最新作『無人地帯 No Man's Zone』(2012)
〜福島第一原発事故、失われゆく風景、そこに生きて来た人々〜
第62回ベルリン国際映画祭フォーラム部門正式出品作品

7/26/2008

『ぼくらはもう帰れない we can't go home again』の東京圏初上映!


    「この映画は21世紀の『勝手にしやがれ』である」

なんちゃって。自画自賛のお気楽な暴発はともかく、とりあえず上映予定

   7月26日(土)12:30 *上映後、16:30〜シンポジウム
   7月28日(月)20:30 *上映後、質疑応答あり
   8月 1日(金)10:30

http://www.koganecho.com/program/main/bokurahamou/

会場は横浜のかつてのドヤ街、黄金町にある名画座「シネマ・ジャック&ベティ」で、そこで行われる『横浜黄金町映画祭』への参加です。


なんでも海外の映画祭で評価されながら日本では公開や上映がされていない映画ばかり集めた映画祭ということで、こうして見るとずいぶんと公開されていないおもしろそうな映画があるものだと改めて感心。いかに日本の映画配給・興行業界の能力が落ちていると言われる昨今でも、これではあまりにも寂し過ぎる。

海外の映画祭でちゃんとお客や審査員、批評家が褒めてるんだから、少なくともつまらない映画、見る価値のない映画であるはずはないんだろうし(と、とりあえずそう思うことにしておこう)、興行価値が云々と言うのは、結局は知名度、たとえば有名な俳優さんが出ていないとか、売り方に困るということなのだが、「それを宣伝するのが配給・宣伝の仕事におけるチャンレンジではないんですか?」とつい言いたくもなる。それはお金のリスクは無視できないにしても、そういう挑戦やクリエイティヴィティなしに、なにが楽しくて映画の仕事をするのだろう?

配給会社でもつかないかぎり、宣伝費に下手すれば劇場の保証興行の費用(要するに一回あたり幾ら幾らと、客の入りに関係なく映画館だけは確実にもうかるように、お金を払わなければならない)までかかる場合もあるとなれば、配給すること自体があまりにもハイリスクになってしまうし、それ以前に元手がなくて公開できなくなってしまう。

努力すればなんとかなる、と言われたって映画を作っている側は映画を作るのが仕事であって、配給宣伝にそんなにエネルギーは費やせないし、だいたい、じゃあ劇場は努力しないでいいということなのだろうか? 細かいことを言ってしまえば、10数年前までは宣伝費は劇場側も持ち、優秀な劇場、とくにミニシアターは自分たちの持っている宣伝能力でその評価と信頼を高めていたはずだ。それが今ではほぼ全面、配給会社負担になってしまった。不動産資本を持っている側が…って言うのでは、マルクス的に言えばあまりに分かり易い暴虐なる資本主義じゃないか? いや別に、それならそれでいいんだけど。しょせん資本主義の世の中なんだから。でも、そうであるのなら「映画への愛」とかの偽善は言うべきではないだろう。とくに映画館に若者や学生を呼びたいのなら、さすがに教育上よくありません。今時の経済人、たとえばキャノン御手洗氏がホリエモンを悪人呼ばわりするくらい気持ち悪い。

まあそんなことはともかく、自分の作った映画を自分で宣伝するというのは、どうもあまり健康な精神ではやってられない気がする。

たとえば「これは21世紀の『勝手にしやがれ』である」とえらく大仰にふりかざした大言壮語を宣伝コピーにしちゃおうか、って言うのとか、他人が言って下さるのなら(って現にそう言われたことすらあるし、実際問題として理屈としてはそうと言えなくもないんだろうが)ともかく、自分で宣伝をコントロールしてたらやはり言えないでしょう。そこまで言わなくたって、いくら客寄せとは言え自分で自分を褒めるみたいなのはどうも気が乗らない。謙虚とかそういうのではありませんよ。単に生理的に気持ち悪いのである。

だいたい、少なくとも僕の場合、観客が映画からなにを受け取るかは、「とりあえず見ていておもしろいはず」という最低限のレベル以上はまったく読めないし、読めるように作ってもいないし、そういう映画作りは退屈だとすら思ってしまう。『ぼくらはもう帰れない』をコメディとして受け取るか深刻なドラマとして見るか、笑うか泣くか、「ときどき『いいかげん目を覚ませ』とひっぱたきたくなるけど、なんともかわいい」(撮影監督・大津幸四郎・談)とニヤニヤ笑って見るのもとても正しいんだろうし(名キャメラマン大津がそう言うんだから正しいはず。そう言っとかないと大津さんは僕の最新作のキャメラ番なので…)、2006年のベルリン国際映画祭フォーラム部門で初上映したときにスタッフ・キャストで借りたアパートの大家さんは見ていて震えが止まらないほど感動して下さいました。

彼女の場合、離婚するかどうかで迷ってたところにちょうどすごいタイミングだったらしい。で、結局離婚はとりやめたそうです。キャストのなかには、「あなたの言葉で生きていく勇気が湧いた」と日本人の、どうもベルリンにバイヤーとして来ていた配給会社の新米社員であるらしい女性に、言われた奴までいるのだから、こうなって来ると作ってる方でもまったくの予想外。その「言葉」とはヤツが即興で思いついた言葉で、まさか当時まだ学生・20歳にもならないガキの言葉が、たとえ見事に真実をついていても、年上の社会人の女性にそんなふうに受け取ってもらえるのは、そりゃ驚くでしょう。

賛否両論にまっぷたつというのならまだ普通の話だが、「とてもチャーミング」(アトム・エゴヤン監督)など、コメディとして見る人から「現実の残酷さが画面から叫びをあげている」から、「この映画が見せる東京の人間関係は痛切で、時にゾッとさせられる」(脚本家のマリー=ジョゼ・サンセルム)まで、見方自体がまっぷたつというのは…たぶんとてもいいことなんだろうね。とくにくだんのベルリンの大家さんなど、繊細な賢い女性の評判がいいのは、自分でもちょっと自慢したくなる。

大津さんと同世代のベテラン録音マンの浅沼幸一氏には「これはみごとな超喜劇ですね」と言われましたが、僕が狙ってたのはだいたいそんなところと、あとヌーヴェルヴァーグ以来理論だけでは推奨されている演出手法を、では一回本当にやってみましょうというところ。そこで「21世紀の『勝手にしやがれ』」という話が、フランス人から出て来るんでしょう。

大津・浅沼両氏が組んでいた故・土本典昭は「さっぱり分からなかった」とお手上げで、土本の支持者のひとりであるさる社会派映画批評家の大家は、『映画は生きものの記録である』の後でこれをご覧頂いて、「フジワラ君はなにをふさけて遊んでいるんだ」と怒られたという噂も…。土本典昭が「さっぱり分からん」というのは、いかにも土本らしくてむしろ立派な反応だとすら思った。なにしろゴダールをどう思いますかと訊ねて、「真面目にやれ、と言いたい」と言った人ですから。

だから念のため確認−−−−『映画は生きものの記録である』も作ったからといって、僕は土本典昭の後継者ではまったくありません。誰よりも土本典昭自身が、最初からそんなことは明確に拒否して、「あなたの好きにやって下さい」と言っておいででした。そういうところが、土本典昭という人の凄いところだったのだが。

公開の順番を明らかに間違えましたね、これは…。『ぼくらはもう帰れない』を撮るような作家がどう『映画は生きものの記録である』で土本を見せているのか、という順番の方が絶対に自然だ。ここだけの話、こっちの映画の公開を投げてしまったのは、半分は『映画は生きものの記録である』を先に、それもまったく誤ったやり方で公開されるのを止めようがなかったからでもある。だって『映画は生きものの記録である』の公式サイトをご覧頂ければ分かるかと思いますが、こういう宣伝方針ではあの映画がヒットしたり注目されることはそもそもあり得ないのですから。これだと元から土本のファンしか見に来ないし、その大多数は彼らの期待する土本像と、映画のなかの実際の土本典昭のギャップを受け入れられず、後半に向けて漂うある種の悲壮感にもとれることを、「敗北感」だとか誤解するわけだし。

自分の映画をどうみようが基本的にはご覧になる観客の勝手とはいえ、しかも製作当時にはあの映画の真のテーマからは僕自身がちょっと逃げていたのも自覚せざるを得ないし、さすがに当時はそれを口にするのもはばかられたとは言え、「敗北感」ってのはあまりにも想像力がなさ過ぎる。76歳の老人が、時々足元もあやうい瞬間もかいま見せ、水俣の漁村の突堤で佇んでいる姿には、まともな感受性があれば「敗北」よりも真っ先に考えることがあってしかるべきだと思うし、それ以前になんで、とくに男性は、すぐに「勝ち」とか「負け」とかにこだわるのかが不思議でならない。僕が撮らせてもらった水俣の人々はそんなケチな考え方を超越しているし、我々のキャメラの前にいた土本典昭は、まさにそんな考えを超越しようとしている時の彼だった。

なにか世の中、ちょっと歪んでいる。優秀なはずの人でさえ、ものごとを見る目が曇ってしまっている。それも邪推するなら、どこかしら相当にエゴイスティックな理由で。だってあなたが「サヨク」で「敗北した」「なぜ負けたのか」と鬱鬱と悩むあまりにすっかり「他者」の存在すらお忘れなのかも知れないが、あの映画の監督が昭和45年生まれであることぐらいは、資料を見れば書いてあるはずだ。で、なぜあなた方の「敗北感」を我々が共有せにゃならんわけですか? だいたい我々から見ればあなた方の世代(いわゆる「全共闘」以降の人々)は「敗北」なんてしてません。うぬぼれるのもたいがいにして欲しい。あなた方は単に自滅して玉砕して失敗しただけです。その失敗のせいで我々やそれ以降の世代がどれだけ迷惑をこうむってるのか、少しは反省して欲しいし、あなたがたの自滅に土本の世代を巻き込むうぬぼれも、やめて頂きたい。で、『ぼくらはもう帰れない』もぜひ見て頂きたいものだが、「今時の若いモノ」はあなたがたの自滅と失敗の被害をさんざんこうむり続けながらも、なんとか頑張って生きてます。少なくともこの映画のなかでは、「敗北感」に酔いしれてるあなた方よりははるかにマトモだとすら思いますよ。

いくらまだ四十九日の前だからって、土本にこだわっていてもしょうがないので閑話休題。『ぼくらはもう帰れない』の話。とりあえず横浜での上映向けのステートメントには、こう書いてみました。


 完成以来2年も経って、まだ日本でほとんど上映していないこの映画に、最近ある空恐ろしさを感じる。もちろん物騒な事件などなにも撮っていないし、どれだけみんなが笑ったかがNGかOKかの基準だったほどの、お気楽なコメディだったはずだ。

 でもたぶんに無意識ながらも、ボクらの記憶に共通する事件があった——宅間守死刑囚だ。子どもを殺すのだけは絶対に許せないという一点を除けば、ボクらにとって、宅間は必ずしも理解不能な存在ではない。

 『ぼくらはもう帰れない』には「ゆとり教育」を信じる気にもなれず、小泉純一郎の狂騒にも付き合いきれなかった日本が写っている。そこには宅間守的な孤独と疎外感に通じるものも確かにある。

 その上で“ああいう風には絶対にならない”方向のギリギリのところを必死で探ったのが、ボクらの即興プロセスだったのかも知れない。

 一方で小泉後の日本はボクらのフィクションとは別方向に進んでしまい、加藤智大容疑者の秋葉原の事件が起こった。ついそう思ってしまう怖さも、このお気楽なコメディのはずの映画に、今は感じてしまう。

藤原敏史、2008年7月


いやホント、最初はコメディのはずだったんですが。

自画自賛はホントに生理的に嫌ながら、今日のこのブログは純粋に宣伝目的なので開き直り!


仏・カイエ・デュ・シネマ誌評
今年のベルリンで最も注目すべき発見。[中略]まるで奇跡のように、実験は作品になり、挑戦は感動になる。『ぼくらはもう帰れない』はそのフォルマリズム的なプログラムを超克し、俳優たちの身体と、大都市の喧噪、そして人物たちのフィクションがデリケートに絡まり合ってこの映画に固有の統一性、その呼吸、その力強さを生み出している。(ジャン=ミシェル・フロドン)


アトム・エゴヤン監督(カナダ)評
ストーリー展開のカジュアルなやり方とユーモアが大好きだ。すべての人物が適確に浮かび上がり、そのいずれもが心に響く。キャメラワークが素晴らしく、とくにある構図をドラマチックな状況の最後までじっと維持し続けるその姿勢は、人間観察というものの意味を即座に分からせてくれる。そして“リアルな演技”をめぐる会話や、自分の顔をポラロイド写真で撮り続ける青年、その彼をビデオカメラを持って追いかける少年を通じて、映画全体がそれ自体の合わせ鏡のようにそれ自身に折り重なっていく感覚、そのすべてがとても愛おしい。


ベルトラン・タヴェルニエ監督(フランス)評
独特のカメラワークは素晴らしく、演出はシャープで生気に満ちている。ところどころおもわず爆笑してしまう。ただリアルな若者の姿を描いているだけでなく、創造をめぐる寓話でもある。


実はラフカット段階からご相談いただいたタヴェルニエさんには、一度僕の出演シーンをカットしたときに、大目玉をくらいました。あのシーンを切ったら映画の意味がなくなる!って。


ジャン=ピエール・リモザン監督(フランス)評
この映画の自由さを賞賛したい。俳優たちが 素晴らしく、人生の曲がり角にいながら、とても傷つきやすく、それでいてとても楽しげに、人間 的だ。音の構成は特筆すべきものであり、外の 騒々しさがアパートのなかにも容赦なく入り込 み、東京という都市の商売本位で暴力的な音響の特質をみごとに捉えている

ロバート・アルトマン監督(アメリカ)評
美しい。

遺作となった『今宵フィッツジェラルド劇場で A Parairie Home Companion』で来ていたベルリンで無理矢理ご覧頂きましたが、実はそうとうにニヤニヤされて「あのズームの使い方は、どっかで見たことがあるねぇ」って。ハイ、ズームどころか、多人数の主人公を並行させる構成から、女性のアイデンティティ危機という主題性と扱い方から、それこそベースになってる即興の方法論まで、巨匠からは映画からも、伺ったお話からも、相当に盗ませて頂きました(苦笑)。

ニコラ・ブラン、プロデューサー(フランス)評
大変な自由をもって作られたと感じさせるそのやり方が、登場人物に対する驚くべき接近感と、この映画独特の香気とも言うべきなにかを発散する。そのなにかが映画の立場、そして我々の観客としての立場を問い直し、そのことがこの映画の大変に緻密な構造を浮かび上がらせる。これは映画において大変に難しいことだ。ラーズ・フォン・トリアーも『イディオッツ』でこれに到達している。

これを見てもう一度東京に行きたくなった。この映画が日本の文化の長所も矛盾も、決してやり過ぎになることなしに映し出しているからだ。この登場人物たちとおしゃべりしてさらに彼らを知りたい、いっしょにもっと時を過ごしたいという気にさせられた


黒沢 清 監督(日本)評
立派な映画です。そしてかなりおかしい。

…には不条理コメディであることがちゃんとバレている…。いちばんおかしかったのは「藤原君」だそうですが。マジ?


アメリカ映画を撮ってたときには「バーベーット・シュレーダー」と呼ばれていたバルベ・シュロデール監督(フランス)も、ナゼか僕の “演技力” (そんなもんゼロだと思うが…)を高く評価して、日本で撮った映画『INJU 陰獣』でブノワ・マジメル、菅田俊さんと競演させられてしまったが、その評は…

この驚くべき演技と知性に溢れた、まったく独創的な映画で、ついに私が見て来たそのままの東京の街を発見することができた。

…「驚くべき演技」ってのはバルベの場合アテにしていいのかどうか知りませんが(だってこの僕が「素晴らしい」んだそうですから)、でも確かに、全員シロウトであるはずのこの映画のキャストはなかなか凄いもんです。

…ちょい役で出ている僕以外はね。ホント、今でもカットすりゃよかったと思ってしまう。


監督・撮影・編集 藤原敏史
音楽・音響構成ジーモン・シュトックハウゼン
音響監督 久保田幸雄
挿入歌 CRAFT
製作 姜裕文 平戸潤也 高沢裕正 アレクサンドル・ワドゥー 藤原敏史
出演 鳥居真央 霜田敦史 高澤くるみ 香取勇進 山田哲弥

ポスター・デザイン 深谷ベルタ

2006年/日本=ドイツ合作/111分/カラー/35mm 1:1.85

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