2013年の日本の政治は、安倍晋三首相の靖国参拝という、その実内容自体はどうでもいい割にはダメージだけは大きい珍事を最後の大事件に終わろうとしている。
このテの愚行にこの一年間ですっかり慣れっこになってしまったことこそ、この一年の最大の政治的変化なのかも知れない。
あまりに次から次へと、安倍首相やら菅官房長官やらから問題発言が飛び出すので、前の問題が解消もされずまともに議論もされないまま、次の話題に移ってしまって忘れてしまいそうなほどだ。
変な耐性さえついてしまって、驚きも、たいして重要視もしなくなってしまっている。
とはいえ、毎回毎回、同じことは考える。「安倍晋三は本当に、自分がなにを言っているのか分かっているのか?」
「レーダー照射された!」なんて馬鹿騒ぎはもう覚えていない人の方が多そうだし、アルジェリアの反政府勢力によるプラント占拠・人質事件での安倍氏の失態など、もともとメディアはちゃんと批判しないし、もはや誰もなんとも思っていないかもしれない。
いや重要なはずの外交日程を切り上げて「事件の対応に当たる」って日本にいながらなにが出来るのかもよく分からないのだが、アルジェリアの大統領と電話会談で「テロと断固と闘う」と合意しておいて「(日本人の)人命優先」を言い張ったとか…
…だからそれだったら「断固と闘う」ことにならないでしょう?自分がなにを言っているのか分かってるのかこの人は?
そしてこの事件を教訓に、在外公館の駐留武官制度を強化し、邦人保護に自衛隊を使えるよう検討するとか言い出したことは、もうみんな忘れている。
これも「安倍晋三は本当に、自分がなにを言っているのか分かっているのか?」な話だ。
他国の施政権下、他国領で、自国の軍事組織を自由に活動なんてさせられるかっていう。国際常識のカケラもないのか?
それ、明らかな国際法違反であり、戦争しかけてるのと同じことですよ、安倍さん。平和ボケもたいがいにして下さい。
「自分がなにを言っているのか分かってるのかこの人は?」危険な極右であるとかネナナチ歴史修正主義である以前に、歴史修正主義にしたって論理的に成立していないのだから困る。
そこにあるのは妙に薄っぺらなセンチメンタリズムだけ、8月の原発忌にも終戦記念日にも、言葉だけ、上っ面だけの言葉が繰り返されただけだった。
一皮むけば、空虚なセンチメンタリズムの虚勢に基づく幼稚な自己正当化だけが優先されるのが、安倍氏の特徴なのかも知れない。そしてそうした安易で空虚な感情優先の非論理は必ずしも、安倍氏だけの問題ではない。
こうやって安易なセンチメンタリズムと、すぐに忘れ去ることだけに耽溺して来た一年間のあいだに、たとえばそろそろ、もう三年前になる震災の復興はなにも進んでいなかったりする。原発事故の収束のめども、政府の見立てが20年になったり40年と言ってみたり、要はなんの切迫した感覚も遠くはなれた東京でやっている話には感じられもしないし、原発事故と無関係な宮城や岩手の被災地ですら、津波が到達した地域はどう復興するのかすら決まっていない。
確かに、この震災と原発事故の被災者は、合計で30万少ししかいないかも知れない。つまり人口の0.3%。だからってこうも安易に感傷的に搾取したり、すぐ忘れたり、を繰り返していいわけもないはずなのだが、我々日本人の総体は、その相手が人間であるということすら考えられなくなっているのだろうか?
今年で仮設住宅宛の住所に年賀状を書くのは三回目になる。
本来なら仮設は二年間限定のものなのに。
それだけで年賀状を書くのも気がめいってしまうのも、それはそれでしょせん東京にいてなんのダメージも受けていない者の勝手ではあるのだが。
本ブログで触れ損なったトンデモ発言といえば、福一事故の「汚染水は完全にブロックされている」という、地元福島県やとくに原発事故避難民のひんしゅくを買ったこと以上のものもあった。
いざ福一を視察した安倍氏は、無邪気に「これは24時間やってるの?」と尋ね、それがそのままテレビの電波に乗ったのだ。
現場で働く人たちや、福島浜通りの地元の人たちに至っては、唖然としたことだろう。いやあのね…原子力災害に昼や夜や人間が普通に起きてる時間、寝てる時間は関係ないから。
こんな無責任首相であるにも関わらず、東京は2020年のオリンピックをゲットしてしまった。イスタンブールから無理矢理、金ずくで奪ったオリンピックであるだけでも恥である上に、口先だけは「震災復興の応援」とかで、7年後にまだ廃墟のままの津波被災地に聖火ランナーを走らせて、それで「復興を励ます」つもりらしい。
「安倍晋三は愚かである」、これだけ言っていれば済むのだったらそれで済ましたいが、その彼が総理大臣、つまり国家の政治的指導者として許容され続けていることがさらに怖い。
いかに運だけはよく、様々な失態や問題にされるべき判断が別の話題ですぐかき消され、官邸とべったりの大手メディアが懸命に別の話題を報じることも可能になるチャンスにだけは恵まれているとはいえ、あまりにも不思議だし、不気味でもある。
そもそもまともな政治的な議論というものすら、成立しないままなのが二度目の安倍晋三政権の一年間だった。
2013年は日本の政治的風景や社会から、「知性」が消え去り、いよいよ「議論」がなくなった年として記憶されるのかも知れない。
確かに安倍晋三もむちゃくちゃだが、安倍に批判的であるかのように見える人ですら同レベルにトンデモな話や筋の通らない歪曲、詭弁があまりに目立ち、特定秘密保護法案でも原発政策の今後にしても、反対派も含めてほとんどまともに議論が出来ていないのだ。
一方で今年はまず、大島渚がついに亡くなった年だった。
そして年末には、フランス映画社の経営危機が報じられた。映画の世界でも、かつてあった「知性」とか「教養」とか「品性」、あるいは「頭の良さ」の意味、善意や親切心、人間らしさや矜持、人としての幅といった、社会を社会たらしめて来た肝心のものが、この日本社会からは確実に失われつつあるのかも知れない。
こんな日本のどこが「美しい」国なのか? 残されたのは薄っぺらなエゴを、幼稚に言い張る空虚な言動や表現だけなのかも知れない。
今これを書きながら、紅白歌合戦ではなくNHK教育テレビの年末のクラッシック音楽総括番組を聴いている。最後の曲は、N響が初めてザルツブルク音楽会に参加した際の『幻想交響曲』だ。
日本の大晦日がワルプルギスの夜というのも、今年の大晦日にはふさわしいのかも知れない。
まさに人間不在の、魑魅魍魎と魔物だらけの歪んだ国に、日本国は落ちぶれようとしているのか?
なんだかんだでここまで豊かな国、経済水準も教育水準も世界でトップクラス、それも人口一億を超える、世界に多大な影響力を誇り尊敬と憧れも集める大国のはずなのに、なぜ日本人大衆は勝手に不幸になり、こうも自信を失い、立場もわきまえずに自己中心的な保身にのみ耽溺し、安倍晋三ごときにすがって、幼稚な身勝手の殻に必死で引きこもっているのだろう?
この国はこれからの新しい一年、いったいなにに怯え続けるのだろう?
0 件のコメント:
コメントを投稿