最新作『無人地帯 No Man's Zone』(2012)
〜福島第一原発事故、失われゆく風景、そこに生きて来た人々〜
第62回ベルリン国際映画祭フォーラム部門正式出品作品

4/10/2008

政治部の記者は小沢一郎が嫌い?

本日の党首討論の逆ギレした福田首相はなかなか一見の価値があった。ニュースで抜粋を見ただけなのが残念で、フルバージョンで見てみたいものだ。しかし国会対策、国会運営で「かわいそうなくらい苦労している」って、無駄で無謀なことをやって苦労しているだけでしょうに。

だがその午前中に否決された日銀副総裁人事については、マスコミの論調はなんだかおかしい。鳩山由紀夫の顔を潰してまでの小沢のゴリ押しなのは、そりゃそうなのだが、「政局狙い」? ゴリ押しをしたのは原理原則論でしょう。それも原理原則をゴリ押しせざるを得ない状況を作ったのは、福田サンご本人ではないですか。人物本位なのであれば渡辺さんでも確かに専門知識などで問題はないそうなのだが、「財政と金融の協調」を言ってしまったわけで、官僚支配と行政の腐敗の構造を改革すると主張している小沢民主党がのめるわけがないでしょう。「バランスをとったパッケージ人事」って、「財務省に配慮したバランス」と自ら言っているようなものではないですか。これじゃ天下りという「形式」の問題ではなく、天下りの最大の問題である、天下ることで権限と利権と影響力を省庁が確保する構図そのものではないですか。

なぜか「権力闘争」というレベルでしか論評できないのが政治報道なのだが、国民にとって直接問題なのは権力闘争ではなく「国家のかたち」をどうするのか、という国家論、思想的な対立のはずなのだが、マスコミの政治部が真っ先にそこから逃げているように見えてしまう。というか、政治記者は結局は自民党におんぶにだっこだから、永田町の内輪の「勝った負けた」に過ぎないレベルでしかものごとが見えていないのかも知れない。まあ、なにせ某最大手新聞社の、政治記者あがり(ってことは自民党有力者の番記者あがりの)会長が、政界のフィクサー気取りで「大連立」とか構想しているんだから。彼らにとって小沢の原理原則論は、ほとんど宇宙人の意味不明の言葉のように聞こえているのかも知れない−−官僚組織なしにどうせ政府が維持できるわけがない、という思い込みで。当の小沢サンは「これは革命なんですよ」とすら(えらく分かり易く!)言っているのだが。「革命」が目的であって権力闘争はそのための手段に過ぎないのだが、政治関係の報道関係者には手段のマニュアルしか目に入らないのだろうか?

…というか、小泉時代以来「改革、改革」が流行語のようになっていて、昨年の流行語大賞の「どげんかせんといかん」ってのも要はそのバリエーションなのだが、本当に「変える」気がこの国にあるのだろうか? 政治家や官僚に限った話ではない、我々日本人全体が国を「改革する」、ということは我々自身が我々自身の意識を変えなければいけないはずだ。「どうせなにも変わらないさ」とうそぶくのは、実は変わる勇気がないことのカムフラージュなのかも知れない。というか、とりあえず「改革、改革」が上辺だけなのがバレた時点で「郵政民営化!」だけで自民党を大勝させてしまった国民に、本当に「変える」(あるいは「変わる」)気なんてあったんですか? 少なくとも政治部の皆さんにとって、それは本当はもの凄く困ることなんでしょうね。あと田原総一郎その他の皆さんも。だって今までの権力と癒着した情報入手が通用しなくなるんだし、権力者のお仲間のフリの優越感もなくなっちまうんだから。だから小沢民主党に不利なように,不利なように報道するわけで、ざっとネット上のニュースをブラウズした感じではそもそもの政府のあり方についての考え方の違いをちゃんと報じているのは、外電系のロイターだけだ。

福田さんの自爆戦略の最たるものという感じの首相答弁(って、答えじゃなくて質問が多かった…)なのだが、うがって見れば実は本当にいいたかったのはいちばん最後の「道路特定財源の一般財源化」のことで、「閣議決定だってやっていいですよ」と言うためのパフォーマンスだったのかも知れない。さすがに「党議決定」とまでは言えなかったようで、そこまで言わないと本当はいけなかったのだけど(内閣総辞職させてしまえば、閣議決定はなかったことにできる)、感情を露にして小沢を「攻撃」している(と伊吹幹事長は苦笑しながら一応エールを送っていたが)なかで、あっさりと党内で反発がすさまじいはずのことを、国会で約束してしまった、というかしまえたのだから。「ねじれ国会で民主党のせいでなんにも話が進まない!」という悲鳴は、実は「だから自民党が妥協しなければいけないんですよ」と党内を裏で説得するために言っているようにも聞こえる。これでとりあえず、閣議決定をやらなければ問責決議→総辞職か解散という流れを、福田自身がヒステリー(のフリ?)の流れでまんまと明言・確約してしまったのだ。伊吹サンの苦笑がこわばっていたのは、もしかして彼も気がついたからかも知れませんね。これで彼が幹事長の座に留まっていたいなら、道路特定財源の一般財源化の議論を党内で進めなければいけないことを。

で、「自民党対民主党」は権力闘争だし、政界再選含みなどいろいろあるのかも知れないし、政治的に現実を変えるには確かに権力闘争は必要不可欠だ。だがそれは手段であって目的ではない。政権交代がとりあえずいちばん分かり易い変え方だから政権奪取の闘争にはなるのだが、福田サンの真意が上記に近いものだとすると、話はもっと複雑になる。いずれにせよ本当に重要なのは、小沢の言うところの官僚支配と行政の腐敗の構造の巨大財源のひとつである道路特定財源をなくすかどうかが、「国家のしくみ」の実態を変える上でけっこう本質的な一歩になりうることだ。で、「官僚支配と行政の腐敗の構造」はとりあえず変えないと本当にマズいわけで、ただしそれは自分で判断も思考もせずに官僚的システムの自動運動を忠実にやってればいい、マニュアルと先例がすべて指示してくれて、というこの国の社会のなかでの我々の生き方自体を変えることでもある。それはおっかないことにも思えるが、一方でこの社会の全体を覆う不自由さを打破することにもなる。

もっとも、現実に対しても自分自身についても盲目になって、不自由さを不自由さと自覚せずにいれば平穏に生きられると思い込んでいれば、自由くらい恐ろしいものはないのかも知れない、というわけでエーリッヒ・フロムに行き着いてしまうわけですが…。

4/09/2008

「こうなることは十分に予想できていたはずだ」

あるいは「なぜそんなことするのか、なにを考えているのか分からない」日記、なんだかこのブログはしばらく、このどっちかに改名した方がよさそうな雰囲気になって来た。なんだかいかにもエラソーで恐縮で、好きな言葉ではないのだが、でも素人目に見てもそうとしか思えないことが多過ぎるでしょう、最近。

今日は日本政府のことでなく(って日銀副総裁人事はやっぱり民主党が蹴っちゃうようで、なんで蹴られるようなことを言っちゃうのか福田さんもなにを考えているのか分からない、というのは昨日書いた通り)、我が隣国中国のことである。胡錦擣政権もほんと、なにを考えているのか分からない。自国の立場を悪い方、悪い方へ、北京五輪が成功しないように骨を折っているようにしか見えないのだ。

日本ではまだなにが原因なのかよく分からない、パリやロンドンもヒステリックだ、欧米の人権外交はアジア人への人種差別じゃないか、と思っている人も多いようで、聖火リレーが予定されている長野も「けしからん」みたいな反応のようだ。「意見があるのは分かるが、オリンピックは平和の祭典だから、ぶちこわすのはよくない」みたいな。だが旧東欧圏が真っ先に国家代表の開会式欠席を表明したのや、英国の性格の悪いので有名な皇太子はまだおなじみの反共で中国が嫌いみたいな匂いはあるものの、イギリス全体でもフランスでもアメリカでも、むしろ国内の、それもどっちかと言えば左翼やリベラル派の突き上げが激しく、政府としてはそれを無視するわけにもいかない、というニュアンスが大きい。北京大学での講演で首相が批判的な演説をしたオーストラリアは左派政権だし、フランスは右派政権が中国政府に批判的な見解を出しているが、あれぐらい言わないと政権がますます不人気になるからだし、もっともおおっぴらに運動しているのは社会党で人権派、同性愛をカミングアウトしてバリバリのリベラル派であるパリ市長だ。もっとも、こうなるとフランスとイギリスでどっちが人権をより重視しているのかの競争みたいにも見えて来たが。

日本では歴史教科書と靖国の恨み(?)で中国が嫌いな自民党極右反中国派とか、それこそ小林よしのり辺りしかとりあげないのが常のチベット問題(江戸の仇を長崎で討つみたいな話が、マッチョ保守の方々はお好きなようで)だが、ここへ来て大手のなかではどっちかというとリベラル、左派である朝日・毎日、テレ朝、TBSのうち、とくに毎日/TBS系がかなり明確にチベット支持、中国批判を打ち出して来ている。ことなかれ主義NHKですら無視できず、中国より報道も控えめになりつつある。それでも「北京市民の怒りの声」をわざわざ報道するのは、おべっか使っているようにしか思えないのだけど。朝日だって以前に較べれば少しは進歩しているのだけど、しかしやはり解説委員などに中華人民共和国への幻想というか無自覚な服従から逃れられない人も多いようで…。

日本でこの問題が無視されて来たのには理由がある。まず政府が「靖国その他」の中国との衝突材料を抱えているなかで、これを持ち出して本格的な論争になるのを恐れることなかれ主義。経済界にしても日中関係を悪化させると商売に響くので、中国が確実にヒステリックに猛反発するこの問題は、いわば鬼門みたいなものだ。もうひとつは、最近はかなり改善されているにせよ、大手マスコミの多くが北京支局を閉鎖させられることを恐れていたから、というわけで要は事なかれ主義なわけだが。ダライ・ラマ14世はじつは仏教団体などの招きでけっこう来日しているのだが、彼の来日がニュースになったり、ニュースでなくても電波にのったのは3回に1回くらいがせいぜいという感じだ。それこそ90年代半ば、ということはダライ・ラマがノーベル平和賞を受賞した後になるはずだが、その来日の際にはワイドショーのレポーターがオウムの麻原の写真を突きつけて「この男を知ってますか?」と詰問していたりで、ダライ・ラマ14世が先進国の知識人から尊敬されているほとんど唯一の宗教指導者であること(たいがい欧米の知識人は無神論だから宗教指導者には否定的)なんて、ほとんど知られていないわけだ。

さすがにこの3月からのチベットへの弾圧と、チベット人の暴動は、今までのことなかれ主義で見て見ぬ振りでは済まなくなって来ているようだが、それでも聖火リレーのことばかり報道されると、なぜここまで反発があるのかは今ひとつ伝わっていないのかも知れない。だが「平和の祭典を妨害するとはけしからん」という人には、人命と人種差別と一民族の存亡と、聖火リレーという形式の、どっちが「平和」にとって大事なのか考えて頂きたい。他民族を押さえつけてその文化を奪い、人々を踏みつけにし、その民族宗教の最高指導者どころか活き仏様を誹謗中傷するだけでなく、僧侶にその誹謗中傷文書を「愛国教育」として暗唱するよう強制することのどこが「平和」で「調和」なのか。建前上は信教の自由を尊重すると表明しつつ、「国家への反逆者」であるダライ・ラマの肖像や写真は飾ってはいけないって、ダライ・ラマは教義上、ただの指導者ではなく、観音菩薩の転生なのだから、これじゃ江戸時代の踏み絵みたいなものだ。

1951年に始まった中華人民共和国のチベット進駐、というかはっきり言って占領は、一説には死者100万人の死者を超えるとまで言われる(駐日ダライ・ラマ法王代表部の出している数字は累計120万)。正確な数字は、なにしろ死者数を把握して公的な記録を作っているのが弾圧をしている側なのだから分からないが。世界で最も高い位置を走る鉄道として話題になったラサへの鉄道の開通とともに、「チベットのよりよい経済発展」と称して、漢民族の移民を政府は奨励している。結果として、ラサの人口35万のうち、25万人が今や漢民族、毛沢東時代に人民解放軍は「チベット少数民族の要請で」チベットに進駐したのだが、今やチベット人は首都では本当にチベット“少数民族”になってしまった。数の上だけではない。チベット人は実態としては強制で、自分たちの土地を「売り」(国が地上げ屋をやってるようなもんだ)、一等地は政府の施設になったり漢民族の会社や商店になり、鉄道の開通で重要な産業となった観光でも、利潤はおもに漢民族に流れる。どうも相当に埋蔵量があるらしい地下資源についても、大規模な開発が計画されているらしく、ダライ・ラマが自然破壊を懸念する声明を出している。中国政府が世界遺産に申請して観光資源として有効活用中のポタラ宮は、あれはダライ・ラマの住居ですよ、元をただせば。

1951年の人民解放軍の進駐当初は第二次大戦の数年後でどこの大国からも無視されて承認もされず、いったんは中国政府との協調を目指しながら(一時は全人代にも出席している)もそれが叶わず、命まで狙われてダライ・ラマは1959年にインドに亡命。それから30年近く地道に非暴力主義と平和主義でチベットの独立…ではなくあくまで本格的な自治を訴え続け、80年代の末にやっとノーベル平和賞などで国際的な認知が高まったわけで(それと前後して、ラサで大規模な弾圧と暴動があった)、90年代からは先述の通り仏教団体の招聘で来日も何度かしているのだが、これが欧米だと来訪すればちゃんとニュースになり、さてその国の首脳が会うのか会わないのかが焦点になるという状況が20年くらい続いている。つまりみんな知っているし、良心的な活動家やジャーナリスト、芸術家ほど注目している。それにだいたいの状況を知っていれば、やはりこりゃひどいと思う。日本では10数年前には「諸君」とかにしか書いてないことだったとしても。

チベット問題は国際的に十分に認知されているというのに、3月10日のラサ動乱記念日に僧侶がデモを起こしたことになぜ発砲するのか、理解に苦しむ。ちなみにラサの暴動が報道されたのは3月14日で、中国側は報道官制をちゃんとしいたつもりで「ダライ集団の陰謀に扇動された一部暴徒が」と毎度おなじみの、今や誰も真面目に信じないコメントと共に、チベット人の漢民族商店襲撃などのみの映像を流したのだが、3月10日にデモがあったりするであろうこと専門家や事情通であればだいたい思いつくことであり、なのに14日に暴動が起ったということだけが報道されれば、その4日間になにがあったのか、中国政府はなにを隠しているのかは、だいたい想像がついてしまう。

それに鉄道開通で観光産業に大幅に力を入れていれば、今時の観光客が世界最高峰レベルの山々の美しい風光明媚なチベットと、ポタラ宮を初めとする歴史的建造物、日本だとNHKの『シルクロード』ですっかり有名になった五体倒地やマニ車などの敬虔なチベット仏教徒の祈りを見に来るのに、キャメラを持っていないわけがないでしょう。いまや携帯電話でも写真や映像がとれる時代なのだから。なのに観光客に口止めして外国人ジャーナリストを制限すれば大丈夫だろうと言わんばかりに、当局側が発砲したことを否定し続け、出国した観光客の撮ったビデオでそれが暴露されてしまう。しょうがないから外国人ジャーナリストを入れながら、「危険だから」と当局側が随行した(というか監視した)ツアー取材のみ。あげくの果てにそれでも命を賭して真相を訴える僧侶を撮影されてしまえば、余計な隠しごとをしようとすればするほど、中国側がいかにひどいことをやったのかという印象は世界に広まる。それを「分離派」だの「ダライ集団の陰謀」と必死に報道したって、かえって逆効果にしかならない。

一方でダライ・ラマ側は、意図的かどうかはともかく、というか意図するまでもなく、最良のメディア戦略を実行できる−−つまり、正直であること。実際、ダライ・ラマが暴動を扇動するなんてそもそも現実的に不可能なんだし、ダライ・ラマ自身が非暴力主義を貫いているんだからそんなことしたら損するだけだし、現にチベット人にも自制を呼びかけているし、しかもダライ・ラマがその信条を貫けば貫くほど世界中で尊敬を集めていくのだから(で、今回の騒動に対する対処でますます好印象アップなのだから)、中国側にその意味では勝ち目はない。とっとと方針転換する意外に逃げるところはないというのが、どう考えたっていちばん安全で確実に北京オリンピックを成功させる手段だろうに。

それどころかもっと恐ろしい自滅のシナリオが待っている。チベット問題はダライ・ラマの人徳もあって注目を集めているが、中国は他にも少数民族問題を多々抱えている。9/11以来、チベット以上に気を遣わざるを得ないのが、人口的にははるかに多い回族やウイグル人、つまりイスラム教徒だ。ロンドンとパリに較べていわゆる西側や日本ではあまり報道はされていないが、その前のトルコでも聖火リレーに相当な抗議があった。それをわざわざ、聖火をエベレストを超えさせてラサを通した後、少数民族自治区も軒並み通過させながら、第二次大戦中と国共内戦中の八路軍の「聖地」をくまなく廻るという露骨な国家主義丸出しの聖火リレーで起こりうる反発は、パリやロンドンの比ではない。それを強権的に押さえ込みながらなおかつ世界に向けて誇らしく国威発揚の写真や映像を流し続けることが、本当にできると思っているのだろうか? それがどれだけ危険なことか、気がついているのだろうか? オリンピックを強行することで中国がバラバラになる危険すらはらんでいることに、なぜ気がつかないのだろう?

チベット仏教でダライ・ラマと並ぶ最高位の活仏のパンチェン・ラマは、指名権(というか、阿弥陀様の化身として転生した子どもを見抜く霊力とかそういうことなんでしょうね)を持つダライ・ラマ(こちらは観音様の化身)の見いだした生まれ変わりの少年が誘拐され、中国政府が指名した(って、なんで無神論共産党が活仏の転生を指名できるのかさっぱり分からない)少年が代わりに立てられ、本来の転生した少年の生死もすでに10年近く分からないままだ。そういうことまでやられても、ダライ・ラマとダラムサラの亡命政府はあくまで「独立」ではなく、中国の一部としてのより完全な自治を求めているだけだ。宗教指導者なのにリアリストでもあるダライ・ラマは、チベットの経済も中国との密接な関係なしには成り立たないし、独立して対立したらもっと大変なことになるのを危惧しているし、非暴力主義の観点からチベット自身が軍事力を持つことに否定的だからでもあるが、中国側からすれば落としどころの妥協点を準備してくれていることにもなるのに気がつかないのだろうか? これだけ痛めつけてもなお中国側への配慮さえ口にし、一定の正当性させ認め、理解を示すダライ・ラマの立派な態度は、立派すぎてますます腹が立つのかも知れないが、そんな見栄や感情であんな巨大で複雑な国家、統治なんてできないでしょうに。うわべだけ「平和と調和」といいながら力の誇示で世界の盟主を気取ろうにも、現代の世界はそういう時代を超えようとする努力が必要とされる時代だ。

今やダライ・ラマが自制と非暴力をチベット人側に呼びかけても、チベット自治区の外でのチベット人居住区をめぐる暴力的衝突は後を絶たない。元々制度上は実権をすでに手放しているダライ・ラマも、引退をほのめかしている。問題を平和裏に、極端な衝突なしに納めるには、ダライ・ラマと協力するしかいないのだが、それも時間の問題なのだ。中国側がほとんどオートマチックに、伝統的(?)に敵視している彼は、リアリスティックに考えれば中国側にとっても手のつけられないような大規模な反乱や独立戦争を防ぐ最後の切り札にもなっていることに早く気がつかないと、大変なことになる。今ならまだ、ダライ・ラマがいるうちに亡命政府との交渉を始めれば、どんなに不満でもチベットの民衆もその精神的指導力に納得して従う可能性は高い。北京政府は次のダライ・ラマを自分たちで指名すればチベット民族を押さえられると思っているようだが、逆に反発を呼ぶだけだ。現ダライ・ラマが尊敬を集めているのはもはやその教義上の格式だけでなく、本人の個性と人柄によるところが大きい。それ故に彼の訴える非暴力主義がチベット人にも説得力を持って来たのだが、今回の暴動などを見るとそれも限界に近い。今のダライ・ラマの人徳がなければ、より急進的な独立派、50年以上抑圧されて来たことの恨みと怒りの暴発を押さえられるのか?

オリンピックの前に、聖火をラサに通す前にそれを始めなければ、中華人民共和国の各地で民族暴動が勃発することすら想定しなければならないかも知れないし、そうなればチベットの怒りだってダライ・ラマの呼びかけでも抑えきれないだろうし、ことイスラム教徒の少数民族問題では、中近東で勃興するイスラミズムの浸透も懸念される。聖火リレーは文字通り松明を火薬庫に放り込むようなことになりかねないのだ。で、力で押さえきれると思うのは、考えが甘い。

そうでなくったって中国人の警護隊が聖火ランナーを囲み、自分の手で聖火を消している画が世界のテレビに流れるのは、青いジャージにグラサンのいかにも諜報部隊かSPみたいな警護隊の雰囲気とあいまって、まことに失笑モンであると同時におっかない。見た目だけでも極めて印象が悪く、「なにが平和と調和だ」と馬脚を世界のメディアに晒している上に、ゴリ押しに他国(あるいは実施場所の自治体)の警察権を侵害していることにもなりかねない。五輪組織委員会や政府発表もいかにも官僚的、というか軍隊的なキツさで、自分たちがどう見られるのかということにまったく無頓着な、こんなこと自分たちで企画しておいて、「平和と調和」ですから。結局市庁舎には到達しないで、パリ市長は皮肉な表情を浮かべていた。

とりあえず明日にはダライ・ラマが飛行機の乗り継ぎで成田に立ち寄るそうである。さて日本政府は戦々恐々としている模様だが…。そうそう、長野の聖火リレーは善光寺さんから始まるそうで、あそこは密教じゃなかったと思うけれど、仏教なんだし少しはなにか言ってもよさそうなものではある。

4/08/2008

「事実」とは何か〜再び靖国問題

承前。ニュース23で実際に映画『靖国』の上映予定館に街宣をかけた右翼がインタビューを受けていた。実際に街宣があったこと自体けっこう驚きなのだが、ちょっと笑っちゃったのが活動歴4年の21歳の青年、というよりはっきり言えば「坊や」だったこと。TBSのディレクターに(かなり親心のある人なんだろうと想像)詰問という形式の噛んで含めるようなお説教に、上映禁止になって映画が見られなくなってしまったのは残念で、見もしないで抗議したのは間違っていたと素直に認めていたのは、意外に思った人も多いだろう。まあソクーロフの『太陽』のときもそうだったのだが、映画業界の側でも「右翼」に過剰反応してしまう傾向はやはりある。一生懸命「週刊誌など」と情報を得たソースを挙げていたが、たぶんネットなんだろうなぁ。2ちゃんなどでこの件に関する議論はまったく見てないが、そこで「反日映画」とか書かれていたのを見てしまって、やらなきゃいけないと思ったのかも知れない。いやまったく映像というのはおもしろいもので、どんなに編集しても、彼が自分の誤りを素直に認めるプロセスはやはり写っているし、そこからこの若者についてもいろんなことが見えて来る。

まあしかし、こんな素直でかわいくさえある無邪気な男の子を扇動しちゃった稲田朋美の責任は重大ですよ。彼の若さなら若気の至り、むしろ可愛くさえ見えることでも、あんたのようなブスなおばさんがやれば子どもじみて無責任でみっともないだけです。だいたいこういう反応が起ることくらい予測できないでどうやって権謀術数の自民党のなかで議員をやってられるのかもよう分からん…。もっとも、自民党全体がまた日銀総裁人事の再々提案でも、よくこんな無邪気なことやるわ、という動きをしているのだが。なんたって「財政と金融の分離」を掲げる民主党に、福田さんはあろうことか「財政と金融の協調」を理由に財務官の渡辺さんをねじ込もうとしているのだから。それならば「財政と金融」が協調すべきか、ある程度の分離を確保すべきかで、本格的に国会で党首討論でもしなければ筋が通らないし、そうなるとかなり議論に時間をかけるべきが、なにしろG8出席のために早く決めなきゃいけない、という話なんだから。

閑話休題。21歳の若者の言葉で気になったのが、「南京大虐殺」の写真が出て来るから、事実かどうかも分からないことが入っているのはドキュメンタリーなんかじゃない、という理屈だ。番組の後半で『靖国』の監督の李さんと、森達也さんが呼ばれて議論していたのだが、李さんはともかく森さんがこの問題に突っ込まなかったのはよく分からない。稲田議員の行動がまじめに議論する必要もないほどくだらないと断言するのだから、もっと議論する必要があるテーマを提示したっていいじゃないですか。以前に国会議員試写が報じられたときにも森さんが取材されていて、「ドキュメンタリーは主観なんだから」と言っていたが(それはそれで、そんなに単純なことだけじゃ済まないはずだ、とは言いたくなったけど)、我々の言論や表現の自由は、いわゆる「右翼の弾圧」とは別のもっと深刻で深淵なものに脅かされてるんだし。それはなにかといえば、「事実」と称するものへの社会の無自覚な幻想、単一の「事実」が存在するのだという思い込みだ。

くだんの右翼の男の子の発言には、実は二つのレベルで「事実」の認識を巡る重大な問題が含まれている。ひとつは当然ながら、南京大虐殺があったのかどうかということ。常識論で言えばあのような事件を実際に「ねつ造」なんてできるわけもなく、どういう事情で起ったかなどについては資料が少な過ぎるので憶測の範疇を超えようがないにせよ、とりあえずあったと考えるのが妥当だ。確かに公的記録とされるものはほとんど残っていない…って公的記録を記している側にとって都合の悪いことはなかったことにするのが当たり前であって、中国だって今回のチベット争乱で、観光客などの撮った映像が流出するまでは兵士によるチベット市民への発砲はなかったと主張し、チベット人市民の死傷者の報道について「ダライ集団の陰謀」とか、要するにねつ造を主張していたわけだし、北京の走狗でしかないチベット自治区政府が公的記録を司っている以上、「公的記録」は今回の一連の弾圧にしても、過去における虐殺や弾圧にしても、まず隠蔽され記録には残されない。別に北京政府に限った話でなく、公権力とはたいがいにおいてそういう残酷さを持ち、捏造も隠蔽もしてしまうものなのだ。旧日本軍だってまさか国際法違反に問われて大変にことになる事件の証拠を、わざわざ残しているわけがないでしょう。日本の右派が「ねつ造」と主張するアメリカ人宣教師が撮ったと言われるフィルムや写真は、今回のチベット弾圧で観光客が撮った映像とほぼ同じレベルにあるわけで、写真を含めて「ねつ造」を主張するのは相当に無理がある。それを言い出したら、この世に確定的な「事実」と称されることなんてなくなってしまい、我々は公権力の認定したプロパガンダ以外のリアリティを許されなくなってしまう。

僕自身がとある靖国で年次総会をやっている団体を取材していたとき(このネタはいずれ、「天皇制」ドキュメンタリーで使います)、ちょうど中国の反日暴動が大変になっていたことがあって、毎月の集まりで「中国けしからん」でしばらく戦前・戦中派の男性たちがずいぶんと話し込んでいた。そこでタイミングを見計らって、「でもあちらにしてみれば、やっぱり親御さんや家族が殺されているわけですから、あまり文句も言えませんよね」とボソっと言っただけで、彼らは一瞬黙り込み、話題を変えた。後で個人的に話を聞くと、「詳しいことは分からないけれど、ああいうことがあったとしてもおかしくない。たぶんあったんだろう」というのが、実際に戦場を体験した人の大多数の考えだ。

戦時中の日本軍の虐殺行為について実際に証言する元兵士も最近ではずいぶん出て来たし、これだけ時間がかかったのは罪悪感と恥の意識と家族への迷惑などなどを考えれば、なかなか口にできないことだからだろう。靖国に来ている生き残り兵士のなかにも、証言した元兵士を「勇気があるよね」とぼそっと言うか、ノーコメントがほとんどで、「嘘つきだ」などと批判する人はあったことがない。ちなみにこれはかなり気を遣う、こっちもある種の“勇気”が必要かも知れない質問だと僕は思うのだけど、いざ当事者を前にしたときに当然するような心遣いを、彼らに顔も発言権もないせいか、ほとんど出来ないで来たのが、戦後日本社会の失敗というか過誤だったように思う。その心遣いのなさに裏付けられた「正義」の残酷なレッテル貼りが、靖国神社を今のような形で存続させている口にできない悔しさや恨みを維持させて来てしまっている。現代の靖国というのは、その決して語り尽くせないし口にもできない恨みと哀しみの場なのだ。昭和天皇が参拝出来ていた頃には、まだ無言のうちに「罪」や「責任」を分かち合う癒しがあったはずだ。A級戦犯合祀はその可能性をぶっつぶし、行き場のない鬱屈がときに、部外者には滑稽にしか見えない形で虚しく噴出する。

生き残りの兵士だって自分自身のことだけであれば、元特攻隊員だって「いやあ、今思えばバカなこと考えてましたね」くらいは生きていれば言える。だがその「バカなこと」で実際に死んでしまった死者はどうするのか? 親兄弟の死を「バカなこと」と断じられる遺族はどうするのか? さらに皮肉なことに、彼らはそれが「バカなこと」であると自分たちでは分かっていたフシさえある。少なくとも、ああすることで日本が勝てるとはまったく思っていなかっただろうし、むしろここまでやることになるからには、いよいよ戦争も負けるのかと考え、だからこそ死んでいったようにさえ思える。そうした複雑な、口にされようもない屈折した思いに、ただ「軍国主義」のレッテルを貼ったところで、我々は安心できるだろうが、死者の記憶を背負った人々はますますいき場所を失う。我々は戦争中になにがあったのかの事実はある程度は知ることができるが(というのも実は怪しいのだけれど)、そこにあった人間の「真実」は、実をいえば「分かる」というだけでも傲慢にも思える。

もう一つの議論はもっと哲学的な、ドキュメンタリーの本質に関わることだ。仮に虚構だったとしても(あくまで仮に、ですよ)、その写真が現に今あることは現前たる事実であり、その写真の存在がさまざまな影響を現代に及ぼしていることもまたまぎれもない事実だし、父母や兄弟姉妹、親族を殺された中国人がいるのも事実だし、他ならぬくだんの右翼青年のような発想がまさにその写真の存在を現代においてなお重要なものにしているのも厳然たる事実だ。ドキュメンタリーは根本的に現代/現在を撮るものでしか原理的にあり得ず(キャメラとは、映像とはそういう力しか持っていない装置なのだから)、まともなドキュメンタリー映画であればその文脈のなかでその写真が使われることは、現代の現実、その写真が存在し、大きな意味を持っていると言う事実を示すことである。その写真という事実がキャメラの前にある以上、その写真自体が事実を写しているのかどうかは、映画が「事実」を写しているかどうかを責める理由にはならいし、ドキュメンタリーとはキャメラの前の事実以上の「事実の主張」は本当はやってはいけないし、そもそも出来っこない表現形態なのだ。

たとえ嘘八百を語る人がいてそれを写しても、映画が写しているのは、「事実かどうか」というレベルでは、その嘘つき男がいたという、あるいはその男が嘘をついたという「事実」だけである。もちろん証言が嘘だと分かったらカットするなりなんなりすればいいとはいえ(それはドキュメンタリー映画としてはつまらない姿勢だが)、それを「嘘」と断定するだけの根拠が我々ドキュメンタリー作家に常にあるのかどうかも疑問だ。村上春樹は『アンダーグラウンド』であえて証言の食い違いを残したことについて、「それがその人にとっての真実なのだから」と述べている。文学つまり文字だけという以上に、映画はその人がいたという時間と空間を定着させることができるし、一方で根本的にはそこを超えられないし超えるべきでもない。

ナレーションで文脈をねつ造し(「南京大虐殺はねつ造だ!」という文脈での「ねつ造」とは異なった、より高次のレベル、かつ「事実」の把握と理解のために必然的に我々が行ってしまう「物語化」という「ねつ造」のこと)て、写真というモノの存在を無視して事実関係を整理することでフィクション的に作られる物語のイラストレーションとして使うのなら話は別だが、『靖国』はそういう安直な構造を持った映画ではない。結果的にどこまで成功しているかはともかく(それは公開されてから、ちゃんとこの映画が見られてから、初めて議論されうる話である)、自らの単一の線状的な物語を語る(押し付ける)映画ではなく、むしろさまざまな歴史体験から紡ぎ出されたさなまざまな物語の衝突する場としての靖国を観察しようとする試みであるはずだ。

そもそも私たちはなにを持って「事実である」と認識するのか? ドキュメンタリーとは必然的にその問いを内包せざるをえない表現行為である。村上春樹の言葉を借りれば「その人にとっての真実」以上のものが、究極的には存在し得るのか? その人の記憶する「事実」ですら、それは元の事実において発せられた無数の情報が記憶となる時点で整理され取捨選択されたもの以上ではあり得ない。そもそもその「事実」の全体像を把握すること自体が、人間の知覚のあり方にとってあり得ないことだ。「裁判で事実を明らかにする」という常套句もまた事実の断片からもっとも合理的な推論による物語を構築すること以上のことではあり得ない。刑事裁判では故意かどうか、死者が出ていれば殺意があったかどうかが量刑上の大きな争点になるが、その犯罪の時点で「殺す気」があったかどうかは実は当事者だってほとんど記憶していないだろうし、していたとしてもそれをどのように自覚して理解していたかはかなり混乱しているはずだ。

僕自身は、南京大虐殺を戦略的かつ意図的に中国人を殺そうと日本軍国主義が画策し、という中国で教えているらしい解釈はおそらく違うと思う。というか、少なくともあまり現実的な解釈とは考えられない。同様に、チベットの弾圧にしても、実際に関わっている中国側のほとんどは、明確な悪意を自覚してシステマティックに侵略と弾圧をやっているわけでもないだろうとも思うし、今回の暴動騒ぎでの発砲も、ある意味で現場のもののはずみか、現場指揮官がなにも考えずに、せいぜいが上の顔色を見てやったことだろうとも推測する。問題は個人の悪意よりも、無思慮に作られたシステムがシステムとして、国民の利益も国益も、なにが本当の目的なのかも考えずに暴走し始めることだ。オリンピックを成功させることが目的なのであれば、チベットでの不満が爆発するような事態を作り出してしまったのは愚の骨頂だし、海外メディアが入るのを禁じたり、「ダライ集団の陰謀」を主張するのは逆効果でしかない。だが北京政府が現在存続しているシステムの論理では、その逆効果になるのが分かりきっている行動しか選択肢がそもそも他にないのだ。同様に、南京大虐殺もまた別の戦場の生き残りの老人の言葉を借りれば、まさに「ああいうことがあったとしてもおかしくない」というのが率直なところなのだろうと素直に思うし、虐殺を証言する旧日本兵もそのニュアンスをにじませる。つまり戦争とかの極度の興奮状態では、そういうことは起ってしまうのだ。「意思」としては大東亜共栄圏の理想を本気で信じていたとしても、戦場では理性や冷静さを失うのはものすごく簡単なことだろうし、当時の日本軍の上層部は恐らく、起ったときに恐ろしく慌てて、なんとか隠蔽したのだろうが。

しかし、そうした他者の置かれた立場への想像力はより高度な倫理的責任として我々が考えなければいけないことだとしても、一方ででは他人から見たらどう見えるのかも、人間は考える必要がある。その意味では、チベット側から見れば中国政府がチベットをシステマティックに弾圧してその文化を破壊しようとしているように「見える」はずだし、中国側から見れば南京で日本兵の多くが虐殺を“してしまった”ようには見えず、ほぼ確実に「虐殺をした」ことしか見えないはずだし、その意図を中国人を虐殺する意志的な戦略として考えるのもまたいた仕方がない。エノラ・ゲイの乗組員たちは20万人を瞬時に虐殺することなぞ意図していなかっただろうが、結果として彼らは20万人を瞬時に虐殺したのはまぎれもない事実であり、「殺す意図があった」と“立証”することすら、論理的には可能だ。「意図」などの他者の内面は人間にとってお互いに想像し推測することしかできないし、だから他者に対して我々が行ったことの「意図」もまた他人から見てどう見えるかの問題にしかならない。我々が「事実」として認識しうるのは、その程度のことでしかない。だいたい自分自身がそのときにどのような「意図」を持っていたかですら、その時点で自分で明確に自覚できているはずがないし、後付けの整理された記憶では自分にとってあまりにも都合の悪いことは幾らでも排除できるし、我々はそれこそそんなこと「意図」もせずに、自動的にやってしまう生物だ。

もちろん、一方で人間は、より自覚的になれさえすれば、そういった排除と隠蔽の心理から出来上がる自分にとって都合のいいフィクションではなく、「本当のところ自分はなにをしたのか、それはなぜなのか」を考える叡智も持っているはずだ。しかしそれは一人一人の人間の、それこそ「内面」の問題であり、個々人がその「事実」を体験して以来どれだけ人間的に成長できるのかの問題だ。歴史、というよりは記憶をドキュメンタリーとして撮るとき、私たちが撮っているのはその過去の「事実」ではなく、その「事実(だったかも知れないこと)」がその人にどのように影響し、どのようにその人を変え、願わくばその経験を背負った人間がどれだけ人間的な叡智という得体の知れないものに到達したのか、その歴史と体験と記憶と時間を背負った身体の美しさ、そこからにじみ出る人間的な叡智という得体の知れないものを捉えることこそが、私たちの究極の職業的な責任なのだろう。そしてキャメラ、映像という装置は、それを可能にしてくれるはずだ。

ま、そうとでも考えてないとこんな仕事はできませんわな。国会議員サマと較べてはるかに実入りは少ない商売だしサ。

4/06/2008

『靖国 YASUKUNI』問題って…

商売柄、いろいろ人にも訊かれるので、やっぱり意見を述べなければいけないんだろうけれど、なんだか困ってしまう。そもそも、一応ブログのラベルは「映画」にはしておくが、本当は「政治」ネタにしかならないのだよな。結局、この映画が“問題”になっているのは、ただ中国人の監督が靖国神社を撮ったということだけであり、映画それ自体はちっとも論じられない。今更ながらではあるが、それは映画にとって不幸なことだし、それでも日本のドキュメンタリーで今年一番の話題作になったし、なんだかんだで映画賞もとって「高い評価」に決まるのだろう--映画『靖国』そのものの中身とは、なんの関係もなく。

いやもっと不幸なのかも知れないのは、実物の現代の靖国神社が抱える複雑な、屈折した哀しみもまたまったく無関係に、「靖国」というおなじみの禍々しい記号についてのおなじみの賛否両論が繰り返され、なんら本質的な話には行き着かないのが目に見えていることだ。結局は記号の自動的運動が再発してなんら物事は先に進まず、靖国神社をどうするのかの話もなにも進まず…で、今本当に靖国神社を必要としている人々が(で、いかに国家神道や軍国主義には反対しても、あの場を必要としている人々がいるのは確かであり、それは安易に責められるものでもない)死に絶えるのを待っているのが、この社会の無自覚な集合的意図なのかも知れない。

考えてみたら本質的な議論の契機は何度かあった。たとえば今や道路族のドン、道路特定財源の牙城の最高司令官(?)としてすっかり悪者になってしまった古賀サン@遺族会会長(当時)が、A級戦犯の分祀を提案したことだ。なんだかあの議論はすっかり消えてしまっているのだが、誰も言わないのであえて言えば、僕の知る限りでは靖国を本当に必要としている人々、つまり名もなき兵士たちの遺族と、とりわけ戦争の生き残りの兵士たちにとっては、酒でも入らなければ決して口にできないが、本当に望んでいることそものではないのか。だって国家指導者で戦争指導者たる彼らがあそこまで無能でなければ、戦争にもならなかったろうし、あそこまでボロ負けすることもなく、父や兄や弟や、生死を共にした戦友が殺されることもなかったんだから。いやまあその歴史解釈自体に問題はなきにしもあらずではるのだけど、ならせめて天皇陛下には来て頂きたいのに、昭和天皇は合祀が明らかになってからは一度も靖国に足を運んでいない。よほどのバカでない限り、まともな日本人的感覚がある限り、言外の言として理由は分かるはずだ。それでも分からない、というか分からないフリをする人々のために、わざわざ(たぶん現天皇の意図がどこかで働いているのだろうと推測するが)、側近の日記まで公表されても、結局はうやむやである。そういえば言葉の軽さでは日本一だった当時の総理大臣が「天皇陛下の個人の意見ですから」と、とんでもない発言をしてしまったんでしたっけ? (一方で、真面目な戦中派保守の、戦争がいかに嫌なものか知っている政治家から「大御心」発言が出たのは感心したが)。

以上は僕の止まったままのドキュメンタリー企画『拝啓、天皇陛下様(仮)』の中心的な主題に関わる話なので、閑話休題。しかし、同業者としては当然ながら今回の表現の自由の弾圧に対しては、李さんに与して戦わなければいけないはずなのだが、どうにもやる気がおきないのが正直なところ。少なくとも映画それ自体の評価は、今はやりたくない。映画そのものとして論じようとしても、「ウヨ」か「サヨ」のレッテルを貼られて安易な記号の自動的運動のシステムに組み込まれるだけなのだから。

というのも、どうにも「映画」という複雑で重層的な表現体系とはおよそ無縁の話に終止しているだけで、「日の丸君が代」と同じくらいレベルの低い毎度おなじみの「靖国」論争(にもなってない単なる平行線のわめき合い)に終止するのが目に見えているのだ。ことの発端はまさにパブロフの犬並みの条件反射で「週刊新潮」が反応し、その連鎖反応で「チャンネル桜のマドンナ」稲田朋美が愚にもつかぬことを始め、異例の国会議員のための試写会をやることになったのがニュースになったのは宣伝の上での話題作りの戦略として成功だったと思う。以前は文化庁支援に助けられ、いずれは芸術文化振興基金のお世話になる可能性が高い身としては、これからは助成金の審査が事なかれ主義に走るんじゃないかと思うと、ちょっと迷惑ではあるが。

もちろん稲田議員から文化庁に圧力をかけ文化庁が配給に連絡して、という“あちら”から始まった流れにせよ、戦略を組んでいなかったとしたらあまりにも無邪気(なんたって客寄せ商売ですから、映画は)なのだが、組んでいた割には当然こうなるであろう流れを阻止する悪知恵がなさ過ぎたように見える。李さんが別個に記者クラブで会見したってしょうがないでしょう? それも「日本へのラブレター」なんて言ったところで。

稲田朋美に見せるからには、バーターとして記者会見か、できれば公開討論くらいを条件につけるべきでしょう。そうでもしなければ「大和魂」とはおよそ縁がなく、保守派ぶって道徳だののたまわってるわりには倫理観も責任感も欠如している姑息なバカ右翼議員は逃げるに決まっている。で、やっぱり逃げてますよね。パブリックな発言としては感想もなにも言わず、いまさら「事前検閲と思われるのは心外」とか文書で回答するだけである。ああみっともない。そんなヤツが子どもの道徳教育についてとやかく言うんじゃないやい。反論される危険性のある場所からは女々しくも(女性蔑視で失礼!)逃げまわり、議員の職権で文化庁に圧力をかけているんだからとんだ「愛国者様」、恥さらしにしかならないし、それこそ「靖国の英霊」に顔向けできないじゃん。それでも2ちゃんウヨク辺りを中心に、その恥さらしをアイドル化しているわけだし、街宣右翼だってこういう騒ぎになればなにかしなけりゃ顔が立たないわけで、だったら彼女の主張が無知かつ無知能で見識のかけらもなく、恥ずかしいものであることをパブリックに、本人に対して直接論破でもしないと、ほとんど機械的ですらある騒動の伝播は止めようがないでしょうに。

宣伝戦略での問題は他にもある。横尾忠則風の靖国を茶化したポスターもそうだし、テレビで放映される抜粋は軍人コスプレだったり星条旗をもったアメリカ人との喧嘩だったり、8月15日の喧噪というか狂騒を撮ったものばかりだし、「映画」としては、こう言っては悪いが「こんな撮り方じゃ素人でしょう」ってくらいダメな映像だ。あんなコスプレと一緒にされては傷つく生存者や遺族も多いだろうし、その意味で、決して口にはされない(遺族は嫌でもコスプレ右翼にでも、下品な恥さらし議員にも、気を使って文句は言わない、つまり彼らしか「味方」がいないほど孤立しているわけで)心情的な反発はあるはずだ。

別に傷つけていけないという気はない。映画は、特に現実にキャメラを向けたときには凶暴な武器にもなり得るのだから。ただそれなりの覚悟を持ってやらなければいけないし、アホ右翼はいくらでもバカにしていいだろうけど、遺族や生存者をバカにするのはそう安易にできることではない。そもそも、『靖国』を本当にテーマにするのなら、靖国というかつての栄光転じて今や戦争のトラウマを解消することを許されず、死線まで追いつめられながら戦後は「狂信的軍国主義」のレッテルを貼られて社会の影に追いやられ、本当はいちばん許せない連中と合祀されてしまっても文句が言えず、見ていて恥ずかしいコスプレ右翼がお味方だという哀しい怨念の吹きだまりの場所という本質を撮りたいのだとしたら、8月15日は撮る必要がない。その日にマスコミと議員のパフォーマンスとおバカなコスプレ右翼がたむろするのも靖国の現実だが、ドキュメンタリー“映画”なんだし、どの現実を見せなにを捨てるのかの選択こそが、映画監督のお仕事のはずだ。というか、どの「現実」をどのような美的・映画的判断において選択するのかが、ドキュメンタリー作りの本質なのだから。

で、抜粋に選択されてテレビのパブ映像で使われる場面はキャッチーではあるが、「映画」としては下らないし、美的にもレベルが低過ぎる。結局は「中国人が靖国を撮ったらこんなヘンなものがとれました」しか伝わっていないのだ。まああの喧噪のなかでうまく撮れという方が無理だとは思うのだが、だったら話題性だけでそこを宣伝に使っていいのか? これでは「議論の契機として貴重」とこの映画を擁護する気もなくなってしまうし、「右派の言論弾圧許すまじ」の、パブロフの犬反応に対するパブロフ犬反応で支持を集める一方で、心ある人々は呆れて見に行かないだろう。

それどころか、芸術文化振興基金の助成金は優れた映画になる可能性のある企画を、きちんと企画書を読んで専門家(主に映画評論家など・癒着を防ぐため人選は非公表)からなる審査員が助成を決めることによって、公的資金による映画作りが正当化される制度である。国会議員が自分たちのウヨッキーな(あるいはサヨッキーでも)主張に合わないから横やりを入れるなんてのは論外だが、一方でクオリティに対する責任意識はなくてはならないし、それをちゃんと主張しなければ…なんと言っても皆様の税金である。だから文化庁も振興基金も「クオリティを判断できるプロの判断であり、優れた映画が出来た」くらいの大見得を切ってしかるべきだし、一方でそうと納得させる画面をテレビで流さなきゃ駄目でしょう? 正直、今抜粋で流している絵は、8月15日の靖国をニュースででも見ていれば驚くほどのものでもないし、安易過ぎる。クオリティの説得力がないと、「週刊新潮」が条件反射したのとまったく同じ理由で、つまり「中国人が靖国を撮る」という左翼的ポリティカリー・コレクトネスの論理だけで、助成が決まったんじゃないか、そう勘ぐられても仕方がないし、だとすれば「芸術文化振興」としてはあまりにも薄っぺらで不毛だし、映画作家として李さんは自分の映画があのように受け取られていいんだろうか? まあすぐそういうことで喧嘩するから僕は世渡りが下手なんでしょうが、でもせっかくの映画がもったいないでしょう?

僕はもらったことがない芸術文化振興基金なので知らなかったが(文化庁の直接の支援はもらったことがありますが、そんな条件あったかしら?)、「政治団体および宗教団体の宣伝に」云々の条件が応募要項にあるのだそうで、「それには当たらない」と文化庁ではコメントしているらしい。これもバカらしいけどまだ合格点。しかしこれを「政治的でない」と擁護する加藤紘一議員とか、「政治的」という言葉をどう解釈しているのか常識を疑う。靖国を映画で撮ること自体が政治的行為であり、これは政治的映画である。ナレーションを入れないから政治的でないというのも稚拙な理屈だ。僕はまずナレーションは使いませんが、『映画は生きものの記録である』だってまもなく完成の『フェンス』だって、明らかに政治的な映画だ。ただそれは僕が話を聞き映画に出てもらった人々個人の政治的見解であって、それをどう撮るかは撮影・大津幸四郎と僕の一致した政治的考察の表現であって、映画は僕自身の政治的見解と考察に基づいて構成・編集している。それが「映画を作る」ということの覚悟でなきゃおかしいし、「政治団体」や「宗教団体」の見解通りに作っていい映画になるはずもない。つまり審査員が企画のクオリティを審査するのなら、「政治団体および宗教団体の宣伝に」なんて企画が通るはずがないわけで、そこに抵触しないから問題はないという見解を出すお役所根性で、公金を使って文化を守り育てていくという根本的な使命が成り立つのだろうか?

それにしても稲田朋美の責任は大きいよね。街宣右翼やネット系プチ・ウヨのもしかしたらのテロ行為が怖くて劇場が降りるのは、本来なら「警察はなにをやってるのか?」の話だ。街宣行為は道路使用許可がなければ最低限徐行でも、車は動いていなければ道交法違反だし、脅迫罪だって成り立つ。本当は警察に通報すればいいはずの話なのだが、稲田朋美サンの周辺には警察官僚出身の議員もいたりして、これだとなかなか警察も上の顔色をうかがって動いてくれないだろう。というか警察だって右翼と結託してるのかもしれないし、だからこそ稲田朋美の主張は言論でちゃんとぶっつぶしておくべきだったのだ。本人の面前で、論破して、恥をかかせてでも(まあ国会議員なんだし、大日本帝国を愛する愛国者なんだから、それくらいの武勇を持たないでどうするんだ、稲田サン?)。

最初に降りた劇場は新宿の旧東映跡の丸井との複合ビルに入った「バルト9」。あとQ-AXや、ヒューマックスの持ち物であるシネパトスも降りたそうで、これくらいなら街宣右翼も「協力金」とか「寄付金」はせしめられたかも知れないが、しょせんは製作も配給も興行の映画館ももともとお金がないインディーズ系である。街宣右翼サンも体面上なにもやらないわけにもいかず、かといって元がとれないで、とんだ面倒なのかも知れませんね。もっとも、東映の子会社だとかだと、なにしろ東条英機を変に美化した『プライド』とかもあって、別種の政治的圧力もあったのかも知れないが。まあでも上映中止とか騒がれたら、他に名乗りを上げた小屋もあってけっきょく全国21館というかなりの規模の公開になるそうで、ずいぶんテレビでもとりあげたし、これで大ヒットは間違い無し、実は宣伝・配給はものすごく狡猾だったのかも知れない。映画はしょせん客寄せ商売、それくらいの割り切りは必要なんだろう、たぶん。

4/03/2008

福田“自爆テロ”政権はどうなる?

ガソリンの暫定税率が失効で廃止になったとたん、道路が作れない地方自治体が悲鳴をあげている、との報道が騒がしい。某局のお昼のワイドショーで芸能レポータのおじさんが「必要なら一般財源で作ればいいだけでしょう?」と正論を言ったとたんに、他のコメンテーターや司会者が無視したのだから大笑いである。それだってどっちかといえば反自民党系とされる新聞社の系列の局ですよ。値下げ圧力に困惑するガソリン・スタンド話がやたらと報じられるのも、なんなんだろう、と猜疑心をかきたてられてしまう。要するに報道の政治部はしょせん、政府官庁の発表と与党のリーク情報に頼り切ったニュースソースなので、与党の方針にとって不都合なところは、あまりに言論統制があからさまにはならない程度に、出ないようにしているわけで。

最悪、4月1日になったとたんに工事中の道路も作業をストップするとか、そういう判断をする自治体が、要するに国交省と与党道路族のご機嫌取りで、「道路特定財源と暫定税率維持」のための自爆パフォーマンスをやっているだけなのだ。そんなのに騙されている、というか恐らくはわかってのっかっている大手マスコミも困ったもんだ。

それにしても、日銀総裁人事でもめた辺りから、表面的には福田政権はなにを考えているのかさっぱり分からない。勘ぐれば一種の「自爆テロ」なのかも知れない。ガソリンの税率が下がったとたんに「道路が造れない!」(そんなわけ、本当は全然ないのだけれど)とのヒステリー報道が始まるのもそうだが、与党の考えが通らないとこの国は立ち行かないんですよ、とデモンストレーションするためにわざと混乱させているのかも知れない。というか、そうでも考えないと説明がつかない。

日銀総裁はようやく白川さん(副総裁/現総裁代行)の格上げで決着がつきそうだが、まずなんで蹴られるのが分かっている武藤さんの提案をあそこまでギリギリに遅らせたのか?それだけでも相当におかしいのに、民主党がすみやかに蹴ったので次の候補を、となったら武藤さんよりももっと不適格な田波さんを出す。こりゃもう「いったいなんなの?」としか思えなかったのだが、「ねじれ国会のせいでこんなに混乱するんです!」と訴えるためのパフォーマンスでしょう、と考えると納得はできる。

それに武藤さんご本人もかなり笑わせてくれた。国会審問で「日本の景気はとてもよくなった」と胸をはってのたまわり、銀行預金の利子がなくなってしまって悪評プンプンのゼロ金利政策でも、「当時の状況ではやむを得なかった」とでもいえばいいのに、「まったく正しかった」のだそうである。本当になにも考えないで言っていたのなら、自分の発言の影響力も考慮できないバカに日銀総裁という公職が勤まるわけがないし、分かって言ってるのならそんな人に「国民の生活が第一」がスローガンの民主党が賛成してくれるはずがない、特攻精神じゃあるまいし、それは国民新党でも社民党でも共産党でも同様,賛同するはずがない。その程度も言い含めずに国会に立たせるだけでも、武藤さんを提案したこと自体が、意図的に混乱させようとしてやったことに思えて来る。同時に提案されて蹴られたもう一人の副総裁候補だって、悪名高い「経済財政諮問会議」のネオコン論客、冷血冬季資本主義派で「インフレ・ターゲット論」って、経済伸長とは無関係にただ原材料費の価格(原油、穀物)の急騰で消費者物価が高騰してしまう危機的状況に、とりあえず不適任に決まってるでしょうに。

財政難が唯一の理由である「後期高齢者医療制度」でも、暫定税率撤廃で2兆6千万の税収減になるという話も、とかく「日本は財政難」を誇張すればなんでも通るといわんばかり。それを言われてしまうとつい我慢してしまう我々国民も人が良すぎる。自分たちの失政で財政赤字を膨らませておいて、メチャクチャですがな。じゃあこちらも極論でいわせて頂ければ、とりあえず官僚の人件費を一般企業(中小企業も含む)並に落とすだけでも、じゅうぶん財源は出来そうなものではありませんか。とりあえず彼らの脅しに屈しないためにも、このぐらいの極論で理論武装するのもいいだろう。

国交省の脅しをからめた暫定税率と特定財源維持の署名を拒否した自治体首長が口を揃えて、特定税源としてでなく地方交付税に一括して財源を渡されたらなにに使うか、と訊ねられて「まずやっぱり道路ですね」と答えていた。皮肉なことに拒否したのは道路整備の遅れている市町村ばかりだったらしいが、要するに特定財源だと国の基準のレベルが高過ぎて、余計に金がかかってしまい、特定財源として渡されると結局市の一派財源からの支出も増えるのが腹が立つ、ということらしい。要するに、そういうどうでもいい無駄金の支出を減らしましょうというのが小泉改革が支持を集めた理由だったはずなのだが、肝心なことはなんにも変わってなかったんですね。

なんだか政府と国民の根比べみたいな様相も呈して来ましたが…。