最新作『無人地帯 No Man's Zone』(2012)
〜福島第一原発事故、失われゆく風景、そこに生きて来た人々〜
第62回ベルリン国際映画祭フォーラム部門正式出品作品

9/23/2014

ジャック・ドゥミ『モデル・ショップ』の謎


 ジャック・ドゥミ監督『モデル・ショップ』予告編

ジャック・ドゥミのアメリカ映画『モデル・ショップ』(1969)が公開当時にまったく評価されず、なぜ今に至るまでほとんど無視されて来たのかは理解し難いのだが、しかし語るのがひどく難しい映画であり、そのための言葉や論理がなかなか見つからないのも確かだ。

映画のなかでセシル(アヌーク・エメ)とジョージ(ゲイリー・ロックウッド)がお互いに言い合う、


「あなたは自分のやることがなんでも説明できるの?」
「君は自分のやることをなんでも説明できるのか?」

二人がお互いに同じことをいうこの台詞は、この映画が自身について語っていることでもある。

では映画とは、その中身がすべて説明できるようになっているべきなのか?

そもそも映画を「理解」するとは、そういうことなのだろうか?

ジャック・ドゥミの映画はしばしば、この「映画的であるとはどういうことなのか?言葉で説明できることが映画的なのか?」という疑問を観客に喚起する。

一見古典メロドラマ的なストーリーの構図を用いるようでありながら、それが通俗メロドラマとは明らかに異なる映画的な純粋さの方向へとねじれていくのがドゥミの作品世界の常なのだが、『モデル・ショップ』は、なかでも最も純粋な成功に達した例かも知れない。



映画的に純粋とは『モデル・ショップ』の場合、そこに言語化できる出来事がなにも起こらない、空虚な映画であるからこそ映画性に充満しきっていることだ。

ジャック・ドゥミの映画はこの点で恐ろしく自由な、究極の映画の自由さえ体現しているとも言えるが、とはいえ批評はもちろん簡便なレビューでも、ストーリーかなにかを説明できないと評価を書きにくいのはその通りだし、言葉で「ここが凄い」を言い合えなければ、映画業界内の口コミの評判も広がりにくい。

しかも『モデル・ショップ』の場合、一般的に出て来る説明それ自体が、この映画がきちんと見られることを阻害する、見る者の意識をちゃんと映画を見られない方向へと歪めてしまう言葉になりかねない。

『モデル・ショップ』を説明するとき、我々はつい、

これはドゥミのデビュー作『ローラ』の続編だ。ヒロインのセシル(芸名がローラ)が最後にアメリカに行くだろう、その後の彼女についての映画だ。

と言ってしまいがちだが、これが大きな誤解を招く間違いなのだ。

なぜなら、『モデル・ショップ』の主人公はセシルではなくあくまでジョージであり、彼がなにも起こらないロサンゼルスの路上の冒険旅行の途上で『ローラ』の7~8年後のセシルに会うのが、この映画の展開である。



なのにただ『ローラ』の続編だ、と言ってしまえば、彼女が登場するまで観客はまだかまだかと待たされることになり、いざセシルの姿を見ても、しばらくはひたすらジョージがお気に入りのクラッシク・カーで彼女の白いマーキュリーを追い続けるだけなのだから、『ローラ』後のセシルを期待していた観客は、『ローラ』で彼女が待ち続けた恋人ミシェルがやはり白いマーキュリーに乗り、白いスーツ姿だったことの符合くらいしか見るべきものがなく、戸惑ってしまうだろう。



やっとジョージが、セシルがエロ写真のモデルとして働く「モデル・ショップ」(客が密室でモデルと二人きりになって好きなポーズを要求して写真を撮る、という趣向の風俗店)で対面し、会話を交わしても、彼女はほとんどなにも語らない。

だいたいアヌーク・エメ演じる白いワンピースの女が『ローラ』のセシルであることは、これが続編だという前情報がなければ、モデルたちのカタログに貼られた写真が『ローラ』の踊り子のそれであること以外、なんの手がかりも与えられない。




はつらつとして一瞬もじっとしてはいない、落ち着きなくコケティッシュに動き回り表情もコロコロ変わる、そんな生き生きした姿がチャーミングだった『ローラ』のセシルと、『モデル・ショップ』の疲れた顔で、静かに、無表情にポーズをとるセシルでは、同じアヌーク・エメが演じていても、まるで別人にすら見える。

ジャック・ドゥミ『ローラ』復元版予告編


15分間で12ドルの時間が過ぎると、映画はセシルから離れ、店を出たジョージを再び追い続ける。知り合いのコミュニティ・ペーパーの編集部で実家に電話をかけたジョージは、母に徴兵通知が届いていることを知らされる。


この映画の背景がヴェトナム戦争であることは、最初からラジオ放送と飛行機の爆音で暗示されていたが、それがついに主人公の直接の現実となって、ジョージの無気力が戦死する恐怖に取り憑かれているせいだったことがはっきりすると同時に、電話越しに父と喧嘩になり、父が自分の第二次大戦の従軍体験や、兄が朝鮮戦争で戦ったことを挙げて彼を叱責することで、この映画がヴェトナム戦争の時代の若者たちの虚無的な感覚をめぐる、60年代末のロサンゼルスという都市の肖像であることが明確になる。



この展開を待つまでもなく、上映時間のなかでセシルが登場する時間がどれだけあるかで一目瞭然のはずのことが、なぜか『モデル・ショップ』の主人公はセシルだと誤解され続ければ、当然それを鵜呑みにした観客ならば、わけが分からず期待はずれになるだろう。


いやだが、それを言うなら、『ローラ』だって主人公はセシルではなくロラン・カサール(マルク・ミシェル)であり、ヒロインならアヌーク・エメのセシルだけでなくもう一人の少女セシルもいた。

『ローラ』少女セシルと米兵のフランキー

無為に生きる若い男がセシル/ローラに出会い自分の人生が変わるかと夢見るが、その夢は幻滅で終わる、その同じ構造は『ローラ』と『モデル・ショップ』に共通し、確かにその意味で後者は前者の続編であり変奏、写し鏡である。

逆に言えば、『モデル・ショップ』が理解されないまま無視されて来たのは、『ローラ』が誤解されたまま愛されて来た映画だからではないだろうか?

『ローラ』の主人公がセシルであったのなら、「ヌーヴェルヴァーグの真珠」とまで賞賛されたこの映画は、夢見がちな女がその夢を信じ8年間恋人をけなげに待ち続け、自分と息子のためにアメリカで金持ちになった恋人が帰って来るという夢が最後に現実になる、という素敵な恋物語として見られるのだろうか?

それだけの映画だったとしたら、ジャック・ドゥミとはまたえらく下らない少女趣味の映画を作る監督だ、で終わってしまいそうな気もするが…

もちろん『ローラ』はそんな単純に子どもじみた映画ではないし、そうでなければセシルが愛してはいないという米兵のフランキーと関係を持ったりもしないだろうし、ロランが少女の方のセシルとその母(エリナ・ラブールデット)と出会い、英語の辞書が重要な小道具になり、少女セシルがお祭りでフランキーに会う謂れもなかったはずだ。

『ローラ』フランキーとセシル

『ローラ』は夢見がちな映画ではなく、夢についての映画だ。

夢を見なければ生き続けていられない当時のフランスの女性たちを、ドゥミという男性監督がロラン・カサールという男性の主人公を通して見ている映画なのである。少女セシル、踊り子のセシル、少女セシルの母、さらに息子を待ち続ける、日曜画家であるミシェルの母、異なった世代のそれぞれの女達は、一人の女性の様々な年代とも見られるようになっているが、歳をとればとるほど、世界の現実に心を削られた彼女たちの夢は純粋さを失い、その夢は固執と諦めのアンバランスなないまぜになり、それでも彼女達は夢を見なければ生き続けられない。

ドゥミはそこに、戦後のフランスが(実は敗戦国に他ならない)コンプレックスの裏返しでキッチュな夢の対象としつつ、一方で軽侮の眼差しでも見ていた「アメリカ」を重ね合わせることで、複雑でデリケートな戦後フランスの心象風景の群像画をこそ、実は描いていた。 
この夢と幻滅、夢の投影先である他者と、憧れる自分が自分でしかないことの相克は、戦後の実質アメリカ占領下のフランスの港町で思春期を迎え、アメリカ映画が産み出した特権的なジャンルであるミュージカルを愛し憧れながら、それとは異なった音楽にのせた物語映画を目指したドゥミ自身も、共有するものだったのだろう。

フランスの女たちがそういう夢に生きなければならないことを、『ローラ』のドゥミは決して否定はしないが、かといって夢が現実になる形で肯定されているわけでもない。

同じ夢の崩壊、運命の残酷さは『シェルブールの雨傘』にも見られるし、『ロバと王女』でも『パーキング』でも遺作『想い出のマルセイユ』でも、そんな人生と運命の残酷さの主題の変奏が物語構造の中枢にある。 
いや『ロシュフォールの恋人たち』でさえ、それが映画を背後から支えて映画たらしめている本質は、去ってしまった失われた夢の再生だ。

『ローラ』の女達の夢は、夢見がちな青年ロランが巻き込まれる密輸の陰謀に暗示される男達の野心と経済・金銭の論理に対比されつつ、最後には一見ハッピーエンドに見えるセシルとミシェルの再会シーンによって、しかし逆に夢が夢でしかないことが暗示され、映画はロラン・カサールがダイヤモンド密輸の旅に向かう姿で終わる。

その後にダイヤモンド商として成功したロラン・カサールが、『シェルブルールの雨傘』でカトリーヌ・ドゥヌーブが愛する青年と結ばれる夢と待ち続けるはずだった信念を打ち壊して結婚する夫になる。 

 『シェルブールの雨傘』 カサールの回想

イヴ・モンタン演ずるモンタン自身のマルセイユへの帰郷を描く遺作『想い出のマルセイユ』は、元は初老のカサールがナントに帰って来る話だった。
『想い出のマルセイユ』イヴ・モンタンとマチルダ・メイ

いやより正確に言えば、その夢の対象であり「アメリカ」の象徴でもあるミシェルの姿は、なんの説明もなく映画の冒頭に写っていた。


白いマーキュリーに乗り白いスーツを着て妙にマッチョなミシェルを、文字通り「白馬の王子様」の夢の実現と受け取るかどうかは一応は観客任せになっているが、本気に出来る、これでセシルには幸福が約束されると一緒に夢を見られる観客が、果たしているのだろうか?

一方で現実のアメリカを象徴する、というかアメリカ人そのものであるフランキーの方が、小さな脇役に見えてはるかに親愛さを込めた存在感で描かれている。

フランキーと結ばれた方が、セシルと息子は幸せになったかも知れないとも『ローラ』には確実に描き込まれている一方で、しかしドゥミはフランキーの優しさや現実的な判断やよりも、自分が信じる夢に忠実であるセシルを、とても愛らしい存在として映し出していた。



それは言葉の理屈では説明不能な、映画ならではの論理なのだ。ドゥミもまた、たとえばフランソワ・トリュフォーのように、言語的な論理では説明も表現も出来ないことにこそ、自分の映画表現を探求した映画作家だった。

『シェルブールの雨傘』
鏡に映る母、その鏡のさらに向こうの鏡に映る娘
『モデル・ショップ』のセシルは、『ローラ』の頃の、自分の信じる夢に忠実であることで自分に忠実であろうとした自分(こうした人物の在り方故に、ドゥミ映画では鏡がよく用いられる)が壊れてしまった、その後のセシルであり、自分が自分の言葉で説明できる存在ではないことを自覚したセシルでもある。

「あなたは自分のやることがなんでも説明できるの?」

人間が合理的に説明可能な生物ではないことにこそドゥミが注目するのは、ドゥミのあらゆる映画が人生における真実と偽り、自分自身の真実とはなにかを見いだすか、それを見失うか棄ててしまう物語であるからに他ならない。

人間が不合理で、人の真実とは謎めいて把握不能であること、人生が決してある目標に向かう一本道なぞではないことを、ジャック・ドゥミは否定も肯定もしないし、それでも人間が自分の真実を求める生きものであること、自己探求と自己革新、あるいはそれが不可能になった悔恨こそが、ドゥミの全作品に一貫した主題性だ。

ある意味ジャック・ドゥミの映画とは、究極の「自分探し」映画なのだ。

『モデル・ショップ』ジョージとグロリア
『モデル・ショップ』でジョージと同棲しているグロリア(アレクサンドラ・ヘイ)は、『都会のひと部屋』のヴィオレット(フランソワーズ・ギュイヨン)に当る人物(ちなみにドゥミは当時、すでに『都会のひと部屋』の脚本を仕上げ、親友の美術監督ベルナール・エヴァンがデザインの構想を練りはじめていた)だが、どちらの女も合理的で道徳的な動機判断で観客の共感を呼び、普通なら主人公と結ばれることも期待されるはずなのに、ドゥミの映画ではそうはならないし、かと言って彼女達の堅実で現実的な合理性が、たとえば打算や野心であるかのように、否定的に扱われるわけでもない。

『都会のひと部屋』ヴィオレットとフランソワ

グロリアは、自分がCMのオーディションを受けた大広告代理店の社長の甥にあたるジェリーとの再出発を決め、ジョージから去って行く。

だがそれは金や、女優としての出世の足がかりになびいたから、とは言い難い。グロリアはただ自分の不安についてジョージと違い正直であろうとする、その不安を乗り越えて行くためには、ジョージと訣別するしかない。そのためにジェリーを利用することだけが彼女の打算であり、ジョージもグロリアがジェリーでなく自分を愛している、だからこそ去って行くのだと分かっている。

『都会のひと部屋』で、ヴィオレットはエディットに恋人フランソワを奪われるが、それで彼女が敗北するわけではないし、だからと言ってエディットが悪女であるわけでもなく、そのフランソワへの愛が真実であることにも疑問の余地もない。 
むしろドゥミのもっとも突き詰めた、もっとも純粋にドゥミー的な映画にして最高傑作である『都会のひと部屋』では、悲劇と死ですらその人物が自分の真実を追及することの必然として起こる。死はエディットとフランソワにとって自己の完成、究極の自己実現であり、ヴィオレットの真実であり自己実現とは「私は彼の子どもを産んで育てるわ。これであなたとおあいこよ」なのだ。 

『都会のひと部屋』エディットと母の女男爵 
ジャック・ドゥミは真のロマンチスト映画作家だ。それは20世紀以降の通俗的な意味でのロマンチックとは無縁の、19世紀的な、本来の意味でのロマンチシズムを、優れて20世紀的な表現である映画においてこそ追及しようとしたことにおいてである。

『モデル・ショップ』で再び会いに来たジョージと一夜を共にするセシルが、『ローラ』以降今までの自分を語ることで、『ローラ』のハッピーエンドに見えたもので示された夢が文字通り否定されるのは、ミシェルが金の亡者のギャンブル狂(『ローラ』の次作『天使の入江』との関連がここで明白になる)でセシルがアメリカでまったく幸福でなかったこと以上に、渡米してフランキーに連絡をとろうとしたら、彼がヴェトナムで戦死したと両親に告げられたことの方が、重要なのかも知れない。

  ジャック・ドゥミ『天使の入江』

運命は常に、思わぬ偶然や気づかなかった必然を装って、人間を翻弄する。先のことなど分かりはしない運命のなかで、ドゥミの主人公達はあるいは自分の真実を再発見し、あるいはその真実に気づきながら達成することを諦めてしまった、その後悔に囚われ続けている。

たとえばドゥミが描く母親達は、『ローラ』の少女セシルの母(エリナ・ラブールデット)、『シェルブールの雨傘』の母(アンヌ・ヴェルノン)、『ロシュフォールの恋人たち』と『都会のひと部屋』の母(ダニエル・ダリュー)、そして『想い出のマルセイユ』の母(フランソワーズ・ファビアン)と、しばしば母と娘の関係においてさえ、「女」であることを止めない。女としての自分の人生を自分が納得できるように生きて来れなかった彼女達は、『シェルブールの雨傘』の母のように、娘の結婚相手に見初めた男相手に女であることを発散し、色目さえ使ってしまう。 
唯一の例外が『都会のひと部屋』のヴィオレットの母(アンナ・ゲイロール)かも知れない。自分が結婚したら寂しくないか、と訊ねる娘に、母は「あなたは自分の人生を生きるのよ。私はもう十分に生きたから」と微笑む。

『モデル・ショップ』においてその運命の正体が全編に暗示され支配しながら、一度も映画の表面には現れることがないのは、ロサンゼルスの街が一見、そのヴェトナムでの戦争とは無縁のように日々の存在を生きているからだ。ヴェトナム戦争と、その戦争の泥沼に自ら足を踏み入れてしまったアメリカの没落。フランキーのヴェトナムの戦場での戦死は、アメリカの夢の純粋さの死でもある。

この意味で1968年に撮影され翌年公開された『モデル・ショップ』は、フランス人監督の作品でありながら、最初のアメリカン・ニューシネマ、その先駆だったとも言える。ドゥミがここに映し出したアメリカの喪失と残された空虚こそが、その後『スター・ウォーズ』という究極の逃避の登場まで、アメリカ映画に取り憑きそこを支配する主題となる。 
皮肉なことにドゥミ自身がジョージ役に切望したのは、後にその『スター・ウォーズ』のハン・ソロ役で大スターとなる、当時はまったく無名のハリソン・フォードだった。

  ハリソン・フォードのテストフィルム


セシルの人生の二つの幻滅、あるいは『ローラ』で語られた夢の崩壊は、それを語るセシルにとって以上に、それを聴くジョージにとって重要な意味を持つ。このようにドゥミの映画では、人間が偶然の見えない絆によって実はつながっていることが、常に重要な物語構成要素となる。

ジョージもまた、ロラン・カサールがそうであったように、漠然とした夢を持つが故に社会から遊離した青年だが、その現実社会に対する無気力・無関心はカサール以上に醒めて明晰でありながら、実際の生活においてはカサール以上に現実離れして危機的でもある(風変わりなクラッシック・カーに乗り、そのローンの返済に追われて無職無収入なのに、金銭感覚がない)上に、彼は彼で、これから戦争に行かなければならない。死がちらつき、将来が見えないことが、ジョージが無気力で刹那的である大きな理由でもある。


『モデル・ショップ』を語ることの難しさのひとつは、これが「まったくなにも起きない映画」であることもある。

「どんな映画か」と訊ねられればつい「『ローラ』の続編」と言ってしまい、それこそ「どんなストーリーか」を答えようがない。

この「なにも起こらない」点でも『モデル・ショップ』はその直後に始まるアメリカン・ニューシネマの先駆になっているし、当のアメリカ人が作ったアメリカン・ニューシネマ以上にアメリカン・ニューシネマ的な映画だ。

カサール以上に現実から逃避するがゆえに(ヴェトナム戦争があるからには、より深刻に逃避したくなる理由がある)夢見がちなジョージは、自らなにかをやるわけでもなく、一貫した動機というものを見せず、その動機から合理的に推測できる行動も一切とらない。

車のローンを払うための資金調達という動機が一応冒頭に設定されるが、その金100ドルの工面が彼のこの24時間のドラマにおける彼の行動の一貫した動機であったはずなのにも関わらず、払う気があるのかどうかも曖昧なまま(古典悲劇の三一致の法則がこの点で覆えされる)映画は進行し、ジョージ自身が自分に払う気などなかったことを自覚するのは、セシルと二度目に会ってからだ。

既に脚本は出来上がっていたドゥミの夢の企画『都会のひと部屋』は48時間の物語だ。この古典悲劇の三一致の法則を意識した構成は『モデル・ショップ』にも反映され、映画はきっかり24時間で展開する。 
空間の一致については、それぞれナントと、ロサンゼルス、ハリウッドのサンセット大通り界隈で展開すると同時に、自動車であてどもなく町を彷徨う、そのこと自体が『モデル・ショップ』の劇的空間を既定してもいる。そしてジョージとグロリアの家から始まった映画=ジョージの24時間の旅は、同じ家に戻る円環構造で終わる。
一方で『都会のひと部屋』が三一致の法則のもうひとつ、動機の一致についても極めて明晰で、故に壮大な悲劇でしかあり得ないのに対し、『モデル・ショップ』ではジョージについてそれは極めて曖昧でしかあり得ない。故にこの映画は、物語映画たり得ないフィクション、悲劇に到達し得ない物語であることを、ドゥミは強く意識していたに違いない。

『都会のひと部屋』エディットとフランソワの出会い


そのジョージにあるのは(そしてこの映画のもっとも中心的な主題は)一貫した「動機」や明確な通貫行動ではなく、自分がこのアメリカという世界に適合しないのではないかという漠然とした不安と、その国が今ヴェトナムで戦争をしていて、自分もいつ徴兵され死ぬか分からない漠然とした恐怖だ。

どうせ自分の人生に先はないのだから、という漠然とした諦めは、徴兵通知が届いたと知らされることで現実になる。この徴兵通知が、いわばこの映画のなかで唯一なにか具体的に彼に起こることなのだが、それが電話越しで伝えられるだけなのだから、「なにも起こらない、物語的に空虚だからこそ映画性に充満した映画にする」ことにおいて、ドゥミは徹底している。


意外かも知れないが、ドゥミは『モデル・ショップ』のために滞在したロサンゼルスという街がとても好きで、自分の愛着をそのままジョージの台詞で語らせている。



だだっ広い道路で高い建物があまりない、平板に広がるサンセット大通りあたりの街並や、ジョージと同棲相手のグロリアが住む郊外の、油井がある風景と平屋建ての家など、いずれも丹念に、詩情さたたえて撮影されている。


LAがこれほど美しく撮られた映画、その空気感が捉えられた映画は、この都市こそがアメリカ映画の本拠であるはずにも関わらず、めったにない。

だがそのLAの美とはある殺風景さの詩情、矛盾した美でもある。

ジャック・ドゥミ『ロサンゼルスにて』1984年
だいたい「ハリウッド」という地名が世界中に向けて放っているオーラと現実のほとんどなにもないハリウッドの落差からして、ロサンゼルスというのはイメージとリアルの矛盾があまりに激しい街だ。


郊外の、ジョージ達の住む家では、ひっきりなしに飛行機の爆音がシーンに介入し、それはドゥミ映画において欠かせない旅への憧れの主題性(彼の映画のほとんどが港町で展開し、汽笛の音が重要な聴覚的モチーフになっている)、「ここから出て行きたい/出て行かねばならない」衝動だけでなく、北爆が始まっていたヴェトナム戦争も暗示する。



飛行機の爆音と、カーラジオから流れるバッハやシューマン、リムスキー・コルサコフのクラッシック音楽が、この映画の音環境を決定している。ジャック・ドゥミでなければ、ロサンゼルスを音的にこう表現することなど思いも寄らなかったろうし、ロサンゼルスの殺風景な、漠然とした空虚さを美しいものとして撮るのも、ドゥミならではだ。


それは外国人がLAに抱きがちなイメージだけでなく、アメリカ人自身が思い込んでいるLAのイメージにもまったく反した、異邦人で詩人の映画作家ドゥミだからこそ見い出した真のこの都市の姿でもある。

ロサンゼルスとはその実空虚で漠然とした、なにもない、なにも起こらない街なのだ。



その空っぽの美にこそドゥミは詩情を見いだし、そこに映画的な充実を探り当てた。

ちょうどジョージが最初にセシルと過ごした15分間に撮った写真が、なんのポーズも彼女に要求しなかったが故に、『ローラ』から8年後のこの女の真実に満ちあふれて美しい空虚であったように。


アメリカ現代史の1968年の時点で、この殺風景な空虚さとは喪失の風景でもあり、そこでなにが失われているかといえば、建築家を目指していたジョージが建築事務所を辞めている、同じく建築を学んだ同級生がたまたまロックバンドを始めて成功しているが、その成功にまるでこだわっているとは見えないことに象徴され、ジョージと父や兄との葛藤で決定的に示される、アメリカン・ドリームの喪失、アメリカの存在理由そのものの自壊だ。

『ローラ』と『シェルブールの雨傘』が密やかに戦後フランスのある喪失を映し出している(たとえば革命によって成立した自由と民主主義の国家という理想は、この二本の映画においてまったく現実ではない)以上に明晰に、『モデル・ショップ』はアメリカがアメリカの本来を喪失し、アメリカ映画がアメリカ映画ではあり得なくなった空虚な風景をこそ、映す映画なのだ。


 『モデル・ショップ』エンディング

『ローラ』において夢の憧れを表象していたのが「アメリカ」だったのが、実際のアメリカ、8年後のロサンゼルスの『モデル・ショップ』においては、その夢を持つこと自体が不可能になっている。 
この点においても『モデル・ショップ』は確かに『ローラ』の変奏であり、その負の現実の合わせ鏡となっており、『モデル・ショップ』の存在が『ローラ』の本質を映し出し、照らし出し、『ローラ』がどういう映画であったのかが『モデル・ショップ』を見ることで明確にもなるのだ。 
すべての作品が繋がっている、しばしば後の映画によって以前の映画の本質が明瞭になるのは、ドゥミという映画作家の際立った特徴だろう。


その喪失の風景の空虚さを前に、すべてを失い、これから死にに行くことになるかも知れないジョージは、電話に向かって繰り返す。

「人はいつだって前向きに生きるよう試すことはできるんだ People can always try, you know.」

それはジャック・ドゥミがヴェトナム戦争中のアメリカの、失われた夢の大地に投げかけた最後の希望なのだろうか? それとも世界の空虚さを知ってしまった諦めの中で、自分に言い聞かせるだけの呪文のような言葉に過ぎないのだろうか?



展覧会「ジャック・ドゥミ 映画/音楽の魅惑」国立近代美術館フィルムセンターで開催中 http://www.momat.go.jp/FC/demy/index.html
特集上映「ジャック・ドゥミ 映画の夢」アンスティチュ・フランセ全国支部に巡回予定  http://www.institutfrancais.jp/tokyo/events-manager/cinema1409130926/
ジャック・ドゥミ論、「ベルサイユのばら」を中心に  http://www.france10.tv/international/3578/ 

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