…ゴダール先生は80分だか90分とおっしゃっていたはずだが、僕自身はだいたい90分から100分くらいだと思っている。
と言って別に2時間以上とか3時間あるから悪い映画だなどと言うわけにもいかず、たとえばこの日記の第一日目で書いたエドワード・ヤンの『海辺の一日』は163分、『一、一』は3時間あってそれだけの長さにふさわしい、その長さが必要な映画(『海辺〜』は先週来日してた脚本の呉念真さんによれば最初は3時間15分あったらしい)であり、またそのあいだ我々の集中力を維持するだけの、前者は緊迫感、後者はゆったりと時間の流れに身を任せる豊かさにあふれた傑作なのだからそれでいいのだけど、ただし無駄に長い映画が非常に多いと思うのも確かだ。
ゴダールが80分だか90分と言ったその理由づけはよく知らないのは困ったもんだが、マルクシストのゴダール先生っぽくアイロニカルに経済原理をあてはめれば、その長さだと一晩で3回上映できるので映画館にとっても都合がいい(日本の場合は原則9時終わりなのでその限りではないが)…というのがいちばん分かり易い。もしそうだとしたらそれは本気でとるべき原則ではなくなるのだが、一方で僕自身が90分から100分前後と考えているのは、生理的に自分の集中力が持つ時間だから、というだけである。
タバコを吸うので、90分という長さはタバコを吸わないでいる時間としてはちょうど都合がいい、というのもある。いわゆる公汎性発達障害とやらに属することになるのであろう精神的ハンディもあって、集中を自分でコントロールできない傾向があり、見続けるのに過剰な努力が必要な映画だとすぐに我慢できなくなるんで、90分でもきつい映画はきつい。
また、『映画は生きものの記録である』は94分だったが、それでも映画を見た某親族から「映画館の冷房が効き過ぎていて、早くお手洗いに行きたかった」と言われてしまった。年齢とか性別とか、そういう点で見る観客のことも考えなければいけないのかもしれない。とくに僕の映画の場合、ドキュメンタリーだとどうも、どちらかと言えば60代以上の大人の観客の方が反応がいいようなので。いや冗談でもなんでもなく、『映画は生きものの記録である』の劇場公開では、主に女性、とくにいわば自分の母くらいの年齢の方から、作った本人より観客の方がよっぽどこの映画をよく理解しているとしか思えない感想をずいぶんうかがった。もしかしたら「土本典昭」が誰かを知識としては知っている映画の専門家より、土本の最盛期に忙しくて彼の映画を見る余裕もなかった観客の方が、土本のやって来たことの人間的な大切さや、水俣病事件という悲劇の本当の意味を、よりきちんと理解できるのかも知れない。ある意味で彼らもまた「チッソの側」で気づかずに生きて来てしまった、そうしてこざるを得なかったからなのかも知れない。
おっと脱線してしまったので、再び上映時間の話。なんでそんなことを考え始めたのかと言うと、ひとつには現在編集の大詰め段階にある新作の『フェンス』が、3時間超のお化け映画になりつつあるから。お題は神奈川県逗子市の池子米海軍住宅問題で、元々は逗子市のPR映画として昨年に30分弱の短編『柵に囲まれた森』として完成させているのだが、内容的にも基本的にただの紹介しかできない長さだし、なによりも撮影・大津幸四郎のみごとな長廻しをほとんどコマ切れでしか使えず、なんともせわしなくブツ斬りの連続のような映画になってしまったリベンジで再編集し、追加撮影もやって、気がつけば3時間でも4時間でも十分に成立するだけの内容を撮りためてしまっている。3時間というのは自分の原則には反するのだが、なにしろ主人公となる人々が80歳以上だったりして、その人々の生きて来た時間を考えればやはりゆったりと彼らが生きて来た人生の複雑な様相がにじみ出る映画にしなければなるまい。
一方で、ここで語られるさまざまな物語が、池子が元は日本海軍の弾薬庫であったことと、日本の近代史の当然の反映として、1945年8月で断絶してもいる。そこで45年をひとつの区切りとして、第一部と第二部に分けたので、それぞれのパートはだいたい90分、生理的に我慢できる長さのはずです、恐らく。12月には完成させる予定なので、ご期待下さい。
ところでパスカル・フェラン監督の『レディ・チャタレー』が一昨日から公開されている。D.H.ロレンスの『チャタレー夫人の恋人』はスキャンダル性の一方でかなり教条主義的な階級闘争構図が図式的すぎて、つまり労働者階級インテリの愛人がうぶな貴族階級の夫人に性のてほどきをして世界の現実に目覚めさせるみたいな説教臭さがどうにも気に入らないので、女性監督、それもパスカル・フェランのように繊細で知的な女性がなぜこれを、と思ったらとてもいい映画だった。というか凄い映画なのだが、これはなんでも一般に読まれている決定稿の『チャタレイ夫人の恋人』ではなく、第二稿の映画化なのだそうだ。フランスでは「チャタレー夫人と森の男」という題名で翻訳が出版されていて、それを読んで惚れ込んでの映画化なんだって。
この第二稿の映画化はなにが違うって、決定稿の図式的メロドラマ性にも、これまでの映画化のエロチックなセンセーショナリズムにもぜんぜん陥っておらず、普通の人々に普通に起こりうることの映画として驚くべき即物性を持って成立しているところだ。実際、イギリスの話をフランス映画でフランス人の監督がフランス人の役者でフランスで撮るというどう考えても作り事になるはずのやり方が、「劇映画」の限界を軽やかに超越して「ただその人々がそこにいること」を現前させてしまっていることなのだ。
この映画の成功の理由のひとつが、一見だらだらと続くかにも見える168分という長さ、そのなかでひとつのシーンがかなりの時間をかけて見せられるかと思えば、説明になる部分は挿入字幕と時々の監督自身の声によるナレーションであっさりすっ飛ばす、その実相当に緻密な大胆な構成にあるのだと同業者としては考えてしまうが、この映画には正式の映画館上映バージョンである168分の映画の他に、大口の出資者との契約上しかたなく作った2時間弱の版と、テレビ用の前編後編100分ずつのより長いバージョンがあるという。長いバージョンといってすっ飛ばした説明部分が加わるわけでなく、原作ではチャタレー夫人と森番の物語として並行して展開するチャタレー卿と住み込み看護婦の関係も映し込んでいるそうだ。それはそれでおもしろそうで、フランスでDVDでも出ないかしらん。
パスカル・フェランが9月末に来日した際に、一緒に食事などした際に、以上のような別バージョンの話を聞いた。映画の方の2時間弱の短縮版は、契約上作らざるをえなかったものの、彼女はあえて一切タッチせず、出来上がってからも「あれは私の映画ではない」と公言しているそうだ。なんでも自分で見てもいないのだとか。
アメリカ配給がDVDは短縮版と言って来たのを、「ではわたしにお金を払いなさい」と突っぱねたとか、短縮版で公開する国でのキャンペーンは協力を拒否するとか、なるほどそういうやり方があったのか。日本でもどっちで公開するかはもめたようだが、「短縮版でやるなら来日はしない」という彼女の条件で、ディレクターズ・カット168分版での公開になった模様。この映画だったらゴダール先生のいう適正な映画の上映時間の二倍の長さでも、許せます。
(写真は拙作『映画は生きものの記録である』より)
11/05/2007
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返信削除てっきり完全版の168分で公開するのだと思っていたら、それは東京・渋谷のシネマライズで今週金曜までだけで、あとは監督が「見てもいないわ」と言う短縮版での上映になるそうです。なぜ???
というわけで、見るなら今週金曜までです>レディ・チャタレー