最新作『無人地帯 No Man's Zone』(2012)
〜福島第一原発事故、失われゆく風景、そこに生きて来た人々〜
第62回ベルリン国際映画祭フォーラム部門正式出品作品

7/11/2010

選挙に行っても意味がない

成人してからこの方、海外に居たりなどの場合を除いて、少なくとも国政選挙はちゃんと投票するように心がけて来たのは、まあ我が家の家訓みたいなものである。

「せっかく権利があるのにもったいない」と言ったところか。

もう少し言うなら、どうせ自民党が勝つのだとしても、なんにも言わないよりは言った方がいいはずだし、最低限誰でもできる意思表明も放棄して政治に文句を言うわけにもいかない、ということもあった。

習い性みたいなもので今日も参議院選挙には行ったものの、しかし今回ばかりは、学生や若い人に「ちゃんと選挙は行った方がいいよ」と言うのは控えて来た。

今回ばかりは、「この国の政治では選挙なんてしょせん、形式だけで本質的な意味などないのではないか?」と思わざるを得ないからだ。

マスコミによれば「争点は消費税」なのだそうだ。

…ってちょっと待ってくれ。最大野党が10%の消費税といい、与党第一党党首で首相でもある菅直人が同じ数字を上げているのに、なんでそれが「争点」になるんだ?

どっちが勝っても消費税が10%になることが選挙の審判を経たということになるのが争点なら、選挙には意味がほとんどない。

いやこれはもっと深刻な、選挙とそれを通した政治の完膚なきまでの無意味化を、内包した問題である。

つまり選挙によって実現した昨年の政権交代は、いったいなんだったのか?

与党第一党も、最大野党も、そろって財務省の悲願であった消費税増税を政策にし、一方で経産省の意向通りに法人税減税をやはり政策にしている。

選挙結果がどうなろうが、日本の真の権力エスタッブリシュメントとしての官僚と、そこと利害を実は共有している一流大卒のエリート層(そこには「一流大学」を出て「一流・大手新聞社」などに入った人々も当然含まれる)は、安泰なのである。

鳩山や小沢が掲げた、今後の、新しい日本の国としての方向性の理念としての「友愛」や「国民の生活がいちばん」、その手段としての脱官僚支配こそが、選挙によって国民が選択した政権交代で示された意思だったはずだ。

それが気がつけば、あたかもそれこそが正しい選択だったかのように、菅直人の「現実路線」「現実主義」が評価される。

だが菅の言う「現実路線」、「だから消費税の増税もやむなし」を含むその「現実」の認識を構成するデータは、どこから来たものか? 言うまでもなく官僚である。

官僚のいう「現実」に沿った政治しかできず、その認識の枠からはみ出た瞬間に「現実的でない」と言われるなら、しょせん選挙も政権交代も政治も形式論に過ぎず、実態は官僚支配のエクスキューズにしかなるまい。

記者クラブ制度によって官僚システムとくっついているマスコミも、「政治とカネ」を喧伝することで、このまやかしを見事なまでに糊塗してくれているし、「政治とカネ」というと「政治家にはカネがあって我々にはない」という庶民のやっかみ根性を刺激してこのキャンペーンは非常にうまく行ったわけで、騙される我々も我々だ。

「まず隗より始めよ」の美辞麗句で、各党は国会議員の定数削減を謳い、「カネのかからない政治」を訴える−−そうでないとマスコミに批判され魔女狩りでバッシングされ潰されるから。

ちょっと待って欲しい。たとえば民主党が次第に自民・公明連立政権を追いつめて行った年金問題は、どうやってデータを集めて整理して告発できたのか? 長妻氏を中心に、官僚に頼らない情報ルートがあったから、そのデータを検証して不備や不正を明らかに出来たからだ。

言うまでもなく、そういう調査には人件費がかかる。優秀なスタッフを1年雇うだけで、いったい何百万人件費が必要だと思っているのだろう?

情報収集能力とその処理能力、それを可能にするマンパワーを持たない(つまりは人件費にかけるカネもない)政治家は、結局は官庁が出して来るデータに頼って政治をするしか、なくなってしまう。

それは日本の官僚機構の強固さというコップの中の現実に過ぎず、我々国民の実生活の基盤となっている本当のこの国の現実とは、必ずしも一致するものではない。

野党が民主党政権を「予算を組み替えれば20兆くらいは出て来ると言ったのはウソだったのだろう」と責め、マスコミがそれに同調するのも悪質なプロパガンダでしかない。

国家予算に無駄がないという現実があったのではまったくない。ただその無駄を明らかにするには、情報まですべて握っている官僚機構の抵抗があまりにも大きいという現実がある、というだけなのに、官僚からのデータに頼るだけで、その本当の現実が見えるわけもない。

そのことがひた隠しに誤摩化されている現状のなかでは、真面目に投票なんぞしたところでところで、現実にはほとんど意味がない。

その現状を変えようと思うどころか、認識することすら忌避しようとする国民が大多数の国では、民主主義ということそれ自体が、幻想に過ぎないことになる。

すべては実態権力が本当はどこにあるかを隠す、見かけは壮大にして実態はまるで空虚な、儀式でしかないのではないか?

0 件のコメント:

コメントを投稿