最新作『無人地帯 No Man's Zone』(2012)
〜福島第一原発事故、失われゆく風景、そこに生きて来た人々〜
第62回ベルリン国際映画祭フォーラム部門正式出品作品

7/07/2014

まともな議論が出来ない国民の『集団的自衛権』論議


まず憲法条文では一切の例外への言及なしに「国権の発動としての戦争と武力による威嚇又は武力の行使」を永久に放棄する、と明文化されているので、その解釈で集団的自衛権をどう容認するのか、論理的にあり得ない時点でこの議論自体がバカバカしい、というのは先のエントリーで触れた通りだ。

安倍晋三は最近、「法の支配」といえば中国へのいやがらせになると思い込んでいるらしく、天安門事件の記念日でも当然「自由と民主主義」と言わねばならないところを、自分達には日本の自由と民主主義を守る気がないと無自覚に自白でもしてしまったのか、官房長官が「法の支配」とか言ってしまって失笑を買っている。

およそ正当とは思えないにせよ、天安門事件の鎮圧が中国の国内法に基づいた権力の行使だったことは確かであり、「法の支配」では批判したことにもなんにもなりはしない。これではむしろ、天安門で自由と民主主義の理想・理念のために命を落とした(「非合法」活動家の)学生達への冒涜だ。 
そんな彼らが中国の一部の少数民族が弾圧や差別抑圧、同化政策に苦しんでいることを持ち出して中国を批判している気分でいるに至っては(チベットでも新疆でも、独立運動は国内法では「非合法」だ)、もう笑い話にもならない。

そんな安倍晋三が「法の支配」とか言いながら、憲法の条文をどうひっくり返したってあり得なさそうな「新解釈」を違法性の高い手段で強引に閣議決定し、その理論を一切提示することもなく「私には思えない」という感情論だけで押し付けている。

「人々の幸せを願ってつくられた日本国憲法が、こうした事態にあって国民の命を守る責任を放棄せよと言っているとは私にはどうしても考えられません」安倍晋三 
…ってなんなんだ、このあまりに軽薄なオコチャマな言い草?

これのどこが「法の支配」なのか、さっぱり理解できない。

南沙諸島の領有権では中国と対立関係にあるベトナムに対しても「法の支配」とか言って中国との対決を促したようだが、南沙諸島における中国の立場は、尖閣諸島についての日本の立場と同じ、係争のある領土を実効支配している側だ。

「法の支配」を言うのなら国際法の運用は公平で公正でなければならず、中国でも(南沙諸島)日本でも(尖閣諸島)韓国でも(竹島)実効支配している側に同じルールが当てはめられなければ、「法の支配」とは絶対に言えないはずなのに、安倍はいったいなにを言っているのだろう?

さすがにアメリカのバラク・オバマ大統領はもうとっくに気づいているようだし(国賓として来日した際の態度でも明白だ)、中国の習近平主席もオバマに言われたのか、気づき始めたようだ−安倍晋三とは要するにひたすら愚かな、どうしようもなく頭が悪い、話が通じない、何も分かっていない人物だ。はっきり言えばただのバカである。

そう考えないと安倍の一連の外交における行動は辻褄が合わないわけだが、「集団的自衛権」の後に開かれた中韓首脳会談では、習主席も朴大統領も、日本の歴史修正主義や異様な外交展開は「適当にあしらう」、ないしちょっとからかう、という態度のように見える。公式の会談と会見ではわざと一切話題にせず日本側をやきもきさせておいて、最終日の私的昼食会での厳しい言及をプレスにリークしたのだ。

だが問題なのは、もはやただ安倍晋三とそのオトモダチ達だけではない。

日本では集団的自衛権の行使を認めるという「憲法の新解釈(になってない)」をアメリカが歓迎したかのように報じているが、実際には国防総省が簡単なコメントを出しただけだ。

アメリカが唯一の同盟国である以上、日本の集団的自衛権はアメリカの “自衛” 戦争に協力する意味しか持たないのに、その自分達の将来の戦争に協力するという決定について、ホワイトハウスがなにも言わない。

これで「アメリカが喜んでくれた」と思うなら、日本人の対米従属の奴隷根性も落ちるところまで落ちたと言わねばならない。

それどころか日本に行ける/働けるビザ枠の拡大を匂わされて、移民労働者の送り先としての期待が膨らむフィリピン以外は、どの国も政府は公式には安倍の決定を無視し、プレスではこぞって危惧し批判する論調が世界中から吹き出ている。

この「集団的自衛権」で得するはずの唯一の国である米国の、保守系のメディアですら、「緊張を和らげなければならないはずの東アジアでいたずらに緊張を高めるだけだ」として安倍政権に厳しい批判を投げかけ、そのプロセスがどう見ても非合法であることに疑問を露にしているのだ。

これでは日本の安全保障にも国際的な地位にもなんの貢献もしないどころか、信頼を失い安全を損ねることにしかならない。なぜこんな理の当然のことすら、日本では反対を表明するメディアでさえはっきり言わないのだろう?

「集団的自衛権」で「普通の国」になることは、冷戦の末期から日本の保守系政治家のオブセッションであった。だがそれはもう20年以上前の話だ。その20年以上のあいだに集団的自衛権が行使された代表的な戦争は、NATOによるユーゴ空爆、湾岸戦争、アフガニスタン侵攻、イラク戦争、アラブの春でリビアへの介入、と言った事例が挙げられるが、どれひとつとして世界の安全保障に貢献したとは言い難く、むしろ禍根を残しその地域を不安定化させ、イラクとアフガニスタンとリビアに至っては惨憺たる結果しか招いていない。

「集団的自衛権に基づく武力行使」自体が、もはや時代遅れの安全保障論なのだ。

一方で2007年には、小沢一郎がより革新的な憲法の新解釈を提示している 
国連が完全に主導して世界の安全を守るためなら、国権の発動とは言えず、むしろ前文と9条に明記された「正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し」の文言からして、日本は積極的に参加すべきである、との論だ。ところがこれに対して当時の自民党から出た反論もどきは、国連の軍事活動は前線での活動も含むので、自衛隊員が死ぬ、危ない、という話だった。 
いやもう…なんという卑怯で臆病な自己中心的発想しかない、理念も矜持もなにもない「政治」なのだろう? 
小沢の主張は、単に日本の軍事力行使の話ではなく、世界に向けて国連中心の新たな安全保障体制の確立を訴える画期的な、少なくとも「かっこいい」ものだったのだが。

オバマ政権はブッシュ政権の失敗を反省するあまり、継続した介入や政治的圧力が必要だったイラクのマリキ政権からも手を引いてしまい、国内の宗派に基づく対立を放置してしまったほどで、日本に集団的自衛権の行使に基づく戦争協力を要請する可能性なぞまず当分はない。

まだブッシュ政権、小泉政権とその後の安倍、福田、麻生の自民政権のときにこういう決定をしていれば、違憲性が高く反発と警戒は当然招くにせよ、これを強引にでも通す理由は分からないでもなかった。 
だが今やることには、周辺諸国へのいやがらせの虚勢で警戒心を抱かせる以外に、なんの国際政治上の意味ももち得ないのが、この「集団的自衛権」なのだ。

しかもアメリカの国益からしても今もっとも安定してくれていなければ困る東アジアにおいて、いたずらに緊張を高めて来た日本が、「集団的自衛権を行使出来るように」と言ってこれまでの平和主義を覆すことを言い出しているというのが、国際政治の文脈における今の状況だ。

しかもその中身は、実は集団的自衛権の話ではないのだから、安倍晋三がやっているのは二重の詐欺でもある。実際に閣議決定された中心は自衛権の行使に関する新しい三つの要件だ。

①我が国に限らず、密接な関係の他国が攻撃された場合でも、我が国の存立が脅かされ、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険がある
②(危険を排除する)ほかの適当な手段がない
③必要最小限度の実力行使にとどまる。

集団的自衛権の行使なら、「我が国の存立」はそもそも関係がないはずだ。他国の自衛戦争に介入することが集団的自衛権なのだから。そこを安倍政権は「集団的自衛権の行使は限定的で」と詭弁で誤摩化して一見わけが分からなくなっているが、よく見れば①と②は実は、一方的に他国を敵国と認識して先制攻撃を行うことも自衛権の行使として容認する、という意味であり、③はただの言葉の上での言い訳に過ぎない。 

自衛のために先制攻撃が許される、という暴論で「大量破壊兵器」を理由にイラクを侵略したのが、アメリカのブッシュ政権である。今回の閣議決定は、まさにその同じ理屈で自衛隊による武力行使を容認する内容に、実はなってしまっている。

こんなものはアメリカにとってすら(「限定的」であくまで「日本が危険」でしか行使されないのであれば)はっきり言えば「ありがた迷惑」どころか危険でしかないし、そもそも今のアメリカはいわゆる普通の「日本の集団的自衛権」すら必要としていない。

まるで外交の戦略性の欠如したタイミングの愚行でしかなく、実は恐ろしく危険なのが、今回の安倍政権の決定だ。

アメリカだけではない。東アジアと東南アジアのあらゆる国々、ひいては世界中にとって、急速に成長を遂げた中国の巨大経済を抱える東アジア圏は、是が非でも安定してくれなければ困るのに、安倍はその安定をぶち壊すことばかりしている。

それもそのもっとも中軸となるのが、既に巨大経済大国である日本と中国の関係が安定し、順調であることであり、それは日本の経済にとっても死活問題であるはずなのが、安倍晋三のやっていることはまったくわけが分からない。

日本国内でだけは、あたかも中国が尖閣諸島を狙っていて、これまでも主張して来た領有権を強引に実態のあるものにしようとしているかのように思っている。

だが実際には、現状はどう贔屓目に見てもどっちもどっちであり、日本のメディアがたとえば「尖閣諸島の接続水域に中国軍の艦船が」とヒステリックに報道しているのは、日本側が主張する国境線の中国側領海で人民解放軍が展開しているに過ぎず、実は領海侵犯でもなんでもない。

ちなみに少なくともタテマエでは、尖閣諸島の周辺の日本が実効支配する海域空域に入っても、中国や台湾の立場ではそれは「領海ないし領空侵犯」にはならないが、両国ともそんなことは慎重に避けている。

それを言うなら、これまでの「棚上げ」約束を反古にし、さらに米国からも「やるな」と言われていた(それも前原・クリントンの外相会談で、はっきりと)、自衛隊の艦船および航空機の尖閣諸島周辺での展開を実はやってしまっていたのが日本であり、しかも「自衛艦がレーダー照射された」と大喜びで騒ぎ出し、その約束違反をうっかり公表してしまったのが安倍政権なのだ。

しかも現状の尖閣諸島をめぐる対立自体が、日本側の二度に渡る約束違反の、客観的に言えば挑発でしかない行動が原因だ。

まず菅政権の際に、民間の船は警告して追い返すだけ、上陸した場合は逮捕するが即座に強制送還、という約束を破って密猟の漁船を拿捕し船長を逮捕、それも日本の国内法の刑事手続きに違反して長期勾留したことがある。

日本では「体当たりして来た」と報道されているが、実際には突然包囲され拿捕された漁船がなんとか逃げようとするのに、海上保安庁の船がわざとその航路に立ちふさがってぶつけさせたのが真相だ。

そしてこの時も、中国は日本の法定の拘置期限が切れるまでは静観し、アメリカの圧力で日本が拿捕監禁した船長を釈放した後は、関係修復の努力を続けたのは一方的に中国側だった。

ところがこれに懲りずに日本側は、次の野田政権の時に一方的に尖閣諸島の国有化を宣言し、国連で野田自らが、なにもしていない中国をあたかも国際法違反であるかのように言いがかりをつけて挑発する演説をしてしまった。

その前に東京都知事だった石原慎太郎が「都が買う」と言ったのが悪い、と野田を擁護する人もいるかも知れない。 
だが慎太郎がその動きを見せたときには、中国政府は「日本国内の経済取引に我が国が口をだす謂れはない」とだけ外務省報道官が述べ、静観を表明していたのだ。日本が実効支配している事実は尊重し、そこで日本国民がたとえなにかの設備を建設しようが、それは日本国民の私有財産権の範疇であり、中国が批判すべきではない、という国際的には極めて当たり前の態度を貫いたのも中国だった。

野田の挑発行為に対しても、中国はこれまた外務省報道官のコメントだけで済ましている。

もっとも「現代の国際法は第二次大戦の結果の世界秩序に基づく」というたかが報道官のコメントで完全論破されてしまっては、野田首相の面目はまるつぶれではあるわけだが。

これ以降、尖閣諸島をめぐる状況はまったく動いていない。

いわば完全に外交的に敗北した日本が国内に引きこもった状態で、オバマとしては政権の交替による打開を期待したら(野田の自爆解散はオバマに再選祝いの電話を断られたから、が真相だ)、その結果が安倍晋三という悪夢のような想定外になってしまい、ひたすら硬直状態、さらには安倍政権の歴史修正主義による挑発東アジアの緊張が高まる結果になってしまった。

これも日本の報道はほぼ無視しているが、安倍はアベノミクスの宣伝のために呼ばれたダボス会議での演説で、中国との戦争も辞さない、としかとれない演説をしてしまい、欧米の保守系メディアがこぞって批判どころではない、警戒を露骨に表明している。

その安倍政権の詭弁に、今回もまたメディアも協力しているせいで、国民は完全に誤解しているようだが、仮に尖閣諸島を防衛する必要があっても、それは集団的自衛権にはなんの関係もない、個別的自衛権の範疇だ。

安倍が「抑止力」と言っているのに至っては、完全なナンセンスで、ただ「より日本がフリーハンドに戦争が出来るようになった」という漠然とした不安を周辺諸国に与えるだけだ。それが「抑止力」というのなら、それは憲法が禁じる「武力による威嚇」でしかない。

これまで日本国内で行われて来た「集団的自衛権」をめぐる議論自体が、客観的に見れば違法であり違憲、しかも現実の国際情勢に照らし合わせて意味不明であり、ただのバカかキチガイとしか思えず、しかもこの場合は文字通り「キチガイに刃物」にしか見えないというのが、ミもフタもない今の日本をとりまく国際情勢の現実なのだ。

これだけ尖閣諸島に熱狂しながら、実際にその領土領海を利用する気すらまるでない日本は(これも馬鹿げたこととして、日本人が上陸することも禁じられ、周辺の日本側漁民の操業も許されていない)、この領土係争がなぜあるのかすら理解していないらしい。

実効支配をしながら国民が利用することもない領土領海に、こうも異様に執着すること自体、ただ隣国に対する不条理な敵意が動機の嫌がらせにしか、ハタ目には見えない。 
というか実のところ、それだけが日本側の動機なわけだが、要するに中国が経済規模で日本を抜いたことがコンプレックスで、差別意識を丸出しにしているだけだ。

だいたい最初から中国側、周恩来が自国にとって不利なはずの「棚上げ」を田中角栄に提案し、台湾とも話をつけてくれたわけで、中国にとってタテマエでは領有権を主張せざるを得ないものの、この島々に領土的野心はないし、そこになんのメリットもなく、リスクばかりが大きいのが現実でもある。

中国および台湾の主張は、これは清朝から日本が植民地侵略の過程で奪った領土であり、終戦とともに中華民国に返還されるべきものだ、と言うことである。

相手の主張も理解せずに外交だの安全保障が出来ると思うのは、重度な引きこもりだとしか言いようがない。中国と台湾(中華民国)は、それぞれにサンフランシスコ講和条約で領土が返還される国と国民の主権の継承者として、その領有を(たかが無人島であり、建前に過ぎないとしても)主張しなければならない立場にある。

だがこれは言い換えれば、日本がもし領有権を放棄するなら、その瞬間に中華人民共和国と中華民国のあいだでこの島々の領有をめぐる、国家のプライドを賭けた衝突が始まる、ということでもある。1972年の時点ですら北京も台湾もそんなことを望んでいないから「棚上げ」になったわけであり、現代では中国と台湾の密接な経済関係があるなか、下手すれば台湾海峡で軍事衝突の危機すら覚悟するような状況は絶対に避けなければならない。

つまりはっきり言ってしまえば、尖閣諸島を巡る危機というのは菅、野田、安倍の三代の日本の政権が勝手にマッチポンプで騒いでいるだけであり、安全保障上の危機でもなんでもなく、個別的自衛権が発動される対象にすらならないのだ。

米中首脳会談では、オバマが習近平に、中国が自らの主権を主張することは、合法的で武力行使を伴わない限りは支持する、と言ったことが報道されている。つまりは国際司法裁判所に持ち込んでカタをつけてはどうですか、と日本の同盟国であるはずのアメリカが奨めているという意味にしかならないことを、日本のメディアでは誰も言わない。

「国際法上明らかに日本領」という、しょせん日本政府が言っているだけの、客観性の皆無な話を、必死で尊重だかカルト信仰でもしているつもりなのだろうか?

だが日本の公式見解は、既に昨年このブログで指摘したように、実際にはかなり脆弱なものだ。もっとうまい主張があり得るのに、このままでは絶対に負けるようなことしか言っていない。

1895年から日本領?いやそのずっと前から琉球王国の重要な交易航路上に位置し、周囲は豊かな漁場で、琉球人がずっと生活に利用して来た、が主張の根幹じゃなければおかしいのに、1895年以前は「無主地」?日本は自国の歴史も知らない、東シナ海の交易ルートが日本という国家と民族の成立に密接に関わっていることすら知らんのか? 
尖閣諸島が「無主地」であったことなど、日本の歴史記録に残るそれ以前からあり得ない話だろうに。 
これは竹島でも同様で、日本政府の主張内容はまったく馬鹿げている

本気で尖閣諸島を守りたいのなら、せめて公式見解を見直してもう少し説得力を持たせる努力をした方がいい。だいたい中国にとって今もっとも重要な世界相手の商売を投げ捨てる覚悟で、いきなり武力侵攻なんてするはずもないだろうに。もし本気で領有権を狙って来るなら、まず国際司法裁判所に決まっている。

尖閣諸島の領有をめぐる日本の主張が植民地主義時代の時代錯誤、もう100年前の理屈だろう、と言われるような周回遅れであるように、今の「集団的自衛権」をめぐる議論も圧倒的に周回遅れな話でしかない。なぜ世界に冠たる経済大国の先進国、しかも教育水準の高さでも尊敬を集めるはずの日本が、こんな奇妙な時代錯誤をやっているのか、まるで理解不能である。

ところが日本国内で大真面目に交わされる話を見ていると、もっと面食らってしまう。

確かにいかに実効支配しているとはいえ、南沙諸島の開発を始める中国のやり方はいささか強引だし(とはいえ騒いでいるのは日本のメディアだけだ)、それ以上に中国との経済関係は自国の経済成長に不可欠ではあっても、あまりに巨大過ぎるその経済と商売のやり方の強引さに、「中国に飲み込まれるのではないか」という危機感もまた東南アジアに広まっている。

韓国でさえ先の首脳会談で、金融が中国に飲み込まれる危険性を含む協定を受け入れてしまった。台湾では馬英九の国民党政権が中国と締結したサービス協定に学生が台湾の労働環境の破壊に繋がるとして国会を占拠する抗議活動が盛り上がった。
そこで「中国経済に飲み込まれる」危機感を抑え、アメリカの言いなりになって板挟みにならないためにも、本来ならより関係を密接にしてバランスをとりたい大切な国が、日本のはずだ。だが日本はそんな近隣諸国の期待に気づきもせず、安倍晋三などは就任早々、自国が加盟するかどうかも決まっていなかったTPPへの加盟を薦める珍妙な行脚をやって、途中で立ち行かなくなってアルジェリアの人質事件を口実に日本に逃げ帰っている。

だがそうした中国の「脅威」があるとしても、およそ軍事的なものではないし、戦争なんてデメリットしかないことをどこの国も考慮すらしていない。むしろ徹底して回避する。

一方で中国や韓国を含む東アジア、東南アジアの国々にとって、日本は今でも最重要の経済パートナーのひとつであり、もっとも憧れる国でもある(敗戦のどん底から平和国家の経済大国として復活を遂げたこと自体が、近代史において特筆すべき偉業なのだ)。経済成長を遂げた中国や韓国以外の、たとえば東南アジア諸国では、だから現代の日本との関係を重視し、戦争中に侵略されたこと、その支配の暴虐については、なるべく言及して来なかった。

ところが日本ではそれを「親日国家」だと思って有り難がるのならまだいいのだが、植民地から解放してやったのだから感謝して当然だとか、挙げ句に中国に対抗して連携しよう、そのために集団的自衛権だ、などと本気で言い合っているのである。

開いた口が塞がらない。

タイ、バンコク、サイアム広場
たとえばインドネシアで「日本がオランダの支配から解放してやった」なんて言ったら呆れられる。日本はただ侵略しただけであり、日本支配の三年間はオランダの250年よりひどい、とすら言われている。従軍慰安婦問題はインドネシアにもあり、その被害で一生を奪われながら、今も生き延びている女性たちもまだ生きているし、「Ianfu」という言葉が一般に知られてさえいる(教科書にも載っているそうだ)。また戦後を通じて日本の経済が大事だった一方で、それが独裁体制を支えていたことも認識されている。

インドネシア、ジャカルタ

ミャンマーでもフィリピンでもヴェトナムでもタイでもマレーシアでも状況は同じようなものだ。ただ今の日本との関係を悪化させたくないから黙っているだけ、日本人に気を遣ってくれているから言わないだけだ。

しかも一緒に組んで中国と対抗する?

平和ボケの裏返しのパラノイアの、常軌を逸した軍事力崇拝もたいがいにするべきだ。そもそも世界史において、軍事力に頼って自国を守って来れた大国なんて数えるほどしかない。

人口だけでも巨大国家で、今や経済大国である中国と軍事的に対決する力なんて、東南アジアのどの国にも最初からないし、今後持つこともあり得ない。下手にアメリカの後ろ盾などに頼ったところで、ヴェトナム戦争の悲惨の再現になるだけだということを、日本のような平和ボケ幻想に浸ってはいられない国はどこでも理解している。

バンコク、旧市街、王宮前の市場でも中国語の看板
バンコク、路地裏
だいたい、東南アジアのどの国にも、中国系の住民がいて、社会のなかで重要な地位も占めている。東アジア、東南アジアは歴史的に中国文明圏であることを忘れられては困る。
バンコクの反タクシン派デモ現場でも中国語
バンコク、街のあちこちに見られる中国文化

ジャカルタ、中華街
巨大化を続ける中国経済に飲み込まれないためにも、東南アジアも台湾も韓国も、日本との密接な関係を期待しているのは確かだし、自動車から電子機器から無印良品やUNIQLOの日本ファッション、コンビニエンス・ストアや牛丼などの外食チェーンまで、日本の商品やサービスは高給イメージで生活に浸透し、日本との関係は今でも密接だ。

バンコクのショッピングモール。まるで日本テーマパーク
武力に頼らず大国として復活したこと、武士道が平和主義を含んだ世界でも稀な武人の哲学でもあることから、『ドラえもん』や『一休さん』などのアニメや、恐らく世界でもっとも多くの人が親しんだテレビドラマであろう『おしん』も含め、文化的にも憧れの的だ。

だが間違っても、軍事的な結びつきを強め、中国を一緒に敵視することなぞ、誰も求めてはいないし、そもそも現実的にあり得ない。

7/02/2014

「解釈改憲」は【あってはならない】のではない、論理矛盾で【あり得ない】 のだ


なにが気持ち悪いって、「解釈改憲」なる言葉が日々新聞紙面に踊り、ネット上を飛び交い、テレビから流れて来ることくらいに心の底から気持ち悪いことも、近頃めったにない。

いったいどこの大バカものがこんなバカげて意味が通らない言葉を知ったかぶりで捏造したのか知らんが、もし安倍晋三とそのオトモダチたちが「解釈改憲をやるんだ」と言っているのなら周囲の人間は諌めるどころか嘲笑するか叱りつけて「勉強し直して来い」と追い返すべきだし、もし誰かが安倍が集団的自衛権に関してやろうとしていることを「解釈改憲」と批判したのなら、その時点で議論終了だとはっきり安倍に言ってやればいい、いや言うべきだった。

「解釈改憲」なんてことは【あってはならない】のですらなく、そもそも論理矛盾で【あり得ない】ことなのだから、考えるだけ無駄だ。

なのにその後もまったく馬鹿げた話に時間や税金やメディアのリソースを無駄遣いするのは…日本は原発事故があって、原子力発電を再開するのかどうかを決めなきゃいけないんですよ?そんな電気の浪費を許していいのか?

はっきり言って、集団的自衛権に関しては、反対していると称する人すら、こんな当たり前のことをなぜ誰も言わないのかが謎だし、本当に反対なんですか、と疑いたくすらなって来る。

繰り返すが「解釈改憲」なんて言葉は論理矛盾そのもので、まず単純にあり得ないことでしかない。憲法の条文に反するのなら、そこから論理的に導き出せることでなければ、そんなの「解釈」とはそもそも言わない。というわけで議論終了、はいさようなら。

…と本当にこれで済ませればいいはずだし、具体的な話はもう昨年の8月に、とっくにこのブログで書いているから繰り返すのもウンザリなのだが、もう一度。

日本国憲法第九条は、国権の発動としての戦争と武力の行使を禁止している。自衛隊があるのは国の自衛権のためではない。自衛権と言えども国の自衛権なら「国権」だからだ。ならばそれを理由に軍事力を行使してはいけない、と憲法には明記されている。
自衛隊の存在と活動が憲法の枠内で許されているのは、国の自衛権は行使できないが国民には自然権として当然正当防衛の権利、つまり自衛権がある。これは憲法では一切制約されていない(よほど特段の理由がない限り、制約してはいけない)。 
国の自衛権では決してなく、あくまで国民の自衛権を肩代わりして国民の生活と生命と財産の安全と自由を守る、国家の自衛ではなくあくまで国民の自衛のための軍事力としてのみ、自衛隊はその存在が許されている。

これが自衛隊が設置されて以来ずっと、内閣法制局による9条の解釈だ。「憲法解釈を変える」という話を議論するのに、元の解釈がまず明示されないこと自体、狂っている。

…というか狂っているのは今に始まったことではない。 
ほとんどの日本人が、政治家も含めて、なぜ9条があるのに自衛隊が合憲になるのか、その憲法解釈を知らないまま疑問にも思わず、今はこの元の解釈を知らないから安倍晋三内閣ごときの詭弁に手玉にとられているのだ。

では同盟国などが攻撃されたか、自衛の先制攻撃で戦争を始めた際に、自衛隊を出せるのだろうか?普通に考えて、答えは一瞬にしてNOだ。

同盟国ということは国どうしの関係であり、集団的自衛権とは国の自衛権の行使を個別でなく集団で、という話でしかあり得ない。ところが日本の場合、国の自衛権(国権の発動)で軍事力は行使してはいけない、と憲法に明記されている

よって集団的自衛権に基づく武力行使はNG、違憲。

だいたい個別自衛権VS集団的自衛権、という言葉の選び方と議論の設定からして、ミスリーディングなのだ。「個別自衛権」と言ってもそれは日本という国の「個別」ではない。この点では反対している人たちの多くも言っていることがおかしいし、なぜ憲法解釈の問題で憲法の条文それ自体を持ち出さないのか、理解に苦しむ。本当にやる気があるのか?

大前提としてはっきりさせるべきなのは、集団的自衛権の行使を可能にする解釈を、日本国憲法からひねり出すのが可能かどうかだ。

普通にどう考えても論理的にあり得ないし、安倍晋三が反論したい、「『集団的自衛権』を認める憲法解釈を」と言うのなら、その解釈を憲法条文からちゃんと論理的に導き出さなければ、そもそもお話にならない。

今まで一切、その肝心の解釈の理論を出して来てない以上、安倍政権も外務省も防衛省も、準備すらしていないのだし。

だからこんな議論はやっても無駄、で本来なら話が終わらなければならない。まともな法治国家なら議論するだけバカバカしい、というだけで済む。まったく国会も、内閣法制局も、最高裁もなにをやっているのだ? 国会議員たちなんて、憲法すら論じられない立法府とは、悪い冗談にもならない。

わざわざ軍事オタクの自民党の二世だか三世がのこのこ出て来て、よく分かってもいない安全保障政策を論ずるフリを演ずるまでもなく、これはまず第一義的に憲法の問題なのだから、あくまで憲法に則った論理的解釈を闘わすのが出発点でなければおかしい

安倍たちが現実にありえない具体的な事例を15だか8つだか出して来たことは、その事例が馬鹿げていてまったく具体的でも現実的でもない以前に、まず論点がズレている。

そんな議論を始める前に、どうやったら9条の条文から導き出される合理的解釈で集団的自衛権による軍事力の行使が許されるのか、まずその解釈をきちっと示すこと。話はそれからです。で、それはどう考えたって論理的に無理です。お話の順番が完全にひっくり返っているじゃないか、まったく。

今日のエントリーは最初、「まともな議論が出来ない国民の『集団的自衛権』論議』と題するつもりだった。
まあ「解釈改憲」なんて言葉を書くだけで、自分でもバカバカしくなってしまうのだし、その言葉を読んだだけで失笑して、最初から終わっている話なので、読まずとも内容が題名で分かる方が親切だろう。

だいたい、あり得ないと分かり切っている「解釈改憲」を許すか許さないかなんて議論すること自体、最近安倍ちゃんが大好きな「法の支配」の意味すら分かってない愚論であり、もう単純に恥ずかしい。なにが「美しい国」だ?

ひたすら無自覚に馬鹿を曝け出しているその痴態が単純に生理的嫌悪感すら及ぼすのが、この「集団的自衛権」をめぐるすったもんだだ。

だからますます腹が立つのだ。いつまでこんなみっともない、まったく美しくない真似を続けるのか?

集団的自衛権の行使を制約する三つの要件だと高村さんたち与党が言っていることに至っては、本気で言っているのならただのバカだけに危険過ぎるし、わざとなら極めて悪質かつ危険な詐術だ。

自衛権による武力行使が認められるのが「我が国の存立が脅かされ、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険がある」場合というのは、イラク戦争やアフガン攻略で米国のブッシュ・ジュニア政権が持ち出した、先制攻撃による自衛の権利という暴論以外のなにものでもない。

これは集団的自衛権の容認以上に危険な内容だ。ドサクサで紛れ込ませたとしたらあまりにもひどい。

まさにイラク戦争が好例なように、こんなことが自衛権による武力行使の要件になるなら、どんな言いがかりでもつけて「自衛権の行使」と称して先制攻撃で戦争を始められてしまう

たとえば尖閣諸島周辺の接続水域、つまり日本の主張する国境に基づいて中国側の領空領海に中国艦船や人民解放軍機が展開しただけで、これまで領海領空が侵犯されなければ自衛隊による対応が許されなかった制約もなく、「自衛」の名の下に攻撃が出来てしまう。

つまり「なんでもあり」で事実上いつでも戦争を始められてしまうし、より直近では、要は中国にいつでも戦争が仕掛けられる条件を、安倍政権はまんまと手に入れたことになる(といって日本国内の法的制約に過ぎず、無論国際法的に認められることではない)。

こっちの方が集団的自衛権よりもさらに問題も危険性も大きいことに、なぜ野党もメディアも誰も気づかず、自民党を批判しないのか?

だが不正直さと不真面目さ、論理的思考も現実の認識分析もすっ飛ばした感情論による誤摩化しが気持ち悪いし腹も立つのは、安倍晋三らいわゆる推進派だけではない。

反対派を称する人が日曜には新宿駅前で抗議の焼身自殺を諮り、一昨晩からは首相官邸でデモもやっているそうだが、自分の足で行動するのはけっこうなことだとは言え、熱意や悲壮感の発露もいいが、その前に少しは勉強くらいしてはどうか?

なぜ集団的自衛権に賛成するにも、反対するにせよ、憲法の条文をちゃんと踏まえて議論しないのだ?

こと反対ならば、「この条文ではどう読んでも不可能です。反論があるならどうぞ」とまず言わなければならなかったはずだし、これだけでほぼ確実に安倍晋三の子どもじみた野心は終わりになる。

「戦争に巻き込まれるのは」以前に、こんな解釈になってない解釈が通るはずがないし(なんたって「解釈改憲」ですよ、そんな論理矛盾そもそもあり得ない←しつこい)、もし通してしまったらおよそ立憲国家の政治家や政治ジャーナリストの資格がない。というか、「解釈改憲」=「ありえない」と気づいていないだけでも、野党も自由報道協会も含めて全員クビ!

いやなに、安倍さんはただ、自民党の歴代首相が出来なかったことを「ボク出来たもん」と自慢したいだけなのだし。

いやなに、デモに行ったりする人たちの真剣な思いは出来れば疑いたくはない…のだが、とはいえこっちの方でもさすがに、もう三度目ともなると、未だになんの学習能力もないやり方を繰り返しているのに、今さら信じろというには無理がある。

なにしろもう三度目の、敗北主義に彩られた「国会ないし官邸前デモ」、最初から勝つ気がないのか、と思われても仕方がないやり方しか出来ていないのだ。

その1)「反原発」と言いながら、大飯原発の再稼働が既定路線になってから「さいかどーはんたーい」と踊り出しただけで、なんとなく電力が足りなさそうだ的なことを匂わすだけの政府に対し「ならばまずきっちりと電力の供給能力データと需要データを出せ、議論はそれからだ」とは誰も言わなかった。だいたいいずれ原子炉を再稼働させようとするのは想定の範囲内だし、それが夏の需要が増える時期になるのは理の当然なのだから、半年前には需給データの精査を要求していなければ阻止なぞできない。

これで勝てるわけもなく、再稼働の前日に悲壮感たっぷりに国会前だか官邸前でみんなで涙を流し… 
…って、あれは自己陶酔のためではなかったのですか?本気で阻止する気なら、少しは考えるべき戦略というものがあるだろう?

その2)特定秘密保護法案に反対するデモが昨年にはあったわけだが、あろうことか始まったのは参院での議論が膠着してからだ。またもや阻止するにはあまりに遅過ぎるし、しかも法案の問題点がどこにあるのかも指摘できない(おそらくはよく分かってない)杜撰さで「言論の自由がなくなる」とか…

僕らなんかは同業者の一部に、「映画が作れなくなりますよ」とまで言われた。いやすみませんねえ、最初から官庁から機密情報を映画のネタ用にリークして頂けるなんてこと、僕には滅多にありませんし、そんな国家機密を暴露する映画を作る予定もない。僕らにはまったく関係ありませんから。
というか、あなた自分が反対している法案の中身を知らないで反対してたんですか、ってな具合である。

その3)今度は集団的自衛権でも、デモをやるならまず立ち上がるのが遅過ぎる。国会が終わって、直接的に安倍達を止める手段がなくなってからやっとだ。しかも子どもでも気がつく楽勝の理論武装が本来ならあるのに、なぜ言わないのか?「9条の条文を読んで、どうやったらそんな解釈が可能なのか説明して下さい」、安倍晋三に対する殺し文句はこれで済む。

国会の議論がぐちゃぐちゃになっている時にデモかければそれなりの効果があったはずだし、今回だってなんに反対しているのかはっきりさせなきゃ、安倍晋三程度なら論破できるくらいの理論武装をしておかなければ、デモの意味がないでしょう?

これは考えるのもイヤなことだが、考えざるを得ない仮説がある…というかフロイトとか精神分析理論でも援用すればすぐに出て来る結論である−−原発の再稼働にしても、特定秘密保護法にしても、そして集団的自衛権にしても、反対を称する人たちも実は本音か、あるいは無意識・無自覚には、それらが必要だと思っているのではないか?

実は必要だと思っているから、自分は反対したという言質というかエクスキューズ作りをやっているだけではないのか?

本気で反対なら、議論に勝つ理論武装は必要なわけで、まず憲法の条文くらいは最低限でも読むだろう?というわけでハイ復習。

1. 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。 
2. 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。

で、この条文をちゃんと読めば、ここで僕が(このブログだけでも二度目に!)書いたことくらいすぐ思いつくはずだ。どうへ理屈をこねようが、集団的自衛権を認める解釈はあり得ない。

だいたい「抑止力」とかいう冷戦時代の時代遅れの安全保障論を持ち出しているのも、違憲なのだ。「武力による威嚇」は禁止なのだから。

仮によく考えなかったから思いつかなくても、だいたい僕が既に書いていることです。無料で読めるブログなんだからどんどん利用して下さって構いません。 
自分たちではうまく言える自信がないなら、論客だかオピニオン・リーダーとして利用したいんだったら、どうぞ僕を支援して、有名な知識人かなにかに祭り上げて下さいな。 
そしたら安倍さんに面と向かって言ってやりますよ、「まず9条の条文をどう読んだら『集団的自衛権』による武力行使が認められ得るのか、それをお答え下さい」。 
これで安倍さんが答えられなければ終了、夜遅くまで官邸前でたむろってる必要もないから、みなさんお家に帰りましょう。せっかく官邸前に来たんだから残って祝杯あげたい人はどうぞ。遥かに楽ではないか。どうせ安倍は答えられないんだから。

実は反対だ、自分は反対なんだ、と言わないと右翼みたいに思われるのがイヤで反対と言っているだけなのではないか? 本当は9条をきちんと守って、専守防衛で国民の生命と生活と財産の安全を守る場合だけ武力を行使出来るという自衛隊では、みなさん実は不安なんじゃないですか?

もしそうならば「解釈改憲」なんてそもそもあり得ない論理倒錯はもちろん、反対派のフリなんてやめて、ちゃんと憲法を改正する議論を始めて下さい。

なんちゃって、本気で日本の安全を守りたいのなら、そんな話もまた必要ないのである。

そもそも今の東アジアの現状で、戦争が始まるとしたら始めたがっている国はほぼ確実に安倍晋三の日本国だけだ。他の国は戦争なんて今始めるメリットがないと分かっている(いや日本だってなんのメリットもないのだが)し、むしろ絶対に避けたい。

東アジアは今や世界で最大規模にして最強の経済圏である。

その商売を守り、自国の経済の安定に結びつけることが、どの国にとっても最大にして最優先の国益なのだ(北朝鮮だってそれは変わらない)。戦争なんてもっての他なのだ。

尖閣諸島?あれは日本がナゼか一生懸命中国を挑発して既に完敗している(野田の国連演説に対し中国外務省が「戦後の国際的な法秩序は第二次大戦の結果に基づく」と報道官のコメントで済ませただけで、議論は終了中国の圧勝)、から「落とし前は付けて下さい」と言われているだけだし、仮に中国があの島々を自国が支配したいのなら、国際司法裁判所に持ち込みさえすれば、まず勝てる

それにアメリカだって巻き込まれたくない(日米安保により集団的自衛権を行使して日本を防衛する義務がある)から、あそこで軍事衝突が起こることを許さないという態度を貫き、「戦争を起こすな」と中国ではなく日本に対して、繰り返して牽制して来ている一方で、中国には既に国際司法裁判所に持ち込むのなら賛成する、とすら伝えている。

国務省と国防総省は今後万が一、またイラク戦争のような事態になったときには便利だから、日本の集団的自衛権を一応歓迎のポーズはとらざるを得ないが、現政権にとっては中国に不信感を抱かせるだけなので(習近平に「ほんとうにあの日本をなんとかしてくれませんか。アメリカの子分なんでしょう?」とまた言われるし)、むしろ迷惑がっている。4月のオバマ来日でも、それは彼の態度にはっきり出ていた。
だいたい中国の本音は一貫して、あの島々は日本が今のまま領有してくれた方が都合がいいのだ。 
日本が領有権を放棄でもしたら、今せっかく良好な関係を築き経済の要になった台湾と、国のメンツをかけた大げんかを始めざるを得なくなり、中国全土のあらゆるビジネスをうっちゃって、たかが無人島のために台湾海峡が緊急事態、ということにすらなりかねない。

集団的自衛権を憲法解釈の変更で認める(というのは条文を見る限りどうやっても不可能)にせよ、改憲で9条をいじるにせよ、そんな必要がない東アジアの現状で、今そんなことをやれば、周辺諸国の不安と疑心暗鬼を買うだけだ。それこそ安全保障リスクそのものである。

本気で日本という国を守りたいのなら、こんなもん賛成しちゃいけないのである。こんな話、安全保障政策としてもまったくの無駄どころか害悪しかない。

なお「他国の戦争に巻き込まれる」から反対というのは、それはそれで正しい主張ではある。

まったく安倍晋三とその周囲は嘘しかつけないのか、言ってることが嘘だと分かってないのか、そこへ行くと自民党の高村さんなんかは自分が嘘をついていることが顔に書いてある状態でテレビに写っていた。政治家があんな顔をしたらその政党には二度と投票してはいけない、という知恵すら我々日本人は失ってしまったのだろうか? それとも自分達が本当は共有している嘘を、自分達が言わずに済む、政治家が全部肩代わりしてくれることに安心出来るから、支持するのだろうか?

集団的自衛権とは、ヴェトナム戦争やアフガニスタン侵攻、イラク戦争のような事態、あるいはユーゴ紛争の際にNATO諸国がサラエヴォを空爆したような戦争行為に、日本も参戦することである。それ以外の意味は、「集団的自衛権」という概念にはまったくない。つまり、日本と日本人の安全に関係のない場所で、他国の自衛権のために戦争をやること、有り体に言えば「他所の戦争に巻き込まれる」ことだ。

外務省と自民党にとって、湾岸戦争に参戦出来なかったこと、イラク戦争でブッシュ・ジュニア政権に「ブーツ・オン・ザ・グラウンド」と恫喝されて水道工事に自衛隊を派遣し失笑を買ったことがトラウマなのは分かる。だが、ならばそういう戦争に参戦できるよう憲法解釈…は条文があの内容である以上無理だから、憲法を変えます、となぜはっきり言えないのだろう?

まるで美しくないです。どこが「日本は美しい国」なのか? 日本は本来なら「嘘つきは泥棒の始まり」とみなす文化伝統がある国ですが、あなた方のやっていることはつまり、日本を泥棒国家同然に貶めることでしょう?

こんな詐欺のなにが「法の支配」なのか?だいたいあまりに稚拙ですぐバレる嘘を繰り返してしまう、その頭の悪さが二重に恥ずかしい。なのにそれを指摘しないで反対派のフリをしていることもまた、同様の偽善に見えて来る。 
こうした政府と政権の欺瞞を、なぜ野党も識者もメディアも「嘘はやめましょう」とはっきり言わないのか? 
反対デモはなぜ「安倍晋三よ、嘘はやめろ」と言わないのか?

日本の外交的発言力は確かに、現状あまり高くない。それを軍事力の有無、戦争が出来ない憲法を持っていることのせいにしたがる人たちも多く、そんな人たちもまた集団的自衛権に賛成しているのだろうが、これも完全な勘違いだ。

日本の外交的発言力が低いのは、説得力がないからだ。なぜ説得力がないのかと言えば、言っていることがヘンだから、というのがいちばん大きい。

「解釈改憲で集団的自衛権を使えるようにします」なんてバカなことを言ったら、ますます「日本はなんでこんなおかしなことしか言わないのだろう?」と思われるだけだ。

6/30/2014

光秀はなぜ信長を殺したのか?


戦国時代後期に四国の支配者だった長宗我部氏に、天正十年(1582年)に織田信長の重臣・明智光秀の部下が、信長に従うよう促した書状と、長宗我部側がその部下に信長側に妥協する旨を告げた書状が発見された

このやりとりの直後に光秀が主君である信長を京都・本能寺で滅ぼした事件の動機を理解する新資料として、注目されている。


つまり信長は四国に攻め入り長宗我部氏を滅ぼそうと準備を進めていて、光秀がそれを阻止するために信長を討ったという解釈だ。

確かに日付けが近く(長宗我部氏の側が織田に従うことを意味する書状が5月21日の日付けで、信長の死は6月2日夜)、なぜこのタイミングで光秀が信長殺害を決意したのかの説明はつく。

だがそれでも、本能寺事件の最大の謎は解明されていない。

本能寺事件が現代人にとってもっとも理解し難いのは、なぜ光秀が信長を殺したのかではなく、なぜ光秀は、自分が確実に命を落とすことを覚悟で、この謀反を起こしたのか、なのだ。

まだ光秀が織田の有力家臣の誰か、たとえば柴田勝家と内々に話をつけていたというのなら、なんとか分からないでもないが(とはいえ、では勝家がどう主君を殺した光秀を許す理屈をでっち上げられるのか、想像がつかない)、僅かな手勢で本能寺の信長を討ってしまえば、強力な武力を持つ織田家臣団の誰かが即座に自分を攻め、勝つ見込みはほとんどない。

よしんば本領に帰りついて篭城したとしても、光秀を滅ぼし信長の仇を討った者が織田政権の有力後継者に躍り出られるのだから、誰もがその功名を狙う。決死の篭城戦は絶望的なものにしかなり得なかった。

それこそ四国に逃げて長宗我部氏の保護に頼るくらいしか、光秀には勝算どころか生き残る術すらなかったのだが、その当主・長宗我部元親は光秀自身の説得に応じて、織田に恭順を示したことも今回分かった。ならば長宗我部氏が光秀をかくまう可能性も低いし、光秀をかくまったことを口実に織田政権が四国に侵攻するなら、光秀がそれを阻止しようとした意味がなくなる。

まさに逃げ場、生き残れる可能性が皆無の光秀の謀反を、現代的に政治クーデタと解釈して、利害損得や政治的保身からその理由を探ることに、無理がある。

最近のNHKなら歴史番組ですら馬鹿げたバラエティ路線なので、タイムスリップしたレポーターが光秀に直撃インタビューして本能寺事件の真相を、とかいう展開の番組でも作りそうだが、もし僕が構成台本を頼まれたら、「信長さんを倒した理由はなんですか?」という質問をされた光秀が思わず激怒する、というシーンでも書いてしまう気がする。

「そなた、なにゆえにそんな分かり切ったことを訊く?(儂を愚弄しておるのか?)」

戦国時代当時の感覚と価値観で考えるなら、恐らく光秀にとって、誰かが信長を殺さねばならない理由は分かり切ったことだったはずだ。強いて言えばそれが許されるのは自分しかいない、というくらいの自負はあったのかも知れない。

現代人は信長を型破りな英雄くらいにしか考えておらず、その型破りさとは青年時代の茶筅結いの髪といった奇矯な服装や、意表を突いた奇襲作戦、イエズス会宣教師と積極的に交流し西洋の文物を貪欲に取り入れた新し物好き、大量の鉄砲隊の導入という前代未聞の戦法で甲斐の武田氏を破ったこと、絢爛豪華で西洋風の意匠も取り入れたド派手な安土城などが、そう思っている主な理由だろう。

近代以降の日本史の教育で美化された信長像と、当時の人間が見たであろう信長像は、かなり異なる。

我々は信長を、戦国時代を終結させ日本に安定統一政権を築いた先駆者という位置づけで見ているが、これは天皇を中心とする統一国家としての日本を理想像とした明治維新以降の歴史観に基づく解釈でしかなく、後付けの評価、英雄化に過ぎない。

現代の、「天下統一」の英雄としての信長の評価は、その後に徳川氏が250年に渡る長期の超安定政権を築いた結果論から遡ってみた上で出来る評価でしかない。当時の人間には織田信長はどう見えていたのかを考えれば、誰かが信長を殺さなければいけない、と明智光秀が覚悟を決める理由はかなり自然なものだ。

江戸時代にも、天下泰平の世を築いた功績を誇る徳川氏にとって、信長は始祖家康の同盟者であり、家康が信長を引き継いだことにはなるので一応の評価はしており、江戸幕府は信長を否定はしなかったものの、近代以降の信長の英雄化が決定的になった背景には、開国後の日本が近代の世界のなかで「サムライの国」というアイデンティティを(かなり性急に)作り出した(捏造した)ことも大きい。こと江戸時代の庶民にとっては織田信長はたぶんにからかいの対象であり(屈強大柄なのにナゼか前髪姿の小姓・森蘭丸との恋愛など、かなり卑猥な冗談のネタになっている)、また狂気の武将として忌避されるか、あるいはその狂気故に特別視されていた。

信長は確かに型破りな武将であり、その型破りさが甲斐の武田、三河の今川、美濃の齋藤、北條、上杉、伊達、長宗我部、毛利、薩摩の島津、細川などの有力大名を差し置いて、いわゆる天下統一に先手を打てた大きな理由であることは間違いない。

だがその型破りさとはなによりも、信長が日本人の常識ではあり得ないほど派手に人を殺した、虐殺をやりまくった、恐るべき殺戮者だったことだ。

応仁の乱に始まる戦国時代自体、統一政権がなかったことだけで現代の視点や価値観ではネガティブに見られているが、そこまで悪い時代ではない。京都は確かに荒廃し、足利将軍家は統一政権とは名ばかりの存在になってしまっていたが、全国統一政権がなかっただけでは必ずしも「乱れた時代」とは言えない。

名目上は一応足利将軍家を将軍と呼び天皇の信仰上の権威も尊重しながら、各地方をそれぞれに独立性の高い武家の政権が統治した、いわば地方分権の時代であっただけで、群雄割拠状態のそれぞれの諸侯が常に血みどろの戦乱を起こしていたわけでもない。むしろ武家の統一政権がなくなり、武家どうしの争いで武士の権力が相対的に低下した地域では、農民や商人らがそれなりに力を持ち自主統治と言える状態を作り出した場所すら多々あった。現代人が「宗教勢力」と誤解しがちな一向一揆も、実際には統治能力の低い武家の領地だった場所などで農民や在地の武士が自分たちの生活を守る自治・自衛を確立したことに他ならない。その思想的な支えが、浄土真宗の平等思想だったのだ。

戦国時代はある意味、歴史的な必然としての地方分権化だったとも言える。室町時代から始まった農業技術の革新が進み、農民はそれなりに豊かになり、その余剰の農作物の売買で商業も発達して諸国間の交易交流も栄え、文化的にも新たな創造が次々に産まれていたのだ。武家の統治能力が相対的に下落した結果、農民はたまにある戦乱で落ち武者として敗走する武士から武器を奪うなどして、相当な武力すら持つことになる。「下克上」というと悪く聴こえるが、要は身分制度が揺らぎ、農民や商人から武家になり武将として成功したのは、なにも羽柴秀吉が最初ではない。たとえば美濃の斎藤道三は薬売りの出身だ。

『七人の侍』みたいな、野武士に蹂躙されなにもできない百姓、荒廃した農地、といったイメージに我々は影響されがちだが、武家同士の戦争はたいてい農地ではない、庶民を巻き込まない場所で、農閑期に行われていた。武家はそれなりに農民や庶民に配慮しなければ、そもそも年貢などの収入もなくなってしまうのだ。だからそれぞれの地方のいわば実質独立政権としての諸侯は、戦争に勝って所領を広げるよりも、今現に統治している地域を安定させることに腐心していた。甲斐の武田が戦国最強と呼ばれるほどの軍事強国化を目指したのは、雪深く気候が厳しく、経済的に後進地帯だった甲斐・信濃の、その領民をなんとか「食わせるため」でもあった。

そんな時代にいきなり、「領民を食わせること」もお構いなしにバンバンと支配地域を広げる戦争に熱中して殺戮を繰り返した信長の登場というのは、それだけで型破りだった。

当初は楽市楽座制など、自国の経済成長にむしろ腐心していた織田政権だが、その勢力を増すほどに、戦いで破った敵方を許したり自分の家臣団に組み入れるよりも、平然と皆殺しにすることを厭わなくなる傾向が、比叡山焼き討ちや浅井攻め辺りを契機に顕著になっていく。型破りといえば型破り、というか当時の日本人には想像もつかない残虐さだ。

また叡山焼き討ちなどの信長の蛮行が型破りだったのは、本来は武家の戦争はまず武家どうしで、宗教勢力や庶民を巻き込んではいけないという武家の不文律を完全に無視したことだ。戦闘員でない者でも、それこそ女子供でも、平気で殺させたし、さらには当時の日本人にとって完全に「罰当たり」になるしかない相手を平然と攻撃し、滅ぼし、虐殺を繰り返した。

天皇家と結びつきが強く、もっとも権威ある寺社のひとつである比叡山を、信長は焼き討ちして僧侶や僧兵を皆殺しにしている。これはまだ教科書などで我々が一応は習っている信長の所業だが、信長の「天下統一」の最大の障害であり、信長が残虐の限りを持ってそれを撃ち破った「最大の敵」については、今もタブーになっている。

信長の「天下統一」における最大の「功績」とは、浄土真宗の石山本願寺を滅ぼしたことだ。

これも現代の我々は、単に旧弊な宗教組織を叩いたかのような意味に誤解して「信長は先進的な型破りの英雄」とますます思い込みがちだが、当時の実態はそんなものではまったくない。

本願寺派は日本仏教の最大宗派であり、それはなによりも庶民にもっとも広まった信仰だったからこそ、信長は目の敵にしたのだ。

その庶民とは戦国時代に武家の政権が不安定で脆弱になったなか、農業技術の進歩もあって力を増し、先述の通り武装すらし、時には自治すらやっていた農民である。武家から見れば一向一揆と呼ばれ、現代人は「反乱」でもしていたかのように誤解しているが、客観的には農民や庶民が武家を必要とせず、自衛と自治を自分達の手で、真宗の信仰を倫理規範にして実行していたのが戦国時代の「一揆」だ。

その総本山、大坂の石山本願寺(現在の大阪城)こそ、信長がもっとも手を焼いた敵だった。

この浄土真宗の総本山と支持する一般庶民の、実は当時の日本で最大級の武装勢力を、血みどろの容赦ない虐殺という手段で潰したことこそ、信長の「型破り」、まさに天に唾し民を恐怖させる狂気の「功績」だったのだ。

信長がキリスト教にも関心が深く、ルイス・フロイスなどイエズス会宣教師を優遇したことも、現代に信長が評価される理由のひとつとなっているが、これも明治維新で日本政府が積極的な西洋化を押し進めた、そのお手本とみなせたことが大きい。しかも宣教師が持って来る西洋の文物や新技術はどんどん取り入れ、西洋風の城郭として安土城まで作らせながら、信長はキリスト教の信仰自体にはなんの興味もなかったとされている。明治維新の日本政府が捏造しようとした歴史観にとって、「日本人の魂は棄てなかった」とか言えるわけで、最適に理想的だった。
だがキリスト教を優遇したこともまた、信長が既存の日本の宗教権威をまったく尊重しなかったどころか弾圧したくてうずうずしていた、寺社仏閣を平然と破壊しその信徒を平気で殺す虐殺者の本質と表裏一体でもあるのが、当時の視点・価値観で見た信長の実態だ。
後に豊臣政権が長崎でいわゆる二十六聖人を処刑し、江戸時代に入ってキリスト教が禁じられたのは、切支丹の側から見れば暴虐な悲劇なのは間違いない。しかしイエズス会が日本の既存の信仰を弾圧し破壊する信長に全面的に協力していたことと裏腹の関係にあったことも、無視はできまい。 
切支丹弾圧史や江戸幕府の宗教政策は、この方向性からも再検討する必要があるように思える。

これだけの危険な、狂っているとしか思えない虐殺者・信長が日本全国を支配下に置いたら、どうなっていただろうか?

現代の我々は信長が恐るべき虐殺者であったことを知らないから、光秀が忠義を誓ったはずの主君を殺した理由を理解できず、裏切り者となじったり、その動機についていろいろな説を空想してしまうのである。

過去の、その当時の人間の価値観を考慮せずに、歴史を理解することは出来ない。

信長のように人を殺しまくっていては、どんなに諸国を平定し、暴力の恐怖で諸侯を着々と支配下に置こうが、天下が治まるわけがない。

信長の戦争の後には膨大な死者と、人心には恨みと恐怖ばかりが残された。それも彼がとくに目の敵にしたのが、信仰心の篤い普通の庶民と、その信仰を集める寺社仏閣である。

当時、この前代未聞の型破りの虐殺者・信長の譜代の家臣であり、織田家臣団のなかでも随一のインテリ、遺された史料によれば漢籍にも通じ道徳心も強い常識人だったと思われる光秀にしてみれば、君主の徳などかけらもない暴虐な、狂った主君は誰かが止めなければならず、それが許されるのは私利私欲抜きに命を棄ててまででも、自分こそやらなければならないと思ったとしても、なんの不思議もない。

西洋的な歴史観を導入しつつ、かつ信長が暴虐な殺戮をくり返した史実を後世の贔屓目で無視してしまうから、我々現代人は本能寺事件を政治的な意図を持ったクーデタだと考えてしまい、その動機が謎になってしまうのだ。

実際には本能寺事件の当時、信長は備中を羽柴秀吉に攻めさせ中国地方侵略の真っ最中、四国攻略も秒読み段階に入っていたのである。誰かがこの狂気の虐殺者を止めなければならなかった。それが光秀だった。

こと四国は今でも真言宗のお遍路八十八カ所が有名だが、特殊な霊的な意味を持ち、信仰や宗教権威の強く、聖地の多い土地柄だ。 
比叡山や本願寺など、これまでの信長の信仰集団と庶民への容赦ない血みどろのやり方を見ていれば、四国ではより凄惨な殺戮が起こったであろうことを光秀が心から危惧したとしてもむしろ自然だ。 
その意味では今回発見された文書は、光秀がついに信長を討つ決意を固めるに至った過程を考える上で有力な史料にはなるように思える。

結局、光秀が本能寺事件を起こしたのは、ただ信長の殺戮を止めることだけが目的で、自身の野心なぞ関係ないどころか、自身の命すらその犠牲にする覚悟だった、と考えるのがもっとも自然ではないか?

網野善彦以降の日本史学研究では、過去の日本人が本気で祟りを恐れる民族であり、特定の信仰というより日本古来の価値観に基づく信仰体系を持っていたことを勘案すると、様々なことが明晰に説明できることが分かって来ている。 
そうした日本の伝統的な信仰のイメージに当てはめれば、信長の実際の戦争や政治が型破りであると同時に人命をほとんど考慮しない残虐なものであったこと、奇矯で派手で目立つ服装や髪型、甲冑などを好んだこと、ど派手で奇抜な安土城の造形など、どれをとっても人の姿をしたカミないしオニとして受け止められていたことが容易に理解できる。 
確かに破格の強さを持ち、群雄割拠が固定化していた当時の日本の現状を変えるパワーを持った信長は「カミ」であると同時に、日本人にとっての「カミ」とは人間を超えたなにか全てであり(神と悪魔の区別は、日本には元々は存在しない)、それはいつでもオニに転じ得る。信長が暴虐な殺戮をくり返すオニと化した以上、その荒ぶるカミを制し、倒すことは、現代政治的なクーデタではなく文字通り「まつりごと」、信仰政治のための犠牲、信長に殺された死者たちを慰め宥めつつ、オニとなったカミをカミの領域にお引き取り頂く儀式の意味を持つ。 
日本史上、死後政治的な権威付けで神格化されたのではなく(たとえば家康が東照神君となったような)、生きながらにして「カミ」領域に入ったかのように神話化された武人は、神話時代のヤマトタケルノミコト以外には、他に平将門、源義経くらいしか類例がない。そのなかでも将門以上に、信長はカミであり魔物だった。 
その信長をカミとして殺す、いわば「神事」としての殺害を許されるのは、私利私欲が一切ないと天地神明にかけて誓約できる、その証拠として自らの命すら棄てられる者だけだ。織田家臣団のなかでその聖人君子の行いが出来そうな人間は、明智光秀以外に見当たらない。

の本能寺事件という一事をとっても、我々現代の日本人は、実は自分達の歴史をあまり理解していないし、最早その理解の手段すら我々からどんどん遠のいている。

どこの国でも歴史を国家の自己正当化のために恣意的に歪めることは大なり小なり行われて来てはいるが、日本の場合は元々アジアの国、アジア的な価値観で歴史が作られて来たことを、明治維新以降に無理矢理西洋的な標準に合せ、そんな実態なぞあったためしのない天皇を政治的中心とする統一国家を「正義」としてしまったので、ことその歪みが大きい。

だから現代の我々は、もはやこの本能寺事件であるとかの重大事件の本来の歴史的な意味すら分からないし、たとえば忠臣蔵がなぜあそこまで日本の国民神話になったのかも理解できない。

ついこないだ「サムライ・ブルー」のサッカー日本代表が案の定、またW杯で敗退したが、武士、武家をことさら英雄視して日本を「サムライの国」という虚構の自己既定をしてしまったこと自体が、本来の日本の歴史からすればまったく歪んだ西洋コンプレックスの裏返しでしかない。 
そしてそれが、明治以降1945年に至る植民地主義の侵略国家、そして自滅寸前の敗戦という、恐ろしく倒錯した道に日本を歩ませてしまった。 
そもそも、そんな「サムライの国」という発想自体が、歪んだ虚構だったのに。

信長が残虐な殺戮をくり返した狂気の武将であったことが隠されてしまったのと同様に、近代国家日本の軍隊もまた残虐な殺戮や暴虐な支配をくり返してしまった過去も、現代の我々は忘れがちだ。

だが信長の虐殺は日本人どうしの国の内部でカタがつき忘れられたとしても(信長が石山本願寺を滅ぼした後も本願寺派は日本で最大の仏教宗派、信徒集団であり続け、秀吉が京都の広大な敷地を寄進し、そこに西本願寺が建てられ現代に至っている)、近代の、他国でやってしまった殺戮や暴虐な支配は、そう忘れられるものではないのだ。



西本願寺、御影堂。いったん信長に滅ぼされてもこの威容。
「猫の首に誰が鈴をつけるのか」という言い回しがある。

信長という猫どころか危険な虎、鬼は首に鈴でなく首を切り落とすくらいしか、その残虐な魔性を抑える術はなく、明智光秀が命を賭してその任を果たしたのだとしたら、今の日本は安倍晋三というたかが愚かで幼稚な子猫の首に鈴をつけることすら、誰もが怯えたまま、やろうとしていない

そして我々の歴史観はどんどん歪んで行く。

およそ中国や韓国の歴史観をなじれる身分ではない。日本人は日本という独自の高度に洗練された国と民族であったその意味、アイデンティティを見失わされ、虚構の歴史を信じ込まされたまま、今や「本能寺」と言ってもなんのことか分からない若い世代が大半の国になりつつある。

その自分たちの歴史すら知らない者達が、明治維新時に西洋の標準に合せて急ごしらえで捏造した国旗としての「日の丸」や国歌としての「君が代」に固執して、その意味も分からないまま強制しようとしているのである。呆れる他はない。

6/26/2014

負け犬のナショナリズムとマゾヒズムの正義


承前。河野談話の検証で明らかになった事実関係だけを抽出すると、今回の報告書が懸命に印象づけようとしていることや、安倍晋三政権がそもそも調査をさせた動機とは、むしろ真逆の経緯が見えて来る。

当初文案から「慰安婦すべてが強制だったわけではない」という主旨の、強制を前提にした記述があり、これが韓国側との非公式協議で変わったことが実際の事実関係の最大のポイントなのだが、この元の日本側主張とてあくまで、慰安婦が強制だったことを前提に「しかし全員が全員そうだったわけでは」と言っているに過ぎない。

つまり韓国側の圧力(だいたい先述の通り普通の非公式ルートの打診だけで、そんな圧力なんてない)や、実際の被害者16名の証言を聞くまでもなく、「慰安婦は強制だった」は最初から日本側の認識だったことこそが、検証報告で証明されたことになる。

河野談話で日本政府が慰安婦が強制だったことを認めたのは、これまで言われて来たような河野洋平氏の独断でもなければ、韓国側の圧力に抗しきれずでもないし、証言者という動かし難い事実を目の前に突きつけられてでもなかった。最初から強制があったことが前提だった、というのが、今回の報告の事実関係から導き出される、最も中心的な結論であり、これまでの認識を覆す新事実でもある。

たとえば、この調査のきっかけになった、元慰安婦の証言聞き取りに関する当時の官房副長官による不平不満の国会証言はなんの意味もなかったことにもなる。 
1) 証言の聞き取り調査は、日本が強制を認めた重要な理由、強制があったという根拠ではない。むしろ韓国側と被害者の顔を立てる儀礼的な形式と、なによりも無理難題を言い続ける日本側の政治家の一部を説得するためだった。
2) 聞き取りの手法自体は、性犯罪被害者の証言をとるのに裁判証拠でも採用されている普通のやり方だ。

だがこれも考えてみたら当然の話だ。もし日本軍が強制で多くの女性を慰安婦にして虐待したと認め、謝罪するのが目的でなければ、河野談話は出す理由も意味もそもそもない。

慰安婦が強制もされず自由意思で日本軍に奉仕し、違法性も人権侵害もなく、慰安婦制度になんの問題もない、‪安倍の周囲が言うように慰安婦問題それ自体が捏造だったなら、そもそも河野談話なんて準備する必要すらなかったはずだ。

深読みするなら、河野談話の当初文案に「すべての慰安婦が強制であったわけでは」的な文言が入っていたこと自体が、自民の一部を口説き落とす外務省の苦肉の策だったのだろう。韓国が納得するかどうか以前の問題で、既に前回エントリーで書いた通り、こんな見え透いた論点誤魔化しを国の公式見解で出せるはずがない。

だから最初から最終文面に残す気がない言及だった、とみなす方が外交の常識からして自然だろう。

外務省としては河野談話が日本の名誉のために出す必要がある、しかし与党の一部が納得しない、という綱渡りのなかでわざと「すべての慰安婦が強制であったわけでは」と論点を誤摩化すような文言を入れて、それが韓国側の反発で修正を余儀なくされることも計算づくだったのでは、とすら思えて来る。

‪安倍晋三‬ら自民のなんちゃって右派の二世三世は、外務省が河野談話を出すために自分達を納得させる方便で作り出した「いや仰ることは分かるのですが、ホラ韓国がうるさいし、朝日新聞に叩かれますから、妥協するしか」的なフィクションを、本気にしてしまっていたのだろう。いわば都市伝説に振り回された類いの話だ。

当初文案に「すべての慰安婦が強制であったわけではない」という非常識な言及があれば、非公式に見せられた韓国側は当然反発する。だがこの主張はデタラメな誤摩化しではあっても、少なくとも強制の事実は前提になっているから交渉の余地はある。

もし「強制はなかった」と書かれていたら、韓国は猛反発して日本を公然と非難しただろう。韓国政府の立場からして、交渉を決裂させざるを得ない。

韓国と全面対決になるだけではない。河野談話が「強制なんてなかった」というための政府声明だったら、日本が国際社会の総スカンを食らっていたのは確実だ。だいたい宗主国の軍隊が植民地や占領地女性に性奉仕をさせていただけで、その本質はレイプになる。戦場で半ば偶発的に略奪や強姦が起こるのよりも、システマティックな制度体制であっただけに、より悪質だ。

その被害者である女性たちを「高給に釣られた売春婦」とか言い出すのなら、最悪の暴虐な女性蔑視にもなってしまうし、高給で慰安婦を募集していた広告を持ち出したところで、なんの証拠にもならない。いやむしろ、そうやって募集した時点で業者が「日本の工場で働く」などと言って騙す不正行為が横行し、新聞に叩かれた史実がある(結果、軍と警察の同行が命じられた)のだから、その広告は「朝鮮人女性の多くは高給くらいで日本の性奴隷になることは選択しなかったから、ほとんど集まらず、強制で慰安婦を集めた」という間接証拠にしかならない。

公式文書がない、というのもなんの証拠にもなるはずもない。最初から違法行為である証拠をわざわざ公式文書に残す阿呆はおらず、実は違法行為を命じていても一見そうは読めない文言にするか(そしてその命令書は実在する)、証拠を残さぬよう口頭の命令で済ます。

安倍晋三さんはせめて麻生太郎さん並に漫画くらいは読んだ方がいい。ヤクザものの漫画でも、あるいはマフィア映画でも、武器や暴力で脅して証文や契約書にサインさせる、署名捺印させるなんて当たり前の手法だ。そういったことがフィクションで使われるのは、もちろん現実にいかにもありそうな話、よくある話で、説得力があるからだ。 
安倍さんはテレビで株価ばかり見てないで『相棒』でも見ればいいのに。今の民主国家日本の警察だって、実は違法行為になる命令は口頭で証拠を残さないようにやるか、一見違法ではないように見える文言の命令書を出す。そう言ったリアルな社会で実感することをきちんとドラマ化しているから『相棒』は人気があるわけで。
こんな世間では当たり前すぎて大衆エンタテインメントでも常套の手法にすらなっていることを無視して、とはあまりに教養がなさ過ぎて恥ずかしい。

河野談話の検証の結果それ自体は、「ずべての慰安婦が強制だったわけでは」という国家の出す声明文としてあまりに非常識な文言が当初あった以外は、ごく普通の外交手続きが示されたに過ぎない。

それでも安倍さん達は、韓国の圧力だか朝日新聞の陰謀だかに負けて出されたもので日本は韓国の陰謀の被害者なんだ、と言い張りたいらしく、報告書自体もその恣意的に歪曲された解釈に読者を誘導する意図が相当に明白だ。

日韓関係をぶち壊しにしたいようにしか見えないことはさておいても、よく考えてみたら奇妙な心理だ。朝鮮日報の社説に「日本外交の独自性を自ら否定している」と皮肉られた、つまり独立国としてあまりに恥ずかしいことを自ら公言している、とイヤミまで言われてしまったのだが、これは「安倍晋三は危険なナショナリストだ」と言うだけでは説明がつかない問題ではないだろうか?

これまで世界史のなかで普通に理解されて来たナショナリズムとは、ベクトルが逆なのだ。ナショナリズムとは通常、民族や国家の正義と勝利、少なくとも闘ったことや勇敢さを称揚するものなのだが、安倍晋三の時代の日本のナショナリズムは違う。

たとえばソウルにでも行けば、韓国は日本の植民地支配への恨みつらみで被害の歴史を教えて洗脳している反日なのだ、と言った日本人の思い込みがまったくの誤りであることに気づくはずだ。そんなに抑圧と被害の歴史を教えたいのなら、たとえば日本総督府を撤去したりはしない。だがまさに被害の象徴である日本総督府は跡形もなく広大な広場になり、感福宮を復元して韓国のナショナリズムがしきりに強調しているのは(といって植民地になる前にも李朝の皇帝がほとんど住まなかった宮殿だし、北京の紫禁城の縮小コピーでしかないのだが)、朝鮮民族の偉大な歴史であり(李氏朝鮮は実際にはかなりひどい王朝だったが)、ハングル文字の開発を命じた李朝の皇帝の金ピカの像まで立てている(そのハングルは、民衆が文字を読めるようになるのを嫌った後の皇帝達が封印したのだが)。

5.4運動が起こった公園には、抗日抵抗を呼びかけた当時のインテリたちの英雄化された銅像と記念碑が並んでいるが(実際にはたいした数ではなかったのだが)、それこそ日本軍が朝鮮人民に銃剣を突きつけているような像はどこにもない。

ソウル市内には植民地時代のことを展示する博物館もあることにはあるが、相当にうらびられているし、展示内容はまったくたいしたことがない。「あんなところ行かなくていい」と言われたのは僕が日本人だから気を遣ってくれていたのかと思えばそうではなく、単につまらない、韓国人にとっても退屈だろう。

これは中国でも同じで、たとえば抗日戦争時代を描いた映画はかなり作られても、そのテーマは中国の民衆がいかに抵抗したかであって、日本軍が酷かったことは物語の舞台背景設定でしかない。

満州帝国の首都・新京であった長春では、日本時代の公的な建築物がそのまま使われている、憲兵隊本部が共産党本部になっていたりして、皇帝・愛新覚羅傅儀の宮殿が日本の圧制の記念館になっている…というと仰々しく聴こえるが、傅儀が住んでいたのは仮宮殿で、町の中心部からは外れた、相当にこじんまりとした建物だ。

ベルトルッチの映画『ラストエンペラー』は実際にここで撮影されたので、映画ファンが期待して行くと、立派に見えたのは映画のマジックであり、しかも外装と中央の吹き抜け階段以外のほとんどの大仰な室内セットは、チネチッタに作られたセットだった。

ベルナルド・ベルトルッチ監督『ラストエンペラー』

はっきり言えば長春に日本支配が残した公的な建造物のなかでもっとも地味で目立たないものだけが、日本支配を伝える博物館に当てられていて、展示内容もえらくチャチでなんの感興も呼び起こさないのが実際だ。ソウルの記念館もそうだが、これで「日本はこんなに酷いことをしたんだ」とか涙を流して反省する日本人がいたら、そいつはサヨクの偽善者だ、とすら言ってしまいたくなるほどあっけない。

南京事件などで強調されるのは「日本軍が酷かった」よりは「日本軍が強かった」ことだ。日本軍が強ければ強いほど、それに抵抗し続けた中国民衆や、敗退させた八路軍がより強かったことになるからだ。だから中国側が国内では南京大虐殺の被害者数を30万と言っていることの意味も、誤解しない方がいい。

 張芸謀監督『紅いコーリャン』

イスラエル国家の樹立が正当化され、受け入れられたのは、世界史的に見ればホロコーストがあったからである。だがイスラエルでは建国後40年以上、ホロコーストはあまり語られない歴史であり、そこを逃れたり生き延びてやって来た移民は無視される、いわば差別対象だった。

70年代に書かれた遠藤周作の『死海のほとり』には、「私」がエルサレムでホロコースト博物館を訪ねる描写がある。誰も見学者がいない、うらびれた、埃じみて寂しい場所だ。それは中国でも韓国でも、被害の記憶を展示する博物館はたいがいそんなものなのだ。

こと韓国やイスラエルでは、そうなるのは当たり前でもある。韓国なら北朝鮮、イスラエルならアラブ諸国と、独立以来ずっと戦争状態にある国家だ。自分達の民族の悲惨な敗北の歴史は封じ込め、英雄的な勇敢さと力を称揚するナショナリズムを作り上げなければ、戦い続けられない。

フランスは極めてナショナリスティックな国であり、今も超右派の国民戦線の伸張が危惧されているが、フランスはナポレオンがワーテルローで惨敗して以来、戦争に勝ったことがない。それ以前だってたいがいは、戦争に負けている。ナポレオンが国民的英雄に演出したジャンヌ・ダルクは、フランス国土の半分がイギリスに占領された百年戦争のヒロインだ。

そのジャンヌ・ダルクと第二次大戦中のレジスタンス、そして国民的な人気マンガである『アステリックス』(カエサルに侵略されたガリアで、ひとつの村が抵抗し続ける話)が、いわば現代フランスのナショナリズムを規定している。だがそこで強調されるのはいずれも、占領されて悲惨な目に遭ったことではなく、雄々しく闘ったり、粘り強く抵抗したことである。


ポーランドはドイツとロシアという二大強国に挟まれた辛い歴史を歩んで来ただけにナショナリズムが強い国だが、その国民的叙事詩とされる『パン・タデウシュ』は、ナポレオン戦争の流れで一回だけポーランド人がロシア人を追い出したことを、ほがらかでおおらかに歌い上げるものだ。

アンジェイ・ワイダ監督『パン・タデウシュ物語』

「自分達が負けた」「被害者だった」なんてことは、ナショナリストにとってあまり嬉しいことではないし、国家にとっては国民が暗く鬱的に落ち込んでしまうからあまり言いたくない歴史なのが普通だ。

ところが今の日本のナショナリズムはまったく違う。中国戦線の勝利や英雄的行為に沸き立った日米開戦前の日本のナショナリズムとも違う。

日米戦争の最中でも、大本営は日本が敗北を続けていることを「大本営発表」で国民に隠し続けて来た。 
実は国民は日本が確実に負けていることに気づいていたはずだが、それでも「勝った」「日本は強い」「神国だ」とうわべではかけ声を掛け合い続けなければ、戦争なんて続けられない。確かに戦前戦中の日本のナショナリズムにも、マゾヒスティックな面はあったことは当時の戦意高揚映画を見ても分かる。人々が共感したのは勝つことよりも、苦しい戦場で耐え抜く兵士や、自分を押し殺して大義に殉ずる苦悩だった。

木下恵介監督『陸軍』
 だがそのマゾヒズムは決して、「自分達は被害者だ」と負けていることを吹聴するのではない。もっと真剣だしそれなりに感動を呼んだのは分かる。

たとえば河野談話の検証報告で安倍晋三たちが言いたがっているのは、要は日本が韓国に負けた、ということでしかない。

靖国参拝をどうしてもしたいのは、韓国や中国や、今では米国に、日本が確実に批判されるからである。そしてその度に批判を浴びては、「韓国は、中国は反日だ」と言い続けて被害者になりきれるのである。

あたかも自分達が被害者である、イコール自分達は正義で、“いじめる側” が悪だ、と言いたいだけであるかのようだ。

これは国家間の関係や歴史に関することだけではない。たとえば死刑制度を支持する人たちは、被害者と被害者遺族を徹底的に利用し、自分達がその側にあるかのように装うことで、死刑を正当化する。

先日、さる知人が自分の本だから読んで欲しいと言われて、『さよならサイレント・ネイビー〜地下鉄に乗った同級生』という地下鉄サリン事件の実行犯のひとり豊田死刑囚についてのノンフィクションを読んだのだが、読み進めることがどんどん苦痛になって何度も投げ出したくなってしまった。

なにが苦痛って、この本の言いたいことは極めて明確だ。バッサリ言ってしまえば「友達の豊田君がこんなことになって僕は悲しかった。オウムもひどいし社会もひどい」。あまりに想定の範囲内というかワイドショー的で単調、まるで「豊田君(無自覚に、イコール著者本人)が遭ったひどいこと」のショッピングリストでしかなく物語的なうねりも構成もなく、単に退屈で読者不在…になるのも当然で、そもそも “人間” が不在なのだ。

著者は豊田死刑囚の親友で大学も一緒だったという。その友達をオウムに奪われ、止められなかった苦悩と良心の呵責が全編を貫いてでもいればまだお涙頂戴で読み甲斐はあったかも知れないが、自信の内面や思いを惜しげもなく披瀝する割には、苦悩も呵責もまるでない。そこではオウム真理教への憎悪と友達の豊田君を誤解している世の中への憎悪が、どちらも明確に既定されることも分析されることもなく、ただ感傷的にないまぜになっている。

そして著者が浮かび上がらせようとする豊田君像は、ひたすら被害者としての受け身の存在であり、人間として空虚でしかない。著者はその人間像を浮かび上がらせようという努力を放棄して「彼はこんなに真面目で純粋な人だった、洗脳の被害者なのに、加害者呼ばわりする世間は酷い」と、村上春樹によるサリン事件被害者(ならぬ「あの3月20日の朝」の体験者)の証言集『アンダーグラウンド』にまで見当違いの八つ当たりを始める。

そりゃ自分の意志ではなにもしていなければ、「悪いこと」はしていないことになるので、結果として「正義」、少なくともクリーンに見えるという理屈にはなるのかも知れないが…。

読者が関心を持つ、あるいはこれが文学として成立する中心軸は、なぜ豊田死刑囚のような自然科学の最先端の教育を受けた、素粒子物理学を専攻していたような「もの凄く科学的な人」のはずが、オウムのような矛盾だらけで非科学的な教義に染まってしまったのか、という疑問である。その豊田死刑囚の主体的な物語が浮かび上がらなければ、彼がどう生きてなぜこうなったのかを読者に感じさせなければ、文学として成立しない。ノンフィクション、内面の直接描写が禁じられた実在の他者を事実から描写するのでも、間接話法の技巧でそこを浮かび上がらせるから、たとえばカポーティの『冷血』は傑作なのだ。

トゥルーマン・カポーティ原作、リチャード・ブルックス監督『冷血』

あるいはフィクションならば、ドストエフスキーはラスコーリニコフ『地下室の手記』の主人公が徹底的に病んでいる、その病んだ主人公の意志や行動を語るから文学なのであり、シェイクスピアの悲劇の主人公は愚かであるからこそ、その愚かさ故の人間性の深さが産む悲劇に、我々は引き込まれる。

あまり愚かであるが故に深く愛した」、『オセロー』オーソン・ウェルズ監督

「豊田君」はこの本の主人公でありながら、そこには居ない、空虚でしかなく、空虚であるが故にいくらでも想像できる「被害者である豊田君」像に、また著者があられもなく自分を同化させたマゾヒズムのホモソーシャル幻想は無自覚に淫猥ですらある。

だが結果としてひとつだけ、『さよならサイレント・ネイビー』から学べることはあるのかも知れない。結果論として、なぜオウム真理教が産まれたのかの理解のきっかけは、与えてくれるのだ。

あくまで結果論として、なぜ「自然科学エリート」であったはずの豊田死刑囚を初めとする地下鉄サリン実行犯たちがオウム真理教にはまり、あのように幼稚で不合理で結果だけは恐ろしく暴虐な、動機の滑稽さと結果の悲惨のギャップがあまりにも不条理な事件を起こすに至ったのかを、『さよならサイレント・ネイビー』という世にも曖昧模糊として漠然たる自我の不確立な自己愛の書は、ちゃんと提示してはいるのである−−著者まで含めて病理の観察対象として見た場合には。

言語化されていない曖昧な映像の連続であるが故にそこまで明確に認識されないが、森達也の『A』『A2』も実は同じような叙述構造を持っている。そこで決定的なのはこの映画のカメラが遠慮なく言えばもの凄くヘタクソであることであり、「大人」や「プロ」の仕事に絶対に見えないことが、オウムに自己投影するこのいわばセルフ・ドキュメンタリーを成立させている。 
原一男が今、セルフ・ドキュメンタリーの傾向が強い日本のドキュメンタリー映画の現状を論ずる連続講座を主催している. 
原がこの最近の傾向について率直な疑問としているのが、そうしたセルフな作品のほとんどが「カメラが下手」(原自身はキャメラマン監督で圧倒的な撮影の名手)なのと「勉強をしていない」なのだが、むしろ下手であり不勉強、つまりは努力不足があからさまだから成立しているのが、このような「自己表現」なのではないかと僕は思う。 
そして実はそれは決して本来の意味での「セルフ」、つまり自己の表現ではない。空虚で主体性のない自己だから、映画とその作り手と観客が「受け身」の立場を共有できるから、決して感動ではないなんとなくの同化意識で、一定の満足を与えられるのだ。 
と同時に、それに満足できる観客というのは、実は「オウム化」が進行している現代日本人、あくまで「受け身」であり、好き嫌いや感情はあってもそれを基に他人には干渉しない、だから自己責任を負わずに済む地位に安住できる場を求めているのではないか。

たとえば『さよならサイレント・ネイビー』のような社会の認識、世界と自分との関わり方をしていれば、オウム真理教に洗脳されたり、安倍晋三が首相になってしまうのは、ある意味当然ではないか。

自然科学の先端教育を受けていたかどうかも実は関係がなかった、というより「科学とはなにか」の理解が、その最初の一歩から間違っていたのではないか? 著者にとっても、著者の無批判で潜在意識レベルでは多分に同性愛的な(フロイトの論に従えば性志向が未分化で幼児的な、無自覚な鏡像としての)同化幻想の対象としての豊田死刑囚にとっても、恐らく自然科学が提示する「真理」もオウム真理教の教える「真理」も、あくまで受け身で自分が主体的にその探求に関わる意志を持てない点において、そうすることで常に受け身の「依存者」ないし「被害者」であり続けたかったことに、本質的な違いはなかったのだろう。

科学も宗教・哲学も、本来の投企には人間が世界の根本的で普遍的な原理を探求することが根幹にあるはずだが、この著者や彼が同化対象とする豊田死刑囚に於いては、その主体性が予め去勢されているというか、そもそも豊田死刑囚にせよ著者自身にせよ、その自己という個が見えて来ない…というか「ない」のだ。 
あくまで受け身に、そうした「真理」を与えてくれるシステムに依存することだけが彼らの主体的な選択で、それが東京大学だったり麻原彰晃であったりしただけなのか、「真理とはなにか」を自らの主体性で考え続ける意思が見当たらない。

そしてこの被害者でありたい、常に受け身でしかない場に自分を置き続けたいいわばオウム的なマゾヒズムは、1995年から10数年のあいだに、日本社会の全体に蔓延してしまったように思える。決定的だったのは北朝鮮による拉致事件だ。帰還した元拉致被害者の蓮池薫さんの兄、蓮池透さんが、それを適確に指摘している。


それまで日本は植民地支配と戦争犯罪の加害者だと言われ続けて来た。だが拉致事件では日本人が被害者になった。とたんにマゾヒスティックな負け犬のナショナリズムのタガが外れてしまった、と蓮池透さんは指摘する。

安倍晋三は日本の右傾化を代表する政治的な事象である、という見方が国際的に定着しつつある。麻生さんが「ナチスを見習え」と言ってしまい、橋下徹さんが米軍も日本の性風俗を活用しろと言って慰安婦制度を肯定してしまい、都知事選挙で舛添さんが「女には生理があるから政治家に向かない」と言ってしまい、安倍がダボス会議で「中国との戦争も辞さない」という意味にしかとられないことを言って国際経済の関係者を震撼とさせ、今度は都議会での女性蔑視丸出しの野次とその顛末が注目され、日本の政治には旧態依然の時代錯誤な父権的・男性至上主義的なファシズムが蔓延しつつあるのではないか、と世界に思われ始めている。

今回の河野談話の検証報告や、安倍がその前に河野談話を撤回しようとしたことも、こうした従来型のファシズムへの懸念の文脈に位置づけられて警戒されているのは、ある意味では当然だ。

だがこの理解は皮相に過ぎず、安倍晋三の日本という政治事象と、その根底にある現代の日本の本当の病理の一面しか捉えていない見方だと、僕はあえて思う。

ダボス会議での安倍の発言も、「中国との戦争を辞さない」という意味をそこで読み取ることは、安倍本人や日本人の感覚からすれば誤解なのだ。あれは文字通りに読み取らなければならない発言であり、安倍は本気で「日本は中国にいじめられている被害者なんだ」と言うことで自己正当化が計れると信じ込んでいて、「そんなにいじめられたらボク逆ギレしちゃうぞ」と言っただけなのだ。

にわかには信じ難い幼稚さだが、安倍晋三にとって河野談話の検証は、まったく単純に「日本はこんなに韓国にいじめられて言いなりになった被害者なんだ」と言いたいことだけが動機なのだ。慰安婦の存在をなんとか無視したいのは、加害者であったことが「被害者=正義」という自己イメージの邪魔になるからだけなのである。

被害者になりたいマゾヒズム、弱者であるかそこに同化することで自分の存在が正当化されるという、今や日本の全体に蔓延した倒錯を理解しない限り、今の日本が本当に陥っている危険な病理を、止めることは出来ない気がする。

言うまでもなくこれは根本から倒錯した認識でしかない。被害と加害の関係において加害者が悪であることは、被害者が正義であることを意味するはずがないのである。

人間が正義、正しくあり得るとしたら、それは自分の意志で正しい行いをした時にのみ担保される。そして被害者であったり被差別者、いわば「弱者」である立場とは、その主体的な行動の権利を予め奪われてしまっていることに他ならず、それは人間として恐ろしく屈辱的な状況であり、およそ正義なぞ名乗る気になれるものではない。しかも自分の力でそこから抜け出すことが、恐ろしく困難なのだ。

実際に被害の当事者である者たちは、そのことを自らの人格が破壊されかねないほどの痛みと共に知り尽くしている。

その絶対的で絶望的な困難のなかで、それでも主体的な意志で立ち上がる時にこそ、自分の人生を生きる決断をした時にこそ、「物語」が産まれ、その決断の方向性がたとえ間違っていようが正しかろうが、それは時に芸術ともなり得るのだ。

たとえばその慎ましやかにして雄弁な例が『アンダーグラウンド』であり、ドキュメンタリー映画であれば土本典昭の水俣作品であり、もっともラディカルで破壊的なのが例えば原一男のスーパーヒーローシリーズだ。

あるいはそれを、自分を語るいわば「セルフ」によって成し遂げたのがリティ・パニューの傑作『消えた画』であろう。



13歳の時に祖国カンボジアでクメール・ルージュ時代が始まってしまったパニューにとっては、自分を語ることこそがその “それでも立ち上がる時”、奪われた自分を取り戻すアクションであると同時に、これは「被害者でしかない自分」を冷徹な覚悟で突き放す映画でもある。

6/22/2014

「河野談話」検証報告という外交上の自爆行為


安倍晋三さんは高校生の時に強姦事件を起こしていて、岸家(安倍家)の圧力で警察が握りつぶした、という噂が永田町界隈では根強いそうだ。

この書き出しを見て怒り出す人も、安倍政権があまりにデタラメなので筆者もついに気が触れたか、と思う人もいるだろう…が、ここにはあくまで、永田町つまり政界(実を言えば、それもむしろ自民党界隈)でそういう噂が行き交っているという事実が、伝聞で書いてあるだけだ。

そう言えば安倍さんが前に首相の時は自分の一身上の、病気でやめたはずなのが、自分で辞任会見はやっちゃうわ、復帰しても悪びれる様子もなく前回の失態の謝罪もしなかったのは、実はたいして重症ではなく、また自分から辞めたのではないからだ、と言うまことしやかな噂もある(というかこれは公然の秘密と言っていい。もちろん病気のことはただの言い訳で誰も本気になぞしていない)。 
なんでも山口組系からの献金を暴露すると彼の無能を疎んだ霞が関に脅されて、と言うまあこれも永田町で聞く噂だが、そんなのが総理だとしたらどう思います、的な風聞を、あくまで不確かな伝聞と断りつつ…あくまでそう言う噂があるらしい、と僕はお伝えしてるだけですが、どうなんでしょうね、総理にふさわしいんですかね…。 
いやだって、高校生時代についての「噂」は、これを言い合っているのがその安倍晋三を総理総裁に選んだ自民党の人々なんですよ? 
それも元首相で自民党最大の有力者の一人の一族ならば警察が犯罪でも隠蔽してくれるという話が当然の前提になってるんですよ、自民党関係者の間では。安倍氏自身の噂の真偽より、そっちの方がよほど問題だと思うのだが。

いやこれだって言論であまりやっていいことではないのだが、この際これもやむを得ない、というより安倍晋三さんに文句を言われる筋合いはないだろう。

たとえば安倍政権が従軍慰安婦問題の河野談話についてやった「検証調査」だの「報告書」だのは、要するにこれと同じこと、火のないところに一生懸命煙を立てる悪質な印象操作である。

最初は河野談話自体を撤回したかった安倍政権が、それは国際社会…というかアメリカが許さないと分かって、悔し紛れになんとかこの談話の信用性を毀損するイメージを作りたくてやっていること…に見えるのは日本国内で見た場合であって、たとえば朝鮮日報は社説で「河野談話検証は韓日関係の破たんが狙いなのか」と即座に反応した。

朝鮮日報の社説(日本語訳)

そう思われても仕方がないのだが、安倍首相とそのオトモダチ内閣は、この「調査報告」とやらが外交上そのようなメッセージとしてしか受け取られ得ないことに、どうもまったく無自覚なようなのだから恐れ入る。

安倍晋三が中国や韓国などの近隣諸国の関係を破綻させようという意志を持っているのなら狂人だろう。 
だが実際には、彼は恐らく自分のやっていることがそういう意味になってしまうことに気づいてすらいない。 
狂っているというよりも単に愚かなだけなのだが、どちらが危険なのかと言えば、ここまで来ると相当に微妙な問題である。

それに安倍がどんなに駄々をこねようが河野談話は撤回も修正も出来なかったのだから、そもそも意味がない「調査」だ。そんなに撤回したかったら、この調査をやってから「撤回する」とか言えばまだ筋が通るのに、この総理大臣のやっていることはまるで子どもだ。

客観的に、普通の国際標準で考えれば、こんな報告書を出したところで、悪意の印象操作以外の動機が見当たらない。まさか安倍晋三とそのオトモダチたちが悔しかったから、それをなだめるために国費を浪費だなんて、常識では考えつかないことだ(それだけ日本の政治状況が非常識になってしまっている、ということだでもある)。

報告書は冒頭で「河野談話に問題はない」と結論づけながら、延々とその結論を否定するわけではないが恣意的な引用で河野談話の印象を悪くするのには使える記述が、延々と21ページも続くそうだ

その意図を問われれば安倍政権は「いや河野談話は継承すると言ったはずだ」と言い張り、「ちゃんと問題はないという報告書を作ったじゃないか」とうそぶくのだろうが、もちろんそんなのは真意ではない(だったらそもそも調査自体やる意味がない)。

靖国神社に参拝するのだって、この人たちの場合はもはや英霊だ戦死者だのではなく、中国や韓国に反発され「サヨクのマスコミ」に叩かれる、そこへの対抗としてやっているだけだ。

なんとかケチをつけたい、というのがあまりに子どもじみている。

だからこそ、事実関係の再確認自体は、この談話の文責を負う河野洋平元官房長官自身が「足すべきところも引くべきところもない」というその通りだとしても、導き出されることを狙った恣意的解釈の方には多いに問題がある。

たとえば慰安婦の徴集に強制性があったとみなす結論が、元慰安婦の生存者16名の証言を取る前からほぼ決まっていた、と言われると、あたかも証言の信用性が薄いか、事実を証言で確認する前から決まっていた政治的結論だったかのようにとることも出来る。

もっとも、まともな常識があればそんな憶測は一笑に伏されることだろう。歴史学的な見解として、朝鮮人慰安婦の多くが強制で慰安婦にさせられたことは定説だったから、それを覆すような他の結論には、国家の名誉にかけて至りようがなかったのだ。

というか歴史学上の定説以前に、そんなのは戦後昭和40年50年代くらいまでは、日本人の常識だったわけだし、植民地宗主国の軍隊に植民地の女性が性奉仕をしていたという状況だけで、「強制はなかった」なんて言ったら国際的な常識ではモノ笑いのタネである。

河野談話の発表前に日本政府が韓国に文案を提示して非公式の外交上の折衝があったことも、いかにも安倍晋三さんとそのオトモダチたちが言いたくてしょうがないことのようだが、仮にも国の公式見解を出すのだから、そのように万全を期すのは当たり前の外交上の手続きだ。

せっかく公式談話で慰安婦問題の一応のカタをつけようと言う時に、かえって諸外国の不信を買ってしまっては外務省はどこまで怠惰で無能なのか、という話になる。

それどころか、普通に読めば報告書は日本側が当初どれだけ愚かだったのかまで明らかにしてしまっている。どうも日本側が強制の事実は否定のしようがないので、「すべての慰安婦が強制だったわけではない」とする文言を入れたがっていたらしいのだから呆れる。

そもそも日本国の責任が問われるのは強制されて慰安婦になった人がいたのが日本国家による人権侵害だったことであって、全員が強制であったかどうかなんてまるで問題ではないただの詭弁…にもなっていない。子どものいいわけだ。

ちょうど都議会で女性議員に「(子どもが)産めないのか」とヤジが飛んだことが問題になっているが、安倍晋三氏は「自民党の議員が言ったという証拠はない」、石破幹事長の「自民党議員と特定されたわけではない」とお茶を濁しているが、これも似たような心理に基づく子どもの言い訳だ、としか言いようがない

仮に一部の慰安婦だけが強制されたのであっても、それでも日本国家の責任は日本国家の責任なのだ。しかも「一部」であったはずもない。

安倍晋三のオトモダチのなかには、慰安婦は売春婦だったのだ、と言い張る人がいる。朝鮮の娼婦が慰安婦になった、職業売春婦だったら強制ではなかったはずだ、と言いたいらしいのだが、職業売春婦だって仕事の条件や、筋のいい客か悪い客かは当然気にするし、どこで仕事をするかによって客筋は変わる。

日本軍の兵士がそんなにいい客筋だったとは言い難い(将校クラスならともなく)し、まして軍専属の、前線に近い施設で軍に縛り付けられての売春業なんて、プロだったらまず避ける話だ。

安倍晋三氏とその周辺が言いたがっていること、この河野談話に関する調査報告で匂わせたがっていることは、彼らの内輪でしか通用しない理屈にしか基づいていない。いやこの調査をやらせたことも含めて、彼らにはこういうこと自体を日本社会や国際社会がどう受け取るのか、特に実際の慰安婦問題の被害当事者である人たちからはどう見えるのか、をまったく考えていないのである。

これでは子どものお遊びである。

ちなみに冒頭で書いた安倍氏に関する噂は「あるらしい」ではなく、本当に永田町方面ではかなり飛び交っている話だ(噂があることは誰も否定出来ないだろう)。 
むろん事実だとしても岸信介の孫だから警察に訴えても握りつぶされるし、被害者は金を渡され泣き寝入りだろう。だがそんな事件を起こせば、さすがに早稲田慶応レベルの私学は、いかに岸信介の孫でもそんなのを入学させるわけにはいかず、安倍さんの学力でもなんとかエスカレーター入学出来た成蹊大に、と話は続く。 
まあことの真偽は(北朝鮮の先代の指導者に関する変な噂とも同様に)無論定かではないが、このような “根拠” の方がまだ、この報告書を安倍政権がなんとか河野談話の信用失墜・無効化につなげようとしていることであるとか、そのオトモダチ連中が慰安婦に高額の報酬を約束するとした募集広告を引っぱり出して来る非常識よりは、遥かに説得力がある。

もうひとつ、実は長期的に考えれば日本の外交にとってもっと大きな損害が、この報告書を公表してしまったことにはある。

実際には河野談話について韓国など他国の外交当局と折衝していた(韓国が推計でもっとも慰安婦にされた人が多く、また90年代に最初に名乗り出たのも韓国の女性たちだった以上、韓国が最大の相手国になるが、慰安婦制度の被害はインドネシアでも生存者が存命中など、日本が戦地を拡散し支配した各地で起こっている)としても、そこまでは非公式折衝だ。

外交の当然のルールとして、他国との非公式折衝はオープンにしないことが最初からの約束であり、だからこそおおっぴらには言えない想定も含めてあらゆる可能性をぶつけ合って、首脳レベルの交渉の下準備をするのが外交当局の役目だ。その内容を相手国に断りなく公表してしまうのはルール違反であるだけではない。双方の国家機密の暴露なのだ。

日本はこの報告書で、韓国と日本双方の国家機密であることを公表してしまった。これだけで韓国政府を蔑ろにした攻撃的な行為とみなされるだけではない。日本と外交関係を持つあらゆる国が、日本は絶対に明かしてはならない外交官同士の紳士協定を平気で破る国だと判断していることだろう。

それこそ非公式折衝で伝える自国の機密レベルの情報などを日本相手に共有することは大いに警戒されて当たり前になってしまう。

あまりにも滑稽なのは、まさにそうした事態を阻止することが目的のはずで安倍晋三政権が物議を醸して採決を強行した法律が、特定秘密保護法だということにある。

外交上の非公式・秘密交渉の内容の暴露が処罰対象でないのなら、この法律をなんのために作ったのかすら分からなくなる。当然、真っ先に国家機密扱いされるべき内容なのだから。

まだ細則が決められず施行されていないこととはいえ、安倍晋三氏が主犯になって、自分達が必死で決めた特定秘密保護法に違反してしまったのがこの河野談話をめぐる報告書騒動なのである。

この河野談話に関する報告書のもうひとつの問題は、日本国の威信を思いっきり毀損してしまったことなのだが、それは先述の朝鮮日報の社説の結論で、僕なぞとても適わない皮肉たっぷりで指摘しているので、そのまま引用しておきたい。

韓日間の外交交渉について、安倍政権は何か「取り引き」でも行われたかのように事実を歪曲(わいきょく)している。安倍政権が今になって「外交交渉を経て日本政府はやむなく河野談話を発表した」という印象を持たせようとしているのなら、これは日本による外交の独自性を自ら否定することにほかならない