北京オリンピックのメイン会場のデザインや配置には、風水思想が盛り込まれているらしい。風水師が「伝統文化コンサルタント」として関わっているらしいのだが、主催当局では否定して「環境への配慮」だけを主張しているらしい。風水は大地と地形の流れを「気」と考えてそれを誘導するような考え方なのだし、それを「自然環境を考える上で東洋の伝統を」とかなんとか言ってカッコつけた方が、国際的にみれば中国で開催するオリンピックとして自国の個性と文化を主張していてよろしいということになると思うのだが、なにしろ近代(西洋)科学の裏付けがない “迷信” である以上、なかなかそうは主張できないらしい。
中国の場合、文革で風水も当然弾圧されたのだろうが、それをヌキにしても自国の伝統文化だからこそ「非科学的な遅れた迷信は外国からバカにされる」と思い込む後進国のコンプレックスは悲しいまでに見当違いだ。我が日本の廃仏毀釈運動とか、光琳の「八つ橋図屏風」のような国宝級の美術品が明治初期に海外流出しているとかも、ずいぶん悲惨な話ではあるが。
その北京オリンピック開会式では花火を空撮で見せる映像がCGだったとかで騒ぎになっている。航空管制などの事情で撮れない映像なのだし、ショーアップの一部としてそんなに大騒ぎするほどのことでもないのだが、むしろ驚くのは…僕は「偽装」報道で初めて見たのだが、素人さんならともかく、映像のプロが見れば一発でCGと分かる映像じゃんか。55秒に1年かけて渾身の見事なできなのだが、見事に奇麗過ぎてなんとも勘違い…。
花火がCGでしたというのは、実際には撮れないアングルを再現してるだけなんだからそんなに目くじらを立てたくもないが、開会式で歌っていた少女が実は口パクで、声は別人、その理由が歌っている女の子が歌はうまいが見た目が可愛くないから、という共産党幹部の指示だったというのは驚いた。教育的配慮ゼロの成金見栄っ張り根性丸出しじゃん。なんと醜悪に、オリンピック精神に反してることか。
もっと驚いた偽装は、開会式で56の少数民族の子供たちが民族衣装で登場したのは、実は少数民族ではなく漢民族の子どもばかりだったという話。主催当局は「中国ではよくあること」とあっさり認めたらしく、偽装という認識すらない様子。いやはや、この鈍感さは凄い。少数民族問題が中国内政の不安の火薬庫になっているのも、そりゃ当然だ。
総合演出・張芸謀も、だいたい誇大妄想なだけでスカスカな映画しか作れなくなって久しいが、最近の勘違いの最たるものを開会式で炸裂させちゃったのか? なんだか体裁を整えることと見栄を張ることにのみ必死になってるとしか思えないオリンピック。大国だけどまだまだ後進国という現状から名実ともに超大国の先進国に飛躍したい気持ちばかり先走って、逆に後進国のコンプレックスばかりが露呈してしまっている。我が日本だって、世界第二の経済規模を持つ大国でもっとも進歩している先進国(よくも悪くも)なのに欧米コンプレックスは未だ根強く、「世界に」という言葉が必要以上に強調されるきらいは強いが、まだ中国の現状に較べれば大人しくて上品なような気がする。根本的なところで自信が持てていないのは、相変わらずだけど。
鈴木英夫『社員無頼
・怒号編』
パースの消点から権力が発せられる構図
昨日、アテネフランセ文化センターでの「鈴木英夫シンポジウム」のあと、アテネの松本さん、蓮實重彦、クリス・フジワラ、篠崎誠、それに黒沢清の各氏らと食事。黒沢さんが「海外で評価されるのはいいんですけど、日本映画として、日本映画特集みたいな枠だけで見られるのは少し抵抗を感じますね」と言っていたが、それにはまったく同感。もちろん「世界にはばたく日本映画」みたいな枠でないと文化庁も外務省も、あるいは経産省や各種団体だって動きにくかったりするのは分かるし、ある意味では当然だとも思うが、しかし我々がやってるのはあくまで「映画」なのであって、国籍の特殊性だけで色眼鏡で見られるのを自分たちからやる必要もないと思う。
楊徳昌『枯嶺街少年殺人事件』
ところで鈴木英夫にもっともよく似た感性を持っている、「鈴木英夫的」というか、鈴木英夫がもっとも近い映画作家と言うのでは、もっともあてはまるのがエドワード・ヤン(楊徳昌)だろうと、僕は勝手に思っている。国籍・国境云々でなく、現代社会への目線や考え方、見方が似ているのだ。
上の二つほどうまく決まってはいないけど
『ぼくらはもう帰れない』
クリス・フジワラはミケランジェロ・アントニオーニをあげていた。それもそれで納得。ちなみにヤンもアントニオーニも、映画の空間把握がとても建築的である点でも鈴木英夫に共通している。ただそれなら鈴木が撮った「東京」こそ、いちばん魅力的な都市であると東京中毒である僕なんかは言い切ってしまいたくなるけど。
鈴木英夫『脱獄囚』
楊徳昌『枯嶺街少年殺人事件』
シンポジウムでなぜか増村保造の『偽大学生』と鈴木の共通点みたいな質問が出て、蓮實先生が「増村が『新しいこと』として意識的にやっているようなことを、鈴木英夫は『ただ自分がそうやりたいから、おもしろいから、映画的だから』としてやっている」と、相変わらず一流のハッタリのなかに鋭さを込めたことを言っていた。増村という人は凄いとは思うのだが、『華岡青洲の妻』と『清作の妻』以外はあまり好きになれない監督なのだが、この蓮實先生の指摘には目から鱗。逆にそれだけ分かり易い増村は評価され、鈴木英夫は忘れられかけてたということか?
ちなみに映画的な人間観察として、『その場所に女ありて』の司葉子は、増村映画の若尾文子がこれみよがしにもだえるように息を荒くしているどの姿よりも、現代的な女性の実存と不安を精緻に描写していると思います。これが日本映画として国際的に評価されなかったり、日本からこれを売り出そうとしないとしたら、映し出しているのがあまりにモダンな現代社会なので、「日本的」に見えないからなんだろうなぁ。まあ『ぼくらはもう帰れない』も「日本的じゃない」と一部の自称アジア映画専門家から批判されてますが(笑)。
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