最新作『無人地帯 No Man's Zone』(2012)
〜福島第一原発事故、失われゆく風景、そこに生きて来た人々〜
第62回ベルリン国際映画祭フォーラム部門正式出品作品

12/05/2017

「本能寺の変」は起こって当然でミステリーでもなんでもない


前回エントリーに続き、前代未聞な大河ドラマの、というか戦国時代時代劇の革命『おんな城主直虎』がらみの話。

記録上、このドラマでは井伊直虎を名乗った説をとっている法名・祐圓尼、次郎法師とも名乗っていたらしい井伊家直系の尼僧は(ややこしくて恐縮だが断片的にしか分からない史実をつなぎ合わせると言えるのはここまで)本能寺の変の約2ヶ月後に亡くなっている。

と言うことは、ドラマのほぼ最終回で本能寺の変が起こって、堺にいた家康一行が「伊賀越え」を敢行し、井伊万千代が元服して井伊直政となり、直虎は井伊家の将来を託して安心して生涯を閉じるところで大団円…という普通に期待されそうな展開には、どうも絶対になりそうにない。

というのもまずヒロインの直虎がまだまだとても死にそうにないし、今死んでしまっては「戦のない世を見とうございます」、そのためには家康が天下の要に、という彼女がたどり着いた決意には、まだまだ当分が決着がつかない。

それになによりも、この脚本の本能寺の変の解釈では「突然の明智の謀反でびっくり」といった突発的な事件とは、まったくみなしてはないのだ。

むしろひとつの必然として光秀が信長を殺すに至る展開は、とてもではないが家康が伊賀越えを成功させて「ああ良かった」では済みそうにない複雑さで、しかも井伊万千代だけでなく井伊直虎までが、そこに深く関わることになりそうだ。

「あと二回しかないんじゃないの?これどうやって丸く収めるんだ?」と余計な心配はともかく、この本能寺の変の大胆な解釈は、史実上の具体的な根拠があるわけではないが、にも関わらずこの事件の歴史的な本質をしっかり踏まえ、井伊家の関わり方の部分はともかく全体的には十分にあり得るリアルで切実な話になっているのが、これまで小説家やアマチュア歴史家や映画やテレビの脚本家があまた提示して来た様々な俗説とは、一線を画している。

明智光秀像 大阪府・本徳寺蔵

明智光秀が織田信長に突然謀反を起こし殺害したことは、俗に「日本史上最大のミステリー」と言われ、最近では光秀が土岐氏の血統なのでその復興を目指していたといったまことしやかな俗説も唱えられたり、はるかに真面目な話として直接のきっかけと関係がありそうな書状も数年前に発見された。


長宗我部氏の支配する四国に武力で侵攻して滅ぼすのか、臣従をさせるのかをめぐって、その交渉を命じられた光秀は、長宗我部と縁戚関係にもあって、交渉に成功しつつあったのに、信長が平然と反故にして長宗我部を滅ぼそうとしていた。

この路線対立が光秀が謀反を決意するきっかけのひとつだったことは十分にあり得る。だがそれとて、ひとつのきっかけに過ぎないだろう。

これ以前にも、和睦や平和裏の臣従の可能性もあるのに冷酷無比に残虐な戦争を強行するよう(させるよう)になっていたのが当時の信長だった。

比叡山や本願寺派など仏教勢力との対立では虐殺行為さえ繰り返し、この前年には高野山とも対立を深め千数百名の高野聖を虐殺同然に賀茂川の河原で見せしめに処刑までしていた信長が、今度はいよいよ高野山本体も焼き討ちし、四国も武力征圧しようとしていたのだ。

長宗我部との交渉が信長の気まぐれで破綻しつつあったのがきっかけになったとしても、ついに光秀が付き合いきれなくなった最終局面のようなことだろう。

比叡山延暦寺の釈迦堂 信長焼き討ち以前の鎌倉時代にさかのぼる数少ない建築

実を言えば本能寺の変はミステリーでもなんでもない。光秀が信長を討たなければ、他の誰がやってもおかしくはなかったのだから「なぜ?」も謎もなにもないのだ。

俗説に黒幕説も後を断たないのも、光秀以外の織田家臣団の誰でも、当時の徳川のような同盟と言いつつ事実上の属国でも、機会さえあれば信長を殺すのに十分な動機はあった。

端的に言えば、織田信長をここまで強大な勢力に成長させた家臣団それ自体が、主家が大きくなったぶん、彼らそれぞれも織田家にとって脅威になるほど大きくなっていたことがある。そうやって力を持った家臣は、今度は信長や後継者の息子たちにとってはむしろ邪魔になり得るし、主家に取って替わり得るほどの力を持ち始めているのならばその力を抑制し疲弊させ、極論を言えばチャンスがあれば殺した方がいい。

逆に言えば、家臣達それぞれから見れば、そんな主君に殺されるくらいなら、先手を打って謀反を起こして主君を討った方がいい。

武家の「忠義」という儒教道徳はむしろ江戸時代にこそ推奨され、普及し、武家の骨身にまで刷り込まれたものだ。だいたい儒教それ自体が、中国皇帝が官僚機構で全土を支配するため、つまり安定した政権に合わせた政治・道徳理論だ。 
主君が臣下に所領を与え安堵することとの引き換えに臣下が武功で主君に尽くすという中世の日本の、いわば契約関係と利害の一致する共同体としての大名たちの「家」の現実には、必ずしもそぐわない。 
まして当時は室町幕府の統治秩序が応仁の乱で崩壊した後の、「下克上」が当たり前の戦国時代だ。 


比叡山延暦寺 西塔 釈迦堂 鎌倉時代

本能寺の変が起こった天正10(1582)年に、織田軍は3月に徳川との連合で甲斐の武田勝頼を滅ぼしている。西では羽柴秀吉が中国地方で毛利攻めの真っ最中で、北陸では柴田勝家が上杉と対峙していた。さらに高野山攻略も秒読み段階で、先述の通り信長は(最新発見の一連の書状のやりとりによれば)これから四国攻めも始めようとしていた。

信長がこのように多方面で同時並行で軍事力を行使できたのは、家臣たちがそれだけ有力な、ほとんど大名クラスの武将に成長していたからでもある。

信長は所領を広げるたびにかなり広大な領地を家臣に恩賞として与えてその所領についてはかなりの自由度・独立性の高い統治を許し、またそれぞれの家臣に自分の強力な軍団も組織させていた。

こうした家臣達の競争関係がまた、織田全体にとって大きな活力にもなっていた。

また濃尾平野の平定を出発点にした信長は、畿内を中心に農業生産性も高く特産品も多い土地を押さえて来れた上に、教科書でも習う「楽市・楽座」制のように商業振興にも力を入れ、家臣団も自分の所領でそれに倣ったため、軍事力以上に強大な経済力を織田は持つことができた。

「勇ましい戦国武将」のファンタジーへの憧れで目を曇らされることなく史実を見れば、当時軍事力、戦争が強いことを誇り恐れられた勢力といえば、まず武田だ。織田の強みはむしろ豊かだったこと、財力・経済力だった。 
逆に武田はいかに戦は強くても、気候の厳しい甲斐は農業生産性が低く貧しいままで、また貧しいからこそ領土拡張政策を選び、まずは信濃を手始めに、各地を侵略して勢力を広げて行った。
その「戦国最強」の武田を破ることができた長篠の戦いの信長の斬新な作戦も、この大きな財力があってこそのものだ。 
長篠合戦図屏風 左に鉄砲を全面に出した織田・徳川連合軍
当時の日本で鉄砲はすでに完全に国産化されていて、その保有数は戦国時代末期の時点で当時世界一の十五万丁という試算にも相当に現実味があるが、それでも長篠の合戦の時点であれだけの数の鉄砲をひとつの戦場に集約させ、しかもこちらは硝石を輸入するしかなかった火薬を惜しげなく使えるほど潤沢に揃えるには、相当な資金力と流通ルートの確保が必要だったはずだ。


時代劇や戦国時代マンガや時代小説やゲームではほとんど無視されているが、天下統一にあと一歩までに至った織田の力というのは、信長の強烈な残酷独裁キャラとか、そのキャラ故に戦争が強かったとかではなく、こうした統治機構や政策の先進性で、強い経済と強い家臣団を育てて来れたことが大きい。

信長本人は確かに気まぐれで厳しく、突飛な発想についていくのも大変な、いわば無茶苦茶怖い上司ではあったが、ただ横暴な強権で押さえつけるだけの独裁者だったら、当時の日本でこんなに成功できていたはずがない。

むしろ織田の家臣はそれぞれに大きな自由度を与えられ、そのあいだで競争も激しかったからこそ、信長に忠実にそれぞれに大きな働きをなして、天下統一の一歩手前まで信長を押し上げることができたのだ。

延暦寺釈迦堂 鎌倉時代

だがこうした信長の統治手法は、織田がここまで大きくなってしまったとなると、信長と織田家それ自体にとっては両刃の剣にもなって来る。

それぞれの家臣が力を持ち過ぎれば、信長本人の強力な指導力に従ってくれているあいだはともかく、次の代にでもなればいつ力を持った家臣に取って替わられるかも分からないのだ。

そこで信長は巨大な権勢を見せつけるような安土城の築城と並行して、強力な自分の直属部隊を組織するなどして織田家本体にも力を集約させ、さらに後継世代での権力の安泰を狙って、家臣には難癖をつけたり無茶な軍役を課してその力を削いだり、それでうまく行かなければ激しく叱責したり処罰するような動きを始めていた。

これまで信長に忠実であることで自分も成長できた家臣達にしてみれば、今度は自分がその主君にとって大きくなり過ぎたので潰される危険を考えなければいけない。

そうでなくとも信長の、「天下布武」を標榜するその戦い方や圧力のかけ方、権力の見せつけ方は、はっきり言って当時の日本人の普通の価値観からすれば、よく言えば型破りで中世的なしがらみを打破し先進的、それだけについていくのも大変な、人を人とも思わず、当時であればもっとも気にされたであろう仏罰天罰をまったく意に介していなさそうな、空恐ろしいものでもあった。

天下統一が射程に入って来たとなると、征服する敵がいなくなった信長が今度は誰に矛先を向けるのか、分かったものではない。

またそうなってくれば、征服戦争と支配地域拡大が続くあいだは武功の競争で成立していた家臣団のなかでも、軋轢も当然起こって来る。気に入らない同輩を主君を動かして亡き者にするというのも、当然あり得た展開だろう。

釈迦堂の前の山の上にあるにない堂 江戸時代寛永期の再建
今ある比叡山延暦寺のほとんどの堂舎は徳川家が再興したもの

明智光秀のような織田の有力家臣から見れば、この主君が天下を統一するまではいいが、その先が怖い。

統一されたあとの天下の先行きの将来像がまったく見えない上に、自分の身も危ないかも知れないのは、柴田勝家にせよ丹羽長秀にせよ、羽柴秀吉でさえ、織田の有力家臣にとっては大なり小なり似たような事情だった。

いつ突然自分に謀反の言いがかりがつけられて、処刑されたり暗殺されたり自害が強要されるか、所領の居城で決死の籠城戦になり、召し上げられた所領が信長の息子の誰かに与えられる事態になってもおかしくないし、他の大名が和睦・臣従しそうな時に皆殺しの全面戦闘を命じるのだって、他国に織田の強さ恐ろしさを見せつけることだけが目的ではなく、うがった見方をすれば激しい戦闘で自分達を疲弊させて主家への脅威を減じるのが狙いかも知れない。

つまり誰が信長を殺しても不思議ではなかった。あとは実現可能性、信長を討った後での勝算があったのかの問題でしかない。

信長の墓所 大徳寺塔頭・総見院

小説的なロマンチシズムで見れば、信長の死は天下統一の夢の途中で明智の裏切りに潰えた悲劇にもなろうが、歴史学的に大局を見れば、武力統一までは漕ぎ着けて天皇から征夷大将軍なり関白なり太政大臣の官位を得て大義名分も整えられたとしても、それで「天下布武」「天下統一」が実現したとは限らない。

むしろそれだけでは「戦国時代」は終わらなかった。歴史や政治というのは、ゲーム的な戦争の勝ち負けでは済まない。

今年の大河ドラマが革命的なのは、詳細がまったく分からない主人公なのでストーリーの主筋がフィクションだからこそ、そのフィクションを構築するために当時の社会のあり方や価値観、歴史の流れを徹底的に踏まえ、絵空事的な英雄譚としての戦国時代を見せるのではなく、時代背景とその社会のあり方をリアルに浮かび上がらせようとしているところだ。

そうして見えて来る「戦国時代」の全体像は、家康が直虎に「わしはこの世が嫌いだ」「誰がこんな世にしてしまったのか」と言うように、そうとうに嫌なものである。

だからと言って家康は、この時点ではまだ「だから自分がこんな戦国の世を終わらせるのだ」とは考えていない。 
後代の、結果を知っている偏向史観ではなく家康のそれまでの人生を辿って当時の立場を考えてみれば、天下統一などとこの時点の彼が思いついたはずが…というより、思いつけたはずがない。

既に直虎が、織田の「天下布武」が成功するとは思えない、と台詞で言ってしまっているのは説明し過ぎというかテレビ的だが、そう言われなくとも無理であることが、二つの点で十分に表現されて来ている。

まず直接的な見た目では、つまり誰が見ても分かり易いポイントでは、市川海老蔵演ずる信長をあまりにエキセントリックな魔王・鬼として見せて来たこと(これはスターにしかできない荒唐無稽スレスレの造形で、海老蔵というのはまさにキャスティングの妙)だ。

市川海老蔵の織田信長

だがそれ以上に見事な作劇の妙は、11ヶ月間かけてじっくり「戦国時代」というか中世末期の日本社会の現実のロジックと当時の価値観をできる限り再現してでドラマを構築して来たことだ。それも武家だけでなく農民や商人、僧侶、果ては流浪民まで含めて当時の社会の全階級をほぼ網羅しながら、である。

直接的にはこの直前まで、徳川信康自刃事件をじっくり見せ、そこに小さな井伊家をこれまで何度も襲って来た悲劇を丁寧に重ね合わせてもいたので、今さら説明がなくとも明智光秀(光石研)が今川氏真(尾上松也)に「共に信長を殺しましょうぞ」と言うだけで、いきなり出て来た意外性はあっても、「誰が殺しても当たり前」とすぐ納得できてしまう。

ところで明智光秀は唯一残っている肖像画(上掲)が若い頃の、おっとりした童顔にも見えるものなので、これまでの映画やドラマではかなり誤ったイメージが流布されて来た。実際には本能寺の変の時点で数えで56歳、初老どころか当時ならとっくに隠居していてもおかしくない。

だから『おんな城主直虎』で白髪の老人になっているのは正確だし、まただからこそ本能寺の変を若気の至りの思いつきの突発的謀反であるかのように演出して来た既存の定型には無理があった。

史実の通り思慮深い老人としての明智光秀(光石研)

明智光秀は丹波亀山の城主として善政を強いた有能な人物だったし(ことその河川整備は今でも十分に役に立っている)、思慮深い教養人でもあった。今川氏真と親交があったというのは脚本家のフィクションだろうが、文化人で連歌・和歌にも堪能だったのだから、徳川家に仕えるようになっていた今川の、当時すでに隠居・出家していて京都に遊ぶことも多かったであろう氏真と懇意だったか、少なくとも顔見知りだったのもあり得る。

大枠でいえば『おんな城主直虎』は本能寺について、一応は「徳川家康黒幕説」を取っていることになるが、単純化された陰謀論に陥らないのは、あくまで光秀が主体的に考えて徳川に持ちかけた話にしているところだ。それも明智が信長暗殺計画を今川を通して徳川に持ちかけるのに十分過ぎる理由を、しっかり史実を元にしながら、このドラマではすでにおなじみになったうがった逆転の「実はこうだった」発想で設定している。

本能寺の変が起きたとき、家康は主要な家臣たちとわずかな供のものだけを連れて堺にいたのは、よく考えれば奇妙で異例な事態の不運な偶然だ。家康たちはこの前に信長の招待で安土城を訪れ、これから織田の案内で京都見物も楽しむことになっていた。

織田と徳川の力関係から言えば、接待する側の織田から主要家臣もねぎらいたいと言われれば、こういう体制でしか動けなかっただろう。万が一の身辺の警護も考えて軍勢を引き連れてというのは、信長がこの前にやったように駿河や遠江を訪れるのならその軍勢も含めて接待を要求できるが(というか要求をするまでもないが)、家康がそれをやろうとすれば「織田が守っているのに信用しないのか?さては離反を企んではいないか?」と痛くもない腹を探られるだけだ。

信長は本当に家康たちを接待したかっただけなのかも知れないが、大きくなり過ぎた徳川をこの際厄介払いしてしまおうと考えていてもおかしくはない。殺すことを狙ってわずかな供だけでいいと強要したわけではないが、強要するまでもなく家康には反論が出来ないのだから、どっちにしろ同じことだ。

現在の京都市内の本能寺(その後移転されている)

『おんな城主直虎』はこの信長の家康接待を家康暗殺計画と捉え、それを任された明智光秀が今川氏真を通して徳川に内通し、信長を逆に暗殺する、という仮説を取っている。もちろんそんな根拠は史料にないが、荒唐無稽な陰謀論と片付けられることでもない。

テレビドラマとして普通にうわべだけ見ていても、信長がなにを考えているのか分からない魔神のような人物として演じられているので、今度は家康を殺そうとしていても視聴者は納得するし、この脚本はそれだけで済ましていないところが見事だ。冷徹に利害関係だけを考えれば、信長がそう判断したとしても、それは信長なりの合理的判断でしかない。

織田・徳川連合軍の甲斐攻めが成功した祝いというのなら、ならば家康はこの一連の流れの中で3年前に信長の言いがかりに抗しきれず、嫡男・信康とその母の正室・築山殿の首を差し出しているのだ。

徳川幕府を開いた偉人のあまりに陰惨な過去なのでタブーになり過ぎて、従来はその禍根や影響の大きさすら十分に考慮されずに済まされがちだったが、考えてみればこの事件が織田・徳川双方に残した怨恨の深さ、徳川に残した傷は、とてつもなく大きかったはずだ。

家康が建立した松平(徳川)信康の霊廟 清龍寺

この徳川信康の粛清事件をクロースアップしたのも、『おんな城主直虎』が戦国時代劇として革命的と言えるところだ。最初から、少女時代の築山殿が後の井伊直虎と親戚の幼なじみという重要な登場人物で、井伊家を襲う数々の悲劇ですらこの信康事件の一種の伏線としてドラマが構築されて来た。

だから徳川方も今川氏真も、そして井伊にとってすら、信長を密かに恨み仇とみなす十分な理由があるし、だからこそ徳川が恨んでいてもおかしくないと百も承知の信長が、この禍根を未然に取り除き、関東・小田原の北条を使った両面作戦で三河・遠江・駿河という温暖で発展の可能性も大きい地方を直接手中に収めようとすることにも、なんの不思議もない。

信康事件は直接には信長の気まぐれのように見えながらも、決してそれだけではないように演出されていた。井伊家がかつて当主・直親(三浦春馬)を今川方に暗殺され、後を継いだ信虎にはそれでもその仇を討とうなどと考えることすら出来ない状況だった。ひたすら今川氏真とその祖母(義元の母)寿桂尼(浅丘ルリ子)に恭順の意を示して当主として認められなければならなかった彼女の過去と、信康と築山殿を殺さなければならなかった家や寸の悲劇が、執拗なまでに重ね合わされて来たのだ。

その上で、氏真が明智光秀の信長暗殺計画に乗るのも「瀬名(築山殿)と信康の仇」と言う。

今川氏真(尾上松也)

こうした悲劇が「戦国時代」では当然のロジックでもあったのだと再確認しながら、それを口にする氏真もまた井伊にとっては「直親の仇」でもある。だからこそ直虎は「ゆえに誰が仇かということをわたしは考えないようにしております」と返答する。ここまで「戦国時代」が実際にはどんな時代だったかを見せ続けたことで、信長の暴虐が単に信長個人の「キャラ」の問題ではなくこの時代の権力の論理的な必然であると同時にその限界を示し、だからこそこんな世を終わらせることの意味と、その難しさがテーマとして浮かび上がって来る。

つまりとりあえずは、その「戦国時代ロジック」の究極形である今の信長は排除されなければならない。

ただしそれだけで戦国時代が終わるわけではない。

実際の歴史では織田政権はまず豊臣秀吉に引き継がれ、「戦国時代の終わり」がようやく見えて来るのは本能寺の変の21年後、家康を天皇が征夷大将軍に任命するまで待たなければならない。なお井伊直政は関ヶ原の戦いの最後の最後で重傷を負った傷が元で、この前年に亡くなっている。

じゃあこの大河ドラマはどうやって終わらせるつもりなのか、というのはともかく、晩年の織田信長がかくも冷酷で残虐で横暴だったのは、必ずしも最初からこういう型破りな人物だったわけではない。

狩野永徳 織田信長像 大徳寺総見院

後代の、結果を知った上での歴史観だと、信長も秀吉も家康も最初から天下人になる野心があったかのように思われがちだが、『おんな城主直虎』は家康についてそんなことはまったくなかったであろう現実をかなりはっきり示して来た(むしろ直虎と万千代が、泰平の世を造るために家康に「天下人になるべきだ」と説き伏せる展開)。

実は同じことは、織田信長についても言える。

結果を知っている後代の発想では、織田信長が足利義昭を立てて京に上ったのは、足利将軍家の権威を利用した野心的行動に見えるし、義昭がその信長を討てと諸大名に密命を出したのは、信長に利用される形だけの将軍であることに怒ったか、信長の野心を見抜いて止めようとしたかのように思えてしまう(し、我々の世代の学校の日本史ではそう習っている)が、実際にはそうではなかった。

実際には信長は義昭の要請があったので、その時点の実力ではまだまだ相当に無理があったのに、それでも将軍家の頼みだから応じたのであって、しかもそうやって京に上った信長は、義昭の将軍権威の復興に懸命に尽くしている。

それも大変な熱意でだった。新たな将軍のための御所を造営する際、信長は建設工事を自ら指揮したどころか、自分でも人夫人足たちに混じって工事そのものに参加までしているのだ。

足利義昭が密かに諸大名に信長に敵対するよう煽動したのも、自分が形だけの将軍で信長の専横が目に余ったからではない。むしろ義昭の身勝手で、自分に近いお気に入りばかりを優遇するやり方で政治が混乱し、信長がそんな義昭に将軍として自覚を持って欲しいと懸命に諌めたことが煩わしかったからだし、実際に義昭の治世はかなりメチャクチャだった。

その足利義昭の裏切り(それも二度も)による織田包囲網の危機を乗り切った信長は、それでも義昭を最後まで殺しはしていない。

秀吉が建立した信長の菩提所・大徳寺総見院

つまり信長は将軍の権威で天下が再びまとまるようにと期待して献身的に協力し、要請された時点ではまだまだかなり無理があったのに、それでも義昭を立てたと考えた方が説明がつく。この時には「天下布武」という旗印もその使い方の意味が違っていて、自分の「武」で「天下を」ではなく、むしろ「武」の棟梁たる将軍の権威による全国統治の復興、という標語に読める。

なお明智光秀が信長の家臣になったのはこれがきっかけで、元々は足利義昭に仕えていた。 
光秀はどちらかと言えば保守的で真面目な性格だったと言われる。信長が義昭を諌めた意見書を出した元亀3(1572)年の時点で、すでに光秀は40代半ばの分別盛り、その光秀が主君を替えたのにも、やはり義昭についてよほどのことがあったのかも知れない。

それより以前に、濃尾平野を平定した信長は、その全体が見渡せる岐阜城に本拠を置いている。逆に言えば濃尾平野全体から見える山頂にある岐阜城を、あえて目立ち飾り立てるように改造しているのも、武力の直接行使よりも「戦わずして勝つ」、つまり戦おう、歯向かおうとは思わせない演出だろう。

山頂の居城では行政になにかと不便を来すので山の麓にも館を置き、この館の方には見事な庭園や豪華な建造物を配していたのも、同じような政治的効果を狙ったものだろうし、城下町も整備して特産品の生産を奨励し、楽市楽座制度で商業の発展も計っている。

足軽を城下町に住まわせる兵農分離も、確かに軍団の強化にもつながっただろうが、足軽に給金を保証して生活を安定させることと、農民に軍役が課されて農作業や生活が阻害されるのを防ぎ、さらに侵攻した地域で下級武士が略奪や虐殺を繰り返すことも防ぐ二本立ての意味合いだって、決して小さくはなかったはずだ。

むろん経済的な豊かさは軍事力の強化にもつながりはする。 
逆に甲斐の武田が信玄の下で「戦国最強」になったのは、信玄が野心家だったというだけではなく、領地の拡大が山間部で冬は雪深い土地で領民が少しでも食べて行けるようにするための選択でもあった。

信長が岐阜の居館に見事な庭園を設けたりしたこととの関連で言えば、千利休を重用したのも、茶の湯はいわば接待のとてつもなく有効な政治的手段だった。

利休のすべてを削ぎ落としたかのような美学は一方で、たとえばにじり口の二畳台目の茶室は武力ではなく腹を割った話し合いで問題を解決する場所としても設計されている。

千利休 二畳台目茶室「待庵」

刀を持ち込むことが出来ないし、その中では客と主人のあいだに上下関係が成立しないのが元々のコンセプトだ(より広い茶室となると上座や下座や陪席などの席次が設定されるが)。

 大井戸茶碗 銘「信長」 織田信長・豊臣秀吉・古田織部所用 畠山記念館蔵

信長は信長で、始めは少しでも戦争を避けよう、戦ではない手段で繁栄しよう、戦乱で民を泣かすことなく少しでも暮らしやすい社会を造ろうという意思もあって、室町幕府を建て直して秩序ある世の中にしようとも思っていたのではないか、とも考えられるのだ。

だとしたらその信長が変質したのは、具体的には足利義昭に裏切られたこと、より大きな視野で言うなら幕府の復興による秩序の回復は非現実的な夢でしかない(足利将軍家はおよそその器ではない)と気付かされたからだった、とも言えるのかも知れない。

総見院は明治の廃仏毀釈で襲撃され 創建当時のまま残るのはこの鐘楼と門だけ

さて、同じく後代の、結果を知っている故の歴史観では、本能寺の変が無謀に思え、それも「最大のミステリー」と言われる理由のひとつになっているのは、そのクーデタ計画の実現可能性が問題になるからだ。

つまり、明智光秀は俗に言う「三日天下」で終わって、わずか十一日後に山崎の合戦で豊臣秀吉に敗れている。

芳員『粟津ヶ原の戦い』  弘化四年(1847)~嘉永五年(1852)
山崎の合戦で敗走する光秀を木曾義仲に見立てた浮世絵

確かに、光秀にとって信長を討つことは大きな賭けだったが、まったく勝算がなかったわけではもちろんない。

信長の嫡男で名目上はすでに家督を継いでいた信忠も二条城で討っているので、織田家臣団の誰でも謀反人である自分を殺すことで織田家中の最大の実力者というか事実上の天下人の後継者になれる…というか、結果として豊臣秀吉がそうやって天下人になっているわけだが、これも後付けの歴史観の偏向した思い込み過ぎないのかも知れない。

実際には、光秀は秀吉に討たれるまでの十一日間になにもしなかったわけでは無論ない。

即座に安土城も攻め落とす一方で、朝廷に働きかけて自らの行為と地位は早々に正当化しているのはいかにも折り目正しい光秀らしく、当時の価値観で言っても定石だったし、好意的な返答には至っていなくとも、織田の他の家臣たちを説得しようともしている。

「光秀でなければ誰がやってもおかしくなかった」のがその家臣団の現実だったのであれば、光秀にだって普通に考えれば相当に勝算があったことになるし、その意味で「黒幕説」、つまり光秀が誰かに踊らされて主君を討ったという俗説はナンセンスだ。

だいたい経験も豊富で教養人としても知られる有能で老獪なベテラン政治家だった明智光秀が、そう簡単にそそのかされたり、まして「若気の至り」の野心の暴発的にこんなことをやるとも思えない。

むしろ秘密裏に周到に準備され、考え抜かれて計画されたクーデタだったはずだし、証拠となる文書記録が残っていないから根拠がないと言っても、たとえば密かに共謀関係だった相手がそんな文書を残すわけがない。

徳川家康(阿部サダヲ)

逆に言えば、『おんな城主直虎』では井伊家が主人公なのでその主家である徳川が明智の密かな共謀者という仮説を取っているが、本能寺の変が光秀の独断先行ではなく有力な共謀者さえいれば、これは無謀な賭けではなく、それでも相当にハイリスクではあるが、しかし実現可能性が十分にある計画になる。

その共謀の可能性が高いのは誰かと言えば、例えば3年前に信長の横暴で妻子を自らの手で殺すまで追い込まれ、それでも信長に臣従を続けて(面従腹背?)駿河まで手に入れた徳川家康だろう。

羽柴(豊臣)秀吉

結局は光秀を倒して信長の後継者候補ナンバーワンに躍り出た羽柴(豊臣)秀吉にしてみれば、光秀が乱心して主君を討ったというくらいの話にしておいた方が、いろいろ自己正当化の上で都合がよくもあった。

もちろん光秀があてにした共謀者が羽柴秀吉で、秀吉が信長を裏切った上でしかも今度は光秀も裏切った、という「真相」だってまったくあり得ないわけではない。 
…というか、後述するような秀吉の性格を考えれば、これもまた大いにあり得る。

また秀吉が光秀を討ってしまえば、もともと仲間の信頼で結び付いたというよりもライバル関係だった他の織田家臣団にしてみれば、「光秀でなければ自分がやっていた」「信長は自分達にとって危険な主君だった」なととはおくびにも出さなくなる(決して言えなくなる)のも当然だ。

そしてなによりも、明智光秀の立場から見れば、毛利攻めで備中高松城包囲戦の真っ最中だった羽柴秀吉が、まさかこうも速やかに自分を倒しに戻って来るなどとは、まったくの想定外だったことを忘れてはならない。

むしろ水攻めの兵糧攻めという時間のかかるやり方で戦争中だった秀吉は、光秀から見ればノーマークでもおかしくない相手だった。

ところが秀吉は、高松城攻防戦をあっというまに和睦に持ち込み(毛利側に信長の死を知られる前に、というギリギリの交渉術の離れ業)、その軍団に全力疾走させて、それこそあっというまに備中(岡山県)から山城(京都府)まで戻って来るという「中国大返し」をやってのけた。

そして最終的には、もっととんでもない想定外の積み重ねが、光秀の計画を破綻させることになった。

月岡芳年 「大日本名将鑑」より『織田右大臣平信長』明治時代

本能寺で寝込みを襲われた信長はすぐさま宿泊する客殿に火をつけているので、どのように死んだのかの模様はまったく分からない(これまでの大河ドラマでもおなじみの、森蘭丸がどうこう等は基本的にすべて後代のフィクション)。

自害はしたのだろうが、まず光秀にとっての第一の想定外として、遺体が見つからなかった。

大徳寺総見院の信長の墓 ただしこの下には遺体も遺骨もない

光秀が計画通りに信長の首をあげていれば、状況はまったく異なっていただろう。

しかも遺体が見つからなかったことを、秀吉が早々に察知しただけでは済まなかった。この情報に飛びついた秀吉が、信長は生きていて無事本能寺を抜け出し、中国からとって返している途中の自分に合流する、という手紙を各所に送りまくるなんてことは、光秀にとっても(もし共謀があったとしたら家康にとっても)まったく予想などしていなかった事態だったに違いない。

総見院 加藤清正が朝鮮出兵で持ち帰った石を寄進したとされる井戸

この秀吉の「信長は生きている」デマだけで、他の家臣団や同盟諸侯はまったく動けなくなった。

光秀に共謀者がいても、これではその共謀自体がなかったことにする他はない。光秀が信長を殺してくれて実はほっとしていても、そんなことは絶対に言えないし、共鳴して味方として動くなんてもっての他だ。

かと言って他の有力家臣の多くがすぐに秀吉側についたわけではない。ただ、動かなかっただけだ。

それにしても、こんな大噓をこの状況下で思いつける(いきなり主君が謀反に倒れただけでなく、自分は最前線で持久戦の真っ最中で、しかも遠く離れていた)秀吉というのも相当なものだ。

この後、秀吉が信長の後継者として執り行なった葬儀も凄い。遺体が見つからなかったので等身大の木像を棺桶に収めて火葬にしたのだが、その木像はわざわざ貴重な香木の沈香で造らせたのだ。ちょっと炊いただけでも強い香りを放つ沈香を大量に燃やしたわけで、その香りは北の大徳寺の方角から京中に広がった。ド派手なパフォーマンスを、それも見せるのでなく匂いで印象づけたわけだ。

織田信長坐像 大徳寺総見院 火葬された木像の写しと思われる

織田信長は今で言うサイコパスだったのではないかという見解は根強く、今回の市川海老蔵演ずる信長でその印象はさらに強くなるのだろうが、サイコパス性では秀吉も負けてはいない…というより、よほど本格的なサイコパスではないのか?

なおサイコパス、非社会性パーソナリティ障害というのもかなり誤解されている現象で、この『おんな城主直虎』で最後の方になって突然出番が増えた信長がただ怖い、常軌を逸していて血も涙もないだけで「サイコパス」と断言できるものでもない。 
むしろ足利義昭を最終的に追放するまでの信長が妙に真面目と言うか、かなり浮世離れした正義感の強そうな行動と、それ以降のあまりもの極端な切り替えの早さの方が、サイコパスだった可能性を示唆するところだったりもする。 
「サイコパス」は端的に「良心がない」と形容される。この俗流定義はもちろん、では「良心」とはなんぞや、という禅問答にすぐに陥ってしまうわけだが、「良心」という曖昧模糊とした概念は、足利将軍家の末裔を立てて「天下布武」で秩序の復興、というような明快な「正義」とはかなり異なったものだ。 
その意味で「正義」は合理主義で明快に理論化して割り切れるものだが、「良心」はそうではない。 
たとえば「正義」に反する者は殺していい、いや殺すべきだ、というのは、その「正義」を信奉する者の内面では理論的な合理化が可能だが、そこで殺人自体に躊躇する本能的な心の動きが「良心」だ。「サイコパスには良心がない」ないし共感能力がない、人間性がない、というのはこういう意味で、現に晩年の信長の行動でさえ、戦国時代のロジックのなかで完全に合理的ではあった。 

秀吉が「信長は生きていて」という大噓を平然と流布して他の織田家臣や同盟諸侯を動けなくしたのも、戦略的には完全に合理的な判断ではある。だがいわゆる普通の人間には、そこで「嘘をつく」ということに対する本能的な躊躇が働き、ここまでは出来ないだろう。

結局一般人にいちばん分かり易い「サイコパス」の判断基準は、この秀吉のように自分の目的のための合理性さえあれば平気で噓をつける人というのは、相当に危ない。

総見院は明治の廃仏毀釈で略奪に遭いほとんどの堂舎を失った後
大徳寺の修行道場として使われた 本堂はその大正時代の禅堂を改装したもの

歴史的な出来事について「現代の価値観で過去を判断してはいけない」という教訓めいたことを言うのは、たいがいは歴史を知らず過去の価値観も理解できていない(し興味もない)人たちが反論できなくなった時に無責任の言い訳か、自分の現代の身勝手な価値観を押し付けている場合がほとんどだ。戦時中に日本軍がやったことの多くは普遍的にあきらかに酷いことであって「みんな(他の国)もやっていた」は言い訳にならない。

晩年の織田信長がひどい虐殺魔だったというのは、信長にはそうなる理由もあったにせよ、だからといって正当化できるわけではないし情状酌量の余地もあるとは思えず、もちろん当時の日本の道徳では許されたなんてこともない。単に信長に逆らえなかった、現実と妥協するしかなかっただけだ。

信長にとってそうした残虐行為が「当時では仕方がなかった」というのなら、それは「戦国時代」がそれだけ、当時の人間にとってもひどい時代だったというだけのことだ。

信長が父・信秀の菩提所として建立し秀吉が再建した大徳寺黄梅院

そうした色眼鏡を排して言うのであれば、明智光秀というのはもっと評価されていい人物だし、本能寺の変はただ「動機が分からない、しかも無謀」だから「日本史上最大のミステリー」と言うのも、そこで光秀の動機についていろいろと俗説を空想するのも(「土岐氏の再興」に至っては「そういうこともなかったと断言はできませんがねえ…」としか言いようがないし)、趣味としてはおもしろいかも知れないが、あまり意味はない。

むしろそうなるに至った事態の推移と、そうした事態を醸成した「戦国時代」の武家社会のあり方をまず分析的に見るべきだし、その時代と社会の全体像をちゃんと見ることからなぜそうなったのかを考えてこそ歴史が教訓になるのが、真の意味での「現代の価値観で過去を判断してはいけない」のはずであって、秀吉が信長の後継者というイメージを巧妙に利用するために構築した後付けの歴史観で明智光秀の行動を云々することの方こそ「現代の価値観で過去を判断」でしかあるまい。

信長の比叡山焼き討ちも本願寺派大弾圧・大虐殺も高野山襲撃計画も、普遍的な道徳として虐殺は虐殺だし、「当時の価値観」を言うのなら敬虔な仏教国では「罰当たり」「天も恐れぬ」の極みだ。 
単に信長がそうした人間的な価値観というか良心の躊躇を超越した極度な合理主義者だった、つまりサイコパスだったというだけのことで、そういう信長に強制されたからって家康が信康や築山殿の死に自らの罪や責任を感じなかったわけもない。
戦時中の日本軍の慰安婦制度などというのはもちろん当時の軍に求められた正義感でこそまったく不道徳な暴虐であり、だから軍専用のただの(強制)売春制度を国が大掛かりに運用していた不道徳の極みを誤摩化すために、将兵の「慰安」をもっともらしく装った「慰安婦」なる呼称をでっち上げたのが「当時の価値観」の実際だ。軍の内部だとかでは皇軍の兵士に性奉仕するのは当然だなどと実は思われていたとしても、そんな価値観は当時でもおよそ社会的に許容されるものではない。
まして武装した兵士がやってきて脅して強引に慰安婦をリクルートなぞ、完全に当時の一般的な価値観や道徳観に反して大問題(というか立憲国家では許されない組織犯罪)だからこそ、公式な命令書に「強制連行しろ」と明記なぞ最初からしているはずもない。 
国民相手には「八紘一宇」の「大東亜共栄圏」という偽善プロパガンダを吹聴していたからこそ、南京攻略時に大虐殺をやったことだって隠蔽するしかなく、だから「証拠がない」「被害者数が分からない」ようにしたのが実態だ。それを現代の価値観というか都合で「証拠がないからでっち上げだ」などというのは、「現代の価値観で過去をねじ曲げる」の典型でしかない。

そうすることでこそ、たとえば光秀がなぜ信長を討とうと決意したのかも、自ずから見えて来るはずだし、具体的な契機などについては史料が残っていない以上は謎のままでも、史料で抜け落ちている部分で起こったであろうことも、抽象的なレベルでは自ずから輪郭が浮かび上がって来るだろう。

黄梅院の庫裏 天正17(1589)年 小早川隆景による建立・寄進

もちろんそのような抽象的な推論のレベルでは、映画やテレビドラマの時代劇にはならないわけで、その部分を巧みに構築されたリアリティ性の高いフィクションで補っている『おんな城主直虎』での本能寺の変の展開は、これまで日本人が漠然と、後世の後付けの合理化を鵜呑みにして信じて来た歴史観を鋭く問うてもいる。

これからも「大河ドラマ」でNHKが、つまり公共放送が日本史上の出来事や人物を取り上げ続けるのなら、近現代に国家政府の都合いろいろねじ曲げられて来たことも多い我々の歴史観を、このように問うものであるべきだろう。

「戦国時代」ひとつとっても、我々が思って来たようなイメージは、史実や歴史的な現実とはかなり異なっている場合も多いのだ。

それにしても記録上の史実ではこの本能寺の変の直後に亡くなっている井伊直虎の話を、脚本家はどうやって終わらせるつもりなんだろう? 
井伊直虎(柴咲コウ)
これまでも信虎が考え抜いた計画が、思わぬ番狂わせでひっくり返ってしまう展開が相次ぎ、井伊家は先祖代々の所領である井伊谷(いいのや)まで失ってしまった。 
そして最後のクライマックスの本能寺の変もまた、豊臣秀吉の想定外・奇抜過ぎる発想と行動の番狂わせで、明智光秀や家康や万千代、直虎が願ったような結果にはならない。 
もしかして直虎が「井伊直虎」としては亡くなったことにして、家康の影の側近として供に泰平の世を目指すことを決意する、というようなラストにでもなるんだろうか? 
その直虎の下には明智光秀の幼い息子も預けられているのも、この子はいったいどうなる(誰になる?)のやら… 
直虎については、まさかとは思うが…家康の身近には確かに、彼女が「井伊直虎」の名を捨てて(死んだことにして)この人物になった、と言えそうな側近はいて、徳川の平和統治の理念的な礎を築いた大功労者ながら、その前半生がよく分かっていない。 
家康・秀忠・家光の三代に渡って徳川家を理念的に支え、とりわけ家光に深く慕われた天海(慈眼大師)だ。 
天海僧正坐像 喜多院慈眼堂 寛永20(1643)年
天海の没する数ヶ月前に生き写し像として作られたと言われる
 
川越喜多院・天海を祀る慈眼堂
ちなみに天海については「実は明智光秀だった」という俗説もあるのだが、「実は女だった」でもこのドラマなんだから構わないのではないか、と…。 
いや天海は天台宗で、井伊次郎法師は臨済宗の尼僧だったんだから、とは言っても、いくらなんでも直虎が実は以心崇伝になった、というのはさすがに年齢的にもあり得ないと思いますが…。
天海が家康の一周忌に法要を行った仙波東照宮

11/19/2017

「戦国時代」の大タブーにしてもっとも陰惨な悲劇、徳川信康事件について


井伊直虎、あるいは井伊家出身の尼僧・次郎法師は、当主が暗殺され男の後継者がわずか2歳の子どもしかいなくなったので女ながら領主となり、井伊を守り抜いてこの幼少の虎松を育て上げたとされる。虎松は成長して井伊直政となり、徳川幕府の成立後、彦根30万石の藩主になった井伊家は徳川の譜代筆頭として老中、大老を輩出し続けた。

しかし当時はしょせん、遠江の西端(今の静岡県浜松市)の、井伊谷の小さな領主でしかなかった井伊家だ。京の公家の日記に残るには遠過ぎるし、生涯の記録が書かれるような大物でもなく、直接の文献史料がほとんどないなかで、分かっていることは井伊家の伝承をまとめた江戸中期の文献以外はほとんどない。「直虎」という署名の当時の古文書もあるが、それが尼僧の次郎法師と同一人物かも、最近になって疑義も提示されている。

それが今年の大河ドラマの主人公なのだから、NHKも大胆なことをやるものだ。基本史料そのものが「作り事」である可能性が高い(直虎・次郎法師が虎松の父の井伊直親とかつては許嫁であったとする伝承も、実年齢の差を考えるとかなり怪しい)、いずれにせよ神話伝説めいた話である上に、『おんな城主』といいながら、井伊家を守ったというその功績は、戦争ではなく主家の今川に命じられた徳政令(農民の借金棒引き)を、領民を説得してその生活を守る代わりに先延ばしにした、経済政策なのだ。

だからこその異色大河ドラマは、武家に限らぬ当時の社会情勢と経済産業構造を丁寧に描写することで直虎の政策とその意味をリアルに浮かび上がらせる。だから十分に説得力はあるのだが、それでも直虎が徳政を先延ばしにする代わりに実行する政策の先進性にはやはり驚く。中世末期の新規産業振興イノベーションに治水灌漑などの住環境・職業環境に整備で時代に適応した豊かな土地にし、しかも労働力を確保するためにも住みやすい、今でいえば高度福祉社会まで作ろうという、「民富んでこそ国栄える」精神の実践なのだ。

先進的というのも、ドラマのなかの直虎がやることのほとんどが、井伊直政が仕えることになる徳川家康と、その後継の将軍たちが実践するか試そうとした政策だったりする。この大河ドラマは実のところ、徳川家康をいわば「裏主人公」に、戦国時代が本当はどんな時代で、徳川家康がそれを終わらせることがいかに歴史的な必然だったのかをテーマにしている。

しかもこの「裏・家康」設定は、非常に不吉な伏線を最初から設定することで始まっていた。家康の正妻・築山殿(ドラマの役名は瀬名)が最初から重要な登場人物なのだ。

直虎・次郎法師のことを伝えるのと同じ井伊家の伝承には、徳川家康の正妻で今川義元の親戚(姪というのが定説)になる築山殿の、生母が井伊家の出だったとも書かれている。そこで幼少時の直虎(「とわ」という役名はフィクション、当時は武家の女性の本名はめったに公にされず記録もされないのが一般的)と瀬名つまり後の築山殿が幼なじみで、縁戚でもありずっと親交を持ち、瀬名は直虎を「姉さま」と呼び、瀬名と松平元康(後の家康)の新婚生活も描写されていた。

桶狭間の合戦を機に家康が今川の支配から独立すると、駿府に残された瀬名とその子の竹千代(これは松平・徳川家の嫡子の幼名、のちの徳川信康)は人質状態で今川に殺されそうになる。この時に駿府に乗り込んで助命嘆願に奔走するのも、ドラマでは次郎法師(後の井伊直虎)だった。

言うまでもなく、この築山殿と、家康とのあいだに産まれた長男・徳川(松平)信康は、天正7(1579)年に非業の死を遂げる。殺したのは夫であり父である家康だ。

築山殿 静岡県 西来寺蔵

こればかりは多少は日本史に興味がある人なら知っている有名事件なのだが、ただし今度は大タブー、それもあまりに陰惨な悲劇だ。

クライマックスにこのとんでもなく悲痛な事件が起こることだけははっきりしているのだから、なんとも大胆不敵な野心的ドラマなのだが、案の定といえば案の定とはいえ、残すところもうあと数回になってやっと、というかついに、信康と瀬名に突然悲劇が襲いかかる(第45回ダイジェスト https://www.youtube.com/watch?v=eKCA8ZeV32g)。

とはいえ今度は捕らえられ幽閉された築山殿と信康をなんとか殺させずに済まさせようとする努力を見せるようで、このなんとも後味の悪い事件の余韻で1年のドラマが終わってしまいそうな勢いだ。

これ、大丈夫なんだろうか? どういう結末があるのだろうか? 史実としての井伊直虎は、この事件の3年後、今度はこの信康の死を家康に命じた織田信長が明智光秀に討たれた、その約2ヶ月後に亡くなっているのだが…

いやこのドラマのことだから、直虎は名目上天正10年に死んだことになっているが実は… 
…なんてことになりはしないかとも思えるのはこの直虎、とてもではなないがあと3年では死にそうには見えないそれにこうした「記録ではこうだが、実は」展開は、このドラマで幾度も用いられて来てもいる。
それこそ実は家康・秀忠・家光三代のアドバイザー、天海(慈眼大師)は直虎だったとか、そういう展開になってもテーマ的におかしくない。
天海が住職を務めた川越・喜多院の慈眼堂 徳川家光の建立
なお天海の墓所は輪王寺の慈眼堂(やはり家光建立)だが現在非公開
 
ちなみに天海は、実は明智光秀だった、という俗説も有名なわけだが、そうなると106歳の長寿をまっとうした天海が光秀ならさらに8歳上の114歳(!)になる。 
死の直前の姿とされる喜多院慈眼堂の慈眼大師(天海)像
直虎の生年は不明だが、ドラマではだいたい天海と同じ天文5(1536)年かその前後っぽい設定にはなっている。
東叡山寛永寺(現上野公園内)の天海の遺髪塔
剃髪した僧侶なのにそんなに髪があった?
 
日光山輪王寺 天海の墓所である慈眼堂への門


さて、その信康事件である。

岡崎三郎信康(徳川信康) 勝蓮寺蔵 

徳川家康の生涯でもっとも暗い歴史、妻を惨殺し長男に切腹を強いることになったのは、当時同盟関係にあった織田信長の要求だったと言われているが、詳しい理由や背景は、実は分かっていない。

「信長公記」によれば信長の娘で信康の正室だった徳姫が、信康が舅の織田家に無断で側室を置いたことなどの不行跡を訴え、信長が激怒したとされているが、最新の研究では、信長が直接に信康の死を命じてはいなかったかもしれない、というのだからさらに驚く。

もしかして信長は、実は関係なかったというのか?

狩野永徳 織田信長像 天正12(1584)年 大徳寺蔵

あるいは、「同盟」とはいえ軍事力でも経済力でも強大な信長に、「弟と思っている」と言われ続ける家康が隷属する関係が実際だったわけだが、つまり家康が長男を殺したのは、信長に逆らえない究極の過剰忖度だったのか?

信長=秀吉=家康の「天下統一」期、つまり「戦国時代」の最後の方だけに関心が向かいがちな「戦国武将ファン」には見落とされがちのことかも知れないが、この時期のほんの少し前まで、「戦国最強」でもっとも恐れられていたのは、甲斐の武田信玄だった。

武田信玄像 高野山成徳院蔵

跡をついだ四男の武田勝頼は長篠の合戦で大敗した無能な二代目的に思われがちだが(黒澤明監督の『影武者』などが典型)、それは結果として勝頼が織田・徳川連合軍に滅ぼされたからであって、一時は父・信玄をもしのぐ最大支配地域を実現したし、長篠の合戦で多くの重臣を失った後のこの時期でも、未だに強大な権勢を維持していた。

武田勝頼・夫人・武田信勝像 高野山持明院

だからその武田を信康が密かに味方につけて織田、さらには家康への謀反を企んでいたから処罰されたというのは、当時数えで21歳の若き信康が、というのであれば確かに、まったくあり得ないことではない。

この当時の家康に「天下統一」の野心があったとはとても思えない。家康は今川義元が桶狭間の戦いで急死したことで今川から独立できたものの、今度は織田と「同盟」と言いながら、限りなく主従関係に近いものだった。

後世の、いわば後付け歴史観では、松平(のちの徳川)家は今川に臣従する屈辱とその抑圧に耐え続け、桶狭間をひとつのチャンスと捉えたのだろうと単純にみなされがちだが、家臣の三河武士団についてはそうだったろうにしても、家康本人についてはとてもそうとは思えない逸話も残されている。 
むしろ今川の敗北に将来を悲観した家康は三河・岡崎の菩提寺で自刃しようとして、その住職に止められて「厭離穢土欣求浄土」の言葉を授けられ、後にそれを馬印としたというのだ。 
元々は穢れた現世を離れ浄土への往生を求めるという浄土信仰の標語だが、家康がこれを自らのいわば座右の銘としたのは、私利私欲と殺戮に満ちた世を厭い、平和で清らかな新たな世を実現したい、というように解釈される。

後には「戦上手」と言われた家康だが、武田の駿河攻めと組んで遠江に攻め込んだ時には堀川城の攻防戦で一般庶民の非戦闘員まで虐殺するような戦い方をさせたかと思えば、今川氏真を攻めあぐね、武田に無断で和睦して氏真を生かし、信玄を怒らせ…というか呆れさせている。

徳川流の戦い方があったとはとても思えないこの支離滅裂ぶりは、しまいには武田と決裂しその武田が遠江に攻め込んで来る結果になり、家康は三方ヶ原の戦いでは明らかに焦って浮き足立ち、あっけなく信玄の陽動作戦に乗せられてしまって大惨敗している。

伝・徳川家康三方ヶ原戦役画像 通称「しかみ像」徳川美術館蔵
ただし家康が自戒で書かせたという伝承に根拠はない

この時には信玄が急死したことで、辛うじて徳川は命脈をつなぐことができた。

信玄の後を継いだ武田勝頼が再び侵攻して来た時に長篠の合戦で打破できたのは、織田の援軍のおかげというか、あくまで徳川の防衛戦だったはずのこの戦いで主導権を握ったのは鉄砲隊を大々的に導入した織田で、徳川は織田に守ってもらったようなものだ。

家康の若い頃の甲冑 久能山東照宮蔵

若き信康はこんな徳川のふがいなさに不満を感じ、むしろ武田と結ぶことで織田からの「独立」を考えたのかも知れない。

父の家康はといえば、このまま織田が天下を治めることになれば自分は三河・遠江を支配する一大名ではあり続けられるのだし、行く行くは頭もよく美男で、将来を嘱望していた息子に無事家督を譲りたい、というくらいの将来像しか持っていなかっただろうし、それだけでもとくに不満もなかっただろう。

家康自身が織田と今川という二大強国に挟まれた三河・松平家の嫡子として産まれ、父の代では松平家が尾張の織田か駿河・遠江の今川のどちらかに隷属することで生き延びるために、自分は織田の人質になったり今川の人質になったりして育っている。家督を継いでも三河ではなく駿府で生活していた自分の青年時代に較べれば、徳川家は遥かにマシな立場だったのだ。

だが若い信康がそれでは満足できなかったとしても、不思議ではないが、だから信康が武田と内通していたという説に立つなら、説明がつかないこともある。

「信康」の「信」は元服時に烏帽子親となった信長からもらった字で、同時にその娘の徳姫を正妻に迎えている。家康は本拠を東の遠江・浜松城に移していたので、尾張により近い三河の岡崎城を預かっていた信康こそが織田・徳川同盟の要になっていたし、能や茶の湯でも優れた素養を見せていた信康は(それ自体が信長に合わせた趣味なのかも知れないが)、個人的にも信長に気に入られていたはずだ。

そんな重要な後ろ盾になる信長を、果たして信康がそうそう裏切るものだろうか? 徳川の織田からの「独立」は、自分が家督を継いでからの方が良かったのではないか?

むしろ家督を狙うなら、まずは織田を動かして家康を隠居させてもいいし、信長にしてみれば徳川家内の岡崎と浜松の確執は、むしろ信康を取り込むことでこそ利用できただろう。なにも信康の死を強要することで徳川に織田への恨みを残すことなどなかったはずだ(信長がそうした他人の普通の感情にまるで興味がなかったとしても)。

一方、その徳川の家中で、信康の立場は必ずしも安泰ではなかった。

母の築山殿(瀬名)は今川の出で、立場こそ人質とはいっても親子三人は駿府でかなり恵まれた環境で幸せに暮らしていた。今川義元は駿府に京風の先進地域を作ろうと、応仁の乱後に荒廃した京の代わりとなるようなものを目指してもいて、家康・瀬名と信康の親子はその豊かな文化教養のなかで育ち、とくに信康は今川義元の姪である瀬名を通じて、今川の血統でもある。

築山殿の墓所(愛知県岡崎市の八柱神社)

今川義元が死んで解放されて三河に戻り独立できたとはいえ、逆に家康自身ですら立場がむしろ微妙になった面すらあった。というか、主君であるにも関わらずその家中でかなり「浮いた」存在だった。

井伊万千代(後の直政)を家康がかわいがったのは、旧来の三河家臣団と違って万千代とは話が合ったからではないか、と言われている。

虎松(のちの万千代)は今川に命を狙われたことがあり、その時以降は禅寺に預けられている。禅宗寺院は当時の最先端の知識が集まり、勉学や教養を身につけるには理想的な環境だった。一流の武将となると子弟の教育のために禅僧を(家の宗派が天台宗だったり浄土宗だったりしても)側近にすることも多かった。

万千代はそういう教育的には恵まれた環境で育ち、現に後の井伊直政は「赤鬼」と恐れられた武勇だけでなく、美男で教養も豊かだったのを活かして外交交渉でも活躍したし、江戸時代の井伊家は武芸や政治だけでなく芸術文化でも知られる家になった。

幕末期の大老・井伊直弼は開国を主導した政治的手腕とその後の安政の大獄で有名だが、超一級の茶人でもあった。「一期一会」というのは利休の精神だと思われがちだが、井伊直弼が作った言葉だ。

酒井忠次や本多忠勝、榊原康政ら松平家に代々仕えて来た家臣にはなかったものが井伊直政にあったというのは、逆に言えば家康自身はそうした譜代の家臣とあまり話が合わなかったことでもある。三河武士ははっきり言えば、がさつな田舎者の集団だったのだ。

晩年の家康が駿府に隠居し、墓所も久能山にと遺言していたことからも、家康にとって三河ではなく駿府への思いが強かったことが分かる。
家康がまず葬られた墓所 久能山東照宮
家康は三河よりも駿府こそが故郷だと感じていたのではないか?

そして駿府で産まれ育ったせいもあるのか、今川の家系である母・築山殿の影響もあったのか、信康もまた教養豊かだった。

信長とうまく付き合うためもあったのだろうが、茶の湯や能でも才能を見せたらしく、なおその信長はといえば堺の商人出身の千利休を重用し、その鑑定で高値をつけた茶碗を恩賞代わりに臣下に与えるなど、茶の湯も政治的手段として大いに活用した(俗に茶碗ひとつに城ひとつ以上の価値とも言われる)。

ちなみにその信長以上の茶の湯マニアになったのが豊臣秀吉で、勝手に茶会を開くのは禁じた信長の命に密かに反して、長丁場の戦地でちょくちょく茶会をやったり、信長の死後には北条攻めの長期の包囲戦などで陣地に茶室を建てたりまでしている。 
お茶自体に精神安定効果がある上に、利休好みの侘び茶の簡素で土壁などの質感を活かし、しかも暗い茶室にも同じ効果がある。秀吉が茶に凝ったのは、ストレス解消の必要があったのかも知れない。 
利休の最高傑作とされる茶室・待庵 
なにしろ主君はあの失敗を許さず傍若無人な信長だし、奇抜な発想の心理戦や陰謀・調略には長じた秀吉だが、実戦でそこまで強かったわけでもなかった。包囲戦や兵糧攻めで敵を降伏させるのが得意で、これには忍耐力も必要だし、せっかちな信長に「まだか、遅い!」と叱られそうでもある。

一方、家康の家臣団である三河武士団はといえば、そんな文化教養には縁がない、はっきり言えば無骨でがさつな田舎武士だらけだった。しかも永年隷属を強いられて来た今川への恨みも大きかった。築山殿はその今川の出で、信康もまた今川の血を引く者でもある。

今川義元が討たれると家康は桶狭間から三河に直行してしまったので、築山殿と竹千代(後の信康)は駿府に取り残されてしまった。家臣団のなかには、どうせ「今川の者」である2人はこのまま見殺しにしていい、という意見すらあった。徳川が捕虜にした今川方との人質交換を申し出て、なんとか親子は救い出されたものの、今度は家臣団の意向なのか、家康の家臣達への遠慮だったのか、三河・岡崎城では家康から遠ざけられ、城中に住むことすら許されず、城下の西行寺で暮らしていた時期もある。この扱いについては、正式には離縁されていたのではないか、という説もある。

たとえば筆頭家老だった酒井忠次は家康より16歳も歳上で、家康が駿府に人質に出された時に守役的な立場で随行している。桶狭間での今川軍の敗退をチャンスと捉えて今川からの独立を主張した最右翼でもあり、家康としてもなかなか頭が上がらなかった相手だ。

遠江を押さえた家康が浜松城に移って信康を岡崎城主にした(以降、岡崎三郎とも呼ばれた)のには、今川の血統というだけで家臣から好ましく思われていない息子が、確かに自分の後継者であることをはっきりさせる意味もあった。

築山殿がこの時から、「お方さま」つまり正室ではなく嫡子の生母という身分で岡崎城で信康と同居しているのも、彼女の出自に関わって家中での立場がぎくしゃくしていた(ないし、離縁されていた?)ことをうかがわせる。

逆に言えば酒井忠次たち三河家臣団からすれば、「今川の者」である信康は望ましくない跡取りであり、チャンスがあれば排除したい存在だった。

それでも家康に信康以外の男子がなければしぶしぶ納得するしかなかったが、そこで家康の側室に新たに男子が生まれてしまった。後の徳川秀忠である。こうなると信康の立場は決定的に悪化する。信康がいなくなっても後継者はいる。むしろこの側室の子の方が家臣団にとっては嬉しいくらいなのだ。

「戦国時代」の武士というのは、後代に神話化された我々の思っているようなイメージとはかなり違っていた。戦乱の時代に武勇はもちろん褒められもてはやされたが、明治の(新渡戸稲造の)捏造である「武士道」などというものではない。「忠義」が重視されたのは江戸時代の儒教朱子学であって、下克上が当たり前ということは、利害が一致しなくなった主君を裏切るのはもっと当たり前だったというか、その倫理的なハードルは乱世であればこそ平時より遥かに低かっただろう。

逆に言えば、徳川幕府が儒教・朱子学を公式学問に定めて忠義や孝行の倫理に基づく秩序を強調したのは、再び戦乱の世になってしまうのを恐れたからでもある。 
二代秀忠の2人の息子のうち弟の国松(のちの松平忠長)の方が美男で利発で勇気もあるともっぱらの評判でも、病弱で内気な長男の竹千代を将軍後嗣にと家康が確定したのは、長子相続を制度化することでお家騒動を防止して秩序ある政治体制を優先させるためでもあった。
江戸城の奥御殿を移設した川越喜多院客殿 家光はこの建物で産まれたとされる
果たして文化芸術を好み、引っ込み思案だがやさしい性格ではあった竹千代は、それでも徳川15代のなかでもっとも強い権力を発揮した将軍・家光となり、その統治の基礎となる武家諸法度、公事御定書などの法制度を整備し、泰平の世がやっと最終的に出来上がった。 
 今でいう「法の支配」の確立だ。これも実は徳川以前に今川がやっていて(今川仮名目録)、家康が今川から学んだことでもある。
喜多院書院 家光の乳母・春日局の居室を移築した
こうした法制度を執筆したのは南禅寺の禅僧・金地院崇伝(以心崇伝)であり、平和統治の確立を理念的に支えたのが天海だった家光にとくに慕われた天海は、平和の世になったことを確かめて106歳という長寿をまっとうした。
喜多院書院 埼玉県川越市 旧江戸城遺構
なお家光の治世が厳格だったのは諸大名の力を押さえることが主で、これも内乱の防止が大きな目的だった切支丹禁制と鎖国制度(これも以心崇伝の制度設計)ですら、実は対西洋貿易が幕府が独占することで諸大名が火薬などを輸入したり財力をつけることを防ぐ政策でもあった。

中世の封建制というのは要するに、主君が領土を分配しその支配権を保証するのと引き換えにその主君に従う関係のことだ。

こと中央の秩序(足利幕府)の権威が崩壊した室町時代後期となると、強い家には中央の権威付けがなくとも家臣が集まるし、逆に家の勢いが傾けば敵対する側に寝返ることを考えるのも、それぞれの国衆にとってはむしろ家臣領民に対する責任みたいなものにすらなる。

たとえば武田信玄のようにやたら強くて残虐な戦い方をする大名が国境を侵す勢いを見せるなら、その国境を領地にしていた国衆にとっては、田畑や家々に火をかけられ領民まで皆殺しにされるよりは、武田と内通して武田軍を通過させる密約を結ぶだけでも、まだ命や生活は守れるだろう。

主君、大名であるということは、こうした様々な利害や欲望を持った臣下の意見を調整してまとめる立場でもあった。領地を次々と広げる強い大名のために手柄を立てればそれだけ恩賞として分け与える土地も増え、家臣は満足してまとまるだろうが、家中で意見対立や感情的な確執が高まれば、肝心の戦に勝つ力すら弱まってしまうし、そうやって家中に不満が鬱屈して結束が乱れると、密使を送られて内通を画策されたり、間者を送り込まれて内部から撹乱され、分断されるリスクも増える。

またこの武田信玄が、実戦でやたら強かっただけでなく、今で言う「忍者」を駆使した協力な諜報組織と情報網を持っていたといわれ、調略で内通を工作し、時には暗殺者すら送り込むことでも恐れられていた。勝敗は合戦以上に、こうした事前工作でついていたのだ。

逆に言えば日本の「戦国時代」は生き残るための打算にばかり満ちていて、そんなに勇ましい時代ではなかった。

久能山から日光に家康の墓所を移す途中で祭事が行われた仙波東照宮
仙波東照宮 本殿(川越市・喜多院内)
徳川家康の墓所 日光東照宮の奥ノ院

徳川家康はなぜ長男・信康を殺さなければならなくなったかと言えば、こうした「戦国時代」特有の武家のあり方の煮詰まった究極の悲劇であって、誰か1人のひとつの動機では説明しきれないことなのかも知れない。

信康が「今川の者」として家臣に白眼視されていても、信長の後ろ盾があれば、家康に次男が産まれいても、家督を継ぐことまでは出来ただろう。

だが仮に信康が武田と結ぶことで織田に隷属する関係を解消したいと考えていたとしても、織田のバックアップがなければ家中の支持が集められないようでは、その織田に「守って」もらいながらその力に怯え続けて来た重臣たちが乗ってくるとも思えない。逆に信長に訴えられるのがオチだし、弟に徳川の主君をすげ替えられるだけで済めばいい方だ。だいたい父・家康と家臣の関係を見ても、この頃の家康は織田への配慮を欠かさない以上に酒井忠次らに気を遣い通しだった。

あるいは武田への密通がまったくの濡れ衣だったとしたら、「今川の者」が家督を継ぐのがおもしろくない家臣団の誰かの讒言だった可能性も否定できない。

信康はこの頃、家康に新たな男子が生まれたことを警戒した母・築山殿の意見で、男子を産むための側室を持たされている(嫡子の長男が産まれれば、長男による相続はある程度は安定する)が、その側室が武田の旧臣の娘で、だから武田と内通したと言われる根拠にもされている。

徳川信康霊廟 浜松市天竜区の清龍寺

すべてが信長の言いがかりだった可能性も、もちろん否定できない。今年の大河ドラマでも基本はこの解釈だが、徳川家内での浜松と岡崎の確執と、信康と築山殿が「今川の者」であったことへの反発、武田内通説、信康が側室を置いたことがきっかけだった説、さらには信長が直接命じたわけではないという最新の説まで網羅しながら、作りあげたドラマが凄い。

信長(市川海老蔵)はまず浜松と岡崎の軋轢と、家康(阿部サダヲ)の側室に男子・長丸が誕生したので信康(平埜生成)の立場が微妙になったことに目を付け、信康を自分の側に取り込む動きを見せる。

信長の意図が徳川を分断させることで、自分に父に対する謀反を起こさせようとすらしかねないと見抜いた信康は、信長の申し出を「心配して下さるお気持ちだけで十分にありがたい」と丁寧に断る。

『おんな城主直虎』の信康(平埜生成)と家康(阿部サダヲ)

とたんに信長は手のひらを返したように、安土城に挨拶に来た酒井忠次(みのすけ)に、信康が武田と通じているらしいと告げ、娘・徳姫からの書状を見せ、そこには信康が舅・信長に断りもなく新しく側室を置いたこと(ドラマでは、徳姫自身は男子が産まれたら自分の子の扱いになるので心配は要らないと書いていたはずだが)などの不行跡が訴えられていると詰め寄る。

忠次は信長の言いがかりに反論できないまま浜松に持ち帰り、信康を殺すしかないと示唆して家康を激怒させると、問いつめられうろたえた態度を装いながら、逆に三河家臣団の本音を突きつける。「今川の者」である築山殿と信康は自分達にとっては今でも好ましい存在ではない。家康がこの前に今川氏真(尾上松也)を諏訪山城主にしていたのを忠次たちがおもしく思っていなかったことも描かれていた。跡取りならば長丸もいるのだし、むしろ厄介払いになるではないか。

それに信康の新しい側室が武田の旧臣の娘である以上、織田の疑いは払拭しきれないし、どうせ織田の意向に逆らうことは徳川には出来ないのだから、素直に従った方が家のためではないのか。酒井がそう言い出してしまうと、家康に同情的だった本多忠勝(高嶋政宏)や、榊原康政(尾美としのり)も同意せざるを得ない。

実はよく見れば、信長は酒井に信康を殺せとは言っていない(つまり最新の説の通りだ)。ただ信康が武田と内通しているようだが徳川はどうする気か、と問うただけなのだから、嫡子の首を差し出すのはあくまで徳川の判断、まさに究極の過剰忖度ワールドであると同時に、酒井忠次はちゃっかりと「今川の者」の嫡子の排除という永年の宿願を果たしてもいる。

家臣に理解のある徳のある主君であろうとして来た(言い換えれば弱気で優柔不断でもある)家康は、その忠次の下心を見抜きはしても「そなたはいっそ織田に馳せ参じればいい」と捨て台詞しか言えない。

『おんな城主直虎』の徳川信康(平埜生成)

どっちにしろ「とにかく織田には逆らえない」というだけで、家康の最愛の息子の信康が、ちょっと信長に言いがかりをほのめかされただけで、徳川の手で殺されなければならなくなるのだ。最終的に家康を説得するのは生母・於大の方(栗原小巻)だ。於大自身、家康の父の側室だったのが、松平家は当時は信長の父と結んでいて、自分の兄が武田との密通を問われて処刑され、自分も離縁された過去がある(ドラマではそれも事実無根の言いがかりとなっている)。

その母(つまり信康の祖母)があえて、家の存続のために親子兄弟、時には自分自身さえ人身御供に差し出すのが武家の当主の宿命だと家康に説く。あえて幼名の竹千代と呼びかけ、自分だけがその宿命を逃れようという身勝手は通らないと言うのだ。

信長の動きは自分への忠誠度を試してみて、100%服従するのでなければ見限るという冷酷な計算であるようにも、結局は「鬼神・魔王」のただの気まぐれにも見える。その「魔王」の気まぐれかも知れない理解不能さが、また徳川にとっては決して逆らえないと思い込む圧力になっている。

井伊直虎(柴咲コウ)と瀬名(菜々緒)

真相がよく分からない事件の様々な要素を勘案しながら、考えられる限りもっとも残酷な展開を構成してしまうのだから、脚本の森下桂子とNHKと、歴史考証の小和田恒男、大石泰史両氏の確信犯っぷりが凄い。これこそまさに我々がこれまで「戦国時代」と美化して来た日本史のなかの一時期の実態に、もっとも近いと思えると同時に、しょせん同じ日本人の歴史であるせいか、現代の日本の政治についても、似たようなことはすぐ思いつく。

たとえば先の総選挙の公示直前に、できたての希望の党の中で小池百合子の「排除します」発言が巻き起こした疑心暗鬼の踏み絵騒動はなんだったのだろう? 民進党から合流したうちのいわゆる保守派が「魔王」的な小池に忖度しまくりつつ、自分たちが嫌いないわゆる「リベラル派」を追い出そうとしたのも、忠次と同じパターンではないか?

織田信長(市川海老蔵)

あるいは、折しも放送が偶然にも時期的に重なったトランプ来日と、安倍のゴルフに鉄板焼きにトランプ娘の財団に国民の血税57億円まで差し出した「おもてなし」で、なぜかかえって内閣支持率は上がった。徳川家で織田には逆らえないと思い込まれていたように「日本はアメリカに逆らえない」のだ。

安倍政権はそんな「現代の気まぐれ魔王」トランプに必死に媚を売り抱きつくことで、トランプがやる気ゼロでただのブラフで言っているだけなのは自明の「武力行使」を煽って、自分こそがやりたがっている北朝鮮との戦争を始めさせようとしているか、その戦争の可能性で国民を脅すことで政権の求心力を高めようともしている(で、トランプにはやる気ゼロなので、これから安倍がどう収拾させるのかは見物だ)。

徳川家康(死後神格化された神像の形式の肖像)

溺愛していた息子の信康を切腹させ、妻の築山殿を打ち首にせざるを得なくなった最悪の悲劇を経て、徳川家康は変わった。あまりに陰惨なタブーであったためにこの事件の意味は従来あまり考察されて来なかったようだが、こんなことが起こるなら、家康は変わらざるを得ない。

信長が天下を治めれば辛い戦国時代も終わりが見え、徳川家はその天下人に臣従しながら三河と遠江、もしかして駿河くらいまでは治める大名として安泰だろうとなんとなく思っていたであろう当時の家康の将来像は、明らかにこの事件で完全に覆ったはずだ。

こうして家康の雌伏が始まって3年後の天正10(1582)年6月2日深夜、織田信長は突如叛旗を翻した腹心の明智光秀に京・本能寺で討たれる。

光秀の決起は俗に「日本史上最大のミステリー」と言われ、根拠はまずない俗説の類いではあるが、家康黒幕説も根強い。

もっとも、学術的に言えば、光秀の動機はたいしてミステリーですらない

なぜこの時にという直接のきっかけはいろいろ考えられるにせよ、光秀が信長に仇をなす理由ならいくらでもあるし、勝算がなかったわけでは必ずしもないし(秀吉の中国大返しと、遺体が見つからなかったことを知って信長は生きているデマを流布するなんていう謀略は、さすがに想定外)、だからわざわざ黒幕を想定する必要もない。

いずれにせよ、光秀でなければ同じように自分の立場や天下の行く末に危機感を抱いた織田家臣団の誰かが、いずれは信長を殺していた。

ただでさえ気まぐれですぐ怒り、冷酷と恐れられた信長は、信康事件以降、一族に権力や財力を集中させるためにやたら家臣に難癖をつけて処罰するような姿勢すら見せていたし、四国討伐も長宗我部氏が基本、臣従の意思を示していたにも関わらず、滅ぼそうとしていた(その調停に当たっていたのが光秀)。

そんな信長を討った光秀に、仮に黒幕がいたとしても、それが誰であろうがたいした問題ではない。織田家臣団の誰でも、十分過ぎる動機はあったのだ。


信長の墓所は秀吉がその葬儀のために建てさせた大徳寺塔頭の総見院に置かれた。息子たちの墓と並んだその中央が、信長の墓になる。


ただし本能寺で遺体は発見されなかったため、葬儀のために香木の沈香で等身大の木造がつくられ、それを棺に納めて火葬された。大徳寺の方角から京都中に高価な沈香の匂いが漂うように、という秀吉の派手なパフォーマンスだった。 
この像の写しの織田信長坐像が今も総見院にあり、重要文化財に指定されている。


本能寺の変の直後、秀吉は明智軍が遺骸を見つけられなかったという情報を即座に得て、織田家臣の武将に片っ端から信長は本能寺で亡くなっておらず、まもなく自分に合流するという書状を書き送った。

信長の墓 大徳寺塔頭総見院
光秀が朝廷などを速やかに味方につけたにも関わらず「三日天下」に終わったのには、ひとつにはこのデマで信長を恐れた織田の家臣が、誰も味方につかなかったからだ。
総見院は明治の廃仏棄釈の際に襲撃され
この唐門と鐘楼以外のすべての建造物を失った


逆に言えば家康が信康事件を恨んで、あるいは織田=徳川同盟で自分と徳川家が置かれた立場への危機感から、信長を殺すチャンスを狙っていたとしても、そのこと自体は驚くに値しない。

肝心なのはそこではない。

既にこの前に家康は、織田=徳川連合軍が最終的に武田勝頼を滅ぼしたとき、熱心に武田の旧臣をリクルートしている。徳川は武田の旧家臣団を吸収することで、戦国最強だった信玄の軍略と、それを実践できる能力を手に入れたのだ。

その後の江戸時代には、信玄の「甲陽軍監」は幕臣を中心にさかんに研究された。開国で西洋の軍略を学んだ勝海舟は「なんだ、ぜんぶ武田が言ってることだ」と言ったそうだ。

本能寺の変の時に井伊万千代ら少数の側近だけを連れて堺にいた家康は、紀伊半島を徒歩で横断する大脱出を敢行、この時の「伊賀越え」で、いわゆる伊賀忍者も味方につけている。

家康が天下無双の戦上手と呼ばれるようになったのはこの武田の旧家臣団の高い軍事能力と、さらに伊賀者のもっている諜報能力、情報収集能力が大きい。

そして羽柴(豊臣)秀吉が信長の事実上の後継者となると、信長の息子の味方という大義名分で秀吉軍との軍事衝突も辞さず、小牧長久手の戦で数の上では圧倒していた秀吉軍をさんざん翻弄して、実際の戦争だけを見れば勝利している。

だがこの時はまだ、秀吉を倒して天下に覇を唱えることが家康の目的ではなかった。

勢力・戦力的にはまだまだ秀吉を越えるのは難しいのだから当分は雌伏するにしても、秀吉が天下人になるからと言って織田=徳川同盟が至った信康事件のような悪夢は決して繰り返させてはならない。だから秀吉に自分に一目置かせること、秀吉に臣下の礼を取るにしても徳川の協力を高く売りつけることが、この時の家康の狙いだった。

はたして秀吉は妹を家康の妻を差し出し、母・大政所まで家康の下に派遣することで和睦を申し出、家康は豊臣政権のなかでも五大老の筆頭として大きな発言力を持つことになり、秀吉の死後には加藤清正や福島正則など、その恩顧の武将を積極的に自分の側に取り込んだ。

秀吉が関東の北条を倒す(この勝利も秀吉のやや苦手な実際の戦闘ではなく、ハッタリと包囲戦の兵糧攻めの末の和睦)ことで天下を統一し、潜在的な脅威にもなっていた家康を中央から遠ざけようとその北条領だった関八州に国替えさせると、家康は当時の関東が未開の土地が多い僻地だったことを逆手に取って、「戦国時代後」の新たな国づくりを既に始めていた。

全国統一を成し遂げた秀吉が朝鮮半島侵略を始めても、家康は国替えしたばかりの関東の領国経営に忙しいことを理由に参戦を断っている。無益な戦争に参加させられても疲弊するだけなので断って力を温存するための言い訳でもあったのだろうが、一方で家康は本当に関東の再開発に熱中していて、軍事力を労働力に転換するかのような大土木工事に次々と着手していたのでそんな余裕もなかったかも知れない。

本能寺の変のあと、家康はそれまで小姓として仕えさせて来た井伊万千代を元服させ、最重要の側近に取り立て、武田の旧家臣団を任せている。直政はやがて「井伊の赤備え」「井伊の赤鬼」として武勇で知られることになるが、元を糾せばこれは武田の赤備えだった。

大河ドラマの井伊万千代(菅田将暉)信康に「かわいい顔をしている」
と言われ 家康には「色小姓にしてやろうか」とからかわれるが
実際に井伊直政は童顔の美男だった

一方で童顔の美男で文化教養もあった直政は、豊臣相手の交渉などの外交でも頭角を現している。

北政所(秀吉正室・おね)を始め豊臣家の女性達が直政の色男ぶりに熱狂したとも言うのだから、以前の徳川家臣の三河武士団では考えられないことだが、信康事件以降、それまで三河以来の旧臣に遠慮しがちだった家康の態度も変わり、学問や文化教養を重視し、家中で奨励するようになっていった。

井伊直政

家康自身も(青年期までの今川の影響で)深く身に付けていた教養からすれば、秀吉が朝鮮半島を侵略して明の首都の北京まで攻略しようなどと言っていたのは考えられない素っ頓狂な話だったろう(距離と面積だけでもちょっと考えれば気付くこと)。

この暴挙は今では晩年の秀吉の狂気というか、側室の淀殿に男子が生まれると養子で後継関白だった秀次に難癖をつけて殺したり、息子秀頼を溺愛するあまり気に入らない女中がいれば父が帰って来るまで縛っておけ、父が直々に斬り殺してくれよう、などと書き送ったのとも合わせて、高齢の秀吉がおかしくなっていたとみなすのが一般的だ。

しかし一方で、中世封建制の主君が領土を分配しその支配権を保証するのと引き換えにその主君に従う関係を「戦国時代」のままに維持しようとするなら、国内統一を果たした秀吉が今度は対外侵略を始めたことそれ自体は、理の当然でもあった。

統一が完了すれば、家臣の恩賞とすることでその支持をつなぎとめるために分け与えるための領地はもう増えない。秀吉が戦国のロジックのまま全国統治を続けようとし続けていた以上は、どこかで戦争を続けなければ恩賞として分け与える新たな領地もなく、政権の求心力は維持できない。

朝鮮出兵で首の代わりに持ち帰った耳や鼻を埋めた「耳塚」 京都・豊国神社の門前

この発想そのものを変えたのが徳川家康だった。そこには「戦国時代を終わらせる」という確固たる意思が必要だったはずだ。

信康事件が起こるまでの家康が、信長が天下を統一して戦国が終わればいい、というくらいのいわば他力本願の意識だったとしても、信康事件と、その後はさらに冷酷な気まぐれさが激しくなった信長や、後を継いだ秀吉のやり方では、このままでは戦国は決して終わらなかった。

「戦国時代」の論理に従って我が子を殺すしかなくなってしまった家康は、その我が子の犠牲を戒めに、自分こそがいずれ戦国を終わらせることにこそ、生涯の目標を置いたのかも知れない。またそうとでも考えないと、こんな陰惨で後味の悪い歴史はなかなか受け止められないわけでもある。

信康の妻だった徳姫の墓は大徳寺総見院の
父・織田信長の墓所の片隅にある

「戦国時代」の武家社会とは、こんなにも嫌な、悲惨なものだった。そうそう安易に「信長かっこいい」などと美化するものではない。

8/31/2017

加計学園スキャンダルの、図面流出で見えて来た意外な本質



加計学園スキャンダルの追及に、安倍晋三首相が見え透いた噓ばかり言っているのはその通りだ。

だが、だからこそ不思議なところがある。なにかを必死に隠そうと虚偽に虚構を重ね続けているはずが、悪びれた風や後ろめたさがまったくないのは、なぜなのだろう?

開き直りだとしても、さすがに意外なまでの堂々っぷりで、雰囲気だけに目が行って発言の中身は気にしない人だと、首相がなぜ「噓つき」と言われるのかさえ分からないかも知れない。

その問題の獣医学部の図面を、「今治市加計獣医学部問題を考える会」が公表した。補助金を不正に受け取るための建築費水増しの可能性があると指摘する根拠になるからだ。


なお加計学園によれば総工費は192億円で、その半額の96億は今治市と愛媛県の補助金で賄われるという。

図面で分かる床面積から計算すれば建築費の坪単価は150万となり、相場と言われる70〜80万円の倍額であることは以前から指摘されていた。実際に図面が出て来ると、指定された建材が安価なものばかりであるのも含め、建築家によれば100万は確実に切り、せいぜい80万前後だという。

これでも大目の試算かも知れない。建材の多くが最も廉価なものなら70万強がせいぜいではないか。

ちなみに坪単価が150万以上の建築といえば、たとえば黒川紀章設計の新国立美術館であるとか、一流ホテルなどがこのレベルの値段になる。変わったところでは問題の東京都・豊洲新市場が坪単価150万超の計算になり、いくらなんでも高過ぎることが問題になっている。

図面で明らかになったのは、まったくそんな超豪華建築ではないことだ。鉄骨作りの、むしろ安普請と言っていい設計だ。

なお市と県で合計96億といっても、愛媛県は出費するかどうかも決めておらず、県議会でも問題になっているなか、さらにスキャンダラスなことに、最大で96億を負担することになる今治市では、加計学園側が出して来た数字をまったく検証していないらしい。「考える会」が怒るのも当たり前だ。


今治市は人口6万強、瀬戸内工業地帯の要衝に位置し、高度成長期には港湾と軽工業、部品産業で栄えたものの、今ではタオルこそ有名なものの、産業の空洞化・斜陽化も進むなか、この数字は市民にとっては青天の霹靂で、財政破綻すら危惧される(市は既に37億相当の土地を大学建設地として加計に無償提供している)のはもちろんだ。

だがここではあえて市民の側ではなく逆の視点で、192億の建築費を計上している加計学園の側の狙いを考えてみる…と、ますますわけが分からなくなる。

市民からみれば倍額の予算で自分達を騙して私腹を肥やそうとするとんでもない話に見えるし、そうやって加計学園の懐に入った額の一部が安倍首相や国家戦略特区諮問委員ら、この計画を強引に支援してきた連中にキックバックされるのではないか、との疑いも出て来る。

だが当の獣医学部を作りたい側からすれば、ほぼ倍額に水増ししたその半額をもらえるのなら、これで辛うじて帳尻が合うという話でしかないのではないか?

むろん自己資金などでまかなわれるはずの残り半額を工面しなくて済むのは丸儲けだが、元々資金力がないのなら(そして現に、同学園が経営する千葉科学大は経営の失敗が受け入れた銚子市を財政破綻に追い込みそうになっている)、この不正で加計学園が得られるのは、ほぼ無償で新学部校舎を完成させられることだけで、誰も「私腹を肥やす」ことはできない。

安倍政権の周囲で潤うのも、建設を受注している逢沢一郎議員の親族会社に大きな仕事が来たことくらいなものになってしまう。

逆に言えば、安倍首相が自分の政治生命の息の根を賭けることになってしまった「腹心の友」優遇問題の本質は、安倍氏本人の側から見れば、こういう話でしかないのではないか?

だから安倍氏には悪びれるところや後ろめたさもなく、まるで自分が「誤解された」だけであるかのように振る舞えるのではないか?

というか、本人からすれば「誤解されているだけだ」と思い込んだままなのではないか?

つまり安倍さんから見れば「やる気」がある「腹心の友」が獣医学部を作りたがっているのに、それが出来ないのはおかしい。だから総理である自分が一肌脱いだ、という「善意」だけであるのなら、確かにそこに安倍さん本人の「悪意」は認め難いし、安倍氏や加計孝太郎氏個人のレベルでみれば、まさに「岩盤規制」と戦っていることにもなる。

ましてその安倍さんたちが本気で「日本の獣医学は遅れている」「国際水準の、新しい需要に応える必要がある」と思っているなら、新獣医学部の設立が「日本のため」であり、それが許されない現行制度がおかしい以上、この程度の異例の優遇は「不正」ではなく、行政をねじ曲げたのもまた「日本のため」ということにすらなるのだろう。


だが言うまでもなく、この安倍さんたち個人レベルの正当化の理屈は、根本的におかしい

まず獣医学部の新設が出来ないことになっていたのは文科省の省令、文科大臣の告示に過ぎない。

新たな獣医学部のニーズがあるのなら、特区制度を利用した抜け道などではなく、行政府の長の権限でそれ自体を改めればいいはずだ。

むしろ政治家、それも国家リーダーの責任とは、そういうことである。

それこそ先端ライフサイエンスや、この十数年ほどパンデミックが警戒されている鳥獣共通感染症(鳥インフルエンザ、SARS、MERS、エボラ出血熱など)への対応が急務の「国家戦略」であるのなら、その必要性は公約として掲げ、国会で議論し、しかるべき予算もつけて、理化学研究所や国立感染症研究所、国立大学の医学部や獣医学部などを巻き込んで進めるべき話だ。

だいたい家畜伝染病や人獣共通感染症のパンデミックへの水際対応で愛媛県、ないし四国に穴があるというのなら、そこでこそはじめて特区制度の出番になる。縦割り行政に傾きがちな日本の官僚制度に風穴をあけて、農水省や厚労省と文科省の連携をしっかりやらせる必要もあるし、それが特区制度本来の重要な役割のひとつだったはずだ。

ただし、ならばそもそも畜産業がほとんどない今治市に大学を作って済むことではない。愛媛県全体ならたしかにブランド牛もあって畜産も盛んなことだし、愛媛県全体を特区に指定する、というのなら分かるが、この特区指定はなぜか広島県と今治市であって愛媛県の他の地域は含まれていないのだ。

それに国家戦略特区を所轄する内閣府が縦割り行政の弊害を排するように動いた形跡もない。むしろ真逆で、文科省が検討に当たって農水省の意見を求めていたのに内閣府に無視されている。

安倍首相が自分の総理大臣という立場が理解できているのか、首を傾げざるを得ないのは、森友学園・「安倍晋三記念小学校」スキャンダルにも共通する。これだってもし教育勅語を基礎に置いた初等教育を安倍氏が理想としているのなら、それまで幼稚園と保育園しか経営していない弱小学校法人に10億の国有地を8億に値引きして払い下げたり、国交省の補助金についても斟酌するような裏口で支援するようなやり方ではなく、堂々と国策として提案すべきことだ。

総理大臣として、それが理想だと思うならそう国民に訴える責任が安倍さんにはあるし、それが行政府の長かつ政権与党総裁としての役割のはずだ。

その上で国会の議決や国民の支持を得られないのならそれまでの話、というのが民主主義社会における権力のあり方のはずだし、こと教育の話なら、裏口を通してコソコソとやるようでは、その教育の倫理的な根幹すら疑われかねない。

逆に「日本のため」なら、堂々とそう主張すべきだ。その上で国民の支持があるのに既存の行政制度の壁で認められないのなら、そこで初めて「岩盤規制」と言えるはずだが、安倍さんの頭のなかではそうなっていないらしい。


加計学園にしてみれば、むろん初期投資が事実上ゼロで新学部を始められるのは、それはそれで私立の学校法人にとって十分に夢みたいな話だ。

とはいえ、金銭的な利益にもなり「日本のため」にもなり得るのはあくまで、十分に学生が集まり、学校経営が成り立てばの話だ。しかも大学経営なら普通の学部でも採算ベースが確立するのは4年目に、全学年の生徒が揃ってからだし、獣医学部の場合は6年カリキュラムなので、それまでが大変になる。

そんなことも頭に入れながら図面を見てみるに、加計学園のプロジェクトはますます、どれほど真面目に現実性があるのか疑わしくなる。

本当に真面目な大学設立計画で、ちゃんと採算性や将来性を考えたものなのか?

すでに当初の一学年定員160名の予定は大学設置審議会から疑問が出て140名に減らされている(つまり授業料収入は1割半ほど減る)上に、結局は判断は保留になっている。審議会の答申は原則非公表だが、報道各社の取材によれば、実習時間が既存の獣医学部の1/4しかないこと、「既存の獣医学部では対応できないこと」をやるのが国家戦略特区を認める条件だというのに、新分野への対応が不十分であることが問題視されたそうだ。

図面を見ても、一学年の定員が140人なのに図面によれば300人の大教室があったり、一方で実習設備のサイズはちぐはぐで、6学年840名(ないし元の計画なら960名)にはおよそ足りなさそうだったり、ずいぶんと派手なハッタリとケチくささが奇妙に同居しているように見えてしまう。

実習時間が既存の獣医学部の水準の1/4しかない、という問題もここに通じる。坪単価150万という超高額(ちなみに超一流と言っていい北里大学の獣医学部で坪単価82万で済んだという)なのに、なぜ実習設備をケチったのと同様のことで、実習費は確かに高価になるからと言って、実習時間を安易に減らしてしまえるのだろうか? 
獣医学部では少人数で実際の動物を使った実習が要になるが、これには金がかかってしまう。  
先月の国会閉会中審査で自民党の青山繁晴参議院議員が取り上げた、私大獣医学部の水増し定員問題も、真の理由はこの実習費の高さにある。獣医学部志望者が多いかどうかなんて、入学試験できちんと定員通りで切ればいいわけでなんの関係もないわけで、青山氏らが展開したのはまったく馬鹿げた詭弁だった。 
実際には、私大の獣医学部は既存の定員通りだと経営が赤字になってしまう窮余の策で、授業料の稼ぎを少しでも増やそうとしているのだ。 
授業料が高いからといって大学経営上有益なわけではまったくないのだが、加計学園はそんなことすらまったく分かっていなかったのではないか?

なかでもよく分からないのが、7階がまるまる会議室スペースで、大会議室にはとても広いパントリー(調理場)まで付随している。そこに生ビールのサーバーや、ワイン保存庫まで設置されることには、さっそくマスコミのかっこうなネタにされた。どう考えてもパーティー会場にしか見えないのだからしょうがない(学園側によれば、ワイン保存庫は取り消しになったそうだが)。



だがもっとおかしな点がある。

繰り返しになるが、国家戦略特区として獣医学部の新設が認められる要件のひとつが「既存の大学獣医学部では対応できないこと」で、加計学園や今治市、国家戦略特区諮問会議など要するに安倍政権側(加戸前愛媛県知事も含む)では、「最新ライフサイエンス」や、人獣共通感染症に特化した教育を売り文句にして来た。

もっとも、これはすでに虚偽であることがわかっている。文科省が存在を確認した流出内部文書のひとつでは、萩生田官房副長官と文科省の局長のやりとりのなかで、愛媛県が「プラスアルファ」としての特別な獣医学部は求めていない、と明言されているのだ。

だがその売り物になるはず(というか獣医学部新設が正当化されるためには必須)の実験設備が、5階の研究室・教員スペースの、それも極めて小さなクリーンルームしかないのだ。

外部との空気の出入りを遮断する出入り口や、内部を陰圧にして外に空気が漏れるのを防ぐ密閉構造を考えれば、せいぜい2人くらいしか作業ができない実験空間しか確保できない。

バイオセーフティ・レベル4までは目指していないにしても、こんなものでは鳥インフルエンザ・ウィルスなどレベル3のバイオハザード対応が出来るはずがない。

だいたい教員が常駐し、学生の出入りも多いはずの5階の研究室フロアに置くのもおかしい。理想は独立した建物、せめて最上階ワンフロアに隔離しなければならないのが常識だろう。

そうそう、パーティー施設だと疑われている7階を、最先端実験フロアにするのが正しい選択のはずだ。

しかもこのクリーンルームの直近にはエレベーターまであり、いったん実験している細菌やウィルスでも漏れ出そうものなら、そのシャフトの上下空間を通して建物全体で学生が感染の危険に晒されそうだ。

いったいどこまで真面目なのだろう? 計画の全体が、こう言っては悪いが素人の悪ふざけにしか見えなくなって来る。

こんなもので「国家戦略」のつもりなのか?

案の定、この獣医学部は安倍内閣自身が閣議決定した新獣医学部設立の要件も満たせそうにないし、大学設置審議会で「保留」になったのもせめてもの温情というか、昨今の文科省の方針で「却下」はなるべく出さず「保留」とすることで、形だけでも各大学の自主性を尊重することになっているからだ。文科省の審議会は「大学を作らせない」ためではなく、逆に新しい学校を作らせるサポートを担うのが本来の筋だからでもある。

だが、それでも申請が通らなければ、すでに「獣医学部は岩盤規制の象徴だった」と言っている国家戦略特区諮問委員会は、今度は「大学関係者がメンバーの新学部設置審議会こそ岩盤規制・既得権益」とか言い出しそうだ。

思い返せば、国家戦略特区を打ち出して「岩盤規制を自分がドリルの刃になって打ち破る」と言い始める以前の、第二次安倍政権の発足当時から、安倍さんはしきりと「戦後レジュームの打破」を主張していた。

「岩盤規制」もそんな「戦後レジューム」の一部だと言うのなら一応筋が通るが、逆によく分からなくなるのは、安倍さんがなにを「岩盤」とか「レジューム」とみなしているのかだ。

いやそもそも、「レジューム」ではなく regime、支配体制、カタカナ表記なら「レジーム」なのだが、こんな間違いを指摘されただけでも彼らは「揚げ足取りだ」どころか、「そんなことでケチをつけるのは岩盤規制派だ」と言い出しそうだ。

そういえば加計学園が提案していた獣医学部構想は、最先端ライフサイエンスや人獣共通感染症対策を売り物にしているはずが、MERS(中近東呼吸器症候群)をMARS(火星?)と誤記していた。 
第一次安倍政権の10年前から構造改革特区に申請して来たとか、愛媛県の加戸前知事によれば十数年来におよぶ、永年の念願のプロジェクトの割には、こんなところでもまったくお粗末だった。 
もちろん、加戸氏が国会で述べたこと自体がまるごと、まったくのその場しのぎの虚偽でしかなかったのだが。

安倍さんは外交では「法の支配」を主張して対中国や対北朝鮮の牽制のつもりでいるが、国内向けに「打破」を言い募っている「戦後レジューム」は、最初は改憲を目指していたり(つまり「憲法」が「支配体制」なのか?)、なのにその改憲から逃げた「解釈改憲」で安保法制を強行してみたり、あるいは法体系に特例を認める「国家戦略特区」を、さらに法の抜け道に利用しようとしてみたり、既存の刑法の体系に反する可能性が高いだけでなく中身自体が詐欺的で恣意的な運用の温床になりかねない「共謀罪」の強行採決など、むしろ「法の支配」をなし崩しにしてばかりだ。

法の公平性を損ないかねない特例や優遇の、うわべだけの合法化の言い訳として新たな制度や法を作ってしまったり、行政が積極的に法の抜け道を探ったり辻褄合わせの口裏合わせで記録をつけなかったり隠したりするのなら、形式上の合法性の上辺だけは担保され得てるとしても、それでは「法と制度に基づく統治」そのものが骨抜きになる。

法論理や立法主旨をねじ曲げた法をさらにねじ曲げて運用するような真似は、本来のまともな政府、あるいは「普通の国」なら避けるべきである以前に、まず本来なら必要がないはずだ。

ねじ曲げなければいけないほど社会の変化に適合しなくなった法や制度なら変えればいいだけだし、ちゃんと説明をすれば世論の支持も得られる。

法とは合理的かつ公平に解釈され運用されるものだという法治の大原則に行政府や司法府が忠実でさえあれば、わざわざ改正の手間すら必要がない場合も多い。

ところがこうした当たり前の「法の支配」の原則が、安倍政権には「戦後レジューム」や「岩盤規制」に見えてしまうらしい。

加計学園や森友学園をめぐるスキャンダルはその典型だ。「行政の私物化」なのは客観的に見てその通りなのだが、これらの事件は従来あった贈収賄や利権がらみの、政治家が私腹や党利党略に走った「私物化」とは動機の本質が異なっている。

この獣医学部スキャンダルのおかしさについては既に述べた通りだし、森友学園「安倍晋三記念小学校」スキャンダルに至っては、安倍さん達の主観としてはまったく純粋に、自分達が理想とする小学校を作って欲しくて、そのために籠池さんが頑張ってしまい、安倍さんたちはその純粋な「思い」に報いようと、国有地を格安で買えるように算段を尽くし、元々「抵抗勢力」である官僚をねじ伏せることが「戦後レジュームの打破」なのだと思ってしまっていたのだろう。

言い換えれば、安倍さん達の国家観や政治観というのは、民主主義や近代法治主義の問題以前に、そもそも国家のありようとして躰をなしていないのだ。日本の歴史でいえば弥生時代からヤマト王権への移行期レベルの、部族連合に「大王(おおきみ)」を乗せた程度の原始古代国家みたいなものが、安倍さん達の「理想」「美しい国」なのかも知れない。

その古代日本が、すでに始皇帝以来統一的な法と制度による国家統治を確立していた中国の帝国を模倣した律令制を確立しようとしたのが、現代にまで続く天皇を象徴的な中心とする日本国家の黎明(物部守屋を滅ぼした推古朝から、白鳳時代を経て奈良時代・聖武天皇の治世の前半くらいまで)なのだが、そんな実際の歴史を踏まえることすら、安倍さん達にとっては「自学史観」に見えてしまうのかもしれない。

日本が東アジア文化圏の一部だったのは記録が残る以前からの日本の歴史であり、法と制度に基づく組織化された国家統治もまた中国から学んだものであることは、今さら変えようがないのだが。 
まさか「聖徳太子」以降のすべてを否定するわけにも行くまい。

それにしても森友学園にせよ加計学園にせよ、あるいは「道徳」の教科化にせよ、安倍政権のとりわけ教育分野に対する目の敵っぷりは凄い。

一方で安倍政権の数少ないポジティブば成果としてあげられるのが、フリースクールの役割を拡充した規制改革なのだが(ちなみに文科省でこれを主導したのが、前川喜平・前次官だった)、これですら不登校やいじめ等の被害生徒の救済と多様な子どものニーズへの対応という本来の目的を、安倍さんは勘違いしていたのかも知れない。つまり、「学校」を否定するか、せめてその役割を相対化したかっただけなのではないか?

この人は、よほど学校や教育を基盤とする「知の体系」が嫌いなのではないか?

そういえば昨年には、灘や麻布などと言った、いわゆる超一流の私立中学高校が、採用した歴史の教科書をめぐって、それが「反日」だとする安倍シンパと目される層からのクレーマー攻勢に遭っている。

なんでも「OBだが今後は寄付金は出さない」という文言がテンプレート的に使用されたハガキが大量に送りつけられたのだそうだが、そのほとんどが匿名だったというから笑い話にしかならないのだが、そこに見え隠れするのは学歴社会における「超一流」権威を自分達の恣意的な身勝手でねじ伏せることを幻想する集団的な自己満足だ。

だいたい、問題にされたその教科書というのが、一律の通史的な歴史観を元に知識を暗記させるのではなく、多様な歴史を併記して生徒に考えさせることを目的に、元社会科教師たちが編纂したものだ。安倍シンパの人達が噛み付いたのは慰安婦問題なのだが、日本政府の公式見解である「直接に命じた証拠はない」もちゃんと明記されている。

およそ「反日偏向」などではなく、むしろ公平に多様な情報を与えて自分で考えさせるという、まっとうに近代的な教育方針の知的手続きの根幹自体が、この人達には気に入らなかったのだろうか?

まあ多様な情報を公正・公平に判断すれば、「慰安婦問題」の日本国の責任についての結論は、学術的にはとっくに見えているわけで、それが「反日」になるのかも知れないが。

こうした願望は加計学園問題をめぐる「岩盤規制」「抵抗勢力」という決めつけにも通ずる。例えば国家戦略特区ワーキング・グループの原英史座長なぞは「既存の獣医学部では対応できない」という条件について、具体的になにが対応付加なのかを問い合わせる気すらなかったと公言している。

その根拠とするのが以前に文科省が出した報告なのは滑稽ですらある。これは私学獣医学部の一部の現状を危惧した獣医師会の意向を反映した調査結果で、統廃合を促すものだ。獣医学部は実習などのコストが高く一部の私学は経営難への対処から定員水増し等が多く、全体の教育水準の低下が問題になっている。言うまでもなくその対応であれば、新規の私学獣医学部の新設では逆効果になりかねない。

今後の獣医学部教育はどうあるべきか、なにが課題で、どうすれば国際水準の最先端の教育へと刷新できるのか、といった課題についてもっとも適確に答えられるだけの情報や素養・知識を持っているのは、言うまでもなく現役の獣医師たちや獣医学部の教員・研究者のはずだ。だがこのスキャンダルでは、あらゆる局面でそうした専門家の専門知識や情報を踏まえた合理的な判断というものが無視されている。

国家戦略特区諮問会議やワーキンググループも、内閣府も、そういった本来の専門家は目の敵にして来ている(「既得権益側」になるらしい)し、加計学園なら加計学園の側では、掲げた看板だけは立派というか、既存の獣医学部を侮蔑するような大言壮語を掲げながら、中身はまったくお話にならない稚拙な素人プロジェクトを、今治市に出させた公金でやるつもりだった。

なにも専門家の言うなりになれ、獣医師会に従うべきだ、という話ではない。そこからきちんとヒアリングなりなんなりをしたうえで、合理的な判断を下すのは政治家の役割だ。ところがその本来の意味での知的かつ合理的な政治判断というものを、安倍政権はまったくやる気がないらしい。

これでは「国家」と呼ぶに値するだけのものを公正に運営することはとても出来ない。自分達がよく知りもしないことについて、その拙速な思い通りに行かないとなると、自分たちの不見識や無知を反省したくないから「岩盤規制」「抵抗勢力」「戦後レジューム」だから打破しよう、と言っているのが安倍政治の本質に思える。

8/30/2017

不可解な事件をめぐる不可解な裁判~埼玉女子中学生誘拐「2年間監禁」事件


逮捕された当時の寺内樺風被告 首に自殺未遂の傷があった

2年間も行方不明だった女子中学生が、実は大学生に誘拐されたままになっていた。

自力での脱出が成功して発覚したこの事件はマスコミでも大きな注目を集め、ネット上で論争も引き起こした。その「論争」の詳細には触れたくない。賛否両論に分かれた喧々諤々の、そのどちらも的外れにしか思えないだけでなく、そんな誤解に基づく風聞は、被害少女の将来に禍根しか残さないからだ。

そして今、一審の裁判が進んでいる。

だがあれだけ話題になった発覚当時との不釣り合いさが不自然なまでに、報道はおとなしい。新聞が掲載するのもせいぜい社会面の小さなベタ記事扱いだったのが、被告が奇声を発し奇妙な発言を始めて判決言い渡しが延期となったことで、久々にテレビ報道でも取り上げられるレベルのニュースになったが、こんなことでもなければ裁判が進んでいたこともほとんど知られなかったろうし、事件そのものがもう忘れられていたのかも知れない。

だとしたら、率直に言って、その方がいいというか、せめてもの救いだ。

被害少女のことを考えるなら、事件発覚当初にあんなに大騒ぎしたこと自体が、致命的な誤りだった。しかもこの点については、ただマスコミの興味本位な視聴率至上主義や、ネット上の下衆な好奇心だけを責めていいものでもない。

2年間におよぶ誘拐監禁という事件それ自体以上に異様だったのは、被害者の父親が友人と共に得意満面に記者会見に現れ、娘の身許が特定されかねないことをペラペラと喋りまくり、その後も彼女の証言とされるものがこの父からマスコミに垂れ流され続けたことだ。

当たり前と言えば当たり前だが、その「証言」はその父親をこそひたすら満足させるような内容ばかりだった。

逃亡を決意したのはネット上で父親とその友人・仲間達が自分を探しているホームページを見たからだったとか、誘拐されたのは両親について心配させられる噓を言われてついて行ってしまったとか、犯人にはお前は両親に棄てられたのだと思い込まされて絶望していた等々、あまりに出来過ぎな上に、こと誘拐の経緯については現実性が疑われるような、たぶんに子供じみた話だった。

子供じみていたのも子供が考えつくことなのであれば無理もないが、もし父親の作り話や、その誘導尋問で作ったストーリーだったとすると相当に始末が悪い。

いやそうでなくとも、少女がひたすら父の気に入るようなことを、当のその父に言い続けていた、というより “言わされ続けていた” と言った方が精確にも思えるが、その痛々しさと言ったらなかった。

さすがに途中で警察が止めさせたようだが、その警察からの情報の、犯人の証言とされるものが、これまたその少女の(というか父親の)話に懸命に辻褄を合わせるかのような強引な中身で、こちらにもまたずいぶん無理があったのに、報道も、ネット上の議論も、なぜかその不自然さにはほとんど触れることがなく、事実関係よりも事件の外見上の構図について、なにを興奮でもしたのか、憶測というか空想の開陳に熱中していた。

この誘拐は現実の出来事だったはずだ。だが多くの人は「この想定は現実にあり得るかどうか」を自問するよりも、あまりにも現実離れした事件に自分たちの現実離れしたファンタジーを押し付けて、ただ消費してしまっていただけなのかも知れない。

しかもそれは、報道陣とかSNS利用者とかの、実は直接になんの関係のない興味本位の傍観者でしかない人々に限ったことでもなかった。

当事者、とくに被害者にとって最も身近だったはずの両親もまた同様であり、捜査当局もまた思い込みというか、社会が考える「子供とは、中学生の少女なら、こうあるべき」という、その実かなり現実離れした幻想に過ぎないものに囚われ続けたまま、なんとも抽象的な罪状しか立証できる見込みがなさそうな裁判になってしまっている。

なにしろ求刑は懲役15年だが、その理由がずいぶん珍しくもあり、また不自然さも禁じ得ないのだ。主たる罪状は、少女のPTSD(心的外傷性症候群)を傷害とみなしての傷害罪だと、検察はいう。

もちろんPTSD、とりわけ思春期のそれは深刻な被害なのに、これまで日本では裁判も含めて軽視されがちだったのは大問題で、児童虐待のケアなどについても深刻な限界を招いている。今回の裁判がそうした偏見を覆す新しい判例になるとすれば、歓迎すべきことではある。

しかしそれでも、誘拐監禁事件のはずが「PTSDを与えた傷害罪」という、立証が難しそうな罪状がメインで、身体的な暴力による傷害や、拉致・略取・誘拐・監禁の具体的な(物的証拠も含んだ確実な立証ができる)犯罪行為が主たる訴因にならないのでは、やはり違和感は禁じ得ない。

もっとも、少女が最終的には自力で逃げ出せた状況などから考えれば(物理的に閉じ込められていたわけではなく、しかもその直前に引っ越しまでしている)、監禁の立証はかなり困難なのだろう。

拉致・誘拐もまた、およそ暴力的な手段を立証できそうになく…というよりは、そんな事実自体がなかったように思われそうな起訴内容になってしまっているのだが、これは最大の被害が少女の重度のPTSDという罪状を見れば、やむを得ないことでもある。

そこまで深刻なトラウマになったのだとしたら、その原因はまず誘拐時の経緯なのだろうし、ならば思春期のPTSDの場合、客観的で精確な記憶を話せる可能性は極めて低いし、また証言させること自体が拷問に近い虐待になりかねないからだ。

とはいえその結果(なにしろ「真相」は被害者と加害者以外に知る由もない)、裁判では拉致も監禁も、物理的な暴力や直接的な威嚇ではなく、少女に強烈な恐怖感をなんらかの形で植え付けて(といって、暴力なしにどうやれば可能なのだろうか、というのも大きな問題となるが)、マインドコントロール状態に置いていた、というストーリーくらいしか成立しなくなり、またそういうストーリーを検察が構築した結果、PTSDを引き起こしたことが主たる罪状になったわけでもあろう

一方で、しかしその同じ検察が被告については精神鑑定に基づき「自閉スペクトラム障害」(いわゆる発達障害のこと)の傾向があるとも認定している。

被告の外見だけでも「マインドコントロール」ができそうなタイプにも見えなかったのが、この障害がある(俗にいう「空気が読めない」、他人が発する微妙な表情などのサインを無自覚に認識してわざわざ意識するまでもなく対処することができない)のにマインドコントロールを駆使というのは、ずいぶんちぐはぐな話に思える。

それにしても、最初は恐ろしく猟奇的に見えながら、事実関係が分かって来ると残酷さよりも不可解さばかりが際立つ事件だった。そこで「裁判で真相を明らかに」となるかと言えば、弁護側・検察双方の主張を見る限り、あまり期待できそうもない。

ならばせめて、裁判がほとんど報じられないことで事件そのものが忘れ去られて欲しいのだが、しかしどうにも無理があり思い込みや興味本位な幻想、はては一部の人々の願望ばかりが先行した誤解だけが、なんとなく事件のイメージとして残ってしまいそうなのは、それでいいのだろうか?

被告はこれまでの裁判でまったく反省の意志を示さず、「美術品を盗むなどよりもずっと軽い罪だと思っていた」「なにが悪かったのか分からない」などとうそぶいているというが、これまたずいぶん無理がある話だ。

逮捕直前に被告が自殺を諮って失敗していることひとつ取ってもまったく整合性がないし、美術品泥棒との比較に至っては窮余の思いつきのへ理屈にしても強引過ぎる。

むしろそんな無理矢理な証言から見えて来るのは、被告が一生懸命に自分が極悪人であるかのように振る舞っている、というか猟奇的な凶悪犯を自分が思いつく限りの想像で演じようとしていることに思える。

判決言い渡し予定の公判では奇声を発し、本人特定の質問には「オオタニケンジ、年齢は16歳」「現住所は群馬県高崎市のオートレース場。職業は森の妖精でございます」と答え、裁判長が「私が言っていることが分かりますか」と尋ねると「日本語が分かりません」と言ったという。結果、判決公判は延期になったが、これも発狂した凶悪犯を一生懸命に演じている芝居ではないか、とも思える。

このような事件があると、ついそうした精神の歪んだ凶悪犯の起こした異常な事件として片付けたくなるのだがが、報道された範囲でも詳細を見て行くと、誘拐監禁事件としてはなかなか説明がつかないことが多過ぎた。

2年も監禁して隠し通すとなると田舎の大きな農家の離れとか、それなりの広さと部屋数がなくては難しいだろうし、だから犯人が大学生というのならばせめて実家の一軒家かなにかと思えば、現場は大学生が下宿していた二間のマンションだった。

なのに物音などで周囲に怪しまれることもなかったのは、ことさら「隠して」もいなかったからだったようだ。

現に犯人と少女は近所の住人にしばしば目撃されていたが、現代のことで近所付き合いの会話があるわけでもなく、なんとなく兄妹だと思われていたらしい。

昨今のマンションは外から鍵をかけて内部に人を閉じ込められる構造にはまずなっていない。外付けの鍵を使っていたという報道が出ては否定され、結局正確なことはあやふやなままだったが、裁判ではどうなっているのだろう? 

いずれにせよ少女が脱出できたときには、鍵は普通に内側から開けられるものだけだった。この時には、2人は大学があった千葉県から東京の東中野に引っ越しているのだが、これも普通の「監禁」状況としてはまず考えられないし、無論弁護側が主張し、今は被告もそれに合わせようとしているようにも見える「統合失調症」も、まず確実にあり得ない。

どういう「監禁」が可能だったのかの疑問は、そもそも「監禁」ではなかったのではないかという憶測を呼ぶ。とはいえ、そこからあらぬファンタジーを膨らませ、それをネット上で大真面目に吹聴する者も多かったのも、筆者にとっては驚きだったし、無節操な推論というより「願望」の開陳が、性犯罪被害者がしばしば受けるセカンドレイプとあまりに似通っていたのだから、激しい反発を呼んだのも当然だろう。

だがそこで「ストックホルム症候群」といった論が出て来たのは事件の「解決」の経緯を見る限り明らかに行き過ぎで(自力で脱出しただけでなく、保護されて一応入院はしたものの、身体的な健康にはまったく問題がなかった)、かなり現実離れしており、だからこそこうした善意の「擁護論」もまた、逆に被害者の将来にも禍根を残しかねない。

どういう「誤解」かといえば、端的に言ってしまうなら、ファースト・レイプもなかったのにセカンド・レイプを、被害者をセカンド・レイプから守りたい善意が、逆に引き起こしてしまっていた。

デリケートな問題なのでこの言い方に留めておきたいが、「セカンド・レイプ」を危惧する以前に、この事件の場合は文字通りの「ファースト・レイプ」どころか、直接的に性的なことは恐らく一切なかったとしか思えない、説明がつかないのだ。

最初からそう考えないと辻褄が合わない事実関係ばかりだったし、現に検察も、このような誘拐監禁の状況下では性的関係があっただけで強姦ないし準強姦、最低でも被害者は未成年なのだから少年保護条例違反の立証はほぼ自動的のはずが、そのいずれも訴因に入れていないだけでなく、論告求刑のなかにある被告の証言の一部にも照らせば、今や確実だと言っていい。

検察が被告の証言を基に犯行の動機として挙げているのは、「観察したかった」だけだ(ただしこの自称「動機」もかなり疑わしいのは、後に論じる)。直接に性的なことは一切出て来ていない。これは事実として性的なことが一切なかったからであろうと同時に、被告が少女についてそうした誤解が広まることを懸命に避けようとしているからでもあろう。

発狂した凶悪犯の病的な猟奇犯罪だが、性的なことは一切ないという、よく考えるとずいぶん奇妙で不自然で犯罪心理学的にも説明がつかない事件の構図にはなるが、こんなものでも強引に押し通し世間に信じさせないことには、父親のせいで事実上身許が世間に知られてしまった被害者少女には、事実上将来がなきに等しくなってしまうし、戻った家庭での居場所もなくなってしまうだろう。

被告も思わず「少年」と言ってしまいたくなるほど子どもっぽいところがあるが、その子供の発想なりに懸命に考えついたことを、今の彼はやっているように思える。

精神鑑定にもかけられ、検察は「自閉スペクトラム障害」つまり発達障害の傾向があることを認定しつつも、責任能力は問えるとしている。これは当然の判断で、発達障害では一時的なパニックで前後不覚に陥ることはあっても、2年間も継続する譫妄状態はまず考えられない。

弁護側は責任能力を争点にするくらいしか弁護方針が思いつかなかったのか、先述の通り被告には統合失調症の傾向があると主張しているが、こうなると「弁護士やる気があるのか?」と文句も言いたくなる。

被告は2年間もの長期に渡って少女を自分と同居させ、アルバイトや仕送りなどの収入だけでちゃんとその二人分の生活を維持できていただけでなく、同時に理系の大学のかなり難しい過程を優秀な成績で卒業し、就職まで決めている。以前にはアメリカに渡って小型航空機の免許も取っている。

軽度の発達障害ならもしかしたら可能かも知れないが、統合失調症による責任能力が失われるような譫妄状態で、こんな器用なことができるはずがない。

動機が少女を昆虫か小動物を閉じ込めるような意味で「観察したかった」というのも、近隣住人の目撃証言がでっち上げでもない限り、実際のマンションの構造や近隣住人の証言などからして、まず成り立たない。

事件の結果の異常性に囚われるあまりに、我々はなにか尋常ではない、常軌を逸したことがあったに違いないという先入観と、猟奇的な好奇心に執着し過ぎていないだろうか?

2年というのは、確かに異常な長さだ。

だが結果として「監禁」になるのは、それ自体としてはむしろ平凡で日常の枠内でしかないシチュエーションさえあれば成立し得るし、いったん成立していれば惰性のまま継続することは十分にあり得るのが人間の「生活」だ。

発想の逆転で、どうやって2年間も監禁し続けたのではなく、なぜ2年間もこの状態が継続され得たのか、という設問に立てば、検察の主張通りに重度のPTSDが少女に残っているようなマインド・コントロールというのもひとつの仮説としては成立するし、それでもなにかのきっかけでそのマインド・コトロールか、あるいは惰性でしかないものが壊れ、彼女が脱出する勇気を持てたというのも無論あり得る。

脱出時に彼女は500円しか所持金がなかったと報道にあったが、たとえばお金がなければ逃げ切れないと判断していたとも推論できる。

ただし一方で、無一文だろうがとりあえず警察に駆け込んで保護を求めればいいとは考えなかったというのも、不自然さは禁じ得ない。

しかし社会の標準からすればまったく奇妙な、理解不能な「生活」とはいえ、少女が被告のマンションに暮らすこと自体が日常化していれば、「2年の監禁が異常」という外形的な事実よりも、2年後の脱走を「日常」に対する「変化」として考え直した方が、有益な思考の枠組みになるのではないだろうか。

だいたいまず初歩的なこととして、子どもが一日一晩でも家に帰らなければ、親はひたすら心配するだろうが、子どもの側はどうかと言えば、帰ったとたんに叱られることを実はまず心配するものだ。帰るにはなにかうまい説明か言い訳を考えつかなければならないし、それがなかなか思いつかなかったり、そうして親と対決することをつい躊躇し忌避してしまうだけでも、「明日でいいや」となるのも、むしろ自然ですらある。

そうやって日々が積み重なればなるほど、早く帰って謝っておけば良かったと後悔するほどに、帰る時の心理的なハードルは離れている日数が長ければ長いほどに上がっていく。

普通なら最大でも二、三日から一週間で済むだのろうが、なにかのはずみか、単にいいわけを思いつかなかっただけで数週間、数ヶ月と引き延ばされ始めれば、帰ったときの説明や言い訳をやりようがますますなくなり、そうなってしまえば2年だってただの「惰性」になる。

契機がなんだったにせよ、このような「惰性」は案外と簡単に成立し得るのが子どもの心理だし、だからこそ彼女が主体的にその「惰性」を壊して「変化」を起こそうとした動機を考えることの方が、それまでの2年間の意味を解き明かすことにつながりはしないだろうか?

まず警察に駆け込む、という当然の行動を考えなかったのは、彼女の側には彼女の側で、監禁され続けたというより「家に帰ろうと決心しなかった」ことについていささかの後ろめたさがあったと考えれば納得はいく。

念のため、積極的にそこに残ろうとしたのではなく、なんとなく「(ひどく叱られてもいいから)家に帰ろう」とまでは思わなかったに過ぎないことは、あらためて強調しておこう。ここには決定的な違いがある。

少女の側に立って考えるなら、東中野に引っ越したという具体的な生活環境の変化が、逃亡を決意する大きな契機になったと考えて、まず大きな間違いないだろう。

ひとつには、千葉県にいたときに較べて交通の便が圧倒的によく、駅も徒歩圏内だし電車などでの逃亡が容易になった面もあるだろうし、現に彼女は駅に逃げ込んでそこの公衆電話から両親に連絡し、両親に言われて警察に保護を求めている。

ただしこれは、引っ越しの時点で新しい住所などをどこまで彼女が把握できていたかにもよる。千葉にいたときには近所の証言によればしばしば2人で買い物に行く姿が目撃されていたはずだが、東中野に移ってもそうした外出の機会はあったのだろうか?

いずれにせよ、引っ越しが逃亡の契機になったのは確かだろう。つまりはより直接的に、環境が変わったことそれ自体の心理的な影響が大きかったのだろうし、特に重要だったのは、そもそも犯人が引っ越した理由ではなかったのか?

大学を卒業し就職して社会人になることを犯人が少女に隠していたはずもないだろうし、この犯人の側の変化の意味、これまでの生活が激変したことは、いままで惰性で家に帰らなかった少女の側にも「自分はこのままではいけない」と思わせたはずだ。中学校2年生で誘拐されたまま学校に行かず、自分の社会的な成長も、自分の時間もいわば止まったままの2年間を経て、被告の青年の方は社会人になるという成長の大きな一歩を踏み出している。

そこで否応なく突きつけられる現実がある--自分もまた、本来なら4月には中学校三年生になっているはずだ。このままでは、自分は中学最後の1年も経験できず、高校にも進めなくなる。

詳細が分からない以上は憶測をみだりに吹聴すべきでもあるまいが、それでも警察も検察も弁護側も、そして報道もその受け手である社会全般も、事件全体の構図を完全に読み違えているように思えてならない。

被告の奇妙な証言もその誤った構図の枠内での役割を必死に演じようとしているだけに見えるのが、この事件が「謎」である最大の理由ではないのか?

事件の結果としての異常性とは別に、もうひとつ我々が当然の前提だと思い込んでいることが、実はそれをひっくり返すだけで全体像の説明がつく。

子どもが親元で育つのは当たり前で、子どもにとってそれがいちばん幸福であり、だから少女が家に帰りたいと思い続けて来たはずだ、と我々は思い込んではいないか?

言い換えれば、家族との2年間、学校に行けたはずの2年間を奪われたことを、少女がずっと「喪失」であり「被害」として認識していたはずだというのが、この事件の理解の前提になっていた。

そうした前提で行くと、一方では現実的に、少なくとも物理的な監禁がどうみても困難だった事実関係がある以上、逆にこうした「喪失」よりも優先される事情が少女の側にあったはずだ、という考えにしか至らない。

だから検察はマインドコントロールとその結果によるPTSDというストーリーに至り、たとえばネット上ではそこに疑似恋愛的というか小児性愛的なマンガやアニメに通じるファンタジーを、勝手に事件に投影する主張も相次いだ。

だがどちらも、そもそもの前提が間違っているのだ。

子供は親元で育つ「べき」、子供は親の元に返りたいと思っている「はず」というのは、あくまで社会的に共有さえる価値観から来る倫理規範か、最悪共同幻想でしかない。

そうである「べき」だとしても、思春期の子供にとって親元にいることが幸福、ないし楽しい、そうしたいと思っているとは限らず、むしろ逆だ。この年齢ではむしろ親の存在を抑圧と感じ始めるのが正常な発達段階だ。

たいがいの子供は学校に行かなければいけないとは思っているが、「行きたい」と思っているわけでは必ずしもない。行かなくてはならないからだ。

子供が「学校に行きたいですか」「楽しいですか」と訊かれたら「はい」と答えるのは、そう答えなければならないからでもある。

ただの一般論としてさえそうである上に、現代の日本の中学校が子供たちにとって楽しい場であるかといえば、まったくそんなことはないと、実は日本中の誰もが知っているはずだ。なにしろいじめによる自殺が過去30年以上社会問題となっているのが日本の学校である。

そんな学校が本当に、どうしても行きたいと思えるほど楽しいだろうか?

今の日本の子供達にはそれが当たり前になっており、どういじめを避けるかの方法論も(いじめられるくらいならいじめる側になった方が楽であることも含め)習い症になっている。習い症、惰性、日常は、いまさら積極的に嫌だとも思うまいが(素直にそう思ってしまうだけで、最悪いじめ自殺予備軍になる)、いったんそこから解放されれば、ぜひにも戻りたいとはなかなかなるまい。

この事件の被害者少女にとって、皮肉にも誘拐されて学校に行けなくなったことが、逆にその恒常的な抑圧環境からの解放にもなった。

クラスメートや教師にしじゅう気を遣い続けるくらいなら、朴訥として不器用でどう見ても抑圧的には見えそうにないし、そういう態度がなかなか取れそうにない犯人の大学生ひとりに、適当に気を遣っておけば済むだけならば、ある意味でずっと楽にもなり得る。

つい「少年の」と言いたくなるが成人している被告の動機はといえば、本人がまったく証言しなさそうなのでなんとも言えないが、行き着いたのは惰性の共有と言った程度のことだろう。

報道に出て来た同級生や近所の証言から類推するなら、結果として疑似家族、疑似兄妹的な「生活」になんとなく満足していたようだ。そもそもの誘拐の発端はといえば、これは証言がはっきりしない以上、どうにもよく分からない。

もう一点、皮肉なことに事件によって彼女がそこから解放された、もしかしたらもっと大きな抑圧がありえる現実も、この事件の場合決して見落としてはなるまい。

繰り返すが、まず一般論として、思春期の少年少女にとっては家庭もまた決して居心地のよい場ではないのが、この少女の場合はもっと複雑なのだ。

つまり、両親の問題があり、これこそがまた相当に深刻である可能性が高い。

ここでどうしても、事件の公表当時からの父親の異常な行動に再び言及しなければなるまい。親であれば娘が見つかったことの喜びと同時に、今後彼女が直面することになる困難にもすぐに思いが至るし、最初は喜びのあまり思い当たらなかったとしても、警察は必ずそのことは示唆するはずだ。つまり、被害者の名前は絶対に匿名にしなければならないし、身許が特定されて将来に渡ってこの異様な事件が彼女個人と結びつけられることは極力避けられなければならない。

ところが…父親の行動が真逆だったのは先述の通りだ。

事件の解決にはなんの直接の関係もなかったのに、父親は記者会見で「探す会」の仲間を伴って登場して自分達がいかに頑張ったのかを強調し、喜びを露にしたのは娘が助かったことよりも、そのじぶんたちの努力が報われたことで、そうすれば確実に娘の身許が特定されてしまうことにはまったく無頓着だった。

どう考えてもこの自己顕示欲の激しさと、自制心の欠如した身勝手さは異常だ。つまり、事件によって皮肉にも少女がそこから解放された「家庭」とは、このように幼稚で「男の子」的な仲間意識に執着し、自制心や親としての自覚がなく相当に自己中心的な父が、だからこそ父・家長として無自覚に抑圧的に振る舞っている環境ではなかっただろうか?

事件発覚後に、父親経由で報道された少女の「証言」によれば、彼女が脱出を決意したのは、ネットでその父親達の活動を知ったからだという。

ならば結果論として少女が見つかったことになんの直接の関係もなかった「探す会」こそが、実は事件の解決に決定的な役割を果たしたことになる。

言い換えれば、少女は自自力で、自分の意思で脱出したことをあえて無視して、「お父さんに勇気をもらった」、つまりは「お父さんに助けられた」と言えるような立場を自分で作ったわけでもある。

もちろん、そんな出来過ぎた話はまずあり得まい。

むしろ結果としてなんの役にも立たなかった「探す会」だったからこそ、父親がそのことに「傷ついて」機嫌を損ね、自分がこの家族に戻ることが困難になるのではないかと、少女が怯えているようにすら見えて来る。そうでなくとも、2年間もそこにいなかった家庭にいきなり戻ることは、誰にとっても決して簡単ではない。家族の関係性を一から作り直す覚悟すら必要になる。

どうも、もっとも保護され配慮される必要がある少女こそが、逆にいちばん気を遣って、一生懸命に大人達に配慮しているのではないか?

そう思わせる存在は、少女の父親だけではない。

裁判では父親ではなく母親が証言していて、どうも検察もこの父親を証言させるには信用性が欠けるか、いずれにせよ事件の被害の立証には役に立たないと判断したようなのだが、代わりに出て来た母親の証言もかなりゾッとさせられるのだ。

母親は犯人が反省していないと聞いて「なにか自分たちが損したような気分」で不快だ、と述べたのだ。

どういう事情であれわが娘の正常な2年間が「奪われた」事件についての親の心情としては、ずいぶんそっけなく、そして完全に自己中心的で、娘のことがまったく無視されているのだ。

果たしてこの両親の下で、少女は幸せな子供だったのだろうか? このままで彼女の将来に心配はないのだろうか?

もちろんこの2年間が「幸福」だったわけもあるまいが、もしかしたら「安心」は出来ただけ(暴力も性的な脅迫もないのなら、直接的にそんなに脅威はないし、学校や家のことはいったん「忘れて」しまえば、不安になる要素は実はそんなにはない)でもマシだったとしたら、こんなに不幸なこともない。

そしてなによりも不幸で悲劇的になり得るのは、問題の2年間を含む少女の「これまで」以上に、彼女の「これから」、今現在の彼女の家庭での生活と将来だ。

もちろん事件の真相は2人だけしか知らない。検察の言う通り重度なPTSDなら被害者から精確な証言はまず得られないと考えた方がいいのだろうし、被告は頑に、少なくとも極端な誇張であるのは確実な、恐らくは自分が一生懸命に作り上げただけのストーリーしか口にすまい。

報道は具体的な事件の本質について曖昧なままだったし、裁判でそれが明らかになったともおよそ思えない。

いずれにせよこの事件が忘れ去られることこそが被害者少女にとって最大の利益となるわけだが、我々が決して忘れてはならないのは、被害者の親とはいえ決して被害者ではないことだ。

親は子どもとはあくまで別人格であるのに、その子供にとって異常な抑圧となりかねない両親のあきらかに異様な言動・行動についてなんの関心も払われないことは、率直に言って疑問だ。

はっきり言えば子供の虐待すら最悪の場合は想定される心理・行動のパターンであることにだけは、しかるべき責任のある諸機関にはぜひ、留意し続けて頂きたいと思ずにはいられない。