最新作『無人地帯 No Man's Zone』(2012)
〜福島第一原発事故、失われゆく風景、そこに生きて来た人々〜
第62回ベルリン国際映画祭フォーラム部門正式出品作品

5/27/2013

橋下徹氏「慰安婦は必要だった」発言をめぐる、多層的な差別性


問題発言が叩かれ始めて2週間、「マスコミの大誤報だ」「誤解された」と頑固に言い張って来た橋下徹氏が、「弾丸が雨嵐のように飛び交うなかを走り回る猛者集団にとって、捌け口としての性行為は “必要”」「慰安婦は必要があるから各国実はやっていたのに日本だけ責められる」「米軍は沖縄の風俗産業を活用した方がいい」という一連の主張の、しかしあくまでその一部の撤回を表明した。


極めてピントのぼけた話で、米側がいちばん神経を尖らせているのは、一連の、安倍政権の極右歴史的修正主義的な発言の流れの中で、橋下氏が従軍慰安婦を「必要」としていわば正当化したことであるのは、当然なのに。

だから安倍氏を含む自民党右派がここぞとばかりにライバルの日本維新の会の橋下氏を批判するのは、これまた見当違いな話なのは言うまでもない。

だいたい、慰安婦は「ただの売春婦」であり「強制連行などなかった」、だから「日本だけ責められるのはおかしい」と言い張って来たのは、彼らも同じではないか?安倍晋三は、前に首相だったときに、同様の歴史問題の発言をブッシュ政権(当時)に咎められて謝罪していることを忘れてしまったのだろうか?

「強制連行がなかった」とする論点自体が、彼らがいわば捏造したものに過ぎない。そんなことそもそも慰安婦問題が人道犯罪と断罪され、日本が非難されて来た論点ではない。

戦時中の日本の状況を少しでも知っていれば、慰安婦に強制性があったことなど理の当然、なかったと思う方がおかしい。「お国のため」と言われれば逆らえない、さもなくば官憲が先頭に立って「非国民」とののしられ、最悪特高警察に引っぱられる、陸軍なら上官の命令でリンチされるなどが、軍国主義の時代の日本の庶民の当たり前だったし、慰安婦の存在はさすがに大っぴらに語られにくく、実態が調査されたわけでもなかったとはいえ、戦場を体験した世代がまだ元気だった時代に、今のような慰安婦をめぐる議論もどきの愚論など、ただのナンセンスでしかない。

日本人でさえ「お国のため」に逆らえなかった時代に、蔑視差別される植民地の、それも性労働を強要された女性たち、いわば社会の最下層に置かれた人たちのみそんな特権的な優遇があったなんて、考えるだけ馬鹿馬鹿しい。

「公文書に証拠がない」を持ち出すのも馬鹿げている。

署名捺印の契約書があるからといって強制がなかった証拠になぞなるはずもなく、銃を頭に突きつけて署名させたって、書類の体裁だけは整う。「強制連行を示す命令書の類いはない」と言ったところで、当時ですら日本の国内法で違法となる行為を公式に命令する馬鹿なぞいるはずもなく、しかも慰安婦徴集において強制的な行動をとることを戒めるよう官憲が同行する指令が出されているのだから何をかいわんや、なのである。

ただでさえ、徴集される慰安婦の側にしてみれば、軍隊や警察が徴集する側に同行しているだけで強制になるのは、分かり切った話ではないか。

しかも「お国のため」である

日本政府が今までやったのは、河野談話に妥協でその言及が盛り込まれたような、公文書をざっと調べただけで「強制を示す文言がない」といい加減な結論を出した「調査」が関の山だ。

ホロコーストに関してドイツが行い、当初被害国に思われたポーランドやフランスが自ら加害国でもあったことを立証したような、厳密な歴史・実態調査などまったくやっていない。元慰安婦が民事で訴えれば、形式上賠償請求訴訟になることを逆手にとって「日韓基本条約により、請求権がない」という門前払いで、司法すら事実認定そのものから逃げて来ただけだ。

ロクに調べもせず「なかった」と言い張ることが、被害者を何重にも怒らせ侮辱することにしかならないと、なぜ気づけないのか?

差別される朝鮮民族でありしかも蔑視される性労働に従事した人たちだから、謝る、頭を下げるなんて沽券に関わると言わんばかりに、橋下氏の口から出たのもたとえば「かわいそう」といった、下位に見て憐れみをかける言葉でしかない。

そんな調子で「誤解だ」と言い張る橋下氏に、元慰安婦が面会を拒否したのも当たり前だ。「かわいそう」ポーズで侮辱されてマスコミ対策に利用されるだけではないか。

また当初は面会するはずだったその元慰安婦にテレビ局などが取材した内容もおかしい。なぜ今話題になっているこの時に、彼女達がもっとも訴えたいこと、日本人が知らなければならないことを、きちんと報道しないのだ?

つまり、戦時中に、彼女達になにがあったのか、である。

「かわいそう」で済まされる話ではないし、世代が違って直接責任はないと言ったって、橋下氏を含めた我々の世代(昭和40年代生まれ)だって、加害国の国民である

殺人犯の家族が、被害者遺族を「かわいそう」とだけ言っていればいいものかどうか?同じことではないか。

ただしこれは、支援団体が出した声明文書も出来が悪い。「恐怖すら感じる」などとの文言を入れて「かわいそうな被害者のおばあさん」対「怖い強権的右翼・橋下」イメージを作ったって、足下を見られるだけだ。

ハルモニたちは怒っている、自ら思い起こすのも辛い過去を語り怒るだけ強いのだから、遠慮なくその怒りを突きつけるべきだった。

「かわいそう」と憐れみをかけるどころか、彼女達は我々の敬意すら受けるべき存在ではないか。

そのあまりに陰惨な記憶を生き延びて来た人間性の強さだけでも、尊敬に値する

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だがこの敬意と蔑視の問題、慰安婦問題をめぐる日本国内の無自覚な差別性を考え始めると、橋下氏が「誤解だ」と言い張っていることも、あながち間違いではないのかも知れない、とも思えるのである。

無論、彼の直接の文言とそこに現れたロジックは批判されて当然のものであり、女性蔑視だと非難され、アメリカ国務省が「言語道断」と言うのも無理はないのだが、その発言をしたのが橋下徹であるというコンテクストで考えるなら、ただ「女性蔑視だ」で断ずるのは、アングロサクソン的なピューリタニズムの偽善性にのっとったポリティカリー・コレクトネスでしかない、とも言えるのだ。

僕自身は、橋下氏が「誤解された」というその真意は、実はここにあるのではないかとも思う。

それは大阪市長の橋下徹氏が、いわゆる被差別部落の出身だからであり、大阪では被差別部落と性風俗産業…というか売買春のカルチャーがセットで差別されて来た歴史があるからだ。

本ブログ前項の、大阪・九条の映画館シネ・ヌーヴォの「ロマンポルノ裁判」(地元住民がポルノ映画の上映差し止めを要求)とも併せて読んで頂きたいし、またその文脈で考えたいことでもある。

九条には松島遊郭(橋下氏のいう「合法的な風俗業」ですらなく、はっきり「遊郭」であり本来なら売春禁止法違反)があり、大阪には西成区にもっと有名な飛田遊郭もある。

飛田がかつて鳶田墓地であり、西成区が今日でもあからさまに「被差別部落」の成れの果てのままスラム化すらしていることが分かり易いように、そもそも遊郭など性の文化は、いわゆる部落と、それに墓地とセットで、歴史的に存在して来た

    藤原敏史『ほんの少しだけでも愛を』(編集中)より

ほとんどの人が忘れているようだが、再開発が行われ「グランフロント大阪」ができた梅田北地域(旧北ヤード)は、元は「埋め田」転じて梅田墓地である。梅田一帯で性風俗産業がけっこう盛んなことにも、歴史的な理由があるのだ。 
大阪に限った話ではなく、東京つまり江戸でも上野・浅草から隅田川を挟んで北西方向に吉原遊郭があり、杉田玄白が解剖を行ったことで知られる骨ケ原刑場があり、また上野の東照宮と寛永寺の徳川家墓所に連なって広大な谷中墓地があるのも、同様の歴史的都市構造の名残だ。 
あるいは今なお両国に国技館があるのも、明暦の大火後の都市計画で江戸の川向こうであった両国がまず大火の犠牲者の慰霊の場になり、そこに相撲をはじめ、歌舞伎、見世物小屋などが集中したことに由来しているのだ。 
歌舞伎役者が「かわらもの」「かわらこじき」と呼ばれるようになった起源は京都の四条から六条の河原に同じような興行/性風俗文化の中心地があったこと(そして六条には刑場があった)と言われるが、江戸の場合はたとえば川向こうであったり、寛永寺や東照宮を中心とする鬼門封じであり、その同様の文化の名残は、関東よりも東のほとんどの日本の歴史都市に元来あったものだ。

それが現代でも差別として残り、橋下氏はその差別される側として育ったのだ。

遊郭でも見れば、そこで女性を「買い」に来るのは「差別する側」の人間たちであり、自分達の需要つまり「必要」がある売買春などの性風俗産業なのに、それを差別対象とするのは、「差別される側」から見ればまったく理屈に合わない偽善ではないか?

…と、その差別される側で育った男の子が思ったとしても、それは当然である。

買ってるお前らが差別してるんやん。お前らに必要やから、この差別される場があるんやろが

こうした意識のなかにもまた、自分が差別される職業である売春をやっている女性という当事者ではないことのズレがあり、そこにだって厳密には女性蔑視が含まれるとは言えなくもないにせよ、少年の論理でそこまで理解するのは、それは無理というものだろう。

むしろその不当性を見抜き、差別される娼婦達に同情出来るだけ、そんな場があることも知らず、見ようともせず、性の産業文化自体を「汚らわしい」と思っていることを「モノ扱いする女性蔑視だ許せない」と言い張ることで隠蔽するピューリタニズム偽善の小市民的「正義」よりは、はるかに人間的だ。

   藤原敏史『ほんの少しだけでも愛を』(編集中)より、
     飛田遊郭の無縁仏慰霊碑

橋下氏が「必要」といい、だから沖縄の米軍にああ言ったのも、その「差別される側」だからこそ気づく不当さへの感情が、どこかに隠れているような気がしてならない。

もっとも、だとしたらますます、どうしようもなく言葉足らずなのではあるが。

ただしここで橋下氏を「弁護士のくせにそんな言葉足らずでどうする」と責める前に、我々が考えるべきことがある。

いわゆるえた・ひにんという権力側の見た差別的呼称以外に彼らを呼ぶ名前すら日本語の語彙になく、明治以降は「被差別部落」、戦後は「同和」と、言い換え語を駆使して差別の問題を誤摩化して来て、今やそのことに言及すること自体が「差別」だと言い出す「言葉狩り」をやり続ければ、「自分は差別をしていない」と言い張れると思い込む、差別される側には通用するはずもない身勝手な偽善性のタブーを続けて来たのは、いったい誰なのか?

実は性風俗産業を “必要” として搾取し続けて来て、かつ「魂が穢れる」「不道徳」と差別して来た我々の社会ではないか?

   藤原敏史『ほんの少しだけでも愛を』(編集中)より

2 件のコメント:

  1. 佐藤徹5/28/2013

    「ほんの少しだけでも愛を」いいですねえ。これを直接的な台詞ではなくむしろもっと客観的な物語にする予定なんですか?

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    1. コメントありがとうございます。

      どこまで説明すべきなのかが、編集において難しいところなんですよ。「見りゃ分かるだろ」で済ませると、「見たくないから気づかない」でそこを素通りされることは分かってるし、説明すればそれだけ長くなるわけで。

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