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7/01/2011

パレスティナの独立は時間の問題である

エリア・スレイマン『The Time That Remains』(2009)

だってオスロ合意にそう書いてあるんだから、時間の問題でイスラエルはその独立を承認しなければならない、という話では今回はない。

日本が震災と原発事故で右往左往している間に、エジプトの革命の成功のあと、パレスティナではハマスとファタハ双方が民衆からの突き上げで、これまでの対立路線を放棄して手を結び、9月の国連総会では独立承認を世界に直接訴える方向に進んでいるらしい。

既存の政治勢力とは切り離された形で、民衆の力で成し遂げられたエジプトの革命に、日本では政府もメディアもそろって懐疑的な目から未だに抜けきれないようだが、これはやはりアラブの歴史と文化を知らず、あの革命が意味するものを把握できていないからなのだろう。

ぶっちゃけ、日本の大勢は、アラブ人といえば月の砂漠の遊牧民でアッラーを信仰する神秘的な世界、というくらいの認識しかないことが遠因だとも思える。

むろん現実がまったく違うことは言うまでもない。アラブ世界は世界史のなかでも屈指の、極めて洗練された長い歴史を持つ文明圏だ。

ちょっと歴史を勉強すればわかるそんなことにすら気づけないのはつまり、我々が欧米のフィルターを通してしかアラブ世界を見られていない、無自覚に「アメリカ側の日本」としてしか中近東に対して自分たちを位置づけられていないからだろう。

その植民地主義的な視点を捨ててしまえば、ハマスとファタハが手を結ぶこと自体が時間の問題だった。元からパレスティナ人はこの両勢力の対立関係に不満を感じ、不条理で馬鹿馬鹿しいと思っていて、ただ「でも俺たちが言っても仕方がない」と諦めていただけなのだから。

エジプトの革命がアラブの民衆に気づかせたこととは、ひとことで言えば「俺たちだってやれば出来る」ということなのだろう。

これまでしょせんは欧米の半植民地的な位置づけのまま、アラブの政治権力者といえばしょせんその植民地という枠内での地域ボスに毛が生えたようなものであり、決して民衆のため、国民のための政治ではなく、「それもしょうがない」と民衆の側でも諦めていたことが、この半年間のあいだに劇的な価値観の変換が起こっている。

これまでだって知的で賢明であったアラブ人はしかし、今までは政治的な諦めのなかで、どうせ自分たちの国は欧米の半植民地で、植民地のボスに過ぎぬ権力者に勝手にやらせるしかないと思って来ていた。その意識が、決定的に変わったのだ。

ハマスもファタハも手を結んだのは、そうして独立に動かなければパレスティナ人に見捨てられるからであって、この流れはアメリカがどう妨害しようがネタニヤフが恫喝しようが、もう絶対に止められないと見るべきだ。パレスティナ人たちは故郷の喪失と占領と流浪の半世紀以上の歴史のなかで、今はじめて本質的な自信を持ってしまったのだから。

自分たちには民主主義が出来るんだ、欧米なんてたいしたことない、と悟ってしまえばアラブ人、とくにパレスティナ人はもともと基本的にとても知的で洗練された民族で、旧貴族階級、商業ブルジョワ階級を中心に教育水準も高く、交通の要衝に住む民族として頭もめちゃくちゃ働く上に、60年の辛苦のなかでますます知恵と忍耐力を培って来たわけで、だからもう、独立は時間の問題である。

イスラエルにとってもはやパレスティナの独立は時間の問題であって、そこでモサドの元長官だとかのイスラエルの安全保障第一の対パレスティナ強硬派が突然に積極和平派になって、ラマラに乗り込んでファタハやハマスの幹部と同席して…というのが、いかにもイスラエルな政治風景なわけでもあるが。

パレスティナの独立が時間の問題である以上、その新国家との関係が良好でなければ、イスラエルの国家と社会が安全に存続することは不可能だ。考えてみれば当たり前の現実的な判断だ。この切り替えもまた、2000年間ひたすら民族の存続に賭けて来たユダヤ人ならでは、である。

ただしパレスティナの独立、その隣国との共存という大変換を経てイスラエルがあの地域に国家として存続して行くためには、これまで戦争をいいわけにうまく誤摩化して来たイスラエル国内の真の問題と徹底的に向き合って解決していくしかない。

エジプト革命以前、イスラエルとパレスティナの和平交渉の最大の障害は、イスラエルがガザからは撤退しても西岸の入植地は存続し、拡大させ続けていることだ。だがたとえば日本など、国際社会がこの情勢を見るときにしばしば抜け落ちているのは、入植地が実のところイスラエルにとっては教育格差・経済格差への対応のいわば貧民救済策の一種であって、和平にとっての真の障害とは、イスラエルの国内の格差問題に他ならないことだ。

ガザ地区からの入植撤退を背景に、イスラエル社会に根源的な断絶を浮かび上がらせたアモス・ギタイ『撤退』(2007)。強引に家を追われる入植者達は、素朴で敬虔な人々でもある。

これはイスラエル国家のそもそもの存在理念とも関わることだけに大変に厄介なことなのである。ある意味で、イスラエルはこの問題を直視しないで済ますため、延々とパレスティナやアラブ諸国との戦争を繰り返して来ただけなのかも知れない。

つまり、世界中で自由に自分の人生を切り開くことが許されて来なかった少数民族のユダヤ人が、自分たちの国のなかで自由に生きられる場としての、本来の意味でのシオニズム国家として、イスラエルは世界中からユダヤ移民を受け入れなければならないし、その社会的な平等も保証しなければならない−シオニズムとは本来、資本主義競争社会とは対立関係にある、社会主義・平等主義的な政治理念だ。イスラエルは資本主義自由経済社会であり自由主義的な国家である一方で、この社会主義的な理想社会のプロジェクトを持った人造国家でもある。

現実には、無神論ないし世俗主義の、ヨーロッパ的な方向で洗練されたエリート層の理念であるこの理想社会のプロジェクトのなかで、平等を保証されなければならないいわば「下層階級」に当たる人たちとは、所得水準や社会的地位、教育水準が高くない中近東系の血統のユダヤ人であったり(たとえばモロッコ系)、ソ連崩壊前後に100万人入って来たといわれるロシアやウクライナ、グルジア系などの新移民だったりであり、彼らは反世俗主義で政治的には保守、どちらかと言えば反パレスティナで一部はアラブ人に対して差別的であり、そして宗教的な人たちでもあり、彼らにとってとくに西岸の入植地は「神に約束された契約の土地」である。

あらゆるユダヤ人が平等で安心して暮らせる国、という国家理念とは裏腹に、アシュケナージを中心に教育水準が極端に高く、完全に西欧的な先進国社会(たとえば、標準的な子供の数は2人くらいだし教育熱心な一方で離婚率も高い)で資本主義競争社会であるイスラエルで、これらのいわばユダヤ人内部での弱者が勝ち抜くのはなかなか困難だ。

いわばその受け皿としての公共住宅的なものが、イスラエル社会の経済構造のなかでは、かつてはキブーツであり、90年代の旧ソ連からの大量移民の後では、入植地なのだ。

イスラエルは今まで、パレスティナとの戦争を言い訳に、この問題から目をそらして来た。



実はある意味でいわば下層階級の受け皿に過ぎない(人口的にはむしろ圧倒的に少数派である)入植地を、「国家の安全保障と民族の誇りの最前線」的に持ち上げて誤摩化すことも出来たし、だから実は多くの国民が本音ではうっとうしいと思いつつも、入植地を維持しなければ社会の安定が成立しなかった。

だがもはやこの構造に安住することは不可能だ。


イスラエルは本質的に変わらなければならないし、それこそが当初のシオニストたちや建国に関わった人たちが実現しようとした理想国家に、一歩でも近づくことでもあり、そしてそれは「平等な社会」をめぐる壮大な社会実験でもある。

恐ろしく困難なことにも思えるが、筆者自身はこれも「時間の問題でいずれ収まるように収まる」と実は思っている。なにせなにがあろうが、イスラエル人も、そしてもちろんパレスティナ人も、突き詰めれば「ここで生きて行かなければならない」と思っているのだから。その最大の目的にさえちゃんと集中できれば、案外世の中、ある程度うまくいくはずなのだ。

そうでなければ人類は、とっくの昔にこの地球上から姿を消しているだろう。

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