7月5日から11日まで、京都シネマで行われた『映画は生きものの記録である』ロードショー&土本典昭監督作品上映(『水俣 患者さんとその世界』『水俣一揆』と、最高傑作『不知火海』)の初日・二日目の舞台挨拶のため、京都に行って来ました。
土本典昭の没後最初の公開上映、つまり追悼上映なのでちゃんとフォローするのも義務みたいなもんですが、新幹線代は京都シネマさんが出してくれたからいいものの、普通は製作・配給もちだろうと思う宿泊費は、プロデューサーがどケチなので自前(苦笑)。ケチというよりも人間としてのスケールが小さすぎてセコいだけ、典型的な腰巾着タイプであるだけなんでしょうが。とりあえず49日までは絶縁を宣言しておりますが。
それ以上に、ご追悼モードなのは仕事だからしょうがないものの、なんだか亡くなった人をメシの種にしているようにも見えて(って実際には自腹を切ってるんですが)自己嫌悪。
あまりに蒸し暑いので、救王護国寺(東寺)のお庭では、修学旅行の高校生がこの状態。
その自己嫌悪は観客から「土本さんをどう引き継いでいくか」と問われて最高潮。反射的に「そもそも引き継ぐつもりが最初からない」と答えましたが、なぜ土本がこの映画の監督に僕を選んだのか、ほとんどの人が土本の凄さに気づかず、誤解している。はっきり映画に映ってると思うんですが、「土本=偉い人」という先入観を前にしては、なかなか気づかれないんですかね? だいたい方法論やアプローチがまったく異なっているでしょうに。大先生を撮りながらスタンスは極度に観察的で、模倣もオマージュもぜんぜんないし。
晩年の土本が凄かったのは、僕は映画的な資質や志向が土本とはまるで異なり、およそ土本の後継者を目指すはずもないからこそ「あなたは自分の映画をちゃんと作ればいい」と言って、僕にこの映画をやらせたということ。そこが分からない人も多いようですが、戦前生まれの自分への厳しさ、謙虚さ、慎ましさ、威張ってはいけないという強烈な自制は、自己満足の中途半端な自己正当化ばかりが大手をふるってる全共闘以降の我がニッポン国(ミギもヒダリもその辺は同レベル)において、極めて貴重な存在でした。
西本願寺の太鼓楼。時を告げる太鼓のための建物だけど、どう見ても戦闘モード?
まあ織田信長の時代には日本最強の武装集団のひとつでもありましたからねぇ。
もちろんあのプロデューサーが頼んでも断らない演出が他にいないという冷静な判断もあったんでしょうし、土本さんはあのプロデューサーを親友・小川紳介の「犠牲者」として見て責任を感じてたからこの企画をOKしたんじゃないかとも思わないではないんですが(それだけやさしい、心配りで責任感の固まりみたいな人でしたから)、それにしたって「賞賛モードの映画」はどうやったって作りそうにないし、弟子筋でもない僕に任せたのは、それは土本が自分に厳しい、徹底して真面目で誠実な人だったからでしょう。それだけ凄い人だったわけで、逆にいわゆる「戦後焼け跡派」の真面目な倫理的存在を地で行ってるのは現役当時のうちの親父も同様なので、理解できると同時にときどき生理的にうんざりすることもあったわけですが。
副題を「土本典昭の “仕事”」としたのはその辺りの含みがあるんだけど、誰も気がついてくれないみたい…。土本とかうちの親父の世代の極度に倫理的な「焼け跡派」にとって、「仕事」は絶対神聖ですから。親父なんて自分の母つまりうちの祖母の葬式でも、海外出張中の僕が「帰ろうか」と言ったら「なにを言ってるんだ! お前は仕事で行ってるんだからそんな個人的な理由が許されると思うか!」と電話で怒鳴ってましたから。当時はやはり昭和ヒトケタの吉田喜重の助手として海外に行ってましたが、吉田さんにそう報告すると「藤原さんは立派な親御さんをもたれましたね」とおっしゃってました。
その西本願寺のご本堂では偶然、どちらかのお宅の法事に遭遇。
その吉田さんも以前に奥さんの岡田茉莉子のご母堂が亡くなられたときに、どこかの映画祭の審査員をしておいでで、茉莉子さんは映画祭が終わるまで亡くなったこと自体を知らせなかったそうです。いやまったく、立派は立派なんですが、家族をやってると確実にムカつきますよ。『映画は生きものの〜』では土本典昭の家族や私生活にまったく触れませんでしたが(下手すると父への恨みの投影が炸裂しそうなので触れたくなかった)、父親・夫としての土本って、どうだったんでしょうね?
「仕事=神聖」なあの世代って(んでもって、仕事というのはあくまで「世のため人のため」)、自分にとって仕事が神聖であると同時に、家族とくに妻も当然その神聖さを共有しているもんだと、勝手に思い込んでいるんで。そういう自分の倫理の貫き方に妻が反発しようものなら、「情けない奴だ」で一刀両断。それはそれであまりに勝手すぎるし、だいたいズルい。彼らの意識では妻を自分に奉仕させているのでなく、自分の神聖な仕事に奉仕する同志と決めつけて、それがまことに自分勝手であることにまったく気づいてもいないんですから。
そんなこんなで多少うつモード、プラス夏の京都の蒸し暑さに死にかけてた行状の一部は、たまたま映画館の近所のカフェ&ギャラリー「おてらハウス」で写真展をやっていた写真家フォトフスキーさんのブログにも報告されてしまってます(汗)。こんなヤクザな口の利き方はしてないはずなんだが…。
四条大通りは、「京都」といってもどこの地方都市の大きな商店街と変わりないケバケバしさ…
シグロ/青林舍の佐々木正明さんに説得され、「お別れの会」の世話人にまでされてしまいましたが、お弔いモードはそろそろ打ち止めにしたい心境ではあります。自分の親族には「仕事」で葬式にも行かず、「仕事」がらみでお世話になった人だからちゃんとお弔いモードをやるというのも、考えてみたらかなり倒錯的…。
ただ土本についての映画を作って個人的にひとつだけよかったのは、子どもの頃から極めて不仲でロクに話すらしなかった親父を少しは冷静に見られるようになったことなんでしょう、恐らく。なんだかんだ言ってもちゃんと仕事だからお弔いモードをやってる自分も、あれだけ嫌っていた父親と大差ないと言われればその通りだし。
錦小路、深夜に仕込み中?の漬け物屋さん
深夜の四条大通り、24時間営業のカフェ。
「一匹の蟻がこちらに走ってくるとき、もしそこに指を一本置いて行く先を塞いでも、すぐに違う方向に走り出します。そしてまたそちらを塞いでも、またすぐに違う方向に走り出します。蟻のような小さな生き物でさえ、こんなに強い意志を持って一生懸命生きているのです。ましてや私たちは人間です。人間の素晴らしい知性を持っているのです。
ですから、たとえ一つのことで何か障害にぶつかり、挫折するようなことがあったとしても、あきらめずに違った角度から挑戦し直してみてください。そうすれば、将来はあなたがたの前にいつでも大きく開かれているのです。」
----ダライ・ラマ14世
救王護国寺、大師堂(国宝)前の、東南アジアからの巡礼さん。
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