最新作『無人地帯 No Man's Zone』(2012)
〜福島第一原発事故、失われゆく風景、そこに生きて来た人々〜
第62回ベルリン国際映画祭フォーラム部門正式出品作品

8/03/2008

世界の終わり?

真夏日の史上最多記録を突破しそうな夏の、8月最初の日曜日は、それだけで鬱病でも再発するんじゃないかと思うほどの蒸し暑さだった。このじっとりとした暑さ、温帯ではなく亜熱帯か熱帯としか思えない気候の原因が地球温暖化だとすれば、気力も失せる暑さに終末感を連想するのも、あながち被害妄想とは言い切れまい。

こうも暑ければ空調のお世話になるしかないのだが、空調を使えば熱は外に放出されて外気はますます暑くなるし、電気を使うということは地球温暖化に貢献することにもなる。都市部の高温・高湿度が夕立と呼ぶには風情をかき消すほどに激しいゲリラ豪雨を都市部にもたらし、という八方手詰まりに、現代文明の限界という言葉を、つい思い出してしまう。このままじゃ絶対に立ち行かないよね、これは。

そんな日曜日に偶然にもぴったりな大事故が二つ。首都高速の板橋の方では石油運搬車輛が横転して大火災になり、高熱で高架道路の鉄の構造体が歪んでしまって復旧のメドが立たないとか。江東区の見本市会場では満員のエスカレーターが原因不明の停止事故で、60人以上が将棋倒しになった。なんでも120人以上が殺到した重さで止まってしまったという説もあり、どちらも世界の、とは言わないが現代文明のある終末を予感させると言えなくもない。

そんな終末、じゃなかった週末の最大の話題は、福田内閣の改造である。サプライズがないというのが批判的な報道の論調になるのもなんとも小泉時代の悪しき遺産というか、小泉政治の問題を批判する論客が福田さんにサプライズがないのを批判しているのもおかしな話だが、堅実な布陣であるのは確かだろう。もっとも、現内閣の原型である安倍改造内閣だって、発足当時は一応、安倍の「お友達内閣」的危うさを排した手堅い仕事内閣とか評価もされていたのだし。

国土交通に谷垣さんや経済産業に二階さん、他にも特命大臣で与謝野馨さんや、自民党の女性議員では数少ない女を売り物にする必要がない女性議員の野田聖子さんや中山恭子さん(自民の女性議員なんて大半はホステス系しかおらんわけやし)が入閣するなど、政策通で知られる実力者も並ぶベテラン中心の手堅い布陣というのが政治記者の評価なのだろうが、裏返せば「なんだ自民党で政策通って言っても、この程度の人材しかおらんのかね?」と言いたくもなる。

なんといったってベテラン実力者ということは、福田さん自身を含め、現在の閉塞状態を作ったことに直接責任を負った世代の政治家でもあるのだし。これではますます「政権交代した方がいい」という感じにはならないのだろうか? 支持率はご祝儀で微増したそうだが。自分は国民に人気があると勝手に思い込んでる吉田茂の孫が自民幹事長で復活、というのもお笑い草にしかならないが、各大臣のプロフィールをよく見ればほとんどが二世、三世というのも(福田サン自身が福田赳夫の息子なわけだが)、こんな雑感も今更な気もするが、なんだかねぇ…。

実力派オールスターキャストの内閣にしてみたらかえって手詰まり感、閉塞感、今ある日本の政治的・社会的システムが明らかに限界を迎えていて、福田さんも含めてそこに気づいているであろうに、それでもなにもできないことを露呈しているように見えてしまってならない。それをあざ笑うような酷暑の折も折にタンクローリー火災で高速道路が半分溶けてしまい、ガソリン価格はリッター180円を突破し190円に迫る。原油高は少しずつ電気代にも転嫁されているし、東電の主力原発の柏崎刈谷は地震の被害で止まったままで、暑いからってみんなでうかつにクーラーをつけると、首都圏全体で電気需要がパンクするそうですよ…。

昨日まで『ぼくらはもう帰れない』を引っさげて「横浜黄金町映画祭」に参加していたわけだが、「世界が注目する日本の新しい才能」を売り物にするこの映画祭で見た若手の日本映画のほとんどにも、このような終末感、あるいは虚無感、喪失感、漂流感が横溢しているのは、僕自身の映画を含め、ある意味で自然だし当然のことだろう。

海外の映画祭でそれなりに評価されているだけあって一本一本の映画はかなりおもしろいし、マンガやテレビなどが原作の商業的な日本映画の大勢と較べて明らかに正直な映画であることに間違いはなく、それだけに現代日本を覆う感覚がより率直に反映されている。明らかになにか大切なものが失われているか、少なくとも我々の大半が見失ってしまっているこの現実は、なまじお金がなくて被写体をフィクショナルに作り込めないぶんもあるのかも知れないが、映画という半ば機械メディアを通したときにはどうやったって「そこにあったもの」としてすくい撮られる。今更ながら「やな国だねぇ」というか、もはやなにも信じられないという現状は否応なく感じられる。

ただ一本一本の映画をどう評価するかというのではなく、全体として、「もはやなにも信じられないという現状」という感覚にどう向き合うのかについて、ここで上映された日本映画のほとんどがなんの本質的な答えも見い出していない。答えなんて少なくとも若手にあるはずもないんだからそれはそれでいいのだが、「それでも見いださなければならない」という感覚すら持っていない映画も少なくなかったこともまた、指摘しなければなるまい。その意味では映画を作るということが我々にとって逃避的行動でしかないということも、我々は厳しい自己批判として考えなければなるまい。

初日のシンポジウムで誰だったか、「映画を作らなければ生きていけない」というかっこいいことを言っていたのだが、悪いけれどそうしたナルシズムを一歩下がって批判されるとすれば、まだまだなんとなく生きてはいける現状のなかでのマスターベーションとして映画作りがあるのではないか、という指摘だってまぬがれないだろう−−−−「もはやなにも信じられないという現状」という感覚にどう向き合うのか、そこから逃げまくっていても十分に、現に生きて、しかも映画すら作っていられていられるのだとしたら。

もうひとつ指摘できるのは、若手の新しい才能の個性的な映画を集めているはずなのに、ほとんどの作品に濃厚に既視感が溢れていることだ。それも映画好きが作っているのなら、かなり限定されたネタ元の映画がすぐに指摘できるほどに。

もちろん、今やポスト・ポストモダンの世紀である現在に、いまさらシンプルにオリジナリティを求めること自体が誤りだし、ゴダール以来、映画史は元ネタがあってなにが悪いということを受け入れることで進展して来ているのだが、そうは言ってもネタ元があること、我々自身がパスティーシュやパロディから逃れられないことに自覚的であって、オリジナリティやリアリティ、素直に個性的な真実を追い求めることなぞもはやあり得ない限界のなかにいることを自ら批評的に曝け出すことによってしかポストモダン以降の芸術なぞあり得ないわけで、ただネタ元を素直になぞってオマージュ、自分の好きな映画の自己流再生産をやっているだけでも日本人、つまりアジア人、「東洋の黄色いサル」のイノセンスとして受け入れられるなら世界では評価してくれるのだとしたら、それはそれで国辱的な国際的評価かも知れない。

そういう僕自身の『ぼくらはもう帰れない』だって、批評的なスタンスを持った映画史への向き合い方、単なるオマージュ=模倣ではない批評的な引用・パスティーシュ・パロディという態度はゴダールやロバート・アルトマンから一歩も踏み出せていないといえばその通りだし、ただひとつだけ言い訳というか逃げを言ってしまえば、「即興」と宣言したとたんにジョン・カサヴェテスをネタ元だと見誤ったりした愚かな西洋人批評家にはさんざん遭遇したものの、「要は21世紀版のゴダール、ヌーヴェルヴァーグ」と指摘したのは当時の在ベルリン仏大使館の文化担当官のみ(「フランス映画はあれ以来、それを模倣しようとしては失敗し続けているけど、あなたの映画は初めて再現するのに成功しているわ」だそうです)、ロバート・アルトマンという影響について指摘したのはアルトマン本人が冗談めかしてだけだったと、自己弁護しておきます。まあバレなきゃいい、という話でもないのではあるが。

それにしても、あれをみて「カサヴェテス」とか考えるのはよほど盲目としか思えない。「即興」と聞いたら「カサヴェテス」って、そんな「知識」は知識ですらない、ただのパブロフの犬じゃん。イタリアで「カサヴェテス」なんて言われた日には、思わず単なる意地悪で「おたくの国のコメディア・デ・ラルテも我が国の歌舞伎も即興でして、影響を受けたのはその二つです」とケムに巻いてやったほど。んでもってそのどちらの伝統芸能ででも、即興ですが舞台空間は見事に様式化で整理され、完璧なコレオグラフィで進行します。

つまり『ぼくらはもう帰れない』が即興なのに構図も空間もオーガナイズされた運動のなかで進行するのは、歌舞伎的、つまり純粋に日本的なのである−−というのはまったくの大嘘だが。いやまあ、日本人ですから無意識に影響されている可能性は否定しませんが、でも無意識といえば最近突然に気づいたのは、僕の構図の切り方とフレーム内での時間的展開の癖が、しばしば日本の絵巻物と、伝統的な右隻・左隻の屏風の構図をかなりパクっていることで、それでついついワイド画面を使いたくなり、向かって右から左へと運動のベクトルが働いている画が多いのかと突然納得(注:スタンダード画面でほとんどが土本のアップで出来上がっている『映画は生きものの〜』はその限りではなし)。でも歌舞伎は、たぶんなんの影響もないんだろうなぁ…。歌舞伎って花道の位置関係上、むしろ左から右だし。

まあ方法論的にいちばんパクっているのは歌舞伎でもコメディア・デ・ラルテのどちらでもなく、ピナ・バウシュなんですけどね(笑)。西洋人に向かって「東洋の黄色いサル」が「ピナ・バウシュ」なんて口走ってその方法論を解釈し出したりしたら、いよいよもって嫌われるんでしょうね。なにしろ『ぼくらはもう帰れない』は、アジア映画を世界に紹介する伝導師を自任するトニー・レインズ辺りから徹底的に嫌われているし、曰く「お前の映画はアジア映画らしくない」って、だから? 

「世界が注目する日本映画」なんて、しょせんそんなものでもある。現実にはたとえば黒沢清のような、エドワード・ヤンとアルトマン亡き後では世界の現代映画でもっとも知的な作家が、日本映画を作っているのにも関わらず。だから外国でも日本でも、一般観客のうち賢そうな人が評価してくれることが、一部の信頼できる批評家や同業者の評価と同様、いちばん信頼できて励みにもなる。国境は実は、あまり関係ない。

いやそれ以前に、世界でもっとも「先進国」が成立している社会とは、この日本なのであって、ここに較べればヨーロッパなんて田舎です。だからこそ終末感、あるいは虚無感、喪失感、漂流感が横溢してもいるのだし。つまり我々は、現代文明の表層性をもっとも純然とシステマティックに実現して来た結果、その限界性にも、もっとも直面してしまっているのだ。

7月26日付けのブログで触れた「敗北感」云々という誤解は、「先進国」を見事に完成させてしまった国に自分たちがいることに気づいてもいないナルシスティックな鈍感さが生み出す言葉なのだろうとも思う。だいたい、そんな敗北感になぞ酔いしている余裕があってたまるもんか。向き合わなければいけないのは、その「先進国」を完成させた現代文明的価値観のほとんどが、「もはやなにも信じられないという現状」という感覚が即座に疑いを向ける対象でしかもはやないということなのだ。

「若者が映画を見ない」と嘆く以前に、「もはやなにも信じられないという現状」という感覚のなかでしか本質的には生きられない若者にどう語りかけるのか、どう我々の作る映画というものを信じてもらうのか、その表現を我々はまだまだ完成させていないという厳しい自覚であるはずだ。その自分の限界から逃避したければどうぞご自由に。でも逃げるなら、表現者であろうなんて大それた「夢」はお願いですから諦めて下さい。表現行為はあくまで他者に向かって行うことであって、自分自身の「夢」だかなんだかは、なんの意味も本来持っていないのですから(客をだまくらかすテクニックとしてはけっこう使える、というのは否定しませんが)。

自分のことばかり話してしまうのは悪い癖なので一般論に戻って、「もはやなにも信じられないという現状」という感覚にどう向き合うのか。喪失感や、漂流感がほとんどの映画に漂っていたのだが、いわばその解消として暴力と流血という自己破壊的カタルシスに向かう作品も何本かあった。今回の映画祭に限らず、例えば万田邦敏監督の『接吻』などに感じる疑問がある。物語の流れとして必要なカタルシスに暴力を持って来るのは古典的な手法なのだが、そのことについて映画自体がどれだけ自覚的であるのかという問題だ。喪失感、虚無感、漂流感のある種の自己破壊的解消として暴力行為に走るということ自体が現実の精神病理学的にも、いわば自殺の代償としての他殺として、現実世界の病理になっている例は最近頻発していて、たとえば最近の加藤智大君の事件などは典型なのだが、いったい映画がその病理を無自覚に共有してしまっているのか、現実に対する批評行為として現代的な表現に結びつけようとしているのかが、不気味に曖昧なのだ。

たとえば黒沢清であれば、暴力を描いても常にそこからある批評的な距離を置き、さらには暴力行為自体が批評的視座を持って逆に社会の矛盾を照射する(ファスビンダーエドワード・ヤンのように、黒沢はその「動機」に一切触れずあえて「不可解なもの」として同情すら拒否することでそれを実現しているのだと思うが)ところまで突き詰めるのだが、どうにも喪失感、虚無感、漂流感のある種の自己破壊的解消としての暴力行為がそれはそれでやはり病理でしかない。作家自身がその病理を無自覚に共有しているのだとすれば、暴力の安易な利用でカタルシスにするのは、観客とのあいだに病理の共有を強要することになってしまうことに、ピンク映画以降の、もしかしたらその影響下の日本映画は、ときにまったく無自覚であるのかも知れない。そこにノスタルジックなロマンチシズムを求めるだけで、本当にいいのだろうか? セックスと暴力の近似性が、非常に無自覚な形で作家自身のエクスタシーを表現してしまっているかのような。映画自身がその病理を無自覚に共有できる観客を求めているかのような…

そうは言っても、僕自身がやりたいと思っている企画のうち何本かは、冒頭かラストにかなりあこぎな暴力描写を想定しているし、だから偉そうなことを言える立場ではないのかも知れないが。まあ、それがカタルシスにはならないように、演出しなければなりませんね。やってみなけりゃ分からんことだが。

映画自体に濃厚な既視感が漂う(プロットだけで和製『ハズバンズ』や和製『ニュー・シネマ・パラダイス』だろうと見抜けてしまうとか)と同時に、そこに僕個人としてはけっこう耐え難いナルシスティックなノスタルジア、少年っぽい青春賛美で、喪失感が青春の喪失以上には発展してないとかが、無防備に横溢しているものもあった。形式的にもピンク映画だったり黒沢清映画だったりカサヴェテスだったり、作り手自身の青春の記憶に結びついているのであろう映画のスタイルが模倣されていれば、実はますますいわゆる映画批評家や映画ファンには評価し易い、つまり暗黙に作家の側との価値観の共有を幻想できる(実は欲望の共有に過ぎない)作品になるわけだが、それはそれでオマージュとして麗しいとも言えるだろうが、一方である種の逃避でしかないとも、論理的には言えてしまう。

まあそう言っていること自体が、僕が批評家出身であるが故のねじけた見方なのかも知れませんし、『ぼくらはもう帰れない』では逆にそのヒネクレぶりがほとんど攻撃的なまでにシネフィル文化を小馬鹿にしていて、見る人によっては恐ろしくチャレンジングになるように作っているわけですが。

…って言うか、今回の映画祭出品作が、河瀬直美の二本を除いてすべて男の監督の映画だからという単純な理由なのかも知れない。良くも悪くも、自戒も込めて、無自覚に「男の子カルチャー」っぽい映画が多いなあと、どうも思ってしまった。『ぼくらはもう帰れない』はまだ女性主人公二人と準主人公の女性一人が、演出にとってはある意味到達不能、下手すれば理解不能の自分たちの世界をちゃんと作り出していると思うが、それは即興で彼女たち自身が作った世界であるからに過ぎない(だから僕はズルいのである)。

で、「男の子カルチャー」で出てくる女性像というのは、やはりどうしようもなく男の都合にあった、男の子のファンタジーのなかの女性にしかならない。愚かな男を描くフリをして、最後にはその愚かさを受け入れてくれる女性でちゃんとオチをつけるとか。リアルなのは男の幻想に隷属してその一部になりたがっている女性だけだったりして。日本こそ最大の先進国だとさっきは言ったが、こと女性蔑視の問題だけは、未だに感覚の中枢からして発展途上国なのかも知れない。もっとも、まだ発展途上の高度成長が始まるか始まらないかの時代に、日本では世界映画史上もっとも成熟した女性映画を、成瀬巳喜男が作っていたのでもあるが。まあ成瀬の映画は、大人の映画ですから。

もちろん今回の映画祭で全部の映画を見たわけではないし、見た中でも例外はあって、たとえば台湾の女性は主人公の日本人青年よりもずっと男性的で芯の強さが、静謐なたたずまいににじみ出ていたりするわけですが、それは『ぼくらはもう帰れない』と同様、女性たちが男の子でしかない作家の幻想の埒外の他者としてそこに佇んでいる結果なのかも知れない。とかまあ、いろいろ考えてしまいますが、第二回の映画祭では、もっと女性の映画作家が活躍しなきゃいけないような気もする。というか、これからは日本でも女の撮る映画がおもしろくならなければならない。

そうでなくとも映画祭のスタッフ、ボランティアの多くが女性で、学生さんの一方で中年の主婦の方とかも多く、「男の子」している参加監督を母性本能で暖かく見守ってたのかも知れません。ちなみに『映画は生きものの記録である』は実は中高年女性(失礼!)の評判がいちばんよかった映画でしたが、これまで海外では先輩同業者以外では若者ウケがいちばん多かった『ぼくらはもう帰れない』も、横浜では妙齢の女性(失礼!)にかなり気に入られていたようで(SMとか出てくるのに)、話しかけられて褒められたりしてました…。母性本能で暖かく見守っていただくのも、悪い気はいないんですよね。甘えちゃいけない、自戒自戒!

だいたい、男は甘ったれたロマンチシズムで「終末感」「喪失感」とか言っているが、女性はけっこうしたたかに賢く、そんなこと気にせずに新しい世界を切り開いて行けるのかも知れない…ってのもまた男の幻想かも知れませんが。

0 件のコメント:

コメントを投稿