最新作『無人地帯 No Man's Zone』(2012)
〜福島第一原発事故、失われゆく風景、そこに生きて来た人々〜
第62回ベルリン国際映画祭フォーラム部門正式出品作品
DVD 2月20日より発売!amazon.co.jp 配信はこちら

1/21/2008

地方の文化を考える(東京から見えること)


「東京から見えること」というわけで写真は東京の風景にしました。いろいろウザい街ながら、やっぱりこうやって見ると凄いですね。こんなとんでもない都市は世界でも滅多にありません。真似なんてやりようがないだろうし。

さて昨日は飯塚さんの映画『映画の都、ふたたび』を、映画による日本人論、現代日本社会論として出色の傑作として取り上げたのだが、より普遍的なコミュニティ論としての飯塚さんの映画のおもしろさは別として、文化における東京一極集中の現状に対して地方からどう文化を育てて行くのかということを考える上でも、もちろん示唆に富む映画だった。

その意味でも映画のなかで東京事務局が出て来ないのはちょっと残念なのだが、その不在故にかえって地方文化の現状の問題がいろいろ浮かび上がって来る映画になっていると思う。当事者にとっては公平性に欠けるといった不満が出て来るとは思いつつも、だから「山形国際ドキュメンタリー映画祭」という固有の問題だけの映画として捉えないで、もっと広い視野で考えてみたい。どっちにしろ映画を見ただけの感想だということは、まずお断りしておかなければならない。その上で耳障りなことも書くかも知れないが、あくまで映画というそれ自体はフィクションの体系のなかに見えたことだとご了承ください。

…と書いているところで、国会中継で自民党の伊吹幹事長が世にも奇妙な代表質問をやっている。一瞬、野党の代表質問かと思いましたよ、コレ。だって批判ばっかりじゃないですか--ただし野党・民主党の主張に対する。それも論理的に破綻した言いがかりのような、あっというまに反論されるような内容を、代表質問は党代表の質問に対して内閣が応えるという形式なのを悪用し、つまり野党は反論できないシステムを利用して。「肝心の質問はどうなったんだ?」と思うのは言うまでもないが、それ以上にまず姑息でみっともない。民主党・鳩山幹事長のすさまじい政府批判にあふれた代表質問の時以上に福田総理大臣が居心地悪そうな顔をしているのがなんだかおかしい。伊吹さんはこういう卑劣でみっともない態度が、かえって自民党への支持を落としかねないことに思いが寄らないのだろうか? これに拍手喝采している自民党議員って…。しかも、肝心の福田さんの答弁は、自民党の皆さん、ほとんど聴いてませんね。

閑話休題。『映画の都、ふたたび』でどうしても気になるのは、10数年も映画祭をやっていながら、山形のとくに行政が映画祭の中身となると「プロである東京」におんぶにだっこで、そのことになんの疑問もなく、映画祭専属スタッフの「専門員」(それって映画のプロってことでしょ?)として市に雇用されていた民間人に、「映画のことは東京に任せて、君たちは事務屋に徹しろ」と言い続けることだ。それも「文化振興課」の課長だとか、映画祭の運営に関する会議に出席している役人なのだから、文化行政を担っている人たちのはずなのに--それも市民の税金を使って、市民の税金で給料をもらってるんでしょ? あなたたちだって「プロ」のはずでしょう?

だいたい不思議なのは、「映画のプロ」にもいろいろあるにせよ、我々作っている側はいわば職人で、やってることの大半は非常に地道な、事務的とは言わないが技術的ないわば手作業だし、配給業務ならば事務ができなければ仕事になりません。プロデューサーにせよ配給会社にせよ、会計決算だとかがきちんとしていなければ、税務署の監査は入るし業務上横領で告発だってされかねない。いみじくもあくまでボランティアのスタンスで映画祭を支えて来た桝谷さんが言っているが、「経営」という視点というか、お金を集めて帳尻を合わせてくらいのことは仕事であれば誰でも考えなければいけない話であって、そんなに特別な話ではない。

それを文化行政を担う公務員が事務屋であることにプライドを賭けられても、市民としてはちょっと困ってしまう。 だっていくら役所となるといろいろ煩雑な書類が必要になるのかも知れないとはいえ(ってそれが煩雑でより人件費を食うとすれば、公金の税金なんだから経費の無駄だとかの問題になりません?)、民間だってみんなやってることでしょう? なにがそう違うのかよく分からないんですけど、なのに民間からの「専門員」が「公金を使うことの重み」とかの反省の弁を言わなければ許されないのだから。民間会社の金だって杜撰な会計なんてことやったらまずいんですよ。いや税金の重みは感じてもらわなければ確かに困るのだが、それって会計監査の問題というより「なんに使うのか」を我々市民は見ているんだし、つまり価値のある映画祭を作りあげるのが仕事であるはずだ。それが「東京は映画のプロだから」って中身を任せていいもんじゃないでしょう? それだったら「矢野さんは優れたディレクターだから」と言うべきところだが、どうもそういう意味で言ってるのではないらしい。「東京のプロ」にはなにも言えないから自分のところの専門員に八つ当たりしてるみたいに見えてしまう(あくまで映画を見た限りのはなしで、たまたまそう写っただけなのかも知れないが)。

山形国際ドキュメンタリー映画祭は公平に言って世界に冠たる映画祭だと思う。それも権威主義でなく、新しい映画の流れに敏感で新進の映画作家を世界に先駆けて評価もして来たし、スペシャルイヴェントでも独創的な切り口のプログラミングで注目されて来た。山形がここ10数年、日本どころか世界にドキュメンタリー映画の文化を発信して来たことは客観的な事実なのだと思う。その文化は山形の文化であり、少しは地元としてプライドを持ってもいい。仮にプログラミングの実態を東京事務局が担って来たとしても、その人材を選び雇って信頼し、映画祭を維持して来たのは山形市と山形市民であるはずだ。矢野和之さんというディレクターに世界でも有数の映画祭を作らせたのは山形であり、矢野和之さんが作って来たのは山形の文化であり、山形市役所も山形のスタッフも、それを共に作って来たはずだ。ところが『映画の都、ふたたび』を見ていると、どんどんそういうプライドを人々が失っていく、あるいは失わされていくように見えるし、10数年この映画祭を作って来た矢野和之さんがよそ者として排除されえいるような感覚がつきまとう。住んでるところが違ったって、10数年やってれば仲間でしょう? というか、矢野さんがやって来たことが山形の文化になっていなければ、なんのための映画祭だったのだろう? 『映画の都、ふたたび』の見せるコミュニティの崩壊は重苦しい。しかしなんらかのコミュニティの存在しないところに、文化なんて成り立つのだろうか?

そろそろ20年にもなるのに、未だに東京と山形の違いという単純に地理上の形式を山形の側が思い込んでいるようでは、まずいんじゃないかとどうしても思ってしまう。名実共に山形の映画祭にするために事務局の企画運営機能を山形に移していくというのもひとつの正当な考え方だとは思う。しかしなかなか東京でないと人脈などで困るところがあるのは現実だろう。映画の業界があまりに東京一極中心なのは現実だし、でもそうはいっても、インターネットの世の中になれば事情は変わって来るのではないだろうか? 地理的には確かに東京、山形で分かれて映画祭を準備することになるにしても、10数年もやっていればもう少し一体感というか、精神的なつながりがあってもいいのではないか? 少なくとも、「東京は映画のプロだから」と言って切り離しているのではやはりちょっとおかしい。せめて参勤交代の時代の藩みたいな感覚ぐらいは生まれなかったのだろうか? それを外注業者扱いというのは…。一方で、10数年もやっているのだから、システム的にも外注業者の立場にならないように組織を変えておかなかったのかというのも気になるし、そこで今度は硬直した「行政」と「民間」の区分けが見えて来てしまい、そっちもそっちで暗澹とした気分になる。ならばNPOというのは形式の問題に過ぎないのか?

失礼を承知で言ってしまえば、どうしても自分たちを田舎の小都市と卑下するコンプレックスが感じられてしまってしょうがないのだ。今更「東京」で「プロ」という話でもないでしょう。山形の映画祭だから山形出身でないと、というのも狭量なナシュナリズムならぬリージョナリズムに他ならず、そんなんじゃ地方から文化を発信して中央集権状況を解消するなんてことにはとてもなりそうにない。そうでなくて「山形映画祭の矢野和之だから」であるべき話であって、それはディレクターの個性であり個人の能力のはずだ。といって東京の人間がこういうことを言っても説得力がないのはじゅうじゅう承知だが…。でもなんだか、地方都市の文化アイデンティティという点でもものすごいポテンシャルを持った文化事業を、その価値を自覚できずに無駄にして、どんどん骨抜きにしているようにも思えてしまう。それも紛れもない地方都市の文化事業を。

昨年に山形国際ドキュメンタリー映画祭に行ったとき、「山形と映画」という企画シリーズをやっていて、なにしろ滅多に見る機会がない映画を見られてありがたかったのだが、でも「山形と映画」っていうのもアレだし、いちばんおもしろかったのが主演女優が山形出身というだけの『東京行進曲』でしたから、なんだかなぁ…。

0 件のコメント:

コメントを投稿