昨年の東京フィルメックスと東京日仏学院でのフィクション映画中心の特集上映に続き、アモス・ギタイの今度はドキュメンタリー作品が、アテネ・フランセ文化センターで上映中だ。
アモス・ギタイ 越えて行く映画 Amos Gitai:L’esprit de l’exil
インスタレーション/ドキュメンタリー
1月25日〜2月9日
アモス・ギタイ『フィールド・ダイアリー』1982
アモス・ギタイ『殺人のアリーナ』1996
95年11月に暗殺されたラビン首相の妻レア・ラビン
これまで「イスラエルを代表する映画作家」というくくりで見られて来たこともあり、『フィールド・ダイアリー』、『ラシュミア谷の人々』三部作など、イスラエル社会の矛盾や、パレスティナ問題を撮ったドキュメンタリーが中心に見られて来たが、今回の特集では、従軍体験や学生時代に8mmで撮った習作短編群もプログラムに含まれているだけでなく、「越境する映画作家」としてのギタイの全体像を見据えるべく、イスラエルが主題ではないドキュメンタリーも初めて本格的に紹介している。
「越境するドキュメンタリー」、つまりは長編デビュー作の『家』と、第3作『フィールド・ダイアリー』の二本のドキュメンタリーが、発注主のイスラエル国営放送から検閲・製作差し止めされたことをきっかけに、ヨーロッパに自発的亡命していた時期の作品だ。
アモス・ギタイ『パイナップル』1983
『パイナップル』 1983
パイナップルの缶詰の国際的な流通を通して、グローバリズム資本主義の現実を検証する
『バンコク/バーレーン』 1984
バンコクで性労働に従事するタイの女性たちと、湾岸の産油国バーレーンに出稼ぎに行き肉体労働に従事するタイの男たち
『ブランド・ニュー・デイ』 1987
ユーリズミックスの日本ツアーに同行したロック・ドキュメンタリー。武満徹、坂本龍一とも共演
『ヴッパールの谷で』 1993
ドイツ、ヴッパタールで起きたネオナチによる殺人事件と、その余波を通して、ドイツにおける人種差別を浮かび上がらせる。「ネオ・ファシズム三部作」の第一作
ここでギタイが注目しているのはグローバリズムの時代であり、そしてその時代にヨーロッパで復興して来たナショナリズムの問題だ。
アモス・ギタイ『ブランド・ニュー・デイ』1987 より
一曲ワンショットの力学的カメラワークで捉えられた
ユーリズミックスの来日ツアー
故・佐藤真監督が大変に注目していた『パイナップル』と、背筋が凍るような傑作『ヴッパールの谷で』は、現代の日本の置かれた状況にもさまざまな示唆を与えてくれる作品であることもあって、新たに日本語字幕を作成して上映する。
とくに『ヴッパールの谷で』は、恐ろしい映画だ。
アモス・ギタイ『ヴッパールの谷で』1993
ヴッパタール市名物のモノレールから街並を撮る移動ショット
といって、ギタイが見せるのは「おれはユダヤ人じゃないが、半分だけユダヤ人だ」と酒の上での冗談半分で言って殺された被害者の側でもなければ、加害者になったのと同じスキンヘッズ達のインタビューでもなければ、凄惨な殺人の現状が見せられるわけでもない。
むしろそうしたことは一切、この映画ではあえて見せられてはいない。
この映画の怖さは、過激なスキンヘッズといった「特殊な人々」の「特殊な思想」ではなく、そこに極端化されて現出しているだけであって、実は社会全体とつながっていることを見せているところにある。
まず殺人事件があったバーの前を通る人々に「事件のことを知ってますか?」と問う一連のインタビューがある。
殺人があったバー「小ランプ亭」の前で
そのなかで「自分もどちらかといえば右翼だからね」と言う刺青の男が登場する。
だが彼もあくまで、犯人たちはバカだったと言い、自分は違うし、一方で犯人たちも「ナチではない」と言う。「平和に共存できる外国人なら、自分には問題でない」と。
そうやって「自分はナチとは違う」とは言いながら、刺青の男は黒人を蔑視していることを隠しもせず、フランスの国民戦線党首ジャン=マリー・ルペンを「偉い」と言う。当時の支持率は10%だったが、「すぐに増えるさ」。果たして21世紀フランスの現実は、その通りになった。
映画の中盤で、ギタイたちはヴッパタールの祭に行き、17歳前後の若者たちにインタビューする。
この10分間におよぶ緊張感に溢れたワンショットに記録された集団インタビューのなかで、若者たちは「極右だ」とは名乗りながらも、「自分たちを守ろうとしているだけなのに、マスコミはネオナチと言う。自分たちはナチスじゃない」と言い張る。
「俺たちはナチじゃない」と言う右派を自称する若者たち
彼らが「難民」を非難する言葉は、差別と偏見に満ちたおなじみのものだ。
「難民は優遇されて、ドイツ人は損ばかりしている」、よく聞けば喧嘩に負けたとかの話だったり、やっかみや嫉妬に近い話や、あるいは要は、「外国人は汚い」的な話ばかりだ。
そういった差別意識や偏見に彼らはまったく無自覚であり、彼らは「外国人は怖い」「嫌いだ」と言いながら、自分たちは “正常” 、決してナチスのように “異常” ではないと信じ切っている。「自分の意見を言って何が悪い」
話しているうちに「人種で嫌ってるから、人種差別か」と自分で言っていて気付き、すぐに「でもそんなに酷くない」と打ち消す。
グループのなかにはモロッコ人の少年もいて、彼は「カメラの前だと緊張するから」と逃げてしまう。
イタリア人の「僕はファシストだ」と言う少年もいて、ドイツ人の若者たちは彼らのような「仲良くなれる外国人もいる」ことを、自分たちが「ナチス」ではなく、そんなに差別的でもないことの言い訳にする。
言うまでもなく、この言い訳の理屈も、彼らが外国人を嫌う理由も、日本でも例えば「ネット右翼」と言われる人々の言うことや、「同和利権」「在日特権」の話や、彼らが「差別」という表記が本来「差蔑」である(当用漢字に合わせた当て字)ことを知らないせいか「差別ではない、区別です」と言い張るのと、その意識の構造は驚くほどに、まったく同じだ。
17年前のドイツで撮られた映画でありながら、そこに切り取られ、分析的な編集構成の手腕によって配列された、個々のワンショット=ワンシークエンスのなかの時間から浮かび上がる現実は、今日の日本を考えながらでないと見ていられないほどに、アクチュアリティにあふれている。
大きな違いがあるとすれば、日本でそういう発言をする者の多くがハンドルネームの匿名性に隠れられるインターネット上だけだったり、「同和利権」などの話が大好きな大阪の、たとえば共産党だとか、あくまで表向きは「市民派」のプチブルな人々のように、内輪の酒の上でだけの話にするのに対し、ギタイは彼らにそれをキャメラの前で、生々しい本人たちの言葉として言わせてしまえたことだろう。
そういえば僕のデビュー作で、ギタイの劇映画の方の撮影現場をドキュメントした『インディペンデス〜アモス・ギタイの映画「ケドマ」をめぐって』では、似たようなことをエキストラのイスラエルの少年たちがやっていた。
『インディペンデス〜アモス・ギタイの映画「ケドマ」をめぐって』より
この撮影当時、僕は『ヴッパールの谷で』はまだ見ていなかったから、似たシーンを撮ってしまったのは偶然に過ぎないのだが、そういえばこの僕の映画でギタイはこのシーンだけはあまり気に入っていなかった。
日本人にしてみれば、高校生がこういうふうに議論できているだけでも、日本とは随分違う、ということだけは感心していたのだが、『ヴッパールの谷で』のこのシーンがドイツ人にとってあまり心地よいものでないのと同様に、イスラエル人にとって『インディペンデンス』のこのシーンも、決して面白いものではないのは、わかる。
つまりは日本では、せいぜいこの最新作の未編集素材程度の話にしか…
『ほんの少しだけでも愛を』(2011、編集中)より
…ならないということなのだろうか?
実は「自分は差別する側だ」と自覚というか、プライベートではそこに固執していながら、映画に写る、つまりパブリックの場では正論を言うことで他人から「批判されない立場」を確保しようとする(それにしては、これでもよくも正直に語ってくれた部類に入る)。
本音は匿名でしか言えないというか、堂々と言える「自分の意見」は持てない社会。
本当のことを見抜かれるのを病的なまでに恐れて隠し通すのは、「右翼だがナチじゃない」と言い張ることが出来るドイツの若者たちより、さらに根が深い問題なのかも知れない。
行き着くところは「分からない」から「考えたくない」
ならば排除の論理に行きつくのにはあと一歩でしかない。「差別される側がいるから差別があって、だから考えたくもないことを考えなければいけない」。そうとしか思えないのならば「考えたくない」ことの対象がそこに居ないのがいちばん楽だ。
いや本当は、ただ自分がそんな偏見を棄てて差別なんてやめてしまうのがいちばん楽なはずだが、「知識がない」と言いつつ、決して知ろうとはしない。
またそこには絶望的なまでに、「自分」がいない。あり得ないまでに自分を卑下し、その卑下に値するような自分は決して知られたくない。
表向きには、「差別はいけない」ことになっている(良心ではなく、世間体の問題に過ぎない)。ということは、「俺たちはナチとは違う」と言い続けるヴッパタールの若者たち以上に、少なくとも自分が自分の意思で「差別をしている」と言うことにだけは絶対に出来ない。
だが実際に知ってしまったら、「差別する側」に遭遇してしまったら、「差別する側」に産まれてその出自の奴隷でしかない以上、差別してしまうかも知れない。
ならばせめて「生まれながらに差別する側」なのだとする(=自分の意思/責任ではない)ことと、なるべく知らぬよう、見て見ぬフリをするしかない。
この不可解な堂々巡り状態こそが、現代日本についての率直で貴重なドキュメントであるのだろう。
だが、同時に使い方に困るシーンでは、ある…。
『ヴッパールの谷で』は街頭インタビューの形式で、いわば「生の声」を掬いとる、そこにネオナチを産み出す社会の土壌を炙り出す一方で、事件については被害者/加害者を登場させる替わりに、いわば彼らの代弁者として、検事と、犯人達の弁護士を登場させる。
といって裁判を撮るわけではないし、弁護士達はたとえ法的には彼らの「代理人」であっても、映画的な代弁者にはなり得ないのは明らかだ。
検事 ローゼンバウム氏
弁護士 フランク・ゾマー
弁護士 ミヒャエル・カプス
加害者らスキンヘッズのネオナチは労働者階級出身が多い。検事も弁護士も当然ながらインテリであり、それだけでも代弁者たり得ない。
あくまで事実と証拠に基づく法の執行者である検事は、事件をヘイトクライムとみなす世論や報道について「そう断言する根拠はない」と繰り返し丁寧に説明する。
ローゼンバウムというユダヤ系の名前を持つ検事と、「自分は半分ユダヤ人だ」と言って殺された、実はユダヤ人ではなかった被害者。だが事件については、検事は自分の個人的な立場も、自身の政治/社会的な見解も、滲ませようとは決してしない。
主犯二人組の一人と、共犯になった事件現場のバー店主のそれぞれの弁護士が語る、「ネオナチ」「極右」である犯人たちの背景から、差別をめぐる複雑な問題が浮かび上がる。
「差別する側」は実は「される側」でもあり、我々が考える「ネオナチ」のイメージとも、極右を標榜する人々の強がりの自己イメージとも、大きく異なる。
その点でも、ギタイがスキンヘッズを直接には見せないのは正しい。
見えないことによってこそ、見えて来ることがあるのだ。極論すれば現代映画とは、その探求に他ならない。
極右の溜まり場だったというそのバーの店主は、かつて東プロイセンと呼ばれた時代もあった、現ポーランド領のシレジア出身、ポーランドでは少数民族のドイツ人で移民・帰化していた。彼は(戦後のドイツでは不釣り合いなほどポーランドっぽい?)「神様助けて下さい」を繰り返す子供だった−そう両親が語る。
犯行現場となったバーで、店主の両親
主犯の一人は、虐待家庭で育った知的障害者で、子供の頃からいじめられてもいた。そう弁護士が明かす(あるいは裁判での情状を訴えるための論法なのかも知れない)。
力や暴力の側であるネオナチに居場所を見つけられたことで、それまで障害があり失敗続きで自信が持てることなど何もなかった彼は、その「やっと見つかった居場所」に満足出来ていた。「青少年が犯罪に走る典型的な例」だと弁護士は語る。
弁護士や検事のインタビューで、ギタイはあえて話の前後、たとえば犯人たちの育った事情を語った後で弁護士が「以上です」と話を終える部分まで、映画に残している。
ときにはショットの途中でカチンコが入ることも。
カメラが廻っているとこを意識したとき、彼らの語り方はあくまで、公的な、職業的な、司法制度の一部をなす人間としてのそれである。だがだからと言って、それが「タテマエ」であって本音=真実が別にあるのだという撮り方/見せ方を、ギタイがここでしているわけでもない。
むしろ夜の祭のシーンでの少年たちのような、見た目に生き生きとして「ホンネ」に見える部分もまた、自らが所属すると認識する場での振る舞いに過ぎず、演技なのかも知れない。
その点では法律家たちの、公的な立場をわきまえ、それを果たすための「演技」でもあるインタビューと、なんら変わりはないのかも知れない。
息子が犯罪者になってしまって途方に暮れる、ポーランド人でもあるのでドイツ語が得意とはいえない両親のインタビューは、涙を誘うものであり、彼らの真実なのだろう。
だが一方で、彼らは親として当然、息子についての印象をよくすることしか語らないし、もちろん他のことを語れもしないだろう。
両親が見て来て、思い出せる我が子は、ユーモアがあって敬虔で音楽好きで…彼らからみて「正常」な我が子だ。あるいはその「正常な我が子」を強調して、この犯罪の加害者となった「異常性」を自分たちに対して打ち消したいのか、あるいは息子の裁判に有利なことを言おうとしてるのか…
…その区分けを考えること自体に、実は意味はないし、区分けしようもない。「自分達を守りたいだけ」=「正常」と「ナチス」=「異常」の線引きが、実はどこにも存在していないのと同様に。
そう考えたとき、やはりこの映画のなかでも最も恐ろしい、そして興味深いシーンは、先述のお祭りでインタビューされる右翼の青少年の、10分35秒の長廻しの、とくに後半だろう。
まったく、なぜこういうことがキャメラの前で起ってくれるのか、そういう奇跡を引き寄せるのもまた映画作家の才能なのだろうが。
このシーンはなぜか彼らの仲間であるモロッコ人の少年が「カメラの前は緊張する」と言って逃げるところから始まり、後半ではやはり彼らの仲間であり、イタリア人で「僕はファシストだ」と言い張る少年アレサンドロが登場する。
リーダー格の小太りの少年は、以前に祭で働くイタリア人の集団に襲われたという話をするときに、わざわざ彼を側に呼び寄せる。
イタリア人のアレサンドロは、ドイツ人の友達がいかにイタリア人がひどいかという話をするのを、ずっと側で聞かされっぱなしだ。
ドイツ人の友達が「イタ公」のことを話し続けるあいだ、アレサンドロは沈んだ表情で黙ったまま、そのそばに立っている。
自分が話すように促されたとたん、彼は「同じイタリア人なのに僕も襲って来た」と、いかにも憎しみを露にしたような表情で話し始める。
リーダー格に「マフィアについても話せ」と言われると、彼は「マフィアなんてもうすぐ潰れるさ」と言い捨てる。
いや「憎しみを露に」というよりも、「自分はファシストだ」と言い張る彼の顔は、“イキがって” と形容した方が適確かも知れない。
もっと言えば、無理して演技している。
アレサンドロはリーダー格の少年に「言わされている」。同時に自分自身に「言わされている」。
「あなたにとってファシズムってなに?」というドイツ語とイタリア語を話す助監督の質問を、くだんのリーダー格の少年が引き継ぐと、アレサンドロは元の沈んだ表情に戻り、ずっと黙って聞いている。
そして仲間の一人が彼の首筋に手を伸ばし、一見親愛の情に見えるしぐさをすると、彼の顔にはそこに貼付けたような作り笑いが浮かぶ。
まったく、なんというシーンが撮れてしまっているんだ!
集団のなかの力関係、そこに所属しなければならないという脅迫観念にも似た悲惨を、ここまで凝縮したシーンも、そう滅多にない。
だが映画とは、こういう瞬間と時間をこそ捕捉し、凝縮できる表現メディアでもあるのだ。
それにしてもドキュメンタリーであり、しかもこれが10分半ある長廻しの8分めくらいである以上、これはたまたまその場で起ってしまったはずのことだ。
なんという禍々しい 《幸運》だろうか。
破壊活動に遭ったユダヤ人墓地
「極右」のなかでも極端な行為に走ってしまった三人のうち二人。共犯の店主は、ドイツ生まれではなかった。犯人になった青年は、子供の頃からいじめられてもいた。
この映画の構成のなかで、アレサンドロとは、彼らそのものに他ならない。
ポーランド生まれだった店主の両親の話と、弁護士による捕捉説明はこのシーンの前にあった。そして主犯二人のうち一人、虐待家庭の出身で知的障害のある方の弁護士が、その生育環境を語るのは、このシーンのだいぶ後になる。
力や暴力の側であるネオナチに居場所を見つけられたことで彼は満足出来たのだ。そう語られるとき、アレサンドロのシーンの意味は明瞭になる。
自らが「差別する側」である(少なくとも「差別される側にはなりたくない」)という強固な欲望を死守するのが、現代の世界の「大衆」の大多数だ。犯人たちも、アレサンドロも、そのなかでも最も追いつめられた存在だ。
「大衆」に所属する意識が強ければ強いほど(決して「庶民」ではなく、顔のない大衆)、上辺では「差別はいけない」と言いながらも「差別する側」であることに固執する。
日本でいえば子供の頃いじめられるのが怖いからいじめる側にいたほとんどの者が、そのまま大人になり、親になっている。
過去30年、いじめは日本の教育現場で最大の問題であり続けている。いじめられないためにいじめる側に迎合する、差別されないために差別する側に迎合する行動パターンの刷り込みは、もはや世代ごとに悪化の一途の悪循環に陥っているのかも知れない。
ここには「自分」がいない。
そしてここにも、アレサンドロがいる。
『ほんの少しだけでも愛を』(2011、編集中)より
差別やいじめと言った上下関係の価値観に飼いならされたなかで、「する側」になんとか属したいと思いながら「される側」になってしまう恐怖のなかで生きている限り、出口はない。
差別を「している側」にこっそり固執する者たちとって、両者に根本的に違いはない。
いや実は違いがないからこそ「する側」に固執してしまい、差別という社会構造にむしろ彼ら「する側」のが、がんじがらめになるのだろうか。
しかも表向きには、「差別はいけない」ことになっている。ということは、「俺たちはナチとは違う」と言い続けるヴッパタールの若者たちのように、「ナチス」と言われる、あるいは「差別じゃないか」と指摘されることは、自分たちが批判=差別されることになる。
そういう意味でしか受け取れない限りは、陰でこそこそと「そんなのきれいごとだ」と毒づくくらいしかできない。
いや、本当なら単に気付いて改めれば抜け出せることのはずだ。
だが、むしろそこから脱して自分の良心を取り戻してしまった瞬間に、その環境に居場所がなくなり、差別され排除される側になってしまうかも知れないではないか。
そう思ってしまうことが現実的な恐怖になるほどに、偽善的な社会で彼らは生きて行かざるを得ないのかも知れない。
こと「大人」たちがまったく同じで、ただより偽善的で無責任であるだけならば…
周囲の環境がやはり「差別する側」に固執する者ばかりであったら、たとえば上司や雇い主である大人が表向きは「市民の映画館」を標榜しながら、プライベートでは韓国でも在日コリアンがしばしば保守派の差別対象であることを喜んで話していたり、無自覚なセクハラ発言を指摘されたら必死に無視するだけのような人物だったら。
誤摩化せていて、自分と無関係であるあいだは「差別はいけません」と正義のフリをしながら、ちょっとでも批判されればいつでも大っぴらに「そんなの偽善のきれいごとだ、お前だって俺と同じで差別する側に産まれたんだ」と開き直りそうな「大人」だったりするのならば…。
団塊の世代以降の「大人達」がかくも無自覚・無責任で、自己保身の偽善しか興味がない以上、日本ではもはや確実に、世代ごとに悪化の一途の悪循環が成立してしまっているように思える。
出口なし…。
実はいつでも潜在的に「差別される側」になりかねない立場だからこそ、「差別する側」についてしまおうとする体制順応は、ひとつの生存の手段なのかも知れない。差別とはその過剰順応としてこそやらねばならなくなる、パフォーマンスなのかも知れない。
『ヴッパールの谷で』はドイツにおける国家主義の復興や人種差別の悪化をただドキュメントした作品でも、ただドイツ社会を批判する映画でもない。そこに炙り出されるのは、現代人間社会の構造自体が内包してしまっている、深い闇だ。
ドイツ語も出来ず、ただ新聞でこの事件を知り、知人のピナ・バウシュの拠点である町だから彼女のところで泊めてもらえるだろうと言うだけでヴッパタールに乗り込んだギタイは、この異郷の町をただ撮るのでなく、成熟した分析で人間とその社会の闇の部分を、デリケートに、知的に分析することから、浮かび上がらせる。
対象と向き合うと言うのは、なにも親密さや友愛、加担を、偽装することだけではない。
密着定住型のドキュメンタリー、対象に寄り添ったり親しくなることでしかその真実は理解できず、ドキュメンタリー映画は出来ないかのような、日本のドユメンタリー映画界にありがちな信仰じみた精神論を、『ヴッパールの谷』は呆気なく無効化する。
そうは言ってもこの映画は、ただ新聞で読んだだけというきっかけから始まって、直感と幸運に恵まれたからこそ成立だ。あり得ないような偶然が成立させた10分35秒のアレサンドロたちの長廻しは、その好例だ。
作り手の視点から言えば、これはあまりにもうまく行き過ぎ、偶然に恵まれ過ぎている!
とはいえヴッパタールでギタイが恵まれていたのであろう偶然の数々は、普通の意味では決して「奇跡」でも、まして「幸運」とも思えない瞬間だ。むしろ禍々しく、恐ろしい瞬間瞬間だ。
だがアレサンドロの痛々しい姿にしめくくられる、禍々しい10分半の長廻しに対応するかのように、この映画にはもうひとつ、これまた奇跡的な偶然としか言いようがなく、そしてこちらは文字通り《幸運》の意味を現出させる、6分半におよぶ長廻しワンカットのシーンがある。
アレサンドロのシーンのあと、主犯の一人の弁護士がその生育環境を語るシーンの前、そのあいだに配された、移民たちが多く集まる市場のシークエンスのなかのワンショットだ。
そのショットの頭で、まず撮影隊は、事件の被害者のローン氏を知っていたという老人に出会う。
老人は今の社会が荒んでいることを嘆き、「平和と安全を取り戻さないと」と言う。
「ドイツ人だけでなく人間みんなにね。そうでなきゃ平和も自由もあり得ないさ」
インタビューを終えた老人は「コーヒーが冷めてしまうので」と、背後のテーブルに座った妻の所に戻る。
「1945年5月8日を忘れてはいけない」と老人は妻に言う。言うまでもなく45年5月8日とは、ナチス・ドイツが崩壊した日だ。
するとこの前にインタビューで登場していたトルコ人の男性が近くのテーブルにいて、老人に「若い人はもう知らないから、憶えているならぜひそのことを映画の人たちに話して下さい」と声をかける。
その時、別の人物が画面を横切り、キャメラの前に陣取る。
キャメラがパンアップすると、それはやはり前にインタビューを受けていたが、しゃがれ声で「そんな事件は知らない。忘れただけかも知れないが」と無愛想に答えただけだった、初老の男性だ。
その時には「ドイツにおける外国人の状況はどうですか?」という問いにも、「深刻だ」と答えるだけだった。
再びキャメラの前に立った男は、問われもせずに「10年前に喉の手術を受けて、声を失ってしまった。健康は大事だよ」と話し始める。
22年間務めた会社をまもなく解雇される。「年金生活まであと2年間は、失業者になるんだろうね。もう歳だから、仕事がない」と言いながら、彼の顔は次第に明るくなっていくのだ。
男性はトルコ人だ。
故国に帰るのはどうかと尋ねられ、彼は「それもいいね。でも22年間も離れていては、故郷もまた異郷だ」と語る。
だがそのことを決して悔いているわけではないことが、次第に自然な微笑みが浮かび上がるその表情から見て取れる。
「私ももう歳だ。気持ちはまだ若いよ。でももう終りが近いのは分かっている」
たまたま廻っていたキャメラのフレームに入った男が、なにか知的な、特別なことを言うわけでもないのに、哲学的な空気を自然と漂わせ、去って行く。
長廻しであるからには、キャメラの前でたまたま起った偶然…いや、奇跡としてそこで起った、映画とそこに写るにふさわしい人物との一期一会が、ここに写っている。
『ヴッパールの谷で』が人間社会の闇に肉迫する恐ろしい映画、怖い映画であるのは確かだ。
だが同時に、長廻しのワンカットのなかにそのまま記録された時間には、それでもこの世界が奇跡と幸運に満ちた、決して棄てたものでない場所であることが、紛れもなく刻印されているのだ。
人間たちの世界が決して棄てたものでない場所であることを自分の生き方で体現するかのように、初老のトルコ人移民の男性は、「他になにか訊くことはないですか?オーケー、ではよい週末を」と挨拶して、にこやかに群衆のなかに去って行く。
「それでも、なにがあっても、人生は続くのさ」と、その背中で宣言するように。
『ヴッパールの谷で』の上映は、2月1日(火)17時〜、2月8日(火)14時半〜、東京・御茶ノ水、アテネ・フランセ文化センターにて
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