最新作『無人地帯 No Man's Zone』(2012)
〜福島第一原発事故、失われゆく風景、そこに生きて来た人々〜
第62回ベルリン国際映画祭フォーラム部門正式出品作品

10/08/2012

社会派映画作家としてのジャック・ドゥミー


Romantic love、「ロマンチックな愛」と訳してしまうと、今では別の意味でとらえられてしまいそうなので、「ロマン主義的な愛」と言うべきかも知れない。「あなたなしには生きて行けない」、愛し合うことが生きることに不可欠、生のもっとも根幹であり、故にその愛が死に至るものにもなる、という考え方である。

『シェルブールの雨傘』でカトリーヌ・ドゥヌーヴ演ずるジュヌヴィエーブは、召集令状を受け取った恋人に「あなたなしには死んでしまう」と歌い続ける。

『シェルブールの雨傘』別れ

これこそ普通の意味で「ロマンチックな愛」として甘味な涙の名シーンとなり、この映画は世界的なヒット作になったわけだ。

むろん実際にはジュヌヴィエーヴは恋人の帰りを待たずに、その子供を自分の子として育てようと申し出たダイヤモンド商ロラン・カサール(マルク・ミシェル)とあっさりと結婚してしまう。

この映画の撮影中の題名は「不貞、あるいはシェルブールの雨傘」だった。

「ロマンチックな映画」(その実ドゥミーにとっては反戦映画であった)として大成功を納めたこの傑作は、その実「ロマンチックな愛」の不可能性を描き出した映画なのである。

ジュヌヴィエーヴの夫となるカサールは、ドゥミーの処女作『ローラ』の主人公である。

彼が恋心を抱く幼なじみのセシル(アヌーク・エメ)は米水兵相手のクラブの踊り子で、芸名はローラ。

彼女は妊娠を告げたとたんに去った恋人を愛し続けており、カサールは最後には諦めて旅に出る。

一方、セシルは財産を築いて帰って来た恋人と再会し、結ばれる。

『ローラ』セシルとアメリカの水兵フランキー

かといって彼女が「恋人に貞節を守って来た」わけでは決してなく、しかし生活のために身体を売っているわけでもないのが、この映画におけるドゥミーの女性像の先進性だろう。

またそれは究極の、世俗の倫理観などは超越した「ロマンチックな愛」の表現でもあったのかも知れないが、ドウミーはその後、富豪となったはずの恋人と渡米したセシル/ローラのその後を、映画化している。

『モデル・ショップ』(1969)抜粋

ここで見せられるのは、「ロマンチックな愛の実現」だったはずのその後の、痛ましい幻滅である。

ラジオ放送で度々明示されるように、舞台はベトナム戦争中のアメリカだ。

戦争から戻ったものの恋人のもとには戻れない自分を抱えた主人公(「2001年宇宙の旅」のゲイリー・ロックウッド。ドゥミー自身は当時無名のハリソン・フォードを希望していた)は、やはり「居場所がない」空気感を漂わせた、今はストリッパーとなったローラ/セシルと、心の交流がない故の心の交流を感じる。

ローラ/セシルのその後の、「ロマンチックな愛」の崩壊の残滓としての人生は、戦争すら目に見えないものとなった人間性の喪失した時代における、愛の不毛、愛の再生すら不可能になった寂寥だ。

『モデル・ショップ』ラストシーン

この映画の終わりに、男に残されたのは「人間は試すことだけはいつでもできる」とひたすら繰り返すことしかない。

ここで一点、あまり指摘されないドゥミー映画に一貫する特徴も指摘しておくべきだろう。

『シェルブールの雨傘』は、アルジェリア戦争の「銃後」のフランスをめぐる物語だ。ジュヌヴィエーヴが信じたはずのロマンチックな愛が崩壊するのは、戦争によってだ。

『ローラ』が映し出すのは、第二次大戦後の、実態は「アメリカ軍の占領下」だったフランスの心象風景である。ここで登場人物たちが「愛」と思い込んでいるものは、戦争によって失われた過去のイノセンスへの憧れでしかない。

『モデル・ショップ』は、ヴェトナム戦争の「銃後」としてのアメリカを強烈に意識した作品である。

ドイツの有名な童話を(英語で)映画化した『ハメルンの笛吹き』では、一方に疫病に対してまったく無力な教会の抑圧的権力と、もう一方に疫病の根絶を研究しようとしたユダヤ人の老錬金術師や、疫病の蔓延する土地を見て来た(教会からは蔑視対象の)旅芸人の一座がある、差別と抑圧を強烈に意識した政治性の強い構図が採用されている。

『ハメルンの笛吹き』(1972)全編

ドゥミー映画はミュージカルが多く、華やかな色彩の洗練された現代風の、いささかキッチュ趣味も交えた様式美が賞賛されがちだ。

それはおよそ「リアリズム」とは、かけ離れたものに見える。

そのせいかまったく無視されがちなのだが、ジャック・ドゥミーの映画は常に明確な社会への眼差しを内包し、純真過ぎるほどの政治意識が明確に、彼の独特のやり方で、反映されたものでもあるのだ。

ドゥミーがその映画で繰り返して来た構図は、社会のさまざまな形での抑圧と、そこに押しつぶされる個人たちの愛や自由の希求、その挫折・幻滅、敗北の悲しみ、そこに徹底して寄り添い、時に冷酷に突き放し全体を見せるものでもある(だから彼の映画は、ほぼ常にフルショットで終わる)。

「社会派映画作家としてのジャック・ドゥミー」と言うと、驚くかも知れない。

だが「ロマンチックなミュージカル映画作家」と一見相反するように見えて、その実ドゥミー映画の本質の核をなしているのは、それがロマンチックな社会派映画であり、それを音楽と華麗で現代的な映像美にのせて演出すること、そのものなのだ。

いわば「政治映画」の文体そのものを革命しようとしていたのが、ジャック・ドゥミーなのかも知れない。

『ベルサイユのばら』(1979)

完全な「注文仕事」とはいえ、日本の人気漫画『ベルサイユのばら』をドゥミーが映画化した際も、結局彼の作家的な関心がもっとも集中したのは、どうみても映画の後半の革命の描写である。

『ベルサイユのばら』革命のシーン

このシーンの演出に明白なように、ドゥミー映画における華やかな色彩の使用は、実はドラマチックな意味づけを伴ったものでもある。

『ハメルンの笛吹き』でも同様だが、色彩は社会階級や「善/悪」に応じて、明確に使い分けられてもいる。

また一見、華やかな様式美に見えるドゥミー映画のスタイルが、あくまで現実の延長として構築されたものでもあることも、『ベルサイユのばら』には如実に現れている。

実のところ、この映画のセットも衣装も、常連の美術監督のベルナール・エヴァンによる極めて綿密な時代考証を踏まえているのだ。

『シェルブールの雨傘』
ベルナール・エヴァンによる主人公の部屋のスケッチ


人気作の『ロバと王女』にしても、一見無邪気なファンタジーに見えるが、その実、シャルル・ペローの童話に様々な現実の、現代のディテールを組み込むその突飛さこそが、おもしろおかしいのだ。

『ロバと王女』、妖精が「近親相姦はダメよ」と諭すシーン

なおこの映画は、シャンボール城(世界遺産)を含めた各所でロケーション撮影されているが、ドゥミーが当初構想した、ベルナール・エヴァンによる美術プランは、高価過ぎたためプロデューサーに却下されている。
これは実現しなかった映画のひつとだが、ロシア革命を背景にしたミユージカル・ドラマ『アヌーシュカ』という企画にも、晩年のドゥミーは相当な精力を注ぎ込んでいた。

旧共産圏の崩壊が起こっていた時代のことである。

『都会のひと部屋』(1982)全編

1982年の『都会のひと部屋』は、そんなドゥミー作品のなかで、未だにもっとも無視されがちな映画だ。

しかしナントの美術学校以来の友人で、主要作品のほとんどで美術監督を務めた、ドゥミーにとってもっとも重要な創造上のパートナーと言えるベルナール・エヴァンによれば、「ジャックのやりたかったことがもっとも完璧に視覚化された作品」である。

またしばしば港町を舞台に選んでいるドゥミーの映画だが、ドゥミー自身の出身地ナントが舞台であるのは、『ローラ』と、この映画だけだ。

『シェルブールの雨傘』で一瞬だけ回想で挿入される、ナント名所のパッサージュ・ポムレイ。ここにはドゥミーが通ったナントのシネマテークもあった。

『都会のひと部屋』のパッサージュ・ポムレイ


『都会のひと部屋』。エディット(ドミニク・サンダ)の夫エドモン(ミシェル・ピコリ)の経営するテレビ販売店は、パッサージュ・ポムレイに設定されている。

『都会のひと部屋』がなぜドゥミーのフィルモグラフィで無視されがちなのだろうか? 

公開当時には、商業的に完全な失敗で、その後のドゥミーは創作の自由がかなり制約されることになる(『アヌーシュカ』は実現出来ず、『パーキング』は人気歌手を主演に採用してもなお予算を削られエヴァンの美術デザインを採用出来ず、イヴ・モンタンの主演ということで『想い出のマルセイユ』が辛うじて実現し、遺作に)。

音楽がミシェル・ルグランではないから、という説明もないわけではないのだが、でも映画の評価なんだから…(それにミシェル・コロンビエの重厚な現代オペラとしてのスコアは、この映画にはむしろ極めて適確だ)。

恐らくもっとも簡単な説明は、まずいきなり冒頭シーンが、「ジャック・ドゥミーの映画」と言われたときに観客も批評家もまったく予想せず、当然期待もしていないような映像だったからではないか?

『都会のひと部屋』冒頭シーン。ナント大聖堂前。

あまりにも見事な、美しいシーンである(そして同じ光景は映画のクライマックスで繰り返され、いわばこの映画の様式的な枠組みとなっている)。

同種のシーンとしてこれほどの純粋さ、美しさ、様式美に到達したものといえば、『戦艦ポチョムキン』くらいしか思いつかない程だ。

と同時に、この見事な労働オペラ演出が、1980年代の観客にとってまったく意表をつくものであったのも、また事実であろう。80年代は、トリュフォーを筆頭に、ヌーヴェルヴァーグの、ドゥミーの同世代作家達が、フランス映画のいわば「王道」の地位を獲得した時代でもある。

「作家主義」の公式化は、一方で個人的な、しばしば自伝性の強い内容で、言い換えれば普通の「個」の生活のドラマの、ストーリーの流れよりは個々のシーンの繊細さの描写に、評価されるべきフランス映画の主題性が矮小化されたことも意味する。

それに対して、『都会のひと部屋』は冒頭からいきなり、壮大すぎるし、物語の構図の大きさも同時に提示されている。

『都会のひと部屋』労働者たち

どうみても「個人映画」の規模ではないどころか、大作オペラの風格である−−言い換えれば、これは時代錯誤にも見えただろう。

デモの場面から、舞台はその光景を自宅から見下ろしていた元女男爵の大佐夫人(ダニエル・ダリュー)に切り替わる。そこにデモのリーダーの一人であった間借り人の男ギルボー(リシャール・ベリ)が帰って来る。

大佐夫人は、デモにギルボーが参加していたことをなじる。「アナーキストを家に置くわけにはいかないわ」

男が間借りしているのは、結婚した彼女の娘エディットの部屋だ。「金目当てにテレビ商人と結婚した」と、大佐夫人(元女男爵、つまり貴族出身)は成金ブルジョワへの軽蔑を隠さない。

労働者階級、ブルジョワジー、貴族。冒頭5分足らずで、ドゥミーは一気に、このドラマの階級的な構図を提示してしまう。

1980年、フランスでは新しい大統領フランソワ・ミッテランの社会党政権が始まる。 
60年代に隆盛を極めた戦後ブルジョワジーの勃興は、ここに終わったのだと、フランス人たちは思っていただろう(そして実際、今のフランスに「ブルジョワ階級」というべきものは、まあ、もうないよね)。 
そんな時代なのに、『都会のひと部屋』は、ある意味であまりに古典的とも言える階級闘争構図をドラマの基盤にしているとも見えただろう。 
この映画がオペラである以上、背景図式を単純化するのは当然の美的選択のはずなのだが、とはいえドゥミーがここで見事な手際で紹介した構図は、60年代70年代の政治映画の潮流から見れば、あまりに図式的で幼稚にも見えてしまうかも知れない。

実はこれはただ冒頭の提示部に過ぎず、決して映画自体がそんなに単純ではないのだが。

『都会のひと部屋』は社会派映画ではあるとしても、極めて抽象化されたそれであり、決して「階級闘争」を直接描こうとしたものでは、まったくないのだが。

これは『シェルブールの雨傘』がドゥミーにとっては「反戦映画」に他ならなかったことにも共通する。

ドゥミーが注目したのは戦争によって直接命が奪われ、生活が破壊されることではなかった。

ロマン主義者が人間のもっとも純粋なあり方として称揚した「愛」が、現代の戦争によっていかに不可能なものとなってしまったのか。

『シェルブールの雨傘』は直接の戦争の被害がないかに見える「銃後」にも、人生そのものを破壊される悲劇があったこと…いや、それが悲劇にすらなり得ない苦いものであることを描いた映画でもある…

−−というか、ドゥミー自身にとっては、それこそが本質だったはずだ(本人が「これは反戦映画である」と度々繰り返している)。

ある意味でその「対局」にあるファンタジーが『ロシュフォールの恋人たち』だ。 
ブラトンに遡る「純愛」の伝説、世界には大昔に離ればなれになった自分の分身に近い「愛の対象」がいて、それと運命の出会いをすることこそが究極の恋愛である、という神話性が、このドゥミー作品でも最もファンが多いであろう映画の、プロットの基本である。 
『ロシュフォールの恋人たち』 ほとんど冗談のような出会いの連続

なおよく見れば、ドゥミーの演出は必ずしもその神話を全面肯定してはいない。むしろかなり皮肉な、距離を置かせる要素は、たびたび介入しているのではあるが…。


だが『シェルブールの雨傘』が実は戦争を告発する映画であると意識した観客はあまりいないであろうのと同様に、いやむしろ真逆の構図として、ジャック・ドゥミーが「階級闘争」を冒頭に押し出した映画が、拒絶されるのは、ある意味当然だったのかも知れない。

とはいえこの表現が「時代錯誤」に見られたであろう製作当時から30年後、今見直すと、この冒頭の10分間だけでも、あまりに見事な映画演出の集中力であることに、感嘆せざるを得ない。


…っていうか、あまりにも一瞬一瞬、すべて「ドゥミー印」ではないか…。



10/04/2012

トルコで『無人地帯』を上映して来ました

前項でも触れた通り、トルコの地中海岸に近いアダナ市で、『無人地帯』を上映して来た。

市行政の主催で、映画祭のポスターには市長をあしらったものも多く、そしてトルコにはそこらじゅうに、共和国の建国の祖であるアタトゥルクの肖像が飾ってある社会でもある。

そんな映画祭なので、宿泊先はアダナでたぶん最も高価なのであろうヒルトン・ホテル。

大変名誉ある、歓迎されまくりの「国外からの賓客」扱いである。

その高級ホテルから、通りを挟んだ反対側が、クルド人やシーア派も多いというスラムなのだから驚く。


このホテルはトルコの工業系財閥のサバンジが、繊維工場の跡に建てたものなのだそうで、だからどちらかといえば貧しい地域にあるのも分からなくもないとはいえ、目眩がするような格差が目の前にある。

アダナ地方は、かつては地中海沿岸でも有数の綿花の産地だった。

今はヒルトン・ホテルになっている工場も、その綿花生産を前提にしていたのだろう。

だが過去10数年のあいだに、綿花の生産は経済的に割が合わないために縮小が続き、工場も廃止され、そしてそこに国際フランチャイズの豪華ホテルが建っているわけだ。


こうして経済発展を続け、軽工業から重工業へと舵を切ったトルコは、現在、原子力発電所の建設を計画している。

その立地のひとつがこのアダナ市の近郊なわけで、ここで上映できることの意味は大きいだろう。

この5年くらいで、アダナの人口は2倍だか3倍に膨れ上がったそうだ。

新たな生活や仕事を求めて、田園地帯から都市に移動して行くことは、この国でも起こっている。あまりに急激な都市の人口増加に、インフラ整備もなかなか追いついていない。

中心部の旧市街から少し外れると、高層アパートが立ち並ぶ、その構造は、日本に比べれば湿気があまりないこの地域とはいっても、エアコン、つまり潤沢な電力供給が確実に必要だろう。



一方で、そんなモールのすぐ側に、スラムが広がっていたりする。

映画祭での上映後の質疑応答でも、アダナ郊外の原発計画のことは話題になった。

福島の原発事故を経た日本人として言えることは、「原発が出来るともの凄く便利になるように思えるかも知れない。でもだからこそ始めてしまえば、絶対に止められないことをよく考えた方がいい」だった。

原発の安定電力供給に依存した社会システムにしてしまうと、そう簡単に変えられないまでに生活がそこに浸り切ってしまうのだ。

たとえば、日本は典型的な24時間型の先進国である。これは深夜の電力が安いことの結果でもある。 
日本の深夜電力が安いのは、原発の存在を前提にしているわけで、原発はコンスタントに同じ量の電力を出力し続けることしか出来ず、電気が溜められない以上、その生産された電気は割引してでも使ってもらわなければならない。 
その割引の電気料金で成立しているのが、たとえば東京や大阪のような大都市ではもう生活に不可欠になっている24時間営業のコンビニであり、そのコンビニのある便利さを前提にしている我々の生活だ。 
昨年の震災と原発事故発生の後、ほとんどの原子炉が停止していても、この営業形態を変えようという話は出て来ていない。 
「原発をすぐ止めろ」と主張する人たちですら、原発による安定電力供給を前提にした24時間型の社会を変える話はしない。 
テレビの深夜番組、24時間放送も、どれだけ視聴率が稼げているか怪しくとも、止める話はない。 
昼間の、夏場なら電力消費ピークになる1時から3時代だって、見る人は少ないんだから止めていいじゃないか、有益な節電アピールになるじゃないか、と思えるのだが。

現在、日本では関西電力の大飯原発の3号4号炉以外の原子炉は、まだ停止している。「それでも電気は足りているじゃないか」と言うのは、停電が実際には起こっていないので、一見説得力がある。

…というのも、我々の生活に直接影響がないからだ。

これは日本企業の独特の倫理観とでも言うべきだろうか、「一般のお客様」には絶対に迷惑をかけないことだけは、驚くほど徹底している。

だから渋谷や新宿にでも行けばネオンは煌煌と輝いているし、昼間でも商業施設内は冷房で寒いくらいだ。

一般家庭の節電努力に至っては、統計を細かく取るのも大変なのだろうけど、効果が公表すらされていない。東京電力から来る「お願い」は、「節電のお願い」よりも「料金値上げのお願い」の方が印象が強い。

実は火力発電を大量に増設し、従来の火力発電所も合せてフル稼働させているからだ。

首都圏では誰も気にもしないが、福島浜通りに行けば、広野町の火力発電所(福島第一からほぼ20Km)はフル稼働中だ。 
東京電力管内で昨夏も今夏も停電を免れたのは、もの凄いスピードで火力発電ぶんを増加させたことがひとつには大きい。 
ただ化石燃料を燃やす以上、発電の直接コストは上がる。 
原子力のように間接コストを帳簿上安く見せかけるようなことは出来ないので、帳簿上、目に見えて上昇するわけで、値上げに関しては現代の資本主義の理論では「やむを得ない」として受け入れる他ない。 
かといって、じゃあ電気代が高いからお財布を気にして節電を、というインセンティブが働いているとも思えない。 
そりゃ不便だし、現代の気密性の高い建築では、夏場はひたすら暑いのだから、仕方がないのだが…。

もう一点、停電が起きない大きな理由、電気が一見足りているように見える理由は、製造業を中心に、大規模需要口に厳しい節電義務を課しているからだ。

製造業の現場−−これも我々「一般のお客様」の目には触れないところだ。

昨年も今年も、10%とか15%とかの相当に厳しい節電義務を、製造業は乗り切って来た。

そのおかげで我々は「電気は足りているではないか」という幻想を抱けるのだが、このやり方ははっきりいえば、二、三年の我慢を前提に、とりあえ急場しのぎで、多分に無理のある我慢を耐えていることでしかない。

この程度の「節電計画」や「代替エネルギー政策」も準備していない、ということは、政府やこの国を左右する力を持っている者達が、原発事故へのリアクションは二、三年の一過性のものであって、国民世論もすぐに忘れるだろう、それまでの辛抱だ、としか思っていないことを示してもいるだろう。

そしてその政府の読みも間違っていないだろう、残念ながらそう思う他はない。

コンビニの営業形態を考えるとか、テレビの放映時間とか、直接に生活を左右するわけでは実はないものを変えることですら、我々「一般のお客様」たち自身が考えもしないで、しかし問われれば機械的に「いや、原発はやっぱりやめるべきですよ」と口だけは言う。 
経済産業省が一般意見を公募したのだって、こういう現実が前提にあってのことだろう。その結果を受けた2030年には原発ゼロというのも、閣議決定や国会での議論を経るわけでもなく、つまりなんの拘束力もないままのアドバルーンでしかない。 
野田首相は「党が決めたことですから」と目指すフリをしてみたり、その数日後には撤回したり、とまるで一貫性がない(それにしたって話を変えるにはあまりに早過ぎると思うが)。

政府の無責任を責めるのは簡単だ。

だが本当は、我々の社会の、我々「一般のお客様」自身が、2030年までに原発をどうやったら止められるのかなんてなにも考えていない以前に、考えたくないのではないか。

製造業が2、3年辛抱すれば、あとはなし崩しで元に戻して行くことを、我々自身が潜在的に期待していないと、果たして言いきれるだろうか?

こと都市部では、我々は原子力の電気がある生活に、すっかり慣れ切ってしまっている。それを変えたくないから、慣れ切ってしまっていることにすら無自覚であろうとばかり頑張っている。


だからこそ、原子力に手を出す前に、トルコであるとか、あるいは11月にはイランとタイでの映画祭での上映が控えているのだが、発展途上国の人たちはもう一度真剣に考えた方がいい。

始めてしまっては手遅れだから、いったん原発に依存してしまった社会は、そう簡単には変えられないのだから。

…と理屈では言えるものの、目の前にスラムと冷暖房完備のモールや高級ホテルが隣接しているような現実や、インフラ整備の遅れを見てしまうと、それでも原発に手を出すのはやめた方がいい、とはなかなか言えない気分にもなるのである。

「この貧しさを見ても、それでも万が一の原発事故のことを語るのか?」と言われて、反論出来るだろうか?

でも、こうして悩むべき課題を突き付けられるからこそ、『無人地帯』という映画を作ってよかったとも思うのだ。

率直に言えば、この映画に出て来る福島浜通りや、あるいは飯舘村の人々、農村であるとか漁師の人々と比べて、原発の電気の恩恵に40年間浴し続けた我々東京の人間は、より幸福だったと言えるのだろうかと、考え始めるのだ。

物質的に我々は豊かになった。それは間違いない。

だが心の問題はどうだろう?



アダナの旧市街も、どちらかと言えば貧困層が多い地域だ。たぶん我々が参加している映画祭などには、ほとんどなんの縁もない。

だがそこで働いている子どもたちでさえ、人懐っこくて親切で愛嬌がよい。明らかに兼ね持ちそうな外人が写真を撮ると、むしろ喜んで写ってくれたりする。


果たして日本の今の子どもたちより「不幸」だとは、断言は出来ないと、思うのである。

もちろんトルコの人々、あるいはこれから行くイランにせよタイにせよ、あるいは8月に行ったブラジルでも、お隣の中国でも、その国の人々が「豊かさ」を求めるのは、それ自体は正しいことだ。

だが果たして我々のような「先進国」がその「豊かさ」の唯一のお手本なのかと言えば、それは絶対に違うと思う。


10/03/2012

テオ・アンゲロプロスのこと

今年の1月に急な事故で亡くなったテオ・アンゲロプロスについて、夫人であり製作も手がけて来たフィービー・エコノモプロスにたまたま会う機会があり、やっと真相を詳しく知ることができた。

トルコ第3だか第4くらいの都市、シリア国境にも近いアダナ市で行われたアルティン・コザ映画祭に『無人地帯』が招待されたのだが、同映画祭ではアンゲロプロスの追悼として『霧の中の風景』もフィービー夫人の立ち会いで上映されていたのだ。

なにしろゲスト対応がいい…というよりも映画そっちのけで海外ゲストは連日観光に連れて行ってもらえるという不思議な映画祭で、地中海まで海水浴に行くツアーの最中に、親しく話を聞いたわけなのだが、ところでフィービー夫人の髪型は、『永遠と一日』のヒロインにそっくりである…というか地中海岸のレストランのテラスで食事、となるとほとんどこの映画のワンシーンにすら見えて来てしまう。


実は「テオはあの映画があまり好きではなかった」という。

マルチェロ・マストロヤンニが元々は『蜂の旅人』と『こうのとり、たちずさんで』に出ているあいだにギリシャ語をほぼマスターしてしまったことが前提にあって書かれた企画なのが、マストロヤンニに末期がんが見つかり、出演が出来なかったこともあるのだろう(なおマストロヤンニは亡くなる直前まで舞台でイタリア全国を回り、アンゲロプロス夫妻もその最後の方の公演を見に行ったという)。

ブルーノ・ガンツはギリシャ語が出来ず、その声は吹き替え、ところが主人公の詩人の述懐がナレーションとして重要な意味を持つ映画なので、というのもあったことはあった。

だがフィービ夫人が言うには、決定的に大きな理由は「あまりに私的な映画過ぎたから、気に入らなかったのではないか」だという。ヒロインが妻である彼女にそっくりであることも、この映画が私的な作品であることを強く示唆している。

『永遠と一日』は「死」をめぐる映画である。

『永遠と一日』時空を超えるバスの場面

これ以前のアンゲロプロス作品にも「老い」が重要な主題として起ち上がって来る作品はあった。まさにマストロヤンニ主演の2作品がそうであり、『シテール島への船出』もまたそうだ。

だが「テオはそれまで、死と言うものを直接体験したことがなかったから、想像がつかなかった」のだとフィービー夫人はいう。

それが『ユリシーズの瞳』の撮影中、サラエヴォの映画博物館館長役で出演していたジャン=マリア・ヴォロンテが急死するという出来事があった。それもホテルの浴室で、浴槽のなかで亡くなっていたのを最初に見つけたのは、アンゲロプロス本人だった。「あの時に初めて、テオは『人が死ぬ』とはどういうことなのかを理解したのよ。それは大変なショックだった」。

「アンゲロプロスは必ずしも、他人の痛みについて直感的な理解があった人ではなかった」とも彼女はいう。それがジャン=マリア・ヴォロンテの死は、死体を見ること自体、初めてだったという。

『蜂の旅人』

映画祭で追悼上映された『霧の中の風景』についても、思いもよらぬ逸話を教わった。

「テオは子供に寝物語を聞かせるのが苦手だったのよ」。

二人の娘さんが幼かったとき、彼はそもそもおとぎ話をあまり知らない上に、勝手に話を変えてしまうのだそうだ。「子供はいつも同じ話を聞きたがるのに、彼は同じ話が出来なかった」。

そこで一念発起して、子供のための、子供が主人公の物語を作ろうとしてトニーノ・グエッラに相談して出来上がったのが『霧の中の風景』の姉と弟の物語なのだという。

しかしラストがあまりに悲しいので、子供が泣いてしまう。そこであのラストシーンが付け加えられたのだとか。

『霧の中の風景』ラストシーン

そしてそのアンゲロプロスの未完の遺作となった『もうひとつの海』と、その撮影中の彼自身の死のことである。

「残念ながら、これがどんな映画になったのだろうか、他人が想像するのは難しい」という。

撮影は三週間目に入っていたが、正味にして10分ぶん程度しか素材はないという。「アンゲロプロスはこの映画で実験を繰り返していた」その実験のために、この三週間のほとんどが費やされたという。

メインのセットになったのは、主人公の住居である、海岸に建つガラス張りの邸宅だった。

壁面がほとんどなくガラスで囲まれた空間には、多重に反射・映り込みがあり、それを含めて二重三重のガラス越しに撮影してみたり、海を行く船が遠景に見えたり…

「最初はイタリア人俳優(トニ・セルヴィーノ)のスケジュールのことがプレッシャーだった。しかしある日、彼はそのことを心配するのをやめて、実験を始めた」のだという。

撮影に用いたのはアリフレックス社のALEXA、デジタル撮影だ。デジタルではフィルム撮影と質感や映り方が微妙に違う。とくにガラス面の反射の見え方に、アンゲロプロスは興味を持ったのだという。今残っているラッシュのほとんどはその実験の断片であり、部外者が見て意味が分かるものではない、とフィービー夫人は言う。

「ワンシーンだけ、典型的なアンゲロプロスと言っていい、曇天の屋外の長廻しのシーンがあったわ。しかしそれは、テオが亡くなった直後、機材を返却する際に助手が誤って消去してしまったの。『リハーサルだと思っていた』らしいわ。これが残っていれば、まだ公表しても意味があったと思うのだけれど」。

それが問題の、アンゲロプロスが非業の死を遂げた撮影でもあった。

報道されたのは、撮影現場に向かうため道路を渡っていた際にオートバイに刎ねられたということだけ。どんな状況なのかさっぱり分からない。

実は、これは6車線の高速道路を挟んだシーンだった。一方にはクレーンに載せたキャメラがあり、道路の反対側に俳優たちがいて演技をする。

監督がいるのは基本、キャメラがある側だが、演出指示を出すために頻繁に往復していた、その度に高速道路を徒歩で渡っていたのである。「もちろん一人では危険だから、若いスタッフが誰か必ず付き添うことにしていた」。

なにしろアンゲロプロス自身が、道路を通行止めにしたりはせず、本物の交通を利用してそのひっきりなしに車がリアルに行き交う道路越しに撮影することを望んだのだというのだから、これはもうやむを得ない。

事故が起きたのは、インターンの若者が付き添った時だったという。若者の方が途中で転んでしまい、先に歩いていたアンゲロプロスはそれに気づいて立ち止まったのだという。

高速道路と言えども、前に人が立っているのを見れば避けることは出来る。みだりに慌てずに立ち止まるのは普通なら、正しい判断だ。

ところが日没の前後のことであり、しかもオートバイを運転していた非番の警官は、どうも道路脇に置かれた撮影用のクレーンに気をとられてしまっていたらしい。取り調べの証言では、記憶は定かではなかった。

妻であり、長いあいだ彼の映画のプロデューサーも努めて来たフィービー・エコノモプロスが、今悔やんでも悔やみ切れないのは、その時彼女が撮影現場にはいなかったことだ。到着したのは、事故の20分後のことだったという。



「アンゲロプロスは必ずしも、他人の痛みについて直感的な理解があった人ではなかった」ということについて、もうひとつ逸話がある。

カンヌ映画祭60周年記念の短編オムニバス『それぞれのシネマ』で、アンゲロプロス編はジャンヌ・モローが映画館に亡きマルチェロ・マストロヤンニの面影を探す詩的な一遍となったが、これは当初の構想ではなかった。

実は日本で撮影し、それも大島渚の『儀式』の上映に若者たちが集まり、上映後に大島がその前に現れるという構想だったのだ。

    
Theo Angelopoulos - Trois minutes 『それぞれのシネマ』テオ・アンゲロプロス編「三分間」

大島が二度目の脳溢血の発作で倒れていたことは、アンゲロプロスも知っていた。撮影当日まで、彼は大島に会うこともできず、車椅子の大島を妻の小山明子が押して出て来る、という動きが決められていただけだった。

ちょっと考えれば、大島が人前に出られるような状態では必ずしもないことも、想像が及んだはずだろう。事前に会えないというだけで、これはやめた方がいいかも知れないと思ったはずだ。

だがアンゲロプロスはそのことを、まったく考えてすらいなかったのだという。それだけに、その大島の姿も、彼には大変なショックだった。

『こうのとり、たちずさんで』

それにしても、アンゲロプロスにとって盟友でもあった大島渚が倒れてもう10年以上、映画を撮るどころか、大島渚として何かを語ることも難しい状態のまま、大島はそろそろ生誕80年を迎える。

それに比べて、アンゲロプロスは、『こうのとり、たちずさんで』以降の最大の野心作であり、新境地を切り開いた可能性の高い新作の撮影の真っ最中に、唐突に亡くなったわけである。

まさに現役の映画作家として、その創造のエネルギーのみなぎった最中に。それは映画作家にとって、もっとも望むべき死に方ではないか、とすら思える。

「その方がテオの死に方として、幸福だったのかも知れない、と考えることもあるわ。でも私には、まだ彼がいないという現実すら受け入れられない。マストロヤンニもいないし、そしてテオの死からしばらくして、トニーノ・グエッラも亡くなってしまった」

今、フィービー・エコノモプロスは亡き夫の全作品のきちんとした回顧上映のために、痛んだフィルムは新しいプリントを作り直すなどの仕事に追われている。

ギリシャの経済危機のなか、決して楽な仕事ではない。

9/05/2012

竹島領有権問題で、日本が勝つことはあり得ない

韓国の李明博大統領が竹島(韓国名・独島)を訪問して騒ぎになってまもないなか、一週間ソウルに滞在して来た。

無論これ自体は不人気に苦しむ政権末期の、それも「在日二世」のアキレス腱を抱える氏の、分かり易いパフォーマンスでしかなかったわけだし、この状況だから反日感情が…だなんて気にすることはない。

夏休みの観光シーズンのなか、ソウルの名所には日本人観光客が大勢訪れ、万事平和だし、僕は李さんのことより、与党の次期大統領候補が朴正煕の娘であることの方がよほど気になって、韓国の若い女性たち相手に、こればかり口走っていた。

「お年寄りが好きみたいなんですよね、うちの父とか」と若い女性たちの多くは呆れ気味。独裁者の父の七光り、言ってる中身は中身がないし、だいたいファッションセンスもダサ過ぎるし。

ソウルの前に、先月初旬にブラジルのサンパウロに行った際に、旧日本兵であった韓国人移民のキムさんに出会った。


ニューギニアで多数の死者を出したソウルが拠点の自分の師団の顛末を調べあげ、朴正煕の政治腐敗で恩給支払いどころか、その存在すら日本政府が認めないことに、強い怒りを持ち続け、現代の韓国も許せない、と思って生きて来た、今は独り暮らしの老人だ。

キムさんとは、朴正煕と岸信介は悪いやっちゃ、という話で盛り上がったこともあり(なにしろ自民党政権と癒着し、恩給も個人賠償(というか要は未払い給料や労災等)も一切チャラ、という話にしたのが朴正煕だ)、その娘の、なんら政治的な定見すら持たないいいかげんな保守が、「韓国初の女性大統領」とはちゃんちゃらおかしい、と頭に来ているのである。

とはいえ話題の竹島問題、野田政権は国際司法裁判所に共同提訴を韓国に呼びかけ、断られれば日本の単独提訴も辞さない、という態度だ。

国際司法裁判所の権限の制約から来る手続き上の問題(主権国家どうしの係争の裁定機関なのだから、国連機関で世界最高峰の国際法司法の権威と言えども、その主権を侵害する強制力はない)、公式には「独島は韓国領、領土問題など存在しない」と表明している韓国政府が、「存在しない領土問題」で提訴するのは論理矛盾なのだし、断るのは当たり前の話なのだが、それを「韓国けしからん」世論に吹聴する、あまり基礎知識のないマスメディアもあり、今まで共同提訴の拒否で話を終わらせて来た日本政府が、今度は単独提訴も辞さない姿勢だ。

単独で一方的に提訴した場合、韓国側には拒否した説明責任が生ずる。

ここで「そんな問題はないのだが、では日本の誤解を解くために裁判に出よう」と韓国側が言い出しそうな気配もあり、ちょっと興味を持って調べてみた。

日本政府の見解は「竹島が日本領であることは国際法上明らかだ」である。

だから裁判になれば日本が勝てるのに韓国が逃げている、というメディアの論調も、まああまりに幼稚な話だ。先方だって同じくらい法的な根拠は当然準備するし、だから双方それなりの正当性の理論武装が双方にあるのは分かり切った話だし、裁判はお互いの「正当性」のぶつかり合いだ。日本政府の見解が「国際法上明らか」だから国際司法裁判所の判事も同意する、なんてほど生易しいはずはない。

僕は韓国語(朝鮮語)は分からないから先方の根拠を検証するのも無理だ。

だからとりあえず我が外務省の見解を、今まで「国際法上明らかだ」とは聞いていたものの、どんなものか調べてみたわけである…

…と言うところで、椅子から転げ落ちてひっくり返るほど驚いた。

外務省のいう「国際法上、竹島は日本領」の根拠は、もっとしっかりしたものだと思っていた。なんと言ったって、優秀な外交官たちは、国際法だってよく知っているはずなのが…

ところがその第一の主張が、なんと中学生の社会科の知識であっけなく論破される話なのだ。そんなものが「最大の根拠」だと言うのだ!

外務省の言う、竹島が日本領である最大の根拠とは…

…サンフランシスコ講和条約でそう決まっている、というのだ。

なんなのだろう、この子供騙しの「大本営発表」は?

同講和条約の締結国に、交戦国ではなかった韓国/北朝鮮は含まれてないではないか。

締結していない国には、条約の直接の遵守義務なぞ、あろうはずもないのが、言うまでもなく国際法の常識だ。

署名もしていない契約書で金を払わされるなんてことがないのと同様の、当たり前の社会常識だ。

韓国は別個の和平なり講和なりの国交回復条約が必要だった相手であり、またサンフランシスコ講和条約の締結国ではない韓国に、その順守義務は当然ながらない。

その日韓関係を原則拘束しない条約が…日韓の領土係争で日本領と主張する根拠?

だってそれ、原則サンフランシスコ講和条約の適用外だろう?締結国でない韓国には、遵守義務がないのだから。

65年締結の日韓基本条約は確かにサンフランシスコ条約を踏まえてはいる。とはいえそれは「想起する」という極めて曖昧で拘束力の弱い話であり、領土規定の詳細を左右するような話ではない。要は日本が半島の領有権を放棄して韓国の主権を認める、極東国際軍事法廷の判決を受け入れる等々、という程度の理念的な話だ。

また65年の条約で明記されない以上、52年の李承晩ライン(竹島の実力占拠)は法の不遡及により、対象にならない。

いやそんな条約の効力の範囲以前に、サンフランシスコ講和条約には決して、同条約で戦後日本の領土を確定させるとは書かれていない。

領土に関しての条文は、あくまで「日本がこの条約で放棄する領土」だ。

これが唯一単独の日本の戦争の講和条約ならともかく、まだ「戦前の領土 マイナス 放棄する領土 イコール 戦後の日本」と言いきれる段階でなかったことは、子供にだって分かる。

これで戦後処理が完了するならともかく、韓国も北朝鮮も、交戦国だったソ連も締結国でなく、中華民国はすでに台湾に逃れていた時代なのだし、最大の交戦国であり最大の戦争被害国を継承/代表する中華人民共和国もそこに含まれない。

これらの国との講和が実現しない限り、日本が敗戦により放棄すべき領土は、確定するはずがない、というのがごく当たり前の国際法解釈だ。

そんな常識をひっくり返すような非常識な恣意的な解釈のどこが、「国際法上、明らかに日本領」なんだろう?

この眉唾な話になんとか説得力を持たせようとしてなのか?外務省のサイトはわざわざ、こんなページまで設けているのだが…

  外務省 「サンフランシスコ講和条約における竹島の扱い」

どうか読んでますます驚かないで欲しい。

要は「アメリカが竹島を日本領とするために、韓国の要請を断ったのだから、竹島は日本領なのだ」としか書いていない。

アメリカがどうしたと言うんだ?「日本の竹島領有は明らか」なのは国際法上じゃなかったのか?

これまたご丁寧にも、韓国の、日本に竹島も放棄させるようとの要請を断った国務副長官名義の韓国大使への書簡を、わざわざ「ラスク書簡」(ラスクとは当時の副長官の名)と題して、原文のPDFまで載せているのだから笑える。

たかがアメリカの一官吏の手紙にこれほどの権威付けを求めるのは、独立国として正気の沙汰ではない。

日韓という二つの主権国家の問題は、アメリカが宗主国の植民地か属国でもあるまいし、同国が口出しすべきことではない。

また外務省がご大層に「これぞ日本領の証拠」と言わんばかりに奉る文書が、竹島を日本が放棄し韓国領となるべき土地と認めない根拠とは、

ドク島、または竹島ないしリアンクール岩として知られる島に関しては、この通常無人である岩島は、我々の情報によれば朝鮮の一部として取り扱われたことが決してなく、1905年頃から日本の島根県隠岐島支庁の管轄下にある。この島は、かつて朝鮮によって領有権の主張がなされたとは見られない (外務省訳)

と、言うことに過ぎない。

なのに「これらのやり取りを踏まえれば、竹島は我が国の領土であるということが肯定されていることは明らかです」と外務省は主張する。

「一体どこが?」と呆れるしかない。

わざわざこれが将来に渡って拘束力を持ち、アメリカに責任が派生することを防ぐため、「我々の情報によれば」と限定を明記した話でしかない上に、1905年の日本による領有宣言もあえて記述せず(つまりその権限は認めず)「1905年頃から日本の島根県隠岐島支庁の管轄下」と、これまた極めて遠慮した話だ。

つまり「朝鮮によって領有権の主張がなされたとは見られない」と言うのなら、この「ラスク書簡」は実は日本政府が公式に領有を主張したことも、認定していないのだ。

またなんでもこの「我々の情報」とは、ワシントンDCで調べただけのことに過ぎないらしい。当時日本を占領し、韓国には米軍が国連軍として駐留していたというのに、現地で文献調査すらしていない。

そしていずれにせよ、しょせんは、アメリカの見解に過ぎないものが、である。

「アメリカが肯定している」から「日本の領土であることが明らか」になるわけがないだろうに。しかもアメリカ一国の見解に過ぎず、「国際法上」ではまったくない。しかもこの文書の文明自体、極めて遠慮がちで、要は「巻き込まれたくない」という意思表示と読解するのが、外交の常識だ。

これがいったいなんの根拠になるのか?「とりあえずアメリカとしては韓国領とはみなせない」という見解表明に過ぎないものが、外務省が「日本が放棄する領土」の条文を「日本の領土を決める」と無理筋に読み替えるという解釈の説明もなしに、決定的な証拠だとでも言いたいらしい。

これで「国際法上、明らかに日本領」とは、国民を愚弄するにも程があるよなぁ。またマスコミもよくもまあ、こんな話を鵜呑みに出来るものだ。

外務省が主張する第二の根拠は、江戸時代には日本人が渡航していたことが確認されることだ。

とはいえ、これだけでは韓国側の領有を否定する根拠にはならないのは言うまでもない。

たまたま記録が紛失しているか、記録自体が作られていなかったかも知れないにせよ、竹島/独島の位置関係からすれば、日韓の両岸の漁師が漁場や漁船の避難所にしていておかしくない。

韓国側で調べれば、沿岸部の漁村を歩けば地元の伝承など、独島に行っていたか、その存在を認識していた痕跡は見つかるだろうし、見つからなかったからと言って「存在しない=行っていない」の根拠とは言い難い。

今は見つかってない史料が今後出て来る可能性だってあり、国際司法裁判所としてはそれだけで「明らかに日本領」と言ってしまって、あとで新資料発見で間違いと分かっては困る。

ところがさらに外務省のサイトなどを頼りに調べて行くと、なんと朝鮮人が竹島に来ていたことを示す史料が、日本にあったのだから恐れ入る。1952年当時のアメリカ国務省は、いったい何を調べて「我々の情報では」と言ったのだろう?

他ならぬ明示の日本政府の公式文書、1877年の太政官令である。

そこには「竹島外一島(竹島と、その近くの島ひとつ)」に「朝鮮人の居留する」と明記されているだけではない。

だから「竹島外一島」は日本領ではない、と言っているのだ。

また元禄時代にも、同じ理由で、日本人の渡航禁止が、朝鮮通信使との折衝の上、幕府から出されていることも、この太政官令では補足の根拠として書かれているのだ。

1877年以降、ここは日本領ではない、と日本政府が言っていたことになる。

その理由が朝鮮人が居留/渡航するから、では、要するに1877年の時点で日本政府が竹島を朝鮮領だと認めていたという話だ

なお地名が時代とともに変わっていて、この場合の「竹島」は現韓国領の鬱陵島、「外一島」がその近くの岩礁、今でいう竹島だ。他にこの海域に、ここでいう「外一島」に当りそうな島はない。まともな歴史家は「これが今の竹島だ」と推論するし、異論の余地はなさそうだ。

外務省はこれをどう説明する気なのだ?「竹島が日本領であることは国際法上明らかだ」ではなく、真逆ではないか。

…というところでまた驚くのである。

外務省によれば、これは「架空の島」なのだそうだ。



(ここでしばらく、思いっきり笑って下さい。笑うしかないこの不条理)



そうでなくとも、率直に言って、僕は国際司法裁判所にでも持ち込めば、日本の領有正当化は難しいと思っていた。

1905年以前のことは結局、ほとんど争点にならない、出来ないだろう。

どっちの岸の漁民や船乗りが、より多く、あるいはより以前から、この海域と無人島を使って来たか、最終的に判別がつかないのだから。

先述の太政官令の話の通り、歴史記録は当時の測量技術の限界からして地図の不正確さの疑いもあって怪しい話だし、どちらが先にこの島に来ていたかなんて、確認しようがない。

資料がないからというだけでは「行っていない」と断言はできないし、今見つかってない史料があとで見つかったからって国際司法裁判所の裁定を覆せない以上、それこそ日本が1877年の自国の公文書を「架空の島」と言ってしまえるような確度のものを、国家の主権に関わる重大な裁定の根拠にはしにくい。

となれば、最大の争点は日本が閣議決定で竹島の領有を決めた1905年、日露戦争があり、半島と日本の関係では、第二次日韓協約が結ばれる前後のことだ。

言い換えれば、李氏朝鮮はすでに日本の属国、1895年の日清戦争と下関条約以来の日本の進出と植民地化圧力、このいわばゆるやかな侵略行為の一貫としてこの領有が宣言され、6年後の日韓併合に至ったという一連の歴史的・政策的流れの文脈から外して考えるのは、相当に難しい、無理筋な解釈だ。

植民地化の一貫だという解釈を排除する積極的な理由を僕は知らないし、外務省もなにも言っていない。

先述のアメリカの見解に至っては、あたかもこの領有に問題があることを匂わせるかのように、「1905年頃から日本の島根県隠岐島支庁の管轄下」とのみ記している。

最低限、日本が領有を宣言した際に、同じ島の領有を主張する可能性のある李氏朝鮮が、対抗して自ら領有を宣言できる状況にあったかどうかが疑わしいし、少なくとも圧倒的に不公平であるだけでも、国際司法裁判所としては法的に問題があると判断せざるを得ないだろう。

韓国側代理人の戦略は、シンプルで目に見えて明らかなものだが、だからこそ証拠としては確実だ。下関条約と第一次、第二次の日韓協約を証拠申請し、歴史学者を証人に招けば、一発だ。

日韓協約下の日本と李氏朝鮮の関係、日韓協約がどう運用されていたかを証言させれば、日本には勝ち目がない。

僕が韓国側代理人であれば、わざとここで日本人の歴史学者を承認申請することだって考えるほどだ。まともな学者なら、これが強圧的な属国化のなかで行われたことを、証言するしかない。

ここで「法の不遡及」とか言っても無駄だ。このような不公平さは、どんな時代の法論理でも、許容されない。

しかしもっと怖いのは、韓国側の代理人が、当然ながらこれを「日本の半島植民地化の一貫の侵略行為」と主張することだ。

だいたい、日本以外のどの国から見ても、普通にそうとしか見えない歴史の流れだろう。

…となれば、これは「竹島の領有権」を争う裁判ではもはやなくなるし、韓国側代理人は当然その流れに裁判を誘導するだろう。

それがいちばん確実に勝てる方法なのだ。その手を使わない裁判闘争なんてまずあり得まい。

どういう裁判になるかと言えば、「日本の植民地支配の罪を裁く裁判」だ。

これが韓国側の必勝の裁判戦略であり、日本側にそれを阻止する理論武装があるかといえば、まず聞いたことがない。

外務省はどうするつもりなのか?野田さん本気でやるつもりだぞ?

ここで橋下徹大阪市長あたりの、いわゆる「愛国的」な主張が大好きな自称・保守政治家が出て来てしまったら、もう終わりだ。

彼らは平気で、たとえば「日韓併合は李氏朝鮮と合意があったから違法ではない」とか言い出すに違いない−−後先も考えずに。

それをやったら日本の自爆行為なのに。

ことは竹島問題に留まらなくなるのに。

韓国側は待ってましたと言わんばかりに、日韓併合がいかに力づくで形だけの「合意」を偽装したものであったかを立証するし、その結果として朝鮮半島で何が起こったかを、裁判でとり上げさせるだけでなく、世界のメディアにも報道させるし、メディアの側も喜んで飛びつくだろう。

従軍慰安婦問題を、米の現職国務長官が「性奴隷」と明言したことすら、必死でメディアが無視する日本国内では、その自覚がないのだろうか?ある国が違法で非人道的な人権侵害、それも極めて恥ずかしい「性奴隷」を、国家権力の行使のなかで行っていた、ということなのだが…。

サンパウロのキムさんたちのような無視された韓国人の日本兵の話も出るだろうし(ソウル駐在の第20師団が贈られたのは、日本陸軍でもっとも悲惨な戦線であったニューギニアである。戦病死、餓死。人肉食事件もあった)、李大統領が竹島訪問の前に問題解決を日本に要請している、従軍慰安婦問題も、むろん取り沙汰されてしまう。

これは「竹島問題で不利」どころではない、日本に決定的なダメージを与える話だ。

戦争犯罪や植民地支配は過去の話だ。現代に生きている日本人である僕たちに、直接の責任はない。

しかしそうした過去の問題にどう向き合って来たかは、現代の日本の責任だ。

日本政府は、日韓基本条約をタテに(まさにキムさんが怒っているように)、個々人の被害者への補償を、一括して朴正煕政権への経済援助にしてしまい、以後個々人の賠償請求訴訟がある度に、日本の裁判所は「請求権がない」を理由に、事実の調査も事実認定もないまま、門前払いにして来た。

補償が払いたくないのではないだろうし、訴える側だって補償が欲しくて訴えたのではない。民事訴訟は賠償請求なしには起こせないから、事実の確認と認定の手段として裁判を起こす、そのための賠償請求だ。

元慰安婦からの訴えを、日本政府は、事実の確認もなにも怠ったまま、曖昧な形で政府ではなく「アジア女性基金」からの「償い」として札ビラを切った前科もあり、この時などはえらくなおざりな調査で、「日本側に慰安婦強制連行を示す証拠がなかった」が、強制連行されたという女性たちに配慮して、と人を侮辱するにもほどがある発表している。

しかも日本の公文書で、慰安婦徴集に軍ないし警察の立ち会いが命令されているのだ。「不正防止」という名目になっているが、そんなことを文字通り真に受けるのはあまりに幼稚な主張だ。武装した軍人や警官がいれば、それだけで強制力を発揮するのは理の当然である。

これまた子供だましの、ふざけ切った話だ。当時の日本領の朝鮮半島でも、女性を強制的に連行して売春を強要するなんて違法行為だ。

ところが挙げ句に、その「証拠がなかった」発表をもとに、「慰安婦なんてただの売春婦」「強制連行なんてなかった」と言うような不誠実極まりない話を、政治家まで口にするのが、今の日本の世論でもある。

そんなことが竹島領有裁判を通じて世界に知れ渡ったら、日本の信頼が一気に失墜する。

これでも本当に、不人気回復を狙う野田総理は、“毅然とした愛国者” ぶったポーズのために、竹島問題を国際司法裁判所に持ち込むつもりなのだろうか?

僕は今まで日本がとってきた、過去の戦争や植民地支配についての偽善的な態度は許容しがたいし、オープンに批判されるべきだとは思っている。キムさんの物語も、近々映画に撮るつもりだ。

キムさんが防衛庁(当時)で、かつての戦友のことを調査した際の、戦史資料室の写真

それでも、竹島問題の裁判をきっかけに日本が世界中からバッシングを受けるという悪夢からは、やはり逃げ出したくなる。

8/24/2012

被災地で映画を撮るということ・その3

飯舘村、比曾地区(『無人地帯』より)

『無人地帯』を、今日はソウルで韓国プレミア上映に立ち会ったのだが、改めて考えるのは、大地震、津波、原発事故の3重の災害を巡る映画が(自分も含めて)なぜこうも多く、こうも即座に作られて来たのか、だ。

実は2月にベルリンでインターナショナル・プレミアを行うまで、そんなこと考えもしなかった。

自分がこの映画を作っている間は、他人がなにをやってるのかなんて関心もまるでなかったし、それを認識することで自分の映画が左右されるべきでもなかったからそれでいいとは思う。

だが、ベルリンでの上映後NYタイムズのデニス・リムのインタビューでこのことを問われて、自分でも初めて気づかされ、そして改めて驚いた。

誤解を恐れずに言えば、東日本大震災について、あっというまにこれだけの映画が作られた背景と動機は、ある意味で「安易」である。

本来、この3重災害がどんな意味を映画的に持ちうるのか、もっと深く時間をかけて考えるべきではなかったのか?

それでももちろん見るべき映画はある。

たとえば今回のソウル・デジタル映画祭でいっしょにコンペに出ている、3年前に同映画祭で上映した『フェンス』の助監督だった松林君の『相馬看花』は、一連の「震災・原発事故映画」のなかでやはり群を抜いて見るべき作品だと思うし、これは誤解を恐れずに言えば、ごく私的で主観的な映画というか、あえて言うならホーム・ムーヴィーだからこそ成功している。

『相馬看花』予告編

『石巻市立湊小学校避難所』予告編

今日本で公開中の『石巻市立湊小学校避難所』(監督 藤川圭三)もそうだが、デジタルによる映画がある意味ホーム・ムーヴィーの延長として撮影しうるものだからこそ、豊かな映画表現が産まれると同時に、それは震災をめぐるメディア表象の中で無視されまくってきた被災者たち自身の人間性が等身大に写っている点でも、極めて重要だと思う。

だが一方で、デジタルでの映画撮影が個人的な、極めて主観に徹する映画表現を可能にしたからこそ、その表現手法の限界を一連の震災映画が曝け出したことも否定はできない。

藤川さんや松林の映画が成功しているのは、まさに松林なら松林本人の純粋で素朴な、やさしい人柄だからこそ成功しているわけでもあり、逆にほとんどの場合(松林も4人の監督の末席にクレジットされた『3.11』が典型かも知れない)、大災害の情報だけでパニックに陥った心理のまま、ひたすら自己正当化のために「なにかしなくちゃいけない」という程度の発想で被災地に行こう、映画を作ろうとしたところで、それは作り手の身勝手さ、自己中心っぷり、狭量さを曝け出しながら、しょせんは「他人様の不幸」を搾取する表現にしかなっていない作品の方が多い。

こうした映画的な失敗である以上に人間的に堕落とすら言えてしまうことは、この震災に対して被災地以外の日本が曝け出した限界の縮図になっている点では興味深いわけだが、自分たちの「後ろめたさ」ばかりが全面に押し出された映画を、同じ後ろめたさを実は共有している都市の観客(映画の観客というだけに限らない、東日本大震災という災害スペクタクルの観客である、東京を初めとする「被災地以外のニッポン」)が、「自分達はこれでいいんだ」という安心感の共有のためだけに見られ、結果としてそれなりの観客動員を集めてしまうという倒錯にまで繋がってしまっている−−もっとも困難な立場に置かれた被災者はしばしば無視されるか、場合によっては心を踏みにじられることになりながら。

『3.11』に至っては、メイン監督の森達也が、逆にその「後ろめたさ」をキャッチ・コピーにうまく利用することで、結果からみれば震災映画のなかで数少ない興行的な成功を納めている。

よく考えれば「日本社会は、そして日本映画は、ここまで堕落して薄情な自己満足に耽溺していいのか?」が問われるべきとことでもある。

よく考えれば、倫理的・人間的にいって、極めて気持ちの悪い話だ。

「被災地」は完全に、ただ映像として消費されるカタストロフィのための装飾、お涙頂戴のためのメロドラマ演出上の消費される記号に過ぎず、観客が飽きれば忘れられる。

その被災者達の現実が1年と半年近く経ってもなにもいい方に向かわず、なにも決まらないなかで宙づりにされているのが現実だというのに。

『相馬看花』と『石巻市立湊小学校避難所』という数少ない成功は、それがいわゆる「個人映画」に留まることなく、「ホーム・ムーヴィー」に到達したからかも知れない。被写体となった被災者と撮影する側は、その区分を超えてひとつの疑似家族になっている。家族である以上、その被写体への接し方には、愛する人たち相手だからこその謙虚さ慎ましさと誠実さがあり、それが映し出される現実の厳しさ悲惨さにも関わらず、ある種の清々しい心地よさすら、観客と共有してくれるのだ。 
そこに素朴な「愛」があるからこそ。 
一方で作家の主観だけを忠実に表現しようとする「個人映画」とは、よく考えればそこには「自己愛」しかあり得ないではないか。 
この3重の災害に直面した被災者の多くにとっての矜持が、「自己愛」とは真逆の、「自分たちよりもっと大変な人たちがいる」であったこと、だからこそ助け合わなければならない、という倫理とは、真逆の話だ。 

ただしデジタル撮影による「個人的」「私的」で作家の主観オンリーな映画撮影の手法は、この3重の災害を前に、いわば震災映画を作ろうとしている場合の多くで、むしろパニック状態に陥り、結果としてその作り手の身勝手な傲慢さばかりが鼻につく映像を生み出してしまった点で、「テレビとの違い」を強調しつつ、結局はテレビと本質的なんら変わりがない話になりかねない。

これを「映画」と呼ぶべきかどうかすら、疑問だ。

そもそも「ドキュメンタリー映画ではテレビ報道で出来ないことをやるのだ」という発想自体の貧困は、今さら言うまでもないにせよ。
実を言えば、震災をきっかけに作られた、いわば「震災ドキュメンタリー」は大量に作られながら、ほとんど客が入っていない。「みんなテレビでもう見たと思っているからだろう」と映画業界では分析したつもりになっているが、観客はそこまで単純に愚かではない、むしろこのジャンル(といっても差し支えないくらいの数の作品が作られている)の大半に内在するいやらしさに、人々は直感的に嫌気がさしているのかも知れない。 
森達也が「後ろめたさ」をキャッチコピーにしたことは、その罪悪感をなんとか解消したい一部の人の欲望には合致したかも知れないが、よく考えれば今の日本社会、まだそこまで後ろ向きに自己中心的な人たちばかりが蔓延している、「後ろめたくていいんだ」と安心してしまうほど薄っぺらな人たちばかりであるはずがないではないか。 
東京などの都市はまだ、そこで安心してしまえるかも知れないけれど、日本社会の全体はそこまで堕落しているとは思いたくないし、現にそうではないことは、いささかおこがましい言い草ではあるが、我々が撮った『無人地帯』が証明していると思う。 
我々が出会い、撮ることができた人たちは、むしろその真逆の「気高い日本人」なのだ。その全てが、我々がまったく偶然に出会えた人たちである以上、「外れ」がまったくなかった以上、福島県が例外的に素晴らしい人間ばかりなのだと無茶な仮定を導入しない限り、この国はまだそんなに棄てたものではないはずだ。
もちろん映画にはいろんなアプローチがあっていいし、『石巻市立湊小学校避難所』や『相馬看花』のようなホーム・ムーヴィーの延長としての親密なアプローチこそが正しい、という話ではない。

映画というメディアにとって「どれが正しい」とか、そんな受験勉強的な「正解」があるはずもないのだし。


また我々が『無人地帯』で考えたこと、やったことが、これとはまたまるで異なっているのも、言うまでもない。

藤川さんや松林の映画と共通するのは、「被災者」とされる人たちを「被災者」という枠組ではなく、まるごと人間として尊重することだ。そしてそのやり方にも、映画の撮り方それ自体と同じくらいに、多様なアプローチがある。

我々が目指したのは、藤川さんや松林君のホーム・ムーヴィーとは真逆な、むしろ徹底して「他者性」を意識したものだと思う。

たとえば我々は福島浜通りや飯舘村で、自分たちがあくまで「東京から来た人間」だと繰り返しているし、それは「40年間福一の電気を使って来ていながら、そのことを考えもしなかった東京」ということを多分に含んだものだ。

だからこそ、我々のアプローチの根本は、この3重の災害を総合的に受け止めることの難しさを自覚しつつも、あえてその全体像を映画的に捉え、映画としてのフォルムを与えることだったし、そのためには、まさに「ホーム・ムーヴィー」とは真逆に、映像はプロフェッショナルの仕事として、徹底的に美しくなければならない。

美そのものが映像をよりよく見ることを喚起するから、美そのものが薄っぺらな説明に終始しない映画の語りを可能にするからだ。

ジャーナリズムの基本として「きちんと情報を伝える」があるわけで、ところがこの3重の災害を捉えようとするだけでも、そのために必要な直接情報は膨大な量になるし、どれを落としていいわけでもない。 
しかも厄介なことに、原発事故の本質とは、なにが起こっているのかを把握するための情報すらロクに得られないことにある。放射能被害は目に見えないし、事故が起こっている原子炉では、その事故を把握するために必要なデータの入手すらしばしば困難なのだ。 
こと福一事故の場合、電源喪失がそもそもの事故原因であるということは、データ取得に必要な計器の類いがほとんど止まっているという意味でもあるのだ。その未だよく分からない事故の因果関係と、その結果だけを見せたところで「映画」にはならない以前に、ジャーナリズムとしても極めて未熟なものにならざるを得ない。

土本典昭の言葉に「映画は考えるための道具だ」というのがある。

作り手は映画を作ることによって考え、観客は見ることによって考える。だがこと原発事故の映画の場合、そこで「考える」べきこととは、実はなによりも自分達自身、原発の電気によって維持されて来た文明と、そのなかにいる自分たち自身のこれまでの存在のあり方だ。

東日本大震災に呼応して呼びかけられた3分11秒の短編映画シリーズのなかで、ヴィクトル・エリセの「アナ、3分前」は郡を抜いて優れた作品だった。

ヴィクトル・エリセ『アナ、3分前』

このなかでアナ・トレント演ずる女優が、アラン・レネ/マルグリット・デユラスの『二十四時間の情事』における、「君は広島でなにも見ていない」という宣告を踏まえつつ、「死者たちが見ている」という言葉を発する。

アラン・レネ『24時間の情事』

僕自身がこの短編を見たのは、『無人地帯』を完成させた後だったから、影響を受けたなんてことはあり得ないにも関わらず、エリセの「死者たちが見ている」という発想は、『無人地帯』を作り手である僕自身が理解するのに、重要な言葉だ。

映画の視点というのは、ある意味で「死者達の視線」に通じるものでもある。映画の基本原理が機械による映像記録であるからこそ、それは微妙に生者・人間である作り手の視点と微妙に異なり、それを弁証法的に超越するものでもあるのではないか?

僕たち自身が、自分たちの作っている映画に「見られている」、試されているのが『無人地帯』であり、だからこそそれは単一の視点やテーマではなく、思考が重層的に、映画というフォルムのなかでこそ居場所を見つけて発酵していくものでなくてはならなかったし、映画として完成したフォルムに至った今では、映画を見ること自体が、見ている観客が「見られてもいること」に至ってもいる。

作り手自身が「観客を問う」という、映画はすべて作家個人の主観の反映であって、作家の表現以外の何ものでもないという古典的な意味での作家主義的の文脈での挑発とは、少し違う。

映画自体が、あるいはそこに潜在的に宿る「死者達」が、作り手も観客もある意味同等に、我々現代に生きている生身の生者たちを見つめ、問う映画、我々自身が問われる映画を、僕たちは目指していたのだと思う。

この3重の災害を人間的な意味において、総合的に、その全体像を、映画として捉えるには、こうして「映画」というメディアの持つ本質的な「他者性」(あるいは、もしかしたら「死者性」)を探求するしかなかった、とも思う。

いずれにせよその答えは、もうしばらく時間が経って、我々の社会がこの3重の災害という体験を咀嚼し、真の意味で池止めるか、それとも(今まで敗戦や、地下鉄サリン事件、秋葉原の通り魔事件についてもそうしたように)忘れ去ってしまうまでは、分からないのだろうけれど。