最新作『無人地帯 No Man's Zone』(2012)
〜福島第一原発事故、失われゆく風景、そこに生きて来た人々〜
第62回ベルリン国際映画祭フォーラム部門正式出品作品

9/19/2015

日本の民主主義が処刑された日



そもそも最初から、すべてが感情論から始まった。そして採決に至るまで、結局は感情論と安易で粗雑な印象論しか、政府与党からは出て来てはいないし、強行するその動機自体が感情論でしかない。その挙げ句に多数議席を確保しながら、詐術まで用いた暴力的な委員会採決である。

参院の特別委員会での採決の混乱は、あまりにもわけが分からない人も多いだろうし、まず何が起こったのかを簡単に説明しておこう。

鴻池委員長への不信任動議が否決され、委員長が復職したところで、通常の手続きなら当然しめくくりの総括質疑がある(首相と担当大臣も出席も、そのためのはずだ)のが通例だ。その進行手続きの確認のため、野党の理事が委員長席に向かった。そこへいきなり、委員会室後方で傍聴していた、この特別委員会には所属しない与党議員たちが、委員長席に駆け寄り始めたのである。

同委員会に所属する野党議員たちは委員席に座っているので、当然この異変に気づき、慌てて阻止しようとやはり委員長席に向かい、もみ合いになった。委員会に所属しない、最初から実力行使のためだけに待機していた与党議員が委員長を取り囲む。前の方の席の野党議員が慌てて委員長のマイクは奪っていたので、与党議員にがっちり廻りを囲まれた委員長の声はまったく聴こえない。委員長の声ではなく、与党の筆頭理事である佐藤正久議員の合図に合せて、委員である与党議員が起立する、というだけで「採決」が行われ、起立多数ということで安保法案は特別委員会を通過した…とみなして本当にいいのだろうか?

不信任動議の討論でどんどん委員会室後方で傍聴する与党議員が増えて行ったのも、単にこの暴力的な実力行使のためだった。これから最後の総括審議に移るはずだと思っていた野党側を騙すため、わざわざ首相本人や防衛・外務の両大臣までが顔だけ出していた。当然すべてが仕組まれたシナリオ通りの「だまし討ち」であったわけで、だから乱闘が始まっても、委員会所属の与党議員たちは、平然と席に着いたままだったのだ。

百年以上の日本の憲政と議会政治の歴史のなかでも、これほど馬鹿馬鹿しい採決が行われたことは恐らくあるまい。

  参議院特別委員会、最終日

すべては最初から安倍晋三首相の感情論で始った

昨年夏に「新三要件」と称する国による武力行使に関する新解釈を発表した時、当然違憲性が指摘されるその内容について、安倍首相は「人々の幸せを願ってつくられた日本国憲法が、こうした事態にあって国民の命を守る責任を放棄せよと言っているとは私にはどうしても考えられません」などと、手前味噌な感情論に過ぎないことを語った。

その同じ記者会見で持ち出したのは、国名と地名の明示を避けながらも「南シナ海」、「東シナ海」の領土問題で、これまた感情論の偏向でしかない上に、名指しを避ければそれでいい、どうとでも言い逃れできるはずだと言わんばかりの不誠実な、それも稚拙過ぎる詭弁である。

もちろん安倍は本当なら「中国」「南沙諸島」「尖閣諸島」と言いたかったはずだが、ここで名指ししてしまっては、日本が中国を仮想敵国視して平和憲法を変えようとしていることが露骨に分かり易過ぎるので、本人としては「大人の対応」で「自重」したつもりだったのだろう。

南沙諸島におけるいさかいは、感情論を排し客観的に見れば、中国、マレーシア、ヴェトナム、フィリピンがそれぞれに領有権を主張しつつ、それぞれにその一部を実効支配して、島嶼の埋め立て拡充などの開発を進めている。

昨年段階で起こっていた目立った衝突は、愛国的な感情論に囚われたヴェトナムの民間活動家が、中国が実効支配し埋め立て開発を進める島に突っ込もうとして国境警備当局に阻止され、死亡事故に至ったことだ。

民間人を殺した中国の「横暴」には感情的には反発を覚えるにしても、感情論は感情論に過ぎず、それを「海洋進出の野望」に強引に結びつけるのはあまりに粗雑なプロパガンダであり、南沙諸島と尖閣諸島を関連づけて「中国の脅威」を語るのに至っては、幼稚過ぎる感情論の暴論でしかない。

外国に支持されている、と主張したい感情論

もちろん南シナ海は日本にとって、西半球からの重要な海上輸送路に位置する。インドとも、スエズ運河を通ってヨーロッパとも、ホルムズ海峡を通って中東の産油国とも、アフリカとも繋がっており、その安定は日本の経済産業にとって極めて重要だ。だがその経済的利得を「自衛する」と称する自己中心的な感情論での武力行使が国際的に認められるはずもなく、なればこそこの水域の安定のためには外交努力で、それぞれに南沙諸島の領有権を主張する各国間の調停を諮るのが、アジア最初の先進国であり世界屈指の大国として、日本の「大人の」役割のはずだ。

だがそうした外交努力は安倍内閣のもっとも苦手とするところどころか、最低限の外交常識もないこの首相は、中国以外の当事国が日本を頼ってこの安保法制に賛同しているのだと言い張る。

もちろん世の中そんなに甘いわけがない。

当事国はそれぞれに日本の援助や、日本との経済関係の重要性から、安倍に尋ねられればリップサービスに務める。だが一方で、中国との重要な経済関係を損ねてまで一方的に日本の側につくことなど考えてはいない。本音を言えば、日中双方との良好な関係こそが国益なのに、日本はいったいなにをやっているのだ、と思っていて、そうした不安は控えめな言い方とはいえ、今年4月末のアジア安全保障会議でもはっきり表明されていた。中国側が南沙諸島埋め立てについて説明し、アジアからの参加国は揃ってその内容に納得したと述べ、日本と米国に外交努力を求めたのである。

安倍政権は安保法制に44カ国が賛同していると外務省を通して盛んに喧伝しているが、これも馬鹿げた感情論に訴えかけた詐術でしかない。なぜ「外国に認められた」がそんなに重要なのか、安倍氏本人のコンプレックスから来る感情論すら垣間見えるが、タネを明かせば安倍本人が首脳会談で、岸田外相が外相会談で直接尋ね、外務省が各国の外交当局に片っ端から問い合わせ、返事があった国が44カ国だったというだけのこと(ちなみに安倍が再登板後に会談した首脳だけでも56カ国、つまりそれ以下)で、それぞれに経済大国である日本との関係を荒立てたくはないし、他国の安全保障政策にみだりに口出しをすることは敵視を宣言するに等しい行為なので、否定的な解答など出て来るわけがない、ただのリップサービスでしかない。

ちなみに中国も韓国も、公式にはことさら反対などしていない。衆院での強行採決と前後して、「首相周辺」からのリークとして安倍が「南沙諸島に間に合わない」と口走っていることが報じられても、中国政府は静観し、ただ皮肉たっぷりに「我が国の主権の侵害につながらないということでは、日本政府を信頼する」と外務省報道官が言っただけだ。

最初から議論を放棄しながら、採決だけは感情に走って強行する

日本人の母親と赤ん坊を運ぶ米艦船というイラストまで飛び出した、感情論に塗り固められた「新三要件」発表から一年余が経ち、与党は提出した一連の安保法案を、修正要求にも一切応じず、強行で成立させようとしている。

法としての論理構成上の瑕疵が暴かれても、さすがに歯止めがなさ過ぎるので国会承認を絶対必要要件とすべきと言われても、武器等防護が集団的自衛権行使の抜け道になることを指摘されても、与党やその支持層、この法案に賛成する側から出て来るのも感情論でしかない「対案を出せ」だったする。

だが例えば同盟国の核兵器すら法文上は「後方支援」の補給業務で運べてしまう問題なら、その禁止を明記するだけで事足りるので「対案を出せ」は成立しない。

国会承認の厳格化についても、それ自体が対案で要は書き加えればいいはずが、自分達の法案に訂正が入ることを嫌うという程度の感情論で、閣議決定で済ますという。

こんな妥協で折れてしまうのも、次世代の党はどうせ定年退職した自民党右派のOBクラブ、新党改革は小泉の郵政選挙で飛び出しただけの自民党分派とはいえ、日本を元気にする会は最後の最後であまりに無様な妥協に陥ってしまった。

参議院の特別委員会での採決に至っては、いかに劣化した安倍政権とはいえまったく想定外の結末だったが、動機はといえば総括審議すらやりたくない(問いつめられて恥をかく)首相の感情論しか思い当たらない。いや国会会期を10日残しながらの強行も、理由はなんと大型連休中には反対の国会周辺デモが盛り上がるだろうから、それを避けたい、「不測の事態が起こりかねない」というだけだ。

「不測の事態」?確かにデモに問いつめられ、追いつめられた安倍首相が、いよいよ感情論に走っていったいなにを言い出すのか、どんな無茶な命令を自民党内に支持し始めるのか、こんな出鱈目な委員会採決すら平気でやってしまった後では、なにをやってもおかしくない。


政府答弁を信用するなら、既存の法制度と出来ることはほとんど変わらない(ただし抜け道だけはそこらじゅうにある)

それにしても奇妙なことだ。

違憲性や、自衛官に及びかねないポテンシャルな危険性を指摘される度に、政府の答弁は「そういうことはやらない」と、自分達を信用しないのかと言わんばかりの感情論で応ずるだけ、実際の法文に書き加えることは拒絶するのだが、答弁で「やらない」と明言して来てしまったことを積み重ねると、ほとんどが従来の個別的自衛権で十分にカバーされて来た内容しか残らない。

民主・維新両党の提出した領海警備の整備法の方が遥かに実効性も現実性も高く、しかも海上保安庁の警察権の整備が主たる法案なので、もちろん違憲性もない。

だいたいこれは、近年に中国の民間漁船の珊瑚密漁などが問題になっていることだし、与党こそが早急に進めていておかしくない立法で、民間漁船への対応は自衛権ではなく警察権の執行なのだから、安保法制はまったく関係がない。なのに杜撰な感情論で、民間漁船の密漁すら「安全保障上の脅威」と言わんばかりの者が、与党内部にすら少なくない。

安保法制自体が違憲であるだけでなく、法制度としてあまりに瑕疵が多いことは、衆院を通過した際に別のサイトの記事で説明した通りだが、いったいなんのためにこんな法律をわざわざ決めるのか理解できない。

安倍が衆院では言い張っていたホルムズ海峡機雷掃海も、現実性が皆無であることを本人ですら認めざるを得ず「想定していない」と答弁し、もはや立法事実すらなくなってしまったぐずぐずの論理矛盾も、しょせん最初から安全保障政策を感情論と勘違いして来た安倍政権の当然の帰結だと言えよう。

もちろん裏では、国会では「やらない」と言っていてもそれが出来る余地を残しておきたい(つまりは、やる気満々である)二枚舌であるのも当然で、そのやり方が稚拙過ぎるから野党に問いつめられることになるのだが、そうなるとますます意固地に執着して、なんとしてでもこの法案を今国会で成立させなければとムキになるのに至っては、安倍個人の感情論以外にさしたる理由が見出せないのである。

なぜ安倍とその周囲は、かくもなりふり構わずにムキになっているのか?

なぜ自民党議員からはこの裸の王様に「王様は裸だ」と言う者がまったく出て来ないのか?

巷では安倍が訪米時の議会演説で、集団的自衛権の行使を可能にする法整備を約束してしまったことが、今国会での成立に固執する理由であるかのように語られているが、これも相当に眉唾だ。

米国との絆を深めて中国と対決する、というあり得ない夢想

再び昨年に安倍が新三要件を発表して集団的自衛権の行使を可能にすると言った時に戻ろう。この時には、米側でわずかにあった反応は、国防総省の報道官コメントだけだった。

ペンタゴンや軍の一部にとっては、自衛隊に米軍の任務の一部を肩代わりさせられる期待感があるのも確かだ。しかし米社会の全体では、今年の安倍の議会演説でも、米国のメディアは保守系も含めて新冷戦時代を招きかねない危険性が厳しく批判され、日中の関係悪化にアメリカが巻き込まれて米中対立となることへの露骨な警戒が露になっている(日本のメディアはまったく報じなかった)。保守論客の重鎮にして安全保障問題の米国における最大の権威一人、ヘンリー・キッシンジャー元国務長官もわざわざ極右のFOXテレビに出演し、世界第一位と第二位の経済大国が対立することは「明らかに愚かしいことだ」と明言した。

軍の一部や共和党急進派には、未だに中国が共産党政権であることへの不信感があって、米中新冷戦を目論む傾向さえあるのも確かだが、それが米国社会や政界のメインストリームだとはおよそ言い難い。軍需産業の政治的発言力は21世紀に入って低下して来ているし(代わって発言力を増しているのが金融産業、例えば保険会社)、その軍需産業界自体にしても、民生部門では中国を重要なマーケットと、比較的安価な労働力で工場を運営出来る生産基地とみなし関係悪化は望んでいない。米国と中国のあいだで知的所有権や人権問題をめぐる対立があるのは、アメリカ企業(軍需産業も含む)の中国進出を容易にするためであって、冷戦構造の再現などアメリカはまったく望んでいない。

アメリカは対イスラム国の戦争の犠牲を日本に肩代わりさせたいだけ

それでもオバマ政権ですら安倍のいう日本の集団的自衛権の行使に一定の期待感を持つのは、対中国なぞまったく関係ない分野でのことだ。中近東紛争への介入に自衛隊が参加してくれることになるのなら、オバマすらもちろん反対はしないし、オバマの次の政権が民主党のままでも、共和党に代わっても、その要請が日本に来るのはかなり可能性が高い。なにしろイラク戦争のトラウマから国民の支持が集まらない対ISIL(イラクとレヴァントにおけるイスラム国、の頭文字表記)掃討戦は、軍の士気もまったく上がらないままたいした成果もあげられず、本来なら必要な地上軍の投入を兵士の生命安全を優先してあきらめ、実効性のほとんどない空爆しか出来ていないのが現状だ。そうして泥沼化するシリア情勢で膨大な難民が生まれていることも、危急の国際問題である。

早晩、アメリカやヨーロッパ各国がシリアに本格的な軍事介入を始めることは十分にあり得るが、ここで戦死者が出るリスクを少しでも日本が肩代わりしてくれるなら、アメリカとしてはなりふり構わず協力を求めたい気はもちろんある。

だがその日本の国会では、野党に問いつめられた安倍首相が「イラク戦争のようなことに参加することは絶対にない」と明言してしまっている。

元々、日本の国会で審議も始っていないのに法制度について約束してしまった安倍の演説を、アメリカ側でも最初から話半分でしか聞いていないのは、アメリカの政治家が日本とは違って一応は民主主義国家の政治家である以上、当然のことである。あんな約束、そもそも非常識過ぎて話半分にしか聞かれていない。

つまり安保法制が今国会で先送りになったところで、アメリカがそんなに怒ることなぞ別になく、しかも安倍自身の国会答弁を信用すれば(イラク戦争のようなものには参加しない)、アメリカがここで期待していたことはまったく満たされないのだ。議会に諮ってもいない法律を約束することはもちろん、議会での答弁を安直に覆すことも、安倍首相にとってはどうでもいいことなのかも知れないが、アメリカの政治家の感覚では考えられない大スキャンダルなのだ。

アメリカの要請という欺瞞とリチャード・アーミテージ

参議院の審議では、生活の党に合流した山本太郎議員がアーミテージ=ナイ・レポートを持ち出して物議を醸した。

いったい誰に再教育されたのか、参院での審議が始まった頃には、まだまだ自説をまくしたてるだけで未熟さも目立ったが、それでも山本氏が言っていたことそれ自体は、これまでのただの売りだった反原発関連では無知や勉強不足が目立ったのとは別人のように、中身のしっかりしたものだし、質疑を重ねるうちに首相を問いつめるテクニックも身につけて来た。

誰の入れ知恵、というか山本議員を再教育したのが誰なのか(つまり本当は誰の考え、誰の論法なのか)見当は簡単につくが、その指摘通り特定秘密保護法も、武器輸出の解禁も、TPPへの参加も、集団的自衛権を行使できる法改正も、すべてこのレポートの提言が安倍内閣によって忠実に行われて来たのは事実であり、また永田町や霞ヶ関では暗黙の了解として受け入れられつつ誰も言わなかったことでもある。

遡れば日米常設幹部連絡会議があって、消費税導入も郵政民営化もすべてそこでアメリカからの年次要望書で提言されたことを日本政府が実行して来た過去もあり、その延長上としてある意味「自然に」受け入れられつつ、国会などでは誰もなにも言わないのも慣例化して来たそのことを、山本氏は(というか要するに小沢一郎が)タブーを破って突いたことになる。

だがその一件を持って安倍政権がアメリカの言いなりだから安保法制を強行しているとみなすのも、実情はそう単純でもない。かつての日米常設幹部連絡会議は日本政府とアメリカ政府の要職にある人間が参加する、公式の政府間交渉だったが、アーミテージ=ナイ・レポートはまったくそうした性質のものではない。

ブッシュ政権であればリチャード・アーミテージは国務副長官だったが、オバマ政権ではその影響下にあった国務省東アジア課のケヴィン・メアらも今や排除され、アーミテージはただの民間一シンクタンクに過ぎない。この政権が彼ら「ジャパン・ハンドラー」を最初から排除する気であったことは、その大使人事を見ても明らかだろう。最初はオバマの友人で政界と特段のつながりがなかったルース氏、そして今のケネディ大使、いずれもホワイトハウスと駐日大使館が大使と大統領の密接な個人的関係に基づく連携(つまり既存の日米安保既得権益集団の排除)が明白だ。そんなオバマ政権下のワシントンで、今やリチャード・アーミテージのほとんど唯一の存在価値は、日本政府とのパイプ、つまりは日本政府がなにを考えているのかの情報ソースとしてだけだ。

ここに国民への威圧感という感情論を利用したカラクリの仕掛けがあることにそろそろ気づいた方がいい。


集団的自衛権だけではない。

普天間基地の辺野古移設問題も、我々はアメリカの要請で断れないと思い込まされているが、ブッシュ政権ならともかく今のオバマの時代には、その実態は「アメリカ」ではなくリチャード・アーミテージという一私人の圧力でしかない。なのになぜ日本政府は、もはやアメリカ政府の小役人ですらない男の言いなりになるのか? なぜ我々日本国民は、こうも「アメリカの要請」「アメリカの圧力」という魔法の言葉に、コロッと騙されてしまうのだろう?

翁長沖縄県知事が訪米しても、会う要人はことごとく、辺野古新基地のことは日本政府が決めたことだから日本政府と話し合って欲しい、と言われたという。
客観的に考えれば、翁長氏はもちろん、米側の要人も、まったく嘘は言っていない。

ことオバマは元々、鳩山由紀夫と日米安保条約の見直しと対等な日米関係で合意していた間柄であり、鳩山とのあいだで普天間基地の県外移設も了承していた(だから鳩山はオバマに「県外移設はうまく行く、トラスト・ミー」と言ったのだ)し、広島を訪問して原爆投下を謝罪することは、むしろオバマの方が積極的だった。ルース、ケネディ両駐日大使も、対等な日米関係のために様々な配慮を日本に対して行って来ているし、沖縄で米兵による事件が起これば大使館の命令で米兵に外出禁止令まで出したのがルース氏だ。

今のアメリカ政界の認識では、沖縄の基地は日本政府に提供してもらっているものであり、日本政府が決めて提供すると言っている辺野古新基地には、海兵隊の基地として様々な制約があって決して満足出来るものでもなく、また沖縄の地元感情を逆撫でしたくなくとも、反対が出来ないのである。

タネを明かせば簡単なことだ。リチャード・アーミテージが今日本に「要望」ないし「押し付けて」いることは、彼にとって今や最大の後ろ盾である日本政府が期待している内容でしかない。集団的自衛権でも、TPPでも、原発再稼働でも、辺野古新基地でも、国民を説得するのが難しいから、アーミテージに頼んで「アメリカが言っている、断れない」ということにしているだけなのだ。

なぜ、リチャード・アーミテージの最大の後ろ盾である安倍晋三と日本政府(霞ヶ関)は、原発を再稼働し、辺野古新基地を沖縄に押しつけ、今は安保法制を強行するのか?

原発には利権というか電気産業界の都合もあるにせよ、辺野古基地も集団的自衛権も含め、結局は安倍がやりたいから、というのが強行する最大の理由に思える。火中の栗を拾う自分に妙なヒロイズムを感じているのか、90年代以降自民党の悲願であった集団的自衛権の行使容認、出来ることなら祖父岸信介の悲願であった改憲まで、それをやったのが自分だと思いたい感情論。辺野古に至っては、要するに国が決めたことをたかが沖縄県の反対で覆されるのは沽券に関わる、ということこそが実のところ最大の動機、つまりはプライドに固執しただけの、まったくの感情論である。

集団的自衛権の行使にしても、むしろ安倍から議会演説で約束しただけではない。

参院での審議で共産党が自衛隊統幕長と米軍の参謀総長との会談議事録をすっぱ抜いたが、これは「法案の審議が始る以前から米側に約束していた」ことだけが問題なのではない。どう読んでも日本側こそが積極的に、アメリカ軍の任務にぜひ協力させて欲しい、リスクを分担して欲しい、国民の反発などは一部 “左翼の運動家” だけだから心配は要らない、とまで売り込んでいるようにしか読めないのだ。つまりは集団的自衛権の行使でアメリカの戦争に巻き込まれるどころか、日本が積極的に巻き込まれたいのだ。

なぜか?自衛隊上層部OBからはその分かり易い動機すら明かされている。自衛隊が米軍のようなことが出来ないのが、彼らにとっては不満だった。安保法制で出来るようになるから賛成、というのだ。もちろんこれは上層部で命令する側の期待であり、実際に前線に立たされる一般自衛隊員の意見ではない。

「日本をめぐる安全保障環境の変化」とはなにか?

まるで壊れたロボットのように繰り返されるのが「日本をめぐる安全保障環境の変化」だが、その実態はといえば安倍は衆院での審議では「ホルムズ海峡の機雷掃海」を繰り返し、あたかも石油の輸入路の遮断が「存立危機事態」に当たるかのような、国際法上では集団的自衛権の行使というより経済利権目当ての侵略ととられかねない暴論を繰り返したが、これは中近東情勢の実際を見れば最初からまずあり得ない設定だった上に、それこそ「安全保障環境の激変」が起こる—イランと米国の核交渉が突然急展開を見せ、合意に至り、駐日イラン大使が安倍政権の論に明確な不快感さえ表明するに至った。「石油輸出国である我が国が、そんなことやるはずがない」。

イランがイスラム革命後まもなく米国と断交したあとも、日本は西側先進国では数少ない友好国であり続け、親日感情も強い国なのだが、安倍は自身の幼稚な感情論と無知で、この大切な外交関係すら傷つけてしまった。イランと敵対関係にある国でさえ、中近東では原爆から立ち直って平和国家になった日本への信頼感は強かっただけに、例えばアルジャジーラはこの安保法制をめぐる論議に注目して報道を続けて来た。

平和国家であった日本が70年の平和主義を棄てて、しかもアメリカの同盟国として海外で戦争をする国になる、それだけでも致命的なイメージダウンになりかねない上に、集団的自衛権が行使できるようになった日本に、アメリカが近い将来対イスラム国掃討戦への参加を要請して来る可能性が高いのは先述の通りだ。果たしてこれが日本の国益にかなうのだろうか?それどころか既にイスラム国は日本をテロのターゲットに加え、全世界の支援者に攻撃を呼びかけている。つまり安全保障上のリスクも、既に高まってしまった。

ホルムズ海峡の例が使えなくなった安倍は、それまでの禁を破って中国を名指しで、おおっぴらに安保法制が対象とする仮想敵国として語るようになり、東シナ海の中国側経済水域(日本側も認める中国側である日中中間線の西側)でのガス田開発を、国際法上なんの問題もないのにあたかも侵略行為のようにあげつらい、国民の感情論に訴えようとした。

そんな中国では、9月2日の日本の降伏文書調印70周年の翌3日に、抗日戦争勝利の記念式典と軍事パレードが天安門で行われ、安保法制の審議ではさすがに安倍に批判的になったメディアですら、この件では安倍が安保法制を通すために喧伝したい「中国の脅威」をさかんに報じた。

しかも主要国の首脳で列席したのは韓国とロシアだけ、安倍たちの分類では「反日国」だけで、中国は孤立を深めているかのような印象なのは、外国に褒められることに不思議にこだわる安倍政権の奇妙なコンプレックスを慰めてもくれよう。

だがこれも感情論におもねた歪曲虚報でしかない。実際には、この式典に公式に列席しなかった主要国はなんと日本だけで、私人である村山富市元首相の出席で辛うじて糊口を塞いだに過ぎない。首脳の列席はなかった国でも、揃って全権大使などを代表として列席させている。だいたい、いかに中国が大国になったからと言って、そうそう首脳がこのようなイベントに列席するものでもなく(他の政治日程が優先される)、ただし侵略の加害国だった日本は歴史的経緯から出席すべきだったのは、言うまでもない。

実際には、安倍がこれまた幼稚な感情論を発揮したというか、式典への列席は拒否して翌日の4日に訪中するから首脳会談をさせろ、という無茶苦茶な要求で中国政府と交渉していた。他の国々の手前そんなもの受けられるはずもない(こと訪問した他国首脳にあまりに失礼になる)が、中国政府は日本が侵略戦争を反省しない非常識な国だという印象が国際的に広まるのを避ける配慮で、この水面下の訪中交渉をなかったことにしてくれている。

この習近平の軍事パレードも、日本の国内では安保法制のために「中国の脅威」を喧伝する好材料になった。中国が自国の大国ぶりを見せつけることには、経済規模ですでに抜かれている上に過去の侵略の歴史を思い出さされる日本人全般がおもしろくない感情をどうしても持つわけで、そこへのうまいアピールにもなる。だがそうした感情論に走るあまり、我々はこのパレードの政治的な意味付けをまったく勘違いしている。

「中国の脅威」という感情論のフィクション

まずもちろん、これは第一義的に中国国内向けのイベント、つまりは国民を楽しませるお祭りだ。その対外的な面も含んだ政治的なメッセージ性については、なにせ「抗日戦争」勝利なので日本人は神経質になってしまいがちだが、習近平が発したメッセージは実際にはかなり異なっていた。「反日色が意外となかった」と菅官房長官は会見で述べていたが、なぜこうも自己中心的な感情論しか、この人々はもてないのだろう?

このページェントは「反ファシズム抗日戦争」の起点を1931年の満州事変から始った日本の本格的大陸侵略でも、1937年に始った日中戦争(支那事変)でもなく、なんと1895年の日清戦争に置き、礼砲の数も戦後70年ではなく日清戦争から数えて121発打っている。しかし「だから反日」なのではない。続けて習主席は演説で、1900年の義和団事件を強調して言及したのだ。こうなると中国を侵略したのは日本だけではない。義和団事件で清朝の交戦国になった英、露、日、仏、米、独、伊、そしてオーストリア=ハンガリー二重君主国の列強八カ国まとめて侵略者だという認識であり、実際にこれを契機に中国はどんどん欧米列強の利権によって分断され、中華民族のもっとも暗い時代が始まった歴史がある。つまりは日本と欧米列強の植民地侵略に中国人民が勝利したのだ、というのがこのページェントのメッセージであり、最新の軍事力を誇ったパレードも当然その文脈で読まれるべきものになる。現代の国際政治において、その意味付けはあまりに明晰だ。

19世紀以降、欧米白人国家が植民地主義で世界を支配して来た。まずその時代はもう終わるべきだと言うこと。その植民地主義から解放される新たな世界秩序は、既存の欧米中心の軍事ヘゲモニー、とりわけ米国一強支配から脱するべきであり、中国はその新たな国際秩序の責任の一端を担う準備があるという、そのアピールとしての軍事パレードだったのだ。

最新鋭の弾道ミサイルまでお披露目したパレードは明確に米国を意識しているし(このミサイルでは、米本土直接攻撃が可能になる)、これまでの米国の軍事的な一極支配に対抗するものではあるが、米中が今後対立することを必ずしも意味するわけではない(というか現状の米中関係では、あり得ないのは自明)。最大限に中国側の攻撃性を読み取っても「米国だけに好き勝手にさせない」までであり、決して米中が互いを仮想的国視する軍事競争が始まるわけではない。むろん集団的自衛権の行使で日本が米国と一体化して中国と対決するなぞ、まったくの絵空事で将来的にまずあり得ない。

またこの最新の軍備が日本にとって直接の脅威になるわけもなく、そんな脅しも北京政府はまったく意図していないし、このパレードが日本国内では「中国の軍拡で日本の安全保障環境が厳しくなった」という文脈で紹介されること自体が、恐らくは中南海にとってはかなりの想定外だろう。

いや、現代の日本がそんなにも中国を恐れるようになっていること事態、北京政府の立場からすれば思いも寄らないことなのだ。なんと言っても日本は中国から見て、経済の全体規模こそ日本を抜いたとはいえ人口差は10倍、つまりはまだまだ憧れの豊かな大国で、それは経済的な余裕が出来た中間層が観光や留学で日本に殺到していることを見ても分かる。

しかも靖国参拝にしても尖閣諸島問題にしても、日本はかくも自信に満ち溢れて中国を挑発して来ているではないか。歴史認識に至っては、平然と史実も日中友好条約の際に合意した史実の解釈もねじ曲げて、理不尽な言いがかりも平気でやっている。そんな日本が中国に脅威を感じているなどとは、中国側からみればあまりにもチグハグな話で、およそ想像が及ばないだろう。

それにやっと米国も狙える弾道ミサイルも実用化出来たのでそれをお披露目したわけだが、対日本ならその飛距離のミサイルは1960年代から中国は保有している。日本本土がその照準に入っているのはもうそろそろ50年、「日本をめぐる安全保障環境」は、中国に関しては特になにも変わっていない。いや、ますます強まる経済的な結びつきこそが抑止力になって、日中間で軍事衝突が起こる可能性の方こそ、むしろ劇的に低下しているのだ。

時代錯誤な世界観にしがみつく感情論

過去10年、20年で経済的成長が著しかったのは中国だけではない。

上海相場の暴落騒動は、明らかに中国経済の変質、急成長が終わりこれから安定成長型の社会への転換という大挑戦に中国社会が向き合って行くこと、それが大きな困難を伴うであろうことを如実に示しはしたが、その前に日本が牽引車となった東南アジアの急成長だってまだまだ続いている。一方でアメリカもイラク戦争を契機に世界の一極支配の軍事ヘゲモニーを維持することは困難になり、ヨーロッパは今やドイツだけが一人勝ち状態の、EUの曲がり角にぶち当たっている。世界は多様化かつ多極化していると言えるだろうし、少なくとも安倍晋三が慣れ親しんで来たであろう、欧米がいちばん “えらい” かのように見える世界の様相は、すでに現実に見合ってはいない。

その変貌する世界のなかで日本の国際的な立場はどうあるべきか?この現代の日本が本当には直面しているチャレンジを、どうも認識することすら拒絶したいのが安倍政権やその周辺であるらしい。日本をめぐる安全保障環境は確かに激変したが、それはむしろ日本が安全かつ自由になったことを意味する。なのにその現実を受け入れられず、アメリカに従い、ヨーロッパに憧れてさえいればいい、その仲間入りを目指すことが日本の目標であった過去へのノスタルジアの身内に引きこもっている感情論こそが、安保法制の制定にかくも固執する乱暴さの背景にあるのかも知れない。

その白人至上主義的な幻想の世界観の中で、中国や韓国は日本より下位でなければならない。日本こそがアジアで唯一の欧米の仲間入り出来る先進国でなければならないという願望なぞ、もちろんもはや現実の世界で満たされるはずもないのだが、その現実の直視をこそ、安倍たちは恐怖しているのかも知れない。

多極化する世界のこれからの秩序がどうなるのか、まだ誰にも明確な未来像が見えているわけもないが、少なくとも日本が過去の冷戦時代に安心の幻影をなぜか見出し、アメリカの戦争に参加することで日本の国際的な立場が守られるわけではないのは確かだ。むしろ日米同盟は軍事的にも歴史的にもその役割を終えつつあり(というか、当初の役割は冷戦の終結で終わっている)、かといって日本が自主防衛で軍事力を強化する必要もまずない。

今さら「万が一の備えがないと不安」などという感情論に拘泥しているような時代ではなく(近代以降の安全保障や戦争で、そのような想定はほとんど意味を持たない)、とくに日本は、元から資源といえばなによりも人的資源だ。侵略したりするメリットはどの国にもないのだし、その認識は情報の国際化でますます世界的に強固なものとなっている。

日本がそういう希有な国であることをどこの国よりもよく知っているのは、言うまでもなく隣国である中国、韓国、そして台湾だ。

そしてそれらの国々から見れば、少なくとも日中関係が同じ意味で日本にとって重要なはずだと認識していておかしくない。その日中関係を悪化させようとする安倍政権の一連の行動は、理解不能で非常に不気味にも見えるはずだし、習近平があのパレードで提示した、新しい、アジアから見た世界史観にもっとも賛同してくれる国が日本であるはずが、これからの世界は白人至上主義から解放され、アジアが世界の中心のひとつであるべきだというメッセージに気づきもしないことにも、幻滅とともに「なにを考えているのか分からない」と頭を抱えているかも知れない。その新しい世界のもっとも鍵となるアジアの大国のひとつが、日本であるはずなのに。

安保法制の根幹は、無理があからさまだからこそ強行すること

それにしても、もはや立法事実すらなくなってしまった安保法制を、安倍政権はなぜこうも拙速に強行するのだろうか?

与党以外にも賛成の党が出たから強行採決ではない、などと独自定義の独りよがりの感情論に耽溺されたところで、政府の答弁が二転三転するばかりで指摘された法案の瑕疵が放置されたままでは、およそ議論が尽くされたとは言えない。しかも結局は、しめくくりの総括質疑を強引にすっ飛ばしての採決では、「強行ではない」と言い張るのには無理があり過ぎるし、こうなると「強行採決」と批判されることへの感情論の反発しかないように思える。

集団的自衛権の行使を可能にすることは、過去20年以上の自民党と、自衛隊上層部の宿願だったはずだ。他国の軍隊が出来ることが自衛隊には出来ないことのコンプレックスに囚われて来たこと自体が、まあ感情論と言ってしまえばそれまでだが、こうも長年思い込んで来たことなのに、理論武装がかくも稚拙なのはどうしたことなのだ?

違憲性が指摘されるのは分かり切ったことであり、前もって合憲とみなせる論理くらいは準備してないとおかしいはずが、出て来たのは「砂川判決」だけだ。

わざわざ「自衛の措置」と明記し「自衛権の行使」といった文言は用いていない、つまり集団的どころか個別的でさえ自衛権行使の合憲性には言及を避けた判決文で、対象となった事案は米軍の日本駐留の是非では、その判決文の恣意的曲解で違憲性の論理の穴を埋められるわけもあるまいに、案の定そこを指摘されても、ただ「論破されたくない」というだけの感情論で壊れたレコードのように同じことを繰り返すだけ…いったいどうなっているのだ?

法文それ自体にしても、なぜこうも瑕疵が多いのか?11本もの法案を一括提出しているとはいえ、個々の法案のあいだのあからさまな矛盾点も放置したままとは、違憲性の問題以前にあまりにも粗雑だし、現場の自衛隊員にとってはこれだけでも行動が不要に制約され、危険が増大する。

普通に考えれば、それだけ自民党の行政担当能力が落ちている…と言うより、実際に政府提出の法案を作成するのは官僚なわけで、その官僚事務方がよほど劣化しているか、それともわざとやっているかだろう。防衛官僚、防衛省の背広組がわざと出鱈目な法案にしかしなかったことも、考えられなくはない。同省の内部文書を共産党が参院特別委員会で二度暴露したが、このリーク元も防衛官僚以外には考えられないわけで、つまり安倍が強行しようとしていることが危険過ぎると考えてサボタージュに走った者がいることも、十分にあり得るかも知れない。

だが一方で、政府与党、とくに安倍の周囲には、別の動機が考えられる。自民党タカ派の悲願だからこそ、あえて出鱈目なものを、無理難題で押し通すことこそが、この法案の狙いのひとつなのではないか?

民主主義を破壊するプチ恐怖政治こそが、安保法制強行の狙い

どんなに反対があろうが、「国民の命と幸せな暮らしを守るためには絶対に必要な法律という信念」とやらを決して曲げないことには、安倍たちのナルシシズムや、とにかく批判されることに腹が立つので意地を張っている感情論も無論あるだろう。だが5連休前になんとしても法案を通す理由が、連休中には確実にデモの参加人数が増えて「不測の事態が」とまで言ってしまうのであれば、この政権が国民からの反対意見などまったく聞く気がないことを宣言しているようにも取れる。

だとすれば、不必要なまでに暴力的な手段で委員会採決を強行したことも説明がつく。生中継のテレビカメラの前でその醜態を晒したことすら、わざとなのかも知れない。むしろこの政府が自分達の「信念」だか「強固な意思」を押し通すためにはここまでやるのだと、国民に印象づけることにこそ狙いがあるのではないか?

同じことは、この時期に予定されていた自民党の総裁選で、安倍に対抗して立候補しようとした野田聖子議員の陣営を、容赦ないやり方で、それも執行部ではなく官邸が直接動いて切り崩したことにも現れている。関係者情報としてぼろぼろ漏れて来る内幕によれば、政治資金を断つことまで散らつかせたえげつない直接交渉で推薦人を断念させたのだという、そんな強権手法の内幕をわざわざマスコミに話すのも、よく考えれば不自然な話だが、完全には隠す気がなかった、むしろ国民にもちょっと報せたかったのではないか?

自分達に反対するものは無視するか、身近であれば容赦なく叩き潰す。どんなに正しい意見だろうが、国民のデモだろうが、憲法学者や元最高裁判事、元内閣法制局長官の見解だろうが、聞く耳を持つ気もない。法の論理に基づいた合憲性など最初から関心もなく、ただ自分達が合憲だと言えばこれは合憲なのだ。明らかに批判されるべき行動でも、ネット上の支持者がスクラムを組んで叩いて封じこめる。法としての論理的整合性も、法的安定性も、そんな面倒な知的プロセスに自分達は興味がないのだと、安倍達は恒常的に宣言しているのに近いのではないか。

つまりは確信犯の知性と理性の放棄、反知性主義をこそ安倍たちは確立したいのかも知れない。自分達がやりたいことこそ、自分達の正義であり、それが「美しい国」だか「国民の命と幸せな暮らし」を守ることなのだ。むろん、こんなものは保守でもなんでもなく、極めて反日本的だ。安倍晋三は日本の民主主義を殺そうとしているだけではない。自民党も、日本が日本たる由縁も、抹殺はしないまでも、屈服させたいのだ。

7/11/2015

ギリシャとEUの必然的な危機はどこへ向かうのか?

『旅芸人の記録』1976年、監督・脚本テオ・アンゲロプロス

ギリシャの財政と経済の今後を巡って世界が大揺れに揺れているかのような騒ぎになっている。あまり影響がないとされる日本の株価ですら、ギリシャ政府が円建て債権(いわゆるサムライ債)の利子は滞りなく支払っても下落し、ギリシャ国民がEUの提示する緊縮策を受け入れなかったことに日本でも(いや、後述するようにむしろ日本でこそ)非難が集中した。

現代の金融・証券マーケットというのは、どんな些細な動きでもそれによって変動がなければ儲からない投機筋が優遇されるシステムになっているから、なんにでも反応して株価が動いてしまうわけでもある。

いわば過剰反応であることを、そう世界経済の明日が危ないとか深刻に考えるまでもなさそうに思える。だいたい、人口たった1千500万、東京都により少し多い程度の小国で、主な産業は観光、農業、漁業だ。

しかし一方で、このギリシャを巡る事態の混乱には、この世界の将来の方向性にとって真剣に考えなければならない問題がいくつも含まれている。

現代のニュースの特性で、昨日起こったことすら新しいニュースでつい忘れがちになるが、ギリシャが急に危機になったわけではないことは、まず抑えておくべきだ。ギリシャの財政赤字の実態が表面化したのは確か5年だか6年前(と、こんな調子で記憶がうろ覚えになってしまうのが現代)だったと思うが、以来ずっと緊縮策が続いていることすら、部外者でしかない我々はついつい忘れがちだ。だが緊縮がもう5年も続いている大不況を思うだけでも、ギリシャの国民投票が緊縮策に「OXI ノー」となるのは、そう責められる話ではない。失業率が25%前後、若年失業率が49%超はEUに強要された緊縮財政の必然的な結果であり、ただ「もうウンザリだ」というだけでなく、このままギリシャの景気減退が続けば永久に負債の返済は不可能になるのではないか、とも誰だって思いつく。

我々日本人にとっては「借金は返さなければならない」が常識にみえ、ギリシャを寓話「蟻とキリギリス」に喩えて怠け者だとなじり「借りている方がなんと厚かましい」と思うのも健全な庶民感覚だと思いがちだが、この日本ですら過去には「徳政令」つまり借金棒引き命令が善政として行われた歴史だってある。

『20世紀の資本』が大ベストセラーになった気鋭の経済学者トマ・ピケティらがEU側の緊縮策強行を批判する公開書簡を出したように、経済学の視点からすれば「借りた金は我慢して返せ」は倫理的には正しくとも、現実的に正しいとは限らないのだ。

http://www.thenation.com/article/austerity-has-failed-an-open-letter-from-thomas-piketty-to-angela-merkel/

「借金はしないように」や「無駄遣いはやめましょう」、「倹約」は個人のモラルや人生訓、個々人の付き合いレベルの社会的な倫理としては正しいが、しかし経済政策としては可処分所得が満遍なくあらゆる階層で増えることこそが景気の維持と成長には有効なのだ。

極論すれば近代資本主義の成立以前の世界で、徳政令は庶民優遇の善政である以上に、即効性の高い景気浮揚にもなっていた。

資本主義の現代でも、実を言えばギリシャを「厚かましい」と言っている日本にしても、金融緩和つまり低金利政策は平たく言えば借金をし易くして利子の支払いを減らしている借り手優遇だし、インフレ・ターゲットとは、貨幣の価値を下げる借金の実質目減り策である。

それにこの危機の原因は、なにもギリシャの政治がばら撒き政治で国民が怠け者で、勤勉なドイツ人が不公平さにうんざりだしているとか、そう単純な問題でもない。

6月30日の欧州中央銀行への返済期限が過ぎ、全土で銀行が閉鎖されたのを受けて公共交通機関が原則無料、携帯電話も無料化されたと聞いて「非常識だ」と怒るコメンテーターがテレビに出ているが、ここで怒っているのが「識者」の立場なら、経済学の観点からみても、現実的にも、実のところよほど非常識でもある。

一日の引き出し限度が60ユーロと、使える現金が限られている時に、社会的混乱を避け少しでも経済活動への悪影響を減らそうと思うなら、チプラス政権のこの処置はむしろ賢明で合理的だ。考えても見て欲しい、手持ちの現金に余裕がなくなりそうだから節約してみんなが外出を控えてしまったり、時間がかかってもひたすら歩くようになってしまっては、効率が悪過ぎて経済活動はいっそう停滞する。

もちろん電車に乗るよりも時間に余裕をもって一駅歩く節約の精神は決して間違ってないし、健康にもいい。だがそれでも、物事には限度がある。

確かに、これまでのギリシャの政策はあまりに放漫ばら撒きに思えるかも知れないが、この危機を誘発した真の問題は、まずなによりも構造的なものだ。

ギリシャが実のところいわば発展途上国なのに、ドイツやフランスや北欧諸国のような最先端の先進国と同じ通貨ユーロを使いながら、財政は国ごとに別個独立という、ヨーロッパ共同体の構造そのものに矛盾があり、リーマンショックまでそれは隠蔽されていたが、そのリーマンショック以降は、もはやそれが可能な時代ではなくなってしまっているのだ。

ギリシャの財政収支それ自体が粉飾決算であったと分かったのは、リーマンショックを受けた翌年のことである。
リーマンショックの原因自体が、これは個人レベルで不良債権となる可能性が高い債権が金融商品化されていた、いわば粉飾決済の商業利用であったことと、ギリシャの財政がいわば借金を返すために借金を返す状態になって借金がねずみ講的に増えていたことは、ある意味で同様の現象とも言えるかも知れない。どちらも市場にマネーがあふれているあいだは回転し続けていて、そもそもの問題が発覚しなかった。

最初から実は早晩破綻するのは当たり前だったこの構造は、しかし一方ではドイツであるとか北欧諸国のような輸出型産業の先進国にとって一方的に有利にもなっていた。

変動通貨制の「信用」の機能と、通貨防衛政策のメカニズムについては、経済学の入門書でも読んだ方が筆者が書くよりもはるかに分かり易いはずなので、ここでは簡単にいかにこれがその実無茶な話なのか、実感し易い簡単な喩えを言っておく。

島根県が税収の不足を、中央政府からの地方交付金で補うのではなく、足りない分を日銀から借りなければならなくなったら、島根県の財政や公共サービスはどうなるか?

ギリシャの場合さらに大変なのは、日本なら国がやる行政サービスも全部その大きな産業基盤がなく税収不足の地方自治体がやる、となったら、県なら県の財政が破綻するのは当たり前だ。

日本でならば国税の納付額がいちばん大きいのは恐らく東京都だろうが、東京都民の利害を代表して都知事がいきなり島根県に「これまでの地方交付金を返還すべきだ、国民は平等なのだから」と言い出しているような話が、今のドイツとギリシャの関係でもある。

「ちょっと待て、ギリシャとドイツなら別の国ではないか?」と訝しがらないで欲しい。それ以上の格差がある先進国ドイツとギリシャのような実態は発展途上国が、同じユーロという通貨を使っているのだ。

その意味ではドイツとギリシャの関係は、「同じ国の先進地域と後進ないし衰退地域の関係」に等しい。ところが通貨は共通なので金融政策も同一にならざるを得ないのに、財政は国ごとに別建てになっていて、一体化されていない。

弱い側のギリシャには、自国の独自通貨の公定歩合を変えるなどの通貨防衛で自国経済の保護という手段が使えず、一方でそのギリシャのような国も含まれるが故にドイツの経済的実力からすれば遥かに価値が低いユーロが、ドイツの輸出産業にとっては有利になる。また同じ通貨である故にドイツの資本がギリシャに投資されるのも容易になり、そこで金を貸すことでドイツ等の製品がギリシャで買われ易く(単一通貨なので通貨の違う、たとえばアメリカや日本の製品よりも売り易い)、つまりドイツの銀行がギリシャ国債を買うことは、ドイツ産業のマーケットの拡充にもなって来た。

そのドイツの銀行にとってだって、そもそもユーロ体制が故の好景気で預金は増えても、好況の企業は資金を自力調達出来るので、貸し出し・投資先がない。ギリシャにお金を貸すことは、そのだぶついた預金のかっこうの受け皿にもなっていた。借金は、資本主義の世界では、利子が払われ続ける限りにおいては健全な資産として勘定される。

日本における島根県と東京都の格差のように、単一の国家の内部なら、国全体の均等な発展で社会の安定性と国力全体の底支えのために、地方への財政出動が行われるが、ユーロ圏は通貨と金融政策は共通なのに、財政は国ごとに別個になっている。財政出動の代わりにドイツを中心とした銀行の資金が貸し付け先を求めてギリシャ政府の供給され続けられた間は、借金が増えても利子さえ返済されていれば、銀行の経営は廻り続けて来た。

だがその際限なく膨らみ続ける雪だるま的な図式が成立しなくなったとたん、貸し手にとっては利子を生み続ける資産であり続けていたギリシャの借金は、不良債権となる。

いざそうなると、財政が別個であるために、今度はドイツ国民やフランス国民などにしてみれば自分達の税金を他国のギリシャの救済に使われるように見えるし、それは我慢ならないというのも一見自然な反応に思える、そのことがギリシャ危機に対して本来とられるべき方策が行えない事情を作り出している。

ドイツやフランスの政府だって実は緊縮策をこれ以上ギリシャにやらせることが決して現実的に有効な手段でない、むしろユーロ体制の存続にとって不必要な危機すら招きかねないことは分かっている
だが国民の感情に分かり易く逆行する政策には踏み切れないのが、大衆民主主義の体制の弱みでもある

ギリシャ国会議事堂
しかもギリシャの経済や財政の実態は、勤勉に働き納税して来た自分達はなにも悪くないと信じて疑わない(自分達は真面目に働いて、努力した者の報いとして豊かになったと自分たちでは思っている)ヨーロッパ共同体のうち先進国の側からすれば、確かに腹立たしく見える。

だからギリシャや、あるいはポルトガルのような「厄介もの」は排除したい、あるいは自らがEUから離脱したいという動きはイギリスでは既に起こっていることでもあり、それはそれらの国々の視点からすれば一見もっともらしく思える。

なにしろドイツ等の銀行からの潤沢な資金が供給され続けた(利子は返せたから借金がどんどん増えた)そのあいだ、ギリシャでは公務員が労働人口の1/4、つまり借りたお金はその給料となってギリシャ全土を言わば「食わせて」来てもいた。年金の平均額もかなり高く、これも国の借金で賄われていたことになる。

その一方で脱税が横行する社会であるのも有名で、実態経済の1/4から1/3が、徴税の対象にならない「闇経済」ではないかとも言われている。いくら根本にあるのはEUの構造的な問題だとはいえ、これはあんまりだと思うのも分からないではない、とそれだけ聞けば日本人は思ってしまうだろう。

どうもこういうブログ・エントリーを書いているとついつい「知らないのが問題だ、教えてやる」的な態度になってしまいがちなのはくれぐれも自制すべきであって、遠い西洋の、地中海の国の話だから知らないのは無理もない。しかしそれだけなら構わないとはいえ、知らないままに偏見で決めつけてしまう傾向がどんどん強まっているのは、現代日本社会の(とくに都市部の)明らかな問題に思える。

遠いギリシャのこと(あるいはアラブの春にせよ、イスラム国問題にせよ、イスラエル=パレスティナ紛争にせよ)で先進国目線の決め付けが多いどころか、日本国内の地域格差に関してでさえ、たとえば東京などの都市圏の日本人が十分に理解しているとは言い難く、その誤解と偏見故に補助金や地方交付税の問題は都市部の潜在的な不満の材料であり続けている。

高度成長期の後半に、日本では中央に遍在する経済産業の発展を少しでも万遍なく全土で享受出来るように、田中角栄が「日本列島改造論」をぶち上げて、公共事業による雇用で地方経済を支えて来た伝統が今でも様々な局面に残ってもいるし、そこへの不満がなにかある特定の地方で問題が起こるたびに噴出するのも、右派か左派かに限った話ではない。

福島第一原子力発電所の事故が起これば、地元は「原発マネーで汚染されている」という論が、放射能汚染への差別とともに、いわゆる「左側」から噴出した。はっきり言ってしまえば放射能に関する風評被害ですら、補助金つまり我々の税金で「潤って来た」原発地元への嫉妬心の暗喩的なカムフラージュとすら分析できる

一方で、沖縄県が辺野古新基地の建設に明確に反対の意志を表明すると、今度は沖縄振興のための様々な補助金、交付金の類いがあたかも基地の存在を受け入れその被害を耐え忍ぶバーターであったと言わんばかりに、補助金返せ、沖縄は恩知らずだとの声が「右派」から噴出している。

このどちらでも、福島には原発が、沖縄県なら米軍基地があるから経済が成り立っているのだろうという思い上がった決め付けが前提になっているが、実際には福島県内で原発にある意味依存した経済構造があったのは浜通り・双葉郡限定で、確かに人口8万で東電の二つの原発と火力発電所ひとつ(広野火力発電所)の直接雇用が2万といえば、その経済は原発なしには成り立たなかったと言うことにはなるが、およそ福島県全体に敷衍できる話ではない。

沖縄の場合はさらに極端な誤解偏見であって、基地関連の雇用等の経済効果は今日ではせいぜい5%程度と計算されている。観光業の成長が著しく農業生産も伸びている同県では、基地はむしろ「邪魔」だから、地元の経済界など保守系こそが、反対派の翁長知事を強固に支持している現状がある。

だいたい翁長氏自身が、元は自民党沖縄県連の幹事長だ。今の沖縄の反基地闘争は、むしろ伝統的には保守派の流れの運動だし、辺野古新基地に反対する理由はただ「環境破壊」だけでなく、ここが返還されれば極めて有望な観光開発が期待されるからでもある。

ギリシャ問題についての比較なら、むしろ沖縄の方が島根県より適しているかも知れない。ギリシャも沖縄県も、主要産業は観光・農業・漁業で、ギリシャはヨーロッパ市民から見て、沖縄は日本本土の人間から見て、ともに憧れの南方の、リゾート地でもあるだけではなく、西欧にとってのギリシャも、日本本土にとっての琉球(沖縄)も外の世界との接点にあたる地政学上の要衝であり軍事的にも重要になる。沖縄なら日本にとって東シナ海、台湾や中国本土、さらに南シナ海に通じる交易路に位置し、ギリシャは西欧から見ればトルコなど中近東にも、ボスポラス海峡を通じて黒海、ロシアへと繋がっている。

ギリシャが西欧から見ればヨーロッパ文明の源流であるという歴史的な意味だけでなく、この地政学的な位置づけが、実のところギリシャの政治がなぜこうなってしまったのかの原因にあるのだが、日本のメディアに出て来る「識者」は、たとえば元駐ギリシャ大使でも、近代以前にオスマン・トルコ帝国に属していたことをなぜか「植民地」と誤った認識で語る割には、近代ギリシャの独立後のことはなぜか口をつぐんでいる。

だが現代ギリシャ人の国民性というか自国の政治との関わりや政治体制には、トルコ時代よりもその後の歴史の方が遥かに深刻な傷痕を残していることを理解しない限り、国民投票でギリシャがEU諸国に「OXI ノー」を突きつけた理由も、なかなか理解できない気がする。

端的に言ってしまえば、現代のギリシャ政治もギリシャ人の国民性も、1974年まではそうとうに激しい軍政だったこと、その軍事独裁政権がアメリカとNATOの支援で成り立っていたこと抜きには語れないし、第二次大戦中にはナチス・ドイツに占領されたこと、その占領から「解放」したはずのイギリスがちっとも「解放軍」などではなく脅迫と弾圧を繰り返して名ばかりの自由選挙を強要し、王制派と共和派の激しい内戦でギリシャ全土が引き裂かれたこともまた、忘れてはならない。

1975年にカンヌ国際映画祭を席巻したギリシャ映画『旅芸人の記録』は、この軍政の終焉直後に作られ、直接的には1939年から1952年、第二次大戦、ナチス占領、共和派の弾圧と軍政の成立までを描きつつ、ギリシャの古代史と地中海と太陽にのみ憧れて来た外部の人間の知らない歴史の継続的トラウマを凝縮した作品だ。ある意味、外国人にとって現代ギリシャを理解するのにもっとも手っ取り早いのは、このテオ・アンゲロプロス監督作品を見ることかも知れない。

『旅芸人の記録』予告編

撮影のヨルゴス・アルヴァニティスと録音のタナシス・アルヴァニティスの兄弟の父はドイツ占領下では対独レジスタンスで戦い、戦後は解放者ではなくすぐに弾圧者になった英国軍に抵抗するパルチザンとなり、留守宅の母が身代わりで逮捕されたという、そうした体験はこの一見様式性と神話性を極めたようにも見える作品に、生々しく反映されている。

軍政が終わったからこそこのような映画も作れたとはいえ、民主化でギリシャが本当に変わったわけではない。

軍政の下に出来上がった行政機構も、コネ社会も、闇経済もそのまま温存され、根本から国を民主的に改革しようとする左派に政権が決して渡らないように、圧制転じて今度はバラまきの懐柔政策を資金的に支えたのもまた、西欧と米国からの貸し付けだった。

先進諸国の連合体であるEUのなかでギリシャは単に発展途上国なのではない。その政治的な実態は半ば植民地であり続けて来たし、西欧先進国がそれを望んでも来た。

言い換えればチブラス政権以前のギリシャ政府は大なり小なり国民よりも実のところ西欧先進諸国、今のEUの主導的国家や、アメリカの側を実は向いた政権であり続けたのだし、しかもギリシャの最大の(外貨獲得につながる)産業が観光である以上、その西欧先進諸国やアメリカからやって来た観光客が大きな顔をして来た社会にもなってしまう。

しかもこうした社会の矛盾や『旅芸人の記録』に描かれたような暴虐な内政の問題は、観光イメージにはマイナスなので隠蔽されても来た。

ギリシャ人にとって、オスマン・トルコ帝国治世も決して楽ではなかったが、西欧先進国のやったことも負けず劣らずに酷かった。近代的な産業基盤を持たず、またそれを育成するチャンスもなかったギリシャは、その西欧や米国に翻弄され、半ば植民地とも言える実質は発展途上国の状態に、一応は民主政が回復した後も置かれ続けて来た。膨れ上がった負債はその西欧の都合の必然的な結果でもある。

ギリシャの年金制度がかなり高額であることにも批判が集まっているが、これだってどういう世代の人たちが受給しているのか、その人たちが生きて来た歴史を考えれば、それくらい当然じゃないかとすら思える。
イギリスが起こした内戦と弾圧、アメリカが支援した軍政、その苦難に人生を翻弄されて来た世代の老後くらい、少しは平和で安心できるものにしたってバチは当るまい。

なぜ米国や西欧、NATO諸国がここまでギリシャを実のところないがしろにしながら、自分達の支配権・覇権の下に置き続けようとして来たのかと言えば、冷戦の終結まではギリシャの「共産化」を恐れたからであり、冷戦の終結後は自分たちのマーケットとして確保し続ける同時に、中近東・イスラム圏に対抗するヨーロッパ側の最前線としてギリシャを自分達の側につなぎ止める必要を感じていたからだ。

だからこそ民主化後も、政治理念や社会的な目標よりもバラ撒きや公務員としての雇用の目先の金で民心を掌握するような腐敗した政府や、コネの恩恵に預かる富裕層とそうではない庶民の極度な格差がある不公平な社会を、ヨーロッパとアメリカこそが望み、温存して来たのでもある。

まただからこそ、ギリシャ人は政府を根本的には信用していないし、それが近代以降政府や権威・権力に極端に従順で所属意識の強い日本人には、えらく身勝手で奔放で公共への奉仕の精神が欠けているようにも見える。なぜギリシャ国民がEUの強制する緊縮策に「OXI ノー」を突きつけたのか、日本のメディアで語られる「理由」や「分析」はあまりに西欧寄りだし、西欧の都合もまた今のギリシャの危機の温床となったことを一生懸命無視しているようにすら見える。

言い換えれば「ギリシャ人の視点からはどう見えるか」の思考が欠如しているのだが、これは日本の例のアナロジーに話を戻せば、東京中心のメディアは原発事故以降の福島から見て現状はどう見えるのか、沖縄の視点からは辺野古新基地の強行がどう見えるのかも、あまりに無視しがちなことにも通じる。

一見同じ現状でも視点を変えれば別のものに見える、歴史に至っては視点を変えるだけで見えなかったものが浮かび上がって「同じ歴史」とすら言えなくなることでいえば、唐突に話を変えているようで申し訳ないが、ローマ帝国の滅亡はいつかと問われれば、我々日本人は476年のローマ陥落だと無邪気に思い込んでいる。

だがギリシャから見れば、これはまったく違う。

ローマ帝国の歴史という視点で考えるだけでも、476年のローマ陥落はおよそローマ帝国が滅亡したと言える事件ではない。

ローマ帝国が滅亡したのは1453年のコンスタンチノープル陥落だ。今の我々はアテネがギリシャ人の首都だと無邪気に思い込んでいるが、歴史的に言えばコンスタンチノープル、今のトルコのイスタンブールこそが、ギリシャ文明の歴史的な首都なのだ。

東ローマ帝国の建立した聖ソフィア大聖堂(イスタンブール)
オスマン・トルコ時代にモスクに改修され、現在は博物館
我々は西欧中心の歴史観で世界史を学んでいるので、ギリシャがあり、ローマがあり、5世紀の西ローマ帝国の滅亡(ローマ陥落)後にその文明が西欧に継承されたと思い込んでしまいがちだが、ローマ帝国はイタリア半島の一都市ローマの国ではなく地中海帝国であり、ギリシャ文明をこそ継承する帝国として、東ローマ帝国がオスマン・トルコに滅ぼされるまで続いていた。

この帝国の言葉はローマ人の言葉であるラテン語は一部の人間しか使わない公式言語に過ぎず、帝国全土に共通して使われていたのもギリシャ語だった。
この帝国の繁栄の中心自体が東地中海、例えば今ではトルコになっているアナトリアからシリア辺りまでで、今の西欧先進国はむしろ辺境でしかなかった。

ローマを継承したのがゲルマン人王朝で、フランク王国がフランスになり、神聖ローマ帝国がドイツへ、という西欧の歴史観はギリシャには当てはまらないだけでなく、ローマ帝国の歴史的な実態を正確に反映したものでもない(現代の価値観に偏った視点で過去の歴史を軽卒に判断すべきではない)。ゲルマン人王朝下にヨーロッパがいわゆる暗黒の中世であった時代に遥かに文化文明が発達していたのが東ローマ帝国で、ローマが継承したギリシャ文明の科学や哲学はむしろギリシャ人を通じてイスラム圏にこそ受け継がれた。

その意味では、西欧から見ればトルコ人に東ローマ帝国が滅ぼされたように見えることを、東ローマ帝国を継承したのがオスマン・トルコ帝国だったと見ることすら可能だ。

無論、実際にはトルコ人のイスラム教王朝であったオスマン帝国の下で正教徒のギリシャ人は抑圧される少数民族であった以上、オスマン・トルコが東ローマ帝国の継承者だとみなす歴史観もまた極論すぎて、およそ実際にギリシャ人に支持されるものではないだろうが、しかし西欧中心の歴史観からのみ、このEU内の対立の危機を見る偏向からいったん自由になる頭の体操としては、有効に思える。

つまりローマ帝国とは地中海帝国であって西欧の源流としてのみ見るのは間違っていて、その中心は東地中海だったことを思い起こせば、西欧やアメリカがギリシャを自分達の文明圏につなぎとめようとし、戦後は「共産化」を恐れるあまりギリシャを実質の半植民地扱いして来た近現代から解放され、異なった視点からこの危機を逆に新たなチャンスと見ることだって出来る、ということだ。

再び沖縄というアナロジーを持ち出せば、沖縄の観光産業の主な顧客が本土の日本人であった20世紀の後半とは、今の沖縄は明らかに別の様相を呈していることにも通じる。
今や沖縄はアジア全体を商売相手にできる観光地であり、たとえば中国からの観光客も増えて来ている。
観光業の発展で「ライバルはハワイ」とも言っているという沖縄の、独立論は極論にしても、かつて東アジア、東南アジア貿易で栄えた琉球王国のアイデンティティを取り戻すことこそが、むしろ沖縄の未来につながる。翁長知事などはそのことにかなり意識的な発言も繰り返している。

ギリシャは西洋文明にとって自分達の源流であり、ながらくその観光産業の主な顧客層は西欧でありアメリカだった。

だが今やそのギリシャにも中国人観光客が押し寄せ、リゾート地を中心に中国富裕層による不動産の購入熱も始っているという。ギリシャが経済を建て直して負債をある程度は返済できるようになるためにも中国人なら中国人という新たな観光の顧客層も重要になるし、現状のデフォルト危機を抜け出すためには、中国マネーもまた有効だ。チプラス政権が既にその動きを始めていることを、日本のメディアは中国の世界制覇の野望であるかのように報じているが、ヨーロッパだけの経済力・資金力だけではこの危機が回避できるわけでもない。

いずれにせよ、現代の世界はもはやアメリカや西欧が覇権の中心であり続けられる時代にはない。ギリシャもまた、西欧文明圏の東の辺境という位置付けにあり続ける必然もない。覇権の中心が今後は中国に移るわけでもないし、中華人民共和国政府だってそんな大それて負担ばかりが大きい野心など持っているわけでもない。世界は多極化に向かい、複数の中心を持ったバランス関係にこそ、世界の秩序の維持と繁栄の未来がある。その未来像はまだおぼろげにしか見えていないが、現代の世界がその転換期にあることは間違いない。

今日本人として不安なのは、その世界の転換期に今の日本の政治やメディアの報道、つまりは私たち日本人の世界観が、完全に乗り遅れているのではないのか、ということだ。
例えば集団的自衛権の議論などはその時代錯誤の典型だろう。違憲であることが問題なのは言うまでもないが、日本の今後の安全の確保を考えるなら、議論すべきは日米同盟を前提にした集団的自衛権ではなく、集団安全保障への参加の充実だ。このまったく異なった議論が混同されていること自体、安倍政権の日本における議論があまりに稚拙であることもまた、言うまでもない。

国民投票の結果はEUの緊縮策に「OXI ノー」だったにも関わらず、チプラス政権がEUに自ら提案した改革案に、世界のメディアは驚いている。中身が実際には、EUの提示した条件とほとんど変わらないのだ。

ならばなぜギリシャ国民は「OXI ノー」を選択したのか?

この改革案はチプラス首相への反発を呼び、政権基盤を揺るがすのではないか?

そんな疑心暗鬼も飛び交っているが、恐らくそうはならないだろうし、彼らは結局、今回の危機の本質も分かっておらず、その解決の方向性も見えていないのだろう。

同じ内容でも、これまで半植民地扱いだったギリシャに掌を返したように宗主国ヅラを曝け出した西欧諸国が押し付けるのと、ギリシャ国民が支持する政権が自ら提示するのでは、まったく意味が違う。同じ結果なら国民投票は無駄な儀式だったのではないか、と思う人もいるだろうが、それも違う。これはギリシャ人達が今新たに、ギリシャ人としての自分達のアイデンティティを掴み直す第一歩として、必要な儀式だったのだ。

覇権主義や植民地主義、差別思想の優越感から切り離された、健全なアイデンティティ意識を取り戻す、世界との積極的な関わりのなかに自国の存在価値を意識する新たなナショナリズムもまた、必然的な相対化と多極化の進む世界のなかでは必要なものなのだ。

先進諸国民が過去の栄光に引きこもって優越感を担保する排外主義的なナショナリズムにしがみつく傾向が強まっている現代に、ギリシャ人たちは今、その新たなアイデンティティ意識の更新の試みの、まっただ中にいるのかも知れない。

7/07/2015

世界遺産登録をめぐる日本メディアの誤報は、無知のせいなのか、わざとなのか?


なんとか世界遺産登録が決った「明治の産業革命」遺産だが、7月4日の予定だった審議採決が1日ずれ込んだことについて、どうにも不思議な誤解が日本では蔓延している。いやはっきり言ってしまえば、日本のテレビや新聞の報道は、そもそもが事実誤認の誤報だと断言していい。

まず結論から言っておこう。ボンでの世界遺産委員会において、韓国は 「明治の産業革命」遺産の登録に一度も反対していない。

世界遺産委員会での決定が遅れたのは「韓国が反対した」からだと言うのは、報道機関があまりに常識を知らなさ過ぎる。世界遺産委員会は新規の遺産登録に関しては全会一致が原則で、会議が開かれる前には21の理事国すべてが賛成を表明するよう議長国が調整するのが慣例、会議における審議も採択もたぶんに儀礼的なものだ。

1996年の広島・原爆ドームにアメリカが反対、中国が棄権したことが例外中の例外で、以後20年近く全会一致が守られずに投票になったことはない。

「明治の産業革命」も全会一致で採択の準備は出来ていた。韓国も既に日韓国交50周年の前日、6月21日に開かれた外相会談で、公式に賛成すると日本に伝えている。韓国のこの表明は、態度保留だった理事国に賛成を表明させるためにも、日本にとって重要だった(それ以前、日本は投票の場合に必要な21カ国中の2/3の支持を集めていない)。

世界遺産委員会の会議が開幕した時点でも韓国の意向は賛成であり(だから全会一致が可能になる)、意見陳述も「賛成」の理由を述べる内容だった。ところが、なぜか日本政府が事前協議を突然要求し、議長国のドイツが調整に奔走する事態になったのは、世界遺産登録に賛成か反対かを巡っての話ではまったくない。

この点は国内の偏向した報道でもさすがに、その意見陳述で使われる文言をめぐるトラブルであったことは言及されている。「韓国が反対している」と実際に報じたのは、7月4日午後の早めの一部の(外務省のリークをそのまま伝えただけの)報道だけだ。

しかしそれ以降の報道でも、韓国の意見陳述の内容に日本が文句を言っているという事実関係自体は報じながらも、あたかも韓国が反対していて日本が説得に走ったかのような印象を与える偏向に終始していた。

繰り返し確認しておく。韓国はこの世界遺産委員会の当初から、 「明治の産業革命」遺産の世界遺産登録に反対していない。韓国が(賛成の)意見陳述を行うことに、突然日本が反対し始めたのだ。


いやどうも、日韓外相会談での合意の時点でも、既にメディアの報道は誤解を招きがちな内容だった。

最初から今回の世界遺産登録に関して、韓国の主張はあくまで「歴史を歪曲し強制労働の事実を無視する美化」ならば反対、言い換えればその史実をちゃんと言及するのなら、強制労働があった7施設を含む全23施設の世界遺産への登録を「祝福する」とすら言って来ている。議長国のドイツとの外相会談や、副議長国のセネガルとの首脳会談でこの話題が出た時にも(ちなみにそれぞれ、両国間の様々な外交懸案の話合いのなかで、世界遺産はちょっと出た程度の話題でしかない)、韓国はこの態度を鮮明にし、日本と話し合うことにドイツやセネガルの協力を要請していただけだ。

ちなみに韓国が「明治の産業革命」遺産の世界遺産登録に当初「反対」したのも、日本で報じられているほどに理不尽な話ではない。むしろまったく正当とすら言えることだ。

ICOMOSが世界遺産委員会の審議対象にする勧告を出した時点で、その勧告にも日本の申請の内容の政治的な恣意性を警戒して「歴史の総体が理解されるように」と配慮を要求する一文が入っている。日本の推薦理由が1850年代から1905年(後に1910年に修正)と区切られている、だから戦時中の徴用による強制労働の歴史には触れない、という詭弁は最初から当のICOMOSにとってもおよそ通用するものではなく、そもそも世界遺産条約の根本的な精神に反する。

日韓外相会談では最終的に、韓国の要求に応じるという形ではなく、日本の自主的な判断という形で、日本が強制労働があった史実への言及を登録遺産の説明に加えることが同意されている。ところがこの事実が既に、外相会談のニュースでは、ほとんど触れられていなかった。

NHKなどは世界遺産委員会での紛糾の時点で慌てて言及したほどで、そうしなければニュースの中身があまりに支離滅裂になってしまうから仕方がなかったのだろう。


代わりに日韓外相会談の報道で強調されたのは、韓国が「明治の産業革命」遺産の世界遺産登録に協力し、日本は韓国の「百済歴史地区」の世界遺産登録に協力するという、あたかも交換条件のように見える話の方だが、これを真面目に受け取って報道したメディア各社は、あまりに無知で非常識、しかもなにも考えていないで外務官僚の言いなりだった、としか言いようがない。

既に説明したことを繰り返しておく。 世界遺産委員会は新規の遺産登録に関しては全会一致が原則だ。ICOMOSの勧告があれば、理事国全てが賛成で全会一致が当たり前なのだ。しかもそもそも日本には、「百済歴史地区」の登録に反対する理由が最初からない。

本当の交換条件が(日本ではほとんど報道されなかったのが怪しいにせよ)、日本が「自主的」に 強制労働があった史実への言及を登録遺産の説明に加えることと引き換えに、韓国は明治の産業革命遺産の登録に賛成する、ということだったのは言うまでもない。

交換条件で強要されたのではなくあくまで「自主的」に説明する、という体裁を整えて日本の面子を保つため、もともと取引条件にならない「百済歴史地区」を名目上持ち出しただけなのに、あたかもそれが重要な合意事項であったかにように報道しただけでも、日本の報道各社・関係者があまりに非常識で無知なのか、それとも(安倍政権になってから大手の報道はずっとそんな感じではあるが)官邸に配慮してわざと偏向していたのか、わけが分からなくなる。

唯一断言できるのは、あまりに報道内容のレベルが低くて恥ずかしい、ということだ。

それにしてもなぜ、とっくに合意済みのことで突然こんなトラブルが起きたのだろう?

採択予定の7月4日に突然、という日本の報道はこれも誤報、間違いでなければ恣意的な歪曲だ。実際には7月3日に、すでに韓国の国会で、日本が事前協議を要求して来て韓国外交部が困惑しているという答弁が出ているのだ。

 「韓国が反対」という初期の誤報を除けば、その後の報道の内容は、例えば

「韓国側の発言する予定の内容を日本側が確認したところ、朝鮮半島出身者の動員に関する部分が日本に厳しい内容だとして、日本側が受け入れられる内容に直すよう求めた」(朝日新聞

「韓国側は委員会で「資産の一部は、朝鮮半島出身者に対する強制徴用に関係した」などと訴えたい考えで、日本側は反発している」(読売新聞

「意見陳述は同委員会メンバー国の権利として認められているが、聯合ニュースは「日本側は強制労働などに関連して韓国側がどう表現するかに敏感になっている」との見方を伝えている」(産經新聞

となっている。つまり「韓国が反対」とはさすがに書いていない、日本が韓国の意見陳述を妨害している事実関係の構図自体はそう書いてあるのに、それでも「韓国が反対してもめているのだ、けしからん」という文脈を全体の印象で作り出している、その誤解が平然と蔓延してしまったのだから、随分と異常な世論の偏向と言わねばなるまい。

いや最初から報道姿勢が間違っていたことに気づいたのは後の祭り、自分達が誤っていたと認めたくない心理で、なんとか誤摩化しに徹しようとしてしまい、誤った前提で無理矢理話を歪曲した報道になってしまうのは、ここ数年の日本ではよく見られる現象ではあり、今回起こったのもその典型例と言える。

それにしても日本政府は、なにが気に入らなかったのか?

日韓外相会談では、報道はごく一部だったとはいえ、「強制労働の史実について日本が自主的に説明する」が確認されている。

なのに日本側は韓国の意見陳述に「強制労働」ないし「強制徴用」の文言があることを突然問題にし、外交の当然のルールを破って他国の意見陳述に(賛否の問題ですらないのに)介入しようとしたのだから、わけが分からないのだ。韓国だけでなく、議長国のドイツもさぞ困惑したはずだ。


世界文化遺産への登録という、本来政治が直接介入することが憚られるべき議題に政治の恣意性で介入したのは、どう見ても日本側であり、なぜそんなことをするのか、動機が理解不能に思える。

こんなことをやっては韓国が反発してやはり反対すると言い出してもやむを得ず(約束を破って強制労働の史実を誤摩化そうとしているのは日本なのだから)、議長国らの尽力も虚しく全会一致の原則が破られ、異例の投票に持ち込まれざるを得なかったかも知れないのだ。

ところが日本は日韓外相会談の前に21カ国中必要な2/3票を集められていない。だからこそ日韓外相会談でも「日本が自主的に」という体面は韓国の配慮で維持させてもらいながら、強制労働の史実への言及を約束せざるを得なかったのだ。

いや実は、あまりに理不尽で意味が分からない行動で、あまりに外交常識に反しているからこそ、理由は簡単に推測がつく、また「アノ人」の勘違いではないか…と思っていたら案の定、なんとか登録決定にこぎ着けた翌6日に報道で出て来た内幕情報によれば、韓国の意見陳述に「強制労働」ないし「強制徴用」(どっちにしろ英語では forced labor)の文言があったことに対し

「誤算だ。まさに首相が、ここは大丈夫なのか、と懸念していた点だ。外相会談で合意までしたのは何だったのかと首相も思っている」(朝日新聞

…という政府関係者からの声があったというのだ。

外相会談の翌6月22日には、安倍晋三首相は韓国大使館の主催で東京で行われた国交回復50周年記念式典に出席、アメリカの圧力でなんとしてもやらねばならなかった日韓の関係改善の目処もついて、上機嫌だった。

だがその翌日の23日に沖縄の慰霊の日(沖縄戦の戦闘終了の70周忌)式典に出席した安倍は、参列した戦没者遺族達から「帰れ戦争屋!」「お前はなにしに来たんだ!」との罵声を浴びせられる。さらに自民党内の自身に近い若手議員の勉強会で、安倍自身のお気に入りの作家百田尚樹の問題発言があり、安倍に近い議員三名が輪をかけた暴言を吐いたことも明るみに出て、安倍政権の立場はさらに悪化する。今国会の最大の懸案である新安保法制の審議が難航を極めて来た上に、安倍はこの暴言問題でも野党の質問の集中砲火を浴び、言を左右して詭弁にならない詭弁で逃げ切ることもできず、党を代表する立場として謝罪に追い込まれた。

はっきり言えば、安倍晋三さんはご機嫌斜めだったのだ。自分のいきなりの苦境は「サヨク」のせいだ、これもアメリカに言われたから「反日」の韓国に妥協したのが悪いんだ、と腹が立ってしょうがなかったのだろう。そこでいきなり、そもそも「明治の産業革命」遺産自体がその首相のご機嫌取りで世界遺産に申請されたのに、その世界遺産登録が失敗に終わろうがお構いなし、突然の必死の嫌がらせを始めた、という次第であろう。

ちなみに 「明治の産業革命」遺産の施設選択が歴史学的な見地からすればあまりに不自然で、まったくの時代錯誤な出鱈目であることについては、こちらの記事で論じている通り。

「世界遺産をめぐって露わになった、安倍政権ニッポンの時代錯誤に歪んだ歴史観と、事実・現実の認識から逃避する精神構造 」 http://www.france10.tv/international/5147/

議長国ドイツはさぞ困惑したに違いない、通常ならそもそも韓国の意見陳述は他国が介入すべき筋合いのものではないし、日本と韓国は韓国が登録に賛成することで合意しているはずだ。日本の外務省の担当者がおかしいのではないか、と思えば、なんとこの非常識な振る舞いが日本の首相直々の命令となれば、さすがに門前払いも出来まい。

なんでも安倍首相自らが現地に、それも韓国代表、ドイツ代表の議長と同席し議論ている担当者に直接電話をして、逐一を指示していた、という情報まで流れて来ているのだから尋常ではない。

これが事実なら、いかに日本側の主張がメチャクチャであり非常識であっても、なにしろ実質、日本の首相本人とのやり取りとなっては、無視するわけにも、面子を潰すわけにもいかない。


その議長国ドイツの尽力で、理事国の意見陳述も推薦国の弁も皆無の異例の「審議なし採択」で、「明治の産業革命」はなんとか世界遺産登録がかなった。

採択の場での事実関係の経緯は既に報道にある通りだが、なにしろ前提が誤報だっただけになんのことか、なにが起こったのか狐につままれたような気分になった人も多いかも知れず、現に報道内容も、韓国への疑心暗鬼や反感が高まりかねないものになっている。

だが実際の事実関係をちゃんと把握すれば、これはなるべくしてなった当然の結末でしかない。韓国も含めて世界遺産委員会はICOMOSの勧告は尊重して「明治の産業革命」遺産の価値自体は認めつつ、日本のあまりに政治的かつ恣意的、しかも稚拙なやり口には厳しい態度で臨んだのだ。

採択が終わった後で日本代表の佐藤UNESCO大使は委員会に感謝しつつ、強制労働があった事実をスピーチで認め、その史実をしっかり説明するよう努力すると誓わされた。

これには(これも国内では報道がないが)2017年末に報告書を提出、2018年の世界遺産委員会で審議された上で、世界遺産登録抹消もあり得る、という厳しい条件がつけられている。

欧米を中心にメディアは(例:ガーディアン紙)この「明治の産業革命」遺産を「日本の戦争遺産」ないし「戦争犯罪遺産」でもあると断じ、強制労働の事実を認めることとの引き換えに世界遺産登録が認められた、と報じる一方で、こと米国ではその米軍の捕虜も三池炭坑などで「奴隷労働」に就かされたことが無視されているとも指摘されている。


安倍の周囲やその支持者のあいだでは、韓国が “外交戦で勝ち誇っている” のではないか、と思い込んで今度はそっちで怒り心頭の疑心暗鬼になっていて、 その感情論は一部テレビ報道でのコメンテーターの発言にも反映されている。

だがこれもまた、そもそもの誤報を引きずり続けた結果の誤解でしかない。

韓国政府は一部の国内世論の反発をあえて無視してまで、いったん日本と約束した後は、一貫して「明治の産業革命」遺産の世界遺産登録に協力する姿勢を崩さなかった。

そもそも突っぱねてもよかった日本の事前協議の要求に応じたことも含めて、韓国はむしろ日本に最大限の配慮を貫いている。

むしろ歴史認識の問題はともかく、韓国は日本との関係改善を明らかに模索しているとみなす方が、明らかに正確な現状理解だろう。

そもそも「明治の産業革命」遺産の世界遺産登録を巡る事態を「日韓の対立」とみなすこと自体が誤解であり、日本のメディアが最初から陥っていた偏向の誤報なのだ。

現実は、世界遺産委員会の結果を見ても明白だろう。

「韓国が反日」などではない。安倍政権の日本は世界を相手に異常で政治的恣意性で歪み切った不誠実で支離滅裂な歴史観、さらにそれを姑息に隠蔽した不誠実な二枚舌を、断罪されただけなのだ。

4/24/2015

バンドン会議と安倍晋三

(写真はインドネシア、ジャカルタ)

今年のアジア・アフリカ会議は60周年であっただけでなく、開催国のインドネシアにとっては、ついに誕生した本格的な民主政権のジョコ・ウィドド大統領がホストとなった点でも意義深いものだった。

だが日本のメディアの関心は、首脳たちの記念撮影でそのジョコヴィの左右を固めた習近平中国主席と安倍晋三日本首相にしか向いていない。

それにしても安倍晋三首相自身が、ジョコ大統領にも他の首脳達にも目もくれず、ひたすら習近平の握手を求めようと懸命に待ち構えている映像がNHKのニュースで流れたのには、「ああ、なんてこった」と呆れてしまう。

この会議では日本政府の関心が日中首脳会談にしか向いていないのだから、メディアがそうなるのも仕方がないのだろう(こうした外遊では外務省と官邸の差配で報道内容がだいたい決まるものだし)。

しかも安倍氏がわざわざこの会議の参加直前に、戦後70年記念談話について「村山談話、小泉談話を引き継ぐと言っているのだから、その中身を繰り返すことはない」とさっぱり意味の分からないことを言っているだけに、全体会議での安倍の演説でも、関心は日本がこの会議の参加国の多くをかつて侵略・占領した歴史にどう触れるのかに集まった。

戦後10周年にインドネシアのバンドンで第一回が開催されたアジア・アフリカ会議の50周年は日本の戦後60年、60周年記念は日本の戦後70年に一致するわけだが、念のため繰り返しておこう。今年で言えばその70年前とは、あくまで「日本がこの会議の参加国の【多くを】かつて侵略・占領した歴史」である。


たとえば開催国のインドネシアでも、日本が占領するまでのオランダ植民地時代について「オランダ人はそれでも、まだ結婚して子どもを残した。日本は強姦しただけだ」という言い方がなされるし、実際ジャカルタにでも行けばオランダ風の植民地様式の建築物は今でも多く残っているが(=写真参照)、確かに日本時代は目につく遺産をなにも残していない。残したのは圧制の記憶であり、日本軍に徴用・強制労働をさせられた「労務者」が「ロームシャ」、それに従軍慰安婦も「イアンフ」としてそのまま教科書に載っているし、ジャワ島などには元慰安婦の女性たちがひっそり余生を送っているコミュニティもある。

日本のメディアがひたすら注目している中国や、韓国の反応だけではなく、この会議の多くの参加国が、自分達もその被害国であるところの日本の戦争を、日本の首相がどう総括・反省し、謝罪するのかに、当然注目していることを忘れてはならない。

だが演説で安倍晋三首相の口から発せられたのは、予想通りといえば予想通りだが、かなり呆れる他はない空虚で論理的一貫性のない言葉の羅列だった。

「先の大戦の深い反省」とは言っているが、実際の侵略の問題についてはバンドン会議第一回で議決された侵略の否定の原則を「日本も誓った」という、なんともあやふやな言い方で、なにが言いたいのか分からず途方にくれてしまう。

安倍首相演説全文 http://www.sankei.com/politics/news/150422/plt1504220025-n1.html

正確には「先の大戦の深い反省とともに、いかなる時でも守り抜く国であろう、と誓いました」という文言なのだから、その「反省」に過去の侵略が含まれていると読めなくもないし、責められたら安倍はそう言い張るつもりなのだろうが、この様な玉虫色の二枚舌ではかえって不信を買うことには、昨今安倍政権に不利なことをほとんど書けない日本の大手メディアでも、さすがに日本経済新聞が社説と朝刊コラム「春秋」の双方で厳しく噛み付いた。

日本経済新聞 4月23日社説 http://www.nikkei.com/article/DGXKZO86031120T20C15A4EA1000/

「玉虫色の表現は国内では通用しても、外国人にもわかってもらえるだろうか。いまのままでは、戦後70年を平穏に終えるのは容易ではあるまい」という社説の結論は、この会議の参加国の多くと今後もビジネスを続けて行くつもりの日本の経済産業界の危機感を、如実に反映したものでもある。

「春秋」の方はさらに手厳しい。

「春秋」4月23日 http://www.nikkei.com/article/DGXKZO86034440T20C15A4MM8000/

「強い者が弱い者を力で振り回すことは断じてあってはならない」という安倍演説に対し、「その精神をぜひこの国でも発揮してほしいのだが、現実はどうだろう。自民党がテレビ局幹部を呼びつける姿。あるいは国会で安保法制を「戦争法案」と呼んだ野党議員に修正を求める姿。ここ数日も、法の支配をはみだして「強い者が弱い者を力で振り回す」という、あってはならないことが繰り返されていなかったか」と、その二枚舌の欺瞞を皮肉たっぷりに指摘している。

だいたい「強い者が弱い者を力で振り回すことは断じてあってはならない。法の支配が、大小に関係なく国家の尊厳を」などと安倍が言ったのは中国を念頭においた牽制のつもりなのだろうが、日本が文字通り「強い者」として無法に「弱い者を力で振り回した」過去に言及しそれを反省した上でなければ言えないはずのことが、まるで他人事なのだ。

こうした地域の日本の占領下では、当時の国際法で定められていた一般市民や捕虜の権利がまったく無視されたことも言うまでもないのに、日本が「法の支配」の代弁者気取り。では「先の大戦の深い反省とともに」とは、いったいなにを反省したつもりなのか?


先日、天皇皇后が戦死者…ではなく「この戦争で亡くなったすべての人」の慰霊の一貫で訪れたパラオ共和国でも、日本風の名を持つ元大統領のクニオ・ナカムラ氏が「忘れてはいけない。我々は忘れてはいないが、許している」と言っている。

両陛下訪問時にほとんどメディアでは触れられなかったが、パラオは戦前戦中の人気マンガ『冒険ダン吉』のモデルとも言われており、最初は国際連盟の委任統治としてこの島々を支配することになった日本が、現地人口の倍近い日本国民を移住させ、現地人を「三等国民」として野蛮人扱いの最下層に置いた過去もある。

ちなみにその際に「二等」だったのは、朝鮮人と沖縄出身者だったという。

「委任統治」とは名ばかりの差別的な同化強要支配を、日本は国際連盟脱退後も続け、その最終局面で、パラオは日本軍とアメリカ軍の最大の激戦地のひとつとなった。

「いや現地人はちゃんと避難させた」と言い張る者もいるようだが、その避難先もまた日本側の軍事施設とみなされ米軍の攻撃を受けて犠牲者も出ているのだし、それ以前にそもそも、自国の戦争のためにパラオ人に避難を強要している。 
その人たちの土地を自国の戦争に巻き込んだ、まさに「強い者が弱い者を力で振り回す」をやった事実も、決して消せるものではない。

「許しているが、忘れてはいない」、それが1955年の第一回からバンドン会議に招かれて来た日本に対する、多くの加盟国の偽らざる立場であり心情でもある。

1980年代以降、次第に中国と韓国が日本政府や日本国内の歴史修正主義的な流れに直接抗議出来るようになったのは、この2国が経済的に発展して力を徐々に着けて来たからに過ぎない。


他の国々は今でも、自国の重大な国益を左右する経済大国であり援助大国でもある日本とその国民に、直接はっきり言うことはやはりはばかられる立場になってしまいがちだし、だいたいこれは中国と韓国でも同じことだが、その国を訪れた日本人に直接戦争の過去を言及することは、客人であったり取引先、出資者、上司や雇用主にもなる相手にはめったにやらない。

大切な人間関係を壊したくないと思うのは当たり前だし、構造的にはどうしても、あちらが遠慮して日本人が一方的に配慮を甘受する関係になりがちだ。 
つまりはコロニアリズム、植民地主義の構造は今でもそれらの国々と我が国の関係に影を落としているし、あちら側はそのことに常に自覚的に行動せざるを得ないが、日本人は配慮される側なので、よほど注意しないと無視・無自覚な傲慢に陥りがちだ。


だからこそバンドン会議での安倍首相の演説には、戦争の謝罪と侵略についての反省がなかったこと以上に大きな問題があるのだが、日本のメディアがそこに気づかないとしたら、かなり危険なことだ。

実際には経済格差がそうとうに激しいアジア・アフリカ会議参加国どうしとはいえ、外交プロトコル上の立場では、だからこそあくまで平等でなければならない。

そもそもバンドン会議は、民族自決権を謳って中国首相の周恩来、インド首相ネルー、インドネシア大統領スカルノ、エジプト大統領のナセルらが開催を提唱し、かつては第三世界諸国会議とも称されたものだ。そんな過去を考えもしなかったのか、安倍はバンドン会議第一回で採択された原則の下に、アジア・アフリカ諸国の「先頭に立ちたい、と決意したのです」と平然と言い放ったのだから、呆れた無自覚の植民地主義、コロニアリズム丸出しである。

反植民地主義こそが、バンドン会議の開催理念だと言うのに。

だがこの演説は、その後がさらに酷い。

なんと安倍はあろうことか、戦後日本がアジア・アフリカ諸国にやって来た援助の類いを恩着せがましく羅列したのだ。


まるで『冒険ダン吉』気取り(南洋の島に流れ着いた日本人少年が  “土人”  を教化してその王様になる話)の最後にとってつけたように「アジア・アフリカはもはや、日本にとって「援助」の対象ではありません。「成長のパートナー」であります」などと言ったところで、「もはや」という時系列の文脈では、そうなれたのは日本の援助のおかげだろう、と恩着せがましく言っているに等しい。


安倍の演説は題名でこそ「多様性」と「共生」を謳っているが、「多様性」と「共生」にあってはならないはずの「先頭」に立つと決意してお前らのために頑張って来たのだ、「お手伝いして来た」のが日本だと恩着せがましく言い張り、しかも将来に渡っての「多様性」と「共生」の必要性の理由として挙げたのは「リスクの共有」、具体的にもっとも強調したのが、今の世界で欧米が熱中しているところの「テロ対策」である。

場をなにも弁えないままにエゴの発散で威張る、「手伝ってやったんだ、守ってやるぞ」と恩を売って「先頭」気取りで自分の父権制的な価値観を一方的に押し付ける、言葉は悪いが、バンドン会議における安倍の演説は「空気の読めないモラハラ親父の自己陶酔と幼稚で自己中な自己正当化(精神的なDV)」と形容するのが、ぴったりに思えて来る。

しかもインドネシア人の歴史認識の喩えを交えていえば、そのモラハラ親父は、かつてのレイプ犯が無反省なまま威張っている構図だ。


それにしても、安倍たちの頭のなかにあるのはいったいどういう共生、どういう多様性なのか?

先頃、参議院で自民党のタレント女性議員と麻生副総理のあいだで「八紘一宇」を称え合う珍妙な会話が交わされたが、安倍の演説のいう「多様性」と「共生」でも「日本が先頭」で、テロを始めとする「リスク」があるから団結しようという論理は、まさに「八紘一宇」の発想そのものでしかないことに、演説原稿を書いた外務省も官邸も、報道している日本のメディアも気づいてすらいないようだ。

「強い者が弱い者を力で振り回すことは断じてあってはならない」と中国を牽制したつもりであるらしい安倍だが、日本が「先頭に立ちたいと決意した」、強い者が弱い者たちの「先頭」に立って守ってやる、「お手伝い」と称して導いてやっている気分でいることと、力で振り回すことのあいだに明確な線引きなぞあろうはずもないこと、それこそが「大東亜共栄圏」の大義名分を掲げた20世紀前半の日本の誤りの根本にあったことに、気づかないのだろうか?

とはいえこのモラハラ親父の勘違いした似非マッチョめいた、無自覚なコロニアリズム、植民地主義の色濃い差蔑的偽善は、我が国では安倍に限った問題でもない。 
安倍の二回目の首相就任からしばらくして問題になった「反韓デモ」の「ヘイトスピーチ」に対抗するという日本人のカウンターと称する運動も、その大勢は「弱い者」と位置づけた在日コリアンを「守ってやる強い者」の立場で、そうした抗議に参加する在日コリアンには決して「自分達に向けられた差蔑と戦う主体性」を許そうとしないコロニアリズム的な同化主義の傾向も色濃い。
そうした「在日の人たちを矢面に立たせるなんて」「かわいそう」「傷つくからいけない」的な「弱い者」扱いのコロニアリズムであれば、安倍政権や自民右派でもある程度は許容できるわけで、今や自民党が「ヘイトスピーチ規制法」を検討し「弱い者を傷つけない、守ってやる正義」に耽溺している。

同じ論理構造が安倍のバンドン演説にも垣間見える。

呆れ果てた植民地主義者の傲慢と言われても仕方がない上に、その同じ傲慢さで過去に大きな過ちを犯したことにはほとんど触れもせず抽象的な語句で曖昧に誤摩化しただけでは、この演説は他の参加国に失礼を通り越して、呆れられるほどのレベルの低さだ

これは「カウンター」の言動を多くの在日コリアンがむしろ侮辱と受け取ったことにも通じるし、その気持ちを押さえ込んで日本人マジョリティに配慮することが、結局は当の在日コリアンに要求されてしまっている。
今まで以上の差別、味方を気取っている側からも差別される恐怖があれば、従わざるを得ないことはほとんど習い症になる。
なにしろ自称「差別に反対」と言っている日本人に、日本がやって来た過去の差別の歴史を指摘することが、「在日を血に染める」というのだから、これでは差別構造の抑圧に差別をして来た側が胡座をかきつつ、自分たちの差別の隠蔽を差別的な立場の強要で隠蔽しているだけだ。

それでも経済大国である日本との関係を守らなければいけない多くの参加国は、なかなか文句が言える立場にはない。

現代の世界の経済・権力構造的に、日本が上位にあることを前提として考えなければ、現実問題として自分達が損や被害をこうむることになりかねないのだから仕方がない。だからこそ、その「上位」にある側こそが配慮しなければならないはずが、安倍は平然と「日本が先頭」と言い張ってしまったのだ。

一方、安倍が勝手にライバル意識でも燃やしているつもりの中国の習近平がAIIB(アジア・インフラ投資銀行)について演説で触れた際には、実際には自国の発案で、その本部が置かれる自国が大きな役割を果たすはずでも、あくまで他の参加国と「共に」と平等性をちゃんと踏まえている。 
どちらが信頼感を持たれるかは、言うまでもない。


そもそも安倍の演説は、他の参加国の立場や国民感情なぞほとんど考えていない。

なにしろ後段で呼びかけたのが、アメリカ主導で進められ、中国が加わる予定のない、TPPへの参加なのだ。

繰り返しになるがバンドン会議はかつては第三世界諸国会議とも呼ばれ、米ソ二大超大国に合せてヨーロッパ諸国が分断した冷戦体制のなか、そうした既存の世界的権力からの自主独立を掲げて始った集まりである。

その第一回で決まった原則を持ち出して侵略行為を否定したつもりでいながら、安倍はその原則が歴史的にどんな意味を持っているのかを考えもせず、参加国に(現状では実際にはそうならざるを得ない面もあるからこそ、建前では決して認められない)アメリカに寄り添った、アメリカへの従属が前提の発展を呼びかけてしまっている。

さんざん「未来志向の外交」と口では言いながら、今回も安倍の演説にはなんの未来の展望もない、現状是認の旧態依然どころか、下手すれば20年以上前に終わった冷戦構造そのままの時代錯誤の発想だ。

しかもこの連帯の会議の場に、わざわざ米中の分断を持ち込んで、その冷戦構造を再現しようとしている様にも見えてしまう。



いや安倍が他の参加国のことをまるで無視するか愚弄しているようにしか見えない演説をやってしまったのも、ある意味当然ではある。

まさにバンドン会議の理念に対する裏切りと言ってしまえばそれまでだが、安倍がこの会議に今回出席したのは、その後に控える訪米でなんとか成果を挙げたいがための準備でしかない。

だからその訪米で「手みやげ」にするつもりのTPPをこうも熱心にセールスし、前段にもテロなどのリスクを挙げながらやはり訪米「手みやげ」予定の集団的自衛権を露骨に示唆した発言が含まれている。

「先の大戦の深い反省とともに」ですら、安倍政権を中心とする歴史修正主義的な言動に露骨な警戒感を示し続けるオバマ政権への妥協と、安倍の支持層というか “オトモダチ” である極右層への配慮を両立させたつもりの玉虫色なのだろう。

この訪米の下準備としてのバンドン会議への参加で、安倍にとっての最大のミッションが習近平との日中首脳会談だったことは、全体の記念写真でホストのジョコ・ウィドドさえ差し置いて必死に習との握手をしようとしていた安倍の姿を見ても、あまりにもあからさまだ。

野田政権の尖閣諸島国有化以降、ひたすら日中関係を悪化させ続けて来た日本政府に対するオバマ政権の目は厳しく、野田前首相が民主党が絶対に勝てない解散総選挙に踏み切ったのは、オバマへの再選お祝いの電話を、オバマに受けてもらえなかった直後だった。つまり野田は、オバマ政権から相手にされないことを事実上の退任勧告と受け取って自滅解散に踏み切ったのだ。

安倍にしても今のままでは、前回のオバマ来日が国賓だったことへの返礼としての公賓扱いで、議会演説まで出来ることになってはいても、肝心のオバマ大統領がろくにその公賓(元首ではない首相にとってもっとも格が高い受け入れ)である安倍を相手にしない、という、前代未聞の恥さらしな結果になりかねない。

日本のメディアは相変わらず、日中首脳会談を受け入れた習近平側の事情をああだこうだと憶測して報じているが、これは日本側がさんざんラブコールを発信し、中国側が日本に貸しを作った形式的な会談でしかない。

このただ安倍がアメリカに「ちゃんと中国に会った」と言えるためだけの会談の席で、習は昨年の首脳会談(というより首脳「面談」に近い内容)以降、日中関係が一応は修復の流れであることを、あえて「両国の努力」とは言わず「両国民の努力」と指摘し、安倍に痛烈な皮肉を飛ばし、中央電視台はさっそく、報道陣を外したあとの会談で習が余裕たっぷりに安倍に歴史認識の問題で釘を刺したことも報じた。


安倍晋三内閣というのはまことに奇妙な内閣で、全体主義的なオトモダチ集団のはずなのに、利害や方針の一致が見られない支離滅裂な動きが変に多い。

首相が外遊先でなんとか自分の立場を誤摩化しの二枚舌で保身に務め、「村山・小泉両談話を全体的に引き継ぐ」と、悔し紛れの「全体的に」という曖昧化の逃げをなんとか混ぜ込みつつも全面降伏と言える発言すらせざるを得なかったというのに、翌日には閣僚が靖国神社の例大祭に参列してしまうのだから、外から見ればあまりに矛盾していて、ますます二枚舌の不誠実を印象づけてしまう。

安倍が悔し涙を飲んで我慢したのか、ひたすら思考停止で習近平と握手することだけに必死になっていたのかまでは分からないが、これではそのせっかくの苦労も元の木阿弥になりかねないのに、参拝した閣僚たちは、前回の会談に引き続き今回も習近平に圧勝された親分のリベンジでもしたつもりなのかも知れぬ。

しかしこんな国内・内輪の論理に引きこもった真似は、本人たちは単に思慮が足らないだけでただの行き当たりばったりの結果だとしても、日経の社説が指摘しているように、ただ国際社会の安倍とその政府に対する不信感を増大させるだけでしかないのだ。


今の日本政府(安倍政権というより、仕事ができない内閣の実務を掌握している霞ヶ関)は恐らく、二重の意味で大きな勘違いをしているし、それは安倍の歴史修正主義に一応は批判的に見える一部の日本のメディアでも同様だ。

過去の戦争の反省と謝罪をきちんと維持し続けることの表明は、中国や韓国ほどの立場では日本にそれを要求することは出来なくとも、バンドン会議に参加したかつての日本の戦争被害国にとっても、やはり重要であるだけではない。

オバマ政権が安倍の歴史修正主義を警戒するのは、日中関係が損なわれることがアメリカの国益にも反するからだけではないし、オバマはただ日中関係の改善と米中関係の盤石化のために安倍の歴史修正主義を牽制しているのでもない。

日本が過去の軍国主義を自己正当化しようとすることを最も許せない国が、他でもないアメリカ合衆国なのである。

オバマ政権にはまだ、広島と長崎への原爆投下を謝罪する用意があるが、安倍が頼みの綱と思い込んでいる共和党の保守系勢力にとってこそ、原爆投下を正しかったと主張し米国の大量核保有を正当化し続けるためにも、日本の軍国主義は絶対悪であり続けなければならないのだ。 
これはほとんど米国という国家の存在理由、国是そのものに関わる問題であって、TPPと集団的自衛権という手みやげ程度で、大目に見てもらえるものではない。

だが今回の安倍のバンドン会議出席の問題の本質は、もっと根深い。

なによりもの問題は、米ソ超大国からの第三世界の自立を掲げて開催されたという伝統を持つこの会議で、安倍がアメリカしか見ていなかった、そのアメリカへの配慮のために中国と話をすることしか考えていなかったという、呆れ果てた不見識にある。

そもそも第一回のバンドン会議の時から、インドのネルー首相は1950年代前半に既に明確に米国中心の西側体制の一員になっていた日本の参加に反対していたし、インドネシアのスカルノ大統領も日本がインドネシアをはじめ東南アジア諸国に及ぼした暴虐の清算を一切していないことから、難色を示していた。 
そうした反対を粘り強く説き伏せて、日本が参加するようにしたのが、中国の周恩来首相である。

アメリカと中国、大国しか見えておらずその対立を煽ればいいと思っていることそれ自体が、日本にとってやはり大切な隣人であり、過去の戦争はあっても戦後はそこに拘ることなく信頼関係をつくって来れたはずの他の参加国への侮辱になるし、結果として現代の日本が陥っている独りよがりな差蔑性まで透けて見えてしまった。

再び日経の社説を引用するならば、「玉虫色の表現は国内では通用しても、外国人にもわかってもらえるだろうか」。

その「外の世界」を見ようともしないのが今の日本だ。政府だけでなく国民も、そこを認識出来なくなったまま、その関心は国内・内輪にしか結局は向いておらず、だから自分たちが非礼だとも気づかずに傲慢で身勝手に振る舞ってしまう。

こうして無自覚に差蔑性満載であることに、日本という国と民族と社会の劣化を見ずには居られまい。



安倍を支持する層が日本の70年前に終わった戦争を正当化する時に持ち出すのは、日本の戦争がアジアを白人支配から解放するためだった、という「大東亜共栄圏」「八紘一宇」の表面上の論理の盲信なのだが、これも壮大な勘違いの歴史誤認でしかない。

日本の国際社会での台頭がアジアの民族主義を勇気づけたことに「大東亜共栄圏」はほとんど関係がない。

欧米植民地主義が支配していた世界のなかで、アジアの国としていち早く日本がその列強に伍する近代的な大国になったことの刺激と影響は、東アジアではもっと以前に起こっていたことで、1920年代には日本は世界に冠たる主導的な大国のひとつだったし、近代中国の建国の父・孫文や、現代の中国国家の立役者・周恩来、中国近代文学の父・魯迅、あるいは朝鮮民族の民族運動初期の英雄安重根など、日本の強い影響は20世紀初頭には既に始まっている。

だがその一方で、安重根が日本の朝鮮総督伊藤博文を暗殺した構図でも明白なように、民族主義の理念と理想の対象としての日本と、そこに矛盾する民族独立を阻む抑圧的な支配者としての現実の日本があって、「大東亜共栄圏」はむしろその後者の方でしかない。


アジアに民族自決の夢を与えたのが日本だというのなら(その面があることは確かに、歴史的な事実だ)、「強い者」が「弱い者」の「先頭」に立つという傲慢が「強い者が弱い者を力で振り回すこと」につながってしまうことに無自覚な彼らには馬耳東風かも知れないが、なればこそ、アジア・アフリカ会議で日本に期待されるリーダーシップとは、その欧米に対抗する(現代の世界の現実ではすでに凌駕しつつある)新たな経済圏を主導することにある。

無論実際には、TPPは安い労働力を武器に出来る一部の東南アジア諸国には有利な面もあるが、その反面、それらの国では急激な経済格差も広がりつつあり、安定した成長を続けながらより公平で民主的な社会への脱皮が可能かどうかが、この会議の参加国にとって重要な政治課題でもある。

その平和的な発展のお手本としてそれらの国々が見ているのが、戦後、武力に頼ることなく奇跡の復興を遂げた日本であり、だからこそなるべく過去の侵略の歴史はなるべく口にしないのだ。

安倍たちはそうした国々を「親日国」だという、その認識自体は間違っていない(日本は確かに憧れと親愛の対象だ。ただしそれは中国でも韓国でも同じ)が、彼らが見て親しみを感じている「日本」とは、大衆文化でいえば『おしん』と『ドラえもん』、あるいは『一休さん』の日本であって、『冒険ダン吉』の王様を日本に期待などしていないし、まして日本の対アメリカのご機嫌伺いのために自分達の会議を利用されるわけにはいかない。

より現実的に言えば、これからのバンドン会議の多くの参加国の課題は、米国、中国、日本という既存の巨大経済のあいだでいかにバランスをとりつつ、自国の独立性を保ちながらその経済力を自国の成長に取り込んで行くかだ。

中国の急成長に嫉妬しながらアメリカと結びつきその属国であろうとする安倍の日本が、その「先頭」に立とうとしたところで、お門ちがいも甚だしいし、アジアの歴史に果たして来た日本の大きな役割をまったく尊重していないのは、あまりに無様な自信喪失であり、自虐的だし卑屈だ。

植民地主義、コロニアリズムは、既に現代の世界では邪魔にしかならない19世紀の遺産だ。ヨーロッパやアメリカは20世紀以降なんとかその思想的な誤りからの脱皮と過去の清算に務めようとして来たが、ことヨーロッパはそれをなし遂げられないで来たまま没落を始めている。急激な右傾化もそのうまくいかないフラストレーションの反動であり、その動きはヨーロッパの混乱と頽廃をより加速させることだろう。

そこにとって代わる新たな価値の創造の中心として、日本が果たせる役割は本来なら大きいはずだし、それを期待もされているはずが、安倍政権の外交はあらゆる意味で時代錯誤でしかない。

2/07/2015

イスラム国による人質事件の真相


ヨルダンが日本に巻き込まれる展開になったイスラム国人質事件は、巻き込んだ側の日本がイスラム国の巧妙な心理戦で完全に蚊帳の外に置かれたまま後藤健二氏が殺害されるに至ったが、今度はヨルダンのアブドラ国王が訪米中(日本の圧力とはいえ、「テロリストとの取引」に応じかけたのを気にしたのだろうか?)に、昨年12月24日以来イスラム国の捕虜となっていたヨルダン空軍のカサースベ中尉が、アメリカの言いなりで同じアラブ人のムスリムを空爆した(つまり焼き殺した)罰を受け、自らも焼き殺された、という筋立てのビデオが公開されるに至った。

後藤氏殺害映像の後は、今度はイスラム国は中尉が米軍の空襲で殺されたと発表するのでは、と言うのが僕の予想だったのが、さすがに想定外の結末は、はるかに凄惨だった。しかもこのビデオは、どうも予め入念に準備されていたらしいことが、その凝った演出を見ても明らかで、およそヨルダンとイスラム国の人質交換交渉が決裂した1月29日からの数日間だけで準備出来るものには見えない。

そしてヨルダン政府は、中尉はすでに1月3日に殺害されていたと発表した(根拠は今のところ明らかにしていない)。

このヨルダン政府の発表が事実であれば、イスラム国の要求に日本がヨルダンを巻き込んでしまってからの展開は、中尉が最初から亡くなっていた前提で、一から検討し直す必要があるだろう。

現時点では、日本をはじめ海外メディアの取材でも、ヨルダン国営放送でも、ヨルダンの人たちは「焼き殺すなんてイスラムに反する」と言った程度のコメントしかしていない(出来ない)が、イスラム国の出したビデオの実際のロジックには、教義的にほぼ完全な整合性がある。

ビデオはアラブの同胞であるスンニ派ムスリムをアメリカに命じられた空爆で焼き殺した中尉が、その罰として同じ目に遭う、かつ呪われた罪人が神に焼き殺されるべきであるから、正統カリーフを名乗るイスラム国が代わりに焼き殺した、神罰だ、という構成になっている。

実際に、ヨルダン空軍も参加している有志連合の空爆は、イスラム国支配地域で生活している普通のアラブ人も焼き殺している現実がある(国際メディアは一致して無視しているが)。中尉はその罪をまず告白し、自分たちがやった空爆で破壊された場所を見て、そして自分が落とした爆弾の犠牲者と同じように(目には目を、の同罰賠償原則に従って)殺される。

ヨルダン人を始め、アラブ人のなかには、このビデオのメッセージ性をただ「残虐」とだけ受け取っているわけではない人も、決して少なくないだろう。なるほど、イスラム教では遺体を焼くことですら基本はタブーだが(とはいえ火葬をする国や地域だってある)、それは「焼き殺す」ことが、「神」が「罪人を」に限られるからだ。

中尉が焼き殺されたのはただ「残虐」なだけではなく、また「死者に対して侮辱的」とのみみなされるわけでもない。一方では「神罰」の意味も持っているのだ。

神学的に唯一問題なのは、神でなく人である彼らが神に反した「罪人」を焼き殺したことが、人が神の領域を犯した冒涜になるかどうかだけというのが、あくまで理屈ではそうなる。

あくまで理屈では…というのは言い換えれば、理論的にはそうなっても、敬虔な宗教者の感覚で至れるロジックでもあるまい。このビデオの製作者はイスラムの教義を旧約聖書からコーランまで、知識と教養として熟知してはいるが、心から信仰しているわけではないように思われる。

イスラム国はその名称から宗教原理主義の運動と受け取られがちだし、その前身がイラクの聖戦アルカイーダだったとなれば、ますます「狂信的なテロリスト」の印象を一般には持たれるのだろうが、今はアルカイーダとも訣別しているイスラム国において、宗教支配は実際にはひとつの「いいわけ」でしかないのではないか?

むしろイスラム国を宗教原理主義に基づく過激派だとみなすのは、恐らくあまり正確な認識ではない。理屈では宗教的に整合性はあるが、感覚的には敬虔な人ほど受け入れ難いこのビデオを構成している論理にも、それは現れているように思える。

この「建国運動」を実際に動かしている中枢の権力構造は、 旧フセイン政権つまりイラク・バース党の残党であり、アメリカのイラク戦争とその庇護で成立したマリク政権に追われた元官僚、元政治家、元軍人たちが掌握している。バース党運動は元々、非宗教・世俗主義のアラブ民族主義運動だ。その主張は汎アラブ主義であると同時に反ヨーロッパ、反植民地主義、湾岸戦争後には明確に反米も加わり、たとえば具体的には第一次大戦中に英仏が交わしたサイクス=ピコ密約(英国が支援したはずのアラブ独立運動を裏切った二枚舌外交である)に基づく現状の打破という主張は、そのままイスラム国に引き継がれている。

この点で、イスラム国を「テロリストだ」「過激派だ」というレッテルで見くびるのは根本的に間違っているし、危険な傲慢さでさえある。イラクは英国の決めた国境線の不合理で、民族や宗派宗教が複雑に入り組んだ人口構成ゆえにほとんど統治不能とも言わる国だし、現に今や完全に破綻国家になってしまっているが、その国を数十年に渡り、民族や宗派間の勢力バランスを巧妙に利用して統治してきた「独裁」が、サダム・フセイン政権だった。

イスラム国にはその政権を支えた戦略や方法論、奸智までがそのまま引き継がれていると考えた方がいい。

なにしろイスラム国の支配地域には報道が入ることがかなり難しく、全体像は分かりにくいとはいえ、倫理警察や宗教裁判、さらには公開処刑も駆使した恐怖政治の一方で、配給など民生部門を充実させる統治手法は、警察国家であったと同時に社会の平等性に配慮して福祉などは重視し、湾岸戦争後の経済封鎖の下では配給を充実させ、民衆の人気も集めていたイラク・バース党の手法を、そのまま踏襲しているようだ。

相手を「野蛮なテロリスト」だと見くびっていた日本政府が、この人質事件を通じて一貫してただ翻弄されただけたったのも無理はない。相手は独裁体制の統治に極度に習熟し、人心操作には経験豊富であるだけでなく、外交や謀略、心理戦や情報戦にかけても、そして戦争についても、プロ中のプロの、狡猾で有能な官僚や軍人の集団なのだ。

ヨルダン政府の発表を信用するなら、その彼らは1月3日までにはこのカサースベ中尉殺害の映像を撮影し、凝った編集や特殊効果を加えつつ、最適の発表のタイミングを待っていたことになる。いやこの明瞭なメッセージ性を持ったシナリオの準備から考えれば、中尉を捕縛した時点ですでにこのビデオの製作は動き始めていたのかも知れない。

ちなみに一般にメディアでは中尉が捕縛された時点の姿として報道されて来た写真は、実際には空爆の被災地を見るよう強要されている写真だそうだ。

カサースベ中尉殺害が明らかになったのを受けて、ヨルダン政府が即座にその死を1月3日だったと公表したのは、ひとつには後藤氏の殺害後に中尉も殺されたとなると、いかに多額の援助を受けて来たとはいえ、いやだからこそその札ビラで恩を着せた傲岸不遜な日本政府の言いなりになって奔走し、最後の最後で国のプライドを前面に押し出し中尉の安否確認を優先させて死刑囚を釈放しなかった結果、逆に中尉まで死なせたアブドラ国王の、かなりだらしなく、行き当たりばったりにしか見えなかったやり方が、国民の不信を買いかねないからでもあろう。

ヨルダンは、民主主義の国だとはおよそ言い難い。

歴史的に交通の要衝で、イスラエル独立後は多くのパレスティナ人も受け入れて来たこの国は、様々な部族が入り交じり、およそ強固な団結や政権基盤があるとは言い難い。権力の基盤が弱いからこそ言論の自由を担保できず、大っぴらには政府を批判する言説が口にされることが珍しい一方で、国民はアメリカの言いなりになる政府や国王を本音では「しょうがない」とは思いつつも、ほとんど信頼していない。

そんなヨルダンで既に、まだ散発的とはいえ政府批判のデモや暴動が起きている現実は、日本や欧米のメディアが「ヨルダン国民がイスラム国に怒っている」と一生懸命に自分たちに都合良く報じていることよりも、はるかに意味が重い。たとえばカサースベ中尉の出身地ですでに警察署が怒った民衆に焼き討ちされたりしているのだ。

いや一見、政府と国王を支持しイスラム国に復讐を誓うように見えるデモでさえ、国民のあいだにたまった不満が噴出しているそのハケ口に、今は形だけ政府支持の看板を掲げているだけだとみなすぐらいの慎重さも、今はむしろ賢明に思える。

やがてはこの「殺害ビデオ」が実際には「天罰ビデオ」であることも、じわじわヨルダン世論に効いて来るかも知れない。

少なくとも、ここまであからさまなメッセージ性に目をつぶって、ただイスラム国は残虐だ、残虐だと舞い上がりながら、ヨルダンで日本が引き起こしてしまったことの結果に、自分たちに都合のいい楽天的な解釈だけを当てはめることは、およそ賢いことではない。

この際、日本ではしっかり冷静に反省すべきことがある。

果たして日本を含む世界のメディアや、日本政府は、イスラム国の狙いや意図を正確に把握した上で論評したり、対策を練ったりすることが出来ていたのだろうか?

結果から見れば、事実はまったくの真逆だ。

まず最初の脅迫ビデオから、中身をよく見れば身代金要求声明だと断ずるのは難しい内容だった。あくまで安倍がカイロで「イスラム国と戦う国に2億ドル」と演説したことを、ムスリムの家を焼きムスリムを殺すための2億ドルと断じ、その2億ドルは自国民二人(湯川氏、後藤氏)に使え、と迫っているだけで、自分たちに払えとなどは一言も言っていない。

なのに政府もメディアも身代金要求だと思い込んで、そう断言した前提でしか予測や推論が出来ていなかった。

身代金の支払いに関しては、日本政府の立場からすれば絶対に公言は出来ないことであり、メディアが配慮して報道を控えたのも当然とはいえ、後藤さんの同僚や仲間でもあったフリージャーナリストを中心に、本当に日本政府には身代金を払う気がないのだと思い込み、身代金交渉の仲介をおおっぴらに申し出た人も出て来たり、猛然と批判やデモまで始めた者までいたのも、まったくの勘違いであり世間知らず・国際常識無視の間違いだった(よくこれでジャーナリストが務まるもんだ)。そもそもそれ以前にイスラム国には身代金など最初から興味はまったくなかった点で事実誤認でしかなく、一方で日本政府の方こそ、ここで人質を殺されては政府の支持率が下がるのを恐れ、なんとしてでも身代金を払って解決しようとしていた。

イスラム国が要求は身代金でないと確認(要求を変えたのではなく、誤解をといただけ)し、改めてリシャウィ死刑囚の釈放を要求すると、今度はこの死刑囚がイスラム国にとって重要な同志であるテロリストだから救いたいのだ、とテレビに出る「識者」たちや新聞報道は言い続けた。

結果からすれば、これも完全な間違いだった。

むしろイスラム国は、ヨルダンが報復として彼女を即座に処刑せざるを得ないほどの強烈なメッセージ・ビデオを最初から準備していた(つまり彼女の生死は最初からどうでも良かったのだ)。

つまりイスラム国の目的は最初から身代金でもなかったし、「同志」である爆弾テロ実行犯生残りを釈放させて救出することでもなかった。

日本への脅迫はひたすら日本政府をキリキリ舞いさせ、愚弄し、もてあそび、要するに安倍首相を徹底的にバカにすること、ヨルダンが巻き込まれて以降はひたすらヨルダンの国民感情を刺激してヨルダン政府を追いつめることが目的だったのだ。

こんなのは最初から、冷静に考えればすぐに気づいたはずのことだ。こういうと自慢めいて聴こえてしまうだろうが、現に僕は事件の顕在化当初から、一貫してそう指摘し続けている。

なのになぜメディアに登場する識者の皆さんまで、まったく見当違いのことを言い続けたのだろう?

少なくとも自分たちがなぜまったく間違った分析(というか露骨な偏向報道)に固執してしまったのか、政府の対応だけでなくメディアの在り方、世論の動きも、この際冷静に再検証しなければなるまい。

それも出来ないようでは、安倍首相が言い張っているような「テロと断固と戦う」「屈しない」「許せない」「償わせる」、そんな全てが日本国内の内輪で響き合うだけの空虚なかけ声にしかならず、かえってイスラム国の仕掛ける巧妙な心理戦の術中にどんどん嵌って行くだけだ。

ところでヨルダン政府がカサースベ中尉の死を1月3日だと言っていることに関連して、日本側の動きについてどうしても考えなければならないことがある。

外務省からの最近のリークによれば、政府と首相官邸が対策本部をアンマンに置くことに合意したのは、カサースベ中尉とリシャウィ死刑囚の交換交渉があったのを知っていて、ヨルダン政府の持っているパイプを利用できるのではと考えたから、と言うのだ。

にわかには信じ難い話である。

ヨルダン自体が中近東のいわば「ふきだまり」、スエズ運河が出来る以前は地中海から紅海に抜けるほぼ唯一のルートであった海のシルクロードの重要な港アカバもあり、アンマンはエルサレムにもダマスカスにもバグダッドにも古代から街道で繋がっている交通と交易の要衝だった。現在のヨルダンはイスラエルとすら国交のある全方位外交の国でもあり、その首都アンマンでは中近東の各国政府の諜報機関だけでなく非合法組織を含む様々な組織・運動体の人間が入り混じり、イスラエルのモサドさえ出入りするいわば「スパイ天国」になっている。だからこのような事件の現地対策本部を置くならアンマンというのが常識だ。

ところが内閣と官邸では、どうもトルコと結んでアンカラの駐トルコ大使館に対策本部を置くべきだ(トルコは「親日国家」だから、とか?)という意見が強かったらしい。トルコ諜報部はイスラム国とのパイプを持つと噂され、以前には自国の領事館員49名を解放させた実績もあるとはいえ、アンカラにいれば入って来る情報はトルコ政府が日本に供与しようとしたものに偏って限定されてしまい、完全におんぶに抱っこになってしまう。だいたいトルコ政府が日本に協力しないと判断すれば、なんの情報も入って来ずまったくのお手上げだ。

官邸が本当にそんなアンカラ案を主張したのだとしたら、「特定秘密保護法」まで決めたはずのこの人たちは、スパイについても国家の機密情報についてもあまりにもド素人でなにも分かっていない。 
彼らの無知なのに呆れるほどの暢気な傲慢さは、国家を危機に晒しかねない。

外務省の中東担当部署からすれば、常識的にアンマンが対策本部を置く最適地と判断するはずが、国会での安倍首相の答弁を聞いて耳を疑った。首相はトルコの大使館(つまりアンカラ)の選択肢にも言及した上で、「ヨルダン軍の高い情報収集力」を信頼してアンマンと判断した、というのだ。

そうなると、日本が最初からヨルダン政府とイスラム国のあいだに一応あった、捕虜となったカサースベ中尉と自爆テロ事件生残りの死刑囚リシャウィの交換交渉を、いわば乗っ取るか横取りする狙いでアンマンに対策本部を置いたのだ、という普通なら冗談にしか思えない、およそ現実性に欠如した与太話に見えたことも、がぜん信憑性を帯びて来る。

安倍首相が外交や国際政治、安全保障の常識から乖離した “不思議ちゃん” の面目躍如で「ヨルダン軍の高い情報収集能力」と言ったのは、このヨルダンが抱えていた人質交渉を差した発言以外には考えられない(「ヨルダン軍の高い情報収集力」ってなんだよそれ?タチの悪い冗談か?)

いやそうは言っても、日本の政府がいくらなんでも、ヨルダン軍将校よりも日本人の人命優先だと言わんばかりにヨルダンに協力を迫るほど傲慢であこぎだったとは考えたくないのだが、このリーク内容が事実だとすれば、イスラム国がリシャウィ死刑囚との交換をいきなり出して来たという、どこから出て来た発想か分からずあまりに突拍子もなかった展開も、確かに辻褄は合うのだ。

日本政府が最初から身代金支払いの仲介を探してアンマンで奔走していたのは確かだ。日本政府はもちろん認めない(これは当たり前のことなので政府を責めるには値しない)し、日本のメディアもほとんど報道しなかったが、最初の72時間の期限内に安倍は英国との電話首脳会談でキャメロン首相に直接「身代金を払うべきでない」と牽制されたことはその英国政府がメディアに明かしているし、米国のケネディ駐日大使は公式に日本政府にそう申し入れをし、安倍はオバマとの電話首脳会談でも釘を刺されている。日本に身代金を払う気配がなければ、かくもおおっぴらに日本政府に圧力をかけ牽制を諮るなんて非礼な真似は、英国だって米国だって曲がりなりにも主権国家相手にやりはしない。

そして後藤氏殺害後、ヨルダン下院の外交委員長が日本のメディアの取材に応じ、安倍政権が見殺しにしたのではないかという憶測の批判に対する日本政府擁護の親切心から、日本側がほんとうに一生懸命で、身代金ももちろん準備していたことを明かしてくれている。

だいたいイスラム国側が日本をあざ笑うかのように出した第二の声明で、身代金が目当てなどではないと明言した上で、ヨルダンの死刑囚の釈放という、普通の外交常識では無理難題に過ぎる条件をぶつけて愚弄して来たのも、日本が身代金を払うつもりだったことが前提でないとなかなか出て来ない発想だ。

いやもう、こうなると安倍首相はひたすら、イスラム国にしてみれば、お手軽な玩具扱いだったのだろう。

このあまりに突拍子もない条件には、日本側が驚きパニックになったのもある程度はやむを得まい(逆に言えば「バカにされていた」だけだと気づく人もいた)。

それだけ意表を突き、しかも無理かつ無茶苦茶な話ではあるが、だからこそ、この人質を用いた脅迫の心理戦におけるイスラム国の動機であり目的が、とにかくカイロで妙に自慢げにイスラム国敵視を演説した安倍を徹底的にバカにすることであった以上、その狙いには完璧だったと納得はできる。

しかしそれでも、この途方もなく意表を突いた発想はどこから出て来たのか、さすがによく分からなかった。

だが日本政府がかなり初期(当初の交渉期限72時間以内に)から、ヨルダン政府にカサースベ中尉よりも日本人二人をリシャウィ死刑囚と交換しろ、と水面下で迫っていたとしたら、イスラム国がそのリシャウィ死刑囚と後藤さんの交換をいきなり言い出し、その時点で湯川さんを殺していた理由も、すべて辻褄が合う。

つまりイスラム国にその情報は当然ながら筒抜けになっていて(アンマンだと言うのにいったい何をやっていたんだか)、ヨルダンの軍人より日本人を優先しろと迫っていた日本政府の非人道っぷりを懲らしめるために、わざと他国の死刑囚を釈放しろ、つまりは他国の主権を侵害しろと無理難題を押しつけ、しかも「そんなに人質交換が望みなら、一対一の交換だったら応じてやろう」と言わんばかりに、菅官房長官などとも関係があった(民間軍事会社を夢見て自民右派との支援もあった)湯川氏の方をあえて殺し、後藤氏一人だけを残したのだ。

どうせ国際的にはすでにバカ右翼と皆が承知済みの安倍晋三首相を、この際徹底して愚弄するための、極めて効果的な心理戦の攻撃のひとつだったのだ。

すでに別の場所で詳細に論じたことだがこの時点以降、少なくともおおやけになる場では、日本政府は「いかに日本人の命が懸かっているとはいえ、テロリストの要求に応じてヨルダンの主権を侵害することは出来ない」と引き下がるべきだった。間違っても「全力を尽くしている」アピールなんてするべきではなかった。

それが外交、国際政治の常識であり、最低限のルールだった。
安倍氏は国民の失望と支持率低下を覚悟してでも、すべてはヨルダン政府に任せるしかない、自分にはもうなにも出来ない、と宣言するべきだったのだ。

日本政府がそうやって下手に出ていれば、水面下ではいかに強圧的な交渉をやっていうようが秘密さえ厳守していれば、アブドラ国王の面目は保たれ、国王の(「イスラム教徒としての慈悲」でも「日本との友情」でも、どんな名目でもいいが、要は国王とヨルダン政府の主体的な意思としての)人道的な配慮に基づき、リシャウィ死刑囚を釈放して後藤健二氏を救出する、と言うこともまだ出来なくもなかったし、ヨルダン国民からもそこまで不満は出なかっただろう。

他国の圧力、それも経済大国の金をちらつかせた圧力に屈するのなら、それはヨルダン国民にとっては恥辱でしかない。 
だが王自らが慈悲や人道を考慮してあえて、というのならそれはヨルダンの名誉になったのだ。

カサースベ中尉がイスラム国支配地域に不時着して捕虜になったのは昨年のクリスマス、その中尉とリシャウィ死刑囚の交換という話はすぐに出て来ていたはずだが、そのまま止まっていたのは、ヨルダン政府がどうもあまり乗り気でない、国民の感心が低かったからだと言われていたのだが、ヨルダン政府がすでに中尉が亡くなっているとみなしていたのなら、積極的でなかったのも無理はない(なのにその話に飛びついたつもりでアンマンに対策本部を置くと決めたのが安倍晋三だった、ということになる)。

それがいきなりカサースベ中尉が「ヨルダン国民の息子」「英雄」となったのは、日本の政府の露骨な圧力に、日本のメディアまでが同調してヨルダンへのこれまでの経済援助額を報道したりしたその上に、中尉と後藤健二氏に対してリシャウィ死刑囚という二対一の人質交換案まで、日本政府がメディアにリークしてしまったからだ。

もちろんこちらの側から勝手に「二対一」とか言って相手側が乗る保証なぞまったくないし、ならば「日本人のジャーナリストなら我々のパイロットが先だ」とヨルダン国民の関心がにわかに高まったのは、経済援助をカタに恩着せがましく迫った日本側への反発も含めて、当然のことだ。

安倍政権はよせばいいのにいたずらにアブドラ国王(もともと決して人気のある王様ではない)を追いつめ、まだ少しは残っていた後藤健二氏の救出の可能性を自らぶっ潰してしまったことになるのだが、しかも日本人人質事件が発生した時点でカサースベ中尉が既に亡くなっていて、ヨルダン政府がこの時点ですでに知っていながら公表できないままだったとすると、ますます持って日本政府のやってしまったことは、とんでもない見当違いだった。

言うまでもなく、よほどの信頼関係がない限り、そんな情報をヨルダンは日本に提供できなかったはずだし、日本政府はまったく知らなかったからこそ、無神経にもヨルダンに「要請している」と大っぴらに繰り返したのだろう。

リシャウィ死刑囚との交換という交渉の最終段階でヨルダン政府が態度を頑にし、まず中尉の生存確認がない限り死刑囚は動かさない、と言い張ったのも、中尉が実は死んでいるという情報をヨルダン政府が把握していたのならば、一層のこと筋は通る。

すでに亡くなっているのなら強硬姿勢に反発してイスラム国が中尉を殺すというリスクはもはやないのだし、中尉が亡くなっていると公表するタイミングを逸していた以上、そのことをイスラム国側に発表させた上で、涙を呑んで後藤氏のために死刑囚を、とやるのでもない限り、後藤さんを救うにもヨルダン政府にはそれが出来る立場がなく、国民から猛烈な反発を買い、暴動や政府転覆にさえつながりかねない。

まさにそれこそが、なんと安倍政権が本気で、それもオープンなチャンネルで、メディアに向かってペラペラと、ヨルダン政府に圧力をかけていることを、それも繰り返し公言し始めてしまった時点で、明らかにイスラム国側がこの人質事件の狙いと定めたことでもあった。

ヨルダン世論に揺さぶりをかけ、ヨルダン政府の立場を危うくし、有志連合から脱落を余儀なくさせること、ヨルダン国内に自分たちへの支持勢力とまでは言わずとも、現政府への批判層を増やすことだ。

繰り返すがイスラム国は「イスラム教統治の国家」樹立を目指す宗教の運動ではない。汎アラブ主義、民族主義の政治運動であり、明確に反米、反欧州、反植民地主義の武装独立闘争だ。賛同者を増やすのはアッラーと預言者ムハンマド(とその後継カリフを称するバクダディ)への忠誠では実はなく、それこそサイクス=ピコ密約以来ずっと西洋がアラブ人をいいように弄んで来たことへのアラブ人全般からの不満と反発であり、その欧米列強に対する以上に、半ばその欧米のいわば植民地代理政府として国民をむしろ抑圧して来たアラブ諸国の政府への批判と攻撃であり、民主的な手段によってアラブ民衆の主体性を取り戻そうとした「アラブの春」を欧米が結局は潰しにかかって、結果として元から不安定だったイラク戦争以降の中近東の、さらに極端な不安定化を招いてしまった現状があるとき、暴力や威嚇を手段に用いることをただ「暴力反対」や「人命の尊重」でそれを否定することに、あまり説得力はない。

イスラム教スンニ派の教義解釈で高い権威があると言われるアズハルがイスラム国を弾劾したからと言って、エジプトにあるこの機関の見解をそう素直に受ける人は、日本人が思い込まされているほど多くはないだろう。

なにしろそのエジプトはアラブの春の人間の尊厳の革命を潰した軍政の下にあり、この日本人人質事件が起こる直前にはムバラク元大統領を無罪放免にし、カサースベ中尉殺害映像の公表の前日には183人ものムスリム同胞団メンバーに一度に死刑判決を出している。アズハルは最高指導者がそのエジプト軍事独裁体制の大臣である組織だ。

日本人人質事件の最中にもイスラム国系の武装集団エルサレムのアンサール団がシナイ半島でエジプトの軍・警察施設を襲撃し、30人以上を殺害している。

このすべてが彼らにとっては独立・建国・領土拡張(国土回復)の戦争であることを見落としては、対策もなにも建てようがない。みすみすその挑発と心理戦に弄ばれるだけだ。

だから「日本の悪夢が始る」と宣言されたからと言って、日本がテロ対策に狂奔する必要は、まだほとんどないとも言える。アルカイーダと違ってイスラム国の目的は国家建設であり、こんなに離れイスラムの国でもない日本本土を攻撃するメリットはまずない。 
逆に「テロを水際で防ぐ」と称してアラブ系の人への入国審査を厳格にしたり、警察が重点的に職務質問を始めたりすることが、これまで先進国のなかでは日本をある意味いちばん信頼して来た人たちに、日本への不満や反発を持たせ、欧州諸国がほとんどパラノイアにさえ陥っているホームグロウン・テロリストが日本でも産まれてしまうことにさえ繋がるかも知れない。

アラブ世界の政治的な混沌と破綻の諸悪の元凶サイクス=ピコ密約を妥協して受け入れたメッカのファイサル皇太子、後の初代シリア国王にして初代イラク国王にもなり、絶望と後悔に苛まれ死んだと言われるファイサル一世と同じハシーム家の王朝で、自らも不安定な国境線と脆弱な政権基盤からアメリカやイギリスの言いなりになって来た感が強いのが、他ならぬヨルダン王家である。

つまりはイスラム国の政治的理念からして、もっとも狙われ易い政府のひとつでもある。

結果からすれば‪安倍晋三‬の日本政府は、その無責任体質と分不相応な妙な目立とう精神(人質事件の関係閣僚会議に冒頭で記者とテレビカメラを入れるなんて非常識にも程がある)、そして外交常識すら知らず現実的な計算もなにも出来ない無能っぷりから来る稚拙な失策の連続の結果、イスラム国がカサースベ中尉の殺害映像を公表するのにもっとも効果的なタイミングまで、単に首相が支持率の低下と自分の誤りを認めたくない意地っぱりだけが動機の、度を越した非常識とわがままで提供してしまったことになる。

日本政府が中尉とリシャウイ死刑囚の交換交渉に割り込まなければ、中尉が捕虜になっていたこと自体ヨルダンでそんなに注目もされていなかった。だからこそイスラム国は、カサースベ中尉の死をもっとも効果的に使えるタイミングを今まで探っていたし、あわよくば自ら演出する気で準備していた。そのタイミングを、日本政府の人質事件に対する「対応(になってない)」が作り出してしまったのだ。

ヨルダン国王訪米を狙った、それも国王は当初オバマに会ってもらえる予定ではなかったというのだから、恐るべき奸智に満ちたタイミング設定だった。オバマはこんなことが起これば当然国王と急遽会談するが、その結果アブドラ国王の「米国の飼い犬」っぷりはますます印象づけられる。

追いつめられたヨルダン政府は、今はカサースベ中尉の死への復讐・報復を謳い、反イスラム国でなんとか国内をまとめようとしている。

だがイスラム国そのものは決して支持しないヨルダン国民でも、アメリカ相手にせよ、今度は日本相手にせよ、先進国に対してあまりに弱腰で卑屈な態度しかとれない国王と政府が、いかにイスラム国との対決という大義名分があろうが、実際には同じスンニ派ムスリム…いやなによりも同じアラブ人の一般市民も焼き殺している現実は、決して心から支持できるものではない。その当然ではある批判や不満を「テロリストを支持」として押さえ込もうとするのは、場合によっては火に油を注ぐことになりかねない。

しかも反イスラム国を半ば国内引き締めのため、半ば欧米列強への配慮で主張せざるを得ない現段階のヨルダン政府は、イラク軍つまりスンニ派を弾圧し虐殺までして来たシーア派のマリキ政権との共同歩調まで言い出してしまっている。 
いわゆる国際メディア(つまり欧米)はほとんど報じなくとも、ヨルダンの人たちはイスラム国の一方で、マリキ政権下のイラクがどうなっているのかも知っているのだ。

これは英国の委任統治領からの独立を許されて以来のヨルダンという国が歩んで来た、多分に屈辱的でもあった歴史への不満にも、そこから発する王制そのものへの批判にも、いずれ結びつくのかも知れない。少なくともそれこそが、イスラム国が本当に狙っていることであることは、カサースベ中尉の殺害を伝えるビデオを見れば明瞭に現れている。

「残虐で野蛮なテロリスト」とイスラム国を侮るだけで済ます限りは、我々の側の国内や、せいぜいが有志連合の内輪に引きこもった自己満足でしかない現実が、この殺害ビデオで改めて突きつけられたことだけは確かだ。