最新作『無人地帯 No Man's Zone』(2012)
〜福島第一原発事故、失われゆく風景、そこに生きて来た人々〜
第62回ベルリン国際映画祭フォーラム部門正式出品作品

1/23/2013

【追悼】大島渚、裸の肉体と、日本的感性における「魔」

『儀式』渡辺文雄、土屋清、乙羽信子

生前の、まだ二度目に倒れる前の、元気だった大島渚に、ほんの2~3ヶ月の間に何度もインタビューをしたことがある。『愛のコリーダ』の、修正部分が最低限のリバイバルのために、大島が取材を受けていた頃だ。

今思えば、たぶんその頃に大島に取材したなかで、僕がいちばん歳下の男性だったから、それも「今時の若者」には珍しく生意気だっかからおもしろがってくれていたんだろう。大島の妹でプロデューサーの大島瑛子さんには「あなたが来ると大島が元気になるのよ」とからかわれた。

あとあとになって考える度に、大島に言われたことの大半は、当時はさっぱり理解出来ていなかったと思う。

ひたすら繰り返されたのは、政治的なことを質問する度に怒られ、「僕の映画をそんなつまらない見方しないでくれる?」ということだった。

「だいたい君は若いんでしょ?自分の生まれた頃の政治の話で映画を見るなんて馬鹿じゃないか」

『愛のコリーダ』の、吉蔵(藤竜也)が2.26事件の隊列とすれ違うシーンについては「あんな下らないシーンのこと訊く奴は馬鹿だ」と怒られ、この映画のセットの随所に組み込まれた神道のモチーフについても「戸田さんが勝手にやったんじゃないの?忘れたよ」。


もっとも、これは「神道のモチーフ」だと思って訊いたから怒られたのだろう。今思えば、別の訊ね方をすべきだったのだ。

製作当時、大島は『愛のコリーダ』を「私と戸田重昌の遊興的な気分がもっとも色濃く出ている映画」だと称している。僕が取材したときには、「愉しいから作った」「映画を作ってる側が愉しまないで、観客を楽しませる映画なんて作れるわけがないだろう」とさんざん言われた。だから自分の映画を「楽しめ、愉しめ」と。




晩年に本人がそう繰り返したにも関わらず、大島渚の映画は政治的・前衛的な理論性の枠組みから語られがちだ。大島自身は『愛のコリーダ』の直前には「もう映画をやめよう」とすら思っていたともいうのだが、当時ですら自主製作映画は経済的に成立しにくく、生活の手段はテレビ出演などが主になっていたし、なによりも「どうせ僕の映画はいつも誤解されていた」からだ。

以来10余年、大島さんの映画を見直す度に「政治を忘れて“愉しんで”」見ることを心がけようとして来た。あるいは、大島さんにとってなにが「愉し」かったのか、先入観でも理論でもなく、大島が直感的にその映画に組み込んで来た思考というか、大島の映画が本当はなにを見せているのかに、敏感であろうとして来た。

2度目に倒れてから、大島渚は意識がほとんどなく、回復の見込みもほとんどなかった。そのまま12年、ある意味で12年前にもう「亡くなっているのだ」と考えるようにして来たし、その方が楽だった(あの大島渚が大島渚でない、という姿は耐えられない)、それでもどこかでいつか回復して、あの丁々発止の大島節で「君はまだそんな馬鹿なこと考えてるの?」とからかわれる日が再び来るのを期待していた。

それは今月の15日に、永遠にあり得ないことになってしまったのだが。

『青春残酷物語』

大島渚はエロスにこだわる人だった。それは政治的に受け取られがち、性によって反体制を貫く作家と言う枠組みで語られるのが主だったが、大島さんに言わせれば「そうじゃない、愉しいからだ」となる。

和服も大好きだった大島さんだが、「まことにエロチックな着物だからね」というのがその理由。懐から手を差し込む、裾をまくりあげる、帯を解けばすぐに脱げる、そういう裸に近いところが、大島さんには「愉しいこと」だったようだ。

映画の撮り方にこそ大島さんにとって「愉しいこと」が秘められているのだとしたら、はっきり言ってしまえば大島映画におけるエロスは、女性よりも男性のそれだ。

1960年当時の検閲などの制約(たとえば『悦楽』はずいぶんそれに傷つけられた映画だ)もあり、女性よりも男の上半身裸の方が見せ易かったこともあるのだろうが、それにしても出世作『青春残酷物語』でも、強烈な生命感を発散すのは川津祐介の裸の上半身だ。

大島映画には実際、物語上のなんの脈絡もなく上半身裸の男がよく出て来る。

『絞死刑』裸にされた死刑囚Rの肉体

たとえば『絞死刑』で死ぬことを拒否した死刑囚Rの肉体は、蘇生のためになぜか上半身裸にされ、映画の不条理な展開に合わせてまずランニング・シャツを着て、それを脱ぎ、最後に学生服を着て、再び処刑される。

『新宿泥棒日記』では、ギターを弾き歌う唐十郎は、下腹部だげがギターで隠され、一糸も身にまとわない姿に見える。



『儀式』で小山明子演ずる伯母が裏山の墓地で日本刀で刺し殺された姿で発見されるとき、坊主頭の忠(土屋清)は、なんの脈絡もなく上半身裸だ。

この映画のクライマックスに至っては、輝彦(中村敦夫)の自殺した肉体は全裸で横たわり、大島はまずそれを尻からの、極度に縦方向の構図に様式化されたショットで見せる。

『儀式』大島が「三島由紀夫的人物」と読んだ輝彦(中村敦夫)の死

一方で主人公の満州男(河原崎健三)が裸になるのは、少年時代に風呂に入っていて、伯母(小山明子)に背中を流されるときだけだ。旧家の長男の息子の抑圧された、常に自信がなく自分が定かではない男の肉体は、清や輝彦のそれのような、強烈な、この世のものならざるかのような存在感を発することはない。

『戦場のメリークリスマス』で、セリアズ(デイヴィット・ボウイ)が軍事法廷で拷問を受けた証拠の背中の傷を見せようとシャツを脱ぐとき、ヨノイ大尉(坂本龍一)はその強烈な魅惑に惑わされてしまう。



これを同性愛的なイメージとみなすのは容易いし、実際に物語上そう解釈され得ることなのだが、大島の好んだ裸身のイメージの力は、それだけに留まらない。

場違いの状況のなかで剥き出しにされる男の肌は、まばゆいエロスを発散するだけではなく、場違いさ自体がその場の均衡を強烈に揺さぶる。そして大島映画におけるこうした男の裸身は、『儀式』の墓地と刺殺体のシーンや輝彦の死が典型なように、しばしば死のイメージと同時に提示される。

このことの意味は、『愛の亡霊』を大島が撮るに至って完全に明確にされるし、その文脈において『愛のコリーダ』における一見「神道的」に見える表象の意味をも明らかにされるだろう。

『儀式』においてはまだ、「神道」のそれとみなされうるイメージは、明治以降の日本の国家主義、軍国主義と保守思想、封建的な家父長制という、政治的批判の文脈から一応は逸脱しない形で登場はするのだが、そうは言ってもあまりに繰り返し、執拗なまでに、それも美しいシンメトリーに様式化されて提示されると、大島の言う彼と戸田重昌の「遊興的な気分」にも見えて来てしまう。大島は明らかに、こういうものが「好き」なのだ。

一方で墓地と刺殺体のシーンにおいて裸の男性と併置されている墓石や卒塔婆は、表面的には宗教的な表象であり死の象徴であると同時に、明らかにそれを越えたイメージが構築されている。


つまり、卒塔婆や墓石は大木と併置されるなか、裸の忠の肉体は「場違い」ではなく、むしろ彼こそがこの状況に一体化している。

重厚な移動ショットのなかで、裸の男=エロス=自然=死が、ひとつのイメージとして渾然一体となるこの瞬間は、すでに大島がやがて『愛の亡霊』を撮ることを予言しているかのようだ。
『愛のコリーダ』のセットの随所に、鳥居や神輿が配されているのも、都市のなかでさえ日本人の深層心理に潜むアニムズム的な感覚が遍在していることの現れではないのか? 言い換えれば、それは「神道」の象徴ではなく「カミ」そのものの表象だと言ってしまってもいい。

大島は、日本人の本来のアニミズム的感覚の文化における「エロス=カミ」をこそ追及していたのではないか?

『儀式』と『愛のコリーダ』の狭間に、大島が東映ヤクザ映画として映画にしようとしていた未撮影の脚本『日本の黒幕』において、アメリカから賄賂を受け取っていた右翼の巨頭山岡を暗殺しようとする純粋な右翼少年・びっこの江古田正夫というミッシングリングの存在を加味すると、より日本的な無意識に意識的に取り組もうとして来た(あるいは最初は、本人にも無自覚にそれが映画として立ち現れてしまったのか)系譜が、ひと際明瞭となるだろう。

正夫は山岡邸に忍び込み、びっこではあるが軽やかで(官能的な)身のこなしで、庭園の一隅にある小さなお社の前で右翼団体の制服を脱ぎ捨て、お社の前にしばしぬかづくのである。

そしてこの少年を山岡が愛し、彼の存在が、やがて山岡一族の秘密を暴露し、壮絶な死と性の饗宴となるクライマックスに向かう。

『愛の亡霊』

『愛のコリーダ』裁判における大島の有名な言葉に、「猥褻とは明治の官僚の下品な造語だ」というのがある。

教条主義的な二項対立図式に誤解されがちな言葉だし、実際に表現の自由を争う裁判での発言なのだから性の解放を謳う言葉として読むこともあながち間違いとは言えまいが、大島の真意は別のところにある。

文字通り「明治の役人が」西洋の「obscene」という概念を翻訳した言葉、つまり急激な近代化=西洋化のなかで抑圧され排除され見失われた本来の日本的な感性をめぐる言辞なのだ。

それは善悪二項対立とは相容れない世界観でもあり、考えてみれば大島映画のヒーローたちは、常にその両義性の、聖性とまがまがしさを同時に備えた存在であり続けている。『儀式』の輝彦しかり、『絞死刑』の死刑囚Rしかり。それは単に人間が決して善悪で割り切れないものだという通俗倫理レベルの話ではなく、大島映画においてはカミ的な存在であり、エロス=カミであるのだ。

最後の作品となった『御法度』がしばしば誤解されがちなのも、大島のこの問題意識が理解されていなかったからだろう。通俗的に解釈すれば、惣三郎(松田龍平)という魔性の少年が新撰組を惑わす物語であり、そのエロスは魔であり、悪であり、だから土方(ビートたけし)が最後にこの魔物を表象するかのような木を切り倒して終わる、とこのように、ホモフォビア的な説話として解釈されがちだ。


『御法度』土方(北野武)、沖田(武田真治)

だがそのクライマックスの前に、沖田総司(武田真治)が延々と、『雨月物語』の「菊花の契り」という同性愛の幽霊譚を語る場面を見逃してはならないのに、大島の描く新撰組の隊士の多くが元から「その気」があること、だいたい江戸時代において武士の衆道はむしろ当たり前であり、また新撰組それ自体がたぶんにいかがわしい秩序を持った急ごしらえの疑似保守的な集団であったことを忘れてしまうから、そう誤解されるわけだ。

言い換えれば、新撰組なんて元から乱れて当たり前なのだし、存在自体がどこか “不自然” なのだ。

これはさすがにエロス的な説話ではなく政治映画の極北とみなさざるを得ない『日本の夜と霧』ですら、見るからにエロティックな存在ではないとはいえ、不自然な偽善に塗り固められた、安保闘争の敗残の末の結婚式を、「場違い」であるがゆえに燦然とした津川雅彦がかき乱し、列席者を惑わす説話構造を持っている。


『儀式』の墓場のシーンの忠の裸身のように、大島の作品世界のなかでは、惣三郎の存在自体が聖なるものして禍々しいカミ的なものとしての、日本人本来の感覚における「魔」性であり、カミ的な存在なのである。

なるほど、確かに当初は木村拓哉を起用しようとしたものの大島が病に倒れ、撮影が延期になった結果起用された新人の松田龍平にはまだ、たとえば『戦場のメリークリスマス』のデヴィッド・ボウイのようなスター性や、『青春残酷物語』の川津祐介のようなまばゆい生命の躍動がなく、大島が目指したものを完全に映像化し切れていない面は否めない、肝腎の惣三郎がただのお稚児さんにしか見えない面はあるかも知れない。


だが『御法度』は、大島がどこまで意識的にやって来たことか、あるいは明治維新や近代化で失われた日本人の深層心理の問題だからこそ、あえて無自覚的・無意識的に自らの内から湧き出るものをフィルムに刻印しようとしたことなのか、そのひとつの到達点であるのだ。

もしかしたら、大島が晩年にあそこまで「愉しさ」にこだわったのは、「愉しくなければ映画など撮っても意味がない」と繰り返したのは、自分の内ににあるこの日本的な、アニミズム的な感受性が、日本人だからこその「愉しみ」、遊興的な気分にによってこそ深層心理の奥底から引き出されるのだと、信じていたからなのかも知れない。


いずれにせよ、大島渚とは「誤解され続ける」というより、ミステリアスであり続ける映画作家だ。

映画作家・大島渚という映画的存在それ自身が、『御法度』の惣三郎のような「魔」なのかも知れない。それはたまらなく魅惑と官能に満ち、近代=西洋化に染められた現代日本人を惑わし続けるのである。



『御法度』のラストで、土方は妖艶な桜の木を切り倒す。これは近代=西洋化が、日本人の無意識のなかにこそある日本的なるものを、畏れ忌避し、去勢しようとするイメージなのかも知れない。

1/18/2013

「記憶の風化」をめぐって 〜神戸の震災から18年

昨日は神戸の震災の18周年だった。マスコミ報道でもインターネットでも、判で押したように「記憶の風化」が語られるが、それは無理もない話だろう。

…というよりも、神戸市の人口の40%がすでに震災を知らない世代であることを指して「記憶の風化」と批判めいていうこと自体、自己撞着した「為にする議論」の典型に思えてならない。

最初から体験すらしてないことを「忘れないように」と言われても、困るわけで。

それに震災後に生まれた世代や、そのあとに神戸にやって来た人が、語り伝えられることによって記憶を引き継いでいないと、誰が言えるのだろう?それが実体験者の記憶の生々しさや、震災の実体験のその通りではないからと言って、震災があったことを認識していないわけではないし、その過去から学んでいないわけでもない。

18年経てば、過去は歴史となる。

歴史として自分たちのなかで整理をつけて、ある程度客観視できるようにしなければ、過去の悲惨の生々しさに囚われているだけでは社会は存続できないし、その社会のなかの人間も生きて行けない。

それに「震災の記憶の風化」とか、その記憶を引き継ぐべき、と言うこと自体が、すでに別の記憶を抹消し忘却している言動に他ならない。

「神戸」がもはや震災でしか語られない都市になってしまったことそれ自体が、神戸の歴史の記憶の風化であり、忘却ではないだろうか。

それは震災の悲劇の矮小化でもある。

東北の被災地でも、福島県でも、津波の恐ろしさや原発事故の大変さを語ったり、被災地の映像や写真を撮るときに、その光景や逸話のスペクタクル性にばかり気をとられる我々は「そこで本当はなにが失われたのか」を忘れがちだ。

誰とは言わないが、東北の震災の直後にドキュメンタリー映画を撮りに行った面々が、移動の車中で「死体を撮りたい」「テレビでは死体はタブーだから、死体を撮ることに意味があるんだ」とばかり議論していたという。この面々は結局、被災地で発見された遺体に傍若無人にキャメラを向けて、遺族に罵倒されて追い返され、それを作った映画に組み込んだら、その「正直さ」を褒め讃える批評家や研究者、「後ろめたさ」を繰り返す作家たちに共感する観客がずいぶん出た。

その時に、その遺体で発見された人には人生があり、歴史があったこと、我々がそこに接し、それを知る機会が失われていることは、まったく意識されていない。ただ死体というモノ、裏返しの祝祭としての破壊に対するフェティシズムを、「後ろめたさ」を語る「正直さ」という倒錯した偽善で塗り固めているだけだ。

ビートたけしの昔のギャグ、「赤信号、みんなで渡れば怖くない」を、歪んだクソ真面目さで、倒錯した自己愛のために繰り返しているだけとも言える。

「赤信号」でもみんなで渡っているんだから、私たちは悪くないじゃないか、とでも言わんばかりだ。

生々しい遺体や、破壊の光景が「忘れられている」からといって、それを指して「神戸の人たちの間で記憶が風化しているのだ」と断ずるのは、そうしたイメージだけを消費する側の傲慢であり、差別意識ではないかとすら思えて来る。

再建された生田神社



神戸の震災から18年経ったときの言説に違和感を覚えるのは、自分が神戸の住人ではないが、神戸を知っていた記憶はある、という微妙な関わりと距離があるからでもある。

1995年1月17日の朝、NHKのテレビで生中継されたヘリコプター空撮や、NHK神戸放送局の社屋から撮影された映像がショッキングだったのは、一面家が倒れ真っ平らになった光景が黙示録的だったからよりも、そこになにがあったかを自分が知っていたからだ。

テレビで生田神社の銅拭きの屋根が地べたに落っこちているのを見た時に、それ以前の生田神社が自分自身の人生や歴史に関わっていた記憶がある者は、「あの生田さんが」とまず思う。

震災前は閑静な住宅街街と商店街だった中山手通りは、
震災で家が壊れたまま駐車場になっている土地も多い。

それは地震の猛威を見せる映像であると同時に,それ以上に「あの生田さんが」壊れてしまった、喪失の映像になる。東北の震災の映像にしたって、我々はこの「なにが失われたのか」をめぐる被災者と部外者の差を、忘れてはならないのだ。

それが3.11以降、震災をめぐって撮影され流布された映像のほとんどに欠けている視点でもあり、逆にいえば無名の地元の人々が、いわば“素人”が撮ったYoutubeなどの津波映像が今でも力強い理由でもあるのだろう。

一方で、今はまっさらに再建された生田神社しか、今も神戸市で生活する人たちの記憶にないとしても、それは責められることではない。人は生き続けなければならないからだ。

この中山手通りに建っているマンションの敷地が、震災では半壊だった
ものの修理にお金がかかりすぎるので売却せざるをえなかった父の実家。
元・天理教東神戸分教会。
神戸の震災から18年の同日に、訪中している鳩山由紀夫氏が南京大虐殺記念館を訪問したことが問題視され、現職大臣が「国賊だ」などと言っているらしい。

こっちの記憶の風化の方がはるかに怖い。

1/13/2013

日本は本当に「危機」なのか・その2

昨日の「中学生でも分かる日本経済【危機】の実態」の続き。

この人をこのブログで持ち上げるのはいささかシャクに触るのだが、正論だから仕方がない。まず見て頂きたいのは、前回の総選挙の日本維新の会・石原慎太郎代表の政見放送である。

Youtube 日本維新の会政見放送
慎太郎、ここではポピュリズム狙いの右派・極右発言は一切なく、「財政危機」「空前の財政赤字」を喧伝して増税を国民に納得させようとする財務省のプロパガンダに、全面対決を挑んでいます。

まったく、なぜ維新のこういう主張を、政治マスコミがとり上げないのか?

当然記者クラブを通じた癒着があるにせよ、フリーランスですらこういった実は肝腎な話はまったく報じない。

民主党から離党して「国民の生活が第一」→「未来の党」と突っ走った小沢一郎は、今回の総選挙ではまるでやる気がないといった風情だったが、これは小沢が2009年総選挙の頃から指摘していた問題でもある。

慎太郎がさらに説得力があるのは、都政改革(といって、やったのは猪瀬直樹・当時の副知事なんだろうが)の経験を元に、国家財政がなぜか単式簿記、まるで一般家庭の家計のように扱われていることのおかしさから説明していることである。

石原第二期で、都政は企業等と同じ複式簿記に切り替えた。その結果都の保有する膨大な資産が明らかになり、 負債は資産で相殺され、無駄も明らかになった。

実は「国民一人あたり数百万」と喧伝され、増税圧力になっている国家の負債も、同じような話だったりする。税収と国債の一般予算だけで、収支を単式でやっているから、国家の負債額は膨大であるかのように見える。

単純収支が赤字なのは、もちろんいいことではないし、財政の健全化が必要なのはまちがいない。

しかしこれが、果たして未曾有の危機とみなすべきかどうかと言えば、話はまったく別だ。

日本国は不動産だけでなく、大量の米国債や、外貨準備などの膨大な資産や、特別会計の資金を、実は持っている。これを「埋蔵金」とセンセーショナルに言い出すから話がややこしくなるが、企業等の組織の財政では当たり前の話であり、その資産があるからそれが担保となって国債の信用度も落ちないのだ。

また「埋蔵金」を単式簿記の、家計のような発想で考えてしまうと、「埋蔵金は一回しか使えないだろう」という、民主党政権初期に浴びせられた子供じみた誤解の批判になるわけだが、これは資産なのだから、それを担保に資金を調達すれば、恒常的に活用できるのだ。

現に日本の国債への評価はほとんど落ちていない。

停滞や衰退を続ける先進国のなかでもっとも優良な国債の部類に入り、ギリシャどころか日本が大量保有する米国債とも比べ物にならない。

さらに円の評価もまったく落ちていない。円高円高というと悪いことのように報道されるが、これは円の通貨の安定した価値が高い、円建ての資産の価値が高いから、円高になっているのだ。

日本では元々が輸出超過型の経済だったので、自国の通貨高は輸出の価格競争が不利になるので敬遠されて来た。だがこれはもう、過去の話なのだ。

大企業はすでにその経営基盤を国際化しているし、メーカーの現地生産の工場なども多い。通貨の乱高下による減収は、実は帳簿上のことに過ぎず、「未曾有の円高でソニーが減収」とか報じられるのは、実は海外でのもうけが帳簿の上での円換算の結果下がるだけで、企業の経営本体を揺るがす程の危機ではない。

逆に言えば野田の解散宣言から安倍政権誕生まで、円がずっと下落を続けているのも、決して手放しに喜んでいいことでは、本来ないのだ。

円高で苦しいのはその企業に円ベースの取引で部品を納入している下請けであり、かといって本当にサポートが必要な(前項で書いた通り、中傷下請けなどの持つ部品製造技術の高さこそ、日本のこの上ない強みなのだ)中小企業への肩入れをする代わりに、自国通貨の信用度をわざわざ落とそうとするのが日本の政策だったりする。

よく考えて欲しい。輸出産業にとってはデメリットもあるとはいえ、自国の通貨の評価が高いのは、基本的にいいことなのだ。

そのぶん、日本の海外のものを買う力は増えるのだし、それだけでもメリットが大きい。福一事故後の原発の営業運転停止で、火力発電への大幅のシフトでも、なんとか持ちこたえられるのは、燃料の輸入コストが円高で下がるからだ。

まして過去数年の円高は、実は円が上がったのではない。

ドルの信頼性が暴落したのだ。

日本の財政赤字が実は帳簿のマジックであるのとは異なり、アメリカの財政赤字は本当に深刻であり、ブッシュ政権の始めた、アメリカに実はなんの実入りもない戦争と言う最大の無駄な公共事業の軍事費膨張で、アメリカの財政状況は本当に危険なのだ。

しかもオバマ政権は、その財政を健全化させる施策を、思うように出来ていない。社会のセーフティーネットを取り戻して極端過ぎる格差を是正し、アメリカの景気を健全化させることも、まったく成功していない。

ユーロが下がったのは、ギリシャ危機などを始めとする、国債金融資本市場によるユーロ崩しの結果であり(よく考えれば元々農業と観光しか産業がないようなギリシャ一国の財政危機だけでヨーロッパ経済全体が揺らぐなんて、かなり不条理な話だ)、そして今では回復基調なのは、中国と日本の国家資金・資産の活用で危機を回避出来たからだ。

ちなみに日本や中国がユーロを買い支えても、それで国家財政の損失になることはない。別の通貨になったってお金はお金だし、結果としてその通貨の価値が回復すれば、資産は増えるのだから。

財務省は延々と財政危機を喧伝し、さらに震災の復興予算のことも抱き合わせで、消費税の増税を押し通そうとしている。

5%の消費税は確かに国際水準から見て低い方だが、8%となると西欧諸国やアメリカとほとんど変わらない。ただ唯一違うのは、これらの国では生活に最低限必要な必需品、食糧関連は非課税か低税率である。

連立を組む公明党は、今自民党税調に、8%に増税を行うのなら、食料品などには異なった税率を当てはめるように要求している。

自民税調の返事は、「来年4月までに間に合わない」のだとか。これもふざけきった話だ。

実は「埋蔵金を処分」ではなく、国の資産を透明化するだけで、財政危機はまだそこまで深刻でないことは明らかになる。

むろん少子高齢化社会に向けて、社会保障関連の一般歳出は増えざるを得ないし、老朽化したインフラのメンテナンスなどでも支出は増えるだろうし、だから国家経営の合理化は必要だが、それは拙速にやっていいことではないし、拙速に出来ることでもないし、さらに言えば不況のときに間接増税をやって消費を冷え込ませる馬鹿なんて、経済政策として下策中の下策の自殺行為だ。

小沢一郎が常に言っているように「物事には順番がある」のだ。それにまたまだ国の蓄積した膨大な資産のおかげで、待ったなしの財政危機では実はない。

きちんと物事を順番通りに、筋を通してやって行く時間はまだ十分にあるのだ。

バブル崩壊後すでに20年を無駄にして来てしまってはいても、である。

ところが安倍新政権は、国家公務員の採用数減もすでに見直すと言っている。霞ヶ関の言いなりで、日本の財政を本当に健全化する気などまるでないらしい。

これではさすがに、いかに膨大な資産を持っていても、あと10年持たせるのはあまりに厳しいと思うのだが…。

それにしてもこんな子供だましの、よーく中学高校で学んだマルクス経済学やケインズ経済学の基本を思い出したら「おかしいじゃん」というような話に、日本国民はすっかり乗せられてしまっているのである。いったいマスコミはなにをやっているんだろう?

困ったもんだ。

1/12/2013

日本は本当に「危機」なのか?

安倍晋三の新しい内閣は自称「危機突破内閣」なのだそうだ。

海外メディアでは欧米を中心に「極右歴史修正主義者の首相」とさんざん報じられ、「河野談話」見直しが危惧されてニューヨーク州議会では「従軍慰安婦は人道に対する罪」との決議まで出てしまい、そっちの方での日本の国際的な信用失墜と外交的な孤立の方がよほど危機だと思うのだが、日本のマスコミが注目するのはもっぱら、「危機的な経済」に対応すると称する政策ばかりである。

ここまで政府よりの報道にしか徹しない政治マスコミの存在理由もよく分からないが、参議院選挙まではこうして「安倍政権の大規模な経済対策」賞賛に話題が集中するのだろうし、「景気」はたぶんに気分の問題だから、この“イケイケどんどん”に乗せられて経済の指標は多少は上がるのだろう。

忘れてはいけないのは、2014年4月に予定される消費税8%増税は、この6月までの景気回復を見極めて最終決定となるわけで、だから増税したい財務省はどんな数字のトリックを使ってでも、「安倍新政権で景気が回復」を演出するに決まっている。

一方で、日本経済は危機なのだという認識は一般に共有され、だから安倍氏の「経済対策」に期待が集まる構図なのだが、果たして本当に日本はそんなに「待ったなしの危機」なのだろうか?

確かに雇用はあまりよくない(といって失業率4%代は、国際的にみて圧倒的に低い水準だ)し、給与所得の平均はどんどん落ちている。

だが安倍氏が選挙中にぶち上げた「大幅な金融緩和」や、自民党がずっとやりたがっている大企業の法人税減税、インフレ・ターゲットなどが、本当にそんなに有効な施策なのだろうか?

大企業が潤えば雇用が回復するという絵空事を信じられている時点でどこか話がおかしい。大手製造業に工場等の投資を増やす余裕ができたとしても、それを日本国内に投下するとは考えにくい。

子供でも分かる話で、輸出産業で日本の国際的競争力がどうしても低下するのは、日本が世界有数の裕福な、所得水準の高い先進国であるため、当然人件費が高いからだ。オートメ化が進む現代の大手メーカーの生産工程なら、国内ではなく人件費が安い中国や東南アジアに工場を持って行くに決まっている。

パナソニックがサムスンに脅かされるのも、韓国の方が日本よりもずっと物価も、人件費も安いからなのだ。そこでサムスンがパナソニックに負けない品質のテレビを生産するようになれば、工場を日本国内に置く限りは、価格競争で勝ち目はないし、そこで低価格競争をやれば、雇用の人数は確保できるにしても給料は上がらない…から小泉政権の時代から、大企業でも期間限定の非正規雇用を中心の労働力にシフトせざるを得なかったのである。

この正規雇用と非正規雇用の格差が、またキャッシュの偏在をまねき、デフレを招いているのだ。多くの人が非正規雇用の低所得になれば、100円ショップが必要になるし、安いのだから高所得の正規雇用の人だって、同じ物なら100円ショップで買う。するとその生産拠点は日本ではないのだから、日本の雇用は減って当然である。

正規雇用の人たちはこの、社会的にも名誉になるし福利厚生も保証された自分たちの立場を保守したくなるのは当然だろうが、しかしこのいびつな雇用体制は是正しなければ、デフレ脱却など無理な話だ。この課題は小泉時代からもうそろそろ10年くらい提示され続けているのに、なんら抜本的な改革はなされていない。

その改革がなされなければ、日本のセーフティーネットの根幹になる健康保険制度も、年金制度も、破綻する危険性がぬぐいきれず、潜在的に大きな社会不安の要素になっているのにも関わらず、である。

そもそも日本にキャッシュが足りないわけではまったくない。預金量で世界最大のメガバンクは、未だに日本の都市銀行である。高齢者やサラリーマンを中心とする膨大な預金額は、ここ10数年ずっと続いている低金利政策にも関わらず、ほとんど減っていない。

当然のことだ。民主党が掲げた年金の制度改革も共済年金を死守したい公務員や厚生年金の有利さにタッチ出来なかったことで失敗してしまった以上、高齢者が将来の老後に不安を感じて預貯金を取り崩さないのも、当たり前の話である。

その高齢者は人の親であり祖父母でもある。保育園の待機児童問題もまったく解消されず、幼稚園保育園の一体化で無駄を省くこともままならず、公教育の現場はいじめ問題や教師の質の低下で不安だらけであれば、子供のため、孫の教育に必要になるかも知れない貯金を守るのもまた当然だし、そこまでお金がなくても、当然ながら「子どもたちに迷惑はかけられないから」という話になる。

だからこの膨大な預貯金は銀行か、下手すればタンス預金になって、マーケットに流通せず、実体経済に流通するキャッシュは当然減ってしまう。

銀行にはキャッシュが実はだぶついているし、その投資先が実はないことの方が問題なのだ。

中小企業では銀行にお金が借りれなく資金繰りに苦しんでいるところが多いのだが、これは決して不景気だから銀行が貸し渋っているのではない。

ウォール街中心の国際金融資本の基準に融資の可否を合せてしまっているので、優良な中小企業でもなかなか条件が満たせず、その資金は国債や、金融マーケットに流れるしかない。

今の日本経済の問題は通貨供給量ではなく、実態経済分野への通貨流通量なのだ。

企業の経営構造が、これも国際金融資本の基準に変わってしまったことの問題も大きい。かつての日本型大企業経営は、収益が上がればそれは従業員の給料や、下請けへの支払いに還元された。こうして企業への忠誠度を高めて成功したのが、いわゆる「日本株式会社」の高度成長の奇跡だったのだ。

今ではこれがまったく異なる。

企業は収益があがれば、それは株主に還元することを真っ先に求められるのである。金融緩和で大企業に株式市場からの資金が廻るようになったところで、わざわざ従業員の給料を上げる経営者などもはやいない-制度的にそれが許されない、時価総額が上がることが企業の価値になり、役員の最大の義務になってしまったのだから、その総額が減るような人件費増なんて、簡単には出来ないのだ。

しかも経営役員の制度も高給化し、報酬の一部を自社株で、というのも定着しつつある。そこで収入が増える役員達が、従業員の給料を上げることなんて考えるだろうか?よほどの善良な経営者でなければあり得ない話だろう。

だから「インフレ・ターゲットでデフレ脱却」なんてやったところで、実体経済がよくなり我々の収入が増えて内需も伸びて日本が元気になる、なんて、実はあり得ない話ではないのか?

そもそも、大企業を中心にした景気対策に意味がないのは、今では企業従業員や下請けが一種の疑似家族を形成することで成長して来た日本型経営がなくなってしまっているからだけではない。

パナソニックやシャープやソニーがどうしたって国内に工場を置く限りは苦しい一方で、日本製品は今でも確実に売れ続けている。

なるほど、スマートホンにしたって日本のメーカーは完全に出遅れている…ように見える。だがアップルの iPhoneでもサムソンでもブルーベリーでも、部品の大部分は日本製なのだ。

高度で緻密な加工技術の精確さと、細かなところで不可能を可能にしてしまうイノベーションの技術力の高さでは、日本の製造業は未だに世界のトップクラスであり、これは高い人件費を払っても十分にその価値があるものなのだ。

あるいはソフトウェア開発でも、作りが丁寧で不良品やバグ率が少ない日本製品は国際的に評価が高いという。ただしこの業界も十分な資金繰りを得られているとは言えず、労働環境も悪く、優秀な労働者が過労で鬱病で倒れる話がとても多いのも現実だ。日本の経済の未来を支えうる優良業種を、この国の政策や経済体制はみすみす潰しているのである。

単純労働者やオートメ化した生産ライン管理しか必要としない最終的な組み立て工程を担う大企業・元請けだけを見ている経済政策だから、実態として日本の力はまだまだあるのに、それを全体の経済に生かせていないだけなのだ。

そうした優秀な部品の生産加工やソフトウェア開発を担う中小企業に、銀行にだぶついた資金がうまく廻っていないから、というのがこのデフレ不況の実態ではないのか?

あるいは医療光学機器で世界的にトップのシェアを実は握っていたオリンパスが、アメリカ発の「告発」でよく考えればなにがなんだか分からないスキャンダルに巻き込まれたことも記憶に新しい。

通常の民生用品とは比べ物にならない精度が要求される医療機器にも、日本の技術や日本のノウハウ、日本の質の高い労働力や開発能力、日本製の質の高い部品は欠かせないのだ。なぜ政治もマスコミも、こうした有望な業種をきちんと評価できず、あぶく銭の名前だけのIT企業か昔ながらの製品やサービスをやっている大企業ばかりに注目するのだろう?

だから安倍政権が参院選での人気取りに向けた「大規模な経済対策ぶち上げ」は、おそらく我々の実際の生活としての実態経済の回復には、ほとんど寄与しないどころか、第二のバブルを招くことになりかねない。

安倍首相の「大幅な金融緩和」を「危険だし、必要がない」と判断した白川日銀総裁は、自民党のプリンスのご機嫌を損ねたためにたぶん更迭は免れ得ないだろう。

だが白川さんは確かにもう少し「金融の番人」としての積極的なプレゼンスは欲しい人ではあるかも知れないが、まったく間違っていない。

日本の経済は確かに、決して安泰とはいえない状態にある。これから高齢化はもっと進行するのだし、給与水準が下がったところで、安価な労働力で価格競争と言ったような輸出産業立国はもはや立ち行かない。この点では新興国に対抗のしようがないのだし、成熟した先進国になってしまっている以上、バブル以前のような急成長はもはやあり得るはずもない。

だが新興国を脅威と感じる、追い抜かれると思って警戒すること自体が馬鹿げている。中国も韓国もどの新興国にとっても、成熟した先進国である日本は重要なマーケットであり、ビジネス・パートナーなのだ。その成長を上手にお互いに利用しなければ、むしろ日本経済が悪くなるのが当然なのだ。

今必要なのは第二のバブルを起こすことでも、付け焼き刃の公共事業で資金を大手ゼネコンに投下することでもない。バブル崩壊時からそのまま放置して来てしまっている、成熟した先進国としての国と社会の新しいあり方のビジョンを提示し、そのために必要な合理化や改革を政治的なイニシアティブで決めることなのだ。

…といって、霞ヶ関ですらそのことが分かっていないし、その霞ヶ関の言いなりになるしかない、能力の欠如した安倍晋三の自民党政権に、その新しいビジョンの提示を期待するだけ無駄なのかも知れない。今やマスコミで話題のネタに人気取りで飛びついて「やります、やります」という以外に、この新政権が国民のためにやっていることはなにもないのだから。

<本稿の補足はこちら http://toshifujiwara.blogspot.jp/2013/01/blog-post_13.html>

1/01/2013

謹賀新年・少しでも希望の見える年になりますように

<毎年恒例(?)の年賀メールのブログ転載、昨年ぶんはこちらになります。またとくに昨年の前年総括と比較するとだからどうした、という話になるのかも…。>


旧年中はお世話になりました。


2012年は、福島浜通り・双葉郡(警戒区域となる直前)といわき市で撮影した新作ドキュメンタリー『無地地帯 No Man's Zone』を、2月のベルリン国際映画祭を皮切りに世界各地の映画祭で上映する傍ら、その“続編”となる、震災一年後から始まる一年間を記録する『…そして、春』の撮影が続きました。


『…そして、春』のきっかけは、『無人地帯』が縁で知り合った富岡町からいわき市に避難している友人が、震災一周年の前日に一時帰宅の許可が出たので、一緒に行かないかと誘われたことでした。

一方で、富岡町の桜の名所、夜の森に花見に行こうという話しがあり、その模様を撮影出来れば、原発事故発生と避難から一年後の春を撮ることで、決して負けてはいない人々の意志を伝えられる、という考えから始まった企画でした。

富岡町・夜の森の、全長2Kmの桜並木


しかし行政の側がすったもんだの末、花見のために警戒区域内に入る許可は出さず、代わりにマスコミに取材許可、という(つまり肝心の地元の人間はテレビやインターネットで懐かしんで下さい、という)気を遣っているフリだけを装いながら無神経極まりない話になってしまい(そんな桜を見ても虚しいだけです)、3月末に予告されていた避難区域の見直しも先延ばしになったところで…

…これはもう、政府は避難民に根比べを挑むかのように、なにも決めないままものごとを先延ばしにするつもりではないか。

『無人地帯』の、築140年のお宅が津波に耐えた、いわき市豊間の四家さん夫妻も、『…そして、春』で再び登場します。

言い換えれば、なにを決定するのにもその責任をとりたくない政治家も官僚も、事故で避難させられた人々が仮にもう帰れなくなるとしても、ならば政府が決定するのではなく、彼らに諦めさせることを選択したのではないか、ということ。

原発事故避難に限らず、似たようなことは津波被害の地域でも行われているようです。津波を受けた場所に今後も住めるのか住めないのか。その決定は先延ばしにされ、最悪、実は計画案が出来ているのに、まだ「住めないことになります」といった話を住民側にはなしない。


なにも決められない行政の結果、なにも変わらない一年。非日常が日常になったまま、宙ぶらりんの存在を強要される現実があるのに、「ニュース」とはなにか新しいことが起きれば報道するという、その報道の基本原理からこぼれ落ちているだけでも、被災地や被災者のことはどんどん忘れようとしている「その他の日本」。

ならばこの “なにも変わらない一年” と、一年間の四季の対比から、一本の映画が出来上がるのではないか」と企画を書き換え、春、夏、秋、そして冬と、それぞれの季節の浜通りを撮り続けることになった次第です。

 『…そして、春』企画概要(英文)

『…そして、春』は、明日の正月二日、その一時帰宅に最初に連れて行ってくれた友人と同級生、今年厄年を迎える人たちの厄払いを撮影して、クランクアップします。

予算や製作会社がつかないままの見切り発車企画で、まだまだ前途多難ではありますが、秋頃にまでは完成できれば、と思っています。

一方で、『無人地帯』の方は、世界各地の映画祭ドサ周りの一年を経て、春頃には東京を皮切りに劇場公開の予定です。

また震災前までは編集していたものの、「震災前に撮ったものを今さら完成させる意味があるのか」と思ってしまい、5時間近いラフカットのまま収集がつかなかったこともあって放置していた大阪での即興劇映画『ほんの少しだけでも愛を』も、昨年末から編集を再開したところです。


結局、この大災害も腐っても鯛の(まだまだ)先進国ならではの強みなのか、結果からすれば直接の被害を受けたのはごく一部、1億3千万の大国からすれば人数的には1%にも満たない人数で済んだこと自体はよかったとはいえ、それをいいことに、この国は結局この災害からなにかを学び、なにか変わろうとすることを放棄したとしか思えないのが、正直なところです。

実際どのような復興方針をとるのかも決められない政府の会議が決めたのは、復興予算の名目でなんにでも流用できる予算を確保しただけ? 遅ればせながらその流用の実態が告発されたのはいいものの、その流用を可能にする文言が会議の提言に盛り込まれていることは、発表当時に精読すれば誰もが気づくような話なにに、なぜ最初に「これはおかしい」とマスコミや「識者」は言わなかったのか?見て見ぬふりは、なかったのか?


そんな時代では、現代日本を蝕むアイデンティティの危機と、それと裏腹の関係にある根深い差別やいじめ問題、この国がかつて目指した「豊かさ」はとんでもない心の貧しさを生んでしまったのかも知れないという疑問は、結局は消えることはありません。

ならば「タブーに挑戦」だらけの、過激過ぎるこの映画を、あえて映画としても思いっきり過激な「意図的に破綻した映画」として完成させる意味もあるように思える次第です。内容も構造もあまりに過激で型破りなので、どこで上映されることになるのかは、まだ分からないにせよ(現状で3時間20分の大長編であることも含め)。



本年もよろしくお願い申し上げます。

新年のご挨拶を、ブログで失礼いたしました。