最新作『無人地帯 No Man's Zone』(2012)
〜福島第一原発事故、失われゆく風景、そこに生きて来た人々〜
第62回ベルリン国際映画祭フォーラム部門正式出品作品

1/26/2012

テオ・アンゲロプロス死去

テオ・アンゲロプロスが新作『もうひとつの海』の撮影現場に向かおうと道を渡っていたところ、バイクに跳ねられて急死したという。

テオ・アンゲロプロス『旅芸人の記録』


率直に言えば、アンゲロプロスが偉大な映画作家であったのは、間違いなく彼のもっとも美しく端正な映画であろう『霧の中の風景』と、失敗作かも知れないが偉大な映画である『こうのとり・たちずさんで』までだと思っている…と亡くなったその日にわざわざ言うことでもないのだが、しかし『ユリシーズの瞳』以降の彼は、「世界的な巨匠」であり「保守的な祖国では不遇な左派の映画作家」であることに溺れてしまっていた感がある。

『蜂の旅人』『こうのとり・たちずさんで』の主演がマルチェロ・マストロヤンニであることになんの問題もない。晩年のマストロヤンニは真に偉大な俳優であり、しかも発音だけでギリシャ語の台詞を憶えてしまい、『蜂の〜』ではまだ完成した映画では吹き替えだったが、『こうのとり〜』では本人の声で、ギリシャ人からみてもなんの違和感もないらしい。

テオ・アンゲロプロス『こうのとり・たちずさんで』より、結婚式

撮影風景を撮ったテレビ・ドキュメンタリーでは、マストロヤンニは主な撮影の地となったフロリナの市場で撮影隊の食事のために買い出しをしていて(みんなのために料理を作るのが趣味!)、普通に売り子に「今日はなにがうまいかね」と野菜や魚を物色したり世間話をしたり…あの年齢でギリシャ語をほとんどマスターしてしまっていたのだ。

『こうのとり〜』の謎めいた元政治家を演じられるだけの貫禄と深みとミステリーを持った俳優といえば、やはりマストロヤンニに並ぶ人は当時いなかったと思う。


だがそのマストロヤンニのために書かれた『永遠と一日』の詩人の役を、本人が亡くなってしまい演じられなくなってから、テオ・アンゲロプロスの映画は変わってしまった。ブルーノ・ガンツはいい俳優だ。だが詩人の役で、その文章が作品の重要な要素だと言うのに、そのボイスオーバーが他人の声では、それだけでも映画的な厚みは消え失せてしまう。

ところが、最新作の『もうひとつの海』の準備段階で、アンゲロプロスは経済危機に直面したギリシャについて、珍しく一方的な政権批判ではなく、「右派も左派も反省して考え直さなければならない」と語っている。この態度は、マストロヤンニという盟友/名優を失って以降「巨匠」であることに頑になってしまっていた彼とは、どこかが明らかに違うと思う。

アンゲロプロスは道路を渡っていてバイクに跳ねられたそうだ。運転していたのが非番とはいえ警官だったというのが、テオらしいといえばテオらしい。

いやそれ以上にテオらしいのは、どうも『こうのとり』や『霧の中』を撮っていた頃の彼のように、どうも早足で、考えことをしながら、脇目もふらずセットに向かって歩いて行く途中だったらしいことだ。映画についての考えごとに熱中するあまり、バイクが来ていることにも気づかなかったのかも知れない。死んだことにも気づいてなかったりして。

思えば『霧の中の風景』と『こうのとり・たちずさんで』は、後の『永遠と一日』と合わせて「国境/境界の三部作」として構想されていたわけだが、それは冷戦が終わり鉄のカーテンが崩れ、しかしその一瞬の希望がまたたくまに中央ヨーロッパの混沌になったその時代のアクチュアルを、見事なまでの詩的表現ながら、ひりひりするような現実への感性を秘めた映画だったわけだ。

その彼の国のギリシャが、今はさらなる大きな危機の前に途方に呉れている。一時期はギリシャをまったく好きではなくなったらしいという噂もあったアンゲロプロスが、再び祖国のアクチュアルな問題に本気で取り組んだのが『もうひとつの海』なのだとしたら、いかにもテオらしい亡くなり方(映画の撮影中に死ぬというのは、映画作家にとってはある意味本能の、うらやましい話だし)は、あまりに残念なことだ。

未完でもいいから、見てみたい。

『霧の中の風景』より


テオ・アンゲロプロス公式サイト:http://www.theoangelopoulos.com

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