最新作『無人地帯 No Man's Zone』(2012)
〜福島第一原発事故、失われゆく風景、そこに生きて来た人々〜
第62回ベルリン国際映画祭フォーラム部門正式出品作品

1/28/2012

『無人地帯』ベルリン映画祭用の宣伝素材づくり…

…まで、なんで監督がやっているのかよく分からないのではあるが、公式のポスターはこのデザインになった。


ここ数日は、明日から始まる最終の音声ミックス(5.1チャンネル・サラウンドのかなり変わった、映画館でないと意味を持たない使い方を模索している)の準備もそっちのけで、こうした宣伝素材の準備に忙殺されているのである。

ほぼ同じデザインながら、少し目立とう精神の(そしてベルリンへの出品がいかにも嬉しそうな)ポスターはこちら。


赤は目を引く色なので、こっちの方が目立つだろうと言えば目立つはずだけど、国際配給の Doc&Film の意見では、どうせベルリンで貼ればそこらじゅうで同じマークが目立ってるではないか、と。それはそうですね。

まあしかし、ベルリンはとても大きな映画祭だ。映画を見てもらうためには、前評判をどう作るかにしてもなにしろほぼ世界初上映なのだし、ポスターで目を引くというのは重要な手段なのだ。

かとって映画のイメージとかけ離れた客引きをやってしまうと、それはそれでかえって誤解され、悪評が広まることにだってなりかねないのだから難しい。

なおベルリンでの上映日程に関しては、本ブログのこちらのエントリーをみて下さい→『No Man's Zone 無人地帯』ベルリン国際映画祭へ

しかしパリに本社がある国際配給とのやり取りも、時差はネックであるものの今ではSkypeで直にもやりとり出来るのだから、便利になったものである。


こちらはプレスキットの表紙にする横位置のデザイン。


映画上映のデジタル化が急速に進む今日この頃、今回の上映では最初は考えていた35mmフィルムを作ることにもはや経費に見合った実があるわけでもなく、じゃあHDCAMかと思えばテープですらなく、なんとデータで納品ということになった。

これはまだ、さまざまなデジタル映像形式が混在するなか、リスクがないわけではないやり方ではあり、だからいろいろ細かいコーデックのパラメーターを指定されてもいるのだが、とはいえテープで送ったって、実際には映画祭の巨大サーバーにコピーして、そこから上映するのだ。テープ代が無駄と言えば無駄だろう。

映画のデジタル化というのは、実のところ経済的な必然性から進行しているものでもある。

確かにフィルムを作れば、本作はデジタル撮影だからネガに出力してプリントを焼いて字幕を打って、というだけですでに300万とか500万円はかかってしまうところが、DCP(デジタル・シネマ・パッケージ。大手の映画館での劇場用映画のデジタル上映は最近はほとんどが2KのDCPで、はっきり言えばアメリカ映画の場合、フィルムが複製の複製になることが多く、この方が奇麗で忠実な画で見られたりする)を作るのでも50万もかからない。

ブルーレイディスクなどはパソコンで焼いてしまえばメディアの代金は一枚100円を切っている。とはいえさすがに、ブルーレイ上映で(実はすごく圧縮されたデータだ)映画館でお客さんから1300円とか1500円とか1800円とるというのは、いかがなものかと思う。それじゃ市販品をレンタル屋で借りて自宅で見たって、同じことになってしまうではないか。

お金がかからなくなってデジタル化というのは一面、我々作家には有利な話だが、一方でその経済原理の原則からして、映画という制度的枠組みそのものがなくなってしまう危機も抱え込むことになる。元をただせば大きな画面で、大勢の不特定多数の、赤の他人の観客が集団でひとつの映像を同時に体験するというそのことこそが、上映素材がフィルムだろうがデジタルだろうが、確かに映画が映画たる由縁なのだ。

こと僕自身の作っている映画は、『無人地帯』も例外ではなく…というよりむしろもっとも極端な例として、大画面で一気に(途中で一時停止して一休みなんてせずに)見ることを想定した、映画としてのあり方を追及している。必ずしも小さな画面でおもしろいものではなく、むしろ大きな画面で部分部分を凝視したときに見えて来る細部であるとかも、こと『無人地帯』の場合は重要になる。

今最終段階に入っている音の作業にしても、浜通りの20Km圏内や飯舘村の音、遠くからのうぐいすの声ですら鮮明に聴こえる自然の豊かさと空気の透明感のなかに観客もまた身を置いてもらうため、映画として見ないと得られない体験を狙って、サラウンド音響を新たに作り直そうとしているのだし。

暗い映画館のなかで見知らぬ他人とともに、唯一の光源であるスクリーンを凝視しながら、そのなかに別の世界を見て、その世界の時間を生きること。映画館自体がこういう別世界への架け橋になるのが、本来の映画体験のはずだ。

ことドキュメンタリー映画の場合、つまりなぜドキュメンタリー【映画】なのかと言えば、「テレビでは出来ないことをやる」なんて後ろ向きの態度ではなく、映画だからこそやるべき、出来る表現、情報を得たり分かり易い感情のセンチメンタルな自己同一化で涙するのでなく、別の世界、今自分がここにいるのとは別の現実を、その世界まるごと体験させるのが、やはり映画のはずなのだ。

で、予告編の最終決定版はこちら。



それにしても、本当は映画の宣伝にいちばん向いていないのは監督本人なのだろうが…。つまりたとえば予告編なら、監督自身のお気に入りのシーンをつなぎ合わせてみたところで、それが将来の観客の興味を喚起する映像の流れになるわけではない。

本編の効率よいダイジェスト版が予告編になるわけでもないのだが、監督はやはり自分が作った本編の構造にすっかり囚われているので、基本ダイジェスト版を作ってしまいがちだ。

逆にあえて自分の映画の宣伝素材を自分で作ると、自分の映画を客観化して冷静に見なおす勉強にもなるわけでもあるのだけれど…。

とはいえ、少々疲れる話だ…。パソコンもパソコンでフル稼働だし。

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