今朝の新聞で内閣府の調査の “衝撃の” 結果が報じられている。
実を言えばそんなに「衝撃」だとは思わないし、とくに「予備軍」については定義にもよるが、もっと多いだろうと思っている。
むしろ驚くのは、いったい何年前から引きこもりが問題になっているのかを考えたとき、なんとこれが初の全国規模の統計的/網羅的調査だったということだ。
全国規模と言っても設問項目も大雑把だし、サンプル数も少な過ぎるし、大げさに発表して大きく報道させている割には、真剣さが見えない。
調査結果のなかで衝撃なのはむしろ、30代がいちばん多いということ。バブル後のロストジェネレーション、就職氷河期世代だ。
しかも引きこもりになったきっかけでいちばん多いのが、職場の人間関係の失敗、病気、それに就職難だという。
もちろん本人達の耐性の弱さの問題だってあるのは確かだろうが、こうなると個々人や家庭にのみ責任を押し付けるのは間違いだという論評だって、少しは出て来てもおかしくない。
ここでまたもや明らかになってしまったのは戦後日本社会の世代的構造の弱点であり、まずバブルを膨れあがらせて崩壊させた責任がある世代、さらにはその当時の企業文化、とくにその時代に採用担当だったり直接の上司だった世代の責任も、考えなければなるまい。
どういいわけしようが、後続世代を育てる責任や、時代に合わせて社会を変えて行く責任を負っていたはずの先行世代が、その責任を放棄して失敗したことは、間違いないのだから。
…と言ったところで、また溜息が出てしまうのは、このブログの過去ログをご覧の方にはお分かりだろう。
また、あいつらかよ…。
そうなんです、団塊の世代よ反省しろ、って話にどうしてもなってしまうんです。
データがそれを示しているんだからしょうがない。
病気で外に出られないのは別にして、なにしろ職場の人間関係(第一位)と就職難(第三位)とがきっかけで、社会参加ができない人間がこれだけの人数になれば、個々のひきこもりを抱える家庭だけに問題とその解決を押し付けるのには、無理があり過ぎる。
でも団塊の世代に反省させるなんてことは、引きこもりの人に社会復帰をさせることよりも、はるかに難しいんだよな。
精神分析的に言えば、引きこもり、社会との関連を遮断するということは、消極的な自殺の代償行為とみなすことができる。
しかもこの調査で出て来たデータで見る限り、「引きこもり」の動機は、これも大きな社会問題である自殺の動機とも、過労死の理由とも、非常に似通っていることにも、気付くべきだ。
どうも自殺率の高さと同様に、「引きこもり」もまた、本人たちやその家族だけのせいにして他人事を決め込むわけにはいかない問題のようだ。
藤原敏史『ほんの少しだけでも愛を』(2010)
やはりこの社会全体が病んでいることを、我々はもっと本気で考えなければいけない。我々自身が病んでいるのだということも含めて。
「引きこもり」だから「弱い」、「親が甘やかす」だけで済むことではないし、「親が甘やかさなければいい」のなら、今度は本気で「自殺」という選択肢しか、当事者には残らなくなる(「親が甘やかす」と言っている人たちには、そこが分かってない。分かった上であえて言っているのならまだいいのだが)。
しかも引きこもっている本人達の側の問題にしても、バブル後のロストジェネレーション世代とは、子どもの頃にはいじめ自殺に不登校が社会問題になった世代である、そして社会に出てからの社会不適合。
同じある特定世代の子どもたち以降に集中しているのだとすると(内閣府の調査は15歳から39歳までなのでそれより上のことは分からないが、統計的に自殺がとくに多いことは分かっている)、その世代が子ども時代に敬虔した子育てや学校教育におけるとかの価値観にも、問題があった可能性を考察するのが、合理的な論証というものだ。
つまり、いじめ自殺に深刻な不登校、長じては引きこもり…世代論で言えば団塊ジュニア、ということでもある。
今度は団塊の子育ての失敗かよ…。
だが最も我々がまず深刻に考えなければいけないことは恐らく、「ひきこもり」が社会問題化してもう10数年、そろそろ20年になるのに、もう30年も日本の教育現場における最大の問題であり続けている「いじめ」同様、この社会がその問題に対してなにもしていないということだ。
今さら手遅れ、なのかも知れない。
たとえば「いじめ」については、今やその問題で加害者であり、あるいは被害者だった子が、それを解決されない問題として引きずったままに大人になって、親になって、その子が今では問題の渦中で加害者になり、あるいは被害者になっている。
日本社会は自分たちの問題を自分たちのこととして考え、解決する能力を失ってしまっている。機能しないことが分かってることですら、自分たちの価値観を問い直すのが怖いというただのそのことのためだけに、必死で保守するしかない社会。
藤原敏史『ほんの少しだけでも愛を』(2010)
いや問題を自分たちのものとして認識することが、そもそも出来ていない。
「すべてが人のせい」の前提では、現実に問題が表出している少数者の側の問題としてのみ考えるのが、いちばん安易だからだ。
「ひきこもり」であれば社会不適合なのは「ひきこもる」側の方だと思えば、多数派は楽になる。彼らの方からこそ今の社会を、自分の生存の場としては「不適合」だと実は認識しいるのだということは、絶対に考えようとしない。
それに気付いた瞬間に、多数派の側は自分たちの方にこそ問題があること、だから問題解決に努力する責任があることを認識しなければならなくなるからだろう。
新入社員が会社に来れなくなってしまうのは、新入社員の問題だとしておいた方が会社は楽だ。実は自分たちの組織が排他的で合理性に欠け、上司である自分たちが理不尽な理由で若い部下を怒ったり排除したりしてしまう傾向があるのかも知れないことだって、考えるべきかも知れないのに。
しかしそれは、絶対に出来ないのが今の日本社会の「大人たち」なのだ。
実はこれ、すでに心理構造として、完全に内向きの、自分たちの内輪しか見られず、その外の世界が認識できない、まさに「引きこもり」のそれなのである。
引きこもりどうしの強固なコミュニティが形成されているところに、その価値観を共有しない人間が自分の居場所を作り出すのは、なかなか難しい。
一皮むけば、マジョリティがマイノリティを排除することに懸命になって、社会の多様性をぶっ壊している構造なのかも知れない。
引きこもりの分析に同感します。回りにも何人もいるので、考えさせられます。
返信削除今回は、先日のNHKの番組、「シンドラーとユダヤ人」の番組のことを考えていて、ブログにたどり着きました。収容所所長の娘と収容されていたユダヤ人の交流、皆ができることでないですが、こういった確執を巡るぶつかり合いを通してのみ、過去を乗り越えることができるし、日本の政策の停滞を見ても、意見をぶつけて議論して行くことをしないと、前に進まないと思います。この所長の娘がこういった交流ができたのは、彼女の超人的なエネルギーによるところが大きいと思いますが、彼女が女性であったがためにできたことである気がします。欧米社会は、基本的に女性に危害は加えません。また、日本では、その文化のためか、感情的になってしまうので、議論ができませんし、その習慣がありません。でも、これを変えないわけに行かない時点に来ていると思います。