最新作『無人地帯 No Man's Zone』(2012)
〜福島第一原発事故、失われゆく風景、そこに生きて来た人々〜
第62回ベルリン国際映画祭フォーラム部門正式出品作品

10/13/2013

転向ユダヤ人だったヴェラスケスと『ラス・メニーナス』の謎



美は常に謎を孕んでいる。ある意味、世の優れた芸術は、そこに完全には決して理解しきれない謎か秘められているからこそ美しいのであり、そうした作品が評価されて来た理由は、たいがいは大なり小なり誤解なのかも知れない。

それでも作品は時代を超えて残り、我々はそこに隠された真実の美をどこかで直感するからこそ、それを愛し、賞讃し続けて来た。

ディエゴ・ヴェラスケスの『ラス・メニーナス』(1656年)は、スペイン国立プラド美術館の至宝中の至宝にして、西洋絵画の最高峰と謳われる。

美術史のなかで数多くの画家がヴェラスケスを称して「画家のなかの画家」と呼び、その最高傑作と多くの人が認め、愛し、崇敬して来た一枚は、今プラドの二階中央の諸王の間の、入り口から見て真っ正面に飾られている。


一見、宮廷のなにげない日常を切り取ったかに見える絵だ。

スペイン・ハプスブルク王朝フェリペ4世の幼い王女マルガリータを中心に、この少女に仕える侍女達が囲む光景、この侍女達が題名の由来だ。マルガリータはおしゃまなポーズをとっているが、彼女の左右からかしずくようにかがみ込む二人の侍女と、画面左の画家がこちらを見ていることに、いかにも日常の、さりげない一瞬を捉えたという趣きがある。


画面奥の暗がりには開けられたドアから光が入り込み、今にも部屋を去ろうとしつつ振り返る人物が、その捉えられた一瞬が過ぎ去り行くものであることを暗示し、現在のこの平穏な調和がはなかいものであることと、時間の永続性を見る者に想起させる。

なにげない一瞬だからこそ刻み込まれる、人の現実のはかなさと、時間の永遠。画面中央に立つあまりにも愛くるしい王女マルガリータも、その兄の王太子カルロスも夭逝し、スペイン・ハプスブルク王家の「青い血」がこの後まもなく途絶える歴史を知る者であれば一層のこと、ここに捉えられた調和の瞬間の貴重さに、想いを馳せるかも知れない。

だが実はこの絵には、遠近法を完璧にマスターしたヴェラスケスの大仕掛けが組み込まれていることはよく知られており、故に遠近法という西洋絵画の根幹をなすテクニックの最高の完成例とも言われる。

画面奥中央、遠近法の視線が収斂する先の焦点には、鏡のなかにおぼろげな男女の姿が見える。国王でマルガリータの父フェリペと、その王妃だ。

つまりヴェラスケスは鏡を用いることで遠近法をひっくり返しているのであり、この絵画全体を見渡す眼差しとは他ならぬ、その鏡に映る国王夫妻となる。

ディエゴ・ヴェラスケスはスペインのハプスブルク王朝フェリペ4世に仕えた宮廷画家であり、同時にその宮内長官にまで登り詰めた宮廷官僚でもあった。

絶対王朝の君主に仕える宮廷画家の最高傑作は、その絵画の切り取った世界を見る目を、国王の視線に一致させることで、その君主に仕える絵画表現の最高峰を産み出した、これはまさに絶対君主の見ている宮廷の風景なのだ、というのがこれまでもっとも流布して来た解釈である。

カトリック君主の絶対王朝の時代であればまだともかく、18世紀以降の、啓蒙主義も経て、革命の時代があり、民主主義ともなれば、ヴェラスケスのこの完璧に美しい作品のテーマはしかし、えらく時代錯誤に古くさいどころか、間違ったもの、今さら誉めるものでもないようにも思えて来る。

それでも19世紀以降の多くの芸術家たちは、この絶対君主に仕える芸術の最高の絵画表現であるはずのこの絵に深く感動し、賛美を惜しむことはなく、王の絶対性に奉仕したように解釈されるこの宮廷画家こそが、「画家のなかの画家」の賛辞を一身に集めて来た。

わけても同じスペインの20世紀が産んだ天才パブロ・ピカソは『ラス・メニーナス』を崇拝し、原画が描かれた301年後の1957年に、何枚ものヴァリエーションを連作することでオマージュを捧げている。



そのピカソ版の『ラス・メニーナス』の多くで、画面左の画家の姿が遥かに大きく、誇張されて描かれている。


これはピカソが、絶対王権の時代に王こそが全て、描かれた空間の支配者であるこの光景を見ている目であることを覆し、芸術家こそが主人なのだというメッセージを描き込んだのだと、通常は解釈されて来た。

ヴェラスケスは優れた画家であり、その技術と才能は「画家のなかの画家」と呼ぶにふさわしい。

だが彼はあくまで宮廷社会の、王に従属することに誇りを持った絵描きであり、近代の自立した芸術家ではない、と『ラス・メニーナス』は解釈されて来た。

だからこそピカソは、現代の、権力から独立した芸術家として、その権力構造を覆し、画家の優位を高らかに宣言したのだ、と。


しかし、ピカソは本当にヴェラスケスの描いた絵の主題をひっくり返したのだろうか?

一見、完璧な遠近法を表現したかに見える『ラス・メニーナス』は、一カ所だけそれが狂っている。他ならぬ画面左の画家、ヴェラスケス自身の前に置かれたカンバスが不自然に大きく、よく見ると絵筆を持った手との位置関係もおかしい。
  • プラド美術館公式サイトより 高解像度画像の『ラス・メニーナス』はこちら
光線と陰影もデリケートに計算され、柔らかな光が背景の暗がりにおぼろげに溶け込む表現から、ヴェラスケスが空間遠近法だけでなく空気遠近法の卓抜した技巧をこの一作に駆使していることが分かる。だが、カンバスの縁だけは、どこから入って来たのか分からない光で、極端に光輝いている。

画家自身の体のサイズこそ普通であるものの、ピカソは決してヴェラスケスのやったことを覆したのではなかった。むしろ本能的にヴェラスケスがこの絵で画家である自分自身を誇張していることを見抜き、その効果をピカソ一流のやり方で増幅させたのだ。


20世紀末以降のプラド美術館の綿密な調査で、『ラス・メニーナス』について今まで知られていなかった重要な事実が明らかになった。

ひとつはX線調査で、カンバスが当初はもっと普通の大きさで描かれていたこと、そしてより重要な発見は、ヴェラスケスが当初、自分を横顔の、カンバスに向かい絵筆をふるうその瞬間に描いていたことだった。

当たり前のことなのに先入観で気づかない、ということは世の中しばしばある。美術史はこれが絶対王政の時代の宮廷画家の作品であるのだから、ヴェラスケスの遠近法を完璧にマスターした技巧を駆使した大仕掛けを、フェリペ4世の視点を表現するためだったと思い込んで来た。

だがよく考えてみれば、これは宮廷生活のなにげない一瞬に時間の永続性を捉えた絵ではない。絵筆を持ちカンバスの前に立つ画家の前に、王夫妻がいる。ということは、これは王夫妻の肖像を描く画家の仕事の一瞬を捉えた絵なのだ。

一見、絵の主役に見える王女マルガリータは、実は肖像のためにポーズをとる王夫妻の目の前にいる。恐らくは、王夫妻の表情から柔和な自然さ、やさしさを引き出すために、画家の意向で両親の前に立たされているのだ。

つまりこれは画家ヴェラスケスの仕事中の姿を映す自画像なのであり、このシチュエーションのすべてが画家の仕事にこそ奉仕するためにあるだけではない。画家が自分自身を描いているということは、絵の視点は王夫妻のそれではなく、その位置に画家が自分を含む群像を見る鏡が、想定されなければならない。絶対君主の視線に一致させられているのは、画家自身のまなざしなのだ。

そしてヴェラスケスは一見さりげないが、その実計算され尽くした技巧を用いて自分のカンバス、つまり芸術家としての自分のすべてを表現する物体だけを、遠近法を狂わせることで存在を強調し、それだけでもなにかが足りないと思い、横顔ではなく、画面に正対する正面像として自分を描き直した。

黒衣の画家を目立たせる胸の赤い十字も、後から描き加えられていた。

では『ラス・メニーナス』が本当はなにを描いた絵だったのか。その解釈を決定づける新たな事実も、詳細な文献調査から次第に明らかになった。

『鍵、あるいはブレダの降伏』(1635年) 
画面右端でこちらを見ているのがヴェラスケス

従来、ヴェラスケスはセビリア出身で、若くしてその才能をフェリペ4世に見込まれ、ヨーロッパ各地に留学して様々な絵画の流派や技巧をマスターし、またその信頼の篤さから貴族に列っせられ、その宮廷の運営を監督する重責も任せられたこと以外は、その生涯はほとんど謎であった。

だがそこには、まったく意外な事実が隠されていた。ヴェラスケスの父はユダヤ人の職人であった。

イベリア半島からイスラム教徒を追い出したレコンキスタを経てカトリックの信仰が強要された時代である。ユダヤ人には亡命・移住するか、転向するか、異端審問の末処刑されるかの選択肢しかなかった。そしてヴェラスケスの一家は転向し、セビリアに残った。

つまりディエゴ・ヴェラスケスは当時のスペインでもっとも差別される階層、転向ユダヤ人の息子だった。

差別は神の意思に基づくものとされ、それと戦うことなど考えられない時代である。「豚」との蔑称で呼ばれた転向ユダヤ人が本来宮廷画家になることなぞあり得ず、まして貴族になるなんて考えられもしない。だがヴェラスケスは画家として、その大出世を実現した。

ヴェラスケスが『ラス・メニーナス』に最後に描き足したと思われる胸の赤い十字は、当時貴族だけが入隊を許されたカトリックの騎士団の紋章である。それは彼が出自を隠して登り詰めた地位の高さを誇らしげに伝えると同時に、差別と戦うことすら許されなかった時代にカトリックに屈服するしかなかったユダヤ人の、屈辱の刻印でもある。

1626〜28頃 若きフェリペ4世

フェリペ4世が、寵愛した服臣であり、その才能を愛し投資も惜しまなかった(ヴェラスケスのヨーロッパ各地への留学は、王が私財を投じて面倒をみたものだ)画家の正体を知っていたかどうかは分からない。

だがひとつ確かなのは、王は画家が自分の一族を美化した肖像を必ずしも描くわけではないことを承知の上で、中年以降の老醜が始まった顔を描くことも素直に受け入れたし、ヴェラスケスが宮廷に仕える矮人や、王子の遊び相手の白痴の少年、台所で働く黒人女中を、王一家を描く時以上の真摯な眼差しで描くことに、この画家の類い稀なる才能の発露を評価していたことだ。

1656年のフェリペ4世

ヴェラスケスの出自が、差別される転向ユダヤ人であったこと、彼がその出自を隠し、自身の才能の力でこの地位に辿り着いたこと、その事実が分かったとき、初めてこうしたその一連の作品の意味と、彼がなぜ「画家のなかの画家」と賞讃されるのか、なぜ一見宮廷の日常を描いただけに見えた『ラス・メニーナス』がこれほどの傑作、西洋絵画の最高峰になったのかが見えて来る。

矮人ながら一等書記官となったディエゴ・アセード、通称イル・プリーモ(1635年)
王太子の遊び相手、白痴の少年フランチェスコ・レスカーノ(1640年)
『ラス・メニーナス』部分

それはピカソも、彼を「画家のなかの画家」と尊敬した後代の画家たちも、誰も知らなかった事実のはずだ。それでもピカソは、その作品に描かれていたものを詳細に研究し尽くした結果、本能的にその本質を察知して、オマージュを捧げていたのである。

『ラス・メニーナス』は画家である、芸術家であることにのみ、自分が何者であるのかの答えを見いだした転向ユダヤ人の、芸術の世界のなかだけでは自分も王も矮人たちも、すべてが平等であり対等であることが出来たことを伝える、慎ましくも誇らしい自画像であり、画家とは、芸術家であるとは何者であるのかを描き切ったが故に、だからこそ絵画のなかの絵画なのだ。

ヴェラスケスが10代の末か20歳前後に描いた『台所の風景』
(1620-22年頃、シカゴ・アート・インスティテュート蔵)

その画家の秘密を、美術史のなかで誰も知らなかった。

だからこの絵が本当はどんな瞬間を描いたものであったかすら、分からなかったはずだ。それでも『ラス・メニーナス』は絵画のなかの絵画、画家のなかの画家の代表作であることだけは、誰もが認める事実として明らかだったのである。

若きヴェラスケスを代表する傑作がプラド美術館にある。『酔っ払いたち、あるいはバッカスの勝利』(1628-29年)だ。


バッカスはギリシャ神話の酒と享楽の神である。

だがヴェラスケスがその酒宴を描くとき、神とその従者はなまめかしい官能的な青年の姿となり、それ以上に見る者の目を惹き付けるのは、あたかもその二人の裸の青年に奉仕させるかのように、画面の中央に陣取り、豪快で野卑な微笑みでこちらに顔を向ける、名もなき百姓たちの迫力だ。


やはりプラド美術館の所蔵するヴェラスケスの、『ラス・メニーナス』の翌年の、晩年の傑作とされる『糸紡ぎの女たち』(1657年)は永年、実はヴェラスケスが描いたのではない形で伝えられて来て、何が描かれているのかも誤解されてきた。

この下の画像がこれまで知られて来た、加筆された『糸紡ぎの女たち』だ。上部のアーチが付け足され、左右の幅も広げられた画面では、ギリシャ神話で運命の糸をつむぐ三人の女神を、神殿の入り口に描いたものだと解釈され、ヴェラスケスの革新性は、せいぜいがその女神を美しい裸身ではなく、名もない庶民の職人階級の女たちとして描いたことだと思われて来た。


これも修復作業で上部と左右の加筆部分を取り除いた結果、斬新な構図を持った、まったく異なった絵であることが分かった。

そしてこの大胆に切り詰めた構図が表しているものも、自ずからまったく異なって来る。

神殿の内陣に見えた画面奥の、向こうの部屋に描かれたつづれ織りの図柄は、ヴェネチア派の巨匠ティツィアーノの『エウロパの陵辱』である。スペイン王室はルーベンスによるこの模写を永年所有しており、ヴェラスケスが参考にしたのはこちらだとも言われている。

ルーベンス(ティツィアーノの原画による)『エウロパの陵辱』

なおエウロパは、ヨーロッパの語源である。これはギリシャ神話でエウロパという王女が最高神ゼウスに犯され、後に王となる英雄を身ごもったことを描く絵だ。だが『糸紡ぎの女たち』をそうした神話に基づいて解釈することは、ヴェラスケスの本来描いた構図ではあまり意味がなさそうだ。

むしろこの絵では、『エウロパの略奪』はつづれ織り、タペストリーに変換されている。そして絵の主役は(従来の加筆部分を含めた場合の、壮麗な神殿ではなく)画面前の職人の女たち。画面奥の空間は神殿の内陣ではなく、ルーベンスやティツィアーノを模したタペストリーの飾られた貴族か富裕層の屋敷、あるいは宮廷だろう。

ヴェラスケスが描いたのは、ティツィアーノやルーベンスへのオマージュでは恐らくない。オマージュを捧げられているのは、その日々の積み重ねがいずれこの奥に飾られたタペストリーに至るのであろう、糸を紡ぎそれを織る女たちの仕事なのだ。

まったく異なった物語が、『糸紡ぎの女たち』の修復によって浮かび上がる。

薄暗い部屋で仕事にはげむ女たちの努力が、やがて華やかな屋敷か宮廷に飾られるタペストリーとなる、これはそれが作られるプロセスを一枚のカンバスに封じ込めた、時間の経過と永続性の絵画だ。そしてヴェラスケスにとって本当に大事だったのは、光にあふれ華やかなタペストリーでも、豪華で権力好みの、裸婦像を中心としたルーベンス的な神話的絵画でもない。

光のなかではなく手前の薄闇のなかで、日々の仕事をこつこつとこなす、名もなき女たち。そこにこそ晩年の画家は、それこそが自分の仕事、自分が自分であることの真実である、創造の神話を見いだしたのだ。

矮人のセバスチャン・ダ・モラ(1646年)

差別と戦うことすら許されもしなかった、多くの人にとっては考えることすらなかった時代に、転向ユダヤ人である出自、民族アイデンティティを隠し、棄てることでしか、自分が自分であることが出来なかった、しかしだからこそ誇らしく画家のなかの画家としての自分を獲得した天才が、晩年に見いだした真実が、ここにある。

これもまた、それは今まで決して語られることもなく、後代の加筆によって隠されていた真実であり、ヴェラスケスの秘密であり、謎である。

10/11/2013

京都朝鮮初級学校と京都朝鮮学園の全ての生徒さんへ


京都朝鮮初級学校と京都朝鮮学園の全ての生徒のみなさん、

10月7日の京都地裁での勝訴の判決
でみなさんが勝ち取ったことは、決してただの「日本の裁判所の判断」ではありません。人種差別が公共の福祉に反するのは当たり前、これは人間という生きものと社会の普遍的な正義なのですから。

これまで僕たちの国が「正義」でなかったのです。


僕たちの国は、京都朝鮮初級学校と京都朝鮮学園の全ての生徒さんのおかげで、忘れてかけていた本当に大切なことを学ぶことが出来ました。

残念ながら僕たちのこの国が、みなさんのお父さんお母さん、おじいさんおばあさん、ひいおじいさん、ひいおばあさんを苦しめてしまった過去を、あらためてお詫びするとともに、皆さんにありがとう、と言わせて下さい。

これからも辛いことはあるでしょう。在特会とかいう変なオジさんたちだけがみなさんを苦しめているのではない。もっと多くの人が白い目であなた達を見ていることも、あなた達は感じてるでしょう。

でもそれはあの変なオジさんたちが間違っているのと同様、その人たちが、僕たちの国が間違っているのです。

京都朝鮮初級学校と京都朝鮮学園の全ての生徒の皆さんは、みなさんの学校で学ぶ権利があります。

それは誰にも犯すことができない権利、Right、正義です。

それはみなさんが日本で生まれた朝鮮民族として育つ、勉強すべきことを学ぶ権利です。

後ろめたいことはなにもないのです。

確かに、まだまだ間違った人たちがこの国にはいます。偉いはずの人たちのなかにも混じっています。

みなさんのこれからもまた、闘いだらけの人生になるかも知れません。でも、堂々と生きて下さい。

僕たちの国の誤った歴史がある以上、僕たちはみなさんに「日本のために」なんて言う権利はありません。

ただみなさん自身のために、立派な大人、日本で生まれた朝鮮民族として自分に恥じない大人になれるよう、頑張って下さいと言うだけです。

そうやってみなさんが堂々とした在日に育つことが、結果として日本のためにもなるのです。なぜなら、そのみなさんの姿から、僕たちの国はもっと学ぶべきことがあるからです。

京都朝鮮初級学校と京都朝鮮学園の全ての生徒のみなさんの「祖国」とされる国のことで、この国の僕たちに気兼ねすることも、あるかも知れません。

ですがその皆さんの「祖国」とされる国のことは、まず誰よりもその国の人が決めること、選ぶこと、そして皆さんが大人になってその国とどうつき合うのかも、みなさんが自由に、自分の意思で選ぶことです。決してその選択に、僕たち日本人への気兼ねや、「日本人がこう言うから」を混ぜないで下さい。

なぜならそんな必要はないし、僕たちが口を挟むことでもない、そんな資格はないからです。

あくまでみなさんの国、その国の人たちの国なのですから。

あるいは日本に生まれた朝鮮民族として、「国」にこだわらないで生きる自由もみなさんにはあることも、忘れないで下さい。国籍なんてそんな程度のものでもある。大事なのは「どの国に属するのか」ではなく、「みなさんが何者であるのか」なのですから。

強く生きて下さい。喧嘩に強いとか、弱いものを従える強さではなく、自分は何者であるのかを探し、貫き、守り通すこと、それだけが本当の強さなのです。

みなさんが日本に生まれた朝鮮民族として生きるには、僕たちが想像もできない辛さもたくさんあるかも知れません。あまりに不公平だとおもうこともあるでしょう。

でもその人生は、皆さんの一人一人しか生きられない人生、みなさんの存在自体がかげえのない、唯一無二のものです。そしてそれをちゃんと生きれば、大変な闘いもあればこそ、そのぶんだけ、より強く生きられるチャンスが、みなさんには常に与えられているのです。

だから強く生きて下さい。みなさんは決して「弱者」ではないのですから

10/10/2013

「ヘイトスピーチ」の連呼は、世論捏造の欺瞞でしかない


京都朝鮮学園の初級学校、つまり在日朝鮮人の民族教育の小学校に対する差別いやがらせの街宣行為と名誉毀損に対し、京都地裁が街宣行為の禁止と1260万円の損害賠償を命じた。


「素晴らしい判決」だとか喜ぶ気はしない。まったくの当たり前の判断がやっと出て、ほっとするだけだ。と同時に、4年間我慢して忍耐強く戦った京都朝鮮学園の皆さんの強さに敬服する。

そして、この判決を「在日特権を許さない市民の会」なるバカ共が裁かれただけだとは、絶対に思ってはならない

インターネット普及の悪しき副産物でこんな良心のタガの外れた恥知らずなバカ共が出て来たはるか以前から、朝鮮学校はずっと差別を受けて来た。

そこで学ぶ子どもたちは戦後史を通じて恒常的に白い目で見られ、ここ10数年は拉致問題や北朝鮮のミサイル開発が大きく報道される度に、制服のチマチョゴリの着用すら命がけだった。

京都朝鮮学園の子どもたちや卒業生が耐えて来たのは、「在日特権を許さない市民の会」相手だけでは決してないことを、僕たちは絶対に忘れてはいけない

そんな我が国の、この差別する社会の愚かしさに、やっと「人種差別に公共性などあるはずがない」という当たり前の判決が下された。

裁かれたのは、私たちの社会とその歴史そのもの、問われたのは私たちの良心だ。

そして今後問われるのは、この判決を受けて、京都朝鮮学園の子どもたちが、今後は怖い思いもせず、後ろめたさを押し付けられることもなく、日本人相手に常に配慮しなければという思い込みを刷り込まれたりせず、日本に生まれた朝鮮民族として学び続けることが出来るかどうか、その子どもたちの学ぶ権利を、僕たちの社会がちゃんと守れるかどうかだ。

ところで、今回の判決はあくまで4年前の街宣行為に対するものなのに、なぜか報道では、判決文にその言及が皆無の「ヘイトスピーチ」という最近の流行語が繰り返された。それもまだ定着しない語彙という認識もあるのか、「ヘイトスピーチ」の解説までおまけでついてくる始末だ。

ところが判決文にだって、「ヘイトスピーチ」なんて言及はない。判決の対象となった4年以上前の街宣行為の時点では、Hate Speech や Hate Crime というアメリカの差別反対運動が産んだ概念なんて、そのアメリカの影響が強いLBGTの界隈くらいでしか通用していなかったのに、あまりに不自然な報道だ。


LBGT、つまりレズビアン、バイセクシャル、ゲイおよびトランスジェンダー、つまり性的マイノリティ。
つまりはゲイがいわゆるハッテン公園だとかで襲われるのが「ヘイト・クライム」だと、海外事情に敏感なゲイのあいだとかだけでは、20年くらい前からずっと流通してた言葉、ってことです。


わざわざ見出しに「ヘイトスピーチ」を使いながら、その語彙の解説をわざわざ付記する必要があるという不自然どころか不条理で意味が分からない報道が、そんな必要なまったくない、単に人種差別、より具体的には在日朝鮮韓国人への差別と書けばいいことなのに繰り返されるのは、あまりに珍妙だ。それもこの全マスコミ金太郎飴状態となれば、操作されているのは明らかだ。

だいたい4年前の事件なのに、それについて最近ネットのなかでだけ唐突に流行っている最新の流行語を使うのは変だ。裁判報道の基本に反し、法論理の基本を倒錯している。


「『ヘイトスピーチ』は人種差別」という呆れた見出しまであった。 
京都新聞の見出しは、現在は修正されている。 しかし朝日新聞は意味が分かってない恥ずかしい見出しのまんまですよ。
いやだから、差別扇動の発言だから「ヘイトスピーチ」って言うんですよ。もうお話が完全にひっくり返っとるがな。


ところが判決翌日には、社説やコラムで「ヘイトスピーチは許さない」オンパレードである。前日には用語解説が必要なほどなじみのない言葉だったのにね。

一方で被害者であり勝訴した京都朝鮮学園が在日朝鮮人の朝鮮学校であることすら明言されず、朝鮮学校がいまも高校無償化から外されていることなどの差別政策に言及があるはずもなく(官邸記者会見では誰も菅官房長官に質問せず、毎日新聞だけが翌日朝刊で言及)、かつてのチマチョゴリ切り裂き事件など、在日や朝鮮民族に対する差別の歴史はまるで無視、下手すれば在日の「ざ」の字すら出したくない雰囲気だ

被告が「在日特権を許さない市民の会」なのに、肝腎の被告であり加害者についての解説がないのもあまりにも不自然だ。「在日」への言及を極力避けてるとしか思えない。

とりわけ不自然なのが、NHKの7時のニュースと9時の看板ニュース番組「ニュース9」だ

ちなみに世界中の外交当局の日本を担当する部署や、国際企業、海外企業の日本との取引の担当者、市場関係者、日本のことを報じる報道関係者などは、この2つのニュースのどちらかは必ず見ている。NHK-BSがアメリカのABCの夜のニュースを放映するのと同じことだ。

さてNHKの報道だが、その「在日特権を許さない市民の会」(以下「在特会」)が今年の初夏くらいから始めた、新大久保や大阪の鶴橋などでの「反韓デモ」なるものの映像を流し、なのに「在日特権を許さない市民の会」という名称はたった一回、さすがに被告名を出さなければ報道が成立しないから仕方なく、だけである。


今年初夏からの「反韓デモ」は、もちろん今回の判決の対象ではない。それを「参考映像」の断りもなく用いるのは完全に報道のルールに違反する。しかもそんな映像を用いながら、「在特会」がどんな団体なのかの説明はなにもない。

この露骨ないやがらせをデモと称してやるのは最近の事象で、この団体は小沢一郎の訴追を検察審査会に要請したことで悪名高い集団であり、ネット上では10年くらい前から有名だったはずだ。

なのにNHKは以前にも、9月22日のニュースではこの団体…とは決して言わないのがまた姑息なのだが、こうした「ヘイトスピーチ」が出て来たのは最近の韓国の対日政策(たとえば福一事故の汚染水問題が顕在化し、韓国が水産物の禁輸処置に踏み切ったこと)が原因であるかのような虚偽歪曲を、報道をしている

この報道のおかしさに関しては、以前にもこのブログで触れた→ http://toshifujiwara.blogspot.jp/2013/10/dna.html 

僕たち日本人で一定の世代より上であれば、NHKの報道が不自然どころか当たり前にまったくの嘘であるものだから、つい「変な報道だ」と思うだけで、逆にNHKがわざと嘘をついたことにすら、うっかりすると気がつかないかも知れない。

だが日本の近代史における朝鮮民族との関わりを知らない若い世代や、あるいは外国人がNHKの報道を見たらどうなるのか?

これだけしか見なければ、あたかも…

…韓国や北朝鮮がいかにも「反日的な」政策を進めるので、それに我慢出来なくなった「被害者」の日本人の一部が怒って「ヘイトスピーチ」なる新たな差別を始めたが、しかし「韓国や北朝鮮がどんなに理不尽でも←だいたいこれがまったくの嘘)」、日本人の大半はそうしたごく少数の差別を許さず、司法もちゃんと対処し、政府を代表して官房長官も苦言を呈した…

…と言う物語にしか見えなくなる。むろんまったくのフィクション、無論ただの捏造なのだが。

僕らならば朝鮮学校が差別され続けて来た苦難が「在特会」とやらに始まったことではなく、朝鮮人への差別がずーっと日本で続いて来たことも知っているし、朝鮮学校とその子どもたちが差別の標的とされて来たことにも怒ったり憂慮して来た。

なぜ在日コリアンがここにいるのかも、日本の植民地侵略も、たとえば関東大震災で朝鮮人虐殺事件があったことも、つまりは100年以上続いて来た差別の歴史があったことも、知っている。

「ヘイトスピーチ」が今社会問題なのではない。戦後ずっと、いや戦前に日本が朝鮮半島を保護国にし、植民地として併合して以来、朝鮮人差別は社会問題であり、この社会の病なのだ。

だが、なにしろNHKだけでなく他の報道機関も、朝鮮学校や在日朝鮮人への差別の歴史も、ここ10余年とりわけ憂慮される拉致問題を利用した差別の正当化も、チマチョゴリ切り裂きなどのヘイト・クライムも、一切無視しているではないか。

これでは「ヘイトスピーチ」という目新しい差別が問題であるかのようにしか(背景知識となる常識がなければ)思われかねない


ちなみに「在特会」は警察の公安部の違法逮捕などにも協力して来ているし、反日教組で教育委員会などへの圧力団体でもある。最近では『はだしのゲン』が松江市の学校図書館から排除されそうになったのもこの団体の仕業だ。先述の通り最大の「大手柄」は、どうせ無罪は決まっている裁判でも、その無茶な訴追で小沢一郎を政治的に抹殺したことだ。
いろいろバレては困る後ろ暗い癒着があるから、警察や公安委員会は仕方なくデモを許可しているだけだ。本来なら警備の警官が、彼らの「デモ」での振る舞いに脅迫罪や威力業務妨害などが含まれる以上、現行犯逮捕すべきだし、違法性犯罪性を指摘し断るはずだ。
それにこと新大久保や鶴橋で徒党を組んで朝鮮韓国人を侮辱するなんて、警視庁や大阪府警では、ただでさえオウム事件以降公安部の無能に辟易している刑事部、とくに組織犯罪対策課は当然ながら猛反対する。みれば分かるように機動隊まで出動する異様な警備の厳重さは、そのためだ。


「在日特権を許さない市民の会」の差別示威行為は、7月初頭の日韓外相会談でも韓国側から批判され、対処が要請されている。

韓国側はこれでも手加減してくれた方で、「在日特権を許さない市民の会」が安倍政権の熱烈な支持団体でもあり、自民党右派とも密接な関わりがあるという、安倍氏のフェイスブック片山さつき氏のツイッターでも見れば即座に一目瞭然であることまでは、あえて言及しなかった。


だけど、もちろんバレバレですよ。ツイッターは登録すれば誰でも見られる。フェイスブックでも、安倍晋三氏は公開ページだ。 
外交当局者は当然、情報収集のためにチェックしている。


日本ではまったく報道されないことだが、野田政権以降、安倍晋三政権になって日本外交の立場はさらに悪化し、国際的孤立をますます深めている。

理由は簡単で、野田政権がみすみす尖閣諸島の領有権問題で大失敗をした上に、引き継いだ安倍政権が国際社会が許容するはずもない極右で差別的な歴史修正主義を主張しているからだ。さらに日本政府は日韓の領土問題でも、慰安婦などの歴史問題でも、不誠実さ丸出しの失策を繰り返し、憲法改正を口にして再武装と軍国主義化が露骨に警戒され、国連事務総長自らが警告を発するほどだ。

「レーダー照射」騒動は安全保障の基本すら理解しないただの恥さらしだったし、河野談話見直しを自民党や安倍が口にし撤回を余儀なくされたこと、橋下大阪市長の「慰安婦」暴言、麻生副総理の「ナチスに学ぼう」発言と、日本の立場は悪くなるばかりなのである。同盟国アメリカですら、大統領が安倍を嫌悪しきっていることを隠しすらしない。

もちろん安倍氏らの差別主義丸出しな歴史修正主義に国際社会で勝ち目があるはずもないどころか(そもそも、ただの歴史捏造で、つまりただの嘘だから)、日本の立場を悪くするだけだし、そうでなくとも日本の法制度が差別的であることは、国連人権委員会などから再三告発がなされている。


こと日韓外交は、安倍氏の失策の連続の上に、現韓国大統領のパク・クネの父パク・チョンヒが安倍の祖父・岸信介と親交が深かったことを過信した自惚れが完全な目論み外れで、韓国にやられっぱなしである。 
APEC首脳会合ではパク氏になんとか握手を求める安倍の無惨さと、余裕で冷酷に握手に応ずるパク氏の姿が際立った。


霞ヶ関としては、安倍政権がバカでどうしようもない、国益を損ねているとは分かっていても、さすがに安倍晋三は首相だし、自民党の選挙すら忘れて消費増税・法人減税やTPP参加などで完全に言いなりなのは便利なアホ政権なので、なんとか守らなければならない。

むしろ一発逆転で「差別を許さない日本」を演出したい

だから国連総会では安倍を説得して反核の平和主義で差別に反対する人道主義の演説までやらせたが、実践もなにも伴わないわけで、これくらいでは誰も信用してくれず、偽善とみなされ無視され反響もない。


いやだいたい、日本社会に在日や朝鮮民族への差別があることなんて、隠したって隠せるもんじゃないんだけど 
むしろそれでも日本を友好国とみなす韓国が、かなり気を遣って、最低限の言及しかしていないほどだ。


とにかく差別の問題に関して、日本はものすごくイメージが悪い国だし、しかも実際に差別が大好きとしか思えない、差別をさんざんやっている国であることを、国民は知らされていないか、下手すると自覚することを拒絶して逃げている人も少なくない。

ところが、そこへ京都地裁の判決であるとかが出てしまえば(官邸は地裁の判決日程くらい簡単に把握出来るし、「在特会」と安倍政権・自民右派の密接な関係からして気にしていて当然だ)、日本社会に厳然と在日や朝鮮民族への差別がある、それもずーっと続いていることがますますバレてしまうので、まことに都合が悪い。

だからこそ、あまりに不自然な「ヘイトスピーチ」連呼による歪曲報道が、全マスコミ金太郎飴状態で起ったのだろう。無論毎度おなじみ、官邸記者クラブを通した要請に記者クラブ会員社が応じたわけだ。


  • 日本の近代史を知らない、差別の歴史も知らない若者や外国人なら、新聞やNHKニュースだけ見れば日本が差別に反対する良心的な国であるかのように思うよう仕向けるために。
  • そして在日朝鮮韓国人への差別という日本社会に未だ蔓延するありふれた差別を無視したい、一部の偽善的市民におもねるために。
  • 言い換えれば、在日朝鮮韓国人差別が目新しい流行語で語られるものなぞではちっともなく、100年以上の歴史のある残酷で醜悪な代物であるのに、その歴史を歪曲捏造し、差別を隠蔽するために。


無論、バカげた浅知恵であることは言うまでもない

世界中の日本を担当する外交官やビジネスマン、市場関係者は、もちろんNHKの7時や9時のニュースを見て、五大紙の報道をフォローし社説もチェックしているが、無論それだけではない。

客観的な立場で日本の歴史だって踏まえている。そして日本が朝鮮民族を差別し続けている国であることは隠しようがないのだ。こんな浅知恵で付け焼き刃な騙しに、引っかかるわけがない。永田町内部的には安倍に「在特会」等との縁を切らせること以外では、せいぜいが韓国の現政権の、日韓関係を回復したいが故の温情にすがる口実くらいの効果しかない。


先代のイ・ミョンバク、今のパク・クネ政権を通じて、韓国政府はまったく「反日」などではない。韓国の政府としてこれ以上はさすがに妥協出来ない一線のところを、日本側が常に挑発して来ただけだ。それは韓国の国民の圧倒的多数でさえ同じこと、むしろ過去はともかく、基本的に極めて親日的な国だ。
むしろ左派政権、たとえば植民地時代でも日本の教育の充実などは率直に評価したキム・デジュンの方が、政策的には日本や米国と対立することも辞さなかった。 
なおキム氏は日本亡命中の自分がKCIAに拉致された事件ですら、日本政府がその手引きをしたことへの批判は控え、移送中のKCIAの船を自衛隊機が威嚇したことで自分が殺されずに済んだのだとを明かし、感謝すら述べていた。


むろんいかに官邸記者クラブや外務省記者クラブを通じた要請があろうが、「ヘイトスピーチ」がまったく耳慣れない用語であれば、マスコミ各社だって官邸の要請だろうが応ずるわけにはいかない。せいぜいが京都地裁判決を報じないことくらいしか出来ず、しかしそんな報道握りつぶしをやればますます、日本は差別を隠蔽し温存させる国だのとの悪印象は強まる。

そこで「ヘイトスピーチ」という言葉をある程度は浸透させておく必要があったわけだが、幸い(というか実はわざと、巧妙に演出されたことなのだろうが)ネットではかなり流行語になっていた。

例の「在日特権を許さない市民の会」の新大久保や大阪・鶴橋へのイヤガラセ犯罪行為に対してネット上、ツイッター等で呼びかけられた「カウンター」活動のおかげだ。


…というよりも、この「カウンター」を呼びかけた者たちの動きが、最初から極めて不自然であった理由が、この京都地裁の判決に関する報道で明らかになった、と言ってもいいだろう。
なぜ最初から「在日朝鮮韓国人への差別を許さない」という普通の言い方をわざわざ避け「ヘイトスピーチ」というなじみのない、ほとんどの人が意味すら知らなかった言葉を繰り返したのかが、ようやくよく分かった。


逆に言えば、結果から見ればこの「カウンター」を呼びかけた本当の最大の目的が、差別の歴史を隠蔽して誤摩化すために「ヘイトスピーチ」を流行語とすること、「在日への差別」ではなくあくまで「ヘイトスピーチ」に反対する市民運動を捏造することだったとしか思えない。

…と思ったら、なんのことはない、ご本尊がすでに自白しているではないか(汗)。
もちろんあなた自身がそんな「社会問題」を捏造しようとして来た、報道もあまりにもわざとらしい歪曲で、その捏造に協力しているだけ。 そんな言葉、今回突然紙面に踊るまで、ほとんどの人が知らなかった。
実際に社会問題としてあるのは昔からずっと、在日朝鮮人韓国人への差別である。あなたもまた拉致問題報道をめぐる歪んで差別的な報道でそれに加担した。「在特会」よりも遥かに深刻で、日本社会全体に蔓延しているヘイトスピーチだ。 
しかしさすがに新聞社のギリギリの良心で、用語解説を要すると判断されてるわけだから、まさに 「頭隠して尻隠さず」だ。 

この運動集団、とりわけ中心メンバーである「レイシストしばき隊」等や、有田芳生議員らの言動の不自然なまでの愚かしさが、彼らが単に愚かで無自覚な差別主義者だから、というだけではやはりなかったのだ。

ただ彼らが愚かなだけだったら、誰かが止めたり諌めたりしたはずだ。だがその愚かさを諌めたものは、逆に「カウンター」の面々の口汚い攻撃に晒され排除されて来た。論理も議論もへったくれもない、ただの暴虐な「いじめ」。なぜそんな醜態をネット上の公衆の面前で晒したのか、やっと納得が行く

最初から見せしめと排除が狙いだったのだろう。

彼らの愚かで無自覚な差別主義の言動の濫発は、むしろ意図的な排除のための必然だったのだ。


いやどうにもおかしいな、無自覚な差別性満載で差別的な暴言だらけ運動なので、呆れて避けて来たのだが、どうせなら覚悟を決めて参加しておけばよかった。 
内部に入ってたら、このカラクリにはとっくの昔に気づいて、内情も押さえて告発出来ただろうに、後悔先に立たず…。


在日朝鮮人韓国人であればまだ、やっと自分たちへの差別の暴力に反対してくれる日本人の大衆運動に過度に期待を寄せるのは分からないではないし、また「カウンター」の参加者らは、その彼らを当然のごとく自己正当化に利用して来た。

一方で、運動ではないものの個々人として常に在日朝鮮韓国人への差別に反対して来た、少なくとも憂慮して来た普通に良心的な日本人であるとか、この胡散臭さの偽善性を見抜く在日、あるいは既存の差別反対の運動体に入って来られては困るから、わざと排除するように仕向けたのだ。

まともな神経で在日への差別に反対するのなら、必然的にそれは歴史問題に結びつく。それを排除する「反差別」なんてあり得ない。



こと「仲良くしようぜ」と言ったスローガンの胡散臭さに納得出来ず、「レイシストしばき隊」が日の丸フェチであることに我慢がならない在日朝鮮韓国人を排除し攻撃するために、彼らが積極的にけしかけて利用したのは、他ならぬ自分たちの側に参加している在日である。これはさすがに許し難い。
なかでも急先鋒を切っていた在日の人物は、無自覚にこのように告白してしまった 。
絶句…。もはやなにをか言わんや。こうなるとあまりにも憐れでしかない。 
結局、歴史問題やこれまでの差別の問題で「レイシストしばき隊」を怒らせるのは「在日を血に染める」、その差別主義ナショナリストの暴力を誘発し「更に酷い惨事を招きかねない」という思い込み、いや刷り込まれた差別意識の根深さ… 
だから、自分たち在日の参加者にはそんな議論は出来ないと、当の最も積極的に参加しているように見える在日が思って来たわけだ。 
最初から、被差別者に刷り込まれた怯えを利用した差別主義の運動でしかなかったのである 
そして結果は、こうして惨めな奴隷在日、ペット在日、自ら自分達が受けて来た差別の歴史を隠蔽させられ、卑屈さに徹することを強要される人たちが出て来ただけだ。この醜悪な偽善のなにが「仲良くしようぜ」なのか?

真面目に「在日ウンチャラをナントヤラな市民の会」に対抗するなら、慰安婦問題への不誠実な対応という極めて差別的な外交も問題にすることになるし、拉致問題を利用した反朝鮮総聯・反朝鮮学校の差別プロパガンダには当然言及する(有田芳生議員も批判に晒される)し、8月になれば靖国問題も関わって来るし、もともとこの団体と密接な関係がある公安警察や、安倍政権は、徹底批判されることになる。

そもそも「在日ウンチャラをナントヤラな市民の会」それ自体なら、せいぜい数十人の動員力しか持たない。それが大きな社会的影響力を持つと言うのなら、それは彼らの大っぴらな発語(つまり「ヘイトスピーチ」)の問題ではなく、口には出さないが彼らにこっそり共感する日本人全般の問題であり、国の制度や社会のあり方自体が未だに差別だらけであることの問題だ。

だがその現実を直視することは、この「カウンター」を呼びかけた人たちにはあまりに不都合、というより裏で金を出し操作しているのであろう官邸か、あるいは外務省の、そもそもの意図と目的からすれば逆効果だ。

ほぼ確実に、その機密費で作られた運動だったのだろう。なにしろ、まず資金の動きがあまりに不自然だ。

草の根手弁当のはずがカンパ呼びかけもないのに、立派なウェブサイトも立ち上げ(無料のブログなどを利用するのではなく)、ツイッターでの発言量だけみてもほぼ専従の人間が「レイシストしばき隊」を中心に何人かいる。

このグループを中心として先月には「差別撤廃東京大行進」なるパレードまで開催され、この時もNHKニュースを中心に(それまで「在特会」も「カウンター」もほとんど報道されず、日韓外相会談で問題にされたことも無視して来たのに)いきなり大きく報道され、しかもこの時にはかなり金のかかったビラを「フライヤー」と称して街頭などで大量に配布…

…は出来ていなかった。受け取る人があまりにも少ない、というか僕もたまたま目撃し観察した際には、誰もいなかった。

つまり、まずこの運営資金はどこから出ているのだ? あくまで草の根の運動を装い、協賛や後援団体などはまったく出て来ず、なのにカンパの呼びかけもない。

どこぞの金持ちでもバックにいない限り、こんな資金を使途不明金に偽装して出せるところはそうないし、逆に良心的な寄付であるとか後援団体ならば、わざわざ隠す必要もないはずだ。むしろ名前を出してもらたいくらいだ。

そんな怪しげな資金の出所であれば、それで誰がいちばん利益を得るのかを考えるのがまず当然である。となるといちばん可能性が高いのは、こうして「カウンター」が「ヘイトスピーチ」という流行語を捏造することでいちばん利益を得る側が出す金、つまり官邸機密費か、外交機密費だろう。これならなんの苦もなく資金は出るし、足もつかない。

さらに妙なことに、たかが数十人の「在特会」に対してカウンターで集まるのは数百人が限度。なのに出版社が動き、その専従と目されるメンバーが本まで出版するという。およそ出版社の自力だけでは、採算ラインを突破できない部数しか期待出来そうにない内容の本なのに、版元は政治思想系の中小ではない。

まだ同和出身で「保守の立場からの反原発」を敢えて唱えた巧妙で狡猾なレトリックを用いて以前にもちょっとした話題を集めた人物が、トリッキーな保守論をぶちあげた一冊目なら、おもしろがる編集者もいるだろう。

だが先述のようなあからさまな世論操作で突然全マスコミが「ヘイトスピーチは許しません」と言い出し、その語彙が定着するかどうかも怪しい現状のなかで、「カウンター、しばき隊専従」と目されるなかでももっとも頭が悪そうな、乱暴で知性のかけらもない歴史修正主義すら唱える人物が「ヘイトスピーチ」を題名にした本って…こうなるとカネだけでなく、特殊なパイプのある人脈が動き圧力をかけていなければ、ありえない話だ。

つまり全マスコミ金太郎飴を演出したり、その演出が起ることを知らされていて、大手出版社にコネがある人脈だ。

「フライヤー」と称するビラや、関係者というか実質専従のスタッフが本を出版すること(彼らの生活費だってある)、そんなに出来はよくないが、プロでも三流くらいが作っていそうなウェブサイト、それに妙にカタカナや横文字を濫発すれば流行になると思っているセンスの悪さも含め、さらに大手マスコミや出版社との人脈となると、広告代理店的な俗っぽさがプンプン匂う。
大方、最近政府関連のウェブサイトのデザインや運営だけでなく、パブリック・コメントの仕切り、リサーチ業務などなどで、霞ヶ関が大口受注先となっている電通が、裏で関わっているのであろうことが、すぐ思いつく。
電通あたりがあまり使えないヒマな下請けの、出来の悪いデザイナーやフリー編集者あたりに金を握らせて仕掛けた「電通裏プロデュース」ではないのか、というのが僕のとりあえずの推測だ。 
そして金の出所つまり大元締め、つまりこのような官製市民運動を捏造させることでの最大の受益者は、首相官邸なのだから(バカだが言いなりで便利な安倍を守り日本の外交的失墜を挽回出来る…と思い込んだだけ)、まず可能性がいちばん大きいのが、官邸機密費、となる。



もちろんこんな後ろ暗い欺瞞の、権力側のご都合主義に奉仕するだけの、官製市民運動の捏造のカラクリに関わったのは、「レイシストしばき隊」の一部などごくごく少数の主導メンバーだけに決まっている。圧倒的多数の参加者はなにも知らずに、ただ自分たちは正義の運動をやっている気になって、踊らされただけだし、もっと言えば中心メンバーの面々ですら、金は渡されてもそれがどこから出た資金なのか考えるほどの知能も持ち合わせていないかも知れない。

もっとも、踊らされただけの参加者にもあまり同情は出来ない。
ごくごく少数の主導メンバーに呆気なく扇動されて、「在特会」以上に身勝手極まりない独善で無自覚な差別発言をネット上で繰り返し、その主導メンバーの親衛隊気取りで、もはや「在特会」などはそっちのけで、差別に反対する批判者を攻撃する正義ごっこ、その実単なるいじめ騒ぎに耽溺したのも、多くの「騙された」一般参加者だ。
いや良心的な一般参加者が「おかしい」と言い出したら、ファナティックな攻撃で排除したのも、主導メンバーにそそのかされた珍妙で幼稚な偽善者でしかない、ただの正義ごっこの自己満足のための一般参加者たちである。
彼らの発言もまた無自覚な差別意識がしょっちゅう発露しているのに、主要メンバーたちは諌めようとも止めようともしない。かくして運動の評判はどんどん落ちる…なんでこんなことを、と思えば、わざと評判を落とすのが目的なら納得が行く。


さらに「差別撤廃東京大行進」と称するイベントでは、人種差別撤廃条約の履行が主張され、「カウンター」の主要メンバーと共通する主催者側などはそれ以前から同条約に基づく「ヘイトスピーチ規正法」の制定を口にしている

なぜ「ヘイトスピーチ禁止法」でないのか首を傾げるが、本当に同条約の定義に基づき、ドイツやカナダなどを参考にした刑事処罰を含む法律があれば、真っ先にお縄になるうちの一人が有田芳生議員であり、あるいは「レイシストしばき隊」の中心メンバーの何人かである。 
それが明らかに刑事罰を含む「禁止法」では、さすがに怖かったのか? 
まあ、こんなんじゃあさすがに、ねえ…?まさに定義通りのヘイトスピーチではないか。 
よくもこんな分かり易い差別憎悪の扇動発言を放置するものである。だからバカなのかと思ったら、まともな人間が呆れて離れることが狙いの、確信犯だったわけだ。 
しかしここまで分かり易いヘイトスピーチを書く人が、ヘイトスピーチ論を出版って…自己批判でもしてくれるんだろうか?


だが日本国憲法は「あらゆる検閲はこれを禁ずる」と明記している「ヘイトスピーチ規正法」は明らかに違憲になるし、同様の憲法を持つアメリカ合衆国などでは、合憲の国内法を正しく運用することと、世論の啓蒙や文化の力で、たとえ実際にはどれだけ人種差別がまだあろうとも、差別は絶対に許されないことだという社会的コンセンサスを作りだしている。

ちなみにフランス第五共和国憲法は検閲を禁じてはいないが、やはり「ヘイトスピーチ規正法」に類するものはない。 
人種差別は明らかな悪であり、そこから社会を守ることは国民の良心とフランス文化の伝統に任されている、という考え方だ。

議員だったら憲法を理解しているはずだ(それとも民主党ってそこまで劣化したの?)し、ならば「ヘイトスピーチ規正法」の制定は迂闊に口にしないはずだ。なにしろ違憲になりかねない。

それに少なくとも「在日ナントカをウンチャラな市民の会」なる、その実せいぜい数十人程度の動員力しかないネット上の幻影の、日頃のネット上の言動ならまだしも、新大久保や鶴橋での街宣行為だったら、現行法で充分に抑えることも現行犯逮捕も出来るむしろ警察の怠慢が問われるべきだし、刑法の脅迫罪の規定や名誉毀損罪に人種差別に関する既定を付記すれば、「ヘイトスピーチ規正法」は必要ない。

いや拉致問題を利用した差別流布の前科がある有田芳生議員や、上述の野間某、あるいはやはりこのパレードに参加した小池晃氏の属する共産党の同和差別を告発し、彼ら差別主義者を黙らせるなら、「ヘイトスピーチ規正法」は便利だと思うけどね。

国会議員までが主導するデモでは、これもあまりにも不自然だ。だがこの有田議員の場合、「拉致問題の解決には九条改正が必要」という青山某なるネオコン論客の発言にまで理解を示している。つまり改憲派なのだ。

これも「レイシストしばき隊」らが「在特会」以上に、まともで普通に差別に反対する一般市民や既存の反差別運動を排除した理由のひとつなのだろう。「ヘイトスピーチ規正法」を求める声が高まれば、「今の憲法は変えるべき」「自主憲法制定」という議論に、自民右派のトンデモ改憲論に警戒する中道や中道左派も、改憲に賛同するしかなくなるからだ。

つまり差別撤廃東京大行進のもうひとつの目的は、改憲論を世論に受け入れさせる素地を作ることだ

実に巧妙な世論誘導で、つくづく霞ヶ関というのは浅はかな割には大衆を騙すことに関してだけは相当な悪知恵を持った人々だと感心する。

もっと他にやることがあるだろうに…俺たちの税金だぜ?

それにしてもつくづく、日本人というのは…加藤泰監督の映画『男の顔は履歴書』の安藤昇の台詞ではないが…


「なんにでもすぐ流されますからね、日本人という奴は」


…である。



なお『男の顔は履歴書』は戦後まもなくの闇市で勃興する第三国人、つまり韓国朝鮮人・台湾人の組織と日本人との抗争を描くヤクザ映画の大問題作だが、加藤泰監督の優れた知性と傑出した人間洞察力の演出で、驚くことに差別性はまったくない。むしろ加藤泰とインテリ・ヤクザの安藤昇(安藤組組長)がこの映画で告発するのは、日本人の偽善的で暴虐な差別性がこのような対立を招いたことだ。


それにしたってあまりに安易に流され過ぎだろう、この決して「在日朝鮮韓国人が差別されて来たことに反対する」ではなく、あくまで「ヘイトスピーチはいけません」だけの連呼は。

だから決して忘れてはいけない、僕たちはもう、騙されても流されてもいけない

朝鮮学校の子どもたちを苦しめ、その父母、祖父母、曾祖父母をずっと苦しめて来て、京都地裁の判決で断罪されたのは、「在特会」の「ヘイトスピーチ」…ではなく差別的な街宣活動だけではない。「在特会」はここで直接処罰されるただの象徴、みせしめでしかない。

僕たち日本人の一人一人の心のなかに、決して大声で叫んで「ヘイトスピーチ」とみなされる発語はしないものの、「在特会」的なものは潜んではいないか?


  • チマチョゴリ姿の朝鮮学校の女生徒たちに、「外国人、たかが朝鮮人のくせに」と思ったことはないか?
  • 在日の人の率直な言葉に「朝鮮人が生意気な」と思ったりしたことはないか?
  • 「日本にいるんだから遠慮しろ」とか心の中で毒づいたことはないか?
  • 自分たちの国と民族の過去の誤りを指摘されただけで「反日だ。朝鮮人は俺たちを敵視してるんだ」と身勝手な憎悪を持ったりはしていないだろうか?
  • あるいはその過ちを指摘されるのを恐れ、彼らを対等の人間として扱わず、腫れ物の「弱者」としてつき合ってはいないか?
  • 逆に在日朝鮮韓国人にだって変な奴やわがまま身勝手、ひどい奴悪い奴だっている。それを「差別だ」と言いがかりをつけられることを恐れて「かわいそうな弱者なんだ、しょうがない」と思い優越感を覚えたことはないか?
  • 逆にそうやって「弱者」だから批判出来ない自分を棚に上げ、「特権だ、無批判の立場に立てるのはずるい」と嫉妬してはいないか?彼らが「弱者」だから批判できないことに、欲求不満を覚えていないか?
  • 在日の人との関わりにおいて、「お前は朝鮮人なんだから」と心のなかで思って、子分や二流市民扱いを、したことはないか?
  • だからこそ、「在特会」を叩きさえすれば、そんな心の奥底に押し込んで隠して来た、後ろ暗い自分の差別したい気持ちを免罪できると思って「ヘイトスピーチはやめろ」「このヘイト豚」などと街頭で叫びはしなかったか?


本当に裁かれたのは、これまで彼らをずっと差別して来た私たちの国であり、私たちの冷たく差別的な眼差しであり、私たちの社会の人間性の欠如、私たちの歴史と現在に至る誤りなのだ

京都朝鮮学園の子どもたちが、その誤りを僕たちに教えてくれた。京都地裁ではない、その子どもたちが、だ。

これまでその子どもたちとその父母、祖父母、曾祖父母をずっと苦しめて来た、あるいは彼らが苦しんでいることを無視して来たことを改めてお詫びすると同時に、僕たちは彼らに誠心誠意、「僕たちがいかに間違っていて醜い日本人だったのかに気づかせてくれて、本当にありがとう」と言わなければいけない。

在日朝鮮韓国人に「仲良くしようぜ」と僕たちが言えるのは、やっとそれから、僕らが彼らに仲良くしてもらえるだけの、醜くない日本人になってからだ。

10/01/2013

空虚なる記号としての日の丸と、日本の差別と呪詛のDNA


どうも今の日本と言う国は、なんとしてでも隣国の韓国と北朝鮮(朝鮮人民共和国)、つまり朝鮮民族を小馬鹿にし差蔑しなければ気が済まない国に成り下がったらしい。

いささか旧聞に属することではあるが、福島第一原子力発電所からの汚染水漏れがいきなり話題になり(最初から分かっていたはずのことであり、今の騒ぎは政府の情報管理が稚拙過ぎたとしか言いようがない)、韓国政府が東北太平洋岸・関東北部からの水産物の輸入禁止に踏み切った時のことだ。

韓国政府のこの対応は確かに困る。いかに自国内の原発の安全管理に疑問符がつき世論に神経を尖らせているとはいえ、だからこそ科学的な対処をお願いしたい、日本の失敗に今から学んで、原発の立地地元が一方的に苦しむ状況を再現しないよう、世論の素地作りに配慮して欲しいのは、もちろんのことだ。

実際には東北太平洋岸の水産物から顕著に高い放射性物質量が今年8月9月の段階で検出されているわけでもなく、汚染水ははっきり言えば事故発生当初から漏れていたわけだし、他国とはいえ風評に苦しめられる福島の農家や漁民のことも、少し配慮して頂ければ、とは当然ながら思う。万が一貴国の原発で放射能漏れが起きたとき、同じようなパニックが起こる世論の歪みを放置していれば、日本の被災地の農民漁民に起こっているのと同じことが起こり、今度は貴国の原発事故被災者が苦悶することにもなるのだし。

とはいえ、元を糾せば我が国の原発事故である。福一事故が想定外の津波に寄る不可避な事故であったとしても、その想定が間違っていたことも含めて失敗であり誤りであったことは認めるしかなく、日本政府が子どものように駄々をこねたってなにも始まらない。

しかもこの夏からの突然の汚染水漏れパニックでは、我が国の政府の情報の出し方の稚拙さが、過剰な警戒反応を招いている。他国に文句を言うのもいいが、日本国内に買う消費者が少ないことこそが現状の最大の問題、まさに風評であり、報道の不備、政府の思慮不足、すぐにお祭り騒ぎを始めたがる日本の世論の脆弱さの結果、福島県の漁業は未だにほとんど再開出来ないまま、そこへいきなりの汚染水問題の追い打ちとなった。他国を云々する前に、まず自国がしっかり支えなければ…いや決して特別な優遇や応援ではなく、誤解は誤解としてきちんと解消する責任は我が国の政府にあるのだし、この禁輸処置に納得出来ないならばこそ、まずきちんと説明する責任はあくまで我が国にある-だいたい、他の誰もやってくれないのだし。

ところが日本の政府も世論も、「韓国が」、となるとがぜん色めき立ち、林農水大臣に至っては、韓国政府を「非科学的」といかにも小馬鹿に仕切った態度で記者会見に臨んだ。

いやはや、8月15日に靖国神社に公式参拝出来ず欲求不満タラタラだったんだろうが、ここまで相手の感情を害してしまえば、これはもう国家政府のメンツの問題にかけて、禁輸処置は継続されますよ。

だいたい非科学的って、科学的判断に必要なデータすらまともに揃えて公表することすら出来ていないのが日本政府じゃないか。

一日300tの汚染水を「完全にブロック」、肝心の汚染水浄化・放射性物質除去装置の能力が追いつかない上に故障してしまっている事故現状を「アンダー・コントロール」と自慢げに言える非科学的な総理大臣閣下の顔を立てるため、東電社長が国会答弁で、無理なへ理屈を言わされたほどだ。 
科学技術と科学事象のアセスメントの問題で、科学に人事が優先させられるのが、今の日本国です。どうするんだこれ?

不安を覚えているのはなにも韓国だけではないのだし、この会見の場では

  • 現段階で危険とみなされる量の放射性物質が水産物から検出される例はほとんどない
  • 出荷される商品はきちんと検査されている
  • こと内陸の淡水魚には海に流れ出ている汚染水は関係ない

以上を日本側こそが冷静かつ科学的にきちんと説明するのが、福島をはじめ東北・北関東各県の漁民を守る農水大臣の責任だろうに、はっきり言って傲慢な差別意識丸出しの強がりなんてやっては、なにか隠してるから意地になってるのだろうと見透かされ、かえって被曝差蔑と風評を広げるだけではないか。

それにしても韓国がちょっとでも日本の意に添わない、言いなりにならなかったら「反日だ」と色めき立つのは、いったいどういうことなのだろう?

他所の国であり、利害が時には必ずしも一致しない、誤解を避けるには丁寧な説明が必要なのは、当然のことだし、幼稚な感情に走っては足下を見られるだけだろうに。

前大統領の李明博氏が、任期末期に天皇の訪韓への期待を表明したら「天皇に非礼だ」の大合唱だった。

いやかつての植民地支配者側、加害者側の元首(対外的には天皇は元首である)が過去にきちっとけじめをつけるのは、国際慣例、外交辞令として当然のことなんですが。

そのための国家と国民の象徴である上に、政治的実権を持たない天皇であれば現代の具体的な政治的関係との区分けもつく。それに当の今上天皇ご自身がそれを切望していることだって、李氏は当然踏まえての発言であった。

直接に植民地支配のくびきに苦しんだ記憶を持つのが「天皇陛下万歳」を言っていた世代だからこそ、天皇が行けばこそけじめ、清算になる、それなりに納得されるのだ。在日二世出身で日本に理解が深い李明博氏だからこそそれはよく分かっているし、いや誰よりも我らが今上のおかみ明仁さんがいちばんよく分かっている。

なのになにも分かっていない、頭が悪く教養も常識もない皆様が、無様な差別意識丸出しにはしたなく絶叫すれば、それが通用してしまう節度のない国が、かつて知性ある節度をなによりも重んじたはずの日本の、なれの果ての現状である。

…っていうか、「天皇陛下」はただの口実で、意地でも「チョーセン人には謝りたくない」っていう差蔑意識満載なプライドを自己満足させただけだろうに、なんとはしたない

靖国神社だって同じことだ。 
名目上とはいえ「天皇陛下のため」に日本兵たちは死んだ。なればこそ天皇が頭を下げることが最も重要なのに、戦死者たちに最大の責任を負う(つまり、彼らのせいで無駄死にしたのだ)A級戦犯が合祀されたことで昭和天皇がそこに行けなくなってしまい、韓国や中国と張り合いたいだけの幼稚な自称右派政治家たちが騒ぎを起こす度に、鎮魂は遠のくばかりだ。 
高齢化が進む直接の遺族や元戦友たちがいなくなれば、死者達の抱えた恨みや怒りの魂鎮めは、まもなく完全に忘却されるだろう。

なにか勘違いしてないだろうか?

いかに植民地支配それ自体を「当時の価値観」を持ち出して正当化を試みようとも、日本による朝鮮半島の植民地化の場合は、それでもやはり惨憺たる失敗でしかなく、その大失敗の無惨なる結果という前提を抜きにした評価も正当化もやりようがない

なにしろ日本は自らのボロ負けの結果、植民地に対して支配者として負っていた最低限の責任である、その大地を領土をして守ることすら、出来なかったのだ。

朝鮮半島が今なお分断国家であるのは、宗主国日本の戦争に巻き込まれた挙げ句、その宗主国がその大地を守りすらせず逃げ出したからだ

植民地主義のモノサシでみたって、これは大失敗であるだけではない、支配する側の矜持すらまるで抜け落ちた約束破りだ。旧支配者として威張りたいのなら、せめてその最低限の責任くらい果たしてからにするのでなければ、あまりに矜持もプライドもないはしたなさでしかない。

だがそんなみっともなさを誤摩化すために、現代の日本は一生懸命に朝鮮民族を敵視し、差蔑を続けている

戦後、日本は日韓基本条約を結ぶと同時に、個々の韓国人の賠償請求権…というと誤解を招くので精確さを期せば、たとえば未払いの給金や労災、日本兵として戦ったのなら当然恩給と遺族年金の対象となる、そうした当然の支払いを受ける権利を放棄させる、いわば借金となった給料の踏み倒しを押しつけ、国内では在日朝鮮韓国人を差蔑し続けている。

勘違いが多いので困るのだが、戦争などでの国家間賠償は、第二次世界大戦の戦後処理の国際法の枠組みで否定されているし、韓国政府もそれに倣って国家への賠償の請求権は最初から放棄している。 
問題なのはあくまで個々人に本来支払われるべきだった、私有財産権に属するもの、つまりは未払い給料の借金踏み倒し以外の何ものでもない。仮にパク・チョンヒ政権がそれを提案したとしたって、日本側がそれを受けること自体があらゆる倫理や道義に反する。なにしろ日本に忠誠を誓ってその軍で戦った人たちすら裏切る話なのだから。 
ましてこの協定は、冷戦下に日本がアメリカの権威を嵩に着て、虎の威を借る狐よろしく押し付けた不平等条約でしかなく、日本が一方的に破棄を宣言した方が国際的な評価が上がるような話だ。

これでは日本の植民地支配を「朝鮮半島の近代化の一段階」として一定の評価を与えようにも、なにしろ給料・借金まで踏み倒す旧支配者サマでは、封建領主よりもひどい。

李氏朝鮮の暴君だってそこまではやらなかった。

慰安婦問題に至っては、恥の上塗りによる差蔑の上塗りであるだけでなく、頭の悪さまで曝け出している

「慰安婦なんて売春婦だ」と言い張るのはその好例だ。

慰安婦とは日本軍の専属売春婦のことであり、そんなものを国家政府と軍組織が運営していることこそが問題になる。大っぴらにそんなことをやっていては当時でもあまりにみっともないから、当時の日本の官僚が「慰安婦」という「慰問」とかを連想させる役人言葉をでっち上げて誤摩化したのが、表向きは「武士道」を気取った日本の軍国主義なのだ。

「強制はなかった、証拠がない」という詭弁も悪い冗談でしかない。支配される植民地側、それも貧しい女性たちが、当時日本人でも断れなかった「お国のため」を断れるわけがない。

しかも徴集に官憲や軍の同行を義務づける命令書まで出ている(これは公文書として残っているのを日本政府が見つけている、つまり「強制があったという証拠はない」というのは詭弁の嘘っぱちである)。名目は「不正を防止するため」って、まさかそんな偽装のタテマエを文字通りに受け取る世間知らずな阿呆もおるまい。こんな馬鹿げた話を相手に押し付けようとすること自体が、相手を愚弄しきった差蔑意識の発露でしかない。

この愚かしさはどこから来るのか?

曲がりなりにも南蛮貿易の時代、つまり戦乱の続いた戦国時代でもヨーロッパのどの国も足下に及ばない識字率の高さに宣教師達が度肝を抜かれ、開国と明治維新の時点で世界ぶっちぎりの9割以上の識字率、戦後には占領軍を驚愕させた9割5分超えの識字率の圧倒的な民衆の知性の充実を誇り、しかも知識だけでなく知性の豊かさ、礼儀正しさと節度に「文明国」が驚愕した、世界有数の教育国家の伝統を持つ日本には、あり得ないほどの頭の悪さの無教養だ。

結局、自らの国の歴史的な失敗を指摘されることで、下位とみなす、差蔑対象でないと困る相手に頭を下げたくない、自分の過ちから逃げるために差蔑する相手を設けることで幼稚な優越感に浸る欲望の成せる業でしかない

ちなみに植民地支配者として最低限の義務すら守れなかったという支配者日本の惨めさは、沖縄についても言える

沖縄も元は別の民族と国、琉球王国であったのを、薩摩藩が幕末に征服併合し明治政府が引き継いだ領土だ。その沖縄を守るどころか、本土決戦を避ける時間稼ぎの犠牲にしたのが、日本という国だ。

いや2年半前の震災であきらかになり、たとえば今年のNHKの大河ドラマ『八重の桜』がテーマとして明示しているのが、明治維新による中央集権国家の成立とは、同じ国、同じ民族の大地であったたとえば会津、福島を、暴虐な植民地戦争で征服し、中央に隷属するいわば国内植民地とした歴史である。

『八重の桜』が見せている歴史は、会津のことも、天皇が去った京都のことも、中央政府の視点からだけで見る我々の習って来た日本史はまったく無視して来た。

ちなみに『八重の桜』が明治維新を成し遂げた暴力という誤りに対して提示するのは、ヒロインの山本(新島)八重が会津藩でも屈指の教育熱心家庭の出で、兄の山本覚馬は蘭学を修めて藩士に講義し、維新後は京都府の特別顧問として首都でなくなった京都を生まれ変わらせた先駆的な思想家、しかも夫は同志社大学創始者の新島襄、というわけで、正々堂々と教育の価値、学ぶことの大切さと、日本で初めてレディーファーストを実践させた女傑の話だけに、勉学=真理の探求を通した女性の自立である。 
明治維新の禍根を果敢に批判しつつ浮かび上がらせる、オルタネイティヴな、本来ならかくあるべきだった日本の近代化の強靭な意志を、明治維新と近代日本に虐げられた側に見い出すという、今では映画の方が怖がってやらないラディカルで真摯なメッセージ性を、報道では霞ヶ関御用達しかやらない国営放送NHKがやっているのである。参ったね。 
しかも女性の自立の物語を書いているのも女性脚本家、イケメンなスターたちに晴れがましいまでの魅力的な男性像を堂々と演じさせ、女性をキャーキャー言わせハート鷲掴みである。いやはや…こういうのは映画がやらなきゃあかんことでしょう。そしてとっても正しく日本的ですよ。

その中央つまり東京に一方的に奉仕するために押し付けられた福島第一原発の存在すら、その恩恵を受けて来た東京がすっかり忘れて来たように、東北地方、とりわけ福島県はその歴史が無視されて来ただけでなく、現代に至るまで常にその存在自体までが、無視され、ないがしろにされて来たのだ。

確かに、東京の電気は今ある日本の全体の経済の発展のためには必要だったのかもしれない。

だが、なればこそ浜通りが二つの原発を受け入れ、大地震と大津波による不可避な事故までは安全に運用して来た貢献は、評価されてしかるべきだ。

ところが東京では、にわか反原発運動は原発を受け入れたことを「原発マネーに汚れている」「原発ムラ」とこきおろし、未だに原子力発電を止めるか減らす気はまったくない側は、しょせんはただの下請け扱いで補償も先延ばしのまま踏みつけにしている。まるで植民地扱いの使い棄てだ。

封建領主だってもう少しは温情があった。

日本古来の神話的に解釈するなら、今起こっていることは、無視され搾取され差別されて来た存在が、怨霊となり「荒ぶる神」となった復讐であり「罰が当たった」状況とすら言える

現に富岡町から避難されている佐藤紫華子さんの詩集『原発難民の詩』には、こんな一節がある。


この悔しさ!
この惨めさ!
 
大人しくなんてしていられない 
皆で津波のように
押し寄せてやろうかしら 
 

佐藤紫華子『原発難民の詩』朝日新聞社刊


古来日本人は、自然を畏れ、死者を怨霊として恐れて来た民族であった

明治維新はそれを迷信と片付けようとしたが、その明治維新の東京は、自然の方からは関東大震災という手痛い復讐…というか「お叱り」に遭っている。

当時を代表する物理学者つまり最先端の西洋科学を身につけた知識人であり、夏目漱石門下の文学者でもあった寺田寅彦は、関東大震災の被害をつぶさに考察した結果、驚くべき結論に到達した-江戸時代の通りや町の区画を保って来た場所では、延焼が防がれ被害が少なかった。もっとも甚大な人的被害を出した被服省跡は、江戸のルールに従って避難の際の家財持ち出しを禁じていれば、その家財に延焼して数万が焼死するという被害は防げたかも知れない。

最晩年の1935年に、寺田は随筆『日本人の自然観』を著し、この震災の教訓を、日本人のアイデンティティの問題として総括している。

日本ではまず第一に自然の慈母の慈愛が深くてその慈愛に対する欲求が満たされやすいために住民は安んじてそのふところに抱かれることができる、という一方ではまた、厳父の厳罰のきびしさ恐ろしさが身にしみて、その禁制にそむき逆らうことの不利をよく心得ている。その結果として、自然の充分な恩恵を甘受すると同時に自然に対する反逆を断念し、自然に順応するための経験的知識を集収し蓄積することをつとめて来た。
(中略)
 日本の自然界が空間的にも時間的にも複雑多様であり、それが住民に無限の恩恵を授けると同時にまた不可抗な威力をもって彼らを支配する、その結果として彼らはこの自然に服従することによってその恩恵を充分に享楽することを学んで来た、この特別な対自然の態度が日本人の物質的ならびに精神的生活の各方面に特殊な影響を及ぼした

寺田寅彦『日本人の自然観』全文はこちら


いや東日本大震災でも、昔ながらの体験と知恵の文化が残っていた場所で、被害がやはり抑えられていたことも記憶に新しい。

日本の近代化=西洋化のなかで失われたものは、地方、田舎にはまだ残っていたのだ。それは「日の丸」に代表されるような薄っぺらなアイデンティティ意識でもなければ、同じアジアの民を差別することで得られる優越感でもない。

いやむしろ、たとえば真っ先に菅首相とともに被災地を訪れた恩家宝中国首相は、中国人就学生を救う為に命を落とされた工場主を賞賛した。台湾からも中国からも韓国からも、義援金を始めさまざまな応援があった。 
「同じ東アジアじゃないか」の連帯感もあるとはいえ、日本の政治家の誰よりも被災者を励まし福島の風評被害を抑えようとした政治家が、中国首相だった温家宝氏だったのだから、こうなると「日本の…東京の政治家は、いったいどうなってるんだべ?」と困惑するしかない。

近代以降の日本と朝鮮半島や大陸との関わりとは、今では支配された朝鮮半島や侵略戦争の戦場になった中国本土以上に、支配した側である日本にとって惨憺たる、惨めなものだ。支配し加害者であった側がここまで惨めなのは、目も覆わんばかりだ。

残念ながら私たちの日本という国が、明治維新以降の、ずっと朝鮮民族を差蔑して来た歴史は厳然としてあり、その歴史は今さら変えられない

それどころか近代の、日の丸という国旗に象徴される国となって来て以来の140余年間、日本という国と民族のアイデンティを形成しうるもの、つまり歴史上の一貫した共通体験として日本と日本人がみんなでやって来た、成し遂げた主体的な行動とは、なんと「朝鮮民族を一貫して差蔑し、侵略し、搾取して来たこと」くらいしか、見当たらないのである。

なんと言う陰惨さだろう? 隣国いじめと差蔑にしか、自分達が自分達であることの拠り所を持てなくなってしまった私たちは、その自らの陰惨さを隠すために、ますますその隣国の、親戚だかご近所の民族を差蔑することしか出来ない。

今の日本にとっての戦争責任の問題とは、過去の負の遺産ではない。

未だに私たちの国と民族がやって来ていることなのだ。

日本がかつて「悪い国」だったことを認め謝ってしまえば、自分達は朝鮮民族や漢民族に対して「下位」に甘んじることになる。だから歴史をねじ曲げ、朝鮮民族を劣等民族扱いし、悪いことなんてしていない、日本は当時の世界史において支配者の民族であり朝鮮人とは違うのだ、インフラ整備や教育や、ロシアの侵略を防いで「助けてやったのだ」とふんぞり返り、ますます差蔑意識に耽溺する、その現代の責任である。

韓国とてナショナリズムがあるから、かつての支配王朝の李氏をそこまであしざまに言えないとはいえ、李氏がこと民衆の教育や文化を守ることについてはどうしようもないダメ王朝で、支配者の身勝手で民衆が文字を読めるようになることを恐れてせっかく発明したハングルを長らくおクラにして来たこと、日本が持ち込んだ普通教育制度が朝鮮民族の歴史において画期的で極めて重要であったことは、実はみんな気づいている。 
ただその普通教育が同時に、日本名を名乗るように押し付け、日本語の使用と、日本への愛国主義を強要し、日本社会の二流・三流市民に朝鮮民族を押し込めたものでもあったことも、無視するわけにはいかない。なのに日本がその誤りを認めず「教育をしてやった」とふんぞり返るだけなのならば… 
…あまりに他人様が見えていない愚かさで自分の首を絞めているマゾヒズム、まさに自虐史観としか言いようがない。

李氏朝鮮があまりに中国かぶれに耽溺し、自分たちの民族の庶民を愚弄していたのに対し、朝鮮半島の民衆の産み出した文化、たとえば民具として作られた陶磁器に、権威性の成金趣味を超越した卓越した美意識を見いだしたのは、千利休らの日本の茶道であり、明治以降だって柳宗理がいるではないか。

なのになぜ日本人は我々の現代になったとたん、自分達の民族の誇る豊かで洗練された知性の伝統を自ら捨て去って、醜悪な隣国いじめなぞに耽溺出来るのだ?

(…っていうかしょせん日本国内のコップの中の嵐では、もはや先方には馬鹿にされるだけ、いじめになってませんけど)

こうした過去の客観視や、相手側の視点を考えないこと、つまり近隣民族を人間扱い出来ないまま、下位に見た差異化によってしか、現代の日本人という民族の総体は、そのアイデンティティを保てなくなっている。

なんという悲惨なのだ。他にだって、日本の国家と国民のアイデンティティたりえたものは、たくさんあったはずだ。

敗戦という国民の最大の共通体験こそ受け身であったものの、その時にあえて平和憲法を選び、武力軍事力に頼らず復興したことも誇れるはずだし、今なお世界有数の経済大国であることだっていいし、歴史上一貫して庶民階級でも識字率が高い、教育・教養の全体水準が高いことでも、世界で屈指の優秀な労働力・技術力でも、いくらでもあるはずだ。だがこうしてかつての軍国主義や侵略戦争の歴史を乗り越えたはずの、国と民族の本当の誇りであるはずのことを、自らの怠惰さや幼稚なプライドで捨て去ってしまったのが過去20年の、バブル崩壊後の日本だ。

とりわけ第三世界の国々にとって日本が今も憧れと敬意の対象であるのは、戦後こうして知力と努力で立ち直ったことだけではない。他の先進国出身者では考えられないほど、地元に親身で分け隔てをしない、現地の農民や労働者からもきちんと学ぶ日本人の技術者たちであるとかが、20世紀の後半にインフラやプラントの整備、農業指導などの援助で大活躍したからだ。つまり「日本人は白人と違って差別しない、私たちを分かってくれる」という信頼と敬意だ。

他の先進国つまり白人国家の多くは、やはりどこかで現地の人を人間扱いしていない、やはりどこかでコロニアリストの尻尾を曝け出すのだ。日本人はそこが違う、と多くの人が思って来た。「さすがはヒロシマ、ナガサキに耐えて立ち直った人たちだ」であり、『おしん』と『一休さん』に世界が感動した日本人の高い道徳律の通りの生き方、これがアジアの誇りだと、世界中で多くの人が戦後の日本を見て思って来た。

たとえばアフガニスタンでも最も信頼された外国人は、ペシャワール会の日本人だった。

欧米人がイスラム武装ゲリラに殺されるのはある程度「やむを得ない」と実は多くのアフガン人は思っている。それだけの欧米植民地主義のもたらした、積年の恨みと言うものがある。だがペシャワール会の伊藤和也さんが殺されてしまったのは、皆が「とんでもない誤りだ」と嘆いた。

イラクで人質になった高遠さんたちが解放されたのだって、日本人を誘拐したり殺したりすることがほとんどのアラブ人にとって「間違い」だからだ。

だがこうして第三世界に認められて来た、中国人や韓国人も尊敬して来た立派な日本人の態度や業績は、私たちの「国民の共通体験」になっていない。むしろほとんどの日本人が知りもせず、意識もしないことだ

現地で働く人たちですら、現場で地元の人と汗を流し、その声を尊重しなければ仕事が成り立たなかったわけではない、経営畑であるとかの面々は、むしろ名誉白人扱いに耽溺して来た。近代の日本人は非白人の国々や諸民族から憧れと敬意をもたれることよりも、白人の一の子分の名誉白人として認めてもらうことを望んで来たかのようだ。

1964年の東京オリンピックを成功させ、世界に冠たる経済大国に、それも戦争や武力に頼ることなく成長した(まあ朝鮮戦争とベトナム戦争の軍需でえらく儲けたにせよ)ことで、もはや日本を、たとえ「黄色人種」であっても「子分」でなく対等の先進国として、欧米だって認めるしかなくなったのもだいぶ前のことなのだが。

ところが、それどころか世界有数の経済大国でありながら、経済外交政策でその大国の責任をぜんぜんまっとうしない対米追従で幻滅と失望を、言いなりになっているつもりの当の米国からさえ買っているのが今の日本だ。

ましてG20会議を首相がサボってオリピック招致とか、普通に呆れられますよ。

だいたい明治以降、日の丸を国旗にして以来、日本という国それ自体が、実は「日本」という国や民族ではなくなってしまっている。その急遽でっち上げられた日の丸を国の象徴とし、そこに固執すればするほど、我々は本来の「日本人であること」からかけ離れて行くしかない。

なにしろこの日の丸というやつが、民族アイデンティティの拠り所としてあまりに頼りない。

しょせんは明治の急ごしらえ、そこになんの歴史も民族の思いも込められていない、あっぱれなまでに空虚なる記号なのだからどうしようもない。だいたいが西洋には国旗というものがあるらしい、なら日本にも必要だ、というだけで慌てて決められた国家表象に過ぎず、実はなにも表象していない

明治維新の新国家樹立が、天皇親政の王政復古政府として正当化されるのであれば、なぜその天皇家の紋である菊を国旗にしなかったのか、さっぱり理解出来ない。

自然神信仰の系譜につらなる祭祀王の家系の古来の家紋なんて、いかにもアジアっぽくてかっこ悪いと思い込んじゃったのだろうか、明治の日本は?

いや君主国の場合その王朝の紋章を国旗にするか、国旗に組み込むって、けっこうヨーロッパでは基本なんですけど? 
フランス革命以前のフランス王国の国旗は、白地に金の百合、ブルボン王家の家紋ですよ。革命で採用された三色旗だって、真ん中の白は本来ブルボン王家の色です。イタリアの三色旗の真ん中が白いのも、ナポリ=シチリア王国がブルボン家の王朝だったから。英国国旗は、英連邦を構成する複数の旧王国の、そのそれぞれの王朝の家紋の組み合わせだ。 
明治の元勲達は、勉強不足と、劣等民族のアジア人というコンプレックスに、焦っちゃったのだろうか?

まあ別に日の丸自体に罪があるわけではなく、古来日の丸は太陽を表すオメデタイ記号として、見栄えもいいので重宝はされて来た文様である。

だが天皇家の祖先神が天照大神で太陽神だから日の丸が、なんて後付けのコジツケはまるで無意味だ。天照大神や、自然神信仰の日本人にとっての漠然と最重要な道徳的・宗教的権威である「お天道様」を表すのは、伝統的にと決まっている

逆に「なにかを映すもの」であってそれ自体に視覚的実質のない「鏡」でなければ、それほどの倫理的最高権威は表し得ないのが日本のカミ信仰の叡智の伝統なのだ。

自分自身を映し出す鏡だからこそ、「お天道様が見ている」という定番のお説教は、哲学的・倫理的に意味をなすのである。平たく言えば鏡に映った自分の姿を見て恥ずかしくないのですか、ということだ。

日本人とはこのように、世界の他の民族が組織宗教の前にとっとと放棄してしまった自然神信仰を守り抜き、それを高度に洗練された哲学にまで進化させた点で、世界に希有な民族なのである。

不完全な人間とは根本的に別次元にあるはずの、最も高度な正義や論理を視覚的に表象することは哲学的に不可能である、そのことを成文化したのはユダヤ人だが(故に神は表象不可能であり、偶像崇拝は禁止)、それを理屈で提示したのはいいが、なにしろそんな神=絶対正義を実感するのが難しい話なのでいろいろ悩んだ挙げ句に骨抜きにしてしまったユダヤ=キリスト教文明を尻目に(キリスト教なんて知的レベルの低い邪宗だからこの禁忌を完全に冒涜して、神はピンクの衣に白髪の老人になっちゃったし)、鏡を持ち出すことで身体的・感覚的に「見えざる最高権威」を納得させる天才的な発想は、日本のものなのである。

その洗練されまくった思想の根幹である鏡と言う象徴を、ロクに民族の歴史を勉強もせずに安易に放棄しちゃダメでしょう?

「いや日の丸は」と叫ぶ人たちは、よほど日本の歴史を知らないらしい。

たとえば源平合戦の屋島の戦いで有名な弓の名手・那須与一に、平家側が腕試しの標的として提示したのが、日の丸の扇だ。じゃあ平家物語の国民的英雄は、畏れ多くもそんな日本の象徴であり天皇の祖先神に矢を命中させたのかよ?バッカじゃなかろうか、っていう話である。

うっかり間違って「日の丸」を国旗とし、このただの形式でしかない、本来ならオメデタイだけの空虚な記号にばかり固執してしまった結果、日本という国と日本人という民族は、自らの手で自分達自身の歴史的な過去と断絶してしまった。

それも元はと言えば慌てて決めただけ、西洋の慣習に勘違いして迎合しただけの「国家象徴」である。まあデザイン性のインパクトはあるとはいえ、こんなもんをフェティッシュにしてこだわる方がおかしい

いや今も「日の丸」にこだわる人たちは、単に日教組が学校現場での日の丸君が代使用に反対したから、どうも近隣諸国が反発するらしいから、というだけで「日の丸」を掲げたがり、サッカーの試合でも自国チームの応援そっちのけで海軍旗まで振り回すらしい。 
その実他者に意識を支配されているだけの、自分がない輩の幼稚なリアクションとしてのイヤガラセ、幼児の反抗期並みの行動原理でしかないわけで、そこまでして韓国相手に「言うこと聞かないぞ」と叫びたい、自分たちが優位なのだと言い張りたいのだろうか? 
まったく馬鹿げている。


日の丸が意味論的にまったくの空虚であることの呪いとして、その表象する日本という国家もまた意味論的に空虚なものでしかなくなってしまった

歴史を喪失した国家=空虚しか見えていないのが、そんな悲惨な「彼ら」、現代の日本人なのだ。だから我々の国家は、過去の自分達やその祖父母、曾祖父母レベルの誤りすら受け入れられないほどに、脆弱な拠り所でしかない。

自分たちが実は何者なのか、そのアイデンティティになにも確たるものがないから、自我がちゃんと持てないままに、他者との比較に必死で固執する。つまりは差蔑するべくして差蔑している、差蔑しなくては生きていけない脆弱さの病理である。

たとえば震災や原発事故で我々に見せつけられた、福島浜通りや、東北の被災地の強さとは、自分達が生活して来た大地という確たるアイデンティティがあったからこそのものだった

震災と言う悲劇に直面した彼らが、テレビを通してそれを報道している「東京のエリート」であるはずの人たちのタガの外れた無様さや、東京中心の中央集権に組み込まれた政治家や地方自治体の情けなさを見て、やはりエリートだったはずの東京電力のていたらくにまで直面すれば、その悲惨と較べて自分達の「田舎」がどれだけ人間的に価値のあるものかは、多くの被災者にとって歴然たるものになる。 
自分達がそこに貢献するために原発を受け入れたはずの、近代日本の発展とはなんだったのかに対する、巨大な疑念も含めて。


しかしほとんどの日本人には、その自分が依って立つ拠り所、踏みしめる大地がない。地方ですら、その大地という確たるアイデンティティを棄てて東京に憧れるよう仕向けたのが、近現代の中央集権の日本国家だ。

そしてその東京とは、アイデンティティの確たるものを失いながら、かと言って近代的な自我を獲得出来たわけでもない、さまよえる者たちの浮ついた都市に、いつのまにか変貌してしまった。




僕にとって東京はおもしろい都市だ。

先日も近所のお寺の墓地で享保とか享和年号の墓石を見つけて、「へえ、この辺りは江戸というより、下屋敷が建ってたりした、江戸のはずれのギリギリだよねえ」とかおもしろがっていたわけだが(ちなみに今の箱根山公園と早稲田大学理工学部は、旧尾張藩下屋敷で、箱根山はその築山)、ほとんどの人は実は「江戸=東京はおもしろい」だなんて、思ったこともないのではないか?




まだ高度成長時代までは、東京は仕事の場であり学問の場として、確固たる地位を持っていたが、その意味もバブルと共にあぶくとなって消えてしまった。

そんな東京と言う空虚を中心とする中央集権国家としてしか日本を見られないのなら、行き着く果ては空虚な表象である日の丸にこだわることしかない。

その東京とは本来なら、その昔は江戸であった都市であり、明治維新、関東大震災、戦争、さらには高度成長と、何度も自分自身を更新し再生して来たダイナミックな都市だった。

その歴史の地層がそこかしこに実は見えるのが面白いのだが、何度も都市が自らを更新する、その地層の最新部分にいる者は、継続ではなく断絶によってしかその地層の下の過去に繋がり、しっかと立つことが出来ないのが、現代の東京である。

新大久保がいわば東京のリトル・ソウルのコリアタウンと化したのだって、江戸幕府の鉄砲百人隊(百人町という地名の由来)の居住地として江戸の外縁部に置かれ、鉄砲百人隊という集団の特殊性-ただの下級武士ではなく、鉄と火薬を扱うことが許されるなにか「特別」なものを背負った存在-がねじ曲がったのか、一時はどうにも学生街の高田馬場と繁華街で商業中心の新宿を結ぶ微妙な緩衝地帯に成り下がってしまい、フィリピン人娼婦が街角に立つ町に地盤沈下してしまった20年前を克服した、更新と再生を繰り返す東京という都市の新たな地層である(そしてこの土地にエキゾチックな「異なる他者」の町が出来るのも、実は歴史的な必然と言える)。
なぜそのおもしろさを受け入れられないのだろう?こういうことこそが江戸であり、東京なのに。

こうした他者性の積み重なりと多様性が自分のアイデンティティの一部だと悟れば、過去を学びながらそれを自由に自分で使いこなせる場所に、東京はなる。

しかしその東京の、断絶によってこそ過去や歴史や他者と繋がっている自由さこそが、地層の一番上にいながらその何度もの断絶と更新の上に立っていることに気づけない人には、耐えられないものなのかも知れない。

自らの「自我」が「他者」との関わりによってこそ位置づけられるものであり、それは単に同時進行の空間的なものだけではなく、歴史的・時間的な他者との関わりによってなされること、人間の自我とは決してただ孤立して自分自身なのではない、ということに気づけなければ、フラフラとさまようしかない。

人間が社会的な生物であり学習して変化し続ける生物である以上、時間的な継続としての歴史感覚がなければ、人間は自我を持てない。

近代が人類に与えた自由と引き換えに他者化した過去との折り合いをつけることを怠り、学ぶ作業を怠る者、たとえばこの東京をおもしろがれない者には、「日の丸」くらいしか拠り所がなくなる。



日本人が東京を首都とし、その地下水脈である江戸と断絶した時、日本人は自らがそこから断絶された過去に、自分の意志で繋がることでしか歴史的・民族的アイデンティティを持つことはできなくなった。

寺田寅彦が関東大震災お被害を検証して気づいたように、江戸と言う知恵の宝庫を無視して西洋風の近代化に邁進した結果、天災に鍛えられた独自の強さを持った民族ではなく、天災にパニックになる脆弱な民族に、我々はどんどん退行している。

自分たちが日本人であるという確固とそこに立つ居場所がないから、空虚な日の丸にしがみつき、借り物の理屈の薄っぺらさと共にそれを振り回す-子どもじみた自己正当化のために、つまりは依存出来て承認してくれる保護者を日の丸に求めて(ただの旗なのに)。

つまりは自分からの逃走であり、自由からの逃走だ。

そんな彼らが日本人という意識を持ち続けるためには、朝鮮民族を差蔑するしかないのだ。

そして同時に、差蔑しているという罪を必死で隠蔽しなければ、今度は自己正当化が保てない

この現代日本人の最大の悲惨のひとつとは、自立した自己が不完全な人間であるからこそ誤りを犯す権利もまた持っている、誤りや失敗から学び克服することにこそ生きると言うことの権利があるのだとすら、まるで認識出来なくなっていることでもある。

悩み迷いながらも自らの正誤の判断を最終的には自らの意志で行うこと-お天道様の象徴が鏡であるというのは、まさにそういうことだ-の権利それ自体を、我々の日本の現代は見失っている。

だから批判を必死で忌避するために既存の価値に薄っぺらに迎合するか、自分が社会的生物であることを忘れて開き直ることしか出来ないのが、大半の現代日本人なのだ。

自らの存在に不可分である社会性を拒絶して反社会に徹するならそれもひとつの立派な選択だ。ただし、ならば自分が拒絶した社会からの承認なんて求めるのはおかしい。 
引きこもるなら徹底して引きこもる、自らの存在を社会的な「悪」と規定し殺人でも犯すならまだいい。拒絶するフリをして社会に甘えているだけの「被差別者ごっこ」もまた蔓延している。 
実際に差蔑を受け続けて自我の確立が阻害されている者ならば、まだ「しょうがない」と温かく見守るしかないだろうが、挙げ句に日本人が朝鮮民族を差蔑して来たことを批判されれば「逆差別だ」と叫びだす倒錯まで出て来るのだからもう…。

いや、まだ一般の庶民は、また違うのだろう。

だが少なくとも自分は意識が高いとか、社会的・政治的な発言をしたり社会参加したがる人間のほとんどが、皆こんな調子なのだし、その倒錯した理屈に迎合しなければ、「意識が高い」お仲間に入れてもらえなくなる。

だから自分の主張の正当性の拠り所が、行き着く果ては「みんながそう言っているから」しかなくなる。「誰にも自分たちを批判させないこと」でしか自己正当化が保てない。

いやはや、これほど支配されるマイノリティの立場に自ら進んで落ちぶれて行くマジョリティというのもない。

もはや「お天道様」が参照となるのではなく、自ら所属するマジョリティに対してマイノリティとして隷属してつき合うことでしか、自分の居場所を担保出来ないのだ。

まあしょうがない、なにしろ140年前より以前の歴史から、国民と民族の総体が断絶されているのだから。その140年にしか、アイデンティティを置くことが出来ないのであれば、根本的に根なし草にしかなれず、しかし根なし草であることも受け入れられない。

この断絶に気づかず、自分の意志でそれを取り戻そうともせず、ただ日本人なら日本人という所属集団のなかで「みんながそう言っているから」の幻想にしがみつく、その集団に所属する自分を再確認するためには、「日本」ならその日本についての自分たちの内輪でしか通用しない現状認識を脅かす真実を握った他者、その近代日本に差蔑され続け虐げられた朝鮮民族を、本能的に恐れ、恐れるが故に蔑視するしかなくなるのだろう。


新大久保のコリアタウンに右翼が街宣を仕掛けるのは以前からあったことだが、インターネットが主な活動の場であるらしい右翼もどきがそこで反韓デモなる、まあはっきり言ってただの営業妨害と脅迫イヤガラセの犯罪行為をネット上で呼びかける愚かさ丸出しで騒ぎ始め、どうもやはりネット上にしか自分たちの「意識の高さ」だかを自己主張出来ないらしい人々が呼応して、ちょっとした騒ぎになっていることは、以前にもこのブログで触れた

その反対の運動を国会議員が主導するようにまでなり、どこから資金が出たのか映画か演劇の宣材ばりのグロス紙のチラシまで作って「差別撤廃東京大行進」なるイベントにまで発展し(こりゃ官製運動じゃないの、と疑っても当然ではある)、当日のNHKの7時のニュースをはじめ各報道機関もようやくとり上げたのだが(いやだから新大久保や鶴橋に犯罪行為でしかないイヤガラセがあること、日韓外相会談でまで話題になったことを、なんで報道しなかったのよ?やっぱりこのデモも含めて官製運動の出来レースじゃん)、その報道内容にはひっくり返った。

「在日韓国朝鮮人」の「ざ」の字も、日韓対立の現時点での最大の問題である「従軍慰安婦問題」の「い」の字もなく、在日コリアンには北の共和国つまり総聯系もいることすら無視、そっちの方面では今最大の問題である朝鮮学校を高校無償化政策から外すことにも一切触れない(この除外には、国連人権委員会から何度も人種差別だとの指摘が出ているのだが)。

気がつけば日本社会における差別の問題ではなく、日韓関係報道の扱いになっている。

あれ?

差蔑に反対するデモを報道してるんじゃなかったの?

「差別に反対するデモ」を報じているはずが、在日コリアン差蔑には一切触れずに、あたかも日韓関係の悪化が、「反韓デモ」と称する差蔑いやがらせの原因であるかのように報じ、その例として出されるのが竹島(独島)をめぐる領有権主張の対立や、先にも述べた水産物禁輸処置だ。

「いや元々は韓国のせいなんだけど」と言わんばかり

まるで韓国が悪いから日本人の一部が怒った、でもやさしい日本人が日本にいる韓国人をいじめるのは度が過ぎているから起ち上がった。韓国は良くない国だが、お隣なんだし日本は寛大に仲良くしてあげましょう、差蔑はいけませんと言うことは、これからオリンピックを開催する日本はちゃんと分かっているんです、と言わんばかりの、自画自賛のフィクション構図の捏造でしかなく、根源的に差蔑的だ。

ちなみにNHKが併せて報道した、日比谷公園の日韓交流おまつりには、高円宮妃と安倍首相夫人が開会式に出席し、この昭恵さんを韓国外交通商省が「好ましい努力」と、亭主のやってる反韓国ナショナリズムをあえて無視したイヤミたっぷりの賞賛までやっている。 
大人だなぁ韓国政府…。イヤ日本が子どもっぽ過ぎるだけか。

もっともこれはNHKや各新聞だけを責めていいものではない。

当の「差別撤廃東京大行進」なるイベントを主催したり参加している側が、まったく同じ意識であり、参加する在日コリアンにまでそういう態度、つまりは「(韓国と北朝鮮はけしからんが)差別はいけない」と主張する自分たちに同調するどころか感謝することまで、強要しているのだから。

なんでも挨拶に立った在日コリアン二世の女性が、「この日のために日本に生まれた」だのと言ったとか言わないとか、「結婚」に喩えたそうである。

結婚?まるで日韓併合の悪夢の再来ではないか!

いやだから韓国も北朝鮮も別の国、朝鮮民族は日本人とは別民族、在日は身近な他者として日本民族と共存しているのであって「結婚」なんてしてまで同化せんでいいから。

しかもそれを在日の女性に言わせるに至っては、差別反対どころか男尊女卑じゃんか

また先頭に立った国会議員が共産党の小池晃氏、つまり差蔑の問題に関しては、菅政権当時に復興大臣になった解同系の松本氏を「同和出身の地金が見えた」などと、被差別部落問題に関してはどの政党も足下に及ばないほどの差別者っぷり丸出し共産党にえらく忠実な差蔑発言を公言してしまったお方と、拉致問題を口実にした反朝鮮総聯差蔑プロパガンダ報道でもご活躍なさった過去もある、ジャーナリストの有田芳生氏である。

いや自分たちの過去をちゃんと反省して「人種差別撤廃条約の履行」を政府に求めるのなら頑張って下さい、なのであるが、我がニッポンの国会議員サマはこんな調子だ。
いやだから「差別される人たちの多くはこの日本で声も出さずにじっと堪えてきたんだろう」じゃないでしょう?


彼らに黙るよう、じっと堪えるように強いて来たのは誰なのか? 
なぜたかがこの程度のパレードで涙を流すほどまでに、その人たちは虐げられて来たのか? 
それは誰がやって来たことなのか? 

それを無視してまるで他人事である。

こんなことで、私たちの社会になおべったり刷り込まれた差別を「撤廃」なんて出来るのか?

拉致問題は確かに大きな問題とはいえ、あなた方が節操もなくそれを朝鮮総聯や朝鮮学校に結びつけるかのような報道をする度に、在日朝鮮人がどれだけ戦々恐々の思いをし、「やめてくれ」とも言えず黙るしかなかったのか、考えたことはないのだろうか?


拉致被害者家族・蓮池透さんの談話
「拉致問題を解決するには、日本はまず過去の戦争責任と向き合わなければならないはず」

有田氏のような、自分たちの主体的な行いからの責任逃れと隠蔽したい欲望が度を越して、「自分たち日本人が主体としてやって来たこと」すら、他人事のように思い込んでしまっている、ここまで近現代の日本という国家自体が我々日本人の意識において空虚でしかあり得ないことが、日本人が朝鮮民族差別をやめられない本当の理由なのだ

だから彼らは、たかが0.5%の少数民族である在日コリアンに実はこんなにも怯えて直視出来ないでいる、ほとんどカミ的な作用を持っている被差蔑者を恐れているのだ。

そう、朝鮮人とはそんな日本人たちにとって、怯えるからこそ蔑視することで封じこめようとする怨霊でしかない。

朝鮮人を日本から排斥しようとする者達も、排斥する者を叩くポーズによって「‪仲良くしようぜ‬」と懐柔しようとする者達も、蔑視すると同時に怯えている。いや怯えているからこそ差蔑することで、必死に「自分達の方が上」だと思いたいのだ。

その実、朝鮮人とは日本人からみて、まるで怨霊なのである。


  • 怨霊としての朝鮮人の正体とは、言うまでもなく征韓論に始まり、日清戦争によって朝鮮半島進出に実際の足がかりを得て、日露戦争によって事実上の保護国とし、李氏朝鮮が日本とロシアの勢力バランスのあいまになんとか自国の立場を確保しようとするのを露骨な暴力の行使による脅迫で阻み、暴力と脅迫で日韓併合の合意を飲ませた植民地侵略である。 
  • 1911年から1945年の植民地支配の大失敗であり、そのあいだ一貫して朝鮮民族を差蔑し、搾取し、慰安婦や徴用、強制的な労働契約で酷使し虐待すらしたこと。 
  • 1923年の関東大震災では日本人の暴徒が朝鮮人を虐殺すらしたこと 
  • 第二次大戦では多くの朝鮮人を日本兵として死なせたこと。さらにその当然の恩給、遺族年金などの支払いを踏み倒して来たこと。 


いや、 現代の日本が逃げ続けている「不都合な真実」は、なにも戦前だけではない。


  • 朝鮮半島の戦後は、日本軍の敗走から始まる。 
  • 半島を守るどころか日本民間人を取り残して逃げた帝国陸軍、この惨めな史実もまた、今の日本は直視出来ないで逃げ続けるだけだが、その日本軍の敗走で半島は分断国家となり、日本の戦後復興を支えた朝鮮戦争により焦土と化した(今のソウル市に歴史的建造物が少ないのは、朝鮮戦争で破壊されたからである)。 
  •   在日韓国・朝鮮人に対する一貫して差別的な政策、法制度や社会制度。
  • 韓国の民主化でようやく元慰安婦の人々が声を上げると、その訴えの正否の事実認定すら拒絶して来た日本の司法。


 「裁判で真実を明らかにする」という慣用句はどこかに消えてしまったまま、明らかに不平等で不道徳な借金・給料踏み倒しの約束をタテに敗訴にしたうえ、金儲けだの、敗訴したんだから嘘つきだのと、罵声を浴びせる-日本側が事実かどうかすら調べようとしていない。

荒ぶる神、怨霊とみなす朝鮮人を目覚めさせてはならない。その怨霊が握る真実は、隠し続けなければならないのだから。

なにしろ司法が「真実を明らかにする」ことを封じこめているのだから、ミもフタもなく分かり易い構図だ。

真実を握る虐げられた者、死者たちの怨霊に怯える-ベタに日本の怪談ものの物語構造なのである。

我々は田宮伊衛右門と悪行仲間達がお岩の亡霊を恐れるように、あるいは播州池田藩が井戸に放り込まれて殺されたお菊の、皿を数える声に怯えるのと同様に、朝鮮民族に怯え、恐れるからこそ差別して黙らせようとしているのだ。

鶴屋南北作『東海道四谷怪談』の映画化、『怪談 お岩の亡霊』監督 加藤泰

ちなみにここに泰西ホラーと日本の怪談ものの決定的な違いがある。幽霊や化け物は「悪」ではない。人間の「悪」が見過ごした正義であるべきもの、虐げられたものの復讐であり、物語の理は人間の側ではなく、荒ぶる神と化した怨霊、化け物たちの側にある。

朝鮮人を過去の真実を握る怨霊として怯え蔑視している、その怯えと蔑視によってこそ自分達が日本人なのだと確認している点において、排斥のポーズをとる者も「‪仲良くしようぜ‬」と言う者たちも、実は大差がない

怨霊としてしか見ていない朝鮮人を、それが怨霊の本性を見せない限りはちやほやする、やさしくする、つまりは「仲良くしようぜ」を装うのは、怨霊が暴走することを恐怖しているだけだ。

だから彼らはその朝鮮人=怨霊の本性を呼び起こしそうな日本人を、徹底的に攻撃する。

同じ怨霊への怯えを共有するが、恐れが行き過ぎて露骨に「悪魔払い」を始める暴力的な排外主義は潰さなければならない。

挑発された怨霊の、その怒りの発露が怖いから。

一方で歴史を喚起して朝鮮人を目覚めさせようとする「左翼」はもっと黙らせなければならない。そうした「反日左翼」が歴史の事実によって朝鮮人を目覚めさせてしまえば、彼ら日本人にとって荒ぶる神、怨霊になるだろう。

幼稚な‪排外主義者たちが‬暴言で朝鮮人を怒らせて怨霊を目覚めさせること以上に、それは彼らにとって耐え難い恐怖なのだ。だから彼らは「左翼」については叩くだけでなく、朝鮮人から切り離させるため、子分に出来そうな朝鮮人の囲い込みにも執心する。



左派、右派の図式でまるで割り切れないのは、これが政治の問題でも、歴史の政治的解釈をめぐる問題でもなく、宗教の問題であり、儀式の作法である自律と謙譲を見失った者達による必死の魂鎮めの儀式だからだ。

怯えの暴走、怨霊ないし荒ぶる神としての朝鮮人を排斥し攻撃することにあの人々が抗するのは、それが「ヘイトスピーチ」だからではなく、そこまで刺激してしまっては朝鮮人が「怒る」、つまり荒ぶる神が怨霊の本性を曝け出すことをこそ彼らが畏れているからなのだ。

これでは反差蔑でもなんでもない。儀礼の品位を失った祭りである。

政治(まつりごと)ではなく、哲学や節度を見失い儀礼としての文化の形を喪失した野蛮な呪詛の祭礼(おまつりさわぎ)なのだ。信仰としての呪詛は特殊な形と特殊なイニシエーションを受けた者なしには成立しないことに気づきもしない知性の欠如した傲慢さを、無自覚に曝け出しながら。



異なるもの、場合によっては被差別者、それこそが実はカミに通じる、これは古代のアニミズムの信仰体系である。

現代日本人は日本人としての過去から断絶させられてしまっているからこそ、かえって信仰として体系化される以前の自然新信仰、アニミズムに本能的に支配されているのだろう。

こと都市の日本人は、アニミズムの本体である自然という他者から隔離され、人間にとっての究極の他者性である「死」が社会の表面から去勢され、死者達の歴史に連なる過去の地層が自分達から断絶されてもなお足下で繋がっていることも忘れ、同質性の集団内に引きこもるよう飼いならされたとき、現代の都会の日本人がカミ的に見ることが出来る他者性を持った対象が、皮肉なことに人口0.5%に過ぎぬ少数民族、朝鮮人なのだ。

人口0.5%に過ぎぬ少数民族である他者、朝鮮人は、しかも日本人にとって怨霊となり荒ぶる神となる条件を十二分に備えている。

日本人が忘れ抑圧している自らのアジア性へのつながりである朝鮮人、そしてなによりも、その朝鮮人を明治以降の日本国家が常に蔑視し、搾取し、支配し、虐待すらした歴史。

これが通常の歴史問題なら、日本という国家は過去に朝鮮人を虐待した歴史の過ちすらきちんと受け止められる歴史的・文化的な強靭さを持ち得たはずだ。

むしろ本来の日本の文化では、過ちは潔く認めない限り許されることがない。ところが現代の日本人はそれが絶対に出来ないのだろう。

出来ないのも無理はない。

日の丸というあっぱれに空虚な象徴しか持てなくなってしまった空虚な国家としての近代日本は、自らのアジア性を去勢し、天皇のカミ性すら西洋の軍服を着せたご真影で無効化してしまった。バブルに狂奔したこととそれが崩壊したことの幻滅で、世界でも稀な勤勉で努力家な民族というプライドも失った。

そして過去140年間、アジアと西洋のあいだで中途半端にぶら下がっているだけの日本は、あまりにも脆弱に成り下がってしまい、過去を受け止める強さすらもはや持っていない。

現代の過ちを受け止めるだけの歴史と過去の厚み、それを伝統と呼び保守とみなすわけだが、その保守も伝統も、近代日本は(恐らくは田舎を除けば)持ち得ないのだ。そこにあるのはあまりに空虚な記号である日の丸だけ、という無惨なまでにアイデンティティの拠り所のない我々は、だから朝鮮人に怯えることしか出来ない。



だいたい、この日本で保守を名乗ることは滑稽な喜劇でしかなく、その印に日の丸を掲げることはさらに滑稽で陰惨な不条理劇、朝鮮人差蔑に反対するのに日の丸を掲げて保守を名乗るなぞに至っては、滑稽で無惨な悪趣味の自虐でしかあり得ない。 
空虚なる日本の空虚な日の丸は、朝鮮人を差蔑して来た旗でしかないのに、わざわざそれを思い起こさせようと言わんばかりに、なぜか日の丸にこだわる。 
いや「彼ら」は単に、日教組が反対するから、どうも近隣アジア諸国が嫌がるらしいから、みんなで日の丸を振りましょう、と言っているに過ぎないわけだが。 
かと思えば自分たちは決して差蔑される側ではなく、差蔑をやって来た側の同質性にどっぷり浸っているというのに、マーティン・ルーサー・キング牧師の「ワシントン大行進」へのオマージュとか言い出す(嗚呼無惨なり、アメリカかぶれの薄っぺらなポリティカリー・コレクトネスごっこでしかない借り物だ)、それも黒のスーツに黒タイを真似たのだという。 
こういうのこそ日本的な伝統でいえば、お天道様の象徴である鏡を突きつけられるべき局面だ。そこに映る自分たちの姿を見れば、すべてがもの凄く悲惨で出口のない、節度にかけた倒錯の祭りでしかない 
いやお天道様を持ち出すまでもなく、その珍妙な自分たちの真の姿を映し出す鏡として作用する他者が、目の前の在日コリアンや韓国人という姿で、そこにいるはずであることすら気づかない。

日本人にとっての朝鮮人とは、この自身の軽薄過ぎる醜悪さを映し出す鏡となり、その無惨な近代史を体現する怨霊となる。

そして惨めな醜悪さを我々が積み重ねれば積み重ねるほど、当然ながら怨霊の持つ真実の力は増大する。

怨霊を恐れ呪詛と鎮撫を求めるのは確かに日本人本来の文化的DNAだろう。だがあくまで祭礼・儀礼なのだから、それなりの作法と文化的な振る舞い、節度と精神性がなければみっともなさ過ぎる。

まして神事に不可欠な形代を持ち出すのでもなく、新大久保や鶴橋で直接の暴力沙汰に罵詈雑言のお祭り騒ぎに耽溺するとは、あまりに節度と矜持に欠けた振る舞いであるだけではない。

そもそも、そのお祭りで暴れる資格なぞ、文化伝統から言って普通のマジョリティ日本人にはない-同質化幻想に耽溺するだけでは「異なる者」の荒ぶる神の側には居ないし、言うまでもなく平等を求めてワシントンに向かった60年代の黒人たちの側にも居ないのだから。

ただの馬鹿げた自己撞着の倒錯である

なぜなら現実の朝鮮民族も、新大久保や鶴橋の韓国人も在日コリアンも、怨霊なぞではなく人間であり、彼らは日本の負の歴史を体現するために我々の前にいるわけでもなく、その一方で我々日本人には十分にその負の歴史を政治として受け止める力があることすら、彼らがまるで忘れているからだ。

朝鮮人は明治以降140年我々日本人が差別し搾取して来た歴史の怨念の固まりではない。

近代史の荒波に巻き込まれた過去を踏まえながら、自分達の民族と国家のアイデンティティ意識を取り戻すべく努力し、民主化以降、とりわけ金大中政権以降、急速にかなり成功しているのが今の韓国だ。

彼らは怨霊ではなく、同じ人間として、ただ事実を認め謝って欲しい、お互いが過去を乗り越えるために必須の、しかるべき反省を求めているだけだ。そこに我々が怯えるべきものなど、一切ない。

我々の日本もまた、日の丸という空虚な記号に象徴されるだけの空虚ではない。

世界に冠たる豊かな文化を持った国のはずだ。たかが140年の歴史しかない「日の丸」という国旗が、その起源をたどれば少なくとも古墳時代には遡れる日本を象徴なんて出来るわけがない。

「日の丸」によって空虚さに貶められた日本の本来、その大地、その歴史、その優れてユニークで豊かな文化を我々が思い出し、日本人であることのアイデンティティを回復しさえすれば、朝鮮人と言う怨霊に怯えるからこそ蔑視することが日本人であるという誤った思い込みから解放されることは、簡単なはずだ。

「日の丸」によって空虚さに貶められた日本ではない、本来の大地や歴史、ユニークで豊かな知性と官能・享楽性を融合させた文化、その規範をバネにして世界中のどの国よりも早く近代化を成し遂げたことを思い出し、日本人であることのアイデンティティを回復しさえすれば、その過去の幾度かの過ちを認めることは難しくはないはずだ。

だいたい、しのごのといいわけに走って駄々をこねるのははしたない、真っ先に自分から「ごめんなさい」を言うことが、日本の伝統倫理のはずじゃないか。

だが自分を喪失している今の日本は、それが出来ない



そんな自己を喪失した、他との比較によってしかアイデンティティを担保出来ない現代の日本人だから、朝鮮半島侵略と朝鮮民族差蔑の歴史の過ちを拒絶するためにも、ますます朝鮮人を差蔑することの差異化に立ち位置を求めてしまい、ますますその差蔑性を指摘されることに怯えるという、堂々回りのがんじがらめに陥る。

日本人にとっての朝鮮人は、ますます怨霊だからこそ忌避し差蔑し、なんとか黙らせようとする対象になる。

だが実は、怨霊としての朝鮮人に怯えるからこそ差蔑している日本を、彼らだってどこかでは自覚しているのだから、その差蔑を続けることでますます怨霊の力は増すことになる、つまり「お前達は差蔑を続ける邪悪なレイシスト民族だ」と言われることをますます恐れ続け、どんどん怯えに苛まれたヒステリーに落ち込んで行く。

だからこそ「‪反韓デモ‬」 と、それに反対すると称する人々の共謀による、歪んだ、節度のない、倒錯した野蛮な祭は、新大久保では本質的に浮いてしまうに決まっている。




なぜなら、そこにはその双方が共通して怯え、だからこそ封じこめたい「怨霊としての朝鮮人」なぞいないのだから。

いるのは隣国から来た、あるいは日本で生まれ育った異民族、歴史的にずっと我々の身近な隣人であった民族の、チャーミングな人間たちであり、その身近な他者性を素直に楽しむフツーの日本人たちなのだから。




本来の日本の文化では「他者」であることそれ自体が「チャーミング」であり、真実を支配し、神聖さにもつながるものなので。だから韓流イケメンに日本女性がキャーキャー言いつつ韓国料理に舌鼓を打つのは、元来は享楽的な日本人の文化的DNAからして、まっとうなことでもある。

少なくとも食欲と、イイ男にキャーキャーいいたい欲望に忠実であることは、必死になって朝鮮民族を差別したがる歪んだ欲望や、「反差蔑」を口先だけ叫んで正義の味方ぶりたい欲望よりも、遥かに健全だ。