書物の研究が、すぐに刑死した遺体の解剖で実践的に確かめることへと関心が移り、医学だけでなく、大衆見世物小屋での解剖人形でも、相当に精確なものが人気を集めた。
日本人は死を恐れ穢れとして忌み嫌う、という俗説は実はそうとうに嘘っぱちであるか、明治以降の近代に、西洋に「野蛮人」と思われないための捏造だろう。日本人は死者と祟りを本気で恐れる民族ではあったが、それは人間以外、あるいは人間を「超えた」ものへの畏れであって、死を拒絶したり忌避したわけではない。
とはいえ、そうした死とかかわるものが漫然と日常のなかにあったわけではない。
墓地も、葬祭の場も、刑場や刑死遺体の解剖も、解剖人形の見世物小屋も、いわゆる「悪所」に属し外の世界との境界に置かれるものだった。外の世界と人間世界の内側の区別が曖昧になる領域は、カミとヒトの混然とする、生と死との境界であり、祭りが行われる場でもあった。
深作欣二監督『必殺4 恨みはらします』
これは80年代に大ヒットしたテレビ時代劇『必殺!仕事人』の映画版だ。当時はけばけばしい風俗描写やエロチックなのぞき細工の設定などが、現代風のパロディにしても時代劇なのにやり過ぎで荒唐無稽だろう、とあまり褒められなかった記憶がある作品である。
暗闇の映像美で売ったテレビ・ドラマのスタイルに忠実で、そこにリアリズムの暴力描写を加えて殺人稼業の悲哀と倫理的葛藤に深く切り込んだ工藤栄一監督による重厚な映画第3弾にくらべ、華やかな色彩に満ちた昼間の屋外シーンが多いスタイルも含め、この深作監督作品はあまり評判が良くなかったと記憶している(というか、テレビの映画版ということだけでも、映画評論家は真面目に相手にさえしなかっただろう)。
たとえば旗本愚連隊の、いわゆる「かぶき者」風の衣装や化粧や髪型は、髪を赤く染めたり金ぴかの衣装だったり、時代考証にうるさい人が怒り出しそうにも思える。
この映画の台詞を借りれば「鼻血がトサカに昇ってプッツン」来そう…と当時の流行語を平気で放り込んだことでも、評判はますます芳しくなさそうだ。
真田広之演ずる南町奉行と来たら、ホモセクシャルないし半陰陽の雰囲気を存分に発散し、およそ公開当時の80年代に普通に思われていた江戸時代の「武士」イメージではない。
東映のヤクザ映画に実録風のリアリズムを持ち込んで絶賛された『仁義なき闘い』の深作欣二監督が、いったいなにを血迷ったのか、とすら思われたであろうこの映画、しかもメインの舞台となる江戸の外れのあばら長屋「おけら長屋」が立ち退かされ、無人になりった廃墟が決闘の場となると、「深作は西部劇のゴーストタウンをやりたかったのか?」などと揶揄されたものである。
当時、その深作監督は、この映画を「お祭り」と呼んでいた。それは「お祭りなんだからなにやってもいいだろう」的に派手で商業的な悪ふざけを導入する開き直りのように思われがちだった。
だいたい、テレビ・ドラマの映画版といえばまったくの商業的な企画なのだし…と思ってしまえばそれで済みそうだが、これまで江戸時代の都市における「悪所」の痕跡を辿って来た文脈で考えると、まったくそうではないように思えて来る。
深作は別にテレビシリーズが大ヒットしたからテレビ局のための「お祭り」をやったのでもなく、だから悪ふざけで旗本愚連隊に当時の暴走族かグラム・ロックのような格好をさせたのでもない。
藤田まこと、真田広之 |
いや実のところ、テレビのファンがいるだけで一定の宣伝効果も興行的成功も最初から見込めるだけに、テレビの映画化というのはやりようによっては、現代の日本映画産業で逆にもっとも作り手が冒険できるジャンルなのかも知れない。
それにテレビのおなじみの人物設定を拝借しているぶん、キャラクターの説明に時間を割く必要がないだけでも自由だ。ハリウッドのアメコミの映画版で、主人公がヒーローになる原作の設定をいちから丁寧になぞったりするのとは大違いである。
いや西洋文明の物差しならばエログロナンセンスの下品な金儲けとみられがちなことこそが、日本の本来の文化では、人間世界と人間外の死と自然神の世界との曖昧なる境界、聖と俗が判然とせず渾然一体であることにおいて神性を帯びるのである。相撲だって一歩間違えれば畸形人間ショーに近いはずが、だからこそ神事の意味を持つのだ。そうした「ヒトを超えたもの」の神性が立ち現れる場こそが「祭り」なのであり、「悪所」とはその祭りの執り行われる場でもあった。
深作の映画はその原理に極めて忠実に作られている。
この映画で半陰陽/両性具有的な真田広之(かげま、つまり男娼あがり。江戸時代に衆道つまり男性の同性愛は普通のことだった)がいわば「ばけもの」となるは、性別の境界が曖昧なる者であるがゆえに魔性の魅力を持つからだけではなく、実は将軍家斉に手ごめにされて井戸に身を投げた大奥の女中の、その亡霊の恨みを背負った復讐者であるからでもある。
その女中の名が「お菊」であることは、有名な怪談『番町皿屋敷』を明らかに踏まえている。江戸の番町(今の千代田区番町、地下鉄の半蔵門駅あたり)と地名を語呂合わせで変えているが、元は播州姫路城の池田藩で起こった実話だ(「播」が「番」に言い換えられた)。このお菊は家宝の皿を割った罰で殺されたことになっているが、そこに性的なメタファーを読み取る解釈もあり、深作はストレートにその方向でこの映画の脚本に組み込んでいる。
深作がこの後に映画化に執念を燃やすことになる『東海道四谷怪談』もそうだが、日本の怪談は、西洋のモンスターが悪魔の化身であったりする悪魔払いによるキリスト教的秩序の回復の説話とは構造がまるで違う。亡霊とは不当に殺された者たちの恨みであり、悪であるのはむしろ亡霊の復讐を受ける人間たちの側であり、怪談は秩序がすでに腐敗して壊れているからこそ成立する、化けて出て来る理由が産まれるのだ。
そしてこと江戸時代の怪談もので恨みを持って不当な死に遭うのは、ほとんどが女性であり、その物語にはほとんど常に、武家の支配体制の横暴に対する猛烈な批判が込められていた。
そして、そうした物語が歌舞伎芝居などで演じられ、語られたのもまた、支配体制の枠外にあった「悪所」であり、楽しむ側の観客は、武家支配の社会でも、「悪所」である異界では、男女が平等だった。
「おけら長屋」が風と砂塵の吹きすさぶ江戸と江戸の外の境界なのは別に西部劇の模倣ではない。まさに人間界と自然界の境界領域そのものであり、しかも入り口の両脇に石灯籠が置かれていることからして、ここはカミ的領域でもある。
深作監督はそこに貧しくはあってもある種のユートピアを設定した。
仕官にあぶれた、つまり支配体制としての武家階級からこぼれ落ちた浪人が心機一転で傘作りに励む姿は、ふっきれているためか哀れさを感じさせないし、同じ長屋には老人もいれば子どももいる。
そして子どもの遊んでいる側にはごく自然に、最下級の遊女である夜鷹(よたか)たちもいる。
これも恐らくは、深作が江戸時代の春画を研究して来た反映だろう。春画つまりセックスの場面を描いたエロ絵画だが、しばしば庭先で遊んでいる子どもや犬猫も描き込まれているし、男女(ないし男どうしや女どうし、北斎のタコと女を描いた傑作のように、動物相手の場合もある)の睦言だからといって、庭に面した障子が閉ざされているわけでもない。
江戸時代は性について、明らかに現代よりもおおらかで、性そのものを罪悪視する傾向は、むしろ近代化で西洋から持ち込まれた、キリスト教起原のものだ。
だいたい日本の伝統的な神事祭礼が、性と切っても切り離せないものだし、江戸時代どころか、それこそ『源氏物語』や『万葉集』や『古事記』の昔から、日本の恋愛表現は性に関しておおっぴらだった。
「おけら長屋」の住人達は、幕府やその奉行所の権力から保護はまったくない、つまり社会制度的には不平等の最下位あたりに置かれていそうなのに、身分が遥かに上の旗本愚連隊に、気概では決して負けず堂々と対決すらする者達として描かれている。
権力と社会権威の枠外の、人間界の周縁にある境界だからこそのユートピアが、この「お祭り」つまり祭礼としての映画の主たる舞台になる。
その片隅にはちゃんとお墓があり、その墓のひとつが将軍に手ごめにされた女中お菊の伝説を伝える地蔵、という深作の持ち込んだ設定は完璧だ。
殺し屋稼業「仕事人」の元締めがふだんは琵琶を弾く乞食の女越世、背中に観音をも思わせる弁天像を刺青した「弁天」(岸田今日子)であり、そのねぐらが、おけら長屋のそばの川につないだ小舟であるというのも、徹底している。
そしてこの異界/境界としてのユートピアが、この場とのつながりを隠した魔性のものの陰謀によって立ち退かされ、殺人稼業どうしの決死の決闘という、生と死の祭礼としてのアクションの場となり、千葉真一演ずる子連れの殺し屋の、死と引き換えの贖罪の場となる。
一方で、将軍家所縁の寺に秘密に設けられた性ののぞき部屋が、エロティックな仏像神像の調度そのままに、もうひとつのクライマックスのアクション、怒り猛け狂うあまりに魔性のものとなったカミ的両性具有者を鎮める血の祭礼の場面になるのも見事だ。
性的にデフォルメされた仏像神像が、だからこそ観音の慈悲の神性をクライマックスでは帯びることになる。
性と死の一致において現世の道徳律を凌駕する魂鎮めのクライマックスを設定することを、深作欣二は後に『忠臣蔵外伝・四谷怪談』でより華やか、かつ破滅的に繰り返すことになるだろう。
谷中墓地、千人塚(いわゆる無縁仏) |
なにしろ谷中霊園と寛永寺墓苑が渾然一体となった霊的空間には、最後の将軍慶喜を始め、将軍家や老中職、それに伊達家などの有力諸大名の墓所もあれば、明治の世に希代の悪女と言われた高橋お伝もここに葬られている。
高橋お伝。重病の夫や愛人達を次々と殺して「毒婦」と言われたお伝は、しかしなぜか明治庶民のヒロインにもなった。昭和に同じように庶民の不思議な人気と同情を集めたいわゆる「魔性の女」に阿部貞がいるが、貞の事件を『愛のコリーダ』という映画の事件にした大島渚は、このお伝のことも映画に出来ないかと関心を持っていた。
深作欣次は、実はテレビの『必殺』のもっとも基本的な構造をこの映画で再確認もしているのかも知れない。
法が裁かぬ悪を、死者の恨みの籠った金と引き換えに殺す、という裏返しの勧善懲悪が人気を集めたのは、裁かれない巨悪や理不尽も多い現代社会のルサンチマンの解消となる反権力性とニヒリズムが、バブルの時代にマッチしたからだと普通には思われるだろうし、だから人間社会に裁けなかった悪を裁くそのリーダー格であり主人公が、ふだんは完全に官僚化した奉行所勤めの小役人の裏の顔、というのがあまりにサラリーマン社会への風刺として気が利いていたため、藤田まことが「中村主水」を演ずるシリーズが、こと大いに人気を集めたのだろう(元は池波正太郎の小説『仕掛人・藤枝梅安』が原案)。
だが法が裁かぬ悪が法的には許されない手段で裁かれる、という裏返しの勧善懲悪の構造は、江戸時代から日本人にとっておなじみの、歌舞伎や人形浄瑠璃の構造を再現するものでもある。
そうした日本人の慣れ親しんだ庶民の演劇とは、法や社会道徳の矛盾が産んだ非業の死が、死者自身が浄瑠璃の太夫や歌舞伎役者の口と身体を借りることで語られるものだったり、江戸末期に増える大泥棒や法の及ぶ範囲外にあるヒーローを描くものだった。
水戸黄門や大岡政談の、権力側の義人が「正義」を実行する勧善懲悪は、読本や講談では江戸時代でも人気がなかったわけではないが、映画や大衆演劇で大々的にとり上げられるようになったのは明治以降だ。
歴史的にみれば、日本人がこういう権力側の貴種による「正義の裁き」を有り難がる民族だとはとても言えない、むしろ近代化で押し付けられた、刷り込まれたものだろう。江戸時代に好まれたのは、正義が社会で実現し得ず権力権威がその力を持たないこと、勧善懲悪への疑問を呈し人間世界の秩序の限界を探るエンタテインメントだったのである。
また荒唐無稽にも思えるトリッキーな殺人技巧は、実は殺しの行為のもっとも完全な儀礼・儀式化の面も備えつつ、しかもそれは簪であるとか錐であるとか鍼灸師の鍼であるとかの、日常の道具の非日常への役割変換でもある。
恐らく州崎辺りの設定であろう、千葉真一演ずる殺し屋が住処とする江戸の外れ |
それにしてもこの映画の「おけら長屋」が体現している「悪所」、ないし人間界と人間外の世界、生と死の境界とは、どのような場所なのか?
広重、名所江戸百景、深川州崎十万坪 |
たとえば遺作『御法度』から遡れば、大島渚のフィルモグラフィのほとんどすべてが、こうした生と死と性が接し曖昧となる異界・魔界をめぐるものだと分かる。
大島渚監督『青春残酷物語』
大島の映画では、死に行くものが「彼岸」へ向かう道行きという伝統話法までが長編デビューの『青春残酷物語』で既に取り込まれているし、『太陽の墓場』『絞死刑』『帰って来たヨッパライ』『愛のコリーダ』『愛の亡霊』、そして『御法度』でもその構造は明らかだ。大島は中年以降日本的なものに惹かれるようになったのではない。むしろ、最初からだった。
内田吐夢の映画はとくに戦後の、アイヌを取り上げた野心作『森と湖のまつり』といわゆる芸道三部作(『浪花の恋の物語』『恋や恋、なすな恋』『妖刀物語・花の吉原百人斬り』)、そして『飢餓海峡』と、はっきりとこの境界、マージナルな場に凝縮される人間の愛憎のドラマツルギーを意識し神性化するものへとなって行く。
深作や戦後の内田吐夢と同じ東映で活躍した加藤泰の映画についても、ほとんどの作品にこの関心が指摘できる。だいたい加藤が得意としたヤクザ映画のヤクザ、任侠とは、いずれもこうしたマージナルな人物、境界にいる存在だし、『東海道四谷怪談』のもっとも忠実な映画化『怪談お岩の亡霊』は加藤の最高傑作のひとつだ。
加藤泰監督『怪談、お岩の亡霊』
深作欣二の『必殺4』では、お面をもった二人の子どもが善と悪、生と死の両義性を担った曖昧な存在として重要な位置を占めている。
「子ども」もまた、文明と自然のあいだにある不確定な、性別が確定しない、世俗の枠組みに収まり切らないものを象徴する「曖昧なるもの」であり、故に神性と暴力性を秘めてもいる。
少年少女の不確定が故の危うさ、相米慎二監督『台風クラブ』
相米慎二の映画世界はほとんど常に、生と死の境界に少年少女の性の成長が微妙に交叉する状況を舞台としており、『台風クラブ』では台風という天変地異がそのカミ的な危うさを少年少女達から引き出し悲劇的な死の祭礼で終わり、『お引っ越し』に至っては、いつのまにか少女は文字通り「彼岸」の世界に迷い込んでしまう。
相米慎二監督『お引っ越し』
あるいは小栗康平の処女作『泥の河』は豪速球に川のこちら川と向こう側の物語であり、主人公の二人の少年はその境界にあるが故に曖昧にして魔をも秘めた存在であるし、小栗は『眠る人』で日本の自然と朝鮮半島の東南アジアの赤道直下の自然を結びつける世界観を提示した。
小栗康平監督『泥の河』抜粋
いやなにも、いわゆる芸術的な、作家性の強い映画だけではない。
たとえば大映で市川雷蔵が人気シリーズにした『眠狂四郎』シリーズは、狂四郎が転向キリシタン神父の落としだねで紅毛であることも、円月殺法も、境界にあり判然とせず曖昧なる魔性を秘めたものこそがヒーローとなることを示しているし、狂四郎の周囲には常に子どもが出て来るし、それは西洋的なヒーロー説話で子どもを救うため、という単純な位置づけではない。
三隅研次監督『眠狂四郎勝負』
明治維新は日本人という国民性を、真面目で勤勉で権威に従順なものとして再定義したかに見えたが、一方でその権威を相対的なものとしてしか見なさずに、人間社会の矛盾をそこを超越している周縁の境界から見ることや、そうした境界の「悪所」にある曖昧なるものやそこから向こう側に見える外にあるものにこそ魅了されるという、本来の日本人の文化的DNAは、我々の無意識にはまだ確かに刻印され続けている。
その片鱗は映画にも、そしてたとえば東京の実は古来より「悪所」である場によく観察すれば確かに見いだされるし、今日でもしばしば復活したり、再生産すらされている。
広告代理店やテレビが作り出す人工の、商業目的の流行は一時は儲かりはするが、しょせんは地価上昇や地上げなどと同様一時的で相対的なものだ。
新宿西口の「しょんべん横町」が火災で焼けても元のままに復活し、ゴールデン街がゴールデン街でありつづけるように、商業戦略や経済性を超越した「日本人を魅了するもの」は、確かに生き続けている。
平たく言えば、日本人は確かに今では勤勉で真面目で、権威や所属集団に過度なまでに従順であることを要求され、社会ではそこに忠実でなければ生きにくくはあるのだが、それでも未だに、一方で恐ろしく享楽的な民族ではないのか。
好奇心旺盛で享楽的、こと食べ物には目がないからこそ、新大久保は韓国料理で繁盛し、高田馬場にはミャンマー料理やタイ料理やトルコ料理がやたらと食べられる街になるわけでもある。趣味に熱心で恐ろしく知識やうんちくを溜め込むことでより楽しんだりもするし、また日本的な娯楽は「知れば知るほど深く楽しめる」面が強い(歌舞伎などは典型だが、なにも古典芸能だけではなく、いわゆる「オタク」文化もだからこそ生まれたのだろう)。
鈴木春信の春画 |
今では大衆ファッションでも、近年UNIQLOが積極的にゲイのデザイナーやアーティストのデザインや意匠を取り込むことで、「男らしさ」をマチズモよりも男性の官能的で性的な魅力で再定義し、それを「かわいく」表現することが、いつのまにか流行になっている。
男性ファッションの官能化、セクシャル化、肉多岐的、性的な魅力を引き出すことの積極化に対し(また男たちの側でも積極的に受け入れている)、女性のファッションが華美なブランド主義に毒されただけでどんどん衰退しているのはかなり残念だが、しかし日本は江戸時代以前から男女ともに、むしろきれいで官能的な、なにか異質なものを持つが故に色気のある男にキャーキャー言う性的文化を持った国でもある。美人だけでなく、しなやかな男性の肌の露出が多い艶やかさも、街の花だった。
鈴木春信「雪中相合傘」 |
ただ他の部分では、日本人の意識レベルが強引かつ中途半端に西洋化されることで、我々はずいぶんといびつな民族になってしまっている。
実は濃厚に性的な意味を持つ文化表象については未だにおおらかでも、性それ自体に関してはだからこそ、かなりいびつに抑圧され、去勢すらされる一方で、極端に刹那化もしている。
麻薬的なものの管理が厳しいのは近代以降ずっとそうだが、「脱法ドラッグ」が「危険ドラッグ」と名称を変えて取り締まりが厳しくなる一方で、人工の薬品で健康を維持しようとする傾向もどんどん進行している。よく考えれば矛盾していることに、かつての日本人ならすぐ気づいたはずだ。
江戸時代の医学が「養生訓」、つまりなにごともほどほどが生活習慣病予防に役立つという結論に至ったのとはえらい違いだ。元々日本人は、たとえば植民地主義時代から対日戦争期にかけての中国のように阿片が大流行するようなことがない、そういう極端さを好まなかった民族だったのだが。
こと戦後に広まった核家族的な家族観は親子が社会から孤立する状態に陥り、今や崩壊ギリギリの状態にある。子どもがまず親、祖父母親戚、そして隣近所と、何重もの内と外との関係性によって守られながら徐々に社会に出て行く構造が崩壊してしまったのだ。そうした教育が思春期の持つ暴力性を含む両義的な危うさに向き合うことも忌避してしまって来た結果、青少年の教育にも完全に失敗してしまっている。
こうした教育の失敗をなんとか穴埋めするため、無意識に共有されるが故にその限界性も許容されて来た日本の社会規範が、成文化され余裕や曖昧なところのないルールの杓子定規な施行に置き換えられる傾向が、いっそう進行することになるだろう。
子どもが大人になる過程で徐々に社会規範を身につけて行くプロセスが壊れてしまえば、成文化され、曖昧さを拒絶する「決まり事」や権力構造しか認識できなくなる。たとえば安倍政権が推進しようとしている「道徳教育」は、倫理的な価値観を権力権威に置き換えてしまう、極めて非日本的で、不自由にして狭量で、「悪所」に育まれたしなやかな知性を排除している。
かつて無類の新しもの好きで外国大好きでエキゾチシズムに官能的にも知的にも魅了され、他者に対して蔑視や差別よりも好奇心と向学心丸出しだった国民性はどこへやら、政治的には今の日本は恐ろしいほど差別的な言説が平気で横行しているし、それも西洋上位の対白人のコンプレックスの自己差別と、他のアジア諸国への差別・蔑視や憎悪の狭間で迷って引きこもるだけの、周辺諸国を無為に敵視しつつ今さら先方にとっても迷惑な対米従属の板挟みで、まるで身動きがとれなくなっている。
西欧の新技術や新知識に興味津々でそこからさらに独自の知的発展を得意としていた日本のインテリゲンチャーは、いつのまにか西欧コンプレックスの奴隷、ヨーロッパのアカデミズムの引き写しが習い症になってしまった。
なぜこうなってしまったのか?
本稿のテーマである「悪所」、その具体的な地理的な条件や地名、そうした場所の現状に、そのヒントがあるかも知れない。
いやこのこと自体がもはや日本の言論界で完全にタブー視され、もはや地名を見ても気づく人も少なくなってしまっているかも知れないが、ここで触れたいわゆる「悪所」、境界、生と死、人間世界と人間外の世界の区別が曖昧となる場とは、はっきり言えばいわゆる被差別部落のことだ。
たとえば百人町の由来である鉄砲百人隊は、鉄砲を専門に扱うということは宮崎駿の『もののけ姫』の「たたら」とほぼ同じことだ。
高田馬場、鉄砲稲荷神社だからこそ近代には外国人が入り易い場になり、今はコリアンタウンとして繁盛するのもある意味当然である一方で、百人町の公共住宅や戸山団地などは、恐らくはいわゆる「同和対策」住宅の性格も持っていて、そして近年では高齢化と限界集落化が指摘される。 若い世代が差別を恐れて出て行ってしまうのは、関西のはっきりと同和対策住宅である団地などでも起こっている現象だ。 |
日本人という民族は、あろうことか自分達の文化、国民性やその知性、感性の原点をこそ差別対象とし、しかもその差別対象の存在すら無視、差別を語らないことによる黙認しつつ加担する形で徹底させながら、近現代を生きて来てしまったのだ。
「差別はいけません」と口先だけは言いながら、現代の日本が差別を決してやめられない社会になってしまうのも、むべなるかなではないか。
自らの拠り所を失ったものは、他者との差異化の優越感くらいでしか自らの立ち位置を認識できなくなるだろう。ならば日本人が日本人だという意識は、身近な他者との曖昧な境界があたかも明確であるかのように思い込み、その他者を差別排除することでしか、担保され得なくなってしまいそうだ。
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