最新作『無人地帯 No Man's Zone』(2012)
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1/09/2011

ジョン・フォード『シャイアン』Cheyenne Autumn


『シャイアン』は“西部劇の神様”ジョン・フォードが「虐げられたインディアンの側」に立って作った映画ではない。

アメリカの国民的映画作家であるフォードが「かくあるべきだったアメリカ」の視点から「アメリカの現実」を糺弾し「かくあるべきだったアメリカ」が最早存在し得ないことを嘆く映画だ。

『シャイアン』は、虐げたマジョリティの側に属する映画作家が、差別され虐げられたマイノリティの問題を描く時に、偽善に陥ることなく、「弱者」をセンチメンタルに搾取することなく、倫理的な映画を作る際にとることの出来る、ほとんど唯一の視点と立場を示している映画だろう。

本来ならフォードがこの物語を描くべき立場ではなく、インディアンの視点ならインディアンの映画作家が描くべきであったという点において。

にもかかわらず映画によって民族の物語を語る術が1960年代当時インディアンにはなく、アメリカ人であるフォードでなければこのアメリカ映画は作り得なかったということにおいて。


フォードが『シャイアン』に取り組んだ最初の動機は、シャイアン族の絶望的なまでに勇敢な故郷への長い旅への共感だったはずだ。

だがフォードはやがて、その自分の最初の動機を映画にすることなど出来ない、やってはならないことだと自覚したはずだ。そのことがこれをフォードの最も崇高な映画にしている。

『シャイアン』は決して「インディアンの側に立った映画」でも、「インディアンについての映画」でもないのだ。


ジョン・フォードはあくまで、自分が属するアメリカ社会についての批判しその倫理を問う映画を作ったのであり、インディアンはその社会を照射する高貴なる他者として、ある意味でこの映画の物語の「外」、アメリカの白人たちの物語のパラレルなものとして、画面に映し出される。

だからフォードはこの映画でセミ・ドキュメンタリーのようにシャイアン族の風俗を忠実に再現しようとはせず、その文化が失われることをセンチメンタルに憐れむ映画も拒否し、インディアンを「可哀想な被害者」「弱者」として見せようともしない。

むしろどれだけ追いつめられようが、いざ闘いとなれば、この映画のシャイアン族たちは勇敢であり、強く、誇り高い戦士たちである。


彼らはあくまで高貴なる他者であり、モニュメント・ヴァレーの屹立する奇岩のように、アメリカがアメリカたる風景の一部として映し出される。『シャイアン』はアメリカがアメリカ人によって破壊される物語なのだ。

フォードが『シャイアン』を「政治的に正しい」歴史の再現として作ろうとしたのなら、シャイアン族のリーダーたちの役はインディアンに演じさせただろう。だがそうした態度が自らの「正しさ」のエクスキューズにしかならないことを、晩年のフォードは見抜いていたのだろう。


だからフォードがシャイアン族の指導者たちにラテン系の往年のスターを配役しているのは、「政治的」にはあまり正しくないように見えるとしても、ギルバート・ローランドやリカルド・モンタルバン、とくにドロレス・デル・リオの配役は、明らかに意図的であり、そして映画的には圧倒的に正しことなのだ。彼らはこの映画のなかで神話的な存在なのだから。


『シャイアン』は70mm撮影の超大作とは思えないほど抽象的な映画だ。

確かにその点で、フォードは「西部劇の神様」の手になる大迫力のスペクタクルを期待した観客を裏切ったことにはなる。またその一方で、超大作であることを理由にこの映画を批判する批評家も多い。

だが経済的な側面を無視するなら、この映画は70mmで撮られるべき映画だ。あたかも古代信仰の壮麗な大壁画のように撮られたことこそが、ふさわしいのだ。

その壮麗な大壁画のなかで、フォードは虐げられたシャイアン族を決して憐れみの対象として見せようとはしない。映画のなかで彼らはみすぼらしい洋服に見を包んではいても、風景のなかで高貴に、誇り高く屹立し続ける。


シャイアン族が砂漠の居留地から自然豊かな民族の故郷へと旅するのは、ただ生存のためでも、ただのノスタルジーでもない。

人間としての尊厳を貫くための旅であり、老酋長はその旅の途中での死も覚悟する。

死ぬのなら、せめて少しでも人間らしく死のうとするのだ。

だがこの高貴で英雄的な民族は決して、この映画のなかで物語の中軸を担い観客の自己同一化を促し、映画のモラルを体現するという意味での、西部劇的なヒーローとはならない。映画『シャイアン』にとってシャアン族は、あくまで「他者」なのだ。

そのことがこの映画の受容に関して、ある種の混乱を引き起こしてはいる。『シャイアン』はこれまで、最初からそうであろうとなどしていない映画になっていないことで批判される一方で、この映画が実際にそうであることに無関係に擁護されて来た、究極の「呪われた映画」である。

『シャイアン』が究極のアンチ西部劇なのは、インディアンに対する不正と虐待を告発しているからではない。そこには観客が同化するための英雄がまったくおらず、整合性のある物語すら拒否する構造そのものが、アンチ西部劇なのだ。しかしこの映画は、どんな西部劇よりも神話的だ。


映画『シャイアン』の主人公はあくまで、シャイアン族を追う任務を負い、その悲劇の目撃者となる騎兵隊の部隊の隊長リチャード・ウィドマークであり、シャイアン族と行動を共にするクエーカー教徒のキャロル・ベイカーである。


酋長達は「白人の言葉は嘘の言葉だ」と子供達に英語を教えることをやめる。「あなた達は英語を喋っていても嘘つきじゃない」と訴えるキャロル・ベイカーに、彼らは言う「我々の英語は、まだ一部の白人たちが真実を語っていた頃に、学んだものだ」。

内務長官カール・シュルツ(エドワード・G・ロビンソン)が傷痍軍人の上院議員に言う。「我々がゲディスバーグで一緒に戦った時、君は黒人奴隷なんて見たこともなかったはずだ。それでもその人たちが人間らしく自由に生きられるということは、君にとっては片腕をも失う意味があることだったはずだ」。その民主主義を信じた過去、アメリカがアメリカたらんとしていた過去=アメリカの原点はすでに、この映画のワシントンDCには存在していない。


『シャイアン』において、かくあるべきだった姿は常に過去に参照される。シャイアン族の故郷、かつては白人の一部が正直だった過去、そしてカール・シュルツの「旧友」リンカーン。しかしそのいずれもが歴史的な過去ではい。フォードにとって過去とは本来の原点を指し示す方向なのだ。


過去として参照される究極の「こうあるべきだった原点」とは、モニュメント・ヴァレーというロケーションそれ自体だ。この風景はフォード自身が西部劇の舞台として観光化したものですらなく、何百万年、何億年も経てそこにある「自然」「大地」の記念碑なのだ。

キャロル・ベイカーは最初、シャイアン族をかわいそうな犠牲者として助けようとする。だが彼らの故郷への旅に同行するなかで、彼女は彼らの闘士としての誇り高さを知り、高貴さに触れ、多くを学び、ただ人として、女として正しく生きようとする人間へと成長し、シャイアン族の女たちと心の連帯を結び得るようになる。

フォードの映画を語る時、そのなかの女たちはしばしば無視されがちだ。だが『シャイアン』のなかで本当に最も重要な役柄はキャロル・ベイカーとドロレス・デル・リオの二人の女と、怪我をした少女の三人の女であり、彼女達こそがこの映画のもっとも中核となる倫理の部分を担い、未来へとつながっている。

シャイアン族の酋長たちに「英語はもう学ばせない」と言われても、キャロル・ベイカーは彼らの旅に同行しながら、砲撃で負傷した少女を看病しつつ、英語を教え続ける。少女は彼女の与えた小さな黒板にバッファローの絵を描き、ドロレス・デル・リオが仲介になって、バッファローがシャイアンの言葉では「ホトイ」なのだと、彼女が学ぶのだ。


白人がもはや英語で真実を語らなくなった時代でも、共通の言語は重要なコミュニケーションの手段なのだ。そしてこの女たちの強い連帯に、やがては双方の男達も参加する。まずギルバート・ローランド演ずる酋長が、キャロル・ベイカーに自分たちの窮状を砦の将校達に語ってくれるよう頼む。

そしてその砦の病院では、例の黒板に描かれた汽車の絵を媒介に、リチャード・ウィドマークもこの言語の表象性と伝達性をめぐるをゲームに加わる。

真実を語るため、ワシントンDCへと向かう直前に。


『シャイアン』のなかの白人のアメリカ人の「その他大勢」は愚かで下品で強欲である。たとえば映画の中程にあえて違和感たっぷりに挿入されるダッジ・シティの、破天荒なまでにバカバカしい挿話の下品さと愚劣さ。フォードがそれをスラップ・スティック喜劇として演出したのは、さすがに愚かで醜悪なものはそのまま映画に出来ないという、フォードの職人的な矜持なのだろう。


と同時に、この挿話の中心であり、その愚劣さと下品さのなかに自らを貶めながらどこか寂寥感を漂わして場違いに居心地の悪いジェームズ・スチュアート演ずるワイアット・アープは、そのキャリアの末期にフォード自身の自嘲的な姿を、体現している。60年代のハリウッドで前時代の遺物のように「西部劇」を作り続けるかつての巨匠。だからこのドタバタのシークエンスは、サイレント喜劇のように演出されてもいる。

ダッジ・シティのシークエンス自体が、この壮麗で神話的で寓話的な悲劇的叙事詩のなかで、非常に場違いな存在であるのも、だからフォードが意図した、この映画に不可欠な要素なのだ。シャイアン族の悲劇がアメリカの堕落の鏡なのだとしたら、これはその歪んだ合わせ鏡なのだ。


だからワイアット・アープは、鏡のなかの反映としてスクリーンに映し出される。


この文明によって人間の良心を剥奪された社会のなかで、政治や軍隊や公職に、その官僚的な権力構造のなかの保身に汲々とせねばならぬ個人たちがいる。

そのさらにごく一部だけが、それでも人間として正しい選択、ただ命を救おうとする選択を、しようとするのだ。

映画の中心は、その後半に入るといよいよインディアンという【マイノリティたち】から、白人であるアメリカ人のなかの【マイノリティたち】に移る。

彼らはポーランド人であったりアイルランド系だったりすると同時に、社会の権威に隷属するよりも人間としての良心の側に立とうとする意味での、【少数派】である。


ポーランド移民の軍曹がウィドマークに言う、「ポーランドではコザックが、ポーランド人をただポーランド人だというだけで殺す。ちょうど俺たちがインディアンをインディアンだと言うだけで殺しているように。アメリカ兵であることは誇りだったが、コザックであることに誇りは持てない」

極寒の砦でシャイアン族が餓死・凍死させられそうになるなか、人間であろうとする軍医と騎兵隊大尉がお互いに問いあう「お前はどうするつもりなんだ?」。この問いかけは、観客に対して向けられてもいる。非人道行為を前に、【あなた】はどうするつもりなのか?


軍医は、自分は軍医になっていかに楽が出来たか、地位もあるしいずれ年金だってもらえるのに、それを棄てろと言うのかとキャロル・ベイカーに食ってかかる。そして最後に「俺はその通りのことをこれからやるよ」と言う。ただそれが、人として正しいことだから。

『シャイアン』は最終的に、上からの命令等に従って保身に走るのか、人間としての良心に従うのかの葛藤のドラマになる。もののはずみで虐殺されたシャイアン族達の死体のなかで、パトリック・ウェインは「命令と権威がこれで充分に尊重されたのですか?」とカール・マルデンに叫ぶ。


フォードがこの映画を撮るほんの少し前に、ナチスの戦犯アイヒマンの裁判がイスラエルで行われていた。

裁判を取材したハンナ・アーレントは『イェルサレムのアイヒマンー悪の凡庸さの研究」に「『最終的解決策』はあらゆる場所で起きた可能性があったのはその通りだ。だが実際には決してあらゆる場所で起ったわけではない」と記した。

「恐怖の体制の前に多くの人は従ってしまうが、あらゆる人が従うわけではない」。己の良心を貫く個々人がいること。「それだけが、この惑星が人間の生存に適する場であり続ける唯一の条件である」

ハンナ・アーレントが「悪の凡庸さ」と指摘した「最終的解決策」が起らなかった場所は、ドイツにですらあった。家庭で、職場で、そして恐怖や大勢に屈しようとしない個々人の良心という名の戦場で。そして迫害されたユダヤ人たちの隠れ家のなかや、強制収容所のなかでさえ。


『シャイアン』でアメリカ人側の民族的マイノリティでもある軍曹や軍医、そしてキャロル・ベイカー、カール・シュルツが体現し、リチャード・ウィドマークがそこに合流する【少数派】もまた、恐怖や大勢に屈しようとしない個々人であった。一方でシャイアン族、ひいてはアメリカの大地を原住地とするインディアンに起ったことは、アメリカ側の先住民問題の「最終的解決策」であった。

『シャイアン』が提起する問題意識はあくまでアメリカの歴史の中でのアメリカ自身への裏切りを巡るもののはずだ。

だがリチャード・ウィドマークの孤独な闘いと葛藤は、今の日本人の多くが置かれている問題とシンクロしている。組織の権威を優先するのか、まずまっとうな人間であるのか。

『シャイアン』のキャロル・ベイカーの葛藤と成長もまた、今の日本の現実とシンクロしている。「弱者」をただ可哀想と思うことに留まらず、彼らから学び自らを人間として高め、真に対等な存在になることができるのかどうか?



シャイアン族を虐殺してしまう大尉がドイツ人であるのは、ナチズムへの言及だろう。だがこのカール・マルデンは決してヒトラーではない。平凡なインテリが無駄なプライドで虐殺者になるのは、むしろアイヒマン裁判で炙り出された「悪の凡庸さ」そのものである。

最後に虐殺者になるカール・マルデンの大尉もドイツ人なら、最後にシャイアン族を救うことになるカール・シュルツもまたドイツ人である。史実としてのカール・シュルツは、この事件に関わってはいないのだが、南北戦争で活躍し、リンカーンの側近となり、内務長官としてアメリカ国内での基本的人権の確立に務めた、ドイツ系移民一世だった。

カール・マルデンの体現する凡庸なインテリのプライドの罪とは、むしろたとえば現代の日本に通用するものだ。さすがに実際の虐殺にまでは暴走していないが。


ウィドマークはシャイアン族の窮状を内務省に直訴に行く。「私はただ、彼らがどれだけの経験をして来たのか知っているだけです」。

エドワード・G・ロビンソン演ずるカール・シュルツが尋ねる「君は陸軍省で随分不人気になってるらしい。なんのためだ」大尉「私はただ真実を語りたいだけです。本当に起っていることを人々が知れば、決して喜ばない」シュルツ「人々か…」。

クライマックスは、あまりに人工的な描写が批判される。だがこれも意図的なもの、少なくともこの映画の抽象的な寓話性に沿ったものとして解釈されるべきだ。


なんといってもこの解決、米政府の高官がシャイアン族と話し合い、彼らを尊重する解決を図ったことも、真実を人々に伝えると約束したことも、「そうあるべきだった」ことだが実際には起らなかったことなのだから。

ハンナ・アーレントの言葉を援用するなら、この和解と救済の「最終的解決」もまた、どこで起ってもおかしくないことだった。しかしそれはフォードの映画のなかで起ったとしても、現実のアメリカには起らなかった。実際の歴史であったのはナチスと同様の「最終的解決策」であり、しかしその現実すらアメリカ史のなかでほとんど語られていない。


シャイアン族の酋長たちは、史実としてのカール・シュルツでなく、フォード映画のフィクションとしてのカール・シュルツに問う。「人々に、誰が人々に真実を語るのか?」

シュルツは答える「私が語る。約束しよう」。ウィドマークがこう言い添える「彼は真実を言っている」

現実のアメリカでは、誰もその約束をしなかった。映画の冒頭でウィドマークのナレーションが告げるように、シャイアン族の英雄的な故郷への旅路と悲劇は、「ほとんどの人々にとって、歴史のささやかな注釈に過ぎない」

映画のフィクションとしてのシュルツにしても、何が語れたのだろう? ウィドマークやキャロル・ベイカーは真実をつぶさに見て来たが、シュルツは目撃者ではない。ウィドマークからの伝聞だけであり、彼もまたシュルツにただ「私はただ、彼らがどれだけの経験をして来たのか知っているだけです」としか言っていない。インディアン達が砦で「保護されている」のでなく「殺されている」としか、シュルツには告げられていない。

このカール・シュルツとは何者なのか?なぜ彼がデウス・エクス・マキナのように出現し解決することでしか、この映画は終り得なかったのか?


「私が」真実を伝えよう、しかしその術を持たないまま、本来ならギルバート・ローランドとリカルド・モンタルバンと、ドロレス・デル・リオの人物たちこそが語れるはずの物語を、その語る術を持たないインディアン、マイノリティの代わりに語らなければならないアメリカ人とは、何者なのか?

史実としてのシャイアン族の旅から約80年後、確かにこの物語は人々に、決して完全な形でなく、しかしそれ以外はあり得ないやり方で、確かに伝えられたのである。カール・シュルツの約束はそこで初めて果たされたのだ。だからこのクライマックスは、この事件が起った当時には属していないし、シュルツもまた本当はその時代ではなく、この映画が作られたとき、そして見られる時にこそ属しているのである。

ではリンカーンを「旧友」と呼ぶカール・シュルツとは何者なのか?

『シャイアン』という映画を作ったジョン・フォードその人ではないのか?

『シャイアン』とはなによりも、その物語をアメリカ映画として語ることの不可能性に向き合いながら、それでもなお映画にしなければならなかった映画作家の自画像なのだ。

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