最新作『無人地帯 No Man's Zone』(2012)
〜福島第一原発事故、失われゆく風景、そこに生きて来た人々〜
第62回ベルリン国際映画祭フォーラム部門正式出品作品

8/04/2014

ガザの本当の戦争はイメージの戦場で行われ、SNS上の欺瞞のなかで勝敗がついている



今回のイスラエル国防軍(以下IDF)とガザを支配するハマス軍事部門の戦争は、ほんとうはなんのための戦争だったのだろうか?

イスラエルが相当の数のパレスティナ人を殺傷し、爆撃の下に逃げ惑わせていることを批判するのは重要だが、なぜ戦争になったのか、対立のコンテクストや前提条件を無視するといかにもトンチンカンで、ただ敵意だけがあからさまな「抗議」になってしまうだろう(というか既にそうなっている)。

まず今回のガザ攻撃がどうみても「侵略」目的では実はあり得ない以上、イスラエルを悪魔化するために大げさに誇張もされている抗議の大半は筋違いになる。イスラエルは2005年から2006年にかけてガザから完全撤退し、相当に強引な手段で入植地も撤去し、施政権も完全に放棄しているのである。オスロ以降の和平合意を完全に反故にするとでもネタニヤフが宣言し、侵略国としてイスラエルを弾劾する国連決議でも覚悟しない限り、ガザを再占領したり自国領に組み入れることはあり得ない。

そこまでやってしまえば、元々自分の任期中にパレスティナ独立の目処をつけたいオバマの米国が、安保理で拒否権が使えなくなることすら、想定しなければなるまい。

何人以上を「虐殺」と言うかの定義問題をやっても意味もないが、殺傷している数からして「虐殺だ」と言うのは間違いではない。いやイスラエルは「コラテラル・ダメージだ」と国際法的には主張するだろうが、国際法上は直接攻撃が許されない一般市民だから、わざと巻き添えにして殺すのは、近代の戦争では常套手段だ。

一晩で死者10万を出した東京大空襲も、攻撃目標が東京の市民であれば完全に国際法違反の戦争犯罪だった。 
だが一応は町工場が「軍事目標」ということにされ、10万の死者は「コラテラル・ダメージ」として処理されている。 
広島、長崎の原爆も、今のところそれが米国の公式見解だ。だからこそ日本人の名誉にかけて、その見解を変えて謝罪してもらわなければならないはずだが、我が国の方にその気がまったくない。オバマ政権にその気は十分にあるのに。

だがいかに「自衛とはいうが、どうみたって殺し過ぎだろう?」とは言えても(ただし戦争の目的が「自衛」であることと、そこで用いられる手段に、直接の関連性は元からない)、「ジェノサイド」「民族殲滅」が目的だとかいう勘違いをされては、イスラエル側がさすがにずっこけて笑い出してしまうだろう。


人口の20%がパレスティナ人で選挙権も含め完全な市民権を有しているし、イスラエル領内にもパレスティナ人の町はある(たとえばイエスが育ったとされるナザレ)し、三大都市のひとつハイファは半分がアラブ人だし、テルアヴィヴも南のヤッフォを含めれば相当にパレスティナ人が住んでいるし、エルサレムに至ってはアラブ人口の多さは言うまでもない。

1967年までは東エルサレムはヨルダン領だったし、今でもこと旧市街でもっとも活気があるのはアラブ人地区であり、パレスティナ人の文化的中心でもあり続けている。

それに「ジェノサイド」「民族殲滅」だと言い張る人たちは、どうもヨルダン川西岸自治区の存在を忘れているらしい。

逆に言えば、実はここまで過剰な攻撃で国際世論の注目をガザに集中させたのは、西岸から目を逸らせるためのイスラエル右派の謀略ではないか?  それこそがこのガザ戦争の真の目的にも思える。


そうとでも考えなければ、今更ここまでやる理由が(ネタニヤフ首相の地位の安泰のためを勘案しても)理解できない。ガザからは既に撤退している以上は、軍事目標を「自衛目的」で完全に破壊すれば、即座に軍を退去させなければならないのだから、ここまでやる意味がない。

だがガザと西岸では、状況はまったく違う。

ユダヤ入植地はまったく撤去されていないどころか拡張されていて、その防衛と称して膨大なIDF部隊も展開し、入植地に投石でもあろうものなら、近隣の村や町にIDFが家宅捜索に入る。

イスラエル領を自爆テロから守ると言う名目で西岸がすでに巨大な分離壁で囲まれ分断されていることは先日のエントリーで触れた通りだが、さらにもはや入植地を囲むのではなく近隣の村を囲むように鉄条網やバリケードが張り巡らされている。


「民族絶滅」は明らかに違う。パレスティナ人だけで600万、アラブ人全体なら2億だ。

だがイスラエルの支配が及ぶ範囲での「民族浄化」は、それも文化的な意味でならば、何重にもまったくその通りだと言える。

たとえば日本がアイヌや沖縄の琉球人に対してやって成功してしまっているような、尊厳と民族の自尊心を奪い、アイデンティティを喪失させ、二流三流市民に貶めるような同化服従政策である。 
パレスティナ人を二流市民、いわば奴隷の地位に貶めること。それはイスラエル市民権を持つパレスティナ人だけでも、今世紀の半ばにはイスラエル国民の半数に達するかも知れないという試算もあるなか、「ユダヤ人国家」を維持するにはかなり重要なことになり得る。

こと西岸のパレスティナ人は生活上に必要な道路すら分断され、まるで檻のような鉄条網の中に閉じ込められ、誇りもなにも奪われてしまい、しかも今回のガザ戦争を見ても、その事実に国際社会はなにも関心を示していない。

イスラエル市民権を持つパレスティナ人の状況はまだ遥かにマシだが、だからこそ「ああはなりたくない」という分断がいずれ産まれて来ることも、巧妙に計算されているのかも知れない。そうでなくともここまでイスラエル領内と西岸の格差がひどいと、イスラエル国籍の有無でパレスティナ人どうしですら話が通じなくなることも起こりそうだ。

第二次インティファーダに対応する形での西岸の再占領がもう10年以上も続くなかで、入植地とそれに付随する「防衛のための」占領地はじわじわと拡大し、パレスティナ人はじわじわと「民族としての死」に追いつめられている。



一方でイスラエルの与党リクードと、とくに連立する宗教右派にとっては、いかに和平合意でパレスティナ領となると決まっていても、西岸は手放したくないのが本音だ。

地図を見て、聖書でおなじみの地名を探してみてほしい。過去のユダヤ王国の領域はほとんどが西岸パレスティナ地域に属し、ユダヤ人の歴史とユダヤ教の聖地のほとんどが、イスラエル領ではない。

宗教極右にとっては、現代の国際政治のルールや国際法よりも「神」が優先される。世俗右派(非宗教)のリクードはそこまで現代のルールは無視出来ないが、国際世論の気づかないところで、なし崩しに西岸に浸食し、パレスティナの独立を少しでも遅らせ、西岸の市民に独立国家を求める希望を持てなくするよう、仕向けることは出来る。

平たく言えば、パレスティナ人に「やる気」をなくさせること、せいぜいが自爆攻撃のようなテロリズム以外しかやることが見当たらない立場に貶めることだ。

つまりはパレスティナ人の存在そのものが無視されるか、みんなハマス軍事部門の支持者でありハマスのテロリストの予備軍だとするイメージが作れてしまえば、それはイスラエル右派やIDFにとって明らかに都合がいい。


ガザ空襲に反対するデモや抗議は、この点ですでに実はイスラエル右派や軍の術中におもしろいようにはまってしまっている。無自覚にガザのハマスとパレスティナ人を(実態とはまったく異なるのに)同一視して、「パレスティナの人々のために」とハマス支持を言い張ってしまい、一般のパレスティナ市民のためのデモよりも、ハマスのためのデモになってしまっている場合すらある。

こうなるとデモの効果の戦略論としても疑問視せざるを得ない。 
デモが「イスラエルを地中海にたたき出す」と言い続けて来たハマス武装部門を支持し、あろうことか「イスラエルをアラブから追い出せ」と言い出す者までおり、ガザ地区からハマスが発射しているロケット攻撃すら正当化しイスラエルの生存権と自衛権を無視してしまうに至っては、イスラエルの左派ですら、そんなデモに共鳴して戦争を止めようなどとは絶対に出来なくなる。 
ネタニヤフら右派に至っては、そんなデモや抗議に耳を貸すわけがない。そんな弱腰(しかも言っている側は自分達ユダヤ人をこれまで差別して来た側だ)では、次の選挙で支持を失う理由になるに決まっているではないか。
いったいなんのためにデモをやっているのか、誰にアピールしているのか分からなくなるのは、こと3.11以降の日本のデモではよくある。あまりによくあり過ぎる。

しかも日本での抗議デモなどとなると、西岸自治区のことも、ラマラを首府とする自治政府の存在も知らない人たちすら多そうだ。

知っていたら、うかつに「ジェノサイド」とか「パレスティナ人をあんな狭いガザに押し込めて皆殺しに」とか、ヒステリックなことは言えないはずだし、IDFの攻撃を批判することがこうも安易に現在のガザのハマス政府支持へと横滑りなんて出来ないはずだ。

ガザを含めたパレスティナ自治区の正当な政府はラマラの自治政府であり、ガザのハマスはテロリズムの手段を用いて強引にガザを占領しているに過ぎない。

ところがイスラエルが既にガザからは撤退していることと並んで、ハマスのガザ支配が非合法で非民主的な圧制である事実も、今のガザ戦争をめぐる国際的な報道や議論からは完全に抜け落ちている。

そもそもなぜガザをハマスが支配しているのかすら、政治的時系列の文脈は完全に無視され、断片化されたイメージとして「イスラエルに攻撃されるハマス」であることだけで支持を集めている。

実はそう仕向けることこそが、ハマスがこのガザ戦争を起こすようにイスラエル側を挑発し続け、わざととしか思えないくらいに軍事目標を一般市民居住区に隣接させ、難民キャンプに兵士や兵器を潜ませたりする手法を使っていることの真の動機なのだろう。

ハマス軍事部門はIDFから市民を守る気などまったくなく、むしろIDFにガザ市民を殺させようとしている。そんなことをなぜやるのかと言えば、「自分達は被害者だ」と言った方が国際世論の同情を集められ、イスラエルに攻撃される自分たちのイメージを流布できるからである。

そのガザのハマスの本当の目的は、自分達の非合法なテロルによるガザ支配を、国際社会に正当なものだと認めさせることだ。そしてハマス軍事部門は見事にこれを成功させ、しかもラマラの自治政府の存在感も著しく低下させるという一石二鳥までやってのけた。

ガザからは戦争のイメージが無数に生産され発信され、SNSを通じて拡散されている。

だが西岸からはほとんどイメージが発信されない。それはこのネット上のメディア戦争のなかで、西岸がもはや存在しないと同然になってしまうことを意味する。

爆撃の被害や死者の写真なら誰でも撮れるが、じわじわと生活を圧迫されることも、生活圏が鉄条網やバリケードで囲われるか分断されてしまっていることも、映像や写真で表現するにはある程度の演出力や、時間、ないし文章力が必要となる。そのイメージを消費する側にもある程度の理解力と知識教養が必要とされる以上、SNSでクリックひとつで拡散されるイメージには向かない。

かくしてSNSのシェアと拡散効果を利用しまくったハマス軍事部門は、今やあたかも自分達がパレスティナ人を代表する政府であるかのように振る舞っているし、国際世論もその誤ったイメージを無邪気に受け入れてしまっている。


ガザを実は非合法支配して来ただけのハマス軍事部門が、こうしてこの戦争を利用してパレスティナ内部の政治対立に(いわば「外圧」で)勝利しただけでない。

実はイスラエル右派にとっても都合がいいのだ

アラファト後のアッバス議長の自治政府は明らかに能力不足とはいえ一応は普通の民主主義の政体を維持する政府であり、アラブの春の頃には国連加盟も取り沙汰された。つまりは早晩それが実現すれば、まともに交渉しなければいけない相手である。

アッバス氏自身は学者出身できちんと話のできる人間(それがアラファトの下で腐敗し切ったファタハを仕切りきれない政治的な弱みにも通じるとはいえ)ではある。 
チャンスさえあれば理路整然とイスラエルの過去10年以上の西岸に対する政策を国際社会に訴えることも出来る。 
それこそパレスティナ自治政府が国連の正式加盟国になれば、国連総会で名演説だって出来てしまう。

では自治政府ではなく、ガザのハマスが「パレスティナの代表」だったらどうなるか?今はイスラエルの攻撃があるから支持を集めるものの、それが停戦になれば、しょせん「狂信的なイスラムのテロリスト」扱いしかされないことは目に見えている。ならばこの際、ハマスを利用して自治政府の存在感を失墜させることは、合意したはずのパレスティナの独立をいつまでも先延ばしに出来るだけでも、西岸をなるべく手放したくないイスラエルにとって利にかなった話だ。


パレスティナ人に「やる気」を失わさせることでも、IDFとハマスのガザ政府の利害は一致する。

パレスティナ人に自分達の民族の独立した民主主義の主権国家なんて求められては、ハマス軍事部門だって立場がない。ラマラの自治政府の存在感を低下させることでも、西岸を国際世論に無視させることでも、一見人命をも省みない壮絶な闘いを繰り広げて対立しているかに見える双方の利害は、実はほとんど完全に一致してしまっているし、「パレスティナの人々のため」のつもりのデモや抗議までが実質パレスティナ人=絶望して狂信に走るテロリストのイメージを共有することで、実はそこにこそ貢献してしまっている。

背後でハマス軍事部門とネタニヤフのあいだで話がついていたとしても驚かない。1200人、そろそろ1300人の死者を出しているこの戦争自体が、めくらましの茶番なのである。

そしてこのガザ戦争に勝利したのはハマス軍事部門とIDFだ。双方ともに、自分達が国際世論に向けて演じたいイメージの流布も完全に成功させている。

そしてこの戦争の脇役になることすら許されずに国際世論にただ無視され、無惨な不戦敗に陥ったのが、ラマラのパレスティナ自治政府だ。

いやもっと悲惨な敗者がいる。


8年前の自治政府の評議会選挙で勝ったはずのハマスの政治部門だ。

イスラム法の強要はしない、民主主義を尊重し福祉充実を公約し、対イスラエルの交渉でもその生存権を認める方針で軍事部門と一線を画し、いわゆる「イスラム原理主義」ではなく、西洋先進国でどこでもあるような宗教を道徳的な柱とした中道保守政党に脱皮を計った政治部門は、にも関わらず国際社会の圧力で政権を失い、それでも長らく軍事部門と一線を画す、対立することすら明言して来たのが、まったく行き場を失い、2012年以降は軍事部門に吸収されてしまった。

その選挙で勝って首相になり、極めて知的で冷静でユーモアもある人物であることを見せつけたはずのイスマイル・ハニーヤが、今ではガザ政府の名目上の首相ではあるが、2006年の選挙当時に掲げた方針はなにひとつ尊重されず、ただ「かつて選挙で選ばれた人」というお題目がハマス軍事部門に都合良く利用されている、といった程度である。

この敗北の意味は皆さんが思っているよりもはるかに大きい。

2006年にハマス政治部門がちゃんとした民主的な選挙で勝ったこと、政策方針が西洋先進国でどこでもあるような中道保守で、腐敗の撤廃と福祉の重視を公約したこと、ハニーヤが自分達が支持されたのはアラファトの腐敗した政治への批判票であったと百も承知でリーズナブルな政治を目指したのに、国際的にまったく無視されたのは、アラブ民主主義の可能性が実は西洋中心の国際世論の身勝手な気まぐれによってこそ潰されたことを意味する。

その同じの国際世論が、今度は非合法で、テロの手段でガザの支配権を奪って来たハマス軍事部門の抑圧的な独裁政権を、イスラエルに攻撃されているというだけの理由で、ガザの正当政権であるかのように承認してしまっている。

これはいったいどういう偽善なのか?軽薄な気まぐれにも程がある。


いやだが、これこそが現代という時代なのだ。

アラブの春はツイッターやフェイスブックが情報流通と運動の組織化に大きく寄与した。その前にも(政府にブロックされているのにも関わらず)イランの選挙でもこうしたSNSは有効活用され、YoutubeのリンクやSNS自体のビデオ機能が多くの映像や声を伝え、アラブやイスラム世界の民主主義の希望を産んだはずだった。

だがそのインターネットで拡散するイメージの力は、すぐに暴走を始める。シリア内戦では携帯電話で撮影された膨大な映像が、その出所すら定かでないままにアラブ世界を流通し、イラクの内戦でも同じ現象が誤解を増幅させ対決を激化させている。

ラビア・ムルエ『ピクセル化された革命』抜粋

昨年のラビア・ムルエの来日公演の情報はこちら(フェスティバル・トーキョー)

ラビア・ムルエ、リナ・サネー共同演出『33rpmと数秒間』

我々の先進国は、そこにとってしょせんは中近東のどこかよく分からない場所についての映像の流通と自動仕掛け化された戦争プロパガンダ装置の恐ろしさから、ついこないだまでは無縁、つまりは無関心でもいられた。そうした情報をたまたま興味がある人がシェアやリツイートをしても、それがさらにリツイートやシェアされることは滅多になかった。


だが今回は、なにしろ国際メディアのスーパースターの座に君臨し続けるパレスティナとイスラエルの対決である。その戦争のイメージの需要と、消費したい欲望は、中近東ローカルには留まらない。

 『セプテンバー11』アモス・ギタイ編

このガザ戦争の本質は、欧米や日本といった先進国が、アラブの春を失墜させて行ったインターネット戦争の毒素に、初めて大々的に晒された事件でもある。

破壊の映像は麻薬であり、我々は簡単にその依存症に陥り、ネットは我々が際限なくそれを繰り返し消費することを可能にする。 
一見、たとえば「イスラエル軍の残虐」に怒っているかに見える人たちの神経は実は完全に麻痺し、ただ同じような映像や画像を繰り返し見ては「リツイート」なり「シェア」のボタンをクリックすることに、ある種の快感すら覚えているのだろう。

これまではせいぜい10日で終わっていたはずの、このガザ戦争のような衝突が、今回これだけ長期化したのも、それが国際的にこれだけ盛り上がり、今までほとんど関心のなかった日本でまで「パレスティナの人々が」というのがブームにまでなったのも、SNSの時代だからであり、既に中近東ではSNSをいわば映像のテロリズムとして使いこなす戦略が確立されているからである。

そうした情報の大元を出している側は既にこの3年以上の間に、狡猾な戦略論すら確立させているのに対し、我々には免疫がまったくなかったのだろう。

今回のガザ戦争の初期には、ツイッターやフェイスブックを中心に「ガザの殺された子どもたち」と称する写真が大量に出回り、それが国際的な反発に火を点けた。暴力の映像が、まさにテロルの効果を発揮した。

だがガザや、パレスティナに多少なりとも知識があるか、あるいは軍事や兵器についてある程度の含蓄があればすぐに気づくのは、それが服装や建築の様式からしてガザには見えず、爆撃の死者にも見えなかったことだ。

『無人地帯』の撮影監督の加藤孝信が、あまりに無神経な写真と映像の流布に頭に来て調べてみたところ、ほとんどがシリア内戦で出回った映像や写真の流用だったらしい。

今では実際のガザで撮った写真や映像も出回るようになり、シリアやイラクの映像の流用の氾濫は収まったようだが、死と暴力と破壊のイメージの麻薬的な効果にすっかり耽溺して脊髄反射しか出来なくしまっていることの本質的な問題は、なにも変わってはいない。

むしろ最初は実はガセであった(ガザではなくシリア内戦の)写真に騙された人たちは、騙された自分達を自己正当化するために「これは本物の映像/写真だ」とされるものをさらに熱中して拡散し、その麻薬効果に耽溺していく。最悪、「デマであっても周知する役割は果たしたんだから良かった」とまで言い出す

この産經新聞の記事によれば、IDFのツイッター・アカウントは35万のフォロワーを持ち、活発にイスラエル側の主張を(英語で)流しているという。そしてハマス軍事部門の方も負けずに自分達のアカウントや、ガザ市民と称するアカウントを用いて情報を発信し、それをIDFの暴虐に怒ったというか、その実こうした映像のテロリズムの麻薬効果にすっかり依存症になった人たちがしきりにリツイートや引用、フェイスブックのシェアやメール添付などで無限に拡散して行く。

ちょうど福島第一原発事故と同じ現象だ。ネットなんだから、PCやスマホなのだから、簡単にGoogleマップで地理的情報くらいは確認出来るはずだ。 
Wikipediaでもなんでも、歴史的な時系列を把握するための情報源もあるはずが、Wiki を引くのは自分の薄っぺらな想像を逞しくするのに都合がいい文字列だけをつまみ食いするのがせいぜいだ。 
こうして現実に人が生きていることのコンテクストが一切無視されてゆく。

かくしてSNS上で増幅されるピクセル化された死や暴力の悲惨のイメージは、決してリアルに生きている人間の生活と生存の文脈に引き戻して、たとえば地図を参考にして咀嚼されることがない。

そして歴史つまり時間的にも、地理つまり空間的にも、人間の生活と生存の文脈が完全に無視された、断片化されたイメージのテロリズムによる戦争の最大の敗者は、だからこそまたもや、パレスティナ人の総体である。


もはや誰も、生きている人間、なんとか自分達の民族の尊厳を守るか回復し、オスロ合意で約束されたはずの自分たちの国を作ろうと、最大限に知性と現実主義を発揮して来た本当のパレスティナ人を、理解する気すら持っていない。いや見る気すらない。

それはハマス軍事部門とIDFやリクードだけのやったことではない。私たちもまた無自覚に、ただの軽薄で浮気な気まぐれで、そこに加担してしまっているのだ。

そうでなくともテレビの時代から、パレスティナ人は常に、西洋が中心の(歴史的にしっかり根付いた反ユダヤ主義差別の無意識な欲望の捌け口を含めた)国際社会が求める役割を演じさせられて来た。

9.11の直後には、実はなんの関係もないパレスティナの村の映像が「アメリカが攻撃されたことを喜ぶパレスティナ人」の映像として流布したこともある。


僕がイスラエルから西岸地域に行ってみたのは、その9.11から3ヶ月か4ヶ月後のことだが、その時にさんざん聞かされたのが、まずは(これは当たり前ではあるが)アルカイーダを支持する人は一人もいなかったこと、皆イスラエルの生存権自体は認め、ホロコーストについては同情すら語っていたこと、そしていちばん驚いたのはヤセル・アラファトが嫌われまくっていたことだ。

「とにかくあのアラファトという男は、腐敗していて、自己顕示欲ばかりが旺盛で、どうしようもない」

僕もどこかうさん臭い男だとはなんとなく思っていたので、波長が合って話し易かったのかも知れないが、出るわ出るわ、会う人ごとにアラファト批判の数々!

死後明らかになったとされ国際メディアに一時ちょっと流れたアラファトの腐敗の実態は、実はその数年前にはパレスティナ人には周知の事実だったのだ。

「ちょっと待ってよ。ならなぜ彼にみんな投票するんだ?」と訊いて見た。

「仕方ないではないか。彼は世界的に有名な唯一のパレスティナ人なのだ。どんなに我々が不満でも世界にとってはヒーローであるアラファトについて、誰も我々が言うことなど耳を貸してくれない。 
彼がパレスティナを代表していれば、世界がパレスティナに寄付してくれる。 
たとえその8割がパリで贅沢暮しをしている彼の若い妻の元に送られるといっても、1割くらいは我々の社会を支える金にはなる」

そのアラファトへの批判票が一気に吹き出したのが、2006年の選挙だった。しかしなぜ彼の生前にはハマス政治部門に投票するとか、対立候補を支持しなかったのか?

「アラファトの性格からして怖かったことは正直に認める。 
なにしろ自己顕示欲しかない男だ。彼を批判するためにハマスに選挙でも勝たせてみろ。 
国際的なジャーナリズムに向けて『パレスティナ人は文明に背を向けて狂信的なイスラム教徒になってしまった』とか大げさに嘆き悲しんでみせるに決まっているだろう?」

僕がこういう話をツイートしたり、フェイスブックのステータスで書いても、まるでシェアも拡散もしないのはなぜなのだろう?聞いたときにはいちいち納得する他になかった、ものすごく説得力がある話だと思うのだが…


本日のエントリーの写真はいずれもジョゼフ・クーデルカの写真集『WALL』より
Wall Josef Koudelka - Aperture Foundation

8/01/2014

パレスティナ人が支援されるためには、殺されなければならないのか?

 パヴェル・ウォルバーグ撮影、イスラエル軍から釈放され家に戻るパレスティナ人
ジェニン近郊、2002年
イスラエル国防軍(以下IDF)がガザ地区攻撃を始めてから、すでに三週間ほどになる。比較的久々の、何年かぶりの戦争は、当初はいつもどおりせいぜい一週間かもう少し程度で終わるかと思われたのが、これまでになく長期化する様相を見せている。

この件をきっかけに、歴史的な文脈をきちんと踏まえなければ抗議活動はむしろ戦争をより激化させるだけであることの警鐘を、日仏共同テレビ局フランス10のサイトに寄稿させて貰った。

ガザ殺戮を前に語られぬこと、語りえぬこと-パレスティナ=イスラエル原論

以下はその補足的な話である。

photo by Josef Koudelka
まず告知。原一男師匠がNew Cinema塾という、ドキュメンタリー映画の連続上映と作家を招いての討論の会を月イチのペース(第4土曜日午後)でやっているが、今月のゲストはいいタイミングなのか悪いタイミングなのかよく分からないが、イスラエルが誇る「お笑い系反体制映画作家」、アヴィ・モグラビである。

上映作品は第二次インティファーダ初期の時代のテルアヴィヴの、くそ暑い八月を描く『八月、爆発の前に August』。


ふと気づけば、もう10年前の話である。

アヴィ自身が欲求不満な映画作家、その妻、意地悪なプロデューサーの一人三役を演じたブラック・コメディのセルフ・ドキュメンタリーだが、笑いの狭間の亀裂から滲み出る不安と怒りは、衝撃的なラストのレバノン国境のシーンで爆発する。

その後アヴィ・モグラビは、彼の長編映画のなかで唯一まったくコメディ要素のない傑作『失われた両目の片方のために』(2005)を発表している。



当時ほとんど報道では全体像の分からなかったヨルダン川西岸自治区の、鉄条網と壁でどんどん分断され、パレスティナ人たちのプライドが踏みにじられて行く模様を記録するキャメラは、ついに検問の兵士たちに怒りをぶつけるに至る。

その一方で映画は、聖書に見られるユダヤ人の英雄譚(題名も、ペリシテ人に囚われたサムソンが神に祈る言葉から取られている。「くりぬかれた我が両目の、片方のぶんだけでいいから、復讐させて下さい」、そしてサムソンは数千人のペリシテ人を巻き添えに死ぬ)や、ローマ帝国時代のユダヤ反乱がマサダでの集団自決に至る神話的な出来事を、パレスティナ側の自爆攻撃とパラレルに探求していく。

「カミカゼ」をやるような狂信者のイスラム教徒と世界のメディアは言うが、本当にそんな一方的なレッテル貼りが出来るのか?

だがさすがはアヴィ・モグラビ、この映画は決して「(過去のユダヤ人のように)追いつめられたパレスティナ人がハマスを支持し自爆攻撃に」あるいは「イスラエルへの復讐」という、それはそれで極めて差別的になりかねない視点には収まらない。

 『失われた両目の片方のために』の電話シーンを別編集した短編
『ちょっと待って、兵隊がやって来たから電話を切るよ』

西岸と、イスラエルのいくつかの聖地を撮るドキュメンタリーの随所に、IDF占領下の西岸の町にいるパレスティナ人の友人と電話で話すアヴィ自身の姿が挿入される。友人は絶望して死すらほのめかすが、それは決して「カミカゼ」あるいはサムソンやマサダ集団自決に至る類いの絶望ではなく、まったく異なったものなのだ。

「我々は奴隷ではない、人間なのだ。お前達に従う存在だと思い込むのはもうやめるべきだ」

 同じく、『ディテール5-10』

モグラビは左派、反体制のイスラエル映画作家であり、パレスティナ支持であり、深く同情もしている。だがその彼に向かって電話の向こうの友人は「もう主人面して説教するのはやめたらどうか?我々は対等でなければならないはずだ」と問いつめるのだ。

それが和平派であっても、しばしばイスラエル人のパレスティナ人に対する無自覚な態度であり続けて来た。モグラビはそれを突きつけられ言葉を失い戸惑う自分を、はっきり自分の映画に刻印している。

そのアヴィ自身、イスラエルのエリート階級であるヨーロッパ系(アシュケナージ)ではない。アヴィの家族は祖父の代に、ベイルートからテルアヴィブに移住して来た、元々はダマスカスにいた家系であり、本人の弁によれば「純粋に資本主義的な動機で移民して来たユダヤ人だ。つまり、テルアヴィブで商売をやれば儲かると思ったわけだ」。 
そのモグラビ家で過去使って来た言葉はアラビア語である。だがテルアヴィヴに移民してから三代目のアヴィの代では、もうアラビア語はしゃべれない(彼は今勉強中だそうだが)。

アヴィ・モグラビ監督作品
『私はいかに心配するのをやめてアリエル・シャロンを愛するに至ったか』

イスラエル建国に至ったシオニズムは、それ自体が矛盾を孕んだ理想主義だった。当時の最先端の民主主義的な論理で、宗教から切り離されたユダヤ人アイデンティティを希求したのがシオニズムであり、それは民族の言葉(ヘブライ語)の復活、民族の国土(エレーツ・イスラエル)の回復、そして民族の文化の復興と再創造の三本柱から成り立っている。

ヨーロッパを中心とした流浪の民の立場から新たな民族の文化の再創造する上でもっとも参照になるとみなされたのが、本来同系統の民族(セム系)であり言葉も近く(現代ヘブライ語の発音規則はアラビア語を参考にしている)、同じパレスティナを民族の故郷としているパレスティナのアラブ人の文化文明であり、初期の入植者は積極的にその風俗習慣を取り入れようとさえした。

今日でさえ「イスラエル料理」とされるもののほとんどはアラブ料理である。 
参考:江古田のイスラエル料理店「シャマイーム」のサイト  
十条のパレスティナ料理店「ビザン」のサイト

だがこの最先端の民族主義の理論は、当然ながらあらゆる民族の平等を謳っていると同時に、そうした近代的な平等主義を言うこと自体が、ヨーロッパのインテリの最先端でもあった。つまり一皮剥けば、ヨーロッパ中心の西洋文明優位の意識構造から、どうにも逃れようがない。

それはこと、イスラームがユダヤ教やキリスト教に較べて遥かにリーズナブルに現実的な政治宗教であり、よって宗教と科学や近代思想の決定的な対立と分離を経験することがなかったパレスティナのムスリムとの意識のズレにおいて決定的になる。無意識の植民地主義的差別どころか、この場合は本人たちの意志とすら関わりのない意識外において、構図としてどうしても、差別的かつ植民地主義の面を持ってしまうことになる。

この矛盾はイスラエル国家の70年近い歴史に常につきまとい、シオニズム運動は「アラブ労働者との連帯」などを標榜しながら、それが常に「アラブ人の近代化」に横滑りし、ついにはアラブ=イスラム圏の「野蛮」に対する「文明」の前哨基地としてのイスラエルの位置づけにまで至ってしまった。当初はパレスティナ人からこの地での農業のやり方を教わっていたユダヤ人入植者が、いつのまにか「現代文明」をパレスティナ人に教えてやると言う植民地主義的な態度のユダヤ人国家とその「文明的」な国民になってしまったのだ。

1970年代初頭、ヨム・キプール(第四次中東)戦争までは、イスラエル人がこのシオニズムの自己矛盾と崩壊を意識することはあまりなかったようだ。それまで闘った戦争の相手国はアラブ諸国というが、いずれも植民地支配者の出先機関的性質から抜け出せない独裁的な国家政府であり、イスラエルはその「民主主義の敵」を撃ち破っても来たのだ。

アモス・ギタイ『キプールの記憶』より
奇襲で大混乱に陥るイスラエル

だが1967年の六日間(第三次中等)戦争で当時はヨルダン領だった西岸地域を占領してから、民主主義国家であることを誇りにして来たはずの近代国家イスラエルは明確な矛盾を内包することになる。当初の理想はパレスティナ・アラブ人との連邦・連合としてのユダヤ人国家を目指し、パレスティナ人にも市民権を与えようとして来たことが、西岸とガザを占領することで明らかに立ち行かなくなり、民主的に、パレスティナ人を同等の市民として扱うことが、占領地に関しては完全に出来なくなったのだ。

この時からイスラエル政府はイスラエル領内の完全な民主主義を目指す顔と、強圧的な圧制の占領者という、ジキルとハイドのような二面性を持つようになる。

アモス・ギタイ『殺人の闘技場』

そしてユダヤ教でもっとも重要な祭日であるヨム・キプール(贖罪の日)に奇襲を受け、勝ちはしたものの膨大な被害を出し、得るものはとくになにもなかった(67年の国境線と占領地が確定しただけ)ヨム・キプール戦争で、シオニズムは限界と崩壊へと向かう。当時の首相が労働党のリベラルな女性政治家であったゴルダ・メイヤーであり、その彼女がもっとも右派愛国的な戦争政策を取らざるを得なかったことも、初期のイスラエルの在り方がひとつの内部崩壊を迎えた事象としてみてもいいだろう。

シオニズムのもうひとつの特徴は、完全な男女平等の実践だった。キブーツにおいては浴室すら男女を分けない徹底ぶりであり、独立戦争民兵のパルマハには女性兵士も多く、戦死者の4割が女性だった。 
アモス・ギタイ監督『ベルリン・エルサレム』
初期のキブーツでの混浴
だが一方で常に戦争をやり続ける国では、女性は男並みに振る舞わなければ認められない、という面もある。ゴルダ・メイヤーはその典型例とも言える。

スティーブン・スピルバーグ監督『ミュンヘン』より、
ゴルダ・メイヤー(リン・コーエン)

一方でパレスティナ側はパレスティナ解放機構の闘争に、当時盛んだった先進国を中心とする極左武装集団が協力する形で、テロリズム闘争を激化させることにもなった。ミュンヘン・オリンピックでイスラエル選手団が惨殺された事件はとりわけ大きな衝撃であり、イスラエル情報部モサドはPLOの指導者クラスを報復と自衛の闘いとして次々と暗殺して行くことになる。

後から考えれば、これはもの凄く皮肉な結果を招くことになる。PLOの有能な指導者を次々と暗殺してしまった結果、残ったのがヤセル・アラファトである。

このアラファトがイスラエルをレバノン戦争へと駆り立てるきっかけを作り(それまでのPLOはやはりパレスティナ人を「守る」ことを優先させた。アラファトはむしろイスラエルに攻撃されることで国際世論の同情を買う戦略に踏み切ったのだ)、90年代に和平交渉が始まると、今度はあまりに頼りなく無責任で、自己アピールを無節操に最優先させる交渉相手になってしまった。

イスラエル側から見れば、国家と国民の安全の確保のためにやった暗殺が、長期的にみれば結果として逆に現状の苦境を作り出したことになる。

結果、将来の独立を前提としたパレスティナ自治区の政治は混乱し、和平が暗礁に乗り上げると、イスラエルはちょうど冷戦の崩壊で流入した100万の旧ソ連圏移民の受け皿の必要もあって、パレスティナ領土内のユダヤ入植地を温存、かつ拡大していくことになる。100万人の票数は民主主義の選挙では大きな力を発揮し、右派政党がそれを利用して勢力を伸ばして行く。

とはいえそれは、新移民に平等な生活権をイスラエル国内で保証することではなかった。入植地とはその実、西欧各地で見られる低所得者向け公共住宅(日本でいえば「同和対策住宅」)に、「国土を守る」という英雄的な役割をカッコつけで付与したような代物だ。

入植地の安全を保つのは自衛だ、イスラエル領内での自爆攻撃の首謀者の逮捕は自衛だ、という名目で、IDFは自治区に深く介入し、入植地を守るためだったはずの鉄条網がいつのまにかパレスティナ人の村をとり囲み、パレスティナ人をそこに閉じ込める牢獄の柵と化して行った。

ミシェル・クレイフィ監督作品『ガリラヤの婚礼』

和平交渉の開始から10年を経て、パレスティナ人はいったんは与えられた自分たちの民主的な主権国家の夢をシステマティックに潰されて行ったことになる。

それも一方的なイスラエルの強圧だけでなく、自分達の政治家の無能さ無責任さにいつのまにか売り渡され、気まぐれな国際世論に振り回され続けた結果である。

そうした流れのなかで、本来なら開明的な国民性を持ち、ムスリムだけでなくキリスト教もいるパレスティナ人にとってはあまり肌が合わないはずのイスラミズム政党ハマスまでも、ムスリム世界におけるイスラミズムの勃興、とくにアルカイーダなどのイスラミズムの武装集団の世界的な伸張の一貫として、力を持って来た。

分離壁、俗称「シャロンの壁」撮影パヴェル・ウォルバーグ
それでも2006年、ヤセル・アラファトの死後の自治政府評議会選挙でハマスが主流派与党ファタハを破ったのは、決してパレスティナ人が絶望のあまり宗教にすがったからでも、イスラエルへの暴力的な復讐を望んだからでもまったくない。この選挙でハマスの政治部門はイスラム法の強要はしないと公約、普通の民主主義国家の保守政党に近い政策を打ち出し、こと支持を集めたのは腐敗の防止である。

いやもともと貧民救済で実績を挙げて来たのがハマス政治部門だ。むしろ普通の民主主義国家では左派的な政策とも言えるし、ただしそれはコーランの教えにも合致もしている。

ここでまた日本人が誤解しがちなのは、パレスティナ人がイスラエルの警備検問強化の結果経済的な苦境に陥り(自治区のパレスティナ人がイスラエル領内に通勤通学することすら、もの凄く難しくなった)、貧しいからハマスにすがったのだという見方だが、これは当のパレスティナ人からすれば「なにも分かってないで、私たちを未開人だと思って馬鹿にしているのだな」となる。

パレスティナ人は決して、自分達が貧しいから貧民救済政策を支持したのではない。それが道徳的にも政治的にも正しく、良心に照らし合わせて非の打ち所がないから支持されたのだ。

だがイスマイル・ハニーヤ率いるハマスの内閣は、対イスラエルでも67年の国境線を交渉の出発点とする(=イスラエル殲滅という軍事部門の主張は無視)という態度を明確にし、自爆攻撃を止めさせることも国際的に公約したにも関わらず、9.11のパラノイアからイスラム敵視に染まった欧米中心の国際メディアに潰されることになった。

その結果としてハマス内部で政治部門が力を失い、イスラム法の強要と対イスラエル攻撃を掲げる軍事部門が強硬的にガザ地区を占拠し、自治政府から事実上の分離独立状態になった(イスラエルは既に2005年から6年にかけてガザから撤退している)まま、現状に至っている。

ハニーヤは何度か、ガザのハマスとの訣別すら宣言して来た。

ちょっとした異変は、アラブの春に呼応してガザ市民もハマスに民主化を要求したことだ。結果一応は妥協のポーズを見せたガザのハマスは敵対していたハニーヤを首相に迎えていわゆる「ガザ政府」を樹立したが、中身はほとんど変わっていない、むしろハニーヤら政治部門が行き場を失い、軍事部門に飲み込まれてしまったような格好で、今回の戦争が始まっている。

IDFの空襲および地上戦部隊の投入で、ガザの死者はすでに1200人を超えており、そのほとんどが(誤爆であれやむを得ぬ巻き添えという体裁であれ)一般市民であり、いかにイスラエルが自衛の戦争を主張し、実際にガザのハマスが(過去のハマス政治部門と異なり)イスラエルに敵対し安全を脅かす勢力であっても、人道的に許されるものではないだろうし、これは長期的にますますパレスティナ人にイスラエルへの怒りと恨みを植え付けることにしかならない。

だがIDFはむしろ、彼らを絶望させる効果を狙っているのかも知れず、その意味ではある程度有効な作戦なのかも知れない。

そのIDFのやり口に非難が集まるのは当然としても、ではパレスティナ人が支援されるためには殺されることがいちばん有効なのか、というもっと絶望的な疑問にもかられる。

はっきりしているのは、オスロ合意をきっかけにアラブ諸国がパレスティナを支援する気をまったく失ったこと(もともとパレスティナを自国の勢力範囲に置きたい意図が明らかにあったのが、独立されてはそれはかなわない)、実はパレスティナ人にとってとんでもない食わせ物でしかなかったが国際的な大スターになったヤセル・アラファトの死後は、欧米中心の国際社会の「良識派」もまたパレスティナへの関心を失って来たのが、こういう戦争があって、パレスティナ人の死者数が報道でどんどん増えて行く時だけは、とたんに雰囲気が変わり日本でも「パレスティナの人々が」と言い出す者達が増殖して来ていることだ。

そうして支援してくれる人たちに「いやちょっとそれは違うんですけれど」と言える立場には、パレスティナ人はなかなかなれない。

これまでさんざん裏切られて見捨てられて来た以上は話を合わせるしかない一方で、「なぜ我々はこうも理解してもらえないのだろう?」と思わざるを得ないこともまた、想像に固くない。

もうひとつはっきりしているのは、パレスティナ人が殺されている時だけは支援の声を上げる人たちが、どうもパレスティナ人の国づくりにはなんの関心もないらしい、ということだ。

2006年の自治政府評議会選挙ではハマスを「テロリストだ」くらいにしか思っていなかった人たちが、今更になってガザ政府の首相が名前だけはイスマイル・ハニーヤであることを理由に、ハマスがガザ市民の支持を受けているのだと言い張り、その理由をパレスティナ人が絶望して宗教にすがっているからだと勝手に決めつけるに至っては、どうやったらそこまで手前勝手に話を継ぎ接ぎして人種差別的な決め付けが出来るのか、ほとんど理解に苦しむ。

パレスティナ問題とは、土地争いである。二つの民族がそれなりに正当な理由を持って、ここを民族の故郷、唯一安心して生活できる国土がここでなければならないと思っていることが、この紛争のそもそもの原因である。

だが現代の世界のなかで、今やこれが人種差別の問題になってしまっていることは、もはや否定のしようがあるまい。

イスラエルがアラブ人に対して差別的な社会であることは、もちろん否定のしようがない。公用語であるはずのアラビア語は、実際にはほとんど使えない。イスラエル人はヘブライ語しか出来ないが、パレスティナ人の多くはアラビア語とヘブライ語のバイリンガルだ。イスラエル人の多くがパレスティナのことをほとんど知らないが、パレスティナ人はイスラエルの政治からなにから、とてもよく知っている。

だが人種差別の不均衡があるのは、単にイスラエルとパレスティナの間だけではない。

一方で欧米や日本を中心とする先進国の国際社会とこのパレスティナという地域に住まう二つの民族のあいだにも、明らかな差別がある。差別意識がなければ、なにも知らない他国についてそう簡単に自衛権や国家民族の存在そのものを否定しかねない悪罵を投げかけながら正義面なんてすることは、まともな人間にはなかなか出来ないだろう。

photo by Josef Koudelka
こと我々日本人が心しなければならないことがある。

なるほどイスラエルはパレスティナ人を差別して来ているかも知れない。なるほど、今回ガザで1200人の死者を既に出していることを「虐殺」と批判したくなるかも知れない。だがこう言ってはなんだが、この3週間でIDFが殺したパレスティナ人の数は、関東大震災直後のほんの2,3日で東京の市民が虐殺した朝鮮人の数よりも少ないし、東京で起こったのははっきりと、意図的に(「敵の指導者を攻撃する巻き添え」でもなんでもなく)朝鮮人だから殺したことであり、その加害者は軍ではなくごく普通の日本人だ

なんだかんだ言っても、イスラエルは市民権をもつ国民として20%以上のパレスティナ人を抱え、彼らは選挙権ももちろん持ち、パレスティナ人の政党もイスラエル国会にちゃんと議席を占めている。いかに差別があるとはいえ、パレスティナ人がイスラエルによる仕打ちを非難することを、イスラエル社会のなかで止めることは出来ない。ちゃんと発言権だけは保障されている。

我が日本国はどうか?

これが在日コリアンに対する差別攻撃に対して日本人が反対する運動のリーダー格の発言で、その運動内部からまったく批判が出て来ないのだから恐れ入る。在日の味方をする条件が、「日本人がいやがる歴史は言うな、それは反日だ」なのだそうだ。 
なんなんだ、この人たちは?
ちょっとふざけるのもいい加減にして欲しい。およそイスラエルに文句を言えた義理ではなく、「まず隗から始めよ」で話は終わる。


もちろんパレスティナ人の発言権を担保することが、イスラエルが自らを「我が国は民主主義である」と胸を張るためのエクスキューズでもあることは否定しないし、いくら言ってもまるで無視される場合がほとんどであることも否定はしない。

だがそれでも、パレスレィナ人が「イスラエル人に気に触ることを言うな、黙れ」と言われたりしたら、それを言った側のユダヤ系のイスラエル人がむしろ社会的に抹殺されるだろう。

そもそも日本が朝鮮半島を植民地化したことには、そこを「民族の土地」とみなせる理由はなにもないし、自衛でもなんでもない。

そして今、日本国内にいる在日コリアンは人口のたった0.5%前後である。

そのたった0.5%の、しかもイスラエルに対するパレスティナ人のように、少なくともタテマエでは戦争をしている民族ではない、むしろ極めて友好的で日本社会に貢献してさえいる少数民族に対する日本社会の態度は、いったいなんなのか

もう一点。これはイスラエルとユダヤ人に対する態度として。ほとんどの差別されるマイノリティは、差別を無自覚にせよ、ちらつかされただけでも警戒し、自分が言いたいこと言うべきことを言っていいのかどうか躊躇する

みすみす差別の矢面に立ってしまうことは命の危険すら伴う、当たり前の生存本能だ。出来れば支配的マジョリティの側に同化したい、と思ってしまいがちなことすら、ある意味自然であろう。

だがユダヤ人にだけは、こうした差別をほのめかす圧力はもはや通用しない。

2000年間少数民族として生き残って来ただけではなく、最初に声を上げ損ねてつい差別する側に妥協してしまった結果が、あのホロコーストである。ちょっとでも差別の匂いを感じた瞬間、在日コリアンなら黙ってしまうかも知れないが、ユダヤ人は黙らない。むしろ差別から自分を守るために戦闘態勢を整える。

ガザへの攻撃を「実態は虐殺だ」までならいいが、安易な感情論で「ジェノサイド」とか言い出してしまってはあまりにも簡単に反論可能だし、そう言っている側が西岸自治区の存在すら知らず、イスラエル国民の2割以上がパレスティナ人であることも知らないような「抗議」では、ただ「自分達は理解されず差別されている」とイスラエル側はますます頑なに「自衛の戦争」を完遂するだけだ。

パレスティナ人はまた少し違う。もともと交易と文明文化の流通の要衝で生きて来た人たちである上に、アラブ文化では客人の歓待はもっとも重要な美徳である。つい「お客さん」である外国人に分かり易いように説明しようとするうちに、話を合わせてしまいがちだ。

その点では過去の日本人には分かり易い民族、共通点が大きい。今は日本人の方が変わってしまったが。

そしてそのパレスティナ人は1948年から、自らの物語を作り出せない民族になってしまった。イスラエル=パレスティナの歴史において、彼らは主体でなく客体であり、同時に世界中から同情を装って「見られる」存在である点でも客体に留まらざるを得ない。

photo by Josef Koudelka
3年前に暗殺されたパレスティナ人俳優ジュリアーノ・メール=カミス(ただし母がユダヤ人なので公式には完全にユダヤ人でもある)は、イスラエルの映画・演劇界でスターとして活躍したあと、IDFによる虐殺のあったジェニンで「自由劇場」という演劇ワークショップを始めていた。

ジュリアーノ・メール=カミス(1958〜2011)
ジュリアーノは「パレスティナ人はまずイスラエルによって被害者としてのアイデンティティを押し付けられ、21世紀に入って気がつけば世界のメデイアによって“狂信的なテロリスト”というアイデンティティを与えられていた」と指摘していた。

「天国で70人の処女が待っていると信じて自爆テロをやる民族だなんて、そんな馬鹿げた話はない。だが気がつけば、イスラエルは巧妙に自分達が被害者だと偽り、立場を逆転させてしまった」



「イスラエルだけの責任ではない。我々のリーダーたちは自己保身のために我々を売って来たし、アラブ人どうしのあいだでもなぜか隣人を売るという悪い習慣が幅を利かせている」

西岸がイスラエルの分離壁と鉄条網で分断され、自分の国の中を自由に行き来することもできず、生活に不便すら来す状況のなかで、「追いつめられて自爆テロに走る絶望に狂った民族」というアイデンティティを、口ではパレスティナ人を支持すると言っている人たちですら無邪気に信じ切って、それを実はまったく理解する気も、まして対等な人間とみなすつもりもないパレスティナ人に押し付けている。



実際のパレスティナ人がたとえば2006年にハマスを選挙で勝たせたのは、およそ宗教的熱狂とは無関係な現実主義の選択だったことを、そうした「支援者」たちですら認めようとはしない。

やはりこれはどこまでも、人種差別の問題なのである。

差別によって奪われたアイデンティティであっても、それを回復できるのは自分たちだけだ。イスラエルのユダヤ人がかつてそれをやり、今それをやらなけばならないのはパレスティナ人である。ジュールの『自由劇場』もまた、そのパレスティナ人一人一人のアイデンティティを演劇や映画を通して回復させようとしていた。



彼を暗殺したのは、イスラミズムの過激派勢力だ。ジュールのような自由な意識を持った現代のパレスティナ人のアイデンティティの回復は、宗教的権威や安易な全体主義的な民族主義によってパレスティナ人を押し込めようとするイスラミズムには都合が悪い存在だったのだろう。



ガザのハマスもまた、パレスティナ人をそういう立場に追い込もうとしている勢力である。ただ「イスラエルに攻撃されているから」というだけでハマスを支持するとまで言い出して正義を気取るのは、先進国の側のあまりに安易な人種差別である。

ハマスは実際にガザ市民を「人間の盾」として利用している。いやこれではまだ言い方が甘い。ハマスはIDFがガザ市民を殺すように、わざと仕向けてすらいる。

だがそのことでハマスを安易に否定も出来ないことも、我々は肝に銘じなければいけない。

世界中のテレビや、今日ではネットにつながったパソコンやスマホの前には、ハマスがその手段を使い、パレスティナ人が大勢殺されている時にだけ、パレスティナを「支持する」「支援する」「パレスティナの人々が」と言い出す私たちが座っているのだ。彼らが殺されない限りその存在すら平気で忘れておきながら、その忘れて来たことの自覚さえ拒絶して正義の座に安住したがっている我々の支援を得なければいけないのなら、IDFにパレスティナ人を殺されることがハマスにとってもっとも有効な戦略になるのは、理の当然だ。

我々が「正義」の顔をしたがることが、戦争を激化させ、その欲望に奉仕するために死者が産み出されている。そのことは深く考えなければならない。

 ジュリアーノ・メール=カミス監督作品『アルナの子どもたち』

7/18/2014

議論が出来ない国会の「集団的自衛権」論議


そもそも安倍晋三政権が「集団的自衛権」の議論だと言って来た「解釈改憲(なんて法治国家ではあり得ない倒錯だが)」は、フタを開けてみれば集団的自衛権の話ではなかった

今はもうこのことを、はっきりさせた方がいい。

自衛権行使の新三要件が閣議決定される前から、憲法学者や安全保障の専門家から「それは集団的自衛権ではなく個別自衛権の対象だろう」と、安倍が挙げる実例などが再三批判、というよりバッサリと否定されて来た。にも関わらず安倍がまったく方針も態度も変えないまま「それは集団的自衛権の話ではないはず」の路線に沿った内容が発表されたというのに、報道によれば国会での審議では未だに「集団的自衛権を認めるかどうか」で争っているらしい。

論理性というものが理解できない、筋道を立てた議論が出来ない人たちなんだろうか? それとも報道が議論を歪めて報じているのか?

もちろん安倍政権と与党の問題がいちばん大きいのは言うまでもないし、安倍の答弁が答弁になっていないという、毎度おなじみの問題も出て来ている。

だが野党も野党で、新三要件の内容を「曖昧だ」程度にしか批判出来ていないまま、今でも集団的自衛権の是非ばかり論じているのだとしたら、あまりに頼りない。

もはや「いつかどこかの国が戦争を始めるかも知れず、もしかしたら日本も巻き込まれて自衛官が死ぬかも知れないから反対」なんて悠長な話ではない。

共産党などは「自衛官の命が危ない」「自衛官の家族も国会中継をテレビで見ている」と感情を煽るような質問ばかりしている。こうなるとこっちの方もかなりうんざりで、「あなたたちは本当に政治家なのか」と言いたくなって来る。

もはやそんなことを言っている場合ではない。「日本が自らの判断で、明日にでも自分から戦争を始めてもおかしくない」、これが今ここに迫っている危機なのだ。それが実際の新三要件の文言と、付随する安倍の会見から導き出される結論のはずだ。

このブログでは何度も指摘して来たが、改めて自衛権行使の新三要件のその①の文面を見てほしい。

①我が国に限らず、密接な関係の他国が攻撃された場合でも、我が国の存立が脅かされ、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険がある

「我が国の存立が脅かされ」「国民の生命 〈中略〉 権利が根底から覆される」場合に限られるなら、これは集団的な自衛権の話ではなく個別的自衛権の適用対象で済んでしまう。安倍も記者会見で「イラク戦争のような事態に日本が参加することは今後もない」と明言しているのだし、今さら「日本がアメリカの戦争に巻き込まれる!」は議論の本題にならない。

ただしそれだけだったなら、そもそも「集団的自衛権のために」新要件を決める必要もなかったはずだ。安倍が言い続けて来たこと自体が、集団的自衛権の話ではまったくなかったのだし。

実際にはこの新要件の要点は「明白な危険がある」だけで自衛権の行使を認めていることであり、それをただ「曖昧だ」という曖昧な批判で済ますのはあまりに考えが甘過ぎる

これはちっとも「曖昧」ではない。軍事と安全保障の常識では極めて明確に、予防的先制攻撃の容認だ

過去にも北朝鮮のミサイル…ではない「ミサイルと思われる飛翔体(いやロケットでした)」問題を巡り、北の基地でミサイル発射準備が行われていると察知した場合、先制攻撃が可能かどうかは議論になっている。 
まだこっちの方がリアリティがあり、議論の必要な話であり、「曖昧だ」批判だけではあまりに後退している。

予防的先制攻撃(「明白な危険」への対処で武力行使)の要件が、「密接な関係の他国が攻撃された場合」にのみ限定されるのなら、まだこれは集団的自衛権の話だと言えた(ただしまずあり得ない状況であって、珍妙な机上の空論の時間の浪費ではある)。

だが新要件の文言は、そうはなっていない。自衛権行使の先制攻撃が「他国が攻撃された場合」に限定されるのなら、【に限って】とでも明記されていなければ日本語としておかしい。ところが実際の文章は【でも】であり、これでは自衛権行使としての先制攻撃が発動される条件のひとつが付随的に例として上げられているだけだ。

「霞ヶ関文学」のなかでもここまで見事な欺瞞は見たことがない、最高傑作レベルで、書いた官僚の能力の高さが伺われる−−無論、悪い意味で。

「曖昧だ」という批判はむしろその前の「密接な関係の他国」に向けられるべきだ。

これは標準的な「霞ヶ関文学」、こっそり「等」をつけて定義を曖昧にする常套手段のバリエーションに過ぎない。このあからさまな「霞ヶ関文学」に気をとられてその直後のあっぱれ過ぎる欺瞞に目が行かないように出来ているのだから、本当に見事なものだ。

決して「同盟国」に限定されておらず、そして今の我が国は世界中の大なり小なりほとんどの国と「密接な関係」にある。

具体的には、世界中のほとんどの国と日本の産業は仕事をしているわけで、多くの国にはそのビジネスのために日本人が滞在したり居住したりしている上に、今回の議論で安倍が最初から実例で強調しているのが自国民保護、「日本人の命を守る」である。

アメリカの艦船で日本人母子が移送され、その艦船が他国の攻撃を受けたら自衛隊も守るべき、という安倍が繰り返す設定はナンセンスでしかないが。

安倍が「日本人の命が」と絶叫し、共産党が「自衛官の命が、家族が」と絶叫する。これではあまりに軽薄な感情論の応酬の、低レベルでナンセンスな水掛け論だ。

だいたいこの人たちは国際法の基本の基本である、国家の主権とその所在、その及ぶ範囲をまったく理解していないらしい。安倍は就任間もない外遊中にアルジェリアで人質事件が起きたとき、日本人保護のために海外に自衛官を派遣できる制度と、とまで言い出して、さすがにそのまま立ち消えになっている。アルジェリアの反政府武装勢力が日本人を拉致したからといって日本の自衛隊が「日本人を守る」と称して武力を行使すれば、それはアルジェリアの主権の侵害であり侵略行為とみなされ、完全な国際法違反だ。

紛争地帯からの自国民の脱出に関しても、出来る限り民間機や民間の船を用いるのがルールだし、米軍は他国民の移送は基本的にやらないと明言している。

仮に軍用機や軍艦を用いても、その領域の主権を持つ国家の了承のない限り、最低限の自衛以外の発砲すら許されない。ある国の治安を守る権限を持つのはあくまでその国であり、自衛隊が正義の味方のフリなんて出来ないのだ。

まったく、東大出のエリートがずらずら並ぶ霞ヶ関も、同じように東大出のエリートが大きな顔をしている共産党も、どちらもなんとお勉強が出来ないのだろう? 
なぜこうも教養の欠いた薄っぺらで本質からズレた感情論に終始して、全体像を冷静に議論出来ないのだ?

これは安全保障論議であり、外交の問題ではないのか?

なのに自国民のことばかり「命が」「命が」と言い合っていること自体、客観的にはあまりに皮相で、国内に引きこもった感情論にしか見えない。

アメリカがブッシュ・ジュニアのようなおかしな政権になり、イラク戦争のようなおかしな戦争を始めた時を想定して「日本の自衛官がそんなことで死なされてたまるか」と反対するのは一応は正当だが、しかし些末な、本題からずれた問題でしかない。

通常の同盟関係に基づく集団的自衛権の行使でも、個々の戦争でそれが米国なら米国の正当な自衛の範疇と判断出来ないのなら、参加を断ることは出来るのだから、常に我々国民とその政府の「良識」「良心」が歯止めになり得るのが、まともな民主主義国家だ。 
その判断を予め必要ないようにしておかなければ危険だという発想は、いささか情けない。

しかも新要件には「我が国の存立が脅かされ」「国民の…権利が根底から覆される」と明記されているわけで、「アメリカの戦争に巻き込まれて自衛官が死ぬから反対」では、議論がもはやかみ合っていない。

今回出た自衛権の行使の新要件では、日本が「他国の戦争に巻き込まれる」可能性は極めて低い。

「我が国の存立が脅かされ」た場合のみと明記されているのだ。逆にだったらなぜ「集団的自衛権」なんて言い出したのか、個別的自衛権で対応することであり、新しい要件を決める必要自体がないはずではないか?

だがそれに対し、「明白な危険」だけで自衛権を発動出来るというのは、これまでの自衛権の概念とはまったく違う。実はこれを変えたいから新三要件を決めたのだ、これこそが本当の論点なのではないか、とそろそろ気づくべきではないのか?

「明白な危険」があれば自衛権に基づき武力行使出来るというのは「曖昧」だから問題なのではない。明確に予防的先制攻撃を容認している、つまり「明白な危険」と認めた場合に先に戦争を始めるのは日本なのだ。

なぜ野党は、日本から戦争を始められるようにすることには絶対に反対する、と明言しないのだろうか?

なぜ「明白な危険」で自衛権を発動するとは、すなわち予防的先制攻撃の話だと気づかないのか?気づいていたとしたらなぜ言わないのか?

予防的先制攻撃が自衛として発動される条件として「密接な関係の他国が攻撃された場合」が必要と解釈した場合のみ、これは集団的自衛権の話になるが(但し「でも」とある以上はそれに限定はされない)、そこでも「同盟国」ではなく「密接な関係の他国」としか書かれていない。つまり「アメリカの戦争」とは限らない。

しかも「他国が攻撃された場合」の例として、安倍の会見では日本に迫る安全保障上の危機として、尖閣諸島の前にまず南沙諸島問題について「連日、ニュースで報じられている」とまで言っているのである。

安倍はその状況が現にある、「この瞬間も力を背景とした一方的行為が」と既に言ってしまった。中国が南沙諸島に関して領有権を争うフィリピンとベトナムに強硬な態度をとるならば、尖閣諸島の防衛を理由に、日本は中国に先制攻撃を仕掛ける、と事実上名指ししてしまっているのだ。

いや南沙諸島とは言っていない、南シナ海だ。尖閣諸島と明言はせず東シナ海としか言っていない、と安倍の周辺はへ理屈を述べるのだろうし、それがこの政権のあまりにも幼稚なところであるのだが。

安倍はこれを「抑止力だ」だとすら会見で明言してしまっているが、つまりは先制攻撃をちらつかせて中国を恫喝していることに他ならない

中国にしてみれば多分に誇張され虚偽すら含む言い方で自国を危険国家呼ばわりされただけでも外交的侮辱であり、戦争をちらつかせて脅迫されたのでは、立派に宣戦を布告する理由にもなり得る。幸いにして無視して大人の対応を決め込んでいる習近平政権に、我々は感謝しなければならない。

また安倍は国会審議で、在日米軍の出動に関して「米海兵隊は日本から出て行くわけで、当然、事前協議の対象になる。日本が了解しなければ、韓国に救援に駆け付けることはできない」とも言ってしまった(日本の報道より朝鮮日報の方が客観的で正確だというのも困る)。

確かに在日米軍の出動が日本の国益や国際社会の正義に反するようでは困り、事前通知などの歯止めがあるとは言っても、こういう形でわざわざ日本の首相が公言するというのは、韓国が危機的な状況になっても、日本の一存で在日米軍の出動を食い止めることが出来る、という意味にしかならない。

韓国側からみれば「韓半島有事に重要な役割を果たす在日米軍を使って韓国を『脅迫』しようとしているのではないかと疑いたくなる」と言いたくもなるし、米国にしてみれば自国の軍事行動の邪魔をする可能性を日本が公言したことになる。

…というかぶっちゃけ、安倍にしてみれば「韓国ちゃんよりもボクたちをまず依怙贔屓してくれなきゃスネちゃうぞ」という話でしかないわけだが。
だがその動機の幼稚さとは裏腹に、やり口は狡猾だ。韓国政府が大っぴらに反発すれば、それはアメリカなしには自国の安全を守れないのだと公言することになる。普通の国なら名誉にかけて、それは言えない。現に韓国政府は公式にはなにも言っていない。

「日本人の命が」もむろん大事な話だろう。

だが今はるかに危急の大問題なのは日本が平和を乱す、日本が他国を脅迫したり侮辱して挑発する外交を繰り返している、日本から戦争を始める事態すら、いつ起こってもおかしくないことなのだ

ところが与党は「日本人の命を守る」といい、共産党は「自衛官の命が」というだけの、自国内に引きこもった、はっきり言えば異様に自己中心的な応酬には、日本が自ら国際的な孤立の道を歩んでいる危機感がまったくない。

日本が周辺諸国から危険視されてもしょうがない、きわめてあぶなっかしい外交をやっていて、それが明らかに日本の国際的な立場を危うくし国益を損ねることを、なぜきちんと議論出来ないのだ?

これでも「政治」と言えるのだろうか?

折しも国連人権委員会で日本の人権問題が審議されたことを、日本の新聞が「ヘイトスピーチがとり上げられた」と見出しにしたら、ヒット数があがってGoogleニュース検索でも真っ先に出て来る様になっている。そうした日本の報道ではたいがい、なにがいちばん問題にされたのかの言及が避けられている。

実際に人権委員会がもっとも問題にしたのは、慰安婦問題を強制された性奴隷だと認めない日本政府の対応であり、日本代表が反論になってない反論をしたら(「我が国は慰安婦が性奴隷だったとは認めていない」としか言ってない。強制だったことを認めているはずなのに)、傍聴に詰めかけたおかしな日本人集団が拍手喝采までしたらしい。

「やーい在特会が国連にも叱られたぞー」と勘違いして喜んでいる場合ではない。

日本国内で見ればネット上のかなりおかしい一部集団がちょっと実社会にはみだしてしまった程度の、たいした意味を持たない騒ぎでも、今や日本がそのような国に見られてしまっていることに少しは危機感を持った方がいい。

この報道を鵜呑みにする人は、国連人権委員会というのがどういう場なのかも分かっていないらしい。 
この委員会が勧告を下す相手は各国政府である。日本国内で日本国民の一部がやっている人種差別発言について人権委員会が言うのは日本政府の然るべき対応を促しているのであって、国連が「在日特権を守る市民の会」を断罪したなどと思っていい気になられては困るし、当然ながら報道される順序として、普通なら日本政府自身がやっている人権侵害や差別についての勧告よりも優先順位は低い。 
なのに「ヘイトスピーチ」云々を見出しにするのは、明らかな恣意的歪曲の現政権擁護だ。 
実態は逆で、わざわざ国連人権委員会がこれに言及したのは、こうしたネット上の匿名言動が中心の日本のレイシズムが、現安倍政権と密接なつながりがあることも看過出来ないから言っているのだと考えるべきだ。
従軍慰安婦の問題をなんとかないことにしたい、少なくとも矮小化したいと政府が煽動し、その政府がなぜかそれなりに高支持率を維持し、人気政治家が人種差別・性差別発言ナチス擁護ととられることまで言ってしまい、国会や地方議会で女性蔑視ヤジが常態化している国で、一般市民の差別運動も問題だから対応を、というのは、日本が国をあげて差別国家になっているのではないか、と国際社会が本気で危惧していることを意味しているのだ。

こんな狂った日本外交の文脈で決まったのが、「集団的自衛権」の議論を偽装しながら、実は予防的先制攻撃を容認する自衛権行使の新要件だ。この露骨に他国を差別し敵視し、戦争も辞さないと宣言してしまっている外交を、なぜちゃんと批判出来ないのだろうか?

なぜ識者やジャーナリストやネット論者にしても、このあまりに異様で危険な方向性に、警鐘を発しようとはしないのか?

いちばん怖い想定は、その「戦争を辞さない」宣言が明白に中国を対象としていて、安倍外交がとくに中国と韓国を特化して敵視路線を明確にしていることに、実は国民の大多数がむしろ賛成していて、ただ「日本が戦争に巻き込まれるのは反対」と口先だけの平和主義を装っているのではないか、ということだ。

そして国内引きこもりの重症に陥っているのは安倍や政治家だけでなく、ほとんどの国民が「日本人が死ぬのは反対」にしか最早興味がないのではないか、ということも、考えるだに空恐ろしい。

7/11/2014

「反対する理由」について




ここ三回に渡っていわゆる「集団的自衛権」を巡る論議(では実はない)について書いて来たが、ここで筆者がなぜ安倍の自衛権の行使に関する閣議決定に反対するのかの理由を、念のため明記しておく。

①まず、戦後の日本が(時に狡猾な偽善であったとしても)守り通して来た平和主義の理念は、やはり正しいものであり、無闇やたらと反故にするわけにはいかない。 
②憲法条文から論理的に導き出さ得ない「解釈改憲」など「解釈」であるはずもなく、法治原則への冒涜は日本の恥であり、この憲法を国会で真剣に議論し、圧倒的多数の賛成で決めた先人達への裏切りだ。 
③第二次大戦を反省したはずの日本が、再び戦争をやる国になるべきでない。
④僕はあらゆる戦争に反対する。戦争というものが実際にどういうものか、実体験のある人たちから学ぶ機会に恵まれても来たので、避けられないような戦争でも避けるべく最大限の努力はしなければならない、としか思えない。これはもう、自らの体験を話して下さり、今は鬼籍に入られた、たとえば空襲や原爆、あるいは靖国や皇居でお会いした特攻や硫黄島の生存者、ノルマンディー上陸作戦その他を体験した大先輩(ってサミュエル・フラーですが)への敬意と友愛に賭けて、絶対に反対。


サミュエル・フラー監督作品『最前線物語』

この4点が、大上段にいささかカッコつけて言う理念的なものであるのに対し、いささか本音混じりの現実の文脈で言えば…

⑤現代の世界で戦争を始めることに、なんのメリットもない。こと日本が置かれた地政学的な位置付けと、未だに世界に冠たる経済大国として尊敬もされている地位からして、デメリットしか見当たらない。 
⑥安倍が「集団的自衛権」と称して来た論議は、実は中国と戦争をいつでも出来る、先制攻撃ですらやるように憲法解釈を変えたぞ(って変えられないってそんなの)、というブラフである。安倍が抑止力だなどとうそぶくのは要は子どもじみた強がりでしかなく、かえって足下を見られ、諸外国に日本を警戒させて孤立を招く。なかでも事実上名指しで誹謗され仮想敵扱いされた最大の貿易相手国・中国との関係を損ねられては、日本の国益に明らかに反するし、しかも客観的に見れば日本が乱暴な挑発を続けているだけなのだから、弁護のしようがない。 

商売に響き、日本の経済を悪化させるだけなのはバカだとしか言いようがないし、俺は外国に行って肩身の狭い思いなんてしたくもないんだよ、ってこともある。
安倍信者のなかには、対中貿易はGDPの5%だからたいしたことがない、なんて無茶苦茶を言ってる連中までいる。 
冗談じゃない。現状のGDPから5%を単純に引いただけでも、日本は超不景気のマイナス成長だし、日中の断交だけで実際の損害は5%じゃ済まない。ほんとうにどこまで世間知らずで非現実的なのだろう? 

⑦あともう一点。はっきり言ってこの国には明治維新以来、ずっと同じアジアへの差別蔑視があるとはいえ、ここ数年の中国と韓国に対する露骨な差別と蔑視、敵視は異様であり、もう見ているだけで気持ち悪い。精神衛生上悪過ぎるからこんな真似は金輪際やめて欲しい。

1930年代、40年代の日本だって、ここまで病んで差別的ではなかった。

だがどうも、世間で「集団的自衛権」に反対する人たちの理由は異なるようだ。

安倍のやったのが露骨な中国相手のブラフであり侮辱であり脅迫であること(安倍のいう「抑止力」とは、要するに日本はいつでも戦争をやる、これからは先制攻撃も出来る、アメリカも味方だ、と言えば…南京大虐殺はなかった等の暴論を中国が受け入れてくれるとでも思ってるらしい)はなぜか無視され、この愚行が東アジアの緊張を高めるだけであることへの批判は、海外メディアのそれが主にネット上で紹介される程度だ。

安倍が敵視しているのが中国であることには、なぜか反対派も口をつぐんでいる。温家宝が前首相、習近平が現主席でなければ、もはや日中が戦争直前になってもおかしくないことを安倍はやってしまったのだが。

大手のメディアは、反対の旗色が鮮明に見える毎日や朝日ですら、国際的に悪評ぷんぷんであることには口をつぐみ、あたかもアメリカは評価しているかのように装っている(実はいちばん苦虫を潰しているのがオバマ政権なのだが)。

それどころが反対デモだとかで出て来る理由のメインが、「集団的自衛権が容認されたら徴兵制になって自分達が戦争に行くから反対しましょう、子どもたちが戦場になんて」という話ばかりなのには、正直ちょっと面食らう。

共産党までが「徴兵制になる」メインの主張に据えているのに至っては、あなた達は護憲平和主義の党ではなかったのか、と言いたくなる。その共産党もまた、これがどう世界のなかの日本の立場に悪影響するのかは全然語らない。

それでも政治家と言えるのか、あなた達は?

集団的自衛権(では実はない、先制攻撃を容認し専守防衛をやめること)は自民党右派が念願して来た日本の再軍国化の一貫に位置づけられ、その意味では徴兵制の復活も一部の耄碌した爺さんたちは、まだ本気で思っているのかも知れない(って議員定年制で引退してないか?)。


とはいっても「集団的自衛権が容認されたら徴兵制になって」は、さすがに風が吹けば桶屋が儲かる式のへ理屈で、強いて言えば「そうなる可能性もないとは言えませんね」であっても、そこに至るにはまだまだハードルが幾つもある。

徴兵制に反対ならそのデモをするべきだと思うが、徴兵がなければ集団的自衛権はあった方がいいとでも言うのか?

「徴兵制になる」と言う人の根拠が、集団的自衛権を認めたら自衛隊の志願者が減る、だからいずれ徴兵制、などというのに至っては、転倒した希望的観測が強過ぎる。

だいたい、自衛隊の入隊者の実態がどんなものなのか、皆さん気づいていないのか、都合良く無視しているのだろうか?

たとえば大阪府で成績第一位の募集事務所は、同和対策事業で再開発されたが今は閑散としてしまった、あべのベルタにある。いわゆる被差別部落出身だったり、就職差別で他に仕事がない人が多い。  
出自で就職差別に晒されたり、学歴でハンディを負う若者の手っ取り早い就職先が、自衛隊であったり暴力団だったりすることも、忘れられては困る。まして官邸まで「集団的自衛権反対!」でデモに行った人たちは、在日への差別に反対すると称するカウンター・デモに参加している人も多いはずだ。口では差別に反対と言いながら、日本の差別の被害の現実になんの関心も想像力も持たないのでは、ただの偽善だ。

ところがずっこけることに、官邸前に「集団的自衛権反対!」でデモに行った知人に寄れば、警官の対応が丁寧だったとか、そうするとしたり顔で「彼らが真っ先に戦争に行かされることになるから、実は僕たちに賛成なんだよ」とか解説した阿呆がいたらしい。

それが自称は「映画評論家」だとか…こんなヤツの書く薄っぺらで勘違いの自己愛に満ちた、なにも分かってないし分かる気もない愚劣な駄文を「評論」だの「批評」だのと名乗られては、映画への冒涜だ。 
その阿呆評論家は、まさにその、例のカウンター・デモとやらにも参加していたらしい。そこまで人間的想像力に欠如した独善で映画なんて見られちゃ困ります。 
俺の映画は普通の人が素直に見れば誰でも分かる作りになってるけど、こんなバカには絶対に理解できんわ。

もう、どこまで自分と自分達の徒党にだけは甘いのか?

なぜこうも、自分とその周囲半径5メートルの集団依存の自己愛しか考えられないのか?

あなた達はなぜ、世界のなかの日本どころか、社会のなかの自分という意識すら持てないのか?

警官が案外と丁寧ってのはね、福一事故以来、官邸前や国会周辺のデモは度々あるし、なぜか恐ろしく警察権力に従順か、せいぜいポーズだけ黄色い声で「人権侵害よ」と声を張り上げながら実は警察に協力して参加者の交通整理で威張っているいわゆる「プロ市民」しかいないから、警察もあしらい方のノウハウが出来上がっているし、慣れもあって冷静に対処している。あともしかして、ちょっと呆れているだけじゃない? 
だいたい最近の若い警官は、昔ながらの「オイコラ警官」なんて、職質でだってそう簡単に本性は現しませんて。 
かつての安保反対とは違うんだよなあ、いろんな意味で。 
なにしろそのいわゆる「プロ市民」だとかは、参加者でもカメラを向けたら「肖像権の侵害よ」「あなたスパイじゃないの」とか言うらしい。というわけで、「デモに参加しました」でツイッターやFBに並ぶ写真は、後ろ姿や旗と空ばかり。 
えーと…自分の顔も名も堂々と示すこともない「デモ」って、誰に何を訴えているつもりなんですか?

もちろん自分が戦争に行く、他国の誰かを殺すなんていやだ、という良心が反対の理由になること自体は悪いことではない。

だが集団的自衛権への反対では、まず論理の飛躍がひどいし、だいたいその今の段階でいきなり「ボクは戦争に行きたくない」だけが論点では、あまりに自己中心的ではないか?

これは福島第一原発事故を受けた反原発デモの頃から気になっていたことだ。その時に多くの反対者を結束させた最大の合い言葉が「ワタシは被曝したくない」…のは分からないではないのだが、東京やそれこそ大阪で、そんなこと言うのはさすがにナンセンスだ。

実は直接になんの被害も受けず、実際の被害当事者と関係もないはずなのに、自分達がこそが被害者だ、と主張したがるのはなぜか? あたかも「ワタシたちは被害者だ」で連帯すれば、絶対正義にでもなった気分になれるようだ。

挙げ句になんの関係もなく、話すら聞こうとしない相手を「被害者」と認識して同化した気分になり、「フクシマ」の代弁者を気取る。そんな勝手な空想が膨らんで「フクシマの子どものお葬式デモ」まであったとか、ただの自己中心主義に耽溺したまま、一歩もそこから進歩しようとしない。

まあ40年間、福島浜通りにいつのまにか原発が二つも出来てもまったく気づかず、中越地震で柏崎の原発が止まっても、東電が先に手を打って絶対に東京では停電が起こらないように邁進… 
…で、そのあなた達の電気のために政府が福一の原子炉の寿命を延長までしてくれて、なに不自由なく、なにも考えずに原発の電気の恩恵に甘えてくれば、過保護の結果で自己中心主義にしかなれないのも、しょうがないのかも知れないが。

だがなによりもまず、福島県には現実にその原発事故に直面し、生活を奪われた人たちがいることは忘れるべきではない。それは単に「被曝したかしないか」の問題ではない

まったく健康被害の不安が皆無とまでは言い切れないにしても、なにしろ実際に自分達に被害があるのだからちょっと勉強してみれば、福島県のほとんどの地域でさえ最優先のプライオリティではないリスクだと、皆さんすぐに理解していた。

と同時に、そうした勉強や理解が、実は250Km離れている東京や、もっと離れている大阪であるとか、東北の被災地以外の日本にはまったく共有されず、被曝したかどうかそれ自体よりも「被曝している」とみなされ差別されることで起こる問題の方が怖いこともまた、ほとんど瞬時に骨身に沁みて感じていた人が多い。

農家のなかには追いつめられて自殺者も出ている。あれから3年、本質はなにも変わってはいない

大熊町の梨農家

福島第一原発事故の被害が大きいと喧伝すればするほど、反原発という主張に説得力を持たせることには一応はなる。だからこれだけの規模の事故の割には意外と被害は最低限度でなんとか切り抜けている、ということは認めたくない心理は働くかも知れない。

だがそれを勘案しても、事故発生直後からインターネットを利用してどこそこで鼻血だの足が5本の牛だの、福島で奇形児が大量に産まれただの、「こんなの真に受ける人がいるの?」と呆れるような話が、自称「反原発」な人たち(ほとんどが匿名)の口から口へと拡散するのは、あまりに無責任というものだ。

しかもそういう、震災直後のパニック心理でやってしまったことを、反省しているわけでもない。

こんな「反対デモ」の独善を、原発事故被災の当事者になると同時に、「被曝している」と差別され、「原発マネー」などと中傷される立場に追いやられた人たちは、事故直後から気づいていた。

3年4ヶ月になる今月になって、やっと福島民友が、福島県では東京の反原発デモがどのように見られていたかを率直に論評した記事を載せたのだが、これはこの3年間、福島で多くの人たちが思って来たことそのままだ。少しは謙虚に耳を傾けたっていい。



デモの主催者側が「レッドウルフ」さんであるだけでもずっこけるのだが、そのレッドウルフさんたちがこんな「反論」をネット上に出している。

http://coalitionagainstnukes.jp/?p=4870 

もう論評する気にもならない…。

とりあえず読んで下さい。ただし途中でこのあまりに幼稚な身勝手にうんざりして止めてしまっても、僕は文句は言いません。

改めて確認だけしておく。この民友の記事で書かれていることは、実は福島では3年前から多くの人が思って来たこと、冷静に考え抜いて来たことだ。言葉も慎重に選ばれている。

だが「フクシマのため」で取材に行くんだか講演でチヤホヤされたいんだかよく分からないジャーナリストの人たちの耳には、なぜか入らなかったらしい。

それでも「これ以上故郷に原発がある現状は続けて欲しくないし、他の原発立地の人たちに同じ目に遭って欲しくない」と、東京のデモにゲストで参加した人もいる。

だがそこで彼らの多くが感じたのが、どうしようもない違和感だ。

ことさら悪意を見せるわけでなくとも、なぜこうも無神経なのか、なぜ現実を見ようとしないのか?同じことは東京から来たそういう「反原発」の人を受け入れた地元の人たちも感じていた。

たいした被曝が確認されていないいわき市の南部で、翌年には田植えを始めているた風景を見て「やっぱりやっちゃうのね。国の圧力が怖いのは分かるけれど」とか言っちゃうらしい。あんたら百姓が田畑に賭ける誇り、生き甲斐をなんだと思ってるんだ? 
飯舘村、長泥の除染実験
 無論一方で、いわき市の中央台のブルジョワ奥様だとか、福島市の大学教員のなかには、なにしろ東京に憧れ、標準語でお上品に喋るのがプライドだったりするのか、「危険です危険です」と地元で調理される学校給食すらストップさせて、東京の模倣にひたすら走った人もいる。 

広野町と楢葉町の境
日本の中央集権社会が招いた堕落とアイデンティ喪失の滑稽な悲劇であり、福島県から地元採用された東電正社員が同様の無神経さで「俺たちは日本を救ったんだ」とか同級生に威張り散らして呆れられるのと、実は同じことだ。

昨年末に特定秘密保護法が強硬されたときには、「私たちの言論の自由が奪われる」「好きなことが言えなくなる」「藤原さんだって日本でもう映画を作れなくなりますよ」とか言われ、途端にデモになぞ行く気が失せてしまった。

ちょっと待てくれよ、おい。

あれが無茶苦茶な法律であることに異論はなく、むしろ僕はもっとも厳しい批判を言って来た部類だが、この法律で僕の表現の自由が直接に侵害されることはない(処罰されるのは機密を漏らした公務員だ)。せいぜいが間接的には持っている永田町や霞ヶ関方面からの裏の噂の入手ルートがいささか枯渇する可能性がある程度だが、特定秘密保護法を使って僕が作る映画を止めることは出来ない。

だいたい、そんな国家機密の暴露がなくても、僕の政治的なテーマの映画の一部は一応は左派リベラルの日本の独立系映画業界でも敬遠されたりすることが少なくない。米軍基地(というか米兵住宅)を扱った『フェンス』の第二部はたぶんにコメディとして構成しているが、笑いが出ないどころか、どこがブラックジョークなのかすら伝わらなかったのは、日本の、それもむしろ業界の人たちだ。 
山形ドキュメンタリー映画祭では遠慮した一般のお客さんに「笑ってよかったんですね」と後で言われたほどだ。 



寄生虫と外来生物による自然破壊の話のあと、米兵の奥様たちが乳母車で赤ん坊を連れているシーンを見せて思いやり予算の総額を告げれば、普通はギャグだと分かりますよね…?

「集団的自衛権は徴兵制になるから反対です」というデモにも、同じ違和感、同じ異様な自己中心主義、なにかの理念や「これが正しいことだと信じる」という意思も見えず、客観性の欠如した、ぶっちゃけただの自己満足の感をどうしても拭い切れない。

「戦争に行くのはいやです」ならば、せめて「私は人を殺したくない」を毎回毎回、付け加えてもらえないだろうか?

「どんな理由があろうが私は殺人は悪だと信じる」と言ってくれないだろうか?言わないでもいいから、心の中でしっかり自分のなかに落とし込んでくれないだろうか?

「自衛官が殺される」だけではなく、「自衛官が人を殺す」に反対してもらえないだろうか?自衛隊は私たち国民の自衛権を担保し、いわば肩代わりすることで存在して来た組織だ(というのが従来の憲法解釈)。つまりその自衛隊が他国の人を殺すのは、私たちの国、私たち国民の名においてである。私たちはその意味で、殺人行為の間接的加害者にもなる。「それはいやだ」となぜ言えないのだろうか?

「戦場で人を殺す」とはどういうことか、この際ちょっとでいいから考えてもらえないだろうか?

第二次大戦中から、米軍では戦場における「非効率」を研究して来ていて、ごく初期から分かっていたことがある。戦場におけるいわゆる「無駄」は、その八割以上が、いざ他人を殺すときに人間が躊躇することが理由だった。 

ジョン・ヒューストン監督『そこに光あれ』 

以後、米軍ではこの人間には誰でも備わっている本能的な良心に着目し、いかにその良心の働きを弱めるかを計算した訓練プログラムの開発を進めて来た。 


スタンリー・キューブリック監督『フルメタル・ジャケット』 

イラク戦争の結果、帰還兵にPTSD患者が多く、殺人事件まで多発している理由は、ただそれだけ過酷な戦場だっただけではない。まさに「良心を殺す」ことを目標とした訓練プログラムが、その人たちの人格まで歪めてしまったのだ。

まだ60年安保で国会前で絶望的に闘った世代(つまり小学校低学年か幼稚園で、空襲で逃げ惑った世代)が、「孫を戦場にやりたくない」と言うなら分かる。



大島渚監督『日本の夜と霧』


それにしてもあなた達は、デモや政府に反対するということを、なんのためにやっているのですか?

自分が社会の一員としての責任感から、少しでもこの社会をいい方向に進めたい、悪い方向や危険な方に進むのを阻止したい、という意志は、建前だけでもいいから言わなければなるまい。

「ワタシいやなんです」だけなら、なぜ他人があなたの言葉を聴く必要があるのだろう? 
なぜ「さいかどーはんたーい」と間の抜けた踊りをやってみたり、黄色い声で「安倍死ね!」と絶叫しただけで「なんで行動しているボクの言うことを聞いてくれないの!」と、上記の「首都圏反原連」とか名乗る人たちのように勘違いしたことが言えるのだろう? 
デモとはパフォーマンスだ。パフォーマンスは観客が見るためのもので、演者の自己満足を満たすためにあるのではない。

もうひとつ滑稽なことがある。

こうした最近のデモは(官邸前にせよ、新大久保の「在特会」と「カウンター」の双方にせよ)、かつてのような組合等の組織による呼びかけではなく、ネットを使って参加者に声をかけている。

だからついうっかり「レッドウルフさん」が新聞記事になってしまうように、ネット上で知り合ったどうしの「オフ会」の感覚が抜け切れていない。

ちなみに福島民友の記者はちょっと意地悪はやっていると思うけどね。「レッドウルフ」さんだの「ぼんちゃん」さんだの「どーどる」さんなどが新聞記事に出るだけでまるでマンガだ。よほどネット依存でもしていない限り読者は失笑する。 
しかしそんなのは、気づかず実名を名乗らなかったあなた方の自業自得だ。

彼らがデモで絶叫する(しかしなんで「安倍死ね」とか言うのかね?正義のためのデモじゃないのか?)以外の発言の場も、主にネットである。

なのに彼らはネット上で批判されると、「俺たちはお前らみたいにネット上で批判してるんじゃない!行動しているんだ!」と言って批判を逃れる手口を、ほとんど水戸黄門のご印籠のように振り回せばいいと思い込んでいる。

いやだから、国会前で「死ね」と叫ぼうが(批判にもなってない)、ネット上できちんと論理を構築して筋道の通った批判を繰り広げようが、言葉は言葉です。

で、どっちかといえば後者の方が高級な言論であること、民主主義の社会にはむしろ後者が必須であることは、言うまでもない。

しかし「レッドウルフ」さんねえ…

7/09/2014

「集団的自衛権」と言う話自体が欺瞞だった


すでにこの前のエントリーで言及はしていることだが(いやその前から言っているか)、長文のなかであまり目立たないのかも知れないので、今回の安倍政権による閣議決定の重大な欺瞞を、あらためて指摘しておく。

今回の閣議決定で決まったことの本当の内容は、「集団的自衛権の容認」ではない。結論から先に言ってしまおう。安倍が言ってしまったことの意味は「中国といつでも戦争が始められるよう、日本から先制攻撃も出来るようにしました」だ。

まずミスリーディングな世論操作で誤解されがちだが、「集団的自衛権」の話を装って実際に強行されたのは、自衛権に基づく武力行使の発動のための、三つの新たな要件だ

①我が国に限らず、密接な関係の他国が攻撃された場合でも、我が国の存立が脅かされ、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険がある
②(危険を排除する)ほかの適当な手段がない
③必要最小限度の実力行使にとどまる。

この①がこれまでの憲法の自衛権の解釈と決定的に異なるわけだが、文言だけをちゃんと読めば「集団的自衛権」に該当する「密接な関係の他国が攻撃された場合」は、「そういう場合も含む」という意味合いの付随でしかない。「我が国に限らず」、つまり第一に「我が国が」が前提となっている文章構造だ。

そして文章それ自体の要点の、本当に重要な変更は、なによりも「明白な危険がある」だけで自衛権に基づく武力行使が可能になったことだ。

集団的自衛権に関することは、そこに「他国が攻撃された場合でも」が、いわば「例えば」という感覚で付随されているに過ぎないのが、この文章の構造であることは、見逃さない方がいい。

しつこいようだけど大事なことなので繰り返しました。 
そしてやっぱり気になるので、もう一回言います。文章のキモは「我が国に」「明白な危険がある」だけで自衛権の行使が可能になっていることで、肝心だったはずの集団的自衛権は、実は「他国が攻撃された場合【でも】」という追加です。 
「集団的自衛権」に賛成だ、反対だとやっていた隙に、まんまと「霞ヶ関文学」のなかでも見事に洗練された、最高傑作レベルの欺瞞にやられてしまった。
集団的自衛権を日本にも危機が迫る場合にのみ「限定的に」(なんてことは滅多にあり得ないはずだが)行使を許すのであれば、最低でも「他国が攻撃された場合【に】」、本来ならより厳密に「【に限って】」でなくてはならなかった。

これまで日本の自衛隊が自衛権に基づき武力を行使出来たのは、日本と日本人が直接に攻撃を受けるか、その領土・領海・領空が侵犯された場合に限られていた。この制約があれば、実際に自衛行為であることに疑いの余地のない場合のみに、武力の行使が限定される。

だが新要件は根本的に違う。「明白な危険がある」というだけならば、イラクのバース党政権が大量破壊兵器を持っているから明白な危険だ、という理由でアメリカがイラクを侵略したのと同じ理屈でも、「明白な危険」に対する「予防的先制攻撃」での戦争が可能になる。

自衛のために予め先制攻撃で危険を取り除くと言えば、実際には侵略を含む戦争を始める口実としていくらでも使えるわけで、確たる証拠が実はなくても「危険だから」「我が国の存立が」という理由だけで、戦争を始められてしまうのが、新しい三要件のその①なのである。。

従来なら領空ないし領海が実際に侵犯された場合のみ、自衛隊が出動し、警告して追い出すだけで、相手が攻撃を始めない限り発砲することもなかった。だが「明白な危険がある」と言い張れば、他国の船や飛行機が国境に近づくだけで、公海やその上空、相手国の領空領海内で先制攻撃が出来る理屈になる。

日本のメディアが中国の軍艦船や軍用機が尖閣諸島の「接続水域」に、と騒ぐのは、実際には日本側の主張でも中国側領海領空に、人民解放軍が展開しているに過ぎない。 
だがこの新三要件なら、「明白な危険」つまり「尖閣諸島を攻撃するに違いない」と言い張って、国境を越えた先制攻撃が出来てしまうのだ。

安倍政権が本当に集団的自衛権、つまりアメリカの “自衛” 戦争に日本も参加したいことだけが目的だったのか、アメリカの要請で集団的自衛権を検討したのがきっかけで、この新要件の文面になってしまったのは公明党や世論との妥協や調整の結果だったとしても、結果として出来上がった文面自体が恐ろしく危険なものであることは、そう決めてしまったら今後はこの文言が一人歩きするであろうことを防ぐためにも、ちゃんと問題にした方がいい

ただしこれは完全に国際法違反であり、国連が安保理決議に基づく武力行使を決定する要件を満たしている。

安倍ちゃんの大好きな「法の支配」が厳密に適用されるなら、イラク戦争では本来ならむしろ国連軍がアメリカの戦争を止めさせるために組織されなければならない、と理屈ではそうなったはずだ。

その意味では、安倍政権がこうも恣意的に自衛権の発動要件を極めて危険なものに変更しても、(実際にそれを行使すれば国際法違反になるので)国連安保理でアメリカが拒否権を発動してくれることでも期待しない限り、実行に移されることはまずないだろう。

言い換えれば、これは日本の自衛権行使の対米従属をますます強める内容でもある。

そんな従属をされては、アメリカはかえって迷惑だろうが。

果たして安倍政権があまりに馬鹿だから気づかずにこんな文言にしてしまったのか、最初からこれを狙って、国民を騙すカムフラージュとして「集団的自衛権」を認めるのだと言って来たのかまでは、よく分からない(と言っておく)。

だが実践すれば明白に国際法違反になることも含め、この新3要件が(拒否権を持つ常任理事国である)アメリカの庇護ありきの話にしかならないことは確かだ

そのアメリカを指すと思われるのが「密接な関係の他国が攻撃された場合でも」というのもよく分からない言葉で、普通なら同盟関係にあるアメリカ一国だけを指すと解釈しがちだが、はっきりと「同盟国」と言っているわけでもない。

「同盟国」ではなくあえて「密接な関係の他国」となっていること自体は、典型的な「霞ヶ関文学」だ。 
ここがあまりにあからさまに曖昧なので、つい後の「でも」が本当は条件付けの「に限り」でなければならないことを見落としてしまう。この目を逸らさせる洗練された手口といい、相当な手練の官僚の作文に思われる−−もちろん悪い意味で。 
つまりもちろん、安倍の希望なのか書いている官僚の仕組んだわなのかまでは分からないが、これは意図的に計算し尽くされた詐術である。

安倍が中国と戦争をしたいのなら、南沙諸島を口実に、フィリピンは「密接な関係の他国」だ、ヴェトナムは日本の原子炉を買っているから「密接な関係の他国」なのだ、そして「日本も尖閣諸島が」と言って戦争を始められてしまう。いや単に「理屈ではそうなる」だけでなく、会見で安倍自身がそう言ってしまっている

「連日、ニュースで報じられているように、南シナ海では、この瞬間も力を背景とした一方的な行為によって国家間の対立が続いています。これは人ごとではありません。東シナ海でも日本の領海への侵入が相次ぎ、海上保安庁や自衛隊の諸君が高い緊張感を持って24時間体制で警備を続けています」安倍晋三記者会見より

「中国」と国名の名指しこそないが、この下りは露骨な挑発でしかない(しかも虚偽と一方的な決め付けの誇張を含む)。通常の外交ではこんなことをやれば、それこそ相手国が激怒し、戦争になってもおかしくない。その国との関係を破綻させようとする発言だ。

それでも反対する人たちを含め、なにしろ「集団的自衛権」の話だと言われて来たもので、ついアメリカの戦争に日本が参加出来るようにすることなのだと誰もが思って来てしまっているし、アメリカに命じられたのだろう、安倍はアメリカの言いなりなのだ、と疑う人すら多い。

だが、それだったらアメリカが歓迎しなければおかしい話であり、だからメディアもその方向性で一生懸命報道しようとしている−−もはや安倍政権になってからは日本のメディアの常態と言っていい、政権擁護のための歪曲で。

実際には、アメリカは国防総省の報道官が簡単なコメントで質問に答えただけだ。

ここにも、もうひとつの、大きな欺瞞がある。

本当にアメリカの要請、ないしアメリカが歓迎することならば、なにしろ日本の戦後の方針を大転換する「集団的自衛権の容認」で、利するのはアメリカなのだし、なんといっても日本の首相の一大決断なのだから、ホワイトハウスが直接に安倍に何かを言わなければおかしい。

それこそアメリカの要請や要望であったのなら、直接の電話会談でオバマが安倍に感謝なり評価の言葉を伝えなければ、釣り合いが取れない。

その当然の儀礼をアメリカが取らなかった理由は二つ考えられるだろう。その1)アメリカは日本を属国としかみなしておらず、対等の独立国としての儀礼を尊重する気すらない。その2)オバマ政権は安倍政権のこの動きをまったく評価していない。

今のアメリカの大統領がバラク・オバマなのだから、その1)は絶対にあり得ないのは言うまでもない。まさに過去のアメリカがそういう傲慢な態度を時にとって来てしまったことへの反省が、ポスト・ブッシュ、ポスト・イラク戦争の、世界の信頼を回復したいオバマの外交の原点のひとつなのだ。

もちろん正解は その2)の方で、実は「日本の集団的自衛権の行使」は、ちっともオバマ政権が望んだことではないし、この無視っぷりもその態度を鮮明にしたことに他ならない。

むしろこれまでも何度も、日本が中国を挑発して東アジアの安全保障を揺るがすこと、韓国を侮辱してアメリカの重要な同盟関係を傷つけることについて、警告を発して来たのがオバマ政権である(ルース大使を安倍が無視し続けるので、わざわざケネディの娘を駐日大使にしたのに至っては、ほとんどイヤミだ)。

ところが新三要件以上に、それを発表した安倍の会見が、露骨に中国を挑発する内容なのだ。こんなもの戦争でも覚悟しない限り、アメリカが評価出来るわけがない。

そして現代のアメリカ全体が、こんな似非「集団的自衛権」を求めてもいない。

だから保守系のワシントン・ポストのような、日米安保や日本のイラク派兵を積極的に評価して来たメディアですら、安倍の動きを危険なものとして批判し、今回の閣議決定の手続きが違法ではないかと疑いを述べている。 
当たり前のことだ。オバマの方針というだけでなく、世論におけるイラク戦争の後遺症の厭戦気分で、アメリカがどこか他国に軍事力を大々的に行使する、日本を始め列国に協力を求めるなんていう事態は、当分はあり得ない。 
しかも新三要件には「我が国の存立」「国民の」と明記され、安倍自身が会見で「イラク戦争のようなことに参加することはない」と明言してしまった。これではアメリカにとってなんのメリットもないのだ。

だから安倍政権がこうも拙速に「集団的自衛権の容認」に突っ走る国際政治的な必然性は、実はどこにもない。これはどこまでも、安倍が勝手にやったことだ。そして安倍がやってしまったことは、国際政治における日本の国益には一切関係がない。恐るべき外交音痴というか、外交上の自爆行為でしかない。

実ははしゃいでいる安倍本人以外は、どこまで本気なのかも疑わしい。さっそくこの新三要件を実践に移す法改正は、もう来年の通常国会への先送りが決まっているし、なにしろ「解釈改憲」という法論理でありえない倒錯なのだから、いざ立法手続きが取られれば、さすがに最高裁が黙ってはいまい。 
違憲立法審査権が発動されれば、首相の責任問題に発展し、内閣総辞職ものだ。

安倍が総理大臣になってからというもの、なにかがあると安倍が国内で迂闊なことを言い出さないように外遊させる、というのがこの困った総理大臣のお守りをしなければならない外務省の役目のように見える。

というわけで安倍はただいまオーストラリアに外遊中で、首脳会談で「集団的自衛権の行使容認」が評価された、と日本国内では報じられている…のだが、それがどのような言葉だったのかはぜんぜん報道で明示されないのだから、まるで眉唾である。

もちろんこの明らかに外務省発表に基づく報道を、真に受ける方がおかしい。

だいたい外務省が安倍を外遊させたがるのは、外務省記者クラブか官邸記者クラブの、自分達の息のかかった、お気に入りの記者しか随行しないからだ。厳しい質問もしないし、安倍がすぐやってしまううっかりの失言暴言は随行記者達が率先して隠してくれる。 
テレビで生中継だとそれでも困ったことが起こる。オリンピック招致で安倍が自慢げに「汚染水は港湾内0.3平方キロでブロック」を言ってしまったあと、NHKの速報ニュースはその部分を編集カットして放映しなかった。ところが安倍が祝賀会でも何度も「港湾内0.3平方キロでブロック」を繰り返すので…って、もちろん後で国会でも問題になった。まったくの嘘だったから当然だ。

実際にはオーストラリア首相は、せいぜい相づちを打ったくらいで、内容のあることはなにも言っていないのだろう。なにしろ相手は自国を訪問中の友好国の首脳である。面と向かって「あんたのやったことは違法で迷惑だ。それに危険だ」などと言える立場ではそもそもない。そんな外交辞令の冒涜は相手国との関係の破綻、下手すれば戦争の原因にまでなってしまう。

日本国民がオーストラリアに悪感情を抱くようなことをやってしまえば、輸出入や、観光にだって響く。

その上、首脳会談で決まったことのひとつは、兵器産業に関する輸出入の協定だ。ますます安倍が自分の「成果」のつもりの「集団的自衛権」を自慢げに言い出しても、相づちを打つ位しかできないのは当たり前である。

それにオーストラリアは軍事的には日本の同盟国(「密接な関係になる他国」として通常想起される国)でもなんでもなく、そもそも日本の集団的自衛権の行使なんて直接に歓迎する理由もへったくれもない。この国に歓迎されようが、実はまったく関係ないのだ。わざわざこんな無関係でたいして意味もないリップサービスをメディアに報道させていること自体が、薄っぺらな世論操作だと見抜くくらいのメディア・リテラシーの知恵は必要だ

言い換えれば、安倍本人はともかく、周囲や官僚はかなり焦っているから、少しでもポジティブに受け取られそうなネタを、なんとか報道させようとしただけだ。

実は「集団的自衛権の行使」どころではないもの凄く危険な内容の、「いつでも戦争が出来るぞ」宣言であり、仮想敵として中国を事実上名指ししている結果、既にそこまで気がつかれているかどうかはともかく国際的に極めて評判が悪く、肝心のホワイトハウスにも、国務省にも無視され、アメリカのメディアが批判一色であることを誤摩化し、あたかも中国と韓国だけが反発しているかのように偽装するための稚拙な偏向誘導に過ぎない。

だいたい他国の首脳や政治家の発言を、日本に都合良くねじ曲げて国内向けに発表し、メディアがその言いなりになるのは、我が国の外務省がいつもやっていることだ。

2010年の前原クリントン会談の外務省発表がインチキであったことは、前原自身がぶら下がり会見で認めざるを得なかった 
外務省が当初報道させたように、クリントン自身が「尖閣諸島は日米安保の適用」と言ったのではまったくなかった。 
前原が何度もその言質を求めて地図まで出して食い下がり、クリントンは「テクニカルにはそうなる」と認めただけで、続けて「だから日本が、その安保が適用されるような事態を起こすことは、アメリカは絶対に賛成しない」と逆に釘を刺されたのが真相だった。この事実を今に至るまで日本のメディアは誤摩化している。

「集団的自衛権の行使容認」を決定したのでは実はない、新たな自衛権発動の三要件を安倍晋三自身が発表した記者会見の中身となると、これはもうまったく集団的自衛権の話になっていない

今まで「集団的自衛権を認めるのかどうか」で盛り上がって来てしまった流れで、本当の内容がそうなってしまったと気づかないかも知れないが、安倍の実際の発言は、露骨に「日本は中国の脅威と対抗するのであり、中国と戦争をするためには、この新三要件が必要だ。これでいつでも戦争が出来る」と言い張る内容になってしまっている

政策発表の会見の場で、このバカ総理は事実上中国を仮想敵と名指しして、これからの日本は先制攻撃だってやるぞ、と大喜びで自慢げに脅しているのだ。まあご本人が「抑止力」などと無邪気に告白しているのだから、まぬけというか頭隠して尻隠さずというか…。

一方、こうして名指しで侮辱され中傷挑発された中国はと言えば、7月7日は盧溝橋事件の77周年だった。

またなんと最悪のタイミングで似非「集団的自衛権」、その実「中国といつでも戦争を始められるための三要件」を決めてくれたものだ

ますます「もう一回中国と戦争するぞ、先制攻撃だって辞さないんだ」と言う意味になってしまうではないか。

本来やるべきだったのはまるで真逆で、この式典にこそ、ドイツのメルケル首相だけでなく、安倍晋三自身がオーストラリアなどに行かずに出席すべきだった。日本側は首相でなければ、最低限でも外務大臣が行かなくてはならない。せめて大使くらいは列席したのだろうと思いたいところだ。ちゃんとそうやっていなくて、日本が侵略戦争を反省している、と言えるのか?

日本のメディアはこの式典や中独首脳会談、そこでの習主席の演説も、あたかも日本を挑発したかのような文脈で報道しているが、それに騙されるのだとしたら我が国の民度もほんとうに落ちるところまで落ちた、安倍晋三だけでなく日本国民がそろって世間知らずの大バカに成り下がった、と言わねばなるまい。

盧溝橋事件をきっかけに起こった、日本の当時の呼び名で言えば日支事変、歴史学的に言えば日中戦争は、日本による中国への一方的侵略戦争であり(海を隔てた他国領にここまで侵攻して「自衛のため」と言えるはずもない…はずがそれでも「自衛だ」言い張る人たちなのだから、新三要件は本当に危険だ)、日本はその戦争に敗れ、断罪され、謝罪反省することで国際社会への復帰が認められたはずだ。

なのにその記念式典を「反日だ」などと言うのなら、いったいなにを謝ったつもりなんだ、という話にしかならない。

恐るべき非常識の傲慢さだ。というか、要するに人種差別なわけですが。

しかも実際に、日中戦争が日本の自衛だったなどと平気で言い張ってしまう人たちが、その侵略加害国の政権を握っているのだ。これで中国の国家主席が日本に言及しないわけがない。

それでも習主席は、その歴史修正主義の動きについて「日本を批判」は決してしていない。あくまで日本の「一部」の、具体的な言動を批判しただけであって、日本国民全般への敬意と尊重は、儀礼上ちゃんと守った内容である

もう一点。盧溝橋事件をきっかけに日本は電撃的に中国本土への侵略を進め、中華民国はほとんど抵抗も出来ずに敗走を続けているので、その意味ではこれはボロ負けの敗戦の屈辱を記念する、日本の被害を訴えるイベントにならざるを得ないように思えるが、実際には「抗日戦争」の始まりを記念する式典と銘打たれている。 
いい加減に目を醒して欲しい。中国は(そして韓国も)「反日」などではないし、そんな意図も悪意もどこにもない。そんな言い草は日本人の側の人種差別の裏返しとしての被害妄想でしかない。 
中国のナショナリズム、愛国主義にとって大切なのは「日本に酷いことをやられた」ではなく、あくまで「苦しい戦いに勝って祖国を守った」ことの顕彰である。

自分達を日本の「一部」としか習近平が認識していない、という態度に安倍晋三たちのプライドはますます傷つくのかも知れないが、それで侮辱されたとしても侮辱されたのは「日本」ではない。あくまで、あなた達、明らかに狂ったことを言っている個々人だけだ。

繰り返すが、習氏が批判したのはあくまで日本の「一部」である。明確な意図を持ってあえて(必ずしも事実でない、と恐らくは承知の上で、礼儀として)そう言っている。「一部」つまり決して「日本」全体を敵視しているのではない、と明言しているのだ。

そこを見誤って「反日だ」などと騒ぎ出すようなら、ますます「日本は、安倍は中国と戦争をしたがっているのだ」と思われても文句は言えない。

いったいこれのどこが「日本を守る」首相なのだろう?どんどん危険な立場に、この国とその国民を追い込んでいるだけだ。

だがもっと恐ろしいことがある。「集団的自衛権」には反対している人たちですら、安倍が中国と戦争をする、そのために予防的な自衛と称して先制攻撃も出来る様になった、と言われれば、心のなかでは賛成するのではないか?