最新作『無人地帯 No Man's Zone』(2012)
〜福島第一原発事故、失われゆく風景、そこに生きて来た人々〜
第62回ベルリン国際映画祭フォーラム部門正式出品作品

7/14/2013

日曜日の子供、イングマル・ベルイマン生誕95周年

7月14日はフランス革命記念日…ではなく、イングマル・ベルイマンの誕生日だ。1918年7月14日の日曜日に、彼は産まれた。

『ファニーとアレクサンデル』撮影中のベルイマン

「日曜日の子供」なんだからハッピーな子供のはずである。そして「難解・哲学的」な芸術家イメージとは裏腹に、映像で残っている彼の演出風景だとか、ものすごくハッピーなおじいちゃんだったりする。

「私は直感でやりたいことをやってるだけ、自分の直感しか信じないし、難しいことを訊かれても困る」とか平然と言っている。演技の質の高さの評価が高いことも、「俳優と映画のテーマを論じあったり伝えたりするかって?私だって分からないのに、そんなこと訊かれたら逃げ出すよ」

 AFIで特別講義をするベルイマン(音声のみ)。けっこう冗談ばっかり

来週からは『第七の封印』『野いちご』『処女の泉』という、あまりに有名代表作過ぎて、かえって見忘れていたり見直し損ねている三本のリバイバルが始まる。

『ベルイマン三大傑作選』http://www.bergman.jp/3/  7月20日より、渋谷ユーロスペースにて


『第七の封印』冒頭から、どう撮ったのか分からない不思議な映像


60年代に映画の「作家主義」、映画とは個人の芸術家の芸術的な表現である、という認識を確立させた監督たちのなかでも、最も尊敬される巨匠でありながら、日本では80年代後半からのミニシアター・ブームで育った世代にとって、ベルイマンはいささか馴染みがない作家だったりする。

ひとつには1982年の『ファニーとアレクサンデル』を最後に、巨匠が「映画はもう作らない」と宣言したせいもある。

“最後のベルイマン映画”になった『ファニーとアレクサンデル』
中央は特別出演のギュンナー・ビョーンストランド
劇中劇でシェイクスピアの『十二夜』の道化を演ずる
ギュンナー・ビョーンストランド
「映画を愛する」といういささか気恥ずかしいことを大真面目に公言する世代にとっては、「本妻は芝居で映画は愛人(本人はその後これを撤回し「私は重婚者」と笑っていた)」と言い放った人にはいささか反発もあったのだろうし、なにしろ「新作がない」過去の作家になってしまったのだ。

『ファニーとアレクサンデル』アラン・エドワルと子どもたち
この「映画撤退」宣言の動機も本人の説明は明解だった。

映画が嫌いなのではぜんぜんなく、ただ映画監督の仕事は「肉体的にも大変」で、「体力がもたない」から。芝居ならリハーサル室で俳優と一緒に楽しいんでいるだけだからまだ続けられる、というだけ。

…とか言いながら、実際のベルイマンは、その後もテレビ用として翌年には『リハーサルの後で』を作り、遺作『サラバンド』に至るまで、何本も映画と呼んで差し支えない作品を、撮り続けていたわけなのだが。

遺作『サラバンド』、リヴ・ウルマン

もうひとつには、ベルイマンが「敷居が高い」作家だったからである。

今度リバイバルされる、50年代末の、国際的な名声を確立した三本のあと、ベルイマンは少人数キャストの、室内劇的で濃厚なドラマ、それも「神の不在」の問題など哲学性の濃厚な、「難解」とレッテルを貼られる(実際には「どんなに考えても答えがない」)、本人が「三部作」と呼ぶ作品を立て続けに発表した。

三部作、『鏡のなかにある如く』『冬の光』『沈黙』の三本だ。

『鏡の中にある如く』ギュンナー・ビョーンストランド、ハリエット・アンデルショーン
『冬の光』イングリット・チューリン、ギュンナー・ビョーンストランド
『沈黙』イングリット・チューリン

すでに『第七の封印』が、十字軍から帰った騎士が死神とチェスの勝負をするという、それだけ言われると難しいだけに思える映画だ。『処女の泉』も、クライマックスの不条理に娘を殺された父の嘆きが、「神の不在」を明確に打ち出している…と、テーマ論的にだけ論ずれば、そういう難しい作品に誤解されかねない。

またリアルタイムで圧倒的な批評家の評価を得たぶん、その批評家たちが難解とされるテーマ性を難しく論ずることに格好な題材となってしまったため、たぶんにベルイマンの作る映画の、純粋に映画としての、直感的なおもしろさが却って伝わらず、ますます敷居の高い作家になってしまった面も否めないのかも知れない。

 『処女の泉』を見た衝撃を語るアン・リー監督。父の嘆きと絶望がアップでなくロングショットで表現されていることは、「自分もよく真似をする」という。

イングマル・ベルイマン自身は、父親がスウェーデン王室付きの牧師、自身の受けたプロテスタント中産階級の厳しい子育てへの反発をまったく隠さず、その父的なるものとの葛藤を、この時期の映画のテーマ上の中枢に据え、それは今回リバイバルされる三本のなかではとりわけ『野いちご』に顕著であり、『処女の泉』でもマックス・フォン・シドウ円ずる父親と二人の、対照的な娘との関係(野性的なブルネットのグンネル・リンドブロムの養女と、金髪で天真爛漫なビルギット・ペテルソンの実の娘)にも反映されている。


『処女の泉』のグンネル・リンドブロム
『第七の封印』のグンネル・リンドブロム、
マックス・フォン・シドウ、ギュンナー・ビョーンストランド
…というか「父的なるものとの葛藤」は、『ファニーとアレクサンデル』でも少年アレクサンデルは冷酷な牧師の義父を“呪い殺す”ことになるし(なのにハッピーエンド?)、『サラバンド』でも86歳の父と61歳の息子は憎み合っている。

母と娘の葛藤がテーマの『秋のソナタ』にしてもこれは父と息子の葛藤の変奏とも言え、78歳の老教授が人生を振り返る旅といえば叙情的に思える『野いちご』も、主人公の老教授は一見善良で優秀な医者に見えながら、やはり息子と対立し、その対立が息子とその妻の不仲を産んでいると、主人公はその嫁に指摘される。

『サラバンド』父エルランド・ヨセフソン(ベルイマンが息子に言われた言葉を、自分が息子に言われた言葉としてそのまま引用している)

『サラバンド』息子ビョーレ・アールステッド
『野いちご』息子ギュンナー・ビョーンストランド、父ヴィクトル・シェーストレム

『冬の光』、多分にベルイマンの父がモデルと言われる牧師を演じるギュンナー・ビョーンストランド

『ファニーとアレクサンデル』冷酷な牧師の義父

『鏡のなかにある如く』は『処女の泉』に続いて米アカデミー外国語映画賞をとったものの(後に『ファニーとアレクサンデル』を併せて、三冠達成)、そして『冬の光』がこと本人にとってもっとも私的な愛着のある作品であったが、『沈黙』は大胆な性描写で世界中で観客動員だけは稼げたものの、悪い意味で「芸術的でよく分からない」イメージがつきまとう作家になってしまった。

しかもこの三部作に続いて、ベルイマン自身がもっとも前衛性を突き詰めた問題作『ペルソナ』まで発表して、いわばダメ押しをしている。

『ペルソナ』で初めてベルイマンと組んだリヴ・ウルマン

今日では最高傑作のひとつとされ、ゴダールなどファンというよりもはや崇拝者が多い『叫びとささやき』も、公開当時はヒットはしていない。むしろ金銭的には困難な状況に陥り、ベルイマンは低予算のテレビ用作品『ある結婚の風景』しか作れない状況に追い込まれている。


『叫びとささやき』は、ベルイマンがある晩見た、
赤い部屋に白い服の女達がいた夢に着想されたという

…ところがこの『ある結婚の風景』こそが彼の最大のヒット作、スカンジナビアでは放映時間帯に街から人が消えた、離婚率が上昇したという伝説の映画にまでなってしまった、あまりの評判に世界中の映画配給業者が劇場公開を望み、3時間の劇場公開版が作られて大ヒットになったのだから、世の中分からないものである。
『ある結婚の風景』エルランド・ヨセフソンとリヴ・ウルマン



『第七の封印』について、ベルイマン自身は「私自身が死が怖かったから書いた脚本」と公言して憚らず、この死の恐怖の主題も、『ファニーとアレクサンデル』『サラバンド』に至るまで、ベルイマンが度々繰り返し描いて来た主題であり、三部作では真っ正面から向き合っている。つまり、テーマ論だけで論じると、もの凄く難しくて理屈っぽい映画に思われてしまう-実際にはぜんぜん違うのだが。


映画の原点となるモチーフは、死神とチェスで勝負する騎士。これはスウェーデン南部、当時ベルイマンが常任演出家だった劇場のある近くの教会に描かれた壁画から想を得たイメージで…などと難しそうな、あたかも海の向こうのような話を持ち出すから「難解」に思ってしまうだけなのかも知れない。

実際には「三部作」ですら、ちっとも「難解」ではなく、ただ映画のなかにとりあえげた主題への回答がないだけなのだが(「死」と「生きることの意味」なんて、答えようがない問いだし)、まして『第七の封印』となると、たぶん20年くらい見直してない(DVDは買っていても、『ある結婚の風景』や『叫びとささやき』、あるいは『狼の時』のようないささかマイナーな映画さえ見直しているのに)と、「え?こんな映画だったっけ?」と素直に驚いてしまうのである。

なにが印象が違うって、「普通におもしろい」映画なのだ。

死神との勝負を通じて死の恐怖と人間の生への意志を問う…その『第七の封印』は、よく考えれば当たり前の話としてとても巧妙に演出されたホラー映画であり(死は怖いんだから)、ブラック・コメディの要素も多く(怖いからこそ斜に構えるのも、人として当たり前)、そしてもの凄く適確でシンプルな構造とシャープでサスペンスとサプライズをふんだんに取り込んだ演出で、映画としては実はとても分かり易いのである。


劇的な構図として「若々しい生の喜び」を体現するキャラクター、ということになるビビ・アンデルショーンなんてひたすらかわいいし(つまり、実はえらく分かり易いことをベルイマンはちゃんと踏まえている)。


『鏡のなかにある如く』では、統合失調症を病んだ娘の病状を最後まで観察して創作に生かしたい、と日記に書いてしまった作家の父、そして『冬の光』では愛を受け入れられず、信者を絶望と自殺から救うことが出来ない牧師を演じ、深刻なベルイマン映画の、苦悩する深刻な顔のイメージが強いギュンナー・ビョーンストランドが、ここでは騎士の従者を演じていて、ツッコミ満載の台詞が、ひたすらおかしい。



しかも腕っぷしは強いし、まるでギャング映画のヒーローみたい(笑)。





『第七の封印』マックス・フォン・シドウ、ギュンナー・ビョーンストランド
 ところで騎士マックス・フォン・シドウと従者ギュンナー・ビョーンストランドの「カップル」は、この後の『魔術師』で科学者と奇術師で敵対するどうし、『鏡のなかにある如く』では精神を病んだ娘を持った作家の父と彼女を愛してやまない夫、核兵器の時代に世界の存在そのものに絶望する漁師と、彼を救えない牧師という組み合わせで繰り返されている。 



気の合う同じ俳優を繰り返し使いながら、ぜんぜん違う役をやらせるのがベルイマンの特徴でもある。 
映画やテレビは40本以上、演劇の演出は200本以上、そこで知り尽くした俳優たちを、ベルイマンは好んで使い、自らスターに仕立て上げてもいった。 
ちなみにマックス・フォン・シドウは『第七の封印』で十字軍に10年間参加して中近東から戻って来た騎士を演じたときで26歳、『処女の泉』の父役は27歳である。よく考えるとベルイマンのキャスティングは、年齢的にはしばしば無茶苦茶…であることに計算してみないとまるで気づかないから凄い。 
『ペルソナ』でも、失語症の大女優を演じるリヴ・ウルマンと若い看護婦のビビ・アンデルショーン、実は彼女の方がキャリアも年齢もよほど大女優だったりする。 
『第七の封印』ビビ・アンデルショーン
『ペルソナ』ビビ・アンデルショーン
『ある結婚の風景』ビビ・アンデルショーン

『野いちご』も、以前見ていた時と、ぜんぜん印象が違って驚いた。こんなにダイナミックで若い映画だったっけ?

主人公は当時78歳のスウェーデン映画の巨匠ヴィクトル・シェーストルム監督が演じているのだし、「若者には分かりにくい」という先入観を持ちそうになるが、考えてみたらベルイマンは当時まだ40前、5回の結婚歴を持ち、50代になってやっと「思春期が終わった」と豪語した彼だけに、けっこう若者の映画で、老人抱える心の葛藤も、思いっきり生々しい。

「頑固な老人」ではなく、ストレートにけっこうわがまま(笑)、そして自分が78歳になっても本質的に子供であり、人生の諸問題にこの年齢でも直面できないと自覚せざるを得ない物語なのだ。


『野いちご』冒頭の悪夢。
ことアップの積み重ねから突然フルショットに切り替える瞬間とか、
まさにベルイマンの演出の力技が冴え渡っている

78歳にしてほとんど「若きウェルテルの悩み」そのまんま、さて私の人生はなんだったのだ、という問題にぶちあたった時、ビビ・アンデルショーンが別れ際に「おじさんやさしくて素敵。大好きよ」といい、それでけっこう人生救われてしまうはずが、「辛い時には子供の頃を思い出すことにしている」と78歳の老人が、というまあなんというか…人生そんなもんだという希望まで、最後に待っている映画なのである。


『野いちご』で二役を演じるビビ・アンデルショーン
…というか、案外とベルイマンの映画はたいてい、ハッピーエンドとまでは言わないが、必ずラストになにかの「救い」があったりする。『鏡のなかにある如く』のラストとかになると、多少無理があり過ぎにも思えるが、『処女の泉』の謎めいた「救済」など、まさに圧倒的な説得力だ。



37歳のベルイマンのオリジナル脚本がなぜここまで78歳の老人の複雑な心境を…と思いきや、当時かなり不仲だったらしい父をたぶんに踏まえながらも、自分自身がビビ・アンデルショーンとの破局の後、『真夏の夜は三度微笑む』『第七の封印』で国際的な成功を収めながら、実はものすごく落ち込んで自信喪失のなかで書いた脚本でもあるらしい。

『野いちご』の悪夢、ヴィクトル・シュエーストレム監督
の代表作『霊魂の不滅』へのオマージュ
『処女の泉』も、中世が舞台で、キリスト教信仰と土俗信仰の衝突とか、難しいことを論じ始めたらいくらでも難しい映画になりそう…であり、現におえらい映画批評がそう論じて来た「名作」なのだが…

…それ以前に、もの凄く出来のいい超一級のサスペンス映画であり、巧妙に演出されたホラー映画なのである。

『第七の封印』も『処女の泉』もなるほど、中世ヨーロッパの世界観を忠実に踏まえた映画ではあり、キリスト教の主題が随所で繰り返されてはいる。


『処女の泉』インゲリ(グンネル・リンドブロム)はオーディーンの神に
カーリン(ビルギット・ペテルソン)への呪いをかけるように祈る
マックス・フォン・シドウ、グンネル・リンドブロム

たとえば『処女の泉』では、敬虔なキリスト教徒の主人公一家と対比されるように、キリスト教の普及以前の北欧のオーディーン信仰が出て来るわけで、この土俗信仰を表す象徴的な図像(たとえばガマガエル)も多用されたり、「難解」「知識がなければ」と言い始めるのは簡単かも知れず、また映画評論家の多くがそうやって難解に論じようともして来た。

金髪のカーリン(ブルギッテ・ペテルショーン)と
野性的な黒髪のインゲリ(グンネル・リンドブロム)
『沈黙』の理知的な姉(イングリット・チューリン)と
官能的な妹(グンネル・リンドボルム)
だがこの作品で初めてベルイマンと組み、以後ほぼ全作品で撮影を担当したスヴェン・ニクヴィストの、自然光を大胆に生かした艶かしい映像に注視し、あるいはとりわけ女優の演出には定評があるベルイマンが見事に演じ分けさせている、二人の若い女優の対照的な個性をストレートに感じていれば、そういう“知的”な解釈が実はぜんぜん必要ないことが分かるはずだ。



とりわけ、二人の対照的な娘が教会に蝋燭を届けるために通り抜ける森の描写のなまめかしさ、わけてもインゲリが同じオーディーン崇拝の仲間だと直感する男(アラン・エドワル)の住む、水がふんだんにあふれる小川沿いの小屋には、これが宗教の対立などと言った観念的、ないし薄っぺらなものでなく、「人間に従順な文明化された世界」と「飼いならされない野性・自然としての世界」の対立なのであることが、ほとんど肉体的なレベルで体感出来てしまう。


『処女の泉』、オーディン崇拝者どうし、
アラン・エドヴァル、グンネル・リンドボルム
外から入り込む光の織りなす陰影のパターンと、水の音を生かした音響設計の融合も凄いし、黒沢清監督などは明らかにこうしたベルイマンの表現に強い影響を受けている。

『ファニーとアレクサンデル』
死んだ父(アラン・エドヴァル)の遺体が安置された寝室は、
ふんだんに自然の要素で装飾されている
対照的にほとんどモノクロの、義父となる牧師(ヤン・マルムショ)の屋敷
『第七の封印』で死神が伐った木の切り株の上にリスが現れる
のは、偶然起こったことをそのまま撮影したのだという。
そしてベルイマンの映画では、こと『処女の泉』の場合にも、決して「文明=キリスト教=善」「野蛮=土着神=悪」という単純な図式や、あるいはそれを逆転させた反キリスト教というか、いわゆる近代主義の構図には、決して収まらない。


『処女の泉』撮影の想い出を語るブリギッテ・ペテルショーンとグンネル・リンドブロム



もしかしたらベルイマンがどうも決定的に誤解されがちというか、「難解」と思われがちなのは、むしろそうした構図や図式を拒否し、人間を取り囲む謎めいた世界の、人間の外にある自然も、人間のうちなる野性もまとめて受け止めることからしか「生きる」と言うことは始まらない、この根本的にはもの凄くシンプルな世界観に、多くの人がなかなか気づけないからなのかも知れない。


『処女の泉』マックス・フォン・シドウの父が復讐を前に身体を清めるのも、水である
そして父マックス・フォン・シドウが、殺された娘の復讐をするアクション・シーンは、映画史上屈指の暴力描写だ。これだけでも必見。

復讐の準備をするマックス・フォン・シドウ

三人を殺すなかでどう殺したのかがはっきりしてるのは一人目だけ、っていう演出も大胆不敵だ。



とにかく恐るべしベルイマン、なのである。

7/11/2013

本当に選挙を「棄権」してはいけないのか?


あと10日で参議院選挙の投票日だ。

おそらく投票率は、前回の衆院選挙と同レベルか、下手すれば(下手しないでも?)それより低いくらいのジリ貧になり、選挙特報番組ではキャスターや識者がしたり顔に「国民の無関心」をなじるのだろう。

選挙に行かないのは政治に関心が低く、つまりは民度が低いのだという(ホントか?)。選挙に行かないのなら政治に文句を言う資格はない云々。

こうした理屈は、本当に正しいのだろうか?

ここ二回の国政選挙について言えば、投票率の低さを国民のせいにする前に、選挙に行かないのはひとつのボイコットの在り方である、っていうくらいのラディカルな読み替えの視点を、一度まじめに検証していいように思える。

そりゃ投票率が低いと、それだけ自民と公明の組織票で与党勝利になると言われれば、その通りかも知れない。だが与党勝利を阻止するにも、これじゃあ誰に投票していいか分からないではないか。

いやもう、たとえば本当に「反原発」が目標なら、それこそ山本太郎なんてなんで立候補してんの? 

しょせんどうでもいい泡沫とはいえ、それでもこれでまた票が分散し、結果として原発をなし崩しに再稼働させたい与党有利になるだけじゃない。



今回の選挙の争点は実質ひとつしかなく、それが情けないくらいに極めてはっきりしている(他の争点は与野党ともに、どうせかけ声倒れで中身がないのも含め)。

衆院で与党が圧倒的過半数を占める時に、参院でねじれを維持するのか、衆参共に与野党過半数にするのか、である。

そしてそれだけなら、結論は分かり切っている。

衆院で与党が2/3を確保している以上、どうしても必要がある法案だったら、参院で秘訣されても衆院に差し戻して可決すればいいのだし、政策決定の慎重さを期し、衆院圧倒多数与党の拙速を防ぐブレーキ機能として、参院でのねじれは維持すべきだ。



この日刊ゲンダイの見出しは、もしこの結果になるのなら、誇張でもなんでもなくなる。

そうでなくても三年ちょっと野党だったあいだに、自由民主党の政策運営能力は目も当てられないほど低下している。民主党政見の期待外れのていたらくに、前回総選挙でうんざりしていた我々に突きつけられたさらに厳しい現実は、それでも民主党の方が勉強しているだけまだマシだった、と言うことだ。

それくらいに、安倍晋三首相を筆頭に、今の自民党の言うことはメチャクチャである。実務もなにも分かっておらず、官僚依存度は極度に高い。その官僚がまた保身と組織保全優先で、たとえば外交上の非常識さのあまり失点ばかり重ねる首相というオツムの出来が悪い、甘やかされた猫の首に、ようよう鈴をつける度胸すらない。


しかしそう思って改めて候補者を物色してみると、東京選挙区ならつまり、自民党は武見敬三さんと丸川珠代さんなわけである。

うぅむ、以前だったら「武見ジュニア、二世なんて」と言ってたかも知れないが、今や自民党のなかではまだ数少ない、勉強はまだやってるし、ある程度はちゃんと世の中のことや政治の役割が分かっているマシな方、現職でいてくれた方がまだ安全かもしれない人ではないか…。

丸川さんはもちろん論外であり、なんとか落としたいところだが、公明党は委員長の山口那津男さんである。

委員長を落とせば公明党には大打撃だが、どうせ東京選挙区で公明党が揺らぐわけはない…。

…というか、どうせ東京選挙区は五議席なので、よほど野党が共闘して阻止、野党側で三議席を狙わない限り、与党がこの三議席を確保するのは、ほぼ確実なのである。

せめて丸川珠代さんは論外だから、野党側で三議席は確保すべき…なんてとても狙えないくらいに、野党側候補が乱立し過ぎていて、いずれも主張に決め手が欠けるのだ。

民主党は鈴木寛さんの票が割れて共倒れにならないよう、公認を一本化した。

すると外された大河原雅子さんが無所属で立候補し、首相をやめたとたんに反原発になった(あんたなぁ、それは首相やってる時に言わなきゃ意味ないだろ…?)菅直人が大河原さんを支持するという。

どっちもあまりパっとしないので、結局は票は割れるだろうし、それ以前に、かつての民主票が確保出来ているかどうかも怪しい。

民主党にかつてリーズナブルな年金制度改革など、安定した生活の政策的な担保を期待したりした票は、生活の党系か、あるいは共産党か社民党…はもうないだろうな、マスコミがちゃんととり上げないので知名度に弱みがあるものの、主張の中身からすればむしろみどりの風に、分散するだろう。

自民政権が第一次安倍内閣を境に官僚独裁色を強めたことに反発した層は、みんなの党か、下手すると維新に流れそうだし、反自民・反公明が主眼の票はそれ以外の泡沫(しかし東京選挙区は…また山本太郎…ですか?)にも分散する。

そのみんなの党と維新は、東京選挙区は芸能人系候補者である(山本太郎を嗤えない…)。

うぅむ、桐島さんのところの元イケメンのボンねぇ…。

維新から出馬の元テレビ・アナウンサー氏の街頭演説
「参院の機能を回復すべき」は正しいが、なら維新から出るか?


みんなの党は、官僚制打破を掲げるのはいいのだが、未だに「規制撤廃」だけが改革の旗印で、しかもそれが医療における混合診療容認、アメリカ系の保険会社の利益に沿って、日本の(いろいろ問題はあってもまだ世界一安定して公平な)医療保険制度をぶっ壊すことを公約にしている。アベノミクス批判も、それが人工バブルのからくりでしかないことには目をつむり、「規制撤廃を進めなきゃ本当の景気対策にならない」と、十年どころか二十年一日の主張しかない。

これではいくら官僚独裁を危惧するといっても、日本がどうも不況に見えるのは、年金制度が先細りなので老後を考えると預貯金を崩せない、そこで銀行にだけやたら金がプールされるキャッシュの流れの悪さが原因のひとつであることを考えれば、かつて民主に政権交代をさせた票はそっちには動けない。

ミッチー・ジュニアの志は買わないわけではないが、中身がしょせん、通産官僚出身者の唱える江田イズム的「官僚制打破」に過ぎず、社会保障の重要性が抜け落ちている。

だいたい、規制緩和の「改革」なら、日本ではもう20年以上やって来たはずだ。それで景気はよくなりましたか?

医療や労働市場の規制撤廃は、かえって中産階級を痛めつけ、健全な消費能力を阻害し、買う人が減るからデフレ、そして可処分所得が一部に集中してますます給料は上がらず雇用は改善せず、官僚制は強化されただけ、という結果が、もう出てしまっているではないだか?

それに地方分権は、ここまで中央集権の制度疲労が激しい日本の現状では大いに論ずべき課題ながら、慎太郎と橋下以外はほんとロクな人材がいない維新なんて、自民との差異化を一生懸命宣伝していても、肝心なところでは結局極右化かつ官僚依存を強める自民と変わらない。

みんなの党もこうなると「規制緩和で官僚の権限を減らせ」だけの、馬鹿のひとつ覚えの迷走中だし。

党首の述べる党の政見や方針が筋が通ってる、というか主張がちゃんとあるしそれなりにしっかりしている、アベノミクスであるとか原発再稼働容認(それにしても「世界一厳しい基準をクリアしたから安全」と言い張る安倍首相って、本当に頭が悪過ぎるだろう?)、外交を無茶苦茶にする今の自民党に対する批判がそれなりに筋が通っているのは、生活の党と共産党、あとは間の抜けたマッチョぶったボンボンだらけの今の政界に女性の智慧を期待したいみどりの風だけだ。

だから比例はこのどれかに入れるとしても(比例票はまだほぼ議席に反映される)、東京選挙区はどうすればいいのか? 



民主系にしたって、鈴木寛さんと大河原雅子さんで票を分け合って「死に票」が大量に出て来るのは目に見えている。

代々木もねぇ…吉良佳子さん30歳がどんな人かすら知らないが、反原発デモに熱心に通ってたという程度の経歴だけで、そこまで票が集まるだろうか?

代々木としては比例で議席確保できればいい、くらいの考えで捨て駒なんだろう。

だったらまだポスターの顔写真の比較(どっちがより賢そうに見えて美人か)と、党それ自体への期待(生活に根ざした根性ある女性たちの党みたいだし)で、みどりの風のまるこ安子さんか…と思いつつ、知名度の低さから、これも死に票になりそうだ。

繰り返しになるが、最大の争点は、要するに東京選挙区なら自民公明に三議席とらせないこと、少なくとも丸川珠代さんは落選させること、である。

…と、ここまで悩んでも結局死に票になる、東京選挙区ならば自公で三議席はほぼ不動だろう。与党に三議席を与えないこと、を野党側が戦略としてまったく選んでないんだから、有権者の出来ることはほとんどないのだ。

せめて「この人は参院に行って欲しい」と有権者が思うような候補を、野党側が三人は並べなければ意味がない(しょせん、丸川珠代ごときを落とせばいいだけだよ?あんなのよりはマシな人なんて、探せば幾らでも出せるだろうに)。


それでも「選挙に行かなきゃ非国民」的な批判を、新興宗教の信仰告白みたいに繰り返して、本当に意味があるのだろうか?

世論調査であるとかの動向をある程度見た上で、どうも与党が圧勝しそうな流れならば、あえて投票に行かない、という選択もあると僕は思う。

どうせ反自民票が分散するのなら、史上最低の投票率という形で不信任を突きつけるという発想だって、なんらおかしくないではないか。

投票率がそれこそ30%代に留まるような結果になれば、現政権が「民意の支持を得た」とは、まともな感性があれば、とてもではないが言えない。

…ところがマスコミでは誰も、そうは言わない、思わないんだろうね。

投票率が低いのは、選挙に行かない国民は、けしからん、この教条主義だけで思考停止−こんなグズグズな選挙にしてしまった側、つまりは政治家たちのていたらくは一切報じない。

野党側が現与党の暴走を本当に懸念して、ねじれ維持を訴えるなら、どうせ負けて失う自党の利益の死守に拘泥するよりも、野党連合で候補者を絞り込んで、対決を明白にすることだって出来たはずだ。

だが彼らには、しょせんやる気がないのである。

候補者を絞って与野党対決を明確化する、勝負に出ることすら出来ないのに、それでも「ねじれを維持するかどうか」だけが争点になる、まっとうな政策論争すら出来ない選挙に成り下がっているのは、政治家だけの責任ではない。政策論争を報道する能力を失っているマスコミの責任の方が大きいくらいだ。

とにかく今回の選挙は、不便・不都合が多いのは百も承知で、期日前投票は避け、朝に投票に行って後は日曜を楽しむことも避け、動向を見た上でギリギリで、投票先だけではなく、投票に行くかどうかそれ自体を判断することを、お薦めする次第である。

そして選挙に行かないと判断した場合は、「自分はボイコットしたのだ」とツイッターでもマスコミや政治家・政党のサイトのコメント欄なんでもいいから、大声で主張することを、ぜひお願いしたいのである。

だいたい、「選挙は行った方がいい」程度の言い方なら分かるが、「選挙に行かないヤツは」云々(「資格がない」だなんて、まるで「非国民」と言わんばかり)、行かないのは悪だの、政治や選挙結果を論ずる資格がないだのと言い出すって、どこまで権威権力服従嗜好の全体主義なのか、それだけでも気持ち悪いではないか。

7/08/2013

震災と原発事故発生から2年4ヶ月…〜「しょうがない」では済まされない人災


まず告知。2年と4ヶ月と3日にあたる7月14日に、2011年東京フィルメックスでの上映以来久しぶりに、『NO MAN'S ZONE 無人地帯』を東京で上映する。


NO MAN'S ZONE 無人地帯
2012年/日仏合作/カラー/DCP/105分/日本語、英語
撮影 加藤孝信 編集 イザベル・インゴルド 音楽 バール・フィリップス 整音 臼井勝 ナレーション朗読 アルシネ・カーンジャン 製作 ヴァレリー=アンヌ・クリステン、ドゥニ・フリードマン 監督 藤原敏史
国際配給 Doc&Film International




昨年2月のベルリン以来、世界各地の映画祭で上映し、スイスでは劇場公開も終わってDVDが発売中、福島県内では何度か上映してもらって来たが、東京は久しぶりだ。

上映イヴェント&シンポジウムの案内はこちら↓

「シネマ・タイフーン: 記憶の表象、表象の記憶――「フクシマ」を撮るとはどういうことか」
7月14日(日) 13:00 – 東京経済大学B201教室
http://cultural-typhoon.com/2013/access/

…しかし…やれやれ…「『フクシマ』を撮る」かよ…。

イヴェントとシンポジウムの題名からすると「断ればよかった」と思わなくもないのが、正直なところだ。

まだカギカッコに入ってるということは、「フクシマ」というカタカナ表記それ自体を問うという意味合いもあるのだろうと期待するのだが、いったいいつまで「ヒロシマ」に倣うかのように福島をカタカナで呼ぶ差別的なスティグマを押しつけ続ければ気が済むのだろう?

企画し、上映したいと言って来たのは、以前一橋大で教えていて今は東大に所属する友人のニコラ・リスクーティンで、英語のやりとりだったから、まさかこんな日本語題名だとは思ってもみなかったし、彼女もまたそれは気がついていなかったのだろう。

しかし日本人スタッフの、このセンスの悪さはなんなの?

一応、カルチュラル・スタディーズの研究者が主体らしいのだけれど、うーむ、この人たちはカルスタの一体なにを勉強したんだ?

せめて「フグスマ」とでも福島弁で訛ってシャレてくれれば、まだカルスタ的に救いがあるのだが…。ああ我が国は、地方を足蹴にして搾取して来た歴史の最悪の事態が起こってもなお、明治以来の中央集権なマジョリティ様のお国である。

一緒に上映されシンポジウムにも参加する、友人の舩橋敦史が監督した『ニュクリアー・ネイション』も、日本公開題は『フタバから遠く離れて』にされてしまっている、おいおい…。

ちなみに舩橋監督に確認したことはないが、原題は核家族、ニュクリアー・ファミリーに引っ掛けたダブルミーニングなのだろう、と僕は勝手に思っている。 
おじいちゃんおばちゃんと同居しなくなった子供が、どうにも「死」の観念をちゃんと理解出来なくなった、共同体の生活規範が身に付かない、やがて引きこもりが増えた、などの戦後の核家族化の問題点を国家レベルに敷衍すれば、他者性の欠如した本質的に身勝手な国家政府のビヘイビアがある種の末期症状に達し、同じ国家の成員である原発事故被災者についてすら、まともにケアするどころか、ちゃんと認識すら出来なくなった、その結果の悲劇にすらなり得ないぐずぐずの悲惨が、3.11以降の日本の現状である。 
原子力依存や核兵器フェティシズムだけではない、核家族ならぬ核国家としての平成ニッポン。

この映画でいわばヒーロー役になった、「推進派が原発事故で改心して反原発になった」双葉町の町長だった井戸川さんは(ってどういう地方の現実無視の図式なんだよこれ?)、いつまでも避難先の埼玉から動かないことが、故郷の少しでも近くに戻って生活再建を志す(といって、後述の通り出来ることはあまりない)町の人たちの不興を買い、「原発の地元は推進派で原発マネーで汚れているんだ」という差別偏見丸出しの決め付けをする東京のいわゆる「反原発」(って、本気で原発を止めて行く気があるのかどうか、僕にはよく分からない・これも後述)べったりに見られてしまったこともあってか、町長辞任を余儀なくされた。

加須市の旧葛西高校には、今なおお年寄りを中心に、109人が寝起きしている。

数日前の、朝日新聞のレポートはこちら

この人たちは「井戸川派」なのだろうか?

むしろ僕には、先に希望が見えないままなのでもう諦めてしまった、このまま余生は避難所暮しでも、周りに人がいるだけ寂しくなくていい、と心を決めてしまったように思える。

いわば「『被災地以外の日本』に見捨てられた人たち」になってしまっているのではないか? 同じ国の、同じ国民だというのに。

双葉町の農地から見えた、原発の煙突
しかし井戸川さんは、この残された町民の人たちに対してどう責任を果たすのだろう? 
映画の続編はどうなるんだろう?
井戸川さんをただ責められる立場に自分はいないが、井戸川さんを後先も考えずに利用した人たち(こういう結果になることは、ちょっと考えれば誰でも気づくはずだ)の責任は、やはり無視出来ない。 
決して「井戸川さんの映画」ではない、あくまで双葉の人たちの映画なのに、公開イヴェントの客寄せで井戸川さんをしきりに招いたりしたことが、映画がある程度儲かることにはつながったが、井戸川さんにとっては致命的になってしまった。 
“分断” に追い込まれた格好になる双葉町民に至っては、それ以上に困った情勢だ…。除染で出た廃棄物や、原子炉の使用済み燃料などの最終処分場はどこに作るのか? 結局、帰宅困難地域(後述)となる原発周辺しか立地がないことは、双葉や大熊の人たちの多くは、ある程度は覚悟している。 
だがそれなら、国にごり押しやなし崩しはさせない、きちっと頭を下げさせてお願いさせる、帰れない住民の未来を相応に保障することは最低限の条件だ。 
いやそれに、どうしても故郷は棄てられない人たちにどう納得してもらうのか? 
分断している余裕はないのである。 
いや双葉町民が分断したのではない。いわば東京に代表される(あるいは東電管内、と言ってしまってもいい)中央集権でいちばん得をして来た側に振り回され、分断させられているのだ。  

宮城県・名取市、津波で被災した閖上中学校

そしてその一週間後は、またまた気の重い(入れる政党がない…)参議院選挙である。

「アベノミクス」が根本的に数字のお遊びの金融ゲームでしかなく、その人工ミニ・バブルを実態経済の回復に結びつける施策が出て来なきゃ意味がないこと、日中関係、日韓関係を悪化させ続ける現政権が、アメリカとの関係まで悪くして、むしろ不況要因になりかねないことは、本ブログの昨年末、今年始めの項で論考済みなのでそちらをご参考下さい。 
全体主義国家へようこそ  
日本は本当に「危機」なのか? 
日本は本当に「危機」なのか・その2 
集団的強迫観念の虚言癖状態になったマスコミが日本を滅ぼす 
新流行語?「レーダー照射」ってなに?


「世界一厳しい基準をクリアしたから安全」と言い張る安倍首相以下、どれだけ論理的におかしいだけでなく、2年前の「想定外」の事故から自分達がなにも学習していないことを誇らしげに公約に掲げる自民党も謎なのだが(安全基準はしょせん、想定されるトラブルの予防としてでしか決められないもののはずだが?)、「原発ゼロ」「反原発」を掲げる野党も、「では具体的にどう止めるのか」の具体案は、なにも出す気がないらしい。

これでは前回の衆院選と同様、参議院選挙でも「脱原発」は争点にはなるまい。 
これで本気だと思えと言うのなら、国民(とくに東京の電気のための原発の犠牲になった浜通り・双葉郡、相馬郡の人たち)をどれだけ馬鹿にしているのか?

この二年間で分かったのは、原発抜きでも電力はなんとか賄えるということだ。

もちろん予備分の余剰電力が10%を切ることもしばしばで、20%ののり代は欲しいとされて来た従来の運用からすれば、安心とは言い難いにせよ、「なんとかなって」しまった電力会社の技術陣の努力は、正直言って予想外だ。 
一般市民が「節電」に気づく契機すらほとんどなく、製造業など大口利用の事業者にはかなりの節電努力が課せられたままとはいえ、それぞれに極端なタイムシフトもなくなり、ほぼ平常道理の工場操業は取り戻せている。 
つくづく「お客様は神様」というか、一般消費者には決して迷惑はかけまい、恥は見せまい、という古典的な日本の経営倫理は、案外とまだまだ健在だった。 
お陰で「お客様」であるわれわれ一般市民は、その実なんの責任も考えずに、ただ「福島」だか「フクシマのひとたち」を心配する素振りを続ければいいのだから、恐ろしく楽ちんではある。 

だから電力供給自体はどうにかなりそうだし、ではこの二年の経験を元に新たに恒久的な電力供給プランを作れ…という要求を「反原発」を掲げる野党が要求しないのも不思議だ。

今や原発を再稼働させなければならないとする最大の理由は、あくまで私企業であり、営利目的つまり利益を上げなければならない株式会社である電力会社の、資本主義の企業に課される経営上の倫理の問題なのだ。

営業運転をしていない原子炉は膨大な維持費を、なんの利益も上げないままに食いつぶす。資本財、資産である原子炉を、電力会社は株主の了解なしに廃炉、つまり資産価値ゼロとみなすことも出来ない。

実際の廃炉解体の技術もまだ開発途上の未完成で、これも急ピッチで完成させるなら相当な開発費になる(それも収益に直接は結びつかない技術)。こうして会社の儲けや、総資産を減らすこと自体が、株主に対する背任行為にもなり得るのが、現行の法律だ。

それが現代の金融主体の資本主義のシステムなのだから仕方がない。ここで必要なのは政治決断、政策的な決定であり、たとえば原子炉の所有権・管理権を一括して国に移管し、国家政府の責任で廃炉を進めて行くべきではないか、と言ったような政策提言だ。

(…と言うと、電力会社から買い上げるなど、それなりにキャッシュが動く話にしないと私有財産権の侵害となる可能性はあり…ってところでまた「東電を儲けさせるのか?!」というヒステリーが始まるのだろうなぁ。いやだから、東電叩きと原子炉を止めること、どっちが優先なの? 東電の経営が悪ければ、それだけ福一の事故対処にかけられる金額も減ることも分からないのだろうか?)

野党は官僚が握る詳細なデータを持っていないから詳細は決められないとはいえ、大枠の政策くらいは公約として提言出来るはずのことだ。

…ところが、それをやる気が一切ないらしい。

政府与党や官僚機構だけではなく、野党も含めて、この二年間なにをやって来たのだろう?

だいたい、2012年6月の段階で「再稼働反対」でデモを始めただけでも勉強不足(最低でも電力供給シミュレーションの検証など、半年は前から要求しなきゃ阻止出来るはずがない)、そして再稼働を強行されたら運動が瓦解…って? 
真面目にやっていたとは思えない…。

いわき市・久之浜は津波被災後、火災が発生し焼け野原に

「二年間なにをやって来たのか?」これは震災からの復興となるともっとのしかかって来る巨大な疑問…

…でもないのは、答えが簡単過ぎるわけで、「実質的なことはなにもやっていない」のである。


いわき市勿来、子どもたちのためのサッカー場は、今は瓦礫置き場である。瓦礫は丁寧に分類されているが、その先はなにも決まっていない。








津波で流された地域が、瓦礫は撤去…というか整理はしたものの、廃墟のままで、そこに街を建て直せるのかどうかの目処も立っていない、というよりも、なにも決める気がないのは、尋常ではない。


宮城県・石巻市

津波被害を受けた場所を再建していいのかどうかも決まってないまま、住民=被災者はなにも出来ずに待っているだけだ。

なにかを決めることで責任を負いたくもない。もともと過疎化が進んでいた土地、このまま待たせておけば故郷にこだわる老人は亡くなり、若者は諦めて出て行くだろう、とかタカを括っているのではないか?


『無人地帯』に登場したいわき市・豊間の、四家さんご夫妻の、
津波に耐えた築120年の家は、まだ修理も出来ない。


そう邪推すらしたくなるほどの薄情さであり、徹底して無責任を決め込んだ不作為だ。

天変地異はまだ「しょうがない」にしても、決めるべき責任のあるはずの人たちが、出来るはずのことすら何もしない、考えもしないこの不作為という人災。

今回の震災で直接被害を受けたのは、人口一億三千万の日本国で、わずか30万強だ。

マグニチュード9クラスの巨大地震で、空前の巨大津波が来襲してもこの少人数の人的被害(たいていの国では、死亡者だけでこの数を超えそうだ)、在日コリアンより数が少ないほど、助けようと思えばみんなで助けられる規模である一方で、存在を無視しようと思えば簡単に出来てしまう…

…それもまた、現実になっている。

昨年のお盆に警戒区域が解除された楢葉町、かつての庄屋の屋敷



原発事故が原因の避難地域は、昨年度末・今年三月末を持って「警戒区域」はなくなり、再編された。

本当は富岡町などの場合、2012年の3月に決まるはずのことが、一年先延ばしになっただけだし(お陰で夜の森の桜は、1/3だけは今年は見られたものの)、これが避難させられている皆さんに実際にどういう意味を持つのか僕も図りかねていたので、今までこのブログでは、あえて言及しなかった。

とはいえ、昨年のお盆で解除されている楢葉町の現状を、昨年の夏、秋、冬と見ていたので(撮影しているので)だいたいの予想はついていたし、その通りになってしまっている。


楢葉では解除になってからやっと、環境省から200億規模の膨大な予算が出て除染作業が始まった…といって、取り除いた土や木、草などをどこに持って行くのかが決まっておらず、楢葉町の美しい田園には、そこら中に除染廃棄物を詰めた黒い袋が目立つ。

除染作業はゼネコンに丸投げされ、福一原発での作業がなくなった原発下請け業者などが、会社を存続させるために作業を引き受ける。原子力や放射能をよく知っている作業員からすれば、「なんなのこれ?」的なマニュアルの決まりごとも多く、それが「手抜き作業」とマスコミに告発され…といって、マスコミも識者も、東京で決められたマニュアル自体が不備・非現実的である可能性には、誰も言及しないのである。


国が決めたマニュアルだから? だから放射性物質のビヘイビアは物理と化学の法則に従うものであって、そんな人間世界の政治の都合が関係あるはずもなかろうに。



では、警戒区域の廃止・避難区域の再編で、なにが変わったのか?

ぶっちゃけて言ってしまえば、「避難解除準備地域」という名前になった場所は、日中は一時帰宅などの許可なく自由に出入りは出来る…というだけのことである。

いつになったら住めるようになるのかは分かっていないし、「帰宅困難地域」となった場所は改めて道路がバリケードで封鎖され、これが解除される目処はまったく立っていない。



結局のところ形だけ、およそ「復興の第一歩」には見えない。

国は被災者が諦めるか、亡くなって行くことを期待でもしているのだろうか?

楢葉町、木戸ダム


震災も、原発事故も、「被災地以外の日本」では、最初はグロテスクな「世界の終り」的な、ホラーじみた黙示録的エンタテイメントとして消費され、それに飽きると「視聴者にショック」という理由で津波の映像等は排除され、「絆」だの「復興」だのの美辞麗句で粉飾された、お涙頂戴のメロドラマに転換された。

すべてが「そこ以外の日本が消費する娯楽」にされてしまった。

それこそ昨年には自分達が「さいかど~はんた~い♪」と踊っていただけであることを、もう忘れているらしい人たちも含め(しかし彼らは、なんで踊ってたんだろう?)。

だがそれは、福島第一原発事故の現実では、まったくない。


 昨年12月、一時帰宅した大熊町の梨農家(続編『…そして、春』撮影素材)

現実は、「終り」が見えるエンタテインメントではないし、そこには起承転結がはっきりして結末の大団円が見えるメロドラマ構造も期待出来ない。

ひたすらなにも変わらない現実が、延々と、果てしなく…日常になってしまったままの非日常が、ただ継続するだけである。

この蛇の生殺し、真綿で首を絞めるようなじわじわした「殺し方」は、怒り反抗する力も奪い、もう国やその他の日本には頼れない、自分たちで頑張ろうと言う気力すら、日々すり減らして行く。

積み重なるのは、ひたすら疲労だ。

ここに政府や政治家や運動家たちの「悪意」はない。

彼らは「自分達は一生懸命やっている」と堂々と胸を張るだろう。なかなか進まないのは自分達のせいではない、「しょうがない」のだと。

だがこれは、震災と大津波と、その引き起こした想定外の原発事故については、「起こってしまったこと、今さら騒いでもしょうがない」と、自らの人生を生き続ける決意を秘めて「しょうがない」と言った、『無人地帯』に登場して下さった多くの方が口にした、農業や漁業で自然と共に生きて来た人たちの「しょうがない」とは、明らかに意味が違う。

『無人地帯』に登場する浜通りや飯舘村の人たちの「しょうがない」が、百姓の国の民草の叡智と誇り(人前で泣き言繰り言はいうまい、くよくよせずに生きていくしかない)を表す言葉だったとするならば、こちらの「しょうがない」は、どうしようもなく自分たちにだけは甘い者達の、言い訳に過ぎない。

『無人地帯』冒頭シーンを撮影した浪江町、請戸港。
線量自体は、いわき市小名浜とほとんど変わらない