最新作『無人地帯 No Man's Zone』(2012)
〜福島第一原発事故、失われゆく風景、そこに生きて来た人々〜
第62回ベルリン国際映画祭フォーラム部門正式出品作品

6/30/2017

下村前文科相への闇献金が「違法性はないから問題はない」という倒錯



森友学園の「安倍晋三記念小学校」スキャンダルと加計学園獣医学部 “えこひいき” 疑惑が解消されないまま、自民党右派念願の共謀罪こそ強行突破で成立させたものの、国会閉会後は都議会選直前になって失言・問題発言とスキャンダルが山積状態の与党に、ここへ来てその都議会選を指揮する都連会長にして安倍首相の側近に、ヤミ献金疑惑の発覚だ。

自民党の幹事長代行で都連会長の下村博文・前文科大臣は、週刊文春で報じられるとその日の午前中に釈明会見を行った。速やかな対応で火消しに動いたのまでは良い…のだが、会見がまったく釈明になっていない内容なのに、「事実無根」と週刊文春を非難するとは、いったいどういうことなのだろうか?


文春の報道の根拠は明示されている。

下村事務所の内部文書に、2013年、14年に渡って100万ずつが「加計学園」の名義で入金されて2年で計200万としっかり記録されていたのだ。

つまりどう考えても「事実無根」とは言えず、その記録が誤解を招くものであれば、説明責任があるのは下村氏だ。

まず大原則として、政治家の政治資金は入金も出金もすべてクリアに記載し公表されるべきであることは確認しておこう。現行の政治資金規正法では20万以下の入金は公表の義務はないとなっているのは、事務的な煩雑さを避けるための例外に過ぎない。

さて下村氏が「事実無根」「選挙妨害」と文春を非難する根拠だが、毎年100万で2年で計200万と記載されているのは、加計学園の秘書室が取りまとめて下村事務所に持って来た合計100万円で、その中身は11人の個人や団体からの、それぞれにバラバラの献金で、いずれも20万以下だから記載の義務はない、というものだった。

いやはや、公表してしまうと差し支えがある献金元だから名前を隠す、法の抜け道を使ったヤミ献金の手口を、こうも分かりやすく説明してくれて、下村さんどうもありがとう、勉強になりました、としか言いようがない。

言うまでもなくこの200万円が加計学園から(下村氏の主張に基づけば「を通して」)下村氏に献金された2年間、氏は文部科学大臣の地位にあった。

法の抜け道を使ったので形式上違法ではない、というだけではむろん「事実無根」になるはずがないし、こんな理屈は政治資金規正法の立法主旨からすれば、形式上のへ理屈としてすら成立しない。

政治資金規正法で入金を明記しなければならないのは、その政治家の職務権限に直接の利害関係がある業界や個人からの献金が、贈収賄になる可能性があるからだ。そして学校法人である加計学園から(下村氏の主張では「を通して」)の年100万の献金があったのは、学校法人を所轄する文部科学大臣である下村博文に対してだった。

文部・教育行政に関わる政治家が学校法人やその関係者からの献金を受けていればそれだけで十分な疑惑になるわけで、こと教育に関わることでもあり、いっそう「李下に冠を正さず」を心がけるのが、まともな政治家だろう。

ところが下村氏がやっていたのは、大目にみてもスモモの木の人通りから隠れた側でこっそり冠をかぶり直していたに等しく、しかも今はそこからしっかりスモモを持って出て来たのを見とがめられ、「いやたまたまスモモが落ちて来た」とか「間違って手が当たってしまったので」などと言い張っているに等しい。

11件の個人や企業が購入したパーティー券を加計学園が取りまとめてくれたのだとしても、その購入者名は「これから調べる」「都議会選挙後に」と言っているのも、あまりにもおかしい。下村事務所はその領収証は発行していなければならないし、パーティー券購入者の名簿にも当然記載しているはずだ。

だいたい11人が一口2万のパーティー券を購入しているのにきっかり100万円というのは、人を馬鹿にしているのかとしか思えない御都合主義もいいところ。それも一度ならともかく、2年連続だ。

加計学園側ではこの下村氏の会見を受けてパーティー券購入を「とりまとめた」ことは認めたが、購入者については「プライバシー」を盾に公表できないと言い始めているが、これもまったく成立しないいいわけだ。

パーティー券の購入は政治献金に当たり、プライバシー保護の対象ではまったくない。

政治資金規正法が20万以下の献金については記載は不要としているのは、単に事務的煩雑さを回避する例外でしかないはずで、結果として公表の義務はないとしても「プライバシーだから言えない」とは、立法主旨に完全に反する。

大原則を改めて確認しておこう。政治家の政治資金は入金も出金もすべてクリアに記載し公表されるべきであることが、政治資金規正法の基本理念である。下村氏はその法に組み込まれた抜け道を悪用して記載義務を逃れ、今はそういう誤摩化しの手口を使ったのだから問題ない、と言い張っているだけだ。

その例外処置で記載の義務がない小額献金に小分けしたから、記載の義務はないので「問題はない」というのは、法を理解しない稚拙な詭弁でしかないのだ。こんな姑息な誤摩化しで、しかもそもそも事実に反して週刊文春の記事を「事実無根」と言い張る(根拠はある。下村氏自身の事務所の出納記録だ)のは、いったいどういう了見なのだろうか?


だがこういうのは、下村博文氏に限ったことでもない。

前文科事務次官の前川喜平氏は、第二次安倍政権になってから「大がかりな仕掛けの中で、一見正当な手続きを踏んだかたちをとって、実態としては特定の件を特別扱いすることを正当化する。こういう手法がものすごく増えてきているように感じます」と週刊朝日のインタビューで指摘している。

氏は実例として加計学園の問題の他に、「明治の産業革命遺産」の世界遺産推薦を挙げている。この時には文化庁と文科省で進めていたのは、長崎のキリスト教文化遺産群(浦上天主堂などの建築と、隠れキリシタン信仰の関連遺跡および今も残る隠れキリシタン信仰の宗教儀礼等の無形文化)だったのが、加藤六月氏(故人・自民党運輸族の大物)の娘・康子氏が運動をやっていた松下村塾などの世界遺産化の運動を安倍首相が気に入り、強引に日本政府推薦にねじ込んだのだ。

この時にはその加藤康子氏だけでなく、元ユネスコ大使で文科省から加計学園の千葉科学大学に天下りしていた木曽功氏も内閣参与に就任し、安倍の趣味の世界遺産登録を強力に推進する体制が政府内に作られていた。ちなみにこのうち木曽氏は、文科省の後輩である前川次官(当時)に加計学園に便宜を計るよう圧力をかけようともしている。

そもそも「なぜ松下村塾が?」をはじめ、この遺産群の選択には歴史学的に見て多々疑問がある。 
日本の産業革命はまず伝統の手工芸を発展させた軽工業・民生品の輸出を目指した殖産興業から始まり、戦前に生糸は日本の最大の輸出品だった。世界遺産登録された鉄鋼や炭坑などの重工業の発展は明治中期以降、富国強兵政策の転換があってからだ。 
その日本政府の強力な主張があったとしても、「明治の産業革命遺産」がICOMOSの推薦対象になったことにも、多々疑問はある。公式の政府推薦だけでなく、裏で相当に活発なロビー活動(買収なども服務)があっても驚かない。


加計学園問題でも、森友学園の「安倍晋三記念小学校」計画スキャンダルでも、安倍政権やその支持者が最後に行き着く言い訳は「違法性はない」だ。こうした主張は二重の意味で倒錯しているのだが、贈収賄などの刑事罰の対象にならないのは、確かにその通りだろう。

だが個人の刑事罰対象犯罪と、行政決定としての違法性は、まったく異なった次元の問題だ。それをごっちゃにしているのは、彼らには政治家、公職にある立場の自覚がまるでないとしか思えない。

稲田朋美防衛大臣の「防衛省、自衛隊、防衛大臣、自民党として」大失言にしても、公職選挙法、国家公務員法、憲法に違反していると指摘されているが、いずれも刑事犯ではない。

加計学園スキャンダルをめぐって文科省の内部文書が報道や国会質問で取り上げられた件で、義家副大臣は「一般論として」と言いつつ国家公務員法に違反している可能性を答弁したが(前川前次官は「ただペーパーを読んだだけ」と義家氏本人には同情的だった。ただし「私だったらあんなペーパーは書きません」。ちなみに前川氏も指摘する通り、これは公務員の法的な守秘義務の対象にはならず、逆に徹底した情報公開の対象だ)、これも違法とみなされても(無理だが)刑事犯ではないし、自衛官が政治活動をやるのは違法だが刑事罰の対象ではない。懲戒の対象となり、解雇・罷免などの処分が出る。

だが刑事罰の対象にならないからといって、こと政治家の場合に、政治家としての罪や責任がないことにはならない。贈収賄がないからといって、行政の公平性が損なわれることが国民的損失であり、国民とその国家に対する犯罪行為になるのは、なにも変わらないのだ。

政治家としてあるまじき政治の私物化を続け、それが明らかになれば、本来なら政界の自浄効果と、有権者の審判に任されるはずだが、この両者の機能が麻痺していて、とくに前者は完全に絵に描いたモチとなっているのが、現代の日本の政治の深刻な問題だ。

下村博文氏の献金疑惑に話を戻そう。

釈明会見を聴く限り、下村氏は法の抜け道を利用して記載の必要がないように献金の名義を分散したのだから「問題はない」としか言っていない。だが政治資金規正法はそもそも、政治家が特定の個人や団体から資金援助を受ける引き換えに、行政が歪められることを防止するため、とくに政治家の職権と関わる分野の関係者からの献金をクリアにするものだ。

文科大臣にたとえばある学校法人から多額の献金があり、その学校法人が政策的に特別な優遇を受けていれば贈収賄になる。その献金がオープンに、誰もが見える形で公開されていれば、おいそれとその献金先を優遇するようなことはまともな神経ではできない、その抑止効果に期待して行政が不公正に歪められることを防ごうとしたのが、この法の最大の目的だ。

なのに文科大臣の職にあったものが学校法人から献金を受ければ当然疑念の目で見られるので、それを避けるために名義を分散させて不記載で済むようにしたから問題がない、などという詭弁は通用しないし、仮にほんとうに11件の別個の献金がたまたま合計で100万きっかりになっていたとしても、加計学園がそのとりまとめを行っているだけで、下村氏の事務所が同学園から金銭的な便宜を受けているという事実は、なにも変わらないのだ。

まして11件に分散しているのがただの名義貸しであれば、法の網をかいくぐったヤミ献金そのものだ。その疑いを晴らす根拠の公開を下村氏は出し渋り、加計学園は拒否している。

結果論からすれば、まだ正直に、加計学園からの献金を正直に記載・報告しておいた方がマシだった…というのはあくまで、加計学園の獣医学部が国家戦略特区に選ばれたことに、安倍首相が言うようになんら後ろ暗いことや不公正がなかった場合だが。

わざわざこんなせせこましい工作が行われていたということは、この国家戦略特区がやはり首相の意向で行政が歪められた、不正な「えこひいき」ケースであった疑念を、いよいよ深めることにしかなっていない。


こういうと安倍政権やその周辺からは「証拠がない」「挙証責任は疑いをかけた方にある」、そして「潔白を証明しろというのは悪魔の証明だ」と言い張るのも毎度のパターンになって来たが、これも一個人の犯罪と行政府の罪を恣意的に混同した倒錯だ。

「疑わしきは罰せず」、そして挙証責任を訴追した行政府に求める近代法治の原則は、個人を国家権力から保護するためであって、国家権力の横暴を保護するためではない。「証拠がないから疑わしきを罰せず」は、その証拠を握っていて、隠蔽し隠滅する権限も持っている権力側・行政府には適用されない。

それに加計学園スキャンダルにしても、下村氏への献金にしても、潔白であると証明することは「悪魔の証明」になぞまったくならない。

単に前者なら加計学園が今治市に作る獣医学部が国家戦略特区に決まった経緯を包み隠さず開示し、安倍政権が説明責任を全うすれば済む。前川氏を国会の証人喚問に招聘し、安倍首相や官邸高官、国家戦略特区諮問会議の民間議員、文科省・農水省と内閣府の担当官僚も証人喚問で証言すればいいだけだ。

下村氏の場合は11人の献金/パーティー券購入者を明らかにし、それぞれが自分が実際にパーティー券を購入したのであって名義貸しではない、と証明できれば、それで済む。

証拠を隠し続けておきながら「証拠がない」とは、どこまで話がアベコベなのか、呆れてしまうのが安倍政権のやり口だ。

あるいはやはり加計問題で、文科省が存在を確認した10月21日付けの萩生田官房副長官と文科省の専門教育局長の面談メモの件で、萩生田氏は自分は一切なにも言っていないかのような印象操作を必死に言い張っているが、実際には一部に自分が言っていないことが紛れ込んでいると主張しているだけだ。なのにそこをねじ曲げて文書全体が噓であるかのように言い募って印象操作に必死だが、このメモの中身は「誰が言ったか」の問題ではない。安倍政権全体が「加計ありき」で動いていたことがはっきりしている中身で、「誰が言ったか」に論点を誤摩化したところで、逆に安倍政権の「政治主導」のいい加減な不透明性こそが問われてしまう。

そもそもこの政権には、証拠と事実、そして真実の関連性が理解できていないとしか思えないし、真実とはなにかを考えたこともないようにも見える。

なにしろ自分達は怪しげな根拠か根拠がまったくない話で他人を貶める印象操作に終始し、自分の主張を他人に押し付け拒否されたら「反日だ」と言いながら、事実や論理を元に問いつめられ反論できなくなったたとたんに「人の意見は人それぞれ」と逃げるのが毎度のパターンだ。

あるいは、近隣諸国との領土問題について、双方にそれぞれの主張があって対立しているからこそ領土問題になっているのに、日本政府の見解だから「真実」と主張して教科書に記載させようというのもこの政権だ。

自分達に都合が悪い事実の報道には「両論併記」をメディアに強要して自分達の自己正当化をねじ込んでいる割には、報道以上に客観性・公平性が重んじられ事実性を担保しなければならない教科書には一方だけの主張を記述せよと強要する、とんだ支離滅裂というか、御都合主義で自分達の欲望を押し付けることだけは一貫している。

挙げ句に、珍妙な閣議決定の連発である。

なにが事実であるかどうかは政府が決めることではないのに、「閣議決定だからこれは正しい」となると勘違いしているのだからお話にならないが(安倍昭恵総理夫人は私人である、安倍首相はポツダム宣言を読んでいる、等々)、最近では「そもそも」には「基本的な」という意味があるなど、滑稽な不条理喜劇の領域に突入している。


もっとも、この珍妙さは実は今に始まったことではなく、第一次安倍政権に遡る。慰安婦問題について「強制連行を直接に命じたことを示す文書は見つかっていない」と閣議決定したのが当時の安倍内閣だった。

こんな主張それ自体には、実はなんの意味もない。

日本軍と日本政府は終戦時に大量の公文書を破棄し証拠隠滅を大々的に行っているし、そもそも安倍たちがいう「狭義の強制(連行)」は当時でも違法行為で、そんな命令は口答で済まし証拠となる文書を残さないのも当たり前だ。それに政府が政府文書を調査したところで、見つからなかったことにすれば済むだけだ。

しかも「直接に命令した文書がない」に過ぎないことが、いつのまにか慰安婦問題自体が「ない」ことになぜかなってしまっている、稚拙で杜撰な印象操作を以来ずっと続けているのが安倍たちだ。

言い換えれば、元々が歴史修正主義、史実を無視して自分達の願望を「真実の歴史」と言い張る傾向が強かった人達が、その歴史修正主義の倒錯を現在形の出来事にも敷衍し始めているのが、安倍政権の現状だとも言える。

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