たぶん20年くらい前(もうそんな歳なんだな自分も)の日本初公開時あたりに見たはずの、エリア・カザン監督作品。20歳前の若造というと、こういう直球の社会派/良心派名作というのは敬遠しがちなところがあって、「説教臭くて平板な映画」というくらいの印象しか持たなかった気がするし、ほとんど忘れていたこの映画を、見直すことができた。
最初に見たころには、「良心的二枚目ハリウッド・スター」グレゴリー・ペックへの青臭い抵抗感も、あったのかも知れない。…というわけで今日のブログのトップ画像は、やはりジョン・ガーフィールドにしました。いやジョン・ガーフィールドがよくなかった映画なんてないと思うが、この映画で主人公の幼なじみのユダヤ人役のガーフィールドも見事。
ラストの方、やはりそこは「ハリウッド映画」なのでハッピーエンドに持って行かねばならず、映画の主題的な論点をあえて歪めてまで主人公の婚約者ドロシー・マクガイアを説得して改心させなければならないハリウッド的必然があるわけだが、この本来ならまったく不要であるだけでなく、会話の中身として無理があり過ぎのお説教のシークエンスですら、ガーフィールドのお説教は真摯で説得力があって、鼻白むことなく見られてしまう。素晴らしい俳優だ。
『紳士協定』デイヴ(ジョン・ガーフィールド)の説教/説得
そうはいっても、差別にまつわる人間と人間社会の心の闇を照射するクライマックスの後にとって付けたような、話の中身は上っ面なだけのお説教でなんだか丸く納まってしまうところが、映画の強さを弱めてしまってはいるだろう。「説教臭くて平板な映画」の印象も、この終わり方のせいもあるのかも知れない。
またここで50年代アメリカ映画作家の多くがプロダクションコードの検閲を逃れスタジオの圧力をかわすためにしばしば採用した、あからさまにとってつけたように見えるエンディング、「これはご都合主義です」と暗示することでハッピーエンドを要求するハリウッドの制度を批判さえするエンディングという手段がとれないのも、最後まできっちり演出力を発揮してしまうのも、エリア・カザンという生真面目な作家の、よくもわるくも「個性」なのだろうが。
たとえばダグラス・サークは『天が与えるものすべて』のラストを、あくまでスタジオに再現されたものであることが露骨にわかる「窓の外に広がる大自然の雪景色」らしきものに、ご丁寧に鹿までを完璧なタイミングで配して見せたりする底意地の悪さを見せている。
だがカザンは、『波止場』でもバド・シュルバーグの原作がリンチされたテリーのボロボロの死体で終わるところを、リンチを受けても不屈の意志で立ち上がるテリーが港湾労働者たちの先頭に立って仕事に向かう、ストレートに感動的で高揚感のあるラストに演出した。
『波止場』エンディング
社会に蔓延し、行動原理として潜在意識にまで刷り込まれた差別意識。それが自覚的・意識的な差別主義者などの「差別する側」だけでなく(というか、カザンの映画はそこはほまるで相手にしていない)、自分では「差別を憎む側」だと思っている人間たち、そして「差別される側」にもまた浸透してしまってる現実を冷徹に炙り出しにし、一見良心派で「差別を憎んでる」と主張する(あるいは主張することで自己正当化したい)者たちの「紳士協定」、お互いに不快なことだから言及しないようにしようという態度こそが、ある意味もっとも差別的であるかも知れないことを、この映画は丁寧かつ簡潔に見せて行く。
観念的な会話中心になりがちなところを、相手が発言中に台詞が始まって言葉がオーバーラップして展開させるなどのテクニックを駆使し、日常生活のように生き生きと見せて行くカザンの演出も冴えわたった、「大人の映画」であり、よくも悪くも良質の映画の見本みたいなところがあるが、そのテーマはシャープで現代的で(最後の「お説教」とハッピーエンドを除けば)図式に陥らず、痛烈だ。
主題的な論点の展開でいえば、そこまで切り込んでおきながら、「声を上げればいい」だけでカタルシスになるのは、さすがに平板な説教に陥り過ぎているとは思う。
最終的にドロシー・マグアイアの主張する「それが現実なのよ」に対するペックの理想主義の二項対立に単純化されてしまう図式、そのペックの側が「アメリカ的理想主義」として強引に収斂するところが…まあそこがザナック製作の20世紀フォックス社会派映画の特徴であると同時に限界であり、そういうカタルシスを拒否したフォックス社会派映画といえば、ニコラス・レイの『ビガー・ザン・ライフ』くらいしか思い浮かばない。
このエンディングはレイと製作を兼ねた主演のジェイムズ・メイソンが、スタジオのフロント・オフィスには黙って劇作家クリフォード・オデッツに書かせたもの。それはこの映画が『紳士協定』のようなプレステージの高い企画ではなかったからこそ、可能だったのだろうが。
「寝た子を起こさない方が」という成功したユダヤ人資本家、あるいは名前を変えたりしてユダヤ人であることを隠してある程度の社会的な地位を確保した者(たとえば主人公の秘書)が、それが出来ない(あるいはやらない)ユダヤ人を蔑視する、ユダヤ人がユダヤ人を差別しているとも言えてしまえるような現実までをも、カザンの映画は照射する。
それも差別される側であるはずの彼らは「差別する側」の、この場合であればキリスト教徒白人アメリカ人の論理にのっかって、そっちに順応しない者たちを蔑視してしまうのだ。
同じユダヤ人(あるいは在日韓国朝鮮人でも、いわゆる旧・被差別部落民でもいい)どうしで、より元の出自らしい人々とそうでない人々が、「一緒にされたくない」とどこかで思ってしまっている、「差別する側」に無自覚に近づいてしまおうとする、「差別される側」の現実。
『紳士協定』
男やもめのグレゴリー・ペックと息子のディーン・ストックウェル。息子の「反ユダヤ主義ってなに?」というシンプルな疑問が、フィル・グリーンにその主題について記事を書くことを決意させる。
これはユダヤ人差別だからこそ起ることでもある。またそれが1947年のこのアメリカ映画を、21世紀初頭の日本における差別の現実にも通ずるものにしている。
『紳士協定』では見るからに “ユダヤ人の身体的特徴” ステレオタイプに合致した風貌のサム・ジャッフェ演ずる物理学教授に「ユダヤ人という人種は科学的には存在しない。ユダヤ民族とは観念である」と言わせる一方で、ポーラド系ユダヤ人と分かる名前を変えることで就職できた主人公のブロンドの秘書のように、自分からそうと言わなければユダヤ人だとは分からない人も多いことが、アメリカに蔓延する他の人種差別、たとえば黒人への差別とは大きく異なる(カザンがこの前に監督した『ピンキー』であるとか、『悲しみは空の彼方に』や『模倣の人生』に登場する肌が白い黒人女性のような、特異な例外はあるものの)ユダヤ人差別の特異性を示しているし、その特異性をきちんと踏まえることで、逆にこの映画は教条的なお説教に留まらない普遍的な力を得てもいる。
サム・ジャッフェ:典型的、あるいはステレオタイプ通りの「ユダヤ人」を想起させる身体
またこのユダヤ人差別の特異性は、現代の日本にまだ根強い差別、身体的にはいわゆる一般日本人と区別がまずつくはずもない「在日」やいわゆる「同和」への差別にも通ずることだ。あるいは、世界的にいえばたとえば性的マイノリティ、同性愛者への差別などでも同じことが言える。
隠そうと思えば隠すことができる、「差別される側」としてのアイデンティティの問題、「自分を隠すこと」が不可能でないだけに、そのことで一見すると苦難を乗り切れてしまうようにも見えてしまうし、逆にいえば「ユダヤ人」である、あるいは「在日である」「同和出身である」と自己主張しなければ自分もまた差別される側であることが無視されてしまいかねないし、こと現代の日本であれば、いわゆる「似非同和問題」が旧被差別部落民への差別をいっそう激しくしている現実もある。
この「差別される側」と「差別する側」が身体的に互換可能なことこそが、『紳士協定』のプロット(物語構造/仕掛け)を成立させている。非ユダヤ人の主人公、フィリップ(フィル)・スカイラー・グリーンは、その秘書とは逆に、自分はフィル・グリーンであるのにフィリップ・グリーンバーグが本名であるかのように装うことで「ユダヤ人になれる」、それが可能な交換可能性。
グレゴリー・ペック:典型的、あるいはステレオタイプ通りの白人キリスト教徒アメリカ人としての身体
彼がフィリップ・グリーンバーグなのだと思い込んだ秘書はだからこそ彼を信用して出自を明かし、リベラルを標榜して反ユダヤ主義についての記事をグリーンに依頼するような雑誌社が雇用でユダヤ人差別をしていた実態を暴く。だがその一方で、自分と同じように非ユダヤ人に見える彼にむかって、同じユダヤ人でも非ユダヤ人の白人キリスト教徒アメリカ人には見えないユダヤ人たちのことを「問題を起こす人々」であるかのように批判する、「あなたならお分かりでしょうけど…」と。
この瞬間、「差別される側」もまた「差別する側」の紳士協定の一部に取り込まれかねないリスクを常に抱えていることが明らかになるし、それは残念ながら現実にもしばしばあることであり、また「現実」からいえば彼らが生きて行くために必要な妥協でもある。ヴェラスケスが転向ユダヤ人の家系であることを隠していたから宮廷画家になれたように、あるいはカーク・ダグラス以前にはほとんどのハリウッド・スターが自分がユダヤ系であることを明かさなかったように。
『紳士協定』
非ユダヤ的な姓のグリーンからユダヤ的なグリーンバーグへ
それにサム・ジャッフェの人物がこの映画で言うように、ユダヤ人という民族に遺伝に基づく身体的な特徴としての実態は、ほとんどない。2000年のディアスポラがあり、19世紀以降のシオニズムに代表されるユダヤ人の世俗化があった後では、ユダヤ人であることの最大の定義とは「自分がユダヤ人であると思っていること」なのだ。
逆にいえば、ユダヤ人とはなんであるかについて、イスラエルを代表する現代映画作家アモス・ギタイはこう言っている、「ほとんどの民族はディアスポラ状態に置かれれば周囲に順応して、二、三百年もすれば吸収され消えてしまっている。ユダヤ人がユダヤ人であるゆえん、『自分たちが周囲とは異なるのだ、決して同じではないのだ』という確信を2000年間持ち続けて来られたことにある」交換可能性:アモス・ギタイの『カドッシュ』では、パレスティナ人俳優ユーセフ・アブ・ワルダがエルサレムのユダヤ教超正統派コミュニティの大ラビを演じた。ユダヤ人とパレスティナ人、対立する二つの民族の差異は、当事者たちの多くが思っているほどには、絶対的なものではない。
それにしても、こと日本ではなりすましによる「似非同和」の利権問題までも後を絶たないだけに、変に神経質になっているからだろうか、『紳士協定』の根本的な物語構造/仕掛け(プロット)は、それだけ聞くとなにか倫理的な違和感を感じてしまうのはなぜなのだろう? 非ユダヤ人である主人公がユダヤ人のフリをすることは、それだけで「嘘をついている」から倫理的な問題が派生するというだけではない。「差別される側を装うこと」になにかかえって差別的な匂いを感じてしまうのは、なぜなのだろうか? 同じ人間だからこそ互換可能である、だから差別するのがおかしい、と考えるべきはずなのに。
文字であらすじを読んだ段階でそこにこだわってしまうと、この映画に反感を持ったままそれが増幅されて見終えてしまうこともあり得る。なぜなら、フィル・グリーンがフィリップ・グリーンバーグを装うことが倫理的なレベルで問われたり糺弾されることが、この映画にはまったくないのだ。
それどころか、フィル・グリーンが自分の体験を書き上げた原稿を渡された秘書が、その題名『私は8週間ユダヤ人だった』を見て真相を知るとき、倫理的な詰問を行うのは秘書の側ではなく、フィル・グリーンの方だ。
『紳士協定』原稿を完成させたフィル・グリーンと秘書の会話
「昨日までの私と今日の私のどこが違う? 同じ顔、同じ目、同じ鼻、同じ皮膚だ。なんならこの手を握ってみなさい。あなたと同じ身体だ」。「差別される側」の秘書が、「差別する側」の彼にこう詰問されているという構図だけで、これを「差別的だ」と思って批判したくなってしまう人も、こと日本でなら、いてもおかしくないと思う。
それが日本だけの問題だと言い切るつもりはない。同様の問題を、のちに「私の名はエリア・カザン。血統はギリシャ人、出身地によればトルコ人、そして叔父がある旅をしたためにアメリカ人である」と、そのアメリカに移民した叔父の旅を映画化した『アメリカ、アメリカ』で宣言することになる映画作家が、1947年のアメリカで扱っているのだから。
エリア・カザン『アメリカ、アメリカ』(1963)冒頭シーン
問題は、差別の問題を被害者への安易な憐れみで考える情緒的な態度であるべきか、人としてなにが正しくてなにが誤っているのかの、この映画の主人公の言葉で言えば「信念 principle」に関わることと見なすか、なのであり、「差別される側」「犠牲者」として考えるか、「同じ人間じゃないか」と考え平等を脅かすこととして捉えるかの違いなのだと思う。
憐れみの情緒で考える限りでは、「差別されている人たちは可哀想なのだから、その人たちを傷つけてはいけない」ということになるだろう。その考えからすれば、苦労して自分の出自を隠して秘書になっている彼女を詰問し、その矛盾、「君には私がキリスト教徒という素晴らしい栄誉を八週間も捨て去るなんて想像もつかないのだ。だからあえて言う、そう考えてしまうことこそが、反ユダヤ主義なのだ」と、彼女自身のなかにある差別意識を突きつけることは「残酷」でありやってはいけないことになる。
『紳士協定』
実はユダヤ人の秘書(ジューン・ハヴォック)
彼女だって「可哀想」ではないか、「傷つく」じゃないか。ただでさえ差別されているのに、可哀想ではないか。それは確かにそうだが、そこで終わってしまっていいのだろうか? それでは現状をただ漫然と続けされることに貢献するだけになりはしないか?
「可哀想」ではないか、「傷つく」じゃないか、つまりは「波風を立てない」「寝た子を起こさない」、「衝突を避ける」紳士協定こそが、差別を温存させているのではないか? それは「差別される側」への温情を見せかけながら、その実「差別される側を可哀想に思える自分」によって自己正当化をはかっているだけのことにも、なりかねない。
藤原敏史『ほんの少しだけでも愛を』(2010-編集中)
このいわば「隠れユダヤ人」の秘書のなかにカザンの映画が「差別される側の自分達自身への差別意識」、もっとはっきり言ってしまえば自己のアイデンティティを否定的なものとして考えてしまうコンプレックスを見いだす以上に、「可哀想」ではないか、「傷つく」じゃないかと思ってなにも言わない「紳士協定」もまた、そう思う「差別する側」である自分たちを優位に置いていることが前提となっている。
相手を差別なく、本当に対等とみなすのであれば、彼女自身が「対等」になるためにも、自分たちのことを無意識に下位に置くそのコンプレックスに、彼女自身が気付かねばならないはずだし、平等で対等であるなら、そういう特別扱いぬきに、人としての誠意をもって向き合うべきであり、言うべきことなのではないか?
もちろん、その気付かせ方や指摘の仕方には、それなりの配慮は必要であろうが、どこまでが必要な配慮で、どこからが隠蔽への加担になるのか? どこからが「他人事として同情/憐憫を示しながら、その実関わろうともせずなにもしない」ことにつながるのか? 「私は差別を憎んでいる、可哀想だと思っている」と言いながら、なにもしないこと--なにもしなければ、自分の行動への責任を負う必要はない。「そうは思うけれど、現実は現実でそう簡単に変わらないのだから、言っても仕方がない」と言い続けることは、その実「言わないし行動もしないから、自分に責任はないし、よくないと思っているのだから私は差別主義者のような悪い人間とは違う」と。
『紳士協定』ドロシー・マグアイア、グレゴリー・ペック
『紳士協定』のなかでそうした一般的に「良心的な」市民を代弁するのが、ドロシー・マグアイアの演ずる主人公の婚約者であるのだが、物語の始まりの時点では、フィル・グリーンもまた、まだ漠然とそちらの側に属している。反ユダヤ主義いついての連載記事を依頼された彼はまず幼なじみのユダヤ人デイヴ(ジョン・ガーフィールド)に手紙を書こうとするのだが、彼の辛い経験を聞き出せば「傷つける」ことになると思うと、なにを訊いていいか分からない。統計や資料を漁っても、記事になることは見つからない。
だからこそ彼はその一線を超えて「ユダヤ人になろうとする」、デイヴが体験して来たであろうことを自分でも可能な限り体験しようとすることで、無意識のうちに彼はユダヤ人差別のある本質を突く行動に出ている。「差別する側」と「差別される側」がまったく互換可能であること、「反ユダヤ主義」「差別する側/差別される側」は人間たちの観念のなかにあるだけであるという「現実」。
この互換可能性をアクションで視覚的に示すこと、文字通りの目に見える現実として「昨日までの私と今日の私のどこが違う? 同じ顔、同じ目、同じ鼻、同じ皮膚」であることの現実と、ドロシー・マグアイアの婚約者の言う、その実いかに社会的に共有されていようがその社会のなかの観念でしかない「現実」の相克が、『紳士協定』を優れて映画的なドラマにしている鍵なのだろう。なぜなら、映画のキャメラそれ自体は機械であり、「ユダヤ人」なら「ユダヤ人」という役柄設定を除けば、その俳優の同じ顔、同じ目、同じ鼻、同じ皮膚しか、映し出しはしないのだから。
この構造があるからこそ、その相克の頂点で、この映画は「観念としての現実」として社会が思い込みながら、同時のその思い込みに気付くまいとしている隠蔽の底にある、真の残酷さを見せつける。
『紳士協定』クライマックス/真のラスト
ドロシー・マグアイアは「わたしはデイヴの側だし、あなたの側だとなぜ分かってくれないの」と主人公に懇願する。グレゴリー・ペックは「僕は誰の側にもついた覚えはない。ただ『彼ら』の側には決していないだけだ」という。ドロシー・マグアイアは目の前と自分の周囲の半径5m程度しか見えていない「情緒」でしか考えておらず、グレゴリー・ペックの「信念」の問題を共有してはまったくいない。
倫理の問題として誰に対してであろうと差別が許されることではないと考えるか、情緒的に自分の周囲に見える相手だけを考えて憐れみのレベルで「差別されている人たちは可哀想なのだから、その人たちを傷つけてはいけない」に留まる「人間性」が正しいのか?
そこに主人公の息子ディーン・ストックウェルが「汚いユダヤ人」と子供たちにいじめられて帰ってくる。その時にドロシー・マグアイアは「そんなの嘘よ。そんなひどい嘘を信じちゃだめ。あなたも私も、ユダヤ人なんかじゃないのよ」と言ってしまう。
やはり差別と偏見、そして反戦思想を扱ったジョゼフ・ロージーの『緑色の髪の少年』に主演したディーン・ストックウェル
確かに「汚いユダヤ人」でないことで、ディーン・ストックウェルがいじめられる理由はなくなるかも知れない、この場限りの自分の周囲半径5mの話では、目の前の子どもの悲しみに同情するのは間違ったことではない。ユダヤ人であることを隠している秘書に彼女の内なる反ユダヤ主義を指摘して「傷つける」のが残酷であるように。
だがそこに問題の本質はない。「差別は許されない」という問題のはずが、ドロシー・マグアイアにとってはそれがいつのまにか「私は差別をしないし、差別されている人の『側』に立つやさしい人間なんだ」という自己正当化に横滑りしてしまっている。情緒と憐憫で考える「差別はいけない」が、そもそもが自分を上におき、「差別される側」を「憐れみをかける側」に読み替えているだけで本質的な構造がまったく変わっていないことが、この瞬間に明らかになる。
そもそも、なぜ人は差別をするのか? 他者に対して自分を上位に置こうとするときに、もっとも分かり易い上に自分に責任がない、「世の中がそうだから」、ドロシー・マグアイアの台詞でいえば「それが現実だから」で済まされることだから。それこそ「私はそうは思わないけれど、世の中そうだから仕方がない」。
もちろん、それで済むわけがない。
我々は差別という問題があるとき、しばしば大きな誤解をしているのではないか? 日本でならいわゆる「同和」への差別、あるいは在日コリアンへの差別を、我々は「彼ら」の問題としてのみ考えがちであり、「可哀想だから解決しなければ」に留まってしまいがちだ。だがよく考えてみれば「彼ら」は我々が差別をするから、その結果としてたまたま「差別される側」になってしまっているだけに過ぎない。「差別」とはあくまで、「差別する側」のやっていることの問題であり、「差別する側」になってしまう無自覚な意識の構造の問題であって、およそ「現実」の問題ですらない。あるのは現実世界の人間たちの頭のなかにある思い込みだけだ。
その「現実」をこそ、『紳士協定』は見るからに白人キリスト教徒アメリカ人としての見かけ/身体を持つグレゴリー・ペックが、「グリーン」を「グリーンバーグ」と名前にユダヤ人を示す記号を付け加えるだけで「ユダヤ人」という観念だけの表象記号を背負えること、「差別という現実」なぞなく現実には同じ人間であって互換可能ですらあることによって、見せつけている。
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