最新作『無人地帯 No Man's Zone』(2012)
〜福島第一原発事故、失われゆく風景、そこに生きて来た人々〜
第62回ベルリン国際映画祭フォーラム部門正式出品作品

8/03/2013

被災地で映画を撮るということ・その4


このお題は一昨年の5月以来、何度かこのブログに書いて来たことだ。





毎回毎回、書くべきことも、書くのには微妙なことも多く、どうにも考えの半分くらいしか書けて来ていない、奥歯にものが挟まった感じが否めないのだが、さて今回こそ、ちゃんと書けるだろうか?

一昨年の震災と原発事故の結果、神戸の震災やサリン事件とは比べ物にならないほど、膨大な量の映画が「被災地」「被災者」について作られた。誤解を恐れずに言えば、東日本大震災について、あっというまにこれだけの映画が作られたことは、ある意味で「安易」である。

自分だって『無人地帯』という警戒区域になる直前の20Km圏内、ようやく“兵糧攻め” が終わったばかりのいわき市、避難直前(のはずだった・実際にはちょっと違った)の飯舘村を撮った映画を作り、今もその続編をやっているのに、他の人が撮ったものに、僕自身は関心がほとんどないのが、正直なところだ。

別に「影響されたくない」とか「ライバル視してもしょうがない」というわけですらなく、単になんとなく、自分自身の気持ちとしては興味が湧かないだけです。むしろ「影響されたくない」を見ないことのいいわけにしたくらい、怠け者なんでしょう。

とはいえ映画祭だのシンポジウムなどの機会もあるので、こうなると義務としてなんだかんだ見てはいるが、よほどの理由がない限り、言及する気もしないし、シンポジウムで出される議題にも、いかにも「フクシマの人々のために映画を撮った」と語る同業者にも、困惑したりする。

「きれいに生きたい」のは分からないでもないが、そんなに人の上に立って正義の味方と認められたいのだろうか、とか思ってしまう。

いや想像を絶する大津波に息を呑み、「安全神話の崩壊」なんて暢気な話ではなく、私たちの文明や科学が予想できていた範疇を越えた、文字通り想定外の事態で原発事故が起こり、原子力の宿命としてなにも見えない(原子炉の中なんて目視出来ないし、放射能も目に見えない)破壊に直面し、そのことに対して私たちの文明も知性も恐ろしく無力であることを目の当たりにすれば、この三重の大災害(天災二つと想定外の人災)を前に、「自分は正しい」と思える立場なんて、存在し得ないと思って来たのだが。

だからなんだろうか、震災直後にはタルコフスキーとかアレクセイ・ゲルマンとか、ロシア=ソ連映画を、なぜか見ていた。 20世紀にもっとも不条理に直面した文化が産んだ映画だからかも知れない。
『無人地帯』を撮ったのも、自己分析をあえてするのであれば、全体像なんて誰にも捉えられないであろうこの災厄の、しかしそれでもその総体が持ち得る意味をなんとか映画という手段で探るため、いわば最初から答えのないのが分かっている問いに、一本の映画という解答を提示するためだと言ってもいいのだろう。


だいたい直接に「被災者のため」を望むんでいるのなら、ボランティアをやるか、映画作りでなく報道に専念するか、それこそ政治家を目指す方が手っ取り早いんじゃないか?

でもボランティアだって報道だって、「自分がやりたいからやる」でないと続かないと思いますよ 。

それに「自分がやりたいからやっている」のだからこそ「迷惑はかけちゃいけない」わけで、然るべき配慮が出来るようになるのだし。


『無人地帯』は断じて「福島の人々のため」という恩着せがましいつもりで作った映画ではない。


自分が原発事故について映画を撮るべきだと思ったから撮っただけだ。テーマの重要性も考えるにせよ、それ以上に「目に見える破壊(津波・地震)と目に見えない破壊(放射能と風評)を映画として誠実に表現することは可能なのか?」、そのチャレンジに惹かれたことの方が大きいとさえ言える。


続編『…そして、春』を撮っているのも、つき合い続けるのが義務だとか、責任感だとかでもなんでもなく、こういっては誤解されそうだが、主題そのものは辛いものなのに、撮りに行くのがおもしろい、楽しいとさえ言える。

『無人地帯』の出演者のなかには『…そして、春』に再登場する人もいるが、正直に言ってしまえば、再会するのが嬉しいのだ。


だいたい「3月10日に一時帰宅するんだけど、来ない?」という友達の誘いがあって、「わざわざありがとう、なら行くよ」で始まった企画だったりする。
しかも偶然なのかそう申請したのか、わざわざ震災の一周年の前日に一時帰宅するんだから…。そういう友達との付き合いが続く理由になるんだから、撮り続けちゃうのも当然でしょう? 



とはいえ震災や原発事故を撮ると「社会的関心の高い、真面目な人」と見られるのはしょうがないんだろうし、また実際に被災地の皆さんにお世話になって手間をかけているのだから、せっかくいろいろとキャメラの前で話して下さることは、少しでも世の中に伝えなければならない。

ただそれは当然ついてまわる話であって、ことさら吹聴したり、それが動機だと言い張るのも、はしたないような気がするし。

先週末には、一部の「帰宅困難地域」を除けば日中には出入りができる、双葉郡の「避難準備区域」になった場所や、南相馬市の相馬野馬追いを見て来た。続編『…そして、春』は震災後一周年から始まって丸一年の記録という構想だったはず、撮影は終わってるはずだと叱られそうだが、誘われたりするとつい行きたくなってしまう、行ってしまえば撮ってしまう。



まあ映画なんて、結局は「自分達が作りたいから作る」ものでしかない。そして僕たちは結局、「おもしろい映画を作りたい」だけなのだ。

それが結果として何か社会に貢献したり、ドキュメンタリーなら出てくれた人の現実や、その考え、その言葉を世間に伝えることになるとしても、「誰某のため」などと義務感、責任感を口にするのは、ずいぶん厚かましい大言壮語に思える。

とはいえ「震災・原発事故もの」には「被災地の現実を伝える」、被災地への支援や復興への理解に役立てる、という役割は本来なら当然引き受けてしまうわけで、広く見られなければ困るのはその通りなのだが、このドキュメンタリー映画のサブ・ジャンルと何本かの劇映画が直面した現実を言えば、ほとんど世の中に影響を与えることも、議論を喚起することもなく、ニッチ・マーケットに留まり、商売として成立することも難しいまま、すでに消えつつある。

『無人地帯』の日本での公開となると、被災地以外、とくに東京の人には刺激が強過ぎるから、緊急報告的な中身にはならなかったことだし、少し世の中が冷静になってちゃんと理解されそうになってからにしようという話だったので、今はちょっと困ってしまっているのが、正直なところである。 
少しでも多くの人が見て下さり、「原発事故とはどういうものなのか」をじっくり考えて頂けるタイミングを見計らっていたら、どうにもただ「忘れられた」「関心が薄れた」だけになっているようで…。
 ちなみにスイス版のDVDはこちらで購入できます。
 なお9月には、新潟県のながおか映画祭で上映。  
…というよりもっと怖いのは、つまり原発事故で避難した人たちについてただ「忘れられた」「関心が薄れた」となっているわけで、むしろこちらの不甲斐なさを心苦しく思うべき話でもある。

どうもニッチ産業の徒花になりそうな「震災・原発事故もの」映画のなかで、唯一の例外があるとしたら、こればかりは現実社会に作用しそこの人々の一生に影響を与えてしまったことを否定しようがないのが、『フタバから遠く離れて』だろう。

 映画『フタバから遠く離れて』予告編

この映画それ自体の批評というのではなく、それがどう現実に影響してしまったのかを、やはりそろそろ、ちゃんと言わなければならないように思う。

今さらこんなこと言い訳めいて書くのもどうかとは思うが、本当は最初から想定の範疇のことだし、それが現実になる前にはっきり警告しておくべきだったことは反省しなければなるまい。

本来なら芸術作品が現実を変えるのは、あくまで見て感動した人間の方を変えるのが役割であって、作った側の人生が変わるのは不可避な結果論でしかない(そしてたいがいの芸術家はそこで堕落する)。

撮られた側、モデルや題材になった側が振り回され損をするのに至っては、あってはならないことのはずなのだが、『フタバから遠く離れて』というの映画の場合、世の中が双葉町のことを考える、避難させられた町の人たちに気を遣う契機にはほとんどなかった代わりに(見た人とて、後述するように事前の期待を「再確認」することにしかならなかったわけで)、取材対象となった埼玉県に避難した双葉町が分断・分裂の危機に陥る契機のひとつに、この映画がなってしまったことは否定しようがない。



いや、そうなることは映画それ自体が持っていた構図からすぐに想定出来ることなのに、作り手や興行・配給が細心の注意を払うべきところ、むしろそれを怠り、映画が現実を左右し振り回し得ることを、むしろ確信犯的に(しかし恐らくは途方もない無自覚さで)、加速させてしまったようにも見える。

映画それ自体が持っていた構図に関して言えば、『フタバから遠く離れて』だけを批判するのはフェアではない。

むしろ「震災・原発事故もの」のドキュメンタリーの多くや、何本か作られた劇映画のほとんどすべてに共通する問題であって、『フタバから遠く離れて』の場合はたまたまその組み合わせから、現実の双葉町の人たちを振り回す結果になっただけで、こうなる危険を抱えた「震災・原発事故もの」は多い(というか、ほとんどがそう)のだし、それはTV報道も同様だ。

たとえば陸前高田の奇跡の一本松をはじめ、メディアの狂躁に振り回される被災地の例は枚挙に暇がない。
枯死してしまった幹に樹脂を注入し、強化プラスチックの枝つきで「永久保存」される、それだけ聞けばほとんどブラックユーモアのような結果になってしまったからといって、地元を冷笑できるものでは決してない。 
町がまるごと津波で消えてしまったまま、津波被害の跡地になにも建てられない陸前高田には、他に「売り物」になるもの、ここ以外の日本、とくに東京に注目してもらえるものが、文字通りなにも残されていない。 
そして東京に忘れられることは、支援が途絶えること、政治で無視されることに通じ、被災地の多くの自治体にとっては死活問題になる。 
だから東京のメディアが話題にすれば、それに追随しないことはもの凄く難しいのだ。どうしても報道に振り回されてしまうのだ。


では「震災・原発事故もの」の映画や報道の多くは、なにが最初から問題であり、危険だったのか?

『フタバから遠く離れて』について製作者側が無邪気に明言してしまっているのだが、「とにかく福島からいちばん遠くに避難したことがいちばん理解出来た、自分には分かり易かった」のだそうだ。


「自分達が即座に理解出来るもの」を撮ることから始まり、そこで「理解したつもり」の自己満足(その実、ただの「期待通り」でしかない)に、撮られる側の被災地を巻き込むことでしか、映画が成立していないのである。

そしてそうした映画は、作家が表明する関心(たとえば「反原発」や「政府批判」などの政治性の図式)に共鳴した観客(主に都市部の、「意識の高い」)を集めるように宣伝され、作家と観客の共通した期待通りの「自分達にいちばん理解できる被災地、ないしフクシマの人々」像を再確認することで、消費される。

そこに最初から「理解出来る」=「味方できる、自分達の側」の予定調和しかないのなら、なにかが根本的に間違っているとしか言いようがない。

他者が巨大な天変地異を前になにを思い、どう振る舞うのかを「自分が理解できる範囲」で済ませてしまうなら、そのことだけでも、えらく無邪気に傲慢だ。

この三重の大災害を前に、僕たちがとれる「正しい」立場なんて恐らくはないのだし、まして被災して避難させられた人たちのこれからの人生は、その人たちにしか選択できないものだ。その人たちの現実をまず理解しようと努めるわけでもないのに、僕らが大所高所から「いちばん理解できる」「これが正しい」なんて言えるわけがない。

まして原発事故の場合、なんといっても福島第一原発は東京電力の発電所、東京のための電気なのである。

今の事故が東京の電気の必要性から福島浜通りに原発が作られることがなければ起こりえなかった以上、消費地もまた責任の一端を免れ得ないことを私たちが未だに誤摩化している以上にスキャンダラスなのは、にも関わらずこの事故が起こるまで、東京の私たちはそこに私たちのための原発があったことすら、忘れていたことだ。

そこに原発があることすら忘れていた我々にとって「いちばん理解出来る」って…


…なぜそこに原発が出来たのかの、なぜ地元が受け入れざるを得なかったのかの経緯を考えもしなかったのが我々ではないのか?

同じ人間、それこそ同じ日本人なのに、なぜ潜在的に危険があるのは百も承知の原発を受け入れたのか、理解する気すらなかったのではないか?

なぜ福島浜通りに原発がふたつも建てられたのか?

「原発マネー」?交付金で潤う?それ以前に、東京が電気を必要としていると言われれば、彼らはおよそ断れる立場にはいなかったのだが。

「東京の電気は、日本全体の発展のため、日本中がみんなで豊かになるためなんだ」

高度経済成長の時代に、都会への出稼ぎなしには生活が成り立たず、進学率も低かった福島県の、それも東北本線などの主要な鉄道路や幹線道路から外れて県庁所在地からも離れた浜通りの、(こういう言い方もひどいとは思うが)いわば “後進地帯” がこのように言われたら、断りようがないなんて、分かり切ったことなのに。

成田空港だって、その計画が唐突に、晴天の霹靂のように決まったとき、三里塚の農民で反対できたのは実際にはごく一部だ。  
それも敷地の大半が天皇家の牧場だったから、三里塚が天皇と特別の関係にあった「明治大帝偉業発祥の地」だったからこそ、断ろうとも思えたのだ。  
多くの農民や住民は、反対したくなかったのではない、出来なかったのだ。 
一部の裕福な、大学に通うことが出来た若者なら、まだそういう「都会の、偉いお役人の論理」に対抗する理論武装も出来た者もいた。 
だが日々の農作業と生活に根ざした知性がどれだけあっても、三里塚の農村が「それはおかしいんじゃないか」と思ったところで、誰があの時代に聞く耳を持っただろうか?  
しかも三里塚闘争の結果は、あの手この手で農村コミュニティがずたずたにされただけではない。三里塚の農民=過激派という差別的なレッテルは当時蔓延したし、びっくりすることに今でも立派に有効なのだ。都会の決めたことに反対して「同じように思われること」は絶対に避けたい、という日本の戦後農村史のトラウマにさえなっている。 

断れば「地元のエゴだ」「古くさい土地だから進歩を拒否している」「遅れている」「教育がない田舎者」等々、なにを言われるか分かったものではない。





福島以北の東北太平洋岸(下手すれば茨城以北?)が近現代の日本でいわば忘れられつつ搾取される地理であり続けて来たことも含めて反省するならば、「震災・原発事故もの」映画は、ほとんどが東京中心の映画業界の産物であるのだし、私たちが自分は知らなかった、忘れていたことの克服として、まずよく見て、観察し、考えることでその土地やその人たちを理解しようという態度から、始まるべきだった。


「東京の電気のためだった」 

事故発生直後のTVの取材でこの率直な言葉を言ってもらえたのは、テレビ朝日系の日曜朝の報道番組で行った、姜尚中さんだけだった。  
在日だろうが日本人だろうが同じ人間とはいえ、そこまで信頼されたのが在日の姜さんだけだったというのなら、「同じ日本人」のはずの我々はちょっと恥じたっていい。 
ところが、あくまで噂であって真偽のほどは定かではないが、「やっと本当のことが聴けた」と僕が見ていた姜尚中さんのレポートは、「反省してない、生意気だ」と視聴者からの苦情が相次いだとか、局内で不評だったとか 。

都会の、東京の人たちが「きれいに生きたい」のは分からないでもない。

だが、人の上に立ったつもりで正義の味方をやっているには、この原発事故はあまりに無理がある話なのだ。

なにしろ僕たちは、40年間その電気を使いながら、そこに原発があることすら忘れていた。確か2004年、耐用年数延長の決定や、その際に福一の津波想定に瑕疵があったこと(貞観地震の歴史記録が発見された)が報道されていたことすら、東京ではほとんど誰も憶えていなかったのだ。

なのにその東京の人間が、無自覚に上に立った気分で、正義の味方のつもりで「自分達にいちばん理解出来るから」というのなら、「東京の人はここで電気を作ってるってことも知らないらしい。二、三日停めてやったら気がつくかな?」と冗談で言っていた双葉町の人たちからすれば、あまりに馬鹿にした話に聴こえたとしても、僕には当然に思える。

でもそれを言ったら僕たちが傷つくだろうと分かってるから、先方はめったに言いませんよ。 
そこまで気を遣ってくれている、ってことくらい想像しようよ。 

だが福島以北の東北太平洋岸を忘れられた地理として来れた人たちは、案の定、自分たちに対してその忘れられた人々が置かれた立場にも無頓着だった。


先方からみれば、逆らおうものなら「地元のエゴだ」「古くさい土地だから進歩を拒否している」「遅れている」「教育がない田舎者」等々、なにを言われるか分かったものではない。

それこそ三里塚ばりに「過激派」で「火炎瓶が」云々とすら言われかねない。


なのに僕たちは僕たちで、自分達が相手から見ればそういう存在であることにも無自覚なまま、「自分達にいちばん理解出来るフクシマの人々」を、無邪気に求めてしまう。その期待を裏切りそうな対象は撮らない、排除する(だから三里塚の農民は「過激派」でなくてはならない)だけではない。

露骨に敵意さえ向けてしまうのだ。

この構図は、今はいわゆる「反原発」陣営によって(無自覚に、そして傲慢に)繰り返されている。 
「放射能は安全だ」「身体にいい」なんてどこのトンデモが言ったのかも知らないが、山下俊一先生がそう言ったとかいうデマまで蔓延し(言うわけないだろ?)、まっとうな医学者の、筋の通っている説明だけに、素人とはいえ農家とか漁民なら自然や生活の現実に根ざしてるから納得できる見解を、ちゃんと勉強していたら、逆に「御用学者に騙される愚かな田舎者」「原発マネーに目がくらんだ」とレッテルを貼られる。   
言外の言に、福島県は高校・大学への進学率が低いなど、どうせ教育のない田舎者だから金につられるのだ、という差別偏見の悪意に満ちた誤解がこびりついていることに、言っている本人たちはまるで無自覚だ。   
いや中学レベルの理科や社会科すら踏まえてないのは誰なんだって?  
理科の話は一昨年にも書いたし、「御用」とか罵られながらも誠実に発言を続ける専門家の方もいるので繰り返さないが、社会科について言えば、「チェルノブイリでは避難する権利が認められた」もなにも、旧ソ連じゃあるまいし、日本国憲法があるんだからどこに住もうが自由なはず、避難することを誰も止めはしない。  
問題は失われた生活への賠償・補償であり、今後の生活をどう成り立たせるかであって、こんな勘違いをいちいち気にしてる余裕なんて本来ないのだが。

明治以来の日本社会の中央集権の構図からして、僕たち東京の側は、三里塚の農家の人たちにせよ、その同時代に「東北のチベット」とすら言われた福島県の浜通り・双葉郡相馬郡にせよ、彼らに対して政治的・社会的に圧倒的な優位に無自覚に胡座をかいて来たのが、近代日本のデフォルトの設定である可能性くらい、覚悟すべきだったのだ。

それは僕たちマジョリティの側から解体して行くしかない構造なのだし。

「自分に分かるかどうか」を基準にする前に、自分達が安易に「分かる」と言っていいのかどうか、自分を問い、「分からないから教えて下さい」ということでアプリオリに存在している、こちら(映画を撮る、東京の人間)が圧倒的に優位にある構造を、まずこちらの側が壊さなければならなかったはずなのに。


なのに自分達がその構造に胡座をかいて恩恵を受けて来た、今もそのデフォルト設定に乗っかったままで、その相手の立場から批判でもされようものなら、プライドを傷つけられヒステリックに怒り出し、攻撃まで始めてしまうのが、今の東京中心の、たとえば「反原発」の傾向だ。

一皮むけば、田舎差別と被曝差別の混合にすら見えて来る、差別する側である恩恵に胡座をかいた傲慢でしかない。

いわき市で続編に協力してくれた友人と、この2本の映画の撮影監督の加藤は、「しょせん植民地主義」と形容していた。

逆にいわゆる「田舎」の、被災地の人々は、私たちに誤解されないよう、嫌われないよう、差別されないように、常に配慮を怠ることが許されない。

私たちはそのことに完全に無頓着でも、なんの障害にぶちあたることもない−自分自身の無自覚な傲慢さゆえの盲目、という最大の障壁を除けば。

しかも自分の盲目さにも盲目であった方が、上に立った気分で正義の味方をやっているのは楽だ。はた目にはぜんぜん「きれいに生きてる」ことになっていないことに、無自覚でいられるのなら(いやだから、ますます必死に盲目に徹するのだろう)。

だいたい、地元の意向や理解以前に、福一の敷地の大部分は元は陸軍の飛行場で、戦後は払い下げられてずっとコクド開発の所有だった。  
衆院議長まで努めた堤さんと正力さんがすでに握手している、勝負は最初からついている、なにしろ土地がほぼ決まっているのでは 、用地買収を断って対抗するにも歩が悪い。   
ちなみに富岡町と楢葉町にまたがる毛萱の福島第二発電所は、王子製紙の土地だった。福一がもう決まっていては、ますます地元が反対しようにも反対出来るわけがない。   
なぜ危険だと分かっている原発を受け入れたのか? 
「安全神話に騙された」とかのえらく暢気な話なんぞ、250Km離れた東京でもなければ無理な幻想でしかなく、目の前に原発が建つ人間にはまずあり得ないとすら、気づけなかったのだろうか?  
「神話」?いや自分達がそこで働き、自分達がしっかり安全を守るしかない立場なんだよ? そう納得することで、受け入れるしかなかったのだ。 
「自分達にいちばん理解できる」なんて言う前に、ちょっと歴史を勉強すれば、先入観なしに話を聞けば、ちょっと相手の立場を想像すれば、すぐに分かることなのに、なぜその手間を惜しむのか?  
それも勉強する気がないのなら、せめて黙っていればいいじゃないか。



これは再三言って来たことだが、僕は双葉町の前町長の井戸川さんの昨今の行動について、ほとんど評価も賛同も出来ない。埼玉の加須市の避難所は、震災後一年くらいを目処に閉鎖すべきだったと思っているが、そんな昨年来の井戸川さんの言動それ自体については、僕は「間違っているのではないか」とまでは言えても、責めることはできない。

そもそも僕自身が東京の人間だ。双葉郡のことは双葉郡の人たちが決めるべきで、外野が口出しするのもおかしい。


それに、井戸川さんの立場から見てみよう。

今は上辺だけは気の毒ぶっている人たちは、自分たちを東電や政府の「推進派」の側だと実は最初から決めつけているのだ。下手すりゃ「反省しろ」とまで言い出しそうだ。

…というより、「推進派だったのが反省して反原発」というレッテル貼りで東京圏の反原発運動に受け入れられたのが井戸川さんなわけでもあり(双葉町の人からみれば「そんな単純な話じゃ済まないないってことすら、東京の人には分からないのか?」というレベルの話)、それが『フタバから遠く離れて』の宣伝文句にもなっていたわけである。


映画の作り手側は、井戸川さんが批判されたときに「いや、彼はよく勉強だってしている」と擁護し、その根拠として加須の井戸川さんの部屋に、作り手側も読んでいるような本が並んでいたことを(これまたなんとも無邪気に、他意もなく)根拠に出す。


いやちょっと待って欲しい。現に40年も原発があり続けた地元では反対か賛成かの区分けもデリケートで難しいだけではない。

双葉郡のふたつの原発の直接雇用だけで2万くらいあり、つまり身近に原発で働いて来た人も多い、その彼らの方がよほど、原発がどんなものかも、放射能についても、僕たちなんぞよりずっと詳しい。


しかもその多くが兼業農家でもあり、自然現象や生命も直接体験で学んでいる。学歴とは無関係に、僕たちにはもの凄く抽象的で分かりにくく思える放射能の健康影響などの話でも、筋の通った説明なら具体的な感覚としてはるかに理解が深くても当然なのだ。


だが井戸川さんがそんな自信を持つことも出来ず、「推進派だったのが反省して反原発」という宣伝文句を忠実に演じることしか出来なくなってしまったとしても、埼玉に避難して彼が身を置いてしまった立場(つまり「東京の近くの、いちばん報道や、記録映画の撮影や、反原発の運動が接触し易い場所」にいること)からすれば、理解できる。


それに井戸川さんのこれ以前の町政を見ても、東電の放射能もれ隠しに以前の町政が態度を硬化させていた福一の原子炉増設にOKを出したりなど、よくも悪くも「物わかりのいい、話の分かる、いい人」でもあるのだろう。 
逆に言えば頑固でない、意志が強靭とはいえない、流され易い。 
なおこの件で彼を「推進派だった」と言い出す人は、本当に地方政治ってものが分かってないのだなあ、と嘆息する他はない。中央集権の、権限や予算が東京支配の国で、小さな町がいずれ断れなくなるのは時間の問題だってば。それこそ「東京の電気が足りなくなる、日本全体に響く」と言われてしまう話なのだ。

その彼が、今は応援してくれている人たちに、いつ「やっぱり推進派だ、原発マネーで汚れた原子力ムラの田舎者」と叩かれても不思議ではないのだ。なにしろ東京の意識が高い、一流大学出な皆さんはたいがい、地方の行政の実情、自治省(今は総務省)や霞ヶ関との力関係のことなんて、想像もしてない、出来ないのだし。

その上、道路が大地震であちこちでガタガタになった双葉郡から出るだけでも大渋滞、停電で情報がほとんど入らなかったのに、3月11日の夜にはインターネット上で「なぜ避難しないのか?命が大事だろう? 国に騙されているのだ、原発ムラなんだ」の大合唱が既に始まっていた。   
2、3週間もすれば牛が走り回る無法地帯だの、大量の鼻血や脱毛だの、牛の畸形だののデマがおもしろおかしく飛び回っていたことを、井戸川さんたちが知らなかったわけもない。

だから自分についての映画が作られ、そのことも理由のひとつになって東京の「良心的」で「意識が高い」と自称する人たちに持ち上げられてしまえば、井戸川さんがああなってしまうのは、ある意味では無理からぬことではある。

もっと浜通りの地に足のついた意識で、双葉郡に誇りを持つべきだったなんて、それこそ東京の僕が言える筋合いでもないし。



逆に言えば、「福島からいちばん遠くに逃げようとしたことがいちばん理解できた」、それが「理解し易かった」のだとしたら、一見無邪気に聴こえるが(そして言ってる本人たちも悪意や差別意識の自覚なぞ皆無なのだろうが)、客観的に見れば差別する側である中央集権の構造に安住して来た者の、恐るべき無神経さの表明に他ならない。

井戸川さんから見れば、なにしろ、自分を今は応援してくれてる「良心的」で「意識が高い」と自称する人たちが、自分達のことを「原発マネーで汚れている」とか、安直に終末論的匂いを漂わせて「放射能で畸形」とおもしろおかしく言っていたのと同じ人たちなのだ。

反原発のヒーローに祭り上げられた京大原子炉研の万年助手、原子炉についての科学的・技術的な知識ではいささか劣ることが否めない小出章さんが、つい間違ったことを言ってしまっても、なかなか誤りの訂正や、自分の能力不足を認められないのも、井戸川さんの迷走と似たような理由だろう。 
これが事故発生の一ヶ月足らずのうちにすでにあからさまになっていたのは、一昨年の4月にこのブログで当時触れた通りである。 
この原発事故に対する日本社会全体の反応の在り方は、それまでも延々と続いて来た差別の構造の延長で、簡単に分析出来てしまうものだった−−呆気なく、そして空恐ろしいことに。 

井戸川さんたちはいわば、こんな都会の、自分達が原発の電気を使っていたことすら忘れていた人たちにだけ都合のいい「自主避難者」のチャンピオンにされてしまったのだ。

それにしても井戸川さん自身が、いわき市など故郷の近くに戻った町民や、福島県を離れる気のない県民を、あたかも「放射能の怖さを知らない無反省な推進派」とレッテル貼りするような動きに自ら加担してしまっているのは…。  
さすがに本人が言うわけもないことだが、「私も毛が抜けて、鼻血が止まらない」と言ったらしいとネット上で噂が駆け巡ったことくらい、怒って否定すべきところではないか。  
それが先の参院選では防護服を着て南相馬市の仮設住宅で演説したりに至っては、いくらなんでもそれはないだろう、とはさすがに言わざるを得ない。


そんな井戸川さんに双葉町の人たちが呆れ、人心が離れて行くのもまた当然だった。


最後まで避難所に残った理解ある人たちだって、「あの人もしょうがない」「今さら見捨てるわけにも」という人情だったり、ただもう、またもや移動することに疲れ、孫も住めない、遊びにも来れないような話になるのなら、ここで死ぬのも自分の運命だとあきらめてしまっているだけで、井戸川さんに賛同しているわけでもあるまい。


双葉町の人たちが分断したのではなく、東京の私たちが分断させてしまったのだ。

大熊町の梨農家、一時帰宅にて


所詮、すべてが東京中心で動いていると錯覚した井戸川さんは(錯覚と断言も出来ない、かなりの部分事実そうなのだが)、原発事故と震災を終末論的なエンタテインメントとして消費する“東京” ないし “被災地以外のニッポン” の側のプレイヤーにならざるを得なかった。

『フタバから遠く離れて』という映画の存在と、それを「自分達にいちばん理解出来るフクシマの人々」への期待通りに消費した作り手と観客双方によって、その立場に追いつめられてしまったのだ。


そんな引け目を感じることはなかった、自分は双葉町の代表なんだと、堂々としていられればよかったのだが。

井戸川さんが、たとえば南相馬市の市長の桜井さんのように…つまり桜井さんが孤立した南相馬市の悲惨をYoutubeで世界中に発信したことに始まり、地元とその人々のために頑固かつ狡猾に立ち回っているように、双葉の町とその人々を守るために首長としてやるべきことをやり抜く覚悟を決めた人だったら違っていただろう。  
あるいは浪江の町長の馬場さんも、地元の利害を守るためにはなんでも利用する大狸っぷりはなかなかだが、井戸川さんには(こう言っては悪いが)そのしたたかさは期待できないように思える。  
それだけ井戸川さんは「いい人」なのかも知れないのだが。と言って、しょせん都会人から見て「いい人」「理解出来る」に徹してしまったわけだが。 
財政難もあって(双葉町は一時、第二の夕張とまで言われていた)福一の原子炉増設を受け入れたことも、今は「反省した推進派で反原発のヒーロー」になったのも、井戸川さんの本質として、そんなに変わっていないのだ。

ただ、その井戸川さんを、それでもあまり責めるわけにもいかないのは、じゃあ他の町村の首長さんたちはどうかと言えば…


…井戸川さんのように注目されることもなかったし、結局のところ井戸川さんが失職した時点で、浜通り・双葉郡、相馬郡の、原発事故で避難させられている自治体は、すべて無視される結果になっているではないか。

井戸川さんを持ち上げておいて、梯子を外してつき落とす(つき落とされる原因が多々、井戸川さんにだってあったにせよ)のは井戸川さんだけでなく、双葉郡の町村全部ひっくるめてになる。結果、双葉町だけでなく双葉郡全体を、今後は無視出来てしまうのだから、東京の側の僕たちにとってだけ、一方的に、まことに好都合な話だ。


こと直接に「フクシマの人々のため」と言って井戸川さんを担いだ人たちには、「そんな協力者の俺たちを無視し、井戸川さんを足蹴にした連中なんて」と自分達の薄情さを正当化する言い訳までおまけで着いて来そうだ。

こうなると一方的に、「いちばん理解出来る」というより「身勝手で都合がいい」話にしかならないだろう。 


だからこそ、双葉町を分断させてしまった−−井戸川さんが自分の町を分断させるように無自覚に追い込んでしまった−−ことの罪は、東京の僕たちが自分で気がついているよりも遥かに重い。

昨年のお盆の前に楢葉町の警戒区域指定が解かれ、避難解除準備区域になってそろそろ一年になる。秋には環境庁の予算で大規模な除染事業が始まった-除染で出た廃棄物の置き場所が、まったく決まらないまま。



結果、一年近くたった楢葉町では、国道6号線沿いに除染の廃棄物を詰めた黒い袋が、広々とした大地に三段重ねに置かれる光景が広がっている。


除染の廃棄物だけではない。


いずれは福一の4つの原子炉から取り出された溶けた核燃料や、解体した圧力容器、格納容器、建屋などから出た、即死するような高濃度の放射能で汚染された廃材の置き場も必要になる。




その「処分場」というか要するに置き場所、核のゴミ捨て場はどこになるのか?

なにしろ放射性物質とはほとんど関係がない、他の被災地の瓦礫ですら、広域処分に「放射能をばらまくな」というヒステリックな猛反対が起こったのも現実だ。



その瓦礫だって、いつまでもいわき市なら薄磯の中学校の校庭とか、勿来の運動公園とか、小名浜の工業団地の一角に、積んでおくわけにはいかない。



石巻では、本来ならこの都市の生命線だった港湾部が、巨大瓦礫置き場になっている。



こうした処分場の最大の候補地がどこなのか、当事者がいちばん分かっている−双葉町と、大熊町しかあり得ないのだ。

警戒区域が再編されて「帰宅困難地域」になった双葉や大熊に、いわきから一時帰宅すれば、楢葉町の6号線脇の除染の廃棄物はいやでも目に入る。



いやもしかしたら、双葉や大熊の人たちへの無言の圧力として、わざわざ6号線から目につく場所に詰んであるのかも知れない。

その意図はなくても、効果があるのは明らかだ(というか、これが水俣病事件辺りからの、日本の行政の常套手段だ。誰かが意志を示したり、意図して決めたわけでもない、事務的に見えることが、結果として被害者とか弱者を泣き寝入りさせる圧力になるように巧妙に設計されてしまっているのが常なのだ)。

だが双葉や大熊の人がそれもみんなのため、やむを得ない、他に場所がないのだし、と思って受け入れるとしても、それは我慢であって尊い自己犠牲でこそあれ、ゴリ押ししていいことではない。

だからこそ新しい生活を始められるための十全の補償を、住人は交渉で勝ち取らなければならないし、彼らの尊厳のためには、そこ以外の全国民を代表して、政府が、首相が頭を下げ、土下座をしてでも、「本当に申し訳ないことですが」と頼み込まなければ筋が通らないはずだ。

当然ながら政治家や官僚や電力会社のエリート重役さんたちは、実は馬鹿にして来た、こっそり差別して来た「田舎者」にそんなことはしたくない。差別する側の本能として生理的に拒絶するし、補償だってなるべく減らしたい。 

双葉町の人たちの人間らしい生存のためには、都会人の終末論ごっこの勧善懲悪につき合ってる暇なんて最初からなかったし、まして分断なんてしている余裕なんてないのだから、一丸となって結束し、それを代表して町長や町役場が政府と対抗し、交渉出来るならまだ脈はある。

だからこそ政治家や官僚にとっては、双葉町がいまのように分断してしまったこと、他ならぬ「反原発」運動がそうやって自分たちの都合に大いに貢献してくれたことは願ってもない、まこと喜ばしい話でしかない。

双葉郡の他の町村と井戸川さんの歩調が合わないだけでも、「補償は平等でなければ」をいいわけに、国や東電はずいぶんご都合主義の押しつけや引き延ばしをやって来ているではないか。

地元を分断させることは成田空港反対闘争で、当時の建設省がさんざんやった手口だ。 
だが土地を買い上げるにあたっての金銭を用いた懐柔や、日本全体の発展のためだという殺し文句以上に分断に有効だったのは、結局はセクトの内ゲバと、セクト自体が自分達の「正義」に農家を巻き込んだまま、その農民の文化には無頓着だったことだ。 
結果、セクトがむしろ反対運動をぶっ壊すことにすらなり、成田空港はめでたく建設されてしまった。  

逗子市の池子米軍住宅反対運動の時には、同じように地元分断の手法で反対を押し切るために、三里塚を研究した政府側のスパイが逗子市に送り込まれた、という説まである––他でもない、緑派の主婦層のリーダーとしてもてはやされ、リコール選挙で市長になった富野輝一郎氏がそのスパイだったと、今でも逗子市では囁かれている。 
「富野はCIA」説の真偽のほどはともかく、富野氏は確かに三里塚闘争を実地で見学して研究していたし、緑派の動きは結局のところ、旧池子村など地元の反対運動を乗っ取り、地元の人を追い出し、米軍基地反対を都会ウケする環境保護の運動にスリ替えることで(実際、緑派は市中心街の裕福な主婦層がメインだった)、米軍住宅受け入れの道を開いてしまったのである。 
環境に万全の配慮をした住宅建設なら構わない、という論理だ。  
 拙作『フェンス』の時には富野さんからは取材・撮影の打診のオファーの返事すらもらえず、映画でとり上げられなかった話だが、僕はそのCIA云々にしたって、案外デマの陰謀論と切って棄てるわけにもいかない話、防衛施設庁と富野さんの間で裏で話がついていたっておかしくないと、今でも思っている。 
だいたい富野さん自身が、池子の大地主の家系なんだし。


自分達が安易に「分かる」と言っていいのかどうか、自分を問い、他者の立場を想像することもなく、無邪気に「自分に分かるかどうか」を基準にし、自分たちの期待する「フクシマの人々」のフレームの中だけでしか被災者を見ないようでは、結局は自分達が無意識に期待する終末論的な気分に無自覚に耽溺する、災害を搾取するディザスター・トゥーリズム(災害の観光化)の映画になってしまう。

(震災後丸一年に、ディザスター・トゥーリズム批判の観点から「震災・原発事故もの」サブ・ジャンルを分析したNYタイムズのデニス・リムの記事はこちら)

自分を問うことがなければ、避難所ならば 「被災者」と銘打った “珍獣” が集められた動物園として撮り、その記号でしかない「フクシマの人たち」を自分の期待する図式に当てはめて利用することしか、我々の(映画を撮る、東京の人間の)側には、そもそも出来なくなるだろう。


「私たちに理解できる 『被災者(という珍獣)』」=「私たちの側の、味方である『被災者(という珍獣)』」、自分達が良心的だと主張できる免罪符になってくれる都合のいい “珍獣” としての「フクシマの人々」、あるいは「被災者」全般を自己正当化に利用して搾取する構図には、僕たち自身ががよほど自覚的に意識し、自制しなければ、僕たちの作る映画も簡単に飲み込まれてしまうだろう。

「きれいに生きたい」という願望を満たすのにはこの方が楽なだけではない。 
こうした方が映画だって売れるんだし。   
「人の上に立って正義の味方をやっていたい観客」には、その方が褒めてもらえるのだし。 
『フタバから遠く離れて』が海外映画祭で上映されるときには、しばしば双葉町が原発を受け入れたことや井戸川さんが「推進派」だったことを「ファウスト的選択」と形容しているのだが、まさにその悪魔的な契約を、映画それ自体が無自覚にやってしまってはいないだろうか?   
いやそれも、別にこの映画一本に限ったことでもない。その「意識の高い私たち」の内輪に引きこもった下衆っぷりを見透かされたからこそ、「震災・原発もの」映画には、作り手が「自分達にいちばん理解できる」ものしか写らなかったように、その「自分達にいちばん理解できるもの」しか写っていないことを再確認するための観客しか、集められなかったが故に、マーケットの広がりも持てなかったのではないか?  

「きれいに生きたい」のは分からないでもない。

だが、人の上に立ったつもりで、自分が正義の味方になれる構図に無自覚に耽溺していれば、無意識のうちにしょせん「珍獣」としか見ていない被災者の町を「理解出来る被災者=味方」「理解出来ない被災者=原発マネーで汚れている原子力ムラの側」に区分けして、分断させることしか出来なくなってしまう。


もちろん『フタバから遠く離れて』を撮った側や配給・公開した側は僕も知っているし、そんな商売狙いの映画ではなかったはずだし、彼らが実は経産省や政府の意向を受けて双葉町を分断させる工作員だったなんてヨタ話は100%あり得ない。

むしろ、とても「良心的」な人たちだ。

こう言っては悪いがちょっと呆れるくらい無邪気に、良心的だ。素直だし、真面目だし、個々人として、決して悪い人たちではない。

だが結果としてはものの見事に、政府側に極めて都合がいいだけで、双葉の人たちが損をして、原発を止めて行くことも遠のくだけの現状を、この映画と、それをきっかけに井戸川さんを祭り上げた東京のいわゆる自称「反原発」の「意識が高い」、「きれいに生きたい」人たちが作り上げてしまったのだ。





福一が東京の電気のためにそこにあったこと、消費地として僕たちだって無罪・無責任ではいられないことを自覚していれば、そこで「きれいに生きたい」と安易に思わなければ、こうはならなかったのかも知れない。

自分を「人の上に立てる正義の味方」と錯覚しなければ、こうはならなかったのかも知れない。


この三重の大災害を前に、簡単に「自分は正しい」なんて言える立場が存在しないことに気づいてさえいれば、こうはならなかったのかも知れない。


人の上に立った気分で正義の味方のつもりに安住したいのであれば、そもそも震災や原発事故の映画を撮るべきではない、と分かっていれば、こうはならなかったのかも知れない。


僕たちはこの人たちの体験や生き様から学ばさせてもらう、そしてお世話になって映画を撮らせてもらっているだけなのだから。


昨年のお盆、楢葉町の墓地で会った中学校の元先生夫妻

いや、もっと言えば、「福島からいちばん遠くに逃げようとした人たちがいちばん理解出来た」、だから双葉町から埼玉に避難した井戸川さんたちを映画に撮ろうと思ったという、東京の側から見れば無邪気な作り手側の発言は、井戸川さんの側から見れば「この人たちに理解できない行動は自分達には許されないのだ」と思わせるに十分な、文字通りの脅迫にもなり得る。


つまり、井戸川さんは、自分を支援してくれている都会の人たちに、今まで僕が書いて来たようなことは、絶対に言えない。

「おかしなこと言ってるな、よく知らないんだな」と思っても、おくびにすら出せないかも知れない。 
口にした途端に自分が「推進派」「原発マネー」と叩かれるのだから、怖くて言えるわけもない。

実は福一と福二が浜通りに押し付けられたのと、同じ構図ですよ。やってる側が気づいていないとしても、同じ脅しでしかない。

そんな無自覚で無頓着な人たちが自分達に「いちばん理解出来る」と思っている、その意識の構造からは恐らく抜け落ちている残酷な現実に、当の被災者はしばしば直面しているのだが。

たとえば、実際に福島県外に「自主避難」した人の多くは、肩身の狭い思いのまま、福島から来たことすら黙っていたりする。小名浜から山形市に行ってタクシーの運転手で食べている人が、ネームプレートには「出身:岩手県」と書いているのにはさすがに驚いた。

しかし、放射能がついていると差別され、最悪「福島のお前らがしっかりしてないから原発事故が起きたんだ。日本中が迷惑しているんだぞ」とまで言われて来たのだ。更なる差別を恐れれば、何も言えなくなってしまうのはよく分かる。

その反動と考えれば分かり易いこともある−−放射能の危険を語ったら村八分にされただの、姑にいじめられただの、「因習に満ちた陰湿な田舎」のステレオタイプそのままを言いふらす人も一部には(ごく一部には)いるのだ。

するとそれを東京の「反原発」の人たちが喜んで「これがフクシマの人々のため」と称して言いふらす。

日本の農村の文化伝統の豊かさなどなにも知らず、自分たちと違う文化を持った他者への敬意のかけらもなく、無自覚な差別意識がこびりついた偏見に飛びつくのも、その方が自己正当化には楽だからだろう。

繰り返しになるが言っておく。「きれいに生きたい」のは分からないでもないのだが…そこまで人の上に立った気分で正義の味方をやっていたいのか?

しかもえらく便利な話ではある。「自主避難」したことで地元に対して後ろめたい思いがある人たちには、今度は「都会の、おえらい、正義の味方の『反原発』の人たち」が後ろ盾になってくれる構図になるわけだから飛びつくし。

…いや実際の福島県にでも行けば、いわき市だとかでは騒ぎ過ぎじゃないかと揶揄はちょっと入る程度で、「人それぞれだしね」としか言われないことなのだが…  
とはいえ、そのいわき市で「こんな危ない所に住んでいられない」と石垣島に自主避難して都会の人たちからネットとかで賞賛された人が、今度は「こんな危ない所に住んではいけない」と住民を “啓蒙”するために、わざわざいわき市に戻って来ているとか聴くと、これはさすがに「人それぞれだし」では済まない。  
「鼻血が」「脱毛した」、挙げ句に「福島県の女子高生に『私たちは安心して子供が産めますか?』と訊かれて答えられなかった、悲しい」とかの大合唱まで…こういうのだけはなかなか収まらない。  
いやどうぞ、心配せずに、ケチな差別で正義ごっこなんてしなさそうないい男をゲットして(変に「きれいに生きたい」だけの正義ごっこな自己正当化男だと、DVだって心配だし、そのパパの劣悪な性格が遺伝する方が怖いぜ)、ばんばん元気な赤ちゃんを産んで下さい。  
…というか、いわき市だと震災から10ヶ月くらい経ったあたりから、新生児がとても増えているのだとか。 10ヶ月後くらいから、ですか(その意味するところは想像にお任せします)。



ドキュメンタリー映画を撮られた側、実話に基づく映画のモデルや題材になった側が、その映画の存在に振り回され、不利益をこうむるのは、本来ならあってはならないはずのことだ。


だがあってはならないはずのことは、実際にはしばしば起こってしまう。

僕たちも、明らかに理不尽な「被曝差別」があって「畸形が産まれる」とか言われ続けていたなかでは、『無人地帯』では子供さんを直接撮るのは躊躇した。結局、直接には写さず、子供の遊んでいる声は入れている。 
土本典昭は、『水俣の子は生きている』の撮影中、誤って胎児性の患者さんが遊んでいる姿を風景ショットに入れてしまい、親御さんに罵倒されたという。 
「あんたらが撮ったってこの子の病気はちっともよくならん!」 
 「インタビューはもうたくさんだべ」「こんなところ撮られたって、そんな映画では俺たちに都合の悪いことしか伝わんねえべ」(そしてまったくその通りだ)と、僕らも言われた。それでも話は聴かせてくれたのだが。

だからこそ我々には細心の注意が職業的に義務づけられているはずだが、『フタバから遠く離れて』に関しては、作り手の側自身があまりに無邪気で、日本の政治の怖さ、自分の置かれた立場の微妙さ、自分もまた「差別する側」でしかないことにあまりに無神経であった結果、町の人々の命運を振り回すことになり、挙げ句に分断、そして癒しようもない亀裂になってしまった。

「きれいに生きたい」のは分からないでもない

だが、ここまで人の上に立った気分で正義の味方だと認められることを欲しているだけで、その行為が実際に産むかも知れない結果に無頓着ならば、話がひっくり返っている。

そもそも、『フタバから遠く離れて』は、なにを撮ろうとした映画だったのか?


廃校になった高校で雑魚寝生活が延々と続き、人として生きているのではなく家畜の餌のように三度の食事をお弁当で与えられ、「生かされている」だけの存在になるよう疲弊させられ、「皆さんのお世話になって」という後ろめたさを刷り込まれ、とっくに閉鎖されて自分達の生活を不自由な中でも始めるべきところが、延々とその避難所に置かれ続け、あきらめの日常に飼いならされ、飼い殺しにされ、そして町が分断されてしまった現状がある。

原点に帰って考えるなら、こういう現実を見せるためにこそ、この映画は作られたのではなかったのか?

ならばそれが政治的になにを意味するのかも、考えておかないようでは、あまりに観察が足りない、状況分析が出来ていない(つまりは、映画として演出がない)。


官僚や政治家にとっては、あとはタイミングを見計らって、中間処理施設どころか最終処分場を双葉町の人々にゴリ押しすることは、赤子の手をひねるように簡単なことだ。相手が疲弊し、諦めかけている、その背中を一押しすれば済むような話でしかない。


双葉町の人たちが分断したのではなく、東京の私たちが分断させてしまったのだ。

そしてそれは好むと好まざるに関わらず、私たちにとって好都合ではあるが双葉の人たちにはあまりに辛い、悲しい結果にしか結びつきそうにない。



題材が題材、社会的な枠組みや状況がこうであり、なによりも双葉町の人たちにとっては生活と将来がかかった厳し過ぎる現実がある時に、「気がつかなかった」で済むこととも思えない。

なにしろ実害が大きいだけでなく、気づかないこと自体、あまりに無神経で無頓着過ぎると言わざるを得ない。それでは「差別する側」に安住しているからこそ気にしないで済んで来た無神経さでしかない。


映画とは本来、「自分が理解できる」ではなく、「自分が愛することが出来る他者」を求め、それを撮ることから理解が始まり、撮る行為、その映像を再構成する行為によって、被写体という他者、そして観客という他者との境界を乗り越える(あるいは、越えられない壁を自覚する)表現だったはずだ。 
「震災・原発事故もの」こそ、この本当の意味で映画的な関わり方で、人間と向き合わなければならなかったはずだ。



いやなにも、「相手が疲弊し、諦めかけている」、もしかしたら政府がその背中に最後の一押しを狙っているかも知れないのは、双葉町に限った話ではないのだし。

「5年経ってから決めます」とか「あと3年」とか、決定を先送りにし、昨年3月のはずだった避難区域の再編が1年先延ばしになったり、その再編の議論を補償の問題をわざとリンクさせて「補償を減らすために帰れと言うのか!?」と激怒させてみては、その度に将来の話はごちゃごちゃになり、なにも先が見えないまま、気がつけば仮設住宅暮しは合計で4年を越えることが、すでにほぼ決まってしまっている。

仮の町構想もかけ声だけで、高台移転でも候補地があっても、その登記が明治からずっと放置されていて売買契約が出来ずに中断している例も多い。こんなのは震災直後に特例法を国会で通しておくべきだったのに、政治は「復興予算」の消化以外はなにもやっていない。

未曾有の災害のはずなのに、通常業務の体制の維持はお役人のレゾン・デートル、頑として変わらないのだなあ、とこうなると感心したくなるほどだ。

そんな全てが、この原発事故で避難させられた人たちが、自分たちが奪われたものへの補償や埋め合わせを、当然の権利として主張する体力を奪うための策略にすら見えて来る。

しかも故郷への帰還の希望を棄てず、だから避難先での新しい生活を本格的に作り直し始めてはいないのは、圧倒的に高齢者が多い。

若い人で子供がいたりすれば、仮に線量が低くて健康上の問題は考えないで済む土地でも、また転校させるのはどうなんだろう、とかの問題もある。避難先で新しい仕事を始めてしまえば、そう簡単には動けなくなる。


あるいは、都会の方が結局は便利だし、若ければ田舎で退屈していた人だっている。 
だいたい元から、昔は出稼ぎでなんとか生活を成り立たせ、日本が豊かになっても、若い人が都会に出て行きがちな土地だった。 
たとえば川内村は確かに線量はたいしたことがない数値でも、富岡に抜ける主要生活道路が警戒区域、帰宅困難地域では、あまりに不便になっていまっている。 


…ならば帰れなくても諦める、補償も最悪、とりあえず新しい生活の基礎さえ築けるなら、で妥協するだろう。 いつまでも後ろ向きに生きてもいけないのだし。

これは恐ろしい想像だが、「どうせ残るのは高齢者。痛めつけて疲れさせて、亡くなるのを待てばいい」というくらいに、この国の偉い人たちは考えていそうだ。


不動産や財物の補償はともかく、精神的負担や健康被害への慰謝料は相続されないのだから、亡くなってしまえば賠償責任はなくなるのだし。 
いやほんと、「チェルノブイリでは避難する権利が認められた(…じゃなくて、政府決定で強制移住が出来たの、旧ソ連では)なんて勘違いをしている余裕はないのだが…

原発は怖い、原子力はたくさんだ、だから原発事故の映画をと言っても、それを利用して来た私たちの国家の、時に恐ろしく邪悪になり得る構造まで撮る覚悟くらいなくては、どんなにやりたいと思っても、手を出してはいけなかったのかも知れない。

いやそれですら、最初から想定の範囲内でなければいけなかった。私たちの国ニッポンは、いつのまにかそんな国になってしまっていたのだから。

なんだかんだでのどかな浜通りなら、直接気づかされる契機はあまりなかったかも知れない。 
だが東京で暮していたり、僕の場合は水俣にも行ったし、この前には大阪で完全即興演出の劇映画『ほんの少しだけでも愛を』を撮っていて、部落問題や在日差別の隠された現状や、そんな差別に対する普通の人たちの認識がどうなっているのかにもぶち当った。  
「どうせ残るのは高齢者。見捨てておいて、亡くなるのを待てばいい」政策ですら、僕には既知のものだった。いわゆる同和対策地域で実践されているやり口なのだ。  
なにせ共産党まで「同和利権を潰せ」と言っている都市で、土建屋だけは儲かる、建築費だけは増えるが住み心地はあまりよくなさそうな、予算規模だけは大きな公共住宅が建っていては、いつ行っても見学者よりも地元採用職員の方が数が多そうな大阪人権博物館が橋下市政に潰されないよう大人しくしていることくらいしか、なさそうだ。  
そして若い人は、出自がうまく隠せそうなところに出て行ってしまう。ひと際高い、外から見れば立派だが、どうもお風呂もないらしい高層の住宅からは、高齢者の飛び降りが後を絶たないという。  
この背後に映っている高層住宅から、飛び降り自殺する人が多いらしい。
 口の悪い親戚に言わせれば「あそこはヨツとチョンしかおらんから消防車が行かへんかったんや」という神戸の震災の最大の被災地、長田の「復興」が実際にはどうなっているかも、見ている。  
ここまで人は冷たくなれるのか、しかも他人ごとならただおもしろおかしい笑い話として披露されるのか、と驚かされることは多い。

こんな社会にいつのまにかなってしまっていたからこそ、こんな震災や原発事故があれば、反省して変わってもよかった、とも思うのだが…。

付記)実は大阪で撮っていたこの『ほんの少しだけでも愛を』は、3.11の時点で「これは完成させなくてもいい映画かも知れない」と思ったし、出演者の何人かも同じ意見だった。これほどの震災の後の日本なら、もうあの映画で問いつめようとした問題をとり上げることはなくなるだろうと、無邪気にも思っていたのだ。  
結局は現段階で3時間半あるこの映画をなんとか適当な長さに縮めて完成させることと、福島の原発事故についての映画の二本目『…そして、春』が並行して進んでいる。  
どちらも日本ではタブーに触れたことになって多くの観客には嫌がられる、嫌われることも覚悟した映画ではある。つまり、結局は「自分達が作りたいから作る」「これはおもしろい映画になる」のでないと、たぶん続かないでしょう。 
なお今回のブログで繰り返した、 
  • 「きれいに生きたい、という気持ちは分からなくもないけど」 
  • 「そうやって人の上に立ってずっと正義の味方をやってればいいやん」 
どちらもこの大阪で撮った即興劇映画で、出演者がその場で思いついてくれた名台詞である。

7/31/2013

終末論的なるものの悦楽としての「日本を取り戻す」、そして「反原発」


先の参議院選挙に大勝した安倍晋三総理の自民党のキャッチフレーズは「日本を取り戻す」である。「取り戻す」ってどこから「取り戻す」のか? だいたい日本がいつ失われたのだか、奪われたりした事実がどこかにあったわけでもないはずだが、昨日は近所の駅前でこんな街宣カーを見かけた。


「再生」って、いや別に死んでないし、この国の将来を不安に思うべき理由も、現状の問題も山ほどあるにせよ、およそ終末論ごっこを始めるような現状なぞどこにもないどころか、日本は未だに世界で屈指の豊かな国だ。

「中国に抜かれた」と数年前にえらく自信喪失したのも、よく考えれば相手は人口が我が国の10倍以上ではないか。中国の経済発展が目覚ましかっただけで日本がとりたてて衰えたわけでもなく、むしろ商売相手がより豊かになれば、こっちの商売にだって好都合なはずなのだが。


終末論的な気分に浸りたがっているのは、与党や右派だけではなく、いわゆる左派リベラルだって似たようなものだ。たとえば安倍晋三政権の大勝で、憲法が改正され日本がまた戦争をするみたいなことを、すぐに言い出す。

安倍やあるいは橋下徹、石原慎太郎の歴史修正主義的な言動が国際的に警戒され、あるいは鬱陶しく思われて外交で国益を大いに損ねているのは確かだが、国内の情勢でなんら「日本が再び軍国主義に!」に確たる根拠が、今のところあるわけではない。

よく考えて欲しい。自民党が勝った大きな理由のひとつは、安倍晋三本人がどんなに「憲法を改正して誇りのある国を取り戻すんです!」と叫んだところで、熱狂したのは秋葉原の演説に集まって日の丸を振り回していたおかしな連中くらいなもので、マスコミ等は徹底して憲法改正問題に言及しなかった、それが明らかに安倍政権にとってマイナス要因になるから無視した、そのお陰である。

せっかくこれから三年間国政選挙のない安定政権を確保したのに、わざわざ世論の反発を呼ぶ憲法論議なんて、今の自民党なら安倍と大差ない二世三世のボンクラばかりだとしても、だからこそせっかくその操り人形に出来る政権をこれから利用する気の霞ヶ関が、許すわけもなかろうに。 
政策が作れない、自力では政治が出来ない安倍政権が、霞ヶ関に逆らえるわけもなかろうに。 
集団的自衛権を認める憲法解釈くらいなら、と思ってみても、肝心の同盟相手のアメリカが、少なくとも2016年の大統領選挙までは、オバマ政権が興味すら示していないのだから、外交カードとして切ることも出来ない。 
せいぜいが96条を改正して、国会2/3がなくても発議が出来るようにする程度だろうし、だいたい与党に公明党が入っている以上、9条改正や人権保護条項をいじることは、31条の生活権も含め、現実的にあり得ないのだし。

だから左派の側だってそんなに「大変だぁ」と終末論の気分に浸る必要は、今のところはない。

それよりも現実的に、官僚独裁には震災復興なんてなにも進める気がないであろうこと、原発に関しては現状維持の先延ばしにしか興味がないこと、そして「グローバル・スタンダード」と称して労働法制や社会保障などを変えたがっていること、社会保障の財源論を人質に消費増税を強行すること、安倍が首相では外交がぐちゃぐちゃになることなど、個々の実際の諸々の問題にこそ注意すべきであり、安倍の暴走を抑えるべきなのだし、そういう積み重ねで、三年後の次の選挙結果だって変わるはずなのだ。

いやその個々の、細かな、瑣末で平凡に見え、煩雑で粘り強い議論を要し、しばしば金勘定の話に陥りがちな、べったりと実生活の手垢のついた現実政治の問題を考えるのが面倒だから、「再び戦争をする日本」という終末論的な気分を、たぶんそれがファンタジーでしかないと実は分かりつつ、むしろ希求しているのかも知れない。

なるほど、「生活の党」の人気が出ないわけだ。 
ネット上の小沢支持派だって、その理念をどこまで本気で理解しているのやら。 
むしろ「 巨悪の検察に潰された悲劇のヒーロー」というだけで支持しているのだし。

言論の自由がなくなる云々という危機感に至っては…そんなもの、マスコミ業界でも、左派右派双方の陣営でも、すでに私たち自身がそんな自由は売り払ってしまっているじゃないか。

僕たちの映画の世界で言えば、表現の自由なんてとっくの昔になくなっているし、またほとんどの映画を作る側にとって、そんな自由自体が宝の持ち腐れでしかない。どうせ行使する気、みんなないじゃん。 
「これが映画的だ」という教科書的な共有幻想を業界の仲間うちや、さらに細分化した派閥内で消費して、そのカタチをなぞることしか、やる気ないでしょう? 
これならばマニュアルに黙々従っているのではあろうがそれでも感じよく、きめ細かい気配りでお客にコーヒーを出してるスタバのバイトさんの謙虚な日常の繰り返し方が、「映画を勉強しています」気取りの高慢ちきより、実は日々の時間に意味をきちんと与えている気すら、してくる。 
(実際、マクドナルドやコンビニに較べ、スタバだとかは「コーヒーをもっともおいしく召し上がって頂く」ためのリアルな生活の知恵の手続きが、いろいろマニュアルに組み込まれているのであり) 
スタバは冗談にしても、毎年この季節になれば、黙々と草刈りを続ける農家の、繰り返される日常の方が、禅の日々のご精進にも通じ、哲学的な意味が大きい気すらして来る。

自分の属する陣営や、自分達の周囲と違ったことをやる自由、仲間の反発を買うことになっても、正しいと考えることを口にする自由なんて、私たちの大半が求めてすらいない。

そんな言論の、表現の自由を行使しようとする者がいれば、国家権力の介入を待つまでもなく、自分達の内輪でパージにかけるのが、私たちの日常ではないか。

「あなたの言ってることはおかしいのではないか?」と指摘されたら、「じゃあ周囲のみんなに訊いてみましょう」で反論になると思い込んでいるほどに頭が悪い、「自由」の意味がなにも分かってないまま無神経に幼稚な集団全体主義と排除の論理を押し付けるだけの、哲学的な思弁など皆無な体制順応者が、左右を問わずこの社会の大勢ではないか。

こんな調子でいれば確実に、日本はやがて衰退するだろうとは言えるのだが、しかしそれは持続する、緩慢な時間の流れのプロセスとしてしか起こらないものだ。

そんな緩慢さの、ほどほどの抑圧の中にいる欲求不満があるからこそ希求したくなるカタストロフィの麻薬的な悦楽とは無縁の、退屈な、何も起こらない、10年とか20年のスパンで徐々にグズグズが進行し、気がついたらボロボロになっていく継続性の衰退の成れの果てが、退屈で、何も起こらないが故に皆が苛立っている、だからこそ終末論にも憧れてしまう現在の延長に、恐ろしく平凡な論理的帰結として、あるだけだろう。

一昨年の4月、NHK-BSの気の効く担当者が、震災後では初の映画放映で、黒沢清の『トウキョウソナタ』をとりあげた。ラストで小学生の主人公が奏でるドビュッシーの『月の光』があの時の鎮魂にふさわしかったからだろうが、その前に、この映画にはアルバイト学生の青年のぎょっとする台詞があった。 
「あ〜あ、起こんねえかなぁ、大地震」 
それこそがこの社会の、正直な本音だったのかも知れない。

逆に、だからこそ、この時間の流れは心底恐ろしいのでもある。

ダラダラと、なんら決定的な瞬間や契機が見えず、規則正しさもない怠惰さの、自分達が抑圧されていることを意識すらしにくいこの耐え難い抑圧のなかで、我々はすでに、そこからの逃げ道を探る努力すらまったく怠りながら、ただ日々を漫然と過ごしているのではないだろうか?

だいたい、「憲法が改正されて日本がまた戦争になる!」と言い出す前に、よく考えて欲しい。 
確かに今の日本社会の空気は、戦前の末期、昭和恐慌を経て戦争に向かった時代に似通っていると、例えば故・黒木和雄に「私たちの子供の頃とそっくりだ」と僕もよく言われたし、靖国神社に来ている戦場を生き残った日本兵にも同じ警告を何度もされた、「あんな時代にしちゃだめだよ、注意しないと」と。 
確かに似通っている、あの戦争もまた外の世界が見えず日本の内輪に引きこもって現実離れした狂った行動に走ったものであるのはその通りだ。 
しかし今と当時では決定的な違いがある。 
1920年代、30年代に、日本は戦争に強い国だった。日本人の兵士には戦争が出来たし、そのための訓練にも耐えて来た。今の日本人のほとんどが、兵士の生活に耐えられるわけもない。 
中国大陸でがむしゃらに(兵站確保なしに)戦争を遂行し、人体実験に手を出し、興奮状態で大虐殺をするような意志の力や体力なぞ、安倍晋三にも、秋葉原で日の丸を振ってた連中にも、期待するだけ間違っている。 
勝てるかも知れないと思ってるからこそ、戦争に走ったりもするのだ。現代の日本は、憲法を変えたところで絶対に戦争なんてやらない方がいい。 
お話にならないほど弱いに決まっているのだから。 
そして確実に、すぐに負ける国だということは、要は憲法に関係なく、最初から「戦争が出来ない」国でしかない。

戦争というカタストロフィのカタルシスに実は期待も出来ず(実際にありえないからこそ、「普通の国」だか「国防軍」といった夢を見るのにもちょうどいいわけだが)、ただ国内の、さらに狭い周囲の同質性の内輪に引きこもって、戦前戦中のもっとも下劣でいやらしい世界だけを国内で再生産・模倣するのが関の山だ。

つまり、下衆な井戸端会議といじめ遊びに「お国のため」の看板を掲げて自己正当化していた国防婦人会みたいに、道徳的堕落に耽溺しきって、外敵や他者と闘うよりも、国内・内輪での排除と差別に終始するだけだろう。

…というか、現にそうなっているじゃないか。 
だから「韓国政府は、北朝鮮が」と言いながら、デモをやる場所は韓国大使館前などではまったくなく、新大久保や大阪の鶴橋の韓国料理店街に営業妨害をやって満足出来てしまう阿呆も出て来るのだ。

バブルの崩壊の直後にも、終末論的な気分が蔓延したことがあった。

そんななかで95年1月に神戸の震災があり、同年3月20日に東京の地下鉄にサリン・ガスの袋が仕掛けられた。実際にサリンを生成させる化学的知識さえなければ、驚くほど児戯めいたやり口だった「日本史上最悪の無差別テロ事件」である。

オウム真理教はまさに当時の、行き着くところまで成長し切った末に、その先が見えない終末論の気分を凝縮したような信仰でもあったのだが、そのことの総括もこの国は出来ていない。


オウム・ネタの映画は当時流行ったものの、しょせん興味本位な薄っぺらでしかなく、村上春樹という希有な例外を除けば、日本が自らを省みなければならなかったはずの歴史的瞬間に、その役割を果たそうとした芸術家や表現者はいなかった。

村上が『アンダーグラウンド』と、その姉妹編『約束された場所で』で、真摯に現実の人間から紡ぎ出した言葉は、そんな終末論的な浮ついた気分とは似ても似つかぬものだった。ことサリン事件の被害者というか体験者の言葉をまとめた前者に浮かび上がるのは、バブルの軽薄でも失われなかった日本の名もなき普通の人々の、堅実で素朴な知性だった。


だが驚くべきことに、秘かなベストセラーにこそなった『アンダーグラウンド』について、まともな分析や書評すら書かれていないし、仮名を条件に取材に応じた人も多い中、現実的に難しい面もあるにせよ(僕自身は、実際の人物が特定出来ずに済む脚本が書けたらやってもいい、脚本を書いたらそれを読んで決める、と村上さんに言われている)、映画化とまでは言わずともそこにインスピレーションを受けた映画すら、一本も作られていない。


地下で巨大な災難に遭った人々の、地に足のついた言葉とは裏腹に、日本という社会の総体の意識は、バブルの余韻を匂わせながらふわふわと漂白を続け、「再生」とか「取り戻す」とか「改革」とか繰り返しながら停滞した時間がそろそろ20年も経過しようとしている。


「もう日本は終わりだ」めいたカタストロフィな気分の悦楽を、20年近くも麻薬のようにむさぼりながら。

(そして当然ながら、その現実の日本はまったく終わっていないし、終わりそうにないから安心して終末論という麻薬に中毒していられるのだ)

結果として現代日本文学の金字塔と評されてしかるべき、そして20世紀の終わりの日本人という総体のもっとも誠実な自画像であったはずの『アンダーグラウンド』が影響を与えた芸術作品は、なんと村上春樹本人の『東京奇譚集』や『1Q84』くらいしか見当たらないのである。

よく考えれば、私たちは終末論の気分を楽しんだけで、人生がひっくり返るような困難に直面した個々の他人の体験や、それが私たちの社会や、個々の人生にどれだけのインパクトを持つのかには、ほんとんど関心がなかったのではないか?


一昨年の東日本大震災と原発事故も、結局は消費されるカタストロフィな気分を一時的に提供しただけに思える。そしてその終末論の気分の賞味期限が切れてしまえば、もう忘れられている。


たとえば昨年度末に「警戒区域」が一応はなくなっていることを、地元以外でどれだけの人が気づいているだろうか?

原発事故への関心、たとえば再稼働反対デモの盛り上がりが、実は終末論的な気分を求める欲望でしかなかったとするなら、こうなるのもまた理の当然だろう。

そういえばそんな報道もあったね、という程度でも、憶えているだけ、まだましな方ではないか?

別に「被災者のことを考えないのはけしからん」という道徳論ではない。 
ただ都合のいいときにはさんざん「フクシマの人々」とか言って味方のフリをしたり、「原発マネーで汚れているとかクサしてみたり、放射能が大変だと騒いで玩具にして来たのに、どうも期待通りのカタストロフィにならないから「もう飽きた」というのなら、そりゃあんまりだろう?

実際に避難させられた市町村とその住民にとって、現実はそんなカタストロフィの気分のワクワクする終末論とはほど遠い、果てしなく続きそうな緩慢なる苦悩、停滞する現実のなかで宙づりにされた実存でしかない。


今は「帰宅困難地域」とされた場所でも、「放射能が強い」と分かるのはガイガーカウンターなどがピーピーと機械的な警告音を出すことだけだ。

事故直後ならそれだけでパニックになったかも知れないが、今ではそこで数値をちょっと確認して「やっぱりここは高いね」「帰れるようになるのはいつのことになるんだろうね」と、この二年間ですっかりおなじみになってしまった言葉を交わす。

二年前、三年前には田畑であり、美しい田園であったところには、外来生物のセイタカアワダチソウなどの雑草がみっしり生い茂っている。

双葉郡の多くの人は丹念な庭作りが生活の一部であり、季節の花々を楽しんでもきたし、それが老人の健康の秘訣のひとつでもあったのが、今では荒れ果ててしまっている。

藤原敏史『無人地帯』より
だが雑草は雑草だから、地味が豊かだから生えているだけのことだ。放射能の突然変異ではない。

避難の際に農家が飢え死には忍びないと放した家畜のブタが、山中にいたイノシシと交配し、イノブタが闊歩したところで、それは自然の健康な営みであって、遺伝子の異常でもなんでもない。


この土地のかつての美しい田園を見たことがない者、それこそ田んぼや畑をあまり知らない都会の人に、この故郷の風景がどれだけ変わってしまったのか、写真や映像を見せても、それだけで伝わるかどうかも怪しい、と地元の人たちは思っている。


非日常が延々と続く日常になる。そこに娯楽映画みたいなモンスターや、分かり易く刺激的なホラーの要素はかけらもない。

終末論の悦楽なんて、原発事故に巻き込まれた人々の現実には、まるで縁のないことだ。


「メルトダウン」「政府の嘘だ、東電の隠蔽だ」

挙げ句に「放射能で牛の畸形が」「脱毛、大量の鼻血」挙げ句に「福島の女は将来奇形児を産む」

ちょっと『ゴジラ』の見過ぎじゃないですか、と僕なぞはシラけてしまう終末論的な気分満載のハルマゲドンを、「レベル7」に思わず無自覚に期待してしまった人たちが夢見た「史上最悪の原発事故」は、ここにはない。
…っていうか、福一事故が「レベル7」という政治的バイアスのたっぷりかかった評価は、いくらなんでも誇張が過ぎるわけだし。 
原子炉が4基だから量がもの凄いとはいえ、停止している原子炉が崩壊熱で壊れた事故であって、臨界状態の炉心メルトダウンとか、その状態で圧力容器が爆発したとか、それこそ核爆発だとかじゃないわけで。

現実の福一事故の現場は、亡くなった前所長の吉田さんが最初から言っていたように、ひたすら水の問題、原子炉を冷やすための水がどんどん溜まって行くだけという、これまた華やかなカタストロフィ願望には期待はずれの、地味な日々の蓄積との闘いしか、そこにはないのだ。


これは終末論的な空気を背景に、「原子力ムラの隠蔽だ」「利権だ巨悪だ」に対抗する正義気取りが出来るような話ではない。

東電にせよ政府にせよ、よく見ればそのやり口で目につくのは、むしろ平々凡々たる責任逃れの論理の、今の日本でうんざりするほど目にするような、凡庸でみすぼらしい保身の狡猾さの帰結か、下手すれば幼稚なプライドの意地っ張りの話でしかない。

ここにあるのは、バブル崩壊後の停滞した20年の動かない時間が我々の多くの知る唯一の日常となり、右肩上がり社会の幻想を未だに棄てられずにそんな日本を「再生」だか「取り戻す」と言い続ける、終末論的なガラガラポンを夢想し続ける以外に未来像すら持てなくなった、うんざりするように平凡で、ほどほどに根腐りれが始まった日本の現実が持続して来たことの澱が、日々の蓄積の末に肥大した結果であり、私たちがその現実を直視し受け止めることを拒絶し続けた、なし崩しの、成れの果てなのだ。

浪江町の中心街。線量はいわき市と変わらない

結局、この場以外の日本にとっては、カタストロフィのカタルシスを求めていたのに、期待はずれだっただけなのかも知れない。

地下鉄サリン事件も同じだ。オウム叩きには日本中が熱狂し、今でも「カルトは怖い」と便利に引き合いに出されるが、私たちの便利な都市生活の日常がどれだけ危ういものなのかを直接体験してしまった、3月20日にたまたま地下鉄に乗っていた人たちのことは、すぐに忘れてしまった。

だから忘れたくなっている私たちの政治ごっこ、もう賞味期限切れになりつつある正義気取りの「反原発」の陰には、終末論的スペクタクルではなく、ただ目に見えぬ潜在的な危険を前にする非日常が日常と化してしまった、果てしなく宙づりの現実の時間がある。

それこそがリアル、ここ以外の場所の私たちにとっても、自分のリアルの延長だと、私たち自身にも分かった瞬間に、興味すら失ってしまった、「私たちの平凡だがもの凄く便利な日常」のツケとしての(しかし浜通りの人たちがそんな「文明化された日常」の恩恵に、そんなに預かっていたわけでもあるまい)、日常になってしまった非日常。

ここに残され、ここ以外の日本から忘れられつつあるのは、帰れるかどうかも分からない(放射線値だけ見れば帰れるはずだが、生活が立ち行かないであろう人々。どうも線量からしても帰れそうにないが、補償が決まらないので動きがとれず、家を諦めるわけにもいかない人々)、避難させられた人たちだ。

浪江町。スマホの画面に写るのは、三年前の同じ場所の風景
その人々の「自分達の現状はなにも変わらない、しかし自然はどんどん変わって行く」宙づりの時間は、延々と続いている。浜通りが自然の豊かな、本来なら恵まれた土地だったからこそ、人がいなくなった自然は、めまぐるしく変化しているのだ。

元の警戒区域や、仮設住宅、借り上げ住宅には、その場とそこに生きる人々をもはや見捨てようとしている、終末論幻想に踊り時間感覚を失った「そこ以外の日本」とはまるで異なった、現実の重々しい、宙づりの時間が、停滞している。

その周辺では、なんとなく日常が続いているように見え、また日常を取り戻そうとしながら、震災前にあった日常が決して取り戻せないこともまたよく分かっている人たちの町がある。

相馬野馬追いのお行列にて、桜井南相馬市長の口上

だがその人たちが、それでも「ここで死んでたまるか」と、人として生き延びようとしていること、「どうこの大地で今後生きていくのか」を考え抜いていることもまた、忘れてはならない。

南相馬市・原町では、今年も相馬野馬追いが盛大に行われていた。
この人たちの慎ましやかな、本来の人間としての尊厳は、守られなければならない。

7/25/2013

参院選の結果と広島の死体遺棄事件に通底するもの


恐らくロクな結果にはならないだろうと思っていた参院選だが、思った以上にすごい結果になってしまった。投票率が50%をちょっと越える程度の史上最低レベルであったことについて、僕が棄権した人たちを責める気になれないのは、投票日前にこのブログに書いた通りだ(「本当に選挙を「棄権」してはいけないのか?」)。

「ねじれ解消」をいかにもポジティブなことのように書く報道については、内田樹さんがいかにそれがおかしな話、ねじれこそ民主主義の二院制の機能であり、これでは民主主義の放棄に通ずる話でしかないか、ご自分のブログで適確に論じているので、今さらここでは書くまい。

内田樹の研究室「参院選の総括」
http://blog.tatsuru.com/2013/07/23_0850.php

しいて付け加えるなら、従来の自民支持者こそ、この結果に危機感を抱くのが当然ではないだろうか。

思い返せば一年ほど前には、安倍晋三氏が自民党総裁に再登板することは、悪い冗談としか思われていなかった。

周知の通り、総裁選挙で党員、つまり一般の自民支持者が選んだのは石破茂氏だ。

以前に政権を丸投げした安倍晋三のことを信用する自民支持層は少なかったわけだし、それなりに政策通の、一応は勉強はしている石破氏が、実際に生活もかかっている自民党組織票の保守志向の支持者(たとえば地方の商工会議所や農協の人脈)に選ばれるのは、当然だろう。

安倍氏が勉強が足りない、政策を知らない、あまり頭も良くない、中身がない、こう言っては悪いがボンクラなお坊ちゃんであるのも、第一次の安倍政権の際に、旧来の自民党支持の庶民ほど気づいていたことだし、挙げ句に体調不振を理由に丸投げ辞任…

…それも倒れて入院でもしたのならまだ納得するのが、本人が元気な顔して記者会見をわざわざやってしまう世間知らずっぷりでは、呆れられて当然だった。

安全保障通を自認しながら、兵器のプラモデルを集めるのが好きな男の子の趣味でしかないと揶揄される石破さんでも、軍事や外交安全保障のイロハどころか世間の常識すら知らない安倍さんよりはマシだ。

なのに国会議員たちは(大切なはずの支持者を裏切って)安倍氏を選んだ。

この時には誰もがその結果に鼻白んだはずだ。

どうも石破氏を直接知る国会議員のあいだでは、ちょっと勉強してるからって知識を鼻にかけて傲慢、しかも粘着質で執念深い、性格が悪くて友達がいない、ともっぱらの噂であるにせよ。

その安倍氏が衆院選だけでなく、参院選まで大勝となれば、安倍氏とその周辺の軽薄なお調子者たちだからこそ、自分達が勝ったのだと驕り高ぶるのは目に見えた話だ。

しかも彼らには実際に政策を作ったり実行する能力がない。安倍政権の「お友達」内閣メンバーに至っては、こんな幼い顔した人が大臣ですか、と驚くような顔ぶれだ。

薄っぺらなかけ声と、岸信介の孫という血筋だけが売り物の首相が勘違いで鼻高々になれば、肝心の政治は結局は官僚の言うなりになる(本ブログ 「全体主義国家へようこそ」 の項参照)。そしてその霞ヶ関にとって、安倍晋三は消費増税にもっとも好都合な総理でしかない。

その安倍晋三と言う猫の首に、これでは自民党の誰もが鈴をつけられなくなってしまう。

石破茂氏は選挙後あえて低姿勢を貫き、長年連立を組んで来た公明党を裏切って憲法改正を強行などはしない、と安倍氏の浮かれ方を尻目に慎重さをアピールしていたが(それだけまだ、石破氏の方がまともだ)。

東京選挙区で言えば自公で三議席過半数をとるのは想定の範囲内とはいえ、ダントツのトップ当選が丸川珠代というのは驚きというか、投票した人はなにを考えているのか分からない。

武見敬三氏ならまだ、TPPとのからみもあってせっかくの国民会皆保険制度がなし崩しにされようとしていることへの反対勢力にもなり得るなど、とにかくバランスはとれたはずだ。

別に女子アナ出身のタレント議員がすべて駄目だと言うつもりはないが、よりにもよって丸川氏が110万、しょせん大物の息子の二世とはいえそれなりにベテランで、医療政策などが分かっている方の武見氏に、ダブルスコアに近いトップ得票とは。

出産を経たら案の定「女性にやさしい社会」を演説で繰り返すのはいいが、だったらあなたは自民党でなにをやってるんだ、それも安倍晋三の忠実な着せ替え人形アイドルがなにを言ってるんだ、としか思えない。

その政治手腕に本気で期待して投票する人というのも、想像がつかない。


世論調査をすれば、多数が原発の再稼働には反対ないし慎重、TPP参加にも多くの国民が懐疑を抱き、今のままの消費増税も納得せず、「ブラック企業」という非難に代表されるように雇用制度の規制緩和にも疑問が多い。にも関わらずそのいずれをも公約に含んでいる自民党が大勝したのも奇異だ。

とはいえこれですら、必ずしも自民に投票した有権者を責められた話でもない。そうした本来なら争点であったはずのことが、選挙前にほとんど報道されていないのだ。

丸川珠代が「女性にやさしい社会」とか言ったって、マスコミは誰もその珍妙さを指摘しなかったのだ。

NHKと、テレビ朝日系の人気番組TVタックルでは、投票日の翌日に討論番組を組んで、野党に与党の政策への疑問や批判を挙げさせた(NHKの番組を報じた赤旗新聞の記事はこちら)。

司会者も含めて選挙前とはがらりと違った雰囲気だ。これでは文字通り後の祭り、国民が「騙された」と怒ったって無理のない話であり、なのに怒らない人が多いのはさすがに奇妙だとは思うが。

いったいなんのためのマスコミ、なんのための報道なのだろう?選挙で投票する判断材料を国民に与えもしないでおいて、棄権した国民をけなすのだからいい気なものだ。

投票日二日前の金曜日に、米国デトロイト市の財政破綻が報じられた。オバマ政権の財政支援などのテコ入れで、アメリカの大手自動車製造会社は持ち直しているのにも関わらず、である。

実際、アメリカの自動車産業自体は、今も好調だ。(GMの好業績を伝えるBloomberg日本版の記事はこちら)

いや当然の話として、設備投資の余裕ができたビッグ3は、しかしそれをデトロイトなど米国内に投下するつもりなどさらさらなかったのだから、こうなるのはある意味、目に見えていたし理の当然でもある。

教科書通りの「産業空洞化」なのだ。

なのにマスコミで識者ぶったベテラン政治記者は、「日本も他人事ではない」と口先では言いながら、持ち出した比較例はなんと夕張である。

どこまで安倍政権に気を遣っているのだろうか?

同じように、仰々しくも「アベノミクス」と銘打った、タガの外れた金融緩和による円安誘導しかやっていない安倍晋三首相の経済政策も、それで大手企業に(おもに為替差益の帳簿上のからくりだけとはいえ)余裕が出たとしても、それが日本国内の設備投資や雇用創出に廻ることはまずあるまい。

先進国では人件費がアップするため、より労働力が安い新興国や発展途上国には価格競争で勝てなくなるのは、資本主義では自然な流れだ。

だから先進国の「産業空洞化」なんてもう20年前からよく聞く常識で、高度な技術力と労働者全般の質の高さで、その打撃が他の先進国ほどではなかったバブル後の日本でさえ、小泉時代の規制緩和による非正規雇用の爆発的な増加などで対処しなければ、国内の工場を維持するのがすでに難しくなっていたではないか。

ところがデトロイト市の財政破綻の理由を分析するのでも、「産業空洞化」という、ごく当たり前に出て来るはずのタームを口にするのは、せいぜいが一部のコメンテーターだけだ。

アベノミクスが「第三の矢」である成長戦略でよほど日本でなければ出来ない分野を強力に底入れしない限り、大手製造業に余裕が出来たところで、デトロイトと同じ展開が日本でも起こり、一般雇用の拡大や安定、ないし地方経済への波及は期待できず、日本全体が第二第三のデトロイトになりかねないことも、なかなか遠慮して言及されない−−中学で習うような経済学の知識で、すぐに分かることなのに。

この参議院選挙で、せめてこれは公約で出して来るだろうと誰もが思っていた「第三の矢」の中身を、首相や自民党がアピールすることすらなかったし、報道もあえて不問に伏して放置した。

産業空洞化で元の木阿弥、ますます雇用が痛み格差が広がるという結果にならないため、今のところ人工ミニ・バブルでしかないアベノミクスを実態経済への好影響につなげるには、この「第三の矢」の中身がすべてだと言うのに。

首相と来たらなんの根拠も具体性もないまま「10年後に一人当たりの国民所得を150万増やす」と吹聴し、それが出来るとする理由は「70年代や80年代の日本人に出来たことが、今の日本人に出来ないわけがない」という空っぽなかけ声だけだった。

申し訳ないが高度成長の時代の日本に出来たことを、今の日本に期待するだけおかしい。日本は今や成長するだけ成長してしまった、成熟した資本主義国だ。これ以上経済成長をする余地はあまり残されていない。

かつて安価で良質な労働力を武器に世界の市場を席巻したメイド・イン・ジャパンだが、今では労働力は高価だし、その質のほうは逆に、今の日本人の総体は昔ほど実直な働き者ではない。教育も育ちも違うし、それに大企業ですら家族的な雰囲気の演出で忠誠度を高めていた日本的な経営も、もはや過去のものだ。

中国や東南アジアで勤勉で優秀な労働力が育っている今、産業空洞化をどう阻止するのか、あるいはそれに替えてどう言う手段で将来の日本が食って行くのか、それを提示するのが、責任ある与党の選挙公約のはずなのだが。

これも投票日前に出てるのだから、普通に報道されていれば確実に与党への逆風になった話題だが、東京電力では福島原発事故以降、退職者が後を絶たない管理職を引き止めるため、一律10万を支給するという(東京新聞の記事)。 
総額がまたかなりの額になるのは当然で、原発事故の保障賠償もままならず、燃料費コストの価格転嫁で電気代は上がってるのに、いったいどういうつもりなのか東電さんにもつくづく愛想がつきるわけだが、一方で会社が危機の時に責任ある管理職から辞めて行く、だから現ナマで懐柔なんてことは、高度成長時代の日本企業では考えられない話だ。

だがどうも、安倍晋三さんの周囲だけ、日本は未だに高度成長時代であるらしい。

この時代錯誤な幻想(こうなると「信ずる者は救われる、だからひたすら信じろ」というカルトでしかない)を見て見ぬ振りしてオブラートに包んだ報道に徹した大手メディアというのも、これでは民主政治に不可欠な権力の監視役としての言論の役割など、およそ期待できない。

そしてここまで大勝してしまえば、もう誰も安倍さんの勘違いした傲慢なひとりよがりを、自民党内ですら止められないのだ。

始末の悪いことに自民党でも政策が分かっていた、族議員と批判されながらも、その専門分野の実態についての知識は馬鹿にならず、官僚に対抗して自ら政策をつくれるような長老陣は、あらかた引退してしまった。 
残ったのは二世三世が過半の、それも三年間の野党暮らしでなんの政策知識も持っていないことがバレてしまった(国会でもロクに質問も議論も出来なかった)面々がほとんどである。

もはや雰囲気だけの選挙、それも「風が吹く」のならまだ以前にも何度かあったものの、極めて刹那的で、ほんの半年前、一年前のことも忘れたその場限りの突風みたいなものだ。

なるほど、政治も景気もある程度は「気」、気分の面があることは否定しない。しかしその「気分」があまりにも軽薄で散漫として刹那的で、なにも考えていない、本来なら政治が担保すべき国と社会の将来に、あまりに投げやりになっているとしか思えないのだ。

民主党は歴史的な惨敗に終わった。確かに2009年の政権交代マニフェストをほとんどなにも実践出来なかった民主党も情けない限りだが、いつの間にかその三年間に景気が最悪になるような、とんでもない悪政をやったということになっている。

民主党政権が呆れられたのは単に自民党となにも変わらなかったことであり、アベノミクスの元になったインフレ・ターゲット論ですら、元は民主党の菅や前原が言い出したことだと言うのに。

すでに安倍政権発足直後のこのブログで書いたことなのでいちいち繰り返さないが(「日本は本当の危機なのか」「日本は本当に危機なのか・その2 」 )民主党政権時代に、日本の経済は別に悪くなってはいない。

むしろ先進国のなかではもっともリーマン・ショックの打撃から早く立ち直り、失業率などの数字も決して悪くない(ただし実際の雇用では給与水準がどんどん落ちているが、これは数字上は好況だったことになっている小泉時代からだし、むしろ労働法制と労働市場の管理の問題だ)。原発が止まって行くことで景気に悪影響としきりにプロパガンダされたことですら、事実はまったく異なった結果になった。

民主党に政権交替する前、第一次の安倍や麻生の内閣の頃、年越し派遣村があれだけ話題になったことすら、もう忘れたのだろうか?

経済政策で民主党政権の最大の失敗は、菅・野田の両首相が尖閣諸島の問題で中国との関係を悪化させたことであり、東京開催のIMF総会を失敗させたて世界の顰蹙を買い、ユーロ危機の解消を送らせたこと、今や世界の組み立て工場である中国相手に日本の国内産業で最大の売り物の高度な部品の輸出が滞ったことくらいだし、こうした外交面の失敗の経済への影響は、安倍政権になってむしろ悪化している。

安倍首相が喧伝するほど、日本の経済はファンダメンタルの部分で悪くなっていない(麻生氏が総理のとき、「日本のファンダメンタルは悪くなっていない」と言って顰蹙を買ったのも、それ自体は間違いとは言えなかった)。決して良好とは言えないし問題は山積している、将来はもたなくなるだろうとはいえ、今日明日にそこまで悲観する理由は実はない。

だが一方で、安倍首相が言い張る楽観論もまた、今後の日本の現実とはまるで異なる。

いかに安倍さんが人差し指を振り上げて「一番」のポーズをとろうが、今さら高度成長など出来るはずもないし、別に彼が人差し指を振り上げるまでもなく過去30年近く、世界でもっとも豊かな国のひとつなのだ。

なのに不況感が漂い、欲求不満が溜まっていることは、否定のしようがない。

問題なのは企業経営のルールや倫理だけは日本式経営の美点をかなぐり棄て雇用制度はガタガタにしながらも、経済の構造というか、我々の意識が未だに輸出偏重構造の高度成長型である時代錯誤、実態に合ない経済構造を維持していることであり、我々もまた今よりも高度成長時代は良かった、と無邪気なノスタルジアに浸ってしまっている(いわゆる「昭和ブーム」)。

だが日本は80年末代にはとっくに高度に成熟した資本主義の、安定した低成長ベースのフェーズに入っている。

その転換期に経済政策を誤ったが故にバブルになり、そのバブルが崩壊してからの「失われた20年」、「規制緩和」を唱え続けても、結果は労働市場が不安定化して非正規雇用と正社員の格差が増えたくらいのことで、バブル崩壊から順調に回復できたわけでもない。

ところで未だにバブルの時代の再来を望むような論調も見かけるから驚く。あれは経済政策の失敗なんだって。その後遺症に今も日本は苦しんでいるんだって。 
いや「バブルは良かった」という感覚こそが、その最大の後遺症なのだろうか?

にもかかわらず国は未だに膨大な資産を持っているので、赤字国債を発行したって日本国債の価値は下がらなかったし、悪者扱いされた円高は実は世界のどの通貨よりも円が信頼されていた結果に過ぎず、不景気とか言いながら銀行には投資先が見当たらずに困る世界最大級の預貯金が唸っている(アベノミクスの為替差損で相当に目減りしたとはいえ)。

経済構造を安定持続型に変える余力はまだあるし、今が最後のチャンス…なのに、「再び日本を一番に」と人差し指を振りかざす軽薄な絶叫の奇妙さを経済学者や歴史学者が指摘しようとしたら、マスコミにコメンテーターとして呼ばれなくなる国になり、その結果、衆院だけでなく参院の過半数まで与えてしまい、これから三年間は大きな選挙もない、よほどの失政がない限り安泰の、霞ヶ関の言いなり政権が続くのだ。

ここまで勝たれてしまうと、消費増税などいろいろ都合がよかった霞ヶ関も困ってしまうかも知れない。 
調子に乗った安倍晋三が、確実に世論の反発を買う憲法改正などを強行したりはしないだろうか?
日中関係や日韓関係をこれ以上悪化させては日米関係まで揺らぐだけでなく、経済に響く。
それに自民党の現在の憲法草案がお話にならない内容なのは以前に述べた通りで、あまりにみっともないので今回の選挙でも報道でほとんど触れられなかったのだが、逆に言えばこれを持ち出しでもしない限り(三年後に選挙に大敗する可能性さえ覚悟しておけば)、安倍政権は安泰だ。 
逆に言えば、憲法改正や集団的自衛権の問題は、多くの人が危惧しているように強行されることはないように思える。霞ヶ関、とくに財務省がそれをやらせたがらないだろう。せっかくの、頭が良くないぶんもっとも操り人形にしやすい、便利な政権なのだから。



投票日直前にもうひとつ、本来なら大きなニュースになってしかるべきだったのは、中国の習近平・李克強政権の経済政策の転換だ。

デトロイトの破綻と同じ日に、人民銀行が闇金融対策で金利政策を変えることが発表された。その前に輸出にかげりが見えたと指摘され、「大規模公共投資で景気の底上げはしない」と李克強首相が明言したことも、世界経済の新しい流れを予測させる重大なニュースだったのが、安倍の政策がいかに時代錯誤化をあからさまにしてしまう話であったせいか、ろくに報道されなかった。

中国の現政権ははっきりと、今の急激な経済発展に多少はブレーキがかかる結果になっても、中国経済の構造を今の輸出偏重型から、格差を是正し安定した国内需要で支えられた持続型に変える必要性を述べているのだ。

本来なら日本もまた20年前、30年前に取り組み始めておくべきだったことだ。

たとえば小沢一郎が2009年マニフェストで提案し、菅や野田の(松下政経塾に毒された)民主党と決別したあとも、今回は「生活の党」で主張していたのもこうした政策変換だ。

アベノミクスの問題点を指摘し今後日本がどういう国になるべきかをもっとも論理的かつ分かり易く述べていたのは、今回の選挙でも誰よりも小沢さんたちだった。

その生活の党が、今回はいわゆる反自民勢力の中でも、もっとも惨憺たる結果になった。

もちろん小沢さん本人の問題も大きかったことは否定できない。震災のときにもっとも東北のニーズが分かっていて、被災地の救援や復興援助の要になる理論を提示出来たはずの彼が、なにも動かなかったことで失った信頼は、あまりにも大きい。

自分の周囲の議員たちの興奮を押さえきれず、民主党と袂を分かってしまったのも、民主党にとっても小沢さん本人にとってもあまりにも痛恨の失策だ。小沢さんにしても鳩山さんにしても、いざと言うときに人が良過ぎて、権力闘争を勝ち抜く狡猾さやパワーに欠けているのが最大の欠点なのだろう。

…というか、この二人のどちらも、世の中には(そして自分の周囲に)私利私欲や名誉心や身勝手な嫉妬、あるいは保身がなによりも優先してしまう身勝手で狡い人間だって多いことがどうにも認識出来ていないか、分かっていてもそういう人たちがどれだけ嫌らしい行動原理を持っているのか、まるで理解できないらしい。 
いい意味で「お坊ちゃん」、小沢さんの場合はしかも「田舎のお坊ちゃん」だけにシャイ過ぎることまで、おまけでつくのだから、権力闘争が苦手なのも、まあ、やむを得ないのかも知れないが、えらく歯がゆい話だ。

とはいえそれでも、派手さはないにせよ理路整然として分かり易い小沢さんと生活の党の主張がこうも無視されるてしまうのでは、やはり日本の現在と将来にあまり明るい展望は見えて来ないのだ。

後世の歴史家は今回の参院選挙を、1992年と2009年に政権交代があり、自民独裁体制が覆えされ得る可能性も日本の政治にはあった、その選択肢が完全に葬り去られた選挙だったと評価するだろう(産經新聞などはすでに大喜びで「鳩山・菅・小沢時代が終わる」と分析記事を出している)。

安倍晋三は「戦後レジュームを終わらせる」とやたらと口にする。「Regime」なんだから「レジーム」ろう、読みがおかしいという突っ込みはともかく、戦後日本のRegimeつまり支配体制がむしろ完成し、オルタネイティヴがあらかた排除されたのが、この選挙の結果だ。

そして、その行き着く先が自民独裁や安倍独裁ではなく、実態が官僚独裁全体主義であることは、衆院選直後のこのブログで書いた通りだ。

…ということは、完成したのは単に戦後のレジームではなく、明治に急ごしらえされた国民国家としての日本の、中央集権の官僚体制の完成である。 
菅直人に続いて安倍晋三という旧長州藩出身の政治家によってそれが成されたというのだから、ある意味で馬鹿みたいに分かり易い。 
震災と原発事故発生の直後、あまりに政府の対応が薄情で地元のことをなにも考えてないことに、福島県では冗談とも本気ともつかぬように「もしかして今の首相が山口の出身だからだろうか?」という人も少なくなかった。 
まさにその長州主導の明治維新がいかに暴力的で冷酷な「東北侵略の植民地戦争」であったかを告発するのが今年のNHK大河ドラマ『八重の桜』であり、しかし低視聴率なのだそうだから話が出来過ぎている。

だがそれ以上に僕が注目したいのは、この選挙によって知性や理念が日本の政治風景から完全に消え去ったことだ。

菅・野田の民主党政権の公約違反に敢然と異を唱えた女性議員集団「みどりの風」も消えてしまった。



理念だけでなく、信念も日本の政治風景から失われたことの、象徴的な例といえよう。

知性も理念も信念も消えてしまったことは、単に自公の大勝だけでなく、反自公の側の動向でもはっきりしている。

たとえば「反原発」「脱原発」「原発ゼロ」は世論の支持するところであり、野党は大なり小なりそのスローガンを掲げて闘ったのだが、政策的な方法論の提示がないので全体としては争点になりようがなかっただけでなく、それでもその争点で勝ってしまった(票の行き場がなく集中した?)のが、東京選挙区なら山本太郎氏だということにはっきりしている。

日経新聞のベタ記事に寄ればこと原発の問題では、自民党はなるべく街頭演説ではこの話題を避けるよう指示を出していた。

繰り返すがタレント候補だから駄目だと言いたいわけではない。齋藤(謝)蓮舫氏のように、タレント出身だって優秀な政治家はいる(案外と芯が弱く、民主党内の松下政経塾勢力に骨抜きにされたけれど)。

とはいえ東京選挙区5議席のうち2議席が丸川珠代と山本太郎、文字通りただの「タレント候補」、まともな日本語の議論すら不自由そうな、短いフレーズのかけ声だけで、その主張の根拠もあやしい(デマも多い)点で、岸の孫という血統以外にとりえがない安倍晋三首相に、輪をかけたような存在なのだ。

ネットでの選挙活動が解禁された今回、ツイッターでいちばん盛り上がったのが山本太郎陣営による民主党の鈴木寛候補への攻撃だったと朝日新聞が分析していたが、本当だとしたら目も当てられない。

震災当時に文部科学副大臣だった鈴木氏が、SPEEDI情報を隠蔽したのだという、もの凄く薄っぺらで中身も根拠も特にない中傷まがいの、軽薄なイメージだけの選挙闘争だ。

もちろん鈴木寛氏だって決してそんなに褒められた人じゃない、民主党が政権に入ったら官僚の言いなりになった典型みたいな人だが、山本陣営の支持者のやり口はさすがに衆愚的なヒステリーに過ぎる。

これではヒステリックな陶片追放みたいな魔女狩りだし、積極的な再稼働を実は主張していた自民の票でなく、反自民票を狙って、それを奪って当選したのであれば、大きな政策理念や目標が、まるで無視された話でしかない。

実は原発の再稼働にもっとも真剣に考え、慎重で、疑問が多く出ているのは、よく考えれば当たり前のこととして、他ならぬ福島浜通りなど、原発が立地する地元である。 
だが山本氏らの言うことがあまりに極端で現実離れしていて、デマも多く、そのデマによる差別風評でいちばん苦しむのがその原発立地地域だからこそ、山本氏は実はいちばん熱心にこの問題を考えている人々の支持や支援、共感を、決して得られない立場に自らを置いてしまっている。 
他者、自分と立場の違う他人の存在を認識・尊重出来ない結果、なにがやりたいのか結局よく分からなくなってしまう典型だ。いや実際、なにがやりたくて彼は選挙に出たのかすら分からない。 
芸能人としてはあのキャラで使うのは歳をとり過ぎて、俳優として使い道がなくなってしまったから、ただの打算の売名と言い切ってしまうのはさすがにかわいそうだが。

この選挙期間に、選挙戦の報道よりもマスコミがはるかに熱中したのが、呉市の郊外で遺体で発見された少女が、中学時代の元同級生の少女らのグループにリンチで殺害されて遺体が遺棄されていたと分かった事件だ。

最初はスマホのメッセージ機能アプリLINEでのやり取りで悪口を言われたのが動機と報じられ、一応は主犯に見える、自首した少女の一連のLINEでのやりとりが、共犯グループとの関係まで含めて、テレビでさんざん紹介されているのだが、これには強烈な違和感を覚えずにはいられない。

比較で思い起こすのは、もう5年前の、秋葉原連続殺傷事件の加藤智宏が書いたとされる一連の掲示板への書き込みだ(その抜粋はTwitterでもボットで今も流されている https://twitter.com/katou_tomohiro)。

なるほど、加藤の場合にもその書き込みの異常さが喧伝されたわけだが、彼が至る結論がいずれも常軌を逸した自己嫌悪ではあっても、その書いていること、言っていることには明確なロジックがあった。至った結論とそこでやったことは理解不能にしても、彼がその行為に至る過程は、その言葉を通して論理的に、動機と心理がちゃんと理解できた。

検察は念のため加藤被告の精神鑑定を行っているが、案の定、精神疾患という結論は出なかった。不運な状況が重なって彼がああいう行動をやるのだと結論した、その結果が異常なだけで、思考の過程に病理が見られないのだから当然だ。

広島県の事件で報道されるLINEのやり取りを見ていて困惑するのは、コミュニケーションが成立してないどころか、人間として、言葉を通じて他人とコミュニケートしよう、自分のことを伝えようとする意志すら感じられないことだ。

なぜこんな事件を彼女達が起こしたのか、いくらそのメッセージのやり取りをテレビで見させられても、手がかりすら見つからない。

自分のことを人に伝えようという意思すらないのだから当然ではあるが、そこにあるのは幼稚で自己中心的な感情論だけであり、その感情もただ「傷ついた!許せない!」という程度の、単純過ぎてなんの人間的な厚みもない。

だが彼女達のやり取りと違ってさすがに「てにをは」くらいは文法を踏まえ、「ゆう」ではなく「言う」とちゃんと表記はされている、場合によっては丁寧語にはなっているなど、一見まともに見えるものの、たとえば山本太郎氏のツイートとか、山本氏の演説やテレビでの発言とか、あるいは山本氏を支持する人たちのインターネット上の言動を見ていても、実はあまり変わらないし、その山本氏を叩くネット上の発言の半分くらいも、やはり大差ないのだ。

「ネット選挙」が解禁されたものの、本質的に広島の事件の彼女達と大差がないくらい、恐ろしく自己中心的で他者が存在しない世界の住人たちの、多くの場合は読解力の絶望的な不足に根ざした、ただ「傷ついた!許せない!」の、感情論とすら言う気がしないほどの機械的な感情しかなく、政治的な議論としてはまったく成立していない。

しかもこれは山本氏を支持する人たち、あるいは原発事故後あまりに極端なデマ、パニック体質の言動に走って「放射脳」と揶揄された人たちに限った話ではない。そうした彼らを批判する側も、大差ないのだ。

挙げ句に反原発が大事なのか、あるいは原発がなければ日本のエネルギー供給が立ち行かないと確信していることが最重要なわけでもなく、その実、自分達が批判されたことが許せないのかの区別もないまぜになった、刹那的な、感情論ですらない乱暴で皮相な感情だけが、ツイッターならツイッターの「クラスタ」を成立させ、自分(ないし自分達)が批判されでもしたら即脊髄反射、嘘でも出鱈目でも論点が完全にズレていてもなんでもいいから、とにかく攻撃に走り、仲間うちでつるんで誰かを攻撃することのカタルシスをまるで麻薬のように求めている。

先日このブログでも触れた、これまた時代錯誤に「反韓デモ」とやらをやっている人たちと、そこに対する「カウンター」の一部(というかネットでいちばん威張っている人たち)も、似たようなものだ。だから差別発言と同じくらいに、彼らが「反日」とみなす在日コリアンや「サヨク」を執拗に攻撃する。

これは恐ろしく反知性的なだけでなく、根本的に非人間的な光景であり、長期で社会の将来を考える政治的な議論の役割におよそ無縁な、ファシスト的な党派性でしかない。

こうしたやり方では「運動」や「社会のうねり」は拡大しない。 
ただたまたま同じ脊髄反射的な感情を共有する「内輪」が広がるだけだ。 
そしてそうした「内輪」は、他者からの批判を「攻撃」と誤認することで、いっそう結束を強める−−同じ集団内からの批判が出た途端に分裂し、昨日までの仲間に暴力性を剥き出しにする危険を、常に秘めながら。

そしてこの薄っぺらさと空虚さは、広島県でおそらくはもののはずみで同級生を殺してしまった少女達や、あるいは秋葉原で「誇りのある国を取り戻す」と内容空虚に絶叫する安倍晋三や、彼をとりまいて日の丸を振って熱狂している輩に、限ったことではないのだ。

参議院選挙の結果全体が、そのようなものに見えてしまう。杞憂であって欲しいのだが、「政策で決める」選挙からもっともかけ離れた投票行動になっていることだけは間違いない。

共産党の市田氏が、「衆参のねじれ」ではなく「与党と国民の希望の間のねじれ」に言及していた。繰り返しになるが、大勝した与党の政策の多くが、TPPでも原発でも消費税でも、世論調査では国民が反対ないし慎重なことばかりなのだから、「ねじれている」のは確かだ。

安倍晋三首相は微妙な争点を避け、経済政策の議論に特化することでこの選挙に勝ったという分析がマスコミでは主流なのだが、経済についてすら、実際にはまるで議論などしていないのである。

ひたすら気分だけの幻影の経済政策と、中国を叩く、韓国を叩く、民主党を叩くだけの攻撃性。そのいずれも、現実の把握も批判も二の次で、やはり薄っぺらなただの気分でしかない。

しかもこうした薄っぺらな気分は、予め閉ざされた自分(ないし「自分達」)の内部だけで通用するものであり、「外」に向けて恐ろしく押し付けがましい無自覚な身勝手の自己満足か、攻撃的な、排除の論理しか持っていない。

7/17/2013

他者への想像力について〜相手を「反日」などと思うことそれ自体、差別でしかない


2週間ほど前の本ブログで、東京だとニューカマー韓国人が多い新大久保、大阪なら歴史的に在日人口が多い鶴橋など生野区(たとえば御幸通り商店街)が「コリアタウン」として売り出していること、日本人と朝鮮民族の関係のここ十数年の変化(全般的に好転していることは、素直に評価すべきだと僕は思う)、そしてごく一部の反動分子(笑)がやっている「反韓デモ」なるものに触れた。

現実社会になんの影響力も持たない、いわば “世間知らずな引きこもり” 的な層が、匿名性のインターネットで妙な万能感を抱いた結果の滑稽で憐れな勘違いの問題はさておき、さすがに「朝鮮人は殺せ」などと言い出すことに関して反発が広がるのは当然だし、悪いことではない。

その「カウンター」を自称する運動の標語が「仲良くしようぜ」であることも、まあそれ自体は、とりあえず、ほほえましく、可愛らしい。


実際に学生さん達のグループがその標語を日本語とハングルと英語で書いたハート型の風船を配っている姿とか、実に愛くるしいし、在日なのかニューカマーなのかは分からないが、お孫さんに風船をもらったおばあさんが、「ありがとう、ありがとう」と繰り返していたりして、本当にいいことをやっていると思った。

写真を撮ってただけの僕にまでお礼を言われても困るんですけどね。いやでも、その光景を記録する(もしかしたら世間に流す)ことだけでも、おばあさんから見れば「ありがとう」なのかも知れない。 
だとしたら写真を、もう一枚掲載。

ただしこうした善意は善意として、それがどんなに個人的には純粋さから出た行為であっても、日本人の側から韓国人や朝鮮人に「仲良くしようぜ」というのが、本来ならいかに厚かましい話になるのかという自覚は、やはり持っていなくては困る。

だいたい、「仲良くしようぜ」という標語、学生さん、若者や子供がやってるからまだサマになるわけで、世の中が分かって来ている大の大人がこれじゃ、やはり恥ずかしいだろう?

戦後に「在日」という階層が産まれて60年以上、「朝鮮人」が日本人に差別され支配され搾取された歴史からすれば100年以上、いきなりその過去を忘れたかのように「仲良くしよう」とか言われても、「その前に言うべきこと、やるべきことがあるだろう?」と思われたところで、なんの不思議もないことは、相手の立場になって考えればすぐ分かるはずだ。

いじめの被害者がある日突然、加害者グループに「仲良くしようぜ」と言われて納得するだろうか?

そんな手前勝手な話を真に受けられるのは…

  • a) よほどの人格者か(もう尊敬するしかない) 
  • b) よほどのお人好しか(気持ちはよく分かる) 
  • c) 真に受けるはずもないが、そんな下衆で卑怯な二枚舌の加害者連中と同等に成り下がりたくないがために、真に受けたフリはするか、一方的に自分の敵意は封じこめる意地っ張り(僕はこの部類になるだろう) 
  • d) 今のところは一応は「味方」のつもり/そのフリをしている彼らにまで、露骨に差別されて攻撃されるのは怖いからなにも言えない(これがいちばん多いであろうことは、相手の立場を想像すれば簡単に推測がつく) 
  • e)自分が差別されていることに気づかない方が楽だから自分を殺している(こうなると日本人の側としてはあまり言いたくはないが、「目を醒せ」と言わざるを得ない) 
  • f) 下手すりゃ自分も「いじめる側」に仲間入りしたいだけ(ただの加害者以上に許し難い下衆であり、人種民族無関係に心を鬼にすべし)

…というくらいしか、理由が思いつかない。

まして「仲良くしよう」とか言いながら、一方で日本政府は今でも「国民感情」をタテに朝鮮学校を高校無償化対象から外しているし、ずいぶん減ったとはいえ、まだまだ通名を用い、在日であることを隠さなければ、生活が成り立たない人も多いのである。

…と思っていたら、ツイッターにこんな投稿があった 


なんなん、これ? 
総聯と民団は敵対し合ってるから、民団が自分達朝鮮民族への差別政策に他ならない高校無償化外しに賛成すると思い込み、自分たち日本人の側の都合で他人様の民族を分断させよう、っていうこの無自覚な差別意識って… 
仮に民団が「朝鮮高校の無償化外し反対」に難色を示すなら、日本の差別に反対する日本人であればこそ、そこは「あなた方が日本政府による自民族差別に加担してどうするんです?」と民団を説得しなきゃダメなところだろうに、なにこの腫れ物扱いは? 
…っていうかそれ以前に、民団が「民族差別に反対する」という大義・正義よりも、しょせん日本側に実は押し付けられただけの差別の構造に基づく分断・対立にしか興味がないと思い込めるって、どこまで他人様を馬鹿にしてるんだ?  
朝鮮人だからそんな愚かな内輪の衝突の恨みつらみに走るとでも決めつけているわけ?
いや、結局は民団を利用して、自分達のお祭り騒ぎの正義ごっこを盛り上げたいだけ、そのためにわざわざ「反レイシズム」の運動が、在日どうしを総聯と民団で対立させる、差別する側の作った分断支配の構図を利用するのだからお話にならない。 
…というか、この 「カウンター」側のリーダー格自身が、無償化には反対らしいんだから呆れてものが言えない。それでどうやって「仲良く」出来るの?

こんな妄言が飛び出す以前に、「仲良くしようぜ」と言われたってシラけるだけ、偽善じゃないかと見抜く在日コリアンの方が多くたって、なんの不思議もない。

そんなの5秒も考えれば分かるはずのことだし、分からない、考えないだけでも、怠惰の誹りは逃れ得ないし、それだけ相手の人間性を無視できること自体が差別的だ。

日本人の差別は過去の軍国主義・植民地支配の時代だけに限ったことではなく、まして「殺せ」とか騒いでいる連中だけに限定されるものでもない。

僕たちが日本社会の民族的マジョリティである限り、僕たちもまたその差別の構造のなかに産まれ、その立場の恩恵も無自覚に受け続けているのだし、なによりもその日本という社会の構造を変えることは、僕たち日本人の側にしか出来ない。

「いやお互いに、朝鮮人だって努力しなきゃ不公平だ」とか言うのなら、地方参政権くらいごちゃごちゃ文句を言わずに与えるのが筋だろう?

そんな不均衡な押しつけにしかならないことを無視して「仲良くしようぜ」は「お互いの存在を認め合うこと」であり、だから「反差別」で正義なんだと言い張る人に至っては、寝言もたいがいにしろ、と言わざるを得ない。


第一に、あなた方無自覚に傲慢な上から目線マジョリティに「認めて」もらわずとも、鶴橋のおばちゃんはチヂミを焼いてるし、生野区のオモニは美味しいキムチを漬け、飛田のお姐さんたちは日々店先に座る覚悟を決め、釜ヶ崎・三角公園のおっちゃんらは元気にがなっている。何様のつもりか知らんが、他人様の生を自分が支配出来ると思うコロニアリストの傲慢もいい加減にして欲しい。 
大阪、浪速区の、ゴーストタウン化して見える芦原橋駅前の公共住宅でさえ、人々はちゃんと存在している。「なにわお買い物センター」のビルから飛び降り自殺が昨今とても多いとしても、そうやって彼らの存在が潰えることを阻止するつもりなら、「認める」だけじゃ済まないだろう? 

藤原敏史『ほんの少しだけでも愛を』(編集中)より、日本人の差別の構造
まして僕たちのこの国が、かつて朝鮮民族がひとつの民族であること、だからその民族の国家を持ってしかるべきであること、その民族と国家の存在を否定しようとしたし、今も彼らが統一国家を持てないのは、その日本支配の失敗に直接の原因がある(宗主国だと威張るなら、せめてその領土を守ってからにしろ)歴史的事実は、忘れるわけにはいかない。 
第二に、それこそ在日に僕たち日本人が「存在を認めてくれ」って、なんなのそれ?いつ彼らが我々の存在を否定したんだ? 
まさかとは思うが、戦争責任を指摘されたら「反日だ!俺たちの存在を認めてない!」とか、身勝手な被害妄想に耽溺するのだとか?在日に地方参政権を認めたら日本人の「存在」が脅かされるとでも?朝鮮高校を無償化したら「日本人の学校だけの特権」じゃなくなるから「存在が」とか言い出すんじゃなかろうな?
第三に、「お互いの世界を知り合う」?その前に日本人の側がやって来たことを日本人自身が知らないことが問題なんだろうに。 
だいたい日本人のことなら、在日は十二分に知ってますよ。ずっと日本人がマジョリティの国で暮して来たんだから知らないわけないし、朝鮮学校では日本語も、日本国憲法も教えてますが?日本人が一方的に、日本と朝鮮民族の歴史すら知らないだけじゃないか。
「在日の存在を認める」だの「日本人の存在を認めろ(=俺たちの方がえらいんだ、文句言うな、ってこと?)」だの「認め合う」だのの絵空事とは無関係に、差別は現実として、日常的に存在しているということくらい、まずちゃんと認識して欲しい。 
だいたい、「知らない」ことが相手を蔑視していい、対等の人間として認識しなくていい理由になるのか?


別に「朝鮮人を殺せ」と怒鳴ることだけが差別じゃない。

就職差別は法的に禁止されているとはいえ、別のエクスキューズをでっち上げて在日を、あるいは部落出身者を雇わない、家族と結婚させない等の不当な話は、隠蔽されているだけでまだまだ続いているのである。

コンビニでもスーパーでも居酒屋でも、アルバイトさんの名札が韓国名だったり、外国人であるだけで感じが悪くなる客も未だに多い。本人は無自覚なのかも知れないが(いや無自覚だから問題なんだが)、レジの後ろで見ている僕が不愉快になることだってある。そりゃ日本語があまりに不自由だったら客も困るだろうが、ちょっと訛りがあるくらいで目くじら立てますか?相手の立場をちょっとでも想像すれば、外国で、外国語で頑張ってるんだから褒めてあげたっていいくらいだろう?

日本人はアメリカの人種対立が深刻だと、なにかあるごとに言いたがる。だがロサンゼルスやニューヨークで、黒人やヒスパニックや韓国系、中国系であるだけで、店員が客に不快な思いをさせられるなんてことはまずない。

ところが日本では、そういう在日だったり留学生の人たちは、必ずと言っていいほどアルバイト先の客の無自覚な無神経さに不快さを味あわされていて、それを日本人には滅多に言えないままでいるのだ。

簡単に言えるわけないでしょう?その不満を言ったとたんに、「お前は日本が嫌いなんだな、反日だ」とか、ますます差別されたらかなわないもの。

そんな差別を陰でコソコソと、しかし日常的に、延々と存続させ続けている側が、なんの反省もせず「仲良くしようぜ」だって?

「そりゃおかしいだろ?お前らが一方的に悪いんじゃんか。まず差別をやめろよ、反省しろよ、話はそれからだ」、 こう言われたら、反論はできないはずだ。


…と当然、誰でも気づかなきゃおかしい話のはずが…これはなんなんだ?


これが「反レイシズム」を主張してるはずの人たちの言い草なのだから、ここで怒ってる在日の人たちでなくても「ふざけるな」と思って当然だ。


これが「反差別のカウンター運動」なんだろうか?

無論、自分達が本来ならそれを言えた義理ではないことをじゅうじゅうに自覚しながら、それでもあえて、後ろめたさを感じつつも「仲良くしよう」と言うことは、いっこうに構わないとは思う。

繰り返しになるが、それ自体はいかにも平和的で、無邪気で、可愛らしくほほえましいスローガンであるだけに、有効性はある。

たとえば過去や自分の感情ににこだわらない、シンプルに善良な人なら、涙を流して喜んだっておかしくない。

あるいは分かっていても、子供の前ではこう言っておいた方がいい場合だってある。

ただし被害者や、「差別される側」の弱者は、このように無邪気で善良でなければ認ない、と言わんばかりの、日本人にありがちな態度もまた、いかに相手の人格の自由を無視した差別的なもの言いであるかくらいにも、気づけないようでは困る。 
彼らが善良であろう、人格者たろうとするのであれば、それはあくまで自分を高めるためであって、差別する側の我々に気に入られるためではない。

その一方で、「仲良く」一緒になって誰か別の他者(最悪、他ならぬ同朋の在日コリアン)をいじめられる立場になると思って、「仲良くしようぜ」に喜んで一緒になってつるむ人間だっている(上記のカテゴリーでは(f)の「下衆」の部類)のも、残念な現実だ。

いや、その方が多くたって、外的環境からすればおかしくもなんともないわけで、そのことを持って「だから朝鮮人は」などと言い出す日本人が多いのだから困る。

いやむしろ、そういう「いじめ」大好きになってしまうのって、今の日本人によく見られる心理、現代の日本社会で刷り込まれる行動原理ですよ。なんせ30年以上「学校でのいじめ」が社会問題のまま、なんの解決の試みすらなされていないのがこの国ですから、もう子供の頃から刷り込まれている。

「差別される被害者は、純粋でかわいそうな弱者だから助けましょう」なんて、しょせんは差別出来る側に胡座をかいている側の傲慢でしかない。

それが『ヴェニスの商人』でシャイロックが裁判に負けたあとの大ドンデン返しのように「我々ユダヤ人もまた同じ人間」なのだから「復讐する」のであれば、少なくとも「差別する側」には、非難のしようがない。批判する権利は、その「復讐」が向けられる先である我々にはない。

『ヴェニスの商人』のモノローグ、アル・パチーノのシャイロック

多くの演出家がこの戯曲の本質に気づいていないで、どう解釈すべきか分かってないようだが、『ヴェニスの商人』のキモはこのモノローグであり、だからこそシェイクスピアは天才なのだ。 
裁判がクライマックスでモノローグがアンチクライマックスなのではない。裁判までシャイロックをユダヤ人差別類型の悪役に見せていた構成は、この真実の発露をよりドラマティックに見せるための誤誘導のテクニックに過ぎない。

ただし現実にはこのシャイロックのように、ここまで自我、自分という個/孤を守れない者も多く、「やられたらやり返す」ことで対等を担保すべくあがくのではなく、自分をいじめる側がさぞ楽しそうなのを見て、「俺もやってみたい」と思う者だっている…

…というか、これは言いにくいことながら、在日にだってこういう人も少なくないし、だから日本人に在日についての差別的悪口を吹き込んで仲間入りさせてもらおうとしてしまう。これは編集中の『ほんの少しだけでも愛を』でも扱った主題だが、残念ながらもの凄く多いパターンではある。 
そして、そういう在日の「友達」と意気投合してるから「俺は差別なんてしてない」と自己満足できる日本人が、それ以上に多いのは言うまでもない。 
こう言っては悪いが大阪なんて「市民派」「リベラル」ほど、そんな「俺が差別なんてしてるわけがない」おっさんばっかり、だったりする。 
しょせん “上から目線” の傲慢で、ぜんぜん相手を見ていない、他者への想像力の著しく欠けた話でしかない。 
(その想像力なしにどうやって映画なんて見て楽しめるんだろう、っていうのは謎だが。こんな無神経だったら、映画なんて見る意味ないじゃん)

ましてこと差別を受けて来た(今もなお受けている)当事者である在日コリアンから「今さら『仲良くしようぜ』なんてよく言うわ、厚かましい!」と怒られることくらいは、覚悟しておくべきなのが当然だ。

…と思っていたら、こんなツイッター上の投稿に出くわして、ますます目眩がして来るのである。

いやだからね、「お前の祖父母も、父母も」だけじゃなくて、「お前」自身がその無神経さと身勝手さ、自己中っぷりで、既に立派な “加害者” になってるから、そこ勘違いしないように。

一瞬、「反韓デモ」をやってる自称右翼の、安倍晋三だか自民党だかの支持者の側の自己撞着した、言い訳になってない言い訳かと思ったら、彼らが「カウンター」側のリーダー格なのだそうだ。
ここまで来ると、「こいつらのアタマんなかはいったいどないなっとるねん?」と、怒りを通り越して呆れて嗤うしかない。
なんなんやねん、この「仲良くしようぜ、だから俺たちのイヤがること言うのは禁止ね」っていう身勝手は?

自分たちの差別性が指摘されたら「協力してやってるのに、たかがチョンのクセに生意気だ」と言わんばかり、としか読めないのだが?

「お前らに協力してやってるんだから俺たちのイヤがること言うなよ。さあ仲良くしようぜ」という論理しか、ここには見えて来ない。こんな一方的で子供じみた、他人様がまるで見えていない押しつけ・封じ込めが、より広範な支持を日本人から得るための戦略のつもりだとしたら、これは差別反対の運動ではまったくない。

「仲良くしようぜ」と言うことで在日コリアンには当然の感情を強引に押し殺し、黙らせようとする差別運動でしかなく、それも味方のフリをしつつ、差別の構造、自分たちが「差別する側」に産まれたことに安住した、おためごかしの脅迫じゃないか。

しかも無責任な身勝手の押しつけに無自覚である、相手から見える客体としての自己にまったく考えが及んでいないことが、決定的に差別的であるだけでなく、絶望的に幼稚なひとりよがりでしかない。

あるいは、これが先日、大阪で行われたパレードの日本人参加者の声だという。


なるほど、中には(おそろしく寛大なことに)在日の側から日本人に「仲良くしようぜ、一緒に歩こう」と言ってくれる場合もある。だがこういう自分たちに都合のいい在日だけは認めるのはいいが、「仲良くしようぜ」に違和感や反発を持つ在日はどうするのか?しかもどちらかと言えば、違和感を抱き反発を感じても当然の話だ。

ところがそんなことは考えもしないで「日本人の内輪」に引きこもり、その身勝手なご都合主義を受け入れる在日とは「仲良く」する運動をやってる人々は、性懲りもなくこんな調子で開き直るわけである。   

 日本人マジョリティが「仲良くしようぜ」と言ってるんだから、在日は日本人の側の反発を買ってはいけない、というへ理屈のつもりなのか? 
これじゃ朝鮮民族に「仲良くしようぜ」にあたって差別する側が勝手なルールを押し付けて、支配/従属関係で「仲良くする」ことを求める運動でしかない。 
…っていうかこの人、さっきは「協力者」ぶって「俺たちが助けてやってるのに植民地主義批判なんて生意気だ、反日だ」と言っていたり、今度はマジョリティの当事者意識と言ってみたり、支離滅裂なご都合主義がひど過ぎるのだが…

そもそも在日コリアンへの差別は、一方的に日本人がやって来て、現に今もやっていることだ。日本人の側の責任であって、本来なら在日や朝鮮民族が努力しなければならないことではない。声をかけてくれただけでも、頭を下げ、恐縮し、自らを恥じるのが筋だろうに…

…「拒む理由はない」というこの恩着せがましさは、いったいなんなのだろう?

「拒む理由はない」ってあなた何様なの?

なに「拒む理由はない」って??

「拒む理由はない」???

挙げ句にこんな開き直りの言い草だ…

いや、あなたが勝手に卑屈になっていようが、「共に未来を造る」とか自己陶酔してようが、そんなのどうでもいいんだけど、完全に日本人の側が、差別出来る立場の恩恵に胡座をかいているだけの、ひとりよがりの世界でしょうに、これでは。

この人たちは「差別に反対」とか言いながら、当の差別されて来た、そして今も差別に遭っている相手の立場になって考える、ということを、ちょっとはやってみないのだろうか? 自分たちの発言が他者、相手からどう見えるのか、想像してみる手間も惜しむのだろうか?

はっきり言っておくが、僕たち個々人にたとえ差別意識などまったくなかったとしても、その相手である在日の人たち、他人様、他者から見れば、そんなこと分からない、疑い警戒するのが当然なのだ。

僕なら僕自身という個人については、仮にそれがまったくの誤解だったとしても、その誤解を解く責任は、全面的に僕の側にしかない。相手に「ほら僕はこんなに善良な、差別しない人間なんですよ。僕と仲良くするのが当然でしょう」なんてことは、相手がそれに納得してくれるレベルで証明出来ない限り、言えるわけがない。

だいたい、そんなこと証明出来るかどうかも怪しいし。

まして差別意識なんてたいがい無自覚なものであり、僕自身が「僕は差別はしていません、そんなつもりはない」なんて言ったところで、なんの意味もない。

このように「他人様からどう見えるのか」にあまりに無頓着な自己閉塞、もっと言えば「被害者の側から見たらどう見えるのか」をまったく想像すらしないことが、今の日本の重大な病理だろう。


先日、プルーストの『失われた時を求めて』の完訳新版という偉業(この翻訳は本当に素晴らしく、ニュアンスまでとても正確であるだけでなくものすごく面白くて、偉業としか言い様がない)を成し遂げられた鈴木道彦先生の講演会に行って来た。

講演のテーマは、プルーストとはまったく無縁に、1968年の金嬉老事件を切り口に、在日と日本人の関係を基軸に(金嬉老事件以上に、その10年前の小松川事件もとりあげつつ)、日本人の側がいかに「在日」という身近な他者への想像力を欠いているか、である。

実は鈴木先生はプルースト以前にサルトルの研究者であり、サルトルが高く評価したジャン・ジュネや、積極的に紹介したフランス植民地文学を読まれ、そしてご自身が最初にフランス留学されたのがまさにアルジェリア戦争のまっただ中であったことから、それを「では日本人である自分はどうなのか」に引き寄せ、在日コリアンをめぐる問題になみなみならぬ興味を持たれ、研究し、ゼミで学生と論じ合い、また金嬉老の事件では裁判の応援で活躍されるなどして来られたのである。

ジャン・ジュネの映画『愛の歌』(1960)

いやそんなご経歴をまったく知らず、不勉強を恥じるばかりです。

鈴木先生がそんなご自分の歴史と戦後日本の近代史を綴ったご著書『越境の時〜一九六〇年代と在日』(集英社新書)は、ぜひご一読お薦めです。
*先日の講演も、ほぼ本書の内容に沿ったものでした。 

実は小松川事件と李珍宇(日本名:金子鎮宇)死刑囚については、僕なぞは大島渚の傑作『絞死刑』のモデルであったことくらいしか知らず、金嬉老元受刑者についても、ほとんど知らなかった。

   大島渚『絞死刑』(1968)

無理もないといえば無理もないのは、自分が産まれる前のことであるだけでなく、現代の日本でほとんど触れられない話だからだ。

だから個人として「知らない」のはやむを得ないとはいえ、在日の友人とかに「そんなことも知らんのか!」と一喝されれば、文句は言えまい。

少なくともそこで僕が怒るべき相手は、そんな自分を一喝をした人ではなく、自分にそれを教えて来なかった、むしろ隠して来た、「忘れて来た」社会、自分の所属する「日本人」という民族の総体に対して、である。

怒るか、絶望するか−いずれにせよ「差別する側」に産まれた、自分を「差別する側」に閉じ込めるべく出来上がっているこの構造に、僕という個/孤が打ち勝ち、自由になるには、ここでその構造に屈服するわけには、絶対にいかない。

僕以下の世代の日本人は、金嬉老の怒りについてどころか、1910年から1945年の日本敗戦まで続いた日韓併合・植民地時代についてすらほとんど知らない。

教科書には書いてあるものの、なぜか中学でも高校でも、日本史の授業はそこに行き着く前に年度末の時間切れになったり、駆け足でなぞるだけで、テストにもあまり出ない。

植民地化の過程で日本が李氏朝鮮の皇帝の母を暗殺するなど、極めて野蛮な力づくで、いわば拳銃を頭につきつけて契約書にサインするようなやり方で「合意」を取り付けたことすら習っていない。

だがそれを「知らない」、なぜなら「学校でちゃんと教えていないから」であるのは、あくまで日本側の、僕たちの勝手な事情に過ぎない。

被害を受けた側からすれば「知らない」だけでも驚きというか侮辱であり、そこで延々といいわけをされたところで「ふざけるな」としか思えないだろう、という程度の想像力も持てずに、どうするのだろう?

そこで開き直ってしまなら、根本的に相手の人間性を無視している、つまりは差別以外のなにものでもないだろう。

民主党の有田芳生参議院議員などを中心に、ドイツなどをお手本に「ヘイトスピーチ禁止」の法制化の動きもあるようだ。それ自体は決して悪いことではないのだが、なにか肝心なことが抜け落ちていないだろうか?


ドイツはナチズムの歴史をきっちり国民に啓蒙しようと努力を続けている。 
ベルリンなどは国会議事堂の横に「ヨーロッパにおけるユダヤ人虐殺慰霊碑」があり、やはり中心街、それこそポツダム広場のすぐ近くではヒトラーの官邸遺構の地下壕も保存されて「恐怖の地政学」として公開されるなど、都市の随所に自国の負の歴史の記憶が顕在的に刻み込まれている。 




たとえば1923年の関東大震災における朝鮮人虐殺は、記念碑すらない。日本軍の犠牲になった慰安婦の人たちの慰霊碑も国内にはなく、アメリカで作られたりしたら、日本の政治家が意見広告を出して抗議するような、独善的な恥さらしっぷりである。 

ポーランド政府は自国民がホロコーストに積極的に参加したことを政府の責任で追及し、国内世論の反発すら省みず、立証した。(詳しくは NHKスペシャル『沈黙の村』 http://www.nhk.or.jp/special/detail/2002/0914/を参照)

「戦勝国」であったフランスですら、ヴィシー政権が関わったユダヤ人強制移送については、綿密な調査の上で被害者遺族への補償を続けている。 
これが国際標準、他者に見られる客体としての自分の責任を果たす上で、当たり前でなければならないことなのだ。 
A級戦犯が合祀されている靖国神社に現職閣僚が参拝し、従軍慰安婦についてあたかもそれがなかったか、日本という国家の責任ではないようなことを言い張る(業者がやった、とか強制はなかった、とか)日本側のやり方が、ドイツやポーランドやフランスと比較することも自由な他者から見て、決して納得できるはずもないものであるのは、明らかだろうに。
ドイツやカナダなどが刑法で禁止しているのは「ヘイトスピーチ」以上に、歴史を歪め人種民族差別を助長する言動、歴史修正主義だ。はっきり言えばホロコースト否定論を法律で禁止しているのである。同じ論理で、戦前戦中の日本の人道犯罪を否定したり美化する行為は「ヘイトスピーチ」同様に禁止されなければおかしい。

先日(7月13日)、北朝鮮による拉致事件被害者の蓮池薫さんの兄、蓮池透さんが、朝日新聞にこのような記事を寄せていた。


「ずっと加害者だと言われ続けて来た、その鬱屈から解き放たれ、あえて言うと、偏狭なナショナリズムが出来上がってしまったと思います」 
「拉致事件を解決するには、日本はまず過去の戦争責任に向き合わなければならないはずです。しかし棚上げ、先送り、その場しのぎが日本政治の習い症になっている。拉致も原発も経済政策も、みんなそうじゃないですか」
「日本社会は被害者ファンタジーのようなものを共有していて、そこからはみ出すと排除の論理にさらされる。被害者意識の高進が、狭量な社会を生んでいるのではないでしょうか?」

蓮池さんが指摘した病理はいずれも、日本国内で、同じ日本人どうしの顔色しか見ていなかったらすぐにはまりこんでしまいそうな話だ(蓮池透さんご自身も一度はそうなっていたことを、率直に反省されている)。だがハタ目には、国際的には、他者の視点から見れば、通用するはずもない内輪の身勝手でしかない。

これは倫理・道徳以前の問題だ。「為政者にとっては、北朝鮮が『敵』でいてくれると都合がいいのかも知れません。しかし対話や交渉はますます困難となり、拉致問題の解決は遠のくばかり」と蓮池さんは言う。

当たり前のことだが、交渉ごとには必ず、納得させなければならない相手がいるのだ。

エロール・モリス『フォッグ・オブ・ウォー マクナマラ国防長官の告白』
マクナマラはソ連側、フルシチョフの立場をアメリカ側が理解していなかった、誤解していたことが、キューバ危機が起きた理由だと断言する。ヴェトナム戦争の激化も「アメリカがヴェトナムを誤解していた」。

戦争にだって敵がいる。その敵を理解しその行動を読まなければ、無駄な戦闘で自軍に損害を出し、結局戦争に負けることにだってなる。

当たり前の大人の世界のリアリティであり、それが分からないようでは子供の論理にも及ばない幼稚な絵空事のはずなのだが、これではいわゆるコミュニケーション障碍に、日本全体が集団で陥っているようなものだ。

尖閣諸島問題でも、竹島の領有権主張でも、日本のマスコミだとかは完全にこの内輪の病理しか語っていない。中国も韓国も同じ位に自分の領有権を主張する理由があるからこそ領土紛争になることを無視して、「国際法上」を馬鹿みたいに持ち出している(だからそれは日本側の解釈でしかないってば)。

慰安婦に関しても、元慰安婦が訴訟を起こしても、個人賠償は日韓基本条約で解決済み、として裁判所は事実確認すら怠って来た。これも他者、ハタ目にはただの不正直な逃げにしか見えないし、そもそも金目当てで訴訟を起こしているわけではない、事実をちゃんと認め、反省を示して欲しい、という相手に対して失礼千万ではないか。

わざと怒らしているようにしか見えない。

それに日韓基本条約で「個人賠償は」というのは、あくまで日本兵であった朝鮮人の人たちへの恩給や、日本で働くために連れて来られた人たちの未払いの給金のことしか、日韓基本条約では議題になっていない。これに慰安婦を当てはめるとしたらやはり給料だけのことであり、虐待的な扱い(あまりにも待遇がひどく、一説には3/4が命を落としたと言われる)への損害賠償は別の話だ。

あまりにも人を馬鹿にした話でしかないことに、即座に気づいて当然なはずだ。ところがこの人を小馬鹿にした話に当然相手が(そりゃ怒らないわけにもかないから)抗議したり批判したりすると、「反日だ」とヒステリーを起こす。

他者、相手を人間扱いしていないのだ。

「抑圧し、差別する側」であった日本人の責任は、もはや戦前の36年間のそれだけではない。戦後ずっとやって来た、この人を人と思わないやり口も、すでにそこに含まれてしまうのである。つまりもはや「過去だから、産まれる前のことだし、関係ないじゃないか」という言い訳すら、通用しない。これは現代の僕たちの国が、今もやっていることだ。

そういった自分たちの側、自分たちの国がやって来たことを批判されたら「反日だ」と言い張ること自体、いかに他人様が見えてない身勝手であることか。他者を同等・対等の人間として見られない差別意識の、無自覚の発露であることか。

…と思ったらこんな調子である。


繰り返すが、これは「反韓デモ」なるものをやって新大久保や鶴橋で暴れている、世間知らずの引きこもりな勘違いに陥った、自分では「右翼」だか「保守」のつもり(ただの倫理観のぶっ飛んだわがままに「日本の保守」を名乗られても困るが)の輩の寝言ではない。


その彼らの言動を「ヘイトスピーチ」だと批判し、自分たちは「反レイシズム」だと自称している人たちが、こんな大雑把で出鱈目なことを平気で言って、在日コリアンを差別意識丸出しに罵倒しているわけだ。

いったいどうなっとるねん?

子供たちが学校で習ってない、大人に教わっていなかったから分からない段階で、無邪気に「仲良くしようぜ」と言っているのは、まだ「知らないんだからしょうがない」のだし、ほほえましくて可愛らしい…と言ったって、それが通用するのは子供だけ、学生までだ。

その学生でさえ、「それじゃ済まない過去があったことをどうするのか?」と問われたとき、「知らない自分は悪くない」に固執するのは明らかにおかしい。「知らない」ことそれ自体が問題だとすら気づけないのなら、明らかに他人様が見えていない、他者を人間として認識出来ていない。

つまりそれもまた、差別以外のなにものでもない。


先日の講演で、鈴木道彦先生は最後に現代の日本に触れ、こうおっしゃった。

「美しいとか醜いとか、それはあくまで他者から見て言うはずのことです。他者が見た客体としての自分。それを自分達で『美しい国』と言っているのですから、私は今の日本はとても危険なところにあると思います。ひとりよがりの国です」

世の中が自分達以外は、自分とは異なる他人で構成されていること、この世界で生きると言うことは、自分とは異なった他者に囲まれ、自分は自分でありながら、その無数の他者たちから見られる客体であり、その他者たちと関係をつくって行くことでしか自己実現などないと気づけないのなら、それは自分達の内輪だけの世界に引きこもっているだけだ。

誰もが知っていてもおかしくない自国の過去も知らず、「日本を責めるなんて反日」とか、「戦争責任を追及なんて私たちの存在を認めてないんだわ」とでも思い込んでいるのが「右翼」だけでなく「リベラル」「市民派」、良心的なはずの「反差別」も同様ならば、僕に言わせりゃ「ニッポン全国引きこもり」だ。

自分達の内輪で引きこもるのもまた自由だ。だが、ならば外に出て来るべきではない。自分たちが拒絶したはずの社会や世界から「認められたい」などと甘えるのならば、いったいどういう了見で引きこもってるのかすら疑わしい。

あなた方が引きこもっていることについて、あなた方にとって他者である我々は、なんら影響力を行使できる立場にはない。だからあなたたち自身が社会を拒絶するのなら、その社会に「認めて欲しい」だの勘違いも甚だしい。

そんなわがままを叫んでないで、他人の迷惑も考えろ。考えたくないのなら、世間に出て来て他人を巻き込むべきではない。

まして被差別者である他者をそこに巻き込んで、自分たちマジョリティの免罪符に利用できる被差別者は「仲良くしよう」、そうでなければ排除する、では本当に邪悪な身勝手でしかない。

原発事故でも、「フクシマの人々」をそうやって利用しようとした人たちがいて、その結果が例えば双葉町の分断だ。ひとりよがりの正義のフリ、正義ごっこもたいがいにすべきだろう?

ところがこの上記の「反レイシズム」を自称する人たちは、自分たちの運動に参加する在日コリアンに、自分達を批判する在日コリアンを叩かせたりまでしているのだから呆れる。

先述の「仲良くしよう」を真に受けられる被差別者側のカテゴリーのうち(f)に該当する人が、そんなに多いのだろうか?

なるほど、「仲良くしようぜ」風船に涙を流して喜ばれたおばあさんもいる。

だがその言い草に納得しない在日の人も当然ながら多いのだ。そこで個人的な好き嫌いならともかく、自分達の運動を正当化したいだけの都合で彼らを裁いたり判断する資格は、我々「差別する側」の日本人にはない。

金嬉老事件の裁判で、弁護側は最終的にこう主張した。


「金嬉老は確かに殺人や拉致監禁などの犯罪行為は犯した。だが日本の裁判所には、彼を裁く資格がない」

誰か日本人の監督が、金嬉老事件をあらためて映画化するべきだとすら思う。

ニヒリズムを漂わせながらその実思いっきり勧善懲悪の、サム・ペキンパーばりの痛快アクション映画として。それが出来たとき、初めて我々の「日本映画」は、差別する側のコロニアリズムから解放されるだろう。

過去にテレビドラマになった金嬉老事件では、まるで『狼たちの午後』である。だからシドニー・ルメット的な「哀れな弱者達の逆ギレ」じゃ駄目だって。アウトローたちの土壇場の正義、『ワイルド・バンチ』を目指さなくては、この事件を描いたことにならないのではないか?

サム・ペキンパー『ワイルド・バンチ』より

当たり前のことだ。差別される側が、自分達が差別されることを正当化する体制の法や倫理の体系に従う謂れはない。これは基本的人権のなかでももっとも重要な部類に入る「抵抗権」の範疇のはずだ。

正義とは我々の社会の身勝手に内在するものでは決してなく、不完全な我々人間たちの「外」にしかあり得ない究極の他者性に属するものだ。

私たちの自己中心的な都合に左右されるものなど(ましてそれが「差別する側」の都合である場合は)、正義であるわけがない。

  大島渚『絞死刑』予告編

もっとも、僕自身がやるべき映画は、むしろ小松川事件の李珍宇だと思う。大島さんの傑作はすでにあるが、あれは痛烈に戯画的な日本社会批判ではあっても、主人公の死刑囚を「R」という匿名で、記憶喪失にしたことも含め、李珍宇という青年の抱えた複雑な人間性には、むしろ意図的に触れていない。

李珍宇の支援者らは、彼の犯罪を「在日のめぐまれない環境で育った結果」であって、彼自身の罪ではない、という論戦を張ったわけだ(大島の映画も、その偽善性については痛烈に皮肉だ)。そのなかには彼と長く文通関係にあり、彼が「姉さん」と呼んでいた、総連系イデオロギーの民族主義で彼を説得しようとする在日の女性もいた。

李はその論理を敢然と拒絶し、犯罪を犯したのは自分の本性である、「悪は私の本性」とすら言い放ち、自ら死刑になることを選ぶ。

自分の犯罪を、自らの命すら賭して、自分の責任として捉えること、この時に彼は「差別される側」から解放され、独立した一人の個/孤としての自分を取り戻したのだと思う。

原理的に日本人の側からしか変えられない差別の構造に、どう差別される側にある個/孤が立ち向かうのか?金嬉老のアクション映画ばりの痛快さはひとつのやり方だが、李珍宇はより本質的で根本的な「自由」と「解放」を選んだのではないか?

小松川事件の李珍宇の生き様/死に様は、圧倒的な、古典的とも言える、実存的な悲劇なのだ。彼は差別する側の「日本」だけでなく、「差別される側」に凝り固まった在日社会にNOを突きつけるために殺人を犯し、その犠牲者への自分の責任も含めて、死を選んだ。

彼が言う「悪は私の本性」とは、そういう意味なのだろう。

この悲劇を生んだのは、鈴木道彦先生の表現を借りれば、我々の「民族責任」に他ならない。

だからって殺された若い女性二人の罪とか、日本人だから殺されて当然、という理屈には決してならないので念のため。だからこそ李は自らの行為への責任として死を選んだのだ。

それは「自殺」ではなく、自らを死刑にするしかなかった-実はもの凄く日本的な死の選択、いわば「切腹」とも言える。

まったく無反省な僕らの国がこの自民族の責任を克服する気概なぞまったく欠いている以上、李珍宇は死によって自分を取り戻すしかなかった。それが彼が、類い稀な感性と知力で(22歳で死刑になった彼は、少年時代から万引きした本や、獄中では差し入れなどで、膨大な本を読みこなしており、IQ検査も135という凄い数字を叩き出している)嗅ぎ取った、これしかないという結論だった。

そしてこの魂のドラマは、すさまじく映画的にもなるはずだ。

映画とはキャメラという自分ではない機械を介在させ、その前にいる他者を撮り、その姿が投影されたスクリーンのなかに、他者を通して自分自身を表現する/見る、あらゆる芸術のなかで最も「他者性」の強い表現なのだから。 
キャメラはしょせん機械であり、こっちの「思い」とは無関係に世界を写す、観客は巨大なスクリーンに映し出されたその世界の似姿と向き合うという、もっとも実存的なメディアなのだから。

大島さんですらあの傑作を持ってしても成し遂げられなかったことを描くのは、「リベンジ(笑)」も含めてやりがいがあるしね。