最新作『無人地帯 No Man's Zone』(2012)
〜福島第一原発事故、失われゆく風景、そこに生きて来た人々〜
第62回ベルリン国際映画祭フォーラム部門正式出品作品

5/10/2013

「ロマンポルノは文化」はその通りなのだが…/大阪の映画館が裁判に


大阪の映画館シネ・ヌーヴォがロマンポルノの上映をめぐって上部階マンション住民に訴えられているそうだ。

一見、住民側の主張は、トンデモで狭量な保守主義の偽善に見える。

ましてこの映画館から商店街を挟んだ向こう側が松島遊郭であることを考えれば、「ポスターが子供の目に触れる」っていうのだって「だからなんなんだ」と思ってしまう。

だが本当に、そんなに単純に住民を責められる話なのだろうか?

記事にあるようにこの映画館は法的な区分けでは「商業地」になるが、実際には店舗もあるけれど基本、住宅地という立地だ。家族向け住宅も多い。「子育てに悪影響が」と言われれば、一見確かに反論は難しい。

とはいえそれを言うのなら、商店街を挟んだ向こう側の松島遊郭だって、なかに普通に住宅も建っていたり、郵便局もあり、あたかもなにごともないかのように生活と遊郭が隣接しているわけで、やはり偽善に思えてしまう。

いや実際、偽善と言えば偽善なのである。

だがだからこそ、住民の感情には根深いものがあるのだ。

九条という地域全体が「そういう場所」だったのであり、だからこそ商店街を挟んでこっち側は「住環境がよい」つまり遊郭とか性的なものがない、その一線の「こちら側」であることが、ほとんど死活問題なのだ。

「差別意識そのものじゃないか」確かにその通りだ。



このアート系映画館が入る前に、確かこの映画館の設備は、昔はポルノが上映されていたのだし、「だったら今さら騒ぐな」とますます言いたくなるのが、我々「外から」の視点だ。

だが地元の住民にしてみれば、だからこそそんな昔と今は違う、新しい映画館は文化的で高級な映画館なんだ、というイメージこそが、重要なのだ。



繰り返すが、「差別意識」と言ってしまえばその通りである…

…というか、まさに性差別、遊郭やそこで働く女性への差別であり、性への蔑視の問題そのものに他ならない。



だがだからこそ、ここで「表現の自由」「ロマンポルノは(高級な)文化なんだ」という、いわば “外から目線” のその実やはり偽善でしかない議論で、裁判を押し切っていいものには思えない。



遊郭があったり、商店街の地下鉄の駅を挟んで向こう側の部分とかを見れば、ここが歴史的にどういう地域だったかも、ちゃんと見ている人は気付くだろう。

大阪の九条の、松島遊郭から川にかけては、いわゆる「被差別部落」と決して無縁ではない歴史がある地域なのだ。

古来、「部落民」とは実は文化を支えて来た人たちであり、性は日本の精神文化にとって極めて本質的な部分だった。「江戸時代は性におおらかだった」とよく言われるが、「おおらか」である以上に、文化的な生活に不可欠な一部分であり、今のように忌避され蔑視され隠蔽されるものではなかったのである。

いわゆる「部落民」こそがその根幹を担っていた江戸時代の文化の中核にこそあるのが、性であり、遊郭はその重要なキーポイントだった。

そうした日本人の文化をまるごと隠蔽しようとしたのが西洋近代をモデルにした明治維新であり、日本の近代化とは日本文化の西洋化であり、逆に言えば日本人が日本人であることを捨て去ることでもあった。

その最たるものが性と身体性の社会の表面からの排除、たとえば混浴の禁止だった。

明治新政府は当初英国を統治の手本にしたわけだが、まさにピューリタニズムというか、性が徹底して抑圧され社会の表面から消し去られたヴィクトリア朝の価値観が、突然日本人に押し付けられたのである−「近代国家」として認められるために。

北斎や広重を見れば、幕末でも日本は裸体にあふれる社会だった。ふんどし一枚の労働者が当たり前の風景を、突然コルセットで女性の胴体を締め付けるような文化が覆ったのである。

安藤広重、東海道五十三次より、藤枝宿
その意味で、部落差別が本格化したことと性がタブー視されることは、ともにむしろ明治以降、日本の近代化のなかでこそ起きたことであろう。



大島渚の言葉を借りれば、「猥褻とは、明治の役人の下品な造語」なのである。



その歴史的な文脈を照射するなら、この地域住民が「近所の映画館でポルノは上映するな」と言うのを、ただ「差別意識」と糾弾するのは難しい。

まして「文化が分からない」「表現の自由を抑圧するな」と高飛車に批判して済ますわけにはいかない。



まして市民の有志団体という形でここに映画館を作ろうとした時、せっかくの映画館の空き物件があったのに、「九条みたいなところで(遊郭がある、悪所だ)」と反対が根強かったのだから、なにをかいわんや、なのだ。

だからこそ、むしろここが「差別される場所」であった隠蔽された歴史を掘り起こし、映画館の経営側の意識もそこに囚われたままで、住民自身もまたそこから逃れることが出来ないままの差別の構造を明らかにし、解きほぐして行くことからしか、本当の解決はあり得ないと思う。



またそうすることが結局は、「ポルノ」や裸体表現を特別視して忌避・タブー視する日本全体の文化的状況を変えて行くことになるし、ロマンポルノがそんな現実を変えて行く武器になることこそが、本当に映画的な状況でもあると思う。



本当の問題は、明治以降の近代化のなかで、我々自身が自分達のセクシャリティや文化を、蔑視し忌避し、差別するものに貶め、タブー視して来たことなのだ。

その大きな差別の構造が厳然とあるなか、「差別される弱者」として潜在的な抑圧を感じている地域が、商店街ひとつ隔てた向こう側の遊郭との差異化という、どうでもいい偽善にしかハタ目には見えないことであっても、少しでも差別されない、蔑視され忌避されない場所になることを求めるのは、責められるものではない。

これは大きな構造を根底から変えることでしか解消されない意識の限界であり、それが変わるまで「弱者」になる地域は差別から身を守ることしかできない。つまりこの地域の反発を「狭量で野蛮な差別だ」と糾弾してしまうなら、そのこと自体、我々が自分たちの社会の差別の構造を隠蔽する偽善のためにやっている差別にも、なってしまう。

まして商店街を挟んで松島遊郭であることをあげつらって、その商売を蔑視した上で「ポスターくらいなんだ」「売春は見過ごしているのに、映画という文化芸術を理解しない」とか言い出そうものなら、これこそ傲慢な差別意識以外のなにものでもないだろう。

「映画とは、本当はとても役に立つものだったんだ」というのがペドロ・コスタの口癖なのだが、ポルノや裸体表現、性表現というのは、まさにこういう我々の無自覚な忌避感情、差別意識、蔑視を変えて行くのに「役に立つ」もののはずだ。

その意味では、シネ・ヌーヴォでロマンポルノの特集上映が行われ、地元の人も見に行ったりして、映画館とその上映プログラムが受け入れられることは、ものすごく「役に立つ」ことである−あくまで「裁判で勝つ」だけでなく、住民もまた納得するのなら。



それは「映画が自由になる」だけでなく、自由な映画がそれを見る観客を自由にすることでもある。だからこそ、「映画は役に立つもの」のだ。

2 件のコメント:

  1. 匿名5/11/2013

    なんか読んでるだけでめんどくさくなって「大阪ってドロドロしていて嫌ですね」って感想になっちゃう。

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  2. とはいえ、大阪が単に「日本の縮図」になってるだけですけどね。

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