最新作『無人地帯 No Man's Zone』(2012)
〜福島第一原発事故、失われゆく風景、そこに生きて来た人々〜
第62回ベルリン国際映画祭フォーラム部門正式出品作品

6/30/2017

下村前文科相への闇献金が「違法性はないから問題はない」という倒錯



森友学園の「安倍晋三記念小学校」スキャンダルと加計学園獣医学部 “えこひいき” 疑惑が解消されないまま、自民党右派念願の共謀罪こそ強行突破で成立させたものの、国会閉会後は都議会選直前になって失言・問題発言とスキャンダルが山積状態の与党に、ここへ来てその都議会選を指揮する都連会長にして安倍首相の側近に、ヤミ献金疑惑の発覚だ。

自民党の幹事長代行で都連会長の下村博文・前文科大臣は、週刊文春で報じられるとその日の午前中に釈明会見を行った。速やかな対応で火消しに動いたのまでは良い…のだが、会見がまったく釈明になっていない内容なのに、「事実無根」と週刊文春を非難するとは、いったいどういうことなのだろうか?


文春の報道の根拠は明示されている。

下村事務所の内部文書に、2013年、14年に渡って100万ずつが「加計学園」の名義で入金されて2年で計200万としっかり記録されていたのだ。

つまりどう考えても「事実無根」とは言えず、その記録が誤解を招くものであれば、説明責任があるのは下村氏だ。

まず大原則として、政治家の政治資金は入金も出金もすべてクリアに記載し公表されるべきであることは確認しておこう。現行の政治資金規正法では20万以下の入金は公表の義務はないとなっているのは、事務的な煩雑さを避けるための例外に過ぎない。

さて下村氏が「事実無根」「選挙妨害」と文春を非難する根拠だが、毎年100万で2年で計200万と記載されているのは、加計学園の秘書室が取りまとめて下村事務所に持って来た合計100万円で、その中身は11人の個人や団体からの、それぞれにバラバラの献金で、いずれも20万以下だから記載の義務はない、というものだった。

いやはや、公表してしまうと差し支えがある献金元だから名前を隠す、法の抜け道を使ったヤミ献金の手口を、こうも分かりやすく説明してくれて、下村さんどうもありがとう、勉強になりました、としか言いようがない。

言うまでもなくこの200万円が加計学園から(下村氏の主張に基づけば「を通して」)下村氏に献金された2年間、氏は文部科学大臣の地位にあった。

法の抜け道を使ったので形式上違法ではない、というだけではむろん「事実無根」になるはずがないし、こんな理屈は政治資金規正法の立法主旨からすれば、形式上のへ理屈としてすら成立しない。

政治資金規正法で入金を明記しなければならないのは、その政治家の職務権限に直接の利害関係がある業界や個人からの献金が、贈収賄になる可能性があるからだ。そして学校法人である加計学園から(下村氏の主張では「を通して」)の年100万の献金があったのは、学校法人を所轄する文部科学大臣である下村博文に対してだった。

文部・教育行政に関わる政治家が学校法人やその関係者からの献金を受けていればそれだけで十分な疑惑になるわけで、こと教育に関わることでもあり、いっそう「李下に冠を正さず」を心がけるのが、まともな政治家だろう。

ところが下村氏がやっていたのは、大目にみてもスモモの木の人通りから隠れた側でこっそり冠をかぶり直していたに等しく、しかも今はそこからしっかりスモモを持って出て来たのを見とがめられ、「いやたまたまスモモが落ちて来た」とか「間違って手が当たってしまったので」などと言い張っているに等しい。

11件の個人や企業が購入したパーティー券を加計学園が取りまとめてくれたのだとしても、その購入者名は「これから調べる」「都議会選挙後に」と言っているのも、あまりにもおかしい。下村事務所はその領収証は発行していなければならないし、パーティー券購入者の名簿にも当然記載しているはずだ。

だいたい11人が一口2万のパーティー券を購入しているのにきっかり100万円というのは、人を馬鹿にしているのかとしか思えない御都合主義もいいところ。それも一度ならともかく、2年連続だ。

加計学園側ではこの下村氏の会見を受けてパーティー券購入を「とりまとめた」ことは認めたが、購入者については「プライバシー」を盾に公表できないと言い始めているが、これもまったく成立しないいいわけだ。

パーティー券の購入は政治献金に当たり、プライバシー保護の対象ではまったくない。

政治資金規正法が20万以下の献金については記載は不要としているのは、単に事務的煩雑さを回避する例外でしかないはずで、結果として公表の義務はないとしても「プライバシーだから言えない」とは、立法主旨に完全に反する。

大原則を改めて確認しておこう。政治家の政治資金は入金も出金もすべてクリアに記載し公表されるべきであることが、政治資金規正法の基本理念である。下村氏はその法に組み込まれた抜け道を悪用して記載義務を逃れ、今はそういう誤摩化しの手口を使ったのだから問題ない、と言い張っているだけだ。

その例外処置で記載の義務がない小額献金に小分けしたから、記載の義務はないので「問題はない」というのは、法を理解しない稚拙な詭弁でしかないのだ。こんな姑息な誤摩化しで、しかもそもそも事実に反して週刊文春の記事を「事実無根」と言い張る(根拠はある。下村氏自身の事務所の出納記録だ)のは、いったいどういう了見なのだろうか?


だがこういうのは、下村博文氏に限ったことでもない。

前文科事務次官の前川喜平氏は、第二次安倍政権になってから「大がかりな仕掛けの中で、一見正当な手続きを踏んだかたちをとって、実態としては特定の件を特別扱いすることを正当化する。こういう手法がものすごく増えてきているように感じます」と週刊朝日のインタビューで指摘している。

氏は実例として加計学園の問題の他に、「明治の産業革命遺産」の世界遺産推薦を挙げている。この時には文化庁と文科省で進めていたのは、長崎のキリスト教文化遺産群(浦上天主堂などの建築と、隠れキリシタン信仰の関連遺跡および今も残る隠れキリシタン信仰の宗教儀礼等の無形文化)だったのが、加藤六月氏(故人・自民党運輸族の大物)の娘・康子氏が運動をやっていた松下村塾などの世界遺産化の運動を安倍首相が気に入り、強引に日本政府推薦にねじ込んだのだ。

この時にはその加藤康子氏だけでなく、元ユネスコ大使で文科省から加計学園の千葉科学大学に天下りしていた木曽功氏も内閣参与に就任し、安倍の趣味の世界遺産登録を強力に推進する体制が政府内に作られていた。ちなみにこのうち木曽氏は、文科省の後輩である前川次官(当時)に加計学園に便宜を計るよう圧力をかけようともしている。

そもそも「なぜ松下村塾が?」をはじめ、この遺産群の選択には歴史学的に見て多々疑問がある。 
日本の産業革命はまず伝統の手工芸を発展させた軽工業・民生品の輸出を目指した殖産興業から始まり、戦前に生糸は日本の最大の輸出品だった。世界遺産登録された鉄鋼や炭坑などの重工業の発展は明治中期以降、富国強兵政策の転換があってからだ。 
その日本政府の強力な主張があったとしても、「明治の産業革命遺産」がICOMOSの推薦対象になったことにも、多々疑問はある。公式の政府推薦だけでなく、裏で相当に活発なロビー活動(買収なども服務)があっても驚かない。


加計学園問題でも、森友学園の「安倍晋三記念小学校」計画スキャンダルでも、安倍政権やその支持者が最後に行き着く言い訳は「違法性はない」だ。こうした主張は二重の意味で倒錯しているのだが、贈収賄などの刑事罰の対象にならないのは、確かにその通りだろう。

だが個人の刑事罰対象犯罪と、行政決定としての違法性は、まったく異なった次元の問題だ。それをごっちゃにしているのは、彼らには政治家、公職にある立場の自覚がまるでないとしか思えない。

稲田朋美防衛大臣の「防衛省、自衛隊、防衛大臣、自民党として」大失言にしても、公職選挙法、国家公務員法、憲法に違反していると指摘されているが、いずれも刑事犯ではない。

加計学園スキャンダルをめぐって文科省の内部文書が報道や国会質問で取り上げられた件で、義家副大臣は「一般論として」と言いつつ国家公務員法に違反している可能性を答弁したが(前川前次官は「ただペーパーを読んだだけ」と義家氏本人には同情的だった。ただし「私だったらあんなペーパーは書きません」。ちなみに前川氏も指摘する通り、これは公務員の法的な守秘義務の対象にはならず、逆に徹底した情報公開の対象だ)、これも違法とみなされても(無理だが)刑事犯ではないし、自衛官が政治活動をやるのは違法だが刑事罰の対象ではない。懲戒の対象となり、解雇・罷免などの処分が出る。

だが刑事罰の対象にならないからといって、こと政治家の場合に、政治家としての罪や責任がないことにはならない。贈収賄がないからといって、行政の公平性が損なわれることが国民的損失であり、国民とその国家に対する犯罪行為になるのは、なにも変わらないのだ。

政治家としてあるまじき政治の私物化を続け、それが明らかになれば、本来なら政界の自浄効果と、有権者の審判に任されるはずだが、この両者の機能が麻痺していて、とくに前者は完全に絵に描いたモチとなっているのが、現代の日本の政治の深刻な問題だ。

下村博文氏の献金疑惑に話を戻そう。

釈明会見を聴く限り、下村氏は法の抜け道を利用して記載の必要がないように献金の名義を分散したのだから「問題はない」としか言っていない。だが政治資金規正法はそもそも、政治家が特定の個人や団体から資金援助を受ける引き換えに、行政が歪められることを防止するため、とくに政治家の職権と関わる分野の関係者からの献金をクリアにするものだ。

文科大臣にたとえばある学校法人から多額の献金があり、その学校法人が政策的に特別な優遇を受けていれば贈収賄になる。その献金がオープンに、誰もが見える形で公開されていれば、おいそれとその献金先を優遇するようなことはまともな神経ではできない、その抑止効果に期待して行政が不公正に歪められることを防ごうとしたのが、この法の最大の目的だ。

なのに文科大臣の職にあったものが学校法人から献金を受ければ当然疑念の目で見られるので、それを避けるために名義を分散させて不記載で済むようにしたから問題がない、などという詭弁は通用しないし、仮にほんとうに11件の別個の献金がたまたま合計で100万きっかりになっていたとしても、加計学園がそのとりまとめを行っているだけで、下村氏の事務所が同学園から金銭的な便宜を受けているという事実は、なにも変わらないのだ。

まして11件に分散しているのがただの名義貸しであれば、法の網をかいくぐったヤミ献金そのものだ。その疑いを晴らす根拠の公開を下村氏は出し渋り、加計学園は拒否している。

結果論からすれば、まだ正直に、加計学園からの献金を正直に記載・報告しておいた方がマシだった…というのはあくまで、加計学園の獣医学部が国家戦略特区に選ばれたことに、安倍首相が言うようになんら後ろ暗いことや不公正がなかった場合だが。

わざわざこんなせせこましい工作が行われていたということは、この国家戦略特区がやはり首相の意向で行政が歪められた、不正な「えこひいき」ケースであった疑念を、いよいよ深めることにしかなっていない。


こういうと安倍政権やその周辺からは「証拠がない」「挙証責任は疑いをかけた方にある」、そして「潔白を証明しろというのは悪魔の証明だ」と言い張るのも毎度のパターンになって来たが、これも一個人の犯罪と行政府の罪を恣意的に混同した倒錯だ。

「疑わしきは罰せず」、そして挙証責任を訴追した行政府に求める近代法治の原則は、個人を国家権力から保護するためであって、国家権力の横暴を保護するためではない。「証拠がないから疑わしきを罰せず」は、その証拠を握っていて、隠蔽し隠滅する権限も持っている権力側・行政府には適用されない。

それに加計学園スキャンダルにしても、下村氏への献金にしても、潔白であると証明することは「悪魔の証明」になぞまったくならない。

単に前者なら加計学園が今治市に作る獣医学部が国家戦略特区に決まった経緯を包み隠さず開示し、安倍政権が説明責任を全うすれば済む。前川氏を国会の証人喚問に招聘し、安倍首相や官邸高官、国家戦略特区諮問会議の民間議員、文科省・農水省と内閣府の担当官僚も証人喚問で証言すればいいだけだ。

下村氏の場合は11人の献金/パーティー券購入者を明らかにし、それぞれが自分が実際にパーティー券を購入したのであって名義貸しではない、と証明できれば、それで済む。

証拠を隠し続けておきながら「証拠がない」とは、どこまで話がアベコベなのか、呆れてしまうのが安倍政権のやり口だ。

あるいはやはり加計問題で、文科省が存在を確認した10月21日付けの萩生田官房副長官と文科省の専門教育局長の面談メモの件で、萩生田氏は自分は一切なにも言っていないかのような印象操作を必死に言い張っているが、実際には一部に自分が言っていないことが紛れ込んでいると主張しているだけだ。なのにそこをねじ曲げて文書全体が噓であるかのように言い募って印象操作に必死だが、このメモの中身は「誰が言ったか」の問題ではない。安倍政権全体が「加計ありき」で動いていたことがはっきりしている中身で、「誰が言ったか」に論点を誤摩化したところで、逆に安倍政権の「政治主導」のいい加減な不透明性こそが問われてしまう。

そもそもこの政権には、証拠と事実、そして真実の関連性が理解できていないとしか思えないし、真実とはなにかを考えたこともないようにも見える。

なにしろ自分達は怪しげな根拠か根拠がまったくない話で他人を貶める印象操作に終始し、自分の主張を他人に押し付け拒否されたら「反日だ」と言いながら、事実や論理を元に問いつめられ反論できなくなったたとたんに「人の意見は人それぞれ」と逃げるのが毎度のパターンだ。

あるいは、近隣諸国との領土問題について、双方にそれぞれの主張があって対立しているからこそ領土問題になっているのに、日本政府の見解だから「真実」と主張して教科書に記載させようというのもこの政権だ。

自分達に都合が悪い事実の報道には「両論併記」をメディアに強要して自分達の自己正当化をねじ込んでいる割には、報道以上に客観性・公平性が重んじられ事実性を担保しなければならない教科書には一方だけの主張を記述せよと強要する、とんだ支離滅裂というか、御都合主義で自分達の欲望を押し付けることだけは一貫している。

挙げ句に、珍妙な閣議決定の連発である。

なにが事実であるかどうかは政府が決めることではないのに、「閣議決定だからこれは正しい」となると勘違いしているのだからお話にならないが(安倍昭恵総理夫人は私人である、安倍首相はポツダム宣言を読んでいる、等々)、最近では「そもそも」には「基本的な」という意味があるなど、滑稽な不条理喜劇の領域に突入している。


もっとも、この珍妙さは実は今に始まったことではなく、第一次安倍政権に遡る。慰安婦問題について「強制連行を直接に命じたことを示す文書は見つかっていない」と閣議決定したのが当時の安倍内閣だった。

こんな主張それ自体には、実はなんの意味もない。

日本軍と日本政府は終戦時に大量の公文書を破棄し証拠隠滅を大々的に行っているし、そもそも安倍たちがいう「狭義の強制(連行)」は当時でも違法行為で、そんな命令は口答で済まし証拠となる文書を残さないのも当たり前だ。それに政府が政府文書を調査したところで、見つからなかったことにすれば済むだけだ。

しかも「直接に命令した文書がない」に過ぎないことが、いつのまにか慰安婦問題自体が「ない」ことになぜかなってしまっている、稚拙で杜撰な印象操作を以来ずっと続けているのが安倍たちだ。

言い換えれば、元々が歴史修正主義、史実を無視して自分達の願望を「真実の歴史」と言い張る傾向が強かった人達が、その歴史修正主義の倒錯を現在形の出来事にも敷衍し始めているのが、安倍政権の現状だとも言える。

6/29/2017

稲田朋美防衛大臣「防衛省、自衛隊、防衛大臣、自民党として」発言の本質的な危険性



「防衛省、自衛隊、防衛大臣、自民党としてもお願いしたい」と言ってしまった稲田朋美・防衛大臣は、この都議会選の選挙集会の終了後、すぐに記者に取り囲まれた時には、自分が大変な問題発言をしてしまったことにまったく無自覚だったらしい。

板橋選挙区の集会だったので、隣接する練馬区に陸上自衛隊の駐屯地があるので、その駐屯地への地元の協力への感謝の趣旨だったと、まず記者に言ったようだが、そこで具体的な発言内容を問われても自分ではよく覚えていない、と答えている。

よく覚えていないというのが本気なら、逆に言えば発言の時点で自分でもよく考えずに言っていたわけで、現に録音された音声でもうわずった声で興奮気味だったし、この失言に至る発言の流れをみても、いろいろ混乱していてなにが言いたいのかさっぱり分からない。



感情に任せてこんな風になってしまうこと自体が、自衛隊という実力行使部隊、事実上の軍隊を指揮統括し、国外から侵略・攻撃があった場合に国土と国民の安全を守ることを第一の任務とするはずの防衛大臣として、まずこうした不用意なことを感情に任せて口走って性格上の問題だけでも、およそ不適格であり失格だ。

なにしろこんなに精神的に脆くて不安定、感情に走り易い性格では、軍事力を指揮する上で絶対に必要な冷静な判断力など期待できるわけがないし、言葉がこうも不自由では、命令の内容を伝えることすら大いに不安が残る。


それでなくとも稲田氏といえば、防衛大臣に就任後まもなく、8月15日に国内にいることを避けるため(公約である靖国神社参拝をやらずに済ますため)に海外出張したことを国会で詰問され、戦没者追悼式典に出席しない初の防衛大臣となったことを批判されると答弁席でぼろぼろ泣き出し、涙ながらに非を認めた人だ。泣いて謝って「もう許して」って。子どもじゃあるまいし。 
森友学園スキャンダルでは興奮して籠池泰典氏の弁護士であったことはないと断言し、すぐに京都地裁の出廷記録を出されて虚偽答弁に問われた。感情に囚われて売り言葉に買い言葉、ですらなくパニック状態で噓を言ってしまうなんて、それでは国務大臣、それも防衛省、安全保障行政のトップは務まらない。 
南スーダンPKO部隊の日報が破棄されてしまっていた件でも不安定で感情的な、そして中身もあやふやな答弁を連発し、実際には戦闘があっても憲法九条に抵触しないため「武力衝突」と呼ぶべきだ、とまで言ってしまった。この時も、この人は自分でなにを言っているのかもよく把握できないまま言ってしまったのだろう、やはり声が不自然にうわずっていた。 
自分の身辺の危機管理すらできない人間に、国家の危機管理が信任されるわけもあるまい。しかも「噓つき」である。

もっとも、この時の囲み会見でも、最初は大勢の記者がいることに稲田氏は本気で驚いたようだったが、すぐに記者に「防衛省、自衛隊、防衛大臣、自民党として◯◯候補をお願いしたい」という発言の趣旨はなんだったのか、と質問されている。

ほんとうに覚えていなかったとしても、記者に言われた時点で自分の発言内容は把握できたはずだ。そこで「地元の協力への感謝の趣旨」と言い出したのも慌てて取り繕うためだったたようにも見えるし、笑顔を見せたと言っても、パニック状態になっている心理を誤摩化すための作り笑いか、思考停止状態でとりあえず笑顔を見せているような一種の無表情に近かった。

この6時代か7時ごろの発言がまず8時ごろ共同通信で流れ、稲田氏は官邸に呼び出されたようだ。菅官房長官は定例会見で自分が会って「誤解を招く発言は注意するように」と指示したと言っているが、実際にはなるべく早く会見をして撤回するように、と命令されたのだろう。菅長官だけでなく安倍首相にも会っていて、そこで首相が撤回するよう指示したらしい、という情報もある。

そこで午後11時半頃に急遽会見を開き撤回を明らかにした稲田氏だが、ここでの発言も問題だ。感謝を意味する言葉など皆無なのに、相変わらず駐屯地地元への感謝が趣旨だったと繰り返し、「誤解を招きかねない発言」だから撤回するとしただけだった。

だが「誤解を招きかねない発言」とはどういうことだ?

「防衛省、自衛隊、防衛大臣、自民党としてもお願いしたい」には、誤解の余地なぞどこにもない。防衛省と自衛隊が組織をあげてこの自民党候補を応援しているのだ、と言っている意味にしかならない。

文字通りそのまま以外の解釈は無理だし、そこで文字通り受け取った側を「誤解」などとは、ふざけた話だというのに、撤回はしても「謝罪」も皆無だったのは、いかにも安倍政権の閣僚、それも安倍首相のお気に入りの元祖「安倍チルドレン」らしい(稲田氏は2005年の郵政総選挙の際、小泉政権の官房副長官だった安倍氏の強い勧めで、弁護士から政界に転身している)。


安倍首相も絶対に謝るのはイヤだという身勝手があからさまなのが常で、国会で追及されるとすぐに印象操作のあからさまな偏向やデマをうわずった声で強弁し、なにがなんでも言い返してやろうという欲望に支配され、時間稼ぎ目当てとしか思えないとりちらかった、やたら長い答弁ばかり続けることに、予算委員会では自民党出身の山本一太参院議員自らが「総理、簡潔にお願いします」と再三注意を繰り返している。



防衛大臣として前代未聞の大失言には、歴代の元防衛大臣や自衛隊からも「あり得ない」と言った苦言が相次いでいるなかでも都議会選挙の真っ最中で、自民と敵対する都民ファーストの会の党首、小池百合子東京都知事は辛辣な批判を街頭演説でも繰り広げ、野党は首相に罷免を要求している。

だがしかし、問題の大きさに比して、メディアの報道はまだまだずいぶんおとなしい。

公務員は一部でなく全体の奉仕者と位置づけた憲法、公務員が政治運動にその地位を利用することを禁じた国家公務員法(なお大臣は特別職国家公務員)、自衛隊員の政治的な絶対中立(投票以外の政治参加や政治的意思表明の禁止)を定めた自衛隊法に違反する「可能性」というか、論理的には完全に法令違反なのだが、それ以上に大きな問題がこの稲田発言にあることとなると、なかなか突っ込んだ論評はない。

違法性に関しては明白なのに「可能性」であるとか「受け取られかねない」という言い回しが必ずつくのも、随分と遠慮しているし、上記の法的な形式論理の問題しか言及しないのなら、問題発言は問題発言であってもその危険性は、多くの国民にはあまりピンと来ないだろう。また、もっとも繰り返されている「自衛官に特定候補への投票を命じているようにも受け取られかねない」という形容は、さすがに実際の文言からすると飛躍し過ぎだ。だいたい、直接には自衛官にしか関係しないことだ。

これは自衛官相手ではなく一般市民の支持者集会での演説だし、その内容を伝え聞いて自民候補に投票するよう命じられたと思う自衛官がいるとも思えない。

また仮に命じられたって従う自衛官もまずいないだろう。なにしろ投票以外の政治活動の禁止と政治的な中立性は、自衛官の服務宣誓にも入っている。それに反することを言い出す大臣がいれば、問題となるのは逆に自衛官が「そんなことも知らないのか?」と文民である大臣を軽蔑し始め、防衛省内の統制が取れず、無能ゆえに信頼されない大臣によってシビリアン・コントロールがなし崩しになる危険の方が、むしろ大きい。


終戦記念日前後の外遊を国会で問われて泣き出したり、自衛艦の視察で甲板上をハイヒールで歩いていたりで、この大臣に対する自衛隊内からの信頼はとっくに失墜している。 
秋田県の自衛官募集事務所が「大臣(女性)はちょっと頼りないですが」というキャッチコピーの新規採用募集ポスターを作って問題になったほどだ。表向きは「女性蔑視」だから、という批判はただの建前だし、実際の稲田氏を知っていればこれを女性蔑視と受け取る人はいないだろう。 
そして極めつけが南スーダンPKOの報告記録を、官邸が必死に隠蔽しようとしたことだ。激化する内戦で隊員の命も危惧される状況をいかに真剣に訴えてもその文書を握り潰すようでは、つまり稲田大臣は自衛隊員の命なぞなんとも思っていないと思われても当然だ。

つまりこのような発言をしてしまう稲田朋美が防衛大臣の資質に欠ける、というのは正しいが、それはあまりに無能で人格も疑わしく、およそ部下となる自衛官の信頼を得られない、能力的な問題として日本の安全保障に重大な瑕疵を生じさせる可能性が高いからだ。

行政が公平中立の公正性を担保しなければならない、法と国家権力は政治的な立場に関わらず、平等に施行されなけれない、という大原則を理解できていないのなら、国務大臣はおろか国会議員としての資質すら疑われる(のだが、この点が大いに疑わしいのは、安倍政権では稲田氏に限ったことではない)。

だが稲田氏のこの失言について、このような建前上の形式論だけで批判するのは、問題の本質を見過ごしているし、同時並行で起こっている(同じ細田派で、安倍チルドレンの)豊田真由子議員の暴言騒動に較べて、都議会選への影響は限定されるだろうし、野党の罷免要求や臨時国会開会の要求も、野党が狙っているほどの世論へのインパクトはないように思える。



既に述べたように、この部分も含めてこの時の稲田氏の演説は、ちょっとなにが言いたいのか分からないほど素っ頓狂な内容だ。だがこれは、あまりに素っ頓狂で常識のタガが外れ舌っ足らずだから分かりにくいだけで、冷静に聞けばその言わんとするところは実ははっきりしている。

ここに至る前に、稲田氏は航空自衛隊の曲芸飛行チーム「ブルーインパルス」が東京五輪の開会式に参加するだろうと、あたかも防衛大臣として自分が決めた功績のように吹聴している。

また板橋の隣の練馬区の駐屯地について「地元の協力に感謝」などはまったくしていないが、代わりに地元が駐屯地に協力することは本来なら当然だ、と言わんばかりのことは口にし、それを自民党候補を板橋区民が支援すべき論拠として上げている。

また練馬の陸自駐屯地について都(都議会)と国(防衛省)の連携が欠かせないとも言った上で、自分が応援演説をしている候補が自衛隊と防衛省とのパイプもあると強調している。そしてそうした連携ができる自民党多数の都議会との連携がなければ、東京都民の安全を守ることはできない、とまで言っているのだ。

その上で、「防衛省、自衛隊、防衛大臣、自民党として」同候補への支援をお願いしたい、という発言が出て来るのだ。こうして見ると口先だけは「お願い」とは言っているものの、稲田氏のロジックは実はかなり明晰に、野党や都民ファーストを支持する有権者への脅迫になっていることに気づく。

つまり自衛隊と防衛省とのパイプも強い同候補が当選し、自民党が都議会の与党になって国(自民党の安倍政権)としっかり連携しなければ(というか、要は都議会が国政の言いなりにならなければ)、防衛省と自衛隊は東京都を守らない、と稲田氏は言っているのだ。



この期に及んで稲田氏の発言に問題はないとし、安倍首相を熱烈に支持し続ける、いわば彼らの「賛同者」である人達の主張と併せて考えれば、これは恐ろしい話だ。

安倍の熱烈支持層は一貫して、共謀罪に反対し、加計学園問題で安倍氏を追及する野党や一部のマスコミや日教組のような組織を、「反日」だと断じている。安倍政権で「公正であるべき行政が歪められた」と批判した文科省の前次官・前川喜平氏に対しては、官僚が総理大臣の命令に従わないのは言語道断だ、というのが彼らの主張であり、そしてその全ての背景に、中国だかコミンテルンだか在日朝鮮韓国人だかの「反日勢力」がいて、党首の蓮舫氏が日台混血の出自であることを持って「二重国籍の中国のスパイ」だから「反日」だとも断言している。

そうした危険思想のレッテル貼り…というか荒唐無稽なファンタジーのなんちゃって陰謀史観としか言いようがないものではあるが、こうした考えを民主党議員を「日教組!日教組!」と野次った安倍晋三が実は共有していることに疑念の余地はまずないし、その安倍氏にひたすら忠実な稲田氏も実は共有していると考えることにも、異論の余地はほとんどあるまい。

つまり稲田氏は、板橋区民が野党や都民ファーストに投票して自民党を「裏切る」のなら、板橋区民や東京都民と自衛隊の信頼関係が崩れる、それは「反日」であって反日の非国民を自衛隊は守らない、と言うに等しい論理を、実はこの場で展開していたのだ。

もう一点、稲田氏の演説が根本的におかしいのは、自分が防衛大臣なのだから、自衛官はすべて自分の命令に従うはずだ、という前提でこの演説をやっていることだ。「防衛省、自衛隊、防衛大臣として」候補者の支援を応援するというのは、そういう意味にしかならない。また同じ勘違いは、安倍首相が自衛隊関係で訓示を垂れる際にいつも自分を「最高指揮官」と強調することにも見られる。

ぶっちゃけ、この人達は「自分は上司でいちばんえらいのだから部下は自分の命令に絶対服従すべき」と信じて疑っていないのだ。だが官僚は上司となる政治家の命令の以前にまず法令に従い憲法を遵守する義務を負っている。内閣や大臣の政策に従うのは、あくまでその憲法と法令に定められた枠内でしかないのが法治主義の大原則だ。


小池百合子は稲田発言を批判するなかで、「私が東京都知事だからって、都庁17万の職員を代表して支持をお願いしますなんて言っていいわけがない」とバッサリ切り捨てていた。都知事が上司だからといって、都庁の職員は都知事の奴隷ではない。

自衛官なら、服務の際の宣誓の枠内でしか行動が許されないし、大臣の命令であってもその宣誓に反するものなら、命令に従う義務はない…というか従ってはいけない。

また自衛官には投票の自由は認められている。つまりどの政党のどの候補を応援するのかは、職務を離れて自衛官個々人の自由であり、大臣といえどもそこには決して介入してはいけない。

…というかこんなものは民主主義の近代国家以前の問題だ。

前近代の、封建時代の日本でさえ、君主や領主や軍の総大将など「上に立つもの」は、下位の立場にある者を慮って広く意見も聞き、厳しい讒言にこそ耳を傾け、信頼を勝ち得なければならない、ということが伝統的な日本の価値観として確立している。自分はえらいのだから下々は自分に従うべき、とする暗愚の君を許容する価値観なぞ、有史以来この日本に存在した試しがない。その統治に関するもっとも基本的な倫理をこそぶちこわしにしているのが、稲田氏であり安倍政権である。

こんなもののどこが「美しい国」なのか?「自分たちの味方をしないなら自衛隊はお前たちを守らないぞ」という稲田ロジックは、まことにはしたないだけでなく、恐ろしく危険だ。

6/21/2017

いったい何のため?誰のため?加計学園、共謀罪、安倍政権の止まらない暴走




安倍政権の暴走と腐敗が厄介なのは、安倍晋三本人にいわゆる普通でいう私利私欲がほとんど見えないところだ。

森友学園、そして加計学園との不透明な関係をめぐる相次ぐ疑惑にしても、安倍自身が贈収賄に問われるわけではないし、カジノ法案の強行採決でも、今国会に突然持ち出した「共謀罪の構成要件を厳しくした(ことになってない)テロ等準備罪」でも、彼自身が利権や利得、恣意的に用いられる権限を確保できるわけでもない。

安倍晋三が執着しているのは単に、「いちばんエラい人」の地位にあること、そのことで周囲に褒めてもらえ、尊敬されたいだけのようにしか見えない。

強行採決を連発した問題法案も、ただこれまで自民党が断念して来た立法を自分の政権は成し遂げたのだ、と言いたいだけなのかも知れない(ただしカジノ法案だけは別で、あれは明らかにトランプのアメリカへの媚び売り)。

森友学園のいわゆる「安倍晋三記念小学校」でも、8億の国有地値引きが安倍たち政治家にキックバックされたわけではない。ほんとうに総理の権力でただ自分が理想とする小学校を作りたかっただけ、そのために資金繰りの苦しいところをカバーしてあげたかっただけのようだが、ならばなぜそれまで幼稚園経営しかしていない、弱小の、たぶんに風変わりで、採算性や経営の継続性に疑問符がつくような学校法人に頼ったのかも、わけが分からない。そんなところにやらせるから8億円の優遇が必要になったのだろうし、自分が教育勅語の暗唱とか、ああいう教育方針を理想としているなら、堂々と政策でやればよかったではないか?

第一次政権の時には教育基本法を改正(?)したではないか。 
なぜ教育勅語を理想とする教育が日本に必要だと考えるなら、自らの政策として提起しなかったのか? 反対が多いと思うのなら、粘り強く誠実に、丁寧に説明して訴えるのが政治家の最大の仕事だということが、どうもこの人にはまったく理解できていないらしい。

加計学園の獣医学部は、今治市に37億円相当の市有地を無償譲渡されているし、国家戦略特区が通ればさらに市と愛媛県から100億規模の補助金が動くとされている(ただし愛媛県に詳細の話は一切いっていないし、県もなにも約束していない)が、これらの補助金だって安倍が横領できるわけではもちろんなく、金銭的に得するのは加計孝太郎サンと、安倍と加計双方につらなる日本会議人脈の土建屋等々だけだ。

安倍サン本人はこのオトモダチ連中にひたすら尽くすためだけに、行政を私物化して官僚相手に権力を奮い、恫喝さえ繰り返しているのが、このスキャンダルの本質的な構図なのだから頭を抱えさせられる。

森友学園スキャンダルも加計学園問題も、いったいなんのために安倍さんはこんなことをやったのか?

そうでなくとも加計学園の獣医学部の新設は、相当に無理がある計画だ。その推進に深く関与して「総理の意向」だと文科省に迫ったらしい内閣府の藤原審議官すら、その実現性にはかなり疑問も持っていたことが分かっている。学生が集まるのか、という共通した懸念は、今治市議会からも出ていた。

昨年10月21日付けのメモでは文科省に激しく迫っていたことが記されている萩生田官房副長官も、同じ10月の上旬の段階では、平成30年4月開学は無理ではないか、と疑問を呈していたはずだ(10/7付けメモ。文科省調査では未確認)。

だいたい、閣議決定された獣医学部新設の要件である、既存の獣医学部では対応できない高度な最先端の研究教育なんて、はっきり言えば三流大学でしかない岡山理科大に出来るとは、誰も思っていない。それどころか教員がちゃんと揃いカリキュラムが組めるのかさえ不安がある学部計画を最終的に認可するのは、獣医学部なら獣医学の専門家を中心とする委員が揃った審査会だ。

なのに安倍の意向を忠実に実践したいらしい地方創生大臣の山本幸三は日本の獣医師業界を侮辱中傷までしている。安倍の周囲からも獣医師会を抵抗勢力だ、既得権だと、名指しで中傷する言説も後を絶たない。ここまで反発を買っても、それでも審査会が公正な審査を心がけようにも、計画自体が元から認可を出せるような代物でもないのだ。

国家戦略特区の審査に提出された計画もたった2ページだったそうで、一応はもっともらしく最先端っぽいことを列挙してみたら、MERS(中近東呼吸器症候群)をMARS(惑星の火星)と書き間違えて国会で問いつめられるお粗末さだった。

「行政が歪められた」という文科省の前次官・前川喜平氏の告発に反論したかったのなら、安倍政権はこの獣医学部計画がいかに素晴らしいもので、新設の要件ももちろん満たして、最先端の施設を揃え、気鋭の研究者や臨床医が教育に当たるものだとでも示せば、「総理のオトモダチだから優遇された」という疑惑は払拭できたはずだ。なのにその肝心の反論は一切ない…というか、出来ない。

だいたい、そんな獣医学の最先端の「ライフサイエンス」や「人獣共通感染症」研究なら…というか、これはどちらも獣医学の専門ではなく、医学部や生物学、遺伝子工学、情報工学の最先端を横断する分野だなのだが、だからこそ新設の獣医学部で対応するよりは、既存の獣医学部のなかでもトップクラスの医学部や理学部を持つ、たとえば旧帝大系の国立大や、北里大などの理系で超一流の私大にやらせた方が、どう考えても政策として合理的だ。そうした超エリートの研究成果なら、そのまま日本の「成長戦略」として売り出し得るのだし、ならば「国家戦略」にもふさわしかっただろう。

だいたい獣医師の需給の問題がどうやったら「国家戦略」に当たるのかからして意味が分からない。安倍氏にはぜひ説明して欲しいが(和牛の輸出を増やす、とか言い出すならまるで「風が吹けば桶屋が儲かる」だし、対EUのEPA交渉でも、畜産分野でかなりの妥協をすると流れだ)、確かに家畜医に関しては慢性的な不足が東北や北海道では深刻だとされる。

ならば新設する獣医学部はとくに家畜の専門医の養成に重点をおいたカリキュラムを提案すれば、まだ国家戦略特区として通す理由にもなるだろう。

だがそれを言った瞬間に軍配が上がるのは、今回の疑惑で不透明な手段で応募できないようにされた京都産業大の方だ。ここの計画の目玉のひとつは、京都府内の酪農地帯に設置して、地元の牧場と連携して実際に牛を診る実習がたっぷり出来ることだった。

一方、加計学園の計画はどうかと言えば、先述の、文科省が公表した、常磐高等教育局長と萩生田光一官房副長官とのやりとり(2016年10月21日付け)をまとめた部署内共有のメモには、驚くべきことが記されている。

愛媛県は、ハイレベルな獣医師を養成されてもうれしくない、既存の獣医師も育成してほしい、と言っているので、2層構造にする 
「ハイレベルな教授陣」とはどういう人がいるのか、普通の獣医師しか育成できませんでした、となると問題。特区でやるべきと納得されるような光るものでないと。できなかったではすまない

(同メモの全文はこちら

「誰が言ったか」以前に、まずミもフタもなく、あられもなく、「加計ありき」そのもの…どころの話では済まない。

加計孝太郎氏が獣医学部を新設したがっているから「国家戦略特区」に獣医学部を含め、政策として実行するにはさすがにそれが許容される条件がつくのは当たり前なのだが、加計学園の計画はおよそそんなレベルにない。さてどうしてあげたらいいのかと、と政府で解決策を話し合って知恵を探してあげようとしている、それを結局は文科省に丸投げしたがっているわけだ。

いったいどこまでサービスがいいんだ安倍政権?

萩生田氏は自分は一切なにも言っていないかのような印象操作を必死に言い張っているが(実際には、一部に自分が言っていないことが紛れ込んでいると主張しているだけで、その先をねじ曲げて文書全体が噓であるかのように言い募っている)、こんなのは「誰が言ったか」の問題ではない。安倍政権自体の「政治主導」のいい加減な不透明性こそが問われてしまう。

ちなみに前川喜平氏はこのメモと、面談の中身は承知していないという。メモで提案されているように常磐局長が加計学園の関係者がその後会ったのかどうかも、「報告を受けていませんから知りません。その頃には大臣・副大臣と直接やりとりしていたようです」というわけで、なんのことはない、かなり粘り強く抵抗しようとした前川氏は、次官つまり事務方のトップだというのに、この案件で蚊帳の外に追い出されていたのだ。 
省庁のガバナンスとしてあり得ない珍事だ。いったい誰の意向でこんな異常事態が強行されたのかといえば、まあ答えはほの分かり切っていて二、三人に絞られるし、誰かの「忖度」でもない。 
二、三人というか、安倍首相、菅官房長官、和泉首相補佐官の直接的な意向だろう。

閣議決定を経た要件に対応できていない加計学園の計画について無理矢理に辻褄を合わせる手段すら思いついていないことをそのまま文科省の官僚に丸投げしてその頭を悩まさせながら、一方で「国家戦略特区」なのにその目的に反する県の要望を聞き入れるような会話まで交わされている。これでは日本の「成長戦略」のための「特区」ではなく、むしろ(こう言っては悪いが)僻地で経済が伸び悩む地方の県を保護する新たな規制を作っているような話だ。

それが悪い、というのではもちろんない。むしろ必要な支援策に属するものにすらなり得る。ただしそれなら「構造改革」「規制緩和」で経済成長を促す新自由主義的な政策とはむしろ真逆な、社会民主主義的な施策のはずだ。

愛媛県の産業振興や、タオル製造のブランド化だけは成功したものの、従来の工業中心の産業構造が過疎高齢化もあって衰退している今治市への救済処置的な政策的援助なら、必要だ。だがそれは「成長戦略」のための「構造改革」で「岩盤規制」を打ち破るのとは、まったく異なった、むしろ正反対の政策的方向性になる。

それに少子化で全国で大学経営が苦しい現状があるのに、「学園都市構想」が有効だとも思えない。

まだ学力的にもトップクラスの有名校とか個性的な教育が売りになるブランド性があればいいが、こう言っては悪いが「たかが岡山理科大」ではそれも無理で、「そもそも学生が集まるのか?」という当然の疑問が出て来ると、途端に「学歴差別だ」「一生懸命やってるじゃないか」と、妙に浅薄な情緒論が飛び出すのも、安倍政権とその熱烈支持層の常だ。

加計学園・岡山理科大の獣医学部構想は、どう見てもごく一部の関係者以外には誰の利益にもならない計画で、「国家戦略」とは真逆に国民や日本経済にはなんのメリットもない。

愛媛県にとっても今治市にとっても、同じ労力と金をかけるならより実効性のある振興策を検討するのも、トップダウン政治主導の「国家戦略特区」ならせめてそれくらいは政府が考えなければならないはずだ。

これではこの安倍政権の売り物政策のひとつだったはずのものが、完全に羊頭狗肉と化す。

しかも、そのごく一部の利益を得る関係者に、安倍晋三首相自身が含まれるカラクリも想像がつかないのだ。萩生田氏ならば落選中に加計学園系列の千葉科学大学に客員教授として雇ってもらって救われたらしいが、それだってそんなにたいした金額でもない。

では安倍さん達はいったい誰のためにこんな無理な、自分達でその政策的な正当性を説明すらできない計画をゴリ押ししたのかといえば…安倍さんが「腹心の友」の加計孝太郎さんのために尽くす、純情な友情物語くらいしか、動機が思い当たらない。

厄介なのは私的なレベルなら「腹心の友」にひたすら尽くした熱く麗しい友情になることでも、行政府の長(「立法府の」ではない、念のため)には許されない政治の私物化、行政の公平性を著しく損なう「えこひいき」になってしまうことに、安倍にもその周辺にも、熱烈な支持層にもまったく理解できていないらしいことだ。

いやむしろ、彼らは「日本でいちばんえらい人」の友人であったり味方である自分達が「反日」の「敵」よりも優遇されて当然だ、と信じて疑わないでいる。

昨年暮れのプーチン露大統領来日時にも安倍の誇示したい「首脳どうしの信頼関係」や「外交成果」を言われるがままにテレビで垂れ流したジャーナリストの山口敬之がレイプを警視庁にもみ消してもらった疑惑も、「日本のため」に首相に尽くして来た山口氏がそんな訴えで逮捕されることこそ彼らには許し難いことで、被害者の若手ジャーナリストの詩織さんこそ「反日」のハニートラップだということになるらしい。

この事件は密室内の合意の有無が争点になる微妙な準強姦罪になるが、それでも被害者の証言に悪質性を見て取った所轄署が緻密な捜査で証拠を積み重ね、裁判所が逮捕令状の発行に踏み切ったという客観的な現実と、法があくまで公正に執行されるべき社会の根本倫理は、彼らにはどうでもいいことなのだ。

これは「テロ等準備罪」と偽装された、実際にはテロとまったく関係なさそうな罪でも共謀に基づく準備段階で処罰するからには「共謀罪」以外のなにものでもない、正式には「組織犯罪処罰法改正案」についても言える。

強行採決の参院本会議では野党の反対討論に「共謀罪で逮捕してやるぞ」という野次が与党席から飛んだ。

安倍を取り囲む人たちはこの法にそんな欲望とファンタジーを投影しているし、安倍政権はそんな周囲の人々の願望を満たすために、この新法を強行することを自らの使命として課していたのだ。

安倍がいきなり今年の憲法記念日に合わせて打ち出した「改憲案」も、同じような不可思議な、妙に感情的で薄っぺらに情緒的な動機ばかりが見える。

憲法9条2項の戦力不保持・交戦権否定の条項を変えるという元々の自民党草案なら、多くの国民にとっては賛成はできないし「改悪」にしかならないにせよ、「改憲」することの意味はある。既存の自衛隊の憲法上の制約を変えて日本の安全保障を強化し軍事力を拡大することには、確かにつながるからだ。

「改憲」によって国と社会の有り様がどう変わるのかなら、国民的な議論の価値は確かにある。だが安倍の満を持してのはずの改憲提案は、まったくそうではない。安倍の言う通りに9条の1項2項はそのまま、つまり今の憲法上の制約と同じ限定をかけたまま「自衛隊」を書き加えたところで…

「現状維持ならどう憲法に書こうがただの無駄です。日本の安全保障が高まることは1ミリもない。自衛官の自信と誇りのためというセンチメンタルな情緒論しかよりどころはありません」長谷部恭男・早大名誉教授(憲法学)
http://digital.asahi.com/articles/ASK6L5QP6K6LUTFK00K.html?rm=1299 

…となってしまう。

だいたい安倍が改憲派の集会へのビデオメッセージや読売新聞のインタビューで述べた改憲の理由が、まさにそのセンチメンタルな情緒論で、憲法学者の一部が自衛隊を「違憲」という状況を変えたい、というだけの内容だった。

この安倍改憲案には、単に「改憲」をやった功績を自分のものにしたい、自民党の長年の悲願だった9条に手をつけることを自分は成し遂げたのだと言いたい、という安倍自身の願望も動機としては確かに見える。だから「改憲」ありきで、なにも変わらないのだから「自衛隊」を書き加えるくらいならいいだろう、という開き直りの理屈だ。そしてそんな子供染みた名誉欲以上には、安倍自身がこの改憲で得られるものはなにもなく、日本の将来を安倍の望む方向に変えること(「美しい国へ」ですか?)にもならない。

共謀罪もやはり自民党右派の「悲願」で、これまで再三廃案となってきたものだが、その強行の恩恵で巨大な捜査権力を手にするのも一部警察官僚であって安倍ではない。

むしろあまりに広範囲な罪状に適用されるこの新法は、逆に安倍の周囲や「味方」に対しても適用できてしまう内容になっている。

たとえば「組織的信用毀損罪」までがなぜか「テロ等」に含まれ対象犯罪になっているのがこの新法だが、自民党は「ネットサポーターズ・クラブ」とやらを組織していて、その会員を自称するネット・ユーザーはさかんに組織的・集団的に野党議員であるとか政権の批判者を「炎上」させようと嫌がらせや中傷を続けている。

その中傷や攻撃の中身は、たとえば加計学園問題で与党を追及する議員が獣医師会から政治献金を受けていると言った、そうしたいわゆる「ネトウヨ」の能力では得られそうにない情報を連呼していたり、一部のジャーナリストが官邸筋の情報として言及する噂を、それがテレビ等で発信される前から先取りしている。

こうした外形的な事実だけでも「自民党ネットサポーターズ・クラブ」の会員たちに自民党から情報が流され、その「炎上」騒ぎが組織的に特定個人や団体の信用を毀損する目的で共謀されたものであることが、容易に推測できてしまう。

いざ「共謀罪の要件を厳しくした(ことにまるでなっていない)テロ等準備罪」の適用第一号を全国の警察が競い合った場合、真っ先に目をつけられそうなのが自民党とその一部支持者、という冗談みたいなことも起こりかねないのが、この法の実際の中身なのだ。

ちなみにこのことに遅ればせながら気づいたのか、政府では成立ギリギリになって、SNSのやりとりだけでは共謀の証拠にならない、という解釈を言い始めた。 
だがそう解釈する条文上の根拠は見当たらない上に、そういう限定された運用ならば現代もっとも危険視されるISIS(イスラム国)やアルカイーダ系のテロは対象外になってしまうので、元々既存の予備罪にほとんどなにも付け加えないこの新法は、ますますもってテロ防止にはなんの役にも立たなくなる。

警察の中枢・上層部はもちろん、当分は安倍に恩義を感じて安倍の敵を潰すためにもこの法律を使うことも考えているだろうが、いくら安倍やその熱烈支持層が「反日」と断じようが、野党と北朝鮮政府やら全共闘崩れのかつての革命集団との「共謀」なぞ立証できるわけもなく、野党議員を潰すことなぞ出来なしない。

だいたい、共謀罪の適用第一号が政治性を持つ団体や市民運動になれば、国連人権理事会の特別報告者から示された懸念が現実になってしまい、政府は激しく非難され、政権支持率も暴落するだろう。

安倍政権にしてみれば共謀罪を成立させた直接のメリットは実のところその程度しかないし、むしろこれまでも政敵潰しに協力してくれた彼ら(たとえば前川喜平氏にしてもなぜまったくプライバシーに属する夜の行動が官邸に把握されていたのか?台湾政府が蓮舫氏の台湾戸籍を破棄していなかったと調べたのは誰なのか?)に報いたいのと、安倍にとってより重要なのは、これまで自民党右派が念願しながら廃案になって来たものを自分は実現したのだ、という自己満足しか見当たらない。

これは特定秘密保護法でも、安保法制つまり集団的自衛権行使の合法化でも同じことだし、憲法改正こそその最たるものなのは、既に述べた通りだ。

自民党の先輩達ができなかったことを自分が実現したという、その先輩達への奉仕の献身と、彼らを超えたという自己満足だけが、彼をこうした強行手法へと突き動かしている。

だからどんなに腐敗していても、安倍本人には古典的な政治腐敗の動機である金銭欲などは、その無茶苦茶な政治の私物化の政策には関わっていない。

一方で、現行の刑法は、政治腐敗についてそうした古典的な私利私欲しか想定していない。

金銭欲に目がくらみ行政をねじ曲げれば犯罪だが、安倍が行政をねじ曲げる動機はある意味でとても「純粋」だ。オトモダチや自分を助けてくれた者たちへの恩返しは、個人の私的なレベルだけで見れば、うるわしい友情物語になる。

だから加計学園にせよ森友学園にせよ、これほどのスキャンダルでも、贈収賄がらみの刑事罰には問えない。

だがもちろん、安倍自身が贈収賄などの刑法犯には問われないことを持って「違法性はない」というのは詭弁だ。

安倍個人の法的な刑事の責任、というか犯罪は問えないからといって、行政府として法令と、憲法に根本的に違反していることに変わりはない。

ちなみに森友学園スキャンダルに至っては、動機はもうあまりに笑ってしまう子どもっぽさだった。要するに安倍は「安倍晋三記念小学校」ができることが嬉しくてしょうがなかった、その喜びを自分に与えてくれた籠池泰典氏(というか、その周囲の日本会議人脈)に恩義を感じて、一生懸命に助けてあげただけなのだ。夫人の安倍昭恵は幼稚園児の「安倍首相がんばれ」に感動して感涙してしまうほどナイーヴだったが、同じ子どもっぽさを安倍晋三も共有している。

安倍晋三内閣とは「ブタもおだてりゃ木に登る」政権なのだ。ブタは一生懸命に果物がいっぱいなった木に登り、下で自分をおだててくれるオトモダチのために一生懸命にその果物を落としてあげることに、無情の喜びを感じているのだろう。

そのために安倍が注ぎ込んでいる努力は途方もない。彼自身の損失だけで済むのならまあ身から出た錆というだけで別に構わないのだが、国会の審議時間が安倍のくだらない時間稼ぎの珍答弁で浪費され、行政の実務を担う官僚が振り回されるのは、国民的かつ国家的な、重大な損失になりかねない。

3/10/2017

「教育勅語」が日本の伝統なのか?



安倍晋三首相の夫人が「名誉校長」まで務める癒着っぷりが効果を発揮して、国有地が異常な大値引きお買い得価格で(しかも異例なことに分割払いで)払い下げられた大阪の学校法人・森友学園の運営する塚本幼稚園では、子どもに教育勅語を集団で暗唱させている。

これは自民党大阪府連が提案したことだそうで、またその幼稚園での講演会や、親向けの配布物に名前や文章が出ている面々が、分かりやすく「日本会議」の重要メンバー、天皇の退位の意向をめぐる有識者会議やそこにヒアリングで呼ばれた、なんの専門知識もない「専門家」とまったく同じ人脈であることとか、これでも払い下げについて「関与していない」「無関係だ」「政治的な働きかけはない」と言い張る安倍氏の無茶苦茶は相当なものだ。

「日本会議」系の政治家による口利きがあっただろうと誰でも想像がつくところへ、金銭の授受つまり賄賂まで介在した可能性すら出て来ているが、それがなくとも総理やその周辺に連なる人脈があるというだけで議員が官庁に口利きをしてくれるというのでは、政治の公平性が根幹から崩壊する。

そんなものは近代民主主義の法治理念以前の問題で、過去の、歴史上の名君とされる者は常に不公平の排除に腐心して来た。 
公平であることは政治倫理の一丁目一番地のはずであり、封建制などの身分制社会であってもその身分内での公平性を担保できない、為政者が公私混同に陥った政治は、常に結局のところ瓦解しているのが歴史の教訓だ。

財務省もついに「様々な働きかけ」に政治家も含まれる “可能性” は否定できなくなったが、議員が陳情を聞き入れるならば、あくまでその中身に正当性が見出せた場合のみのはずだ。

ところがこの森友学園の場合、教育内容が教育基本法や憲法に反しているとも指摘できるのに、妻が名誉校長をやっていた安倍首相でさえ、この学校法人をなぜ支援して来たのかの理由すら議論の俎上に乗せることから逃げている。

当の安倍首相に至っては、最初は森友学園について「教育方針が素晴らしい」と聞いていたはずの、「私の考え方に共鳴している方」だったのが、掌を返したように理事長が「しつこい」人で自分の妻は名誉校長職を押し付けられただの、一時は「安倍晋三記念小学校」だったのも「名前を勝手に使われた」とまで言い出しているが、ならば総理の名が騙られていたこと自体が国民の不利益になる以上は、とっくの昔に出入り禁止・絶縁くらいはしておかなければ筋が通らないし、それも出来なかったのでは国政を左右する大きな責任を負った政治家としての資質そのものが疑わしい。

繰り返すが、広く国民の生の声や要望を聴くのは議員の仕事だが、取り次いでいいのは正当で政治的に必要だと判断するものだけだ。それとも議員たろうものが陳情を官庁に自動的に取り次ぐ使いっ走りに成り下がっているのだろうか?

ならば公選制の政治家なんて不要だ。近い将来には政治は人工知能に任せるのがいちばんいい、ということになる。

森友学園のように学校法人の陳情を取り次ぐのなら、最低限でもその教育内容や方針に賛同するか価値を認めていなくてはならないし、賄賂を持って来られて「無礼者!」と痛罵したという鴻池参議院議員のように、相手に人格上の明らかな問題があると判断すれば「出入り禁止」にするのが筋だ。逆にそのような自立的な判断能力も持たない人間に、誰が議員としての職権を信託するというのか?

有権者を愚弄するのもほどほどにして欲しい(松井大阪府知事、あなたのことです)。

陳情を受け官庁に取り次ぐ側が側について、一部のメディアでは「金銭の授受がなければ問題がない」「陳情を受けるのは議員の通常の業務」などと言い出す者たちまでいるに至っては、現代の日本の政治には、為政者は常になによりも公平性に腐心すべきというモラルが欠如しているのだろうか?

たとえ金銭の授受がなくとも、身内だから、知り合いだからと言うだけで優遇をしてしまうだけでも政治家失格であり、政治道徳の欠如そのものだ。

だいたい、あらゆるまっとうな宗教の倫理体系は、人間は生まれながらには平等であると説いて来たはずだ。

仏教となると、人間だけに限らずあらゆる生命が、究極的には平等になる。

陳情して来た側の理念を共有したり支持するのであれば、その理念を堂々と述べてその正当性を論じないことには始まらない。議会制民主主義ならば、その行政府の政策はまず立法府の監視を経なければならないのに、そうした正論のルートではなく国有地払い下げ手続きをねじ曲げて悪用するようなやり方は、あまりに姑息過ぎる。

賄賂を拒絶したと証言した鴻池議員はそこまでの党内権力者ではないものの、「任侠」的にざっくばらんなぶん親切な人柄で人望は篤いと言われる。

賄賂を持って来たのを「無礼者」と追い返したような相手であれば、鴻池氏は党内の同僚議員にも「あんな奴とつき合ってはならん」くらいのことは忠告していると思われる。なのに鴻池事務所が断ったはずの森友学園の働きかけは、ことごとくその思い通りの結果を実現している。

ならば鴻池氏の忠告も無視されるほどの党内権力の意向が働いていないとおかしいわけで、ではそれが誰かといえばもちろん、最大の容疑者は妻が「名誉校長」をやっているほどこの学園との関係が密接な自民党の最高権力者、安倍晋三首相だ。

安倍自身が財務省や国交省に働きかけるとは、いくらこの首相が愚かだからといってさすがに考えにくいが(と思っていたら安倍自身が、妻が「名誉校長」になる二日前に、異例なことに財務省の担当の理財局長を、財務大臣を飛び越えて自ら呼び出しているらしい)、それでも森友学園側がこの安倍とそこに連なる日本会議人脈をひけらかすだけでも、財務省や国交省が特別な配慮を考えざるを得なくなるのは当たり前だ。

籠池氏の人脈に安倍夫妻が直接含まれる時点で、すでに関与は十分にしている。まして首相夫人が「名誉校長」をやることの影響力も考えられないほど愚劣な世間知らずなのか、と思えば、なんと総理夫妻の名が出ることで忖度されることなどあり得ない、実例の証拠を出せ、という呆れた答弁まで飛び出した。

いったいなにを言っているのやら。

安倍首相の「正論のつもり」が一般市民の感覚からかけ離れが絵空事でしかないことは呆れる他はないし、安倍内閣の閣僚でも若い頃に下着泥棒をやっていたのが、国会議員の息子だという「忖度」で被害者が泣き寝入りになっている事例まであっただろうに。

だが「警察が事件化していないのだから証拠はない」と言い出しそうなのが安倍総理だ。「関与があれば首相どころか国会議員も辞任する」というのも、自分の権力があれば証言が出て来たり官庁から証拠文書が発見されることはない、とたかをくくっているのではないか?

だとしたら、この総理大臣には倫理観がまったく欠如し、主体的な倫理観と規則への盲従を混同している。法制度を運用するのが責務の行政府の長としてまったく不適格だ。

森友学園をめぐる疑惑の関係者の参考人招致も「違法性があるかどうか分からない」と拒否しているのが自民党だが、その理屈を真に受けるなら、この人たちは道徳で自らを律するということが一切なく、法律の縛りさえなければどんな反社会的で非人道的なことでもやり出しそうだ。

ちなみに違法行為が見つかれば国会の国勢調査権では済まない。もう検察と裁判所の仕事だ。この人たちは国会議員のくせに、三権分立、立法府と司法の役割分担も分かっていないのか?

かくも不道徳で自らを律する意識に欠けた人たちが、「教育勅語」に書かれた徳目は正しいので、子どもに暗唱させるのは素晴らしいのだという。ここから分かることは、教育勅語にどんなに立派な徳目が書かれていようが、道徳教育の効果がほとんど認められない、ということだろう。

安倍は自分の名前を冠した名称を「知らなかった」「すぐに断った」はずが、フジTV系がすっぱ抜いた幼稚園側の内部映像では、たとえば2014年4月の段階でも園児たちが「安倍晋三記念小学校、よろしくお願いします」と園長に言わされる姿に、安倍昭恵氏が涙ぐんで喜ぶ姿が映っている。これでは夫が総理になったから昭恵氏に断わられたという森友学園側の説明にすら矛盾するはずだ。
首相は森友学園の籠池理事長とほとんど面識がないと言うが、籠池氏側は安倍首相が幼稚園を訪れていることも過去におおっぴらに言及…というか自慢しているし、昭恵氏が2014年12月に幼稚園でやった講演では、彼女がそう言っている。首相は妻や籠池氏が噓つきだというのか? 
噓をついてまで自分の名前を利用されたのなら、最低限でもとっくに絶縁・出入り禁止にしていなければおかしいし、ならば国会に呼び出し白黒をはっきりさせなければ、それこそ首相の名誉が問われる。

安倍夫人の昭恵氏によれば夫が「素晴らしい」と言っていた(首相は妻が噓つきだとでも言うのか?)教育方針の「教育勅語」の暗唱だが、その信奉者を見る限り道徳教育の効果がまったくなさそうであるだけでなく、政治的刷り込み以前の問題で、幼稚園児にやらせる、それも集団での暗唱を強要するなら、それだけでも発達心理学、児童心理学、精神医学の見地から、立派に虐待でしかない。

子どもの教育はその年齢年齢での発達段階に合わせて体系的にやらなければ無理が出て虐待になるなんてことは、西洋では18世紀には完璧に理論化されていることだ(アンリ・ルソーの『エーミール』)。

また別にそんな教育学や啓蒙思想の歴史を知らなくとも、まともな感覚さえあれば、よほどの天才児でもない限り擬古文調・擬漢文調の教育勅語を現代日本語で育っている幼児にいきなり強要するだけでも無理があると分かるだろう。

しかも塚本幼稚園では明治維新の「五個条御誓文」まで集団で暗唱させているという。 
国家という概念が意識されているとも言い難いどころか、江戸幕府があって明治維新のクーデタによる政権交替と体制変換があったという歴史理解や、150年前とか200年前という時間感覚すらまだ未発達な幼児に、文脈もなにも示さずに教え込むのもおかしい…というか無理があり過ぎる。

「神道に基づいた日本の伝統を教える」のなら、「古事記」のなかから「因幡の白兎」でも子ども向けに書き直し、集団で暗唱させたいのならこの話を基にした小学校唱歌の「大黒さま」の合唱ならまだ分かる。


大きなふくろを かたにかけ
大黒さまが 来かかると
ここにいなばの 白うさぎ
皮をむかれて あかはだか 
大黒さまは あわれがり
「きれいな水に 身を洗い
がまのほわたに くるまれ」と
よくよくおしえて やりました 
大黒さまの いうとおり
きれいな水に 身を洗い
がまのほわたに くるまれば
うさぎはもとの 白うさぎ 
大黒さまは たれだろう
おおくにぬしの みこととて
国をひらきて 世の人を
たすけなされた 神さまよ 
小学唱歌「大黒さま」作詞 石原和三郎 作曲 田村虎蔵


因幡の白兎と大国主命をめぐる物語では、意地悪な兄の神々が全身に怪我をした兎を騙して体中の傷に塩を塗り込ませ、それで激痛に泣き叫ぶ兎をやさしい大国主命が哀れんで、正しい治療法を教わった兎の傷はめでたく全快する。

このお話ならばまだ、子どもに道徳を理解させ教えることになるだろう。

ちなみに実際の「古事記」では、大国主命に救われた兎は突然カミ的な存在になり、大国主はそのお告げに従って妻を娶る、という展開になる。今では大国主命を祀る出雲大社が「縁結びの神さま」になっている由縁だ。 
まあここまでは、幼稚園児に教えることもあるまい。

この逸話のメッセージは「弱いものにやさしくしなさい」なのだろうが、しかしそれをただお題目として覚え込ませるだけなら、中身がどんなに正しいことだとしても、幼児相手には押しつけでしかない。

幼児にはその道徳がなぜ大切なことなのかの因果関係や因果応報、良い行いがどんな良い結果を産むのかをまず理解させなければ、それが「良い行いである」という説得力を持たないし、だからこそ物語の形式、童話というかたちが幼児教育では重要視されて来たのが、人類共通の普遍的な知恵ではないのか?

教育勅語に並んだ徳目は親孝行や勤勉など立派なことばかりじゃないか、と言い張るのはあまりに「教育」が理解を出来ていない時点で、そんな者たちがこと幼児教育に口を出すこと自体がすでに虐待の構図だ。

しかもその人々は、文章はまずその字面に書かれた内容を把握するという当たり前の読解能力も欠如しているし、いかに擬古文調ないし疑似漢文書き下し調の、現代人にはなじみのない文体で書かれているとはいえ、文法構造も理解できないらしい。

教育勅語のロジックは、単に列挙された徳目を、一人称の主語「朕」(つまり天皇)が守れと国民に命じているだけだ。「なぜ」そうすべきなのかの理由と来たら、まず日本が天照大神以来の長い歴史を通じて徳を樹立して来た国だったから云々と言っているに過ぎない。まずそれ自体が史実に反する上に、抽象的過ぎてそもそもなんのことか、国家どころか社会の認識すらまだまだ未成熟で抽象概念の理解も育っていない幼児には、分かるはずもない。

そもそも、教育勅語でただ列挙されただけの「十二の徳目」とやらは、ちっとも日本のオリジナルではない。


基本、儒教の引き写しで「論語」から理論・論理構成を無視してただ題目のスローガンだけを引き写し列挙した劣化ダイジェストでしかなく、十二番目に至っては「義」の解釈がおかしい。

「義」は普遍的な道徳概念、正義であって「国」を超越するものだ。むしろ国家の統治を担う側が「義」を体現しなければならない、とするのが儒教の論理なのが、教育勅語ではその逆に、「皇国イコール義」となっている。

使われている言語の点でも、教育勅語の擬漢文調の悪文を無理矢理覚え込ませるくらいなら、まだ本物の漢文で文学性や韻律の上では名文の「論語」を暗唱させた方が遥かにマシだろう(だとしても幼稚園児には無理で、どんなに英才教育でも小学生が限度、現代なら早くとも小学校高学年だろう)。

賛否や好悪はともかく、儒教がひとつの政治的思想の道徳体系として歴史的に大きな役割を果たしたことは否定しようがなく、また論理的にも破綻しないように構築されているからこそ、それが可能だった。

一方「教育勅語」はといえば、そもそも論理的な根拠に乏しく、たいした論旨展開もないにも関わらず、歴史的な儒教とその受容の伝統に反する上に、思いっきり論理的な欠陥も露呈している。

なにしろ儒教倫理を援用・列挙しながらその全体の論理構成が非儒教的というか、儒教のロジックのもっとも肝心な部分が欠落しているどころか、倒錯的に逆転しているのだ。

長幼の順や親孝行などの家庭内の私的レベルに始まって、忠義などの社会的レベルまで上下関係により人間社会の全体をヒエラルキーで理論化しているのが孔子の思想の基本だ。だからこそその権威・権力の最上位(ヒエラルキーの頂点)がどこに定義され、それが人間であるのなら、その行動がどう道徳的に規制され得るのか抜きには、儒教は政治思想としても哲学としても、成立もしなかっただろうし相手にもされなかっただろう。

上下関係を基本に社会を見た場合、そのなかでひとつの権威・権力が恒久的に上位にあるのなら、それが専横に走ることに歯止めがなくなるし、そんな権力体系のなかでは、逆に下位にあるものが上位に従う理由が恐怖か抑圧への隷属以外にはなくなってしまう。

むろん実際の政治に当てはめれば、これでは腐敗と政治体制の硬直・形骸化、ひいては独裁と没落の温床にしかならない。

孔子がそこで導入したのが「義」と「仁」を追及することの「徳」と「天命」、そして「易姓革命」の原理であり、ここにこそ儒教の本質があるとすら言える。

ただ「上にある者は偉いのだから従え」だけなら、孔子の思想は無能な独裁専制君主以外にはおよそ相手にされなかっただろうし、そんな王朝は早晩死に絶えたはずだし、実際に中華帝国の歴史では、一時は優れた政治で隆盛を極めた王朝であっても、やがて淘汰されては交替を繰り返して来た。

例えば前の王朝の臣下が忠節の義務を覆して新王朝を樹立することをどう正当化し得るのかといえば、最上位の権力・権威を皇帝が持ち得るのは自らの「徳」によって「天命」を受けるからであり、「徳」を失った瞬間にその権威は消失し、別の一族(姓)が天命を受け、「徳」を失った皇帝とその一族は新たな「天命」を受けた新王朝に淘汰されるのが「易姓革命」だ。この原理によって儒教は権力の淘汰と更新を理論化し、権力者にこそより厳しく道徳的な抑制を課すことで、辛亥革命までの数千年にわって中華帝国の統治理念として機能し続けた。

日本に儒教が伝わったのは「日本書紀」の記述によれば5世紀だ。

より後の6世紀に伝来した仏教の方は、排仏を唱えた敏達天皇が疫病で急死したことへの畏怖もあり(この辺りがいかにも日本的だ)、また尊仏派の蘇我系の皇子・厩戸王(聖徳太子)が四天王に祈願したところ物部氏との内乱に勝利したことが決定的になり、7世紀初頭にはすっかり定着していたことが明らかだ。それも当時の国家中心だった大和地方(奈良県)に残る、蘇我氏の氏寺だった飛鳥寺とその系譜を継ぐ奈良の元興寺や、聖徳太子ゆかりの法隆寺や、摂津の四天王寺だけではない。

元興寺極楽本坊金堂 外観は鎌倉時代
元興寺極楽本坊金堂 鎌倉時代の和様建築だが内陣の柱などは奈良時代
元興寺 金堂と禅堂の屋根瓦の一部は飛鳥寺のものだと言われる

全国各地でも長野の善光寺はもちろん、なんと東京の浅草寺も推古朝の時代に遡る。

そんな仏教の受容定着の早さに較べて、伝来はより遡る儒教はといえば、本格的に統治原理に導入されたのが確実だと言えるのは8世紀初頭まで待たなばならないだろう。天武天皇の命で編纂が始まった「古事記」がその妻の持統天皇の代に完成されたはずが、そのほんの数年後には「日本書紀」が新たに作られて正史となった経緯は、律令国家の完成期に儒教が本格導入されたことを示唆していると考えられる。

「日本書紀」は完全に儒教のロジックに則った歴史書であり、その編纂によって排除された「古事記」とは、世界観や善悪の概念がかなり異なっているのだ。

結果、「古事記」は永らく私的文書として省みられないか、カミ信仰の縁起としてのみ生き残った。 
今でも多くの神社の由来が「古事記」に基づいていること、つまり民俗信仰と深く結びついていることからも推測できるように、儒教的に論理化された「日本書紀」に較べて、「古事記」はより文化的な潜在意識というか、民族的な集合記憶に親和性が高い物語体系と価値観を表現しているとも言えるだろう。
それがいわば「神道」の起源であり、その論理は必ずしも儒教的なものではない。
というか儒教とはかけ離れている面こそ多々あるわけで、ヤマト王権に滅ぼされたり淘汰された出雲系の神々もいるし、その長の大国主命は儒教的な長幼の順に反して末っ子だ。後にカミとなった者も、朝廷に左遷された菅原道真を祀る天神信仰や、逆臣だった平将門が神田明神の祭神、金比羅信仰は廃位・流島に処せられ狂い死にした崇徳天皇が祭神、と言った具合だ。

だが儒教に併せて書き直された神話と古代史とみなせる「日本書紀」の、つまり律令国家の完成期のロジックでも、「易姓革命」だけは受け入れていない。

天皇の地位が「古事記」的世界観の、カミの子孫という神秘的な位置づけで維持されたままでは、その血統が「徳」を失えば淘汰されるという原理とは相容れないからだろう。

「易姓革命」がない儒教を統治理論とすることは一種のダブルスタンダードであり、また厩戸王(聖徳太子)の推古朝から律令期、奈良時代を経て平安時代の半ばまで、日本は対外的には中華帝国の朝貢国でありながら、国内的には土着の神話体系に基づく祭司王を「天皇」としたことにもダブルスタンダードが見られる。

逆に言えばだからこそ、カミを先祖とする天皇家が「徳」を失うことを許さないのが、このダブルスタンダードを破綻させないための日本の統治原理となった。

天皇が天皇だから偉いのではなく、天皇だからこそ「徳」を保ち続けなければならない。私欲ではなく民の幸福を願い臣下に耳を傾け、徹底して無私で、自らの利のための罪に手を染めるなぞもっての他となり、もし天皇が「徳」を失っても、淘汰されるのでなく自らが身を引かなければならないことにもなった。

中国の三国時代の歴史に基づく「三国志演義」は儒教的な世界観、政治観が凝縮された物語だが、とりわけ日本で人気がある劉備玄徳は、日本で受容されたその無私で仁愛にあふれたイメージがかなり「天皇的」だとも指摘できるだろうし、だからこそ三国の君主のなかでとくに人気があるとも思われる。 
実際の三国時代で最大の覇権国は曹操の魏だったし、オリジナルの中国では三国それぞれの君主の勇敢さや知略、政治力や「徳」がかなり平等に受容・評価されている。 
もちろんそれでも、諸葛孔明や関羽など、道教で神格化された臣下を持った劉備は、その意味ではやはり別格だが。

まず日本の律令制が完成したときには、中華帝国の統治制度の模倣でありながら、肝心の天皇には、権力が集中するようには必ずしもなっていなかった。

最高権力者として機能するよりは、権力の直接行使から一定の距離を置くように制度が作られていたのだ。権力闘争からある意味切り離された天皇であれば、権力闘争の主役・主導者とはなりにくいので自らの個人的野心から権力を行使しにくくなるので、その「徳」つまり道徳的な権威を維持するには、むしろ都合がいい。

現に7世紀後半の、天智天皇の没後であれば、壬申の乱でその天智帝の弟が兄の子を滅ぼして天武天皇となったように、まだ天皇家の内部で直接に殺し合っていたのが、8世紀の長屋王の変では天皇家それ自体が皇位継承をめぐって手を血で汚したわけではなく、長屋王を滅ぼしたのはあくまで臣下の立場の藤原氏だ。

つまり天皇が直接に、権力行使に伴う「悪」に手を染めることを避けることができ、天皇が自分の野心や権力欲で行動することもなければ、「無私の、有徳の権威」としての天皇の地位が守られるわけだ。

その藤原氏の娘を皇后とした聖武天皇は、即位の直後には首都を内政、外交、宗教という三つの機能に分けて三つの都を設けるといった自分なりの国家像を具現する野心もあったようだが、その計画が疫病や天災で頓挫すると、大仏造営を発願し、権力の行使よりは国とその国民の安寧を祈った天皇のイメージが強い。

東大寺大仏殿 度重なる戦火を経て江戸時代の再建

言い換えれば、「象徴天皇制」はなにも戦後憲法で出て来た新しい概念ではない。

むしろ日本という国家の原型ができあがったときにはすでに天皇は多分に象徴的な、世俗権力よりは神仏と連なる道徳権威を担う君主になっていたし、歴代天皇で「親政」を敷いたと言える例が数えるほどしかいないのを見ても分かるように、天皇は権力の行使や権力をめぐる闘争の主体とはならないことでこそ「徳」を保って来られたのだとも言えよう。

平安時代の大半で政治を主導したのは藤原摂関家だし、平安末期の社会とその経済構造の転換期にその律令的な官僚制が機能不全になると、退位した元天皇(上皇・法皇)が政治を主導したのも、絶対的な「徳」を維持しなければならない天皇位にあっては政治権力を左右することが難しかったからだったとも考えられる。

戦国時代に政治的に無力だった朝廷の 後奈良天皇宸筆の般若心経
先ごろ皇太子が誕生日会見で言及した

後醍醐天皇の建武の親政を最後に、天皇が自ら政治的野心を持つことは事実上の禁忌となり、国民になにかを命ずる存在というよりは、「徳」を保ち続けることで実態権力を握った政治的支配層の倫理的権威付けとなると同時に、その倫理的な歯止めとしても機能し、ふだんは学問や風流に専心し教養を高めることで自らの「徳」を保ち範を示す存在であり続けたのが、幕末の孝明天皇までの役割だった。

紫衣事件で徳川幕府と対立して退位した後水尾上皇の修学院離宮
普段の御座所である壽月観 洗練はされているが簡素な造り
皇位を退いた後水尾上皇は風流・趣味の世界に没入したとも言えるが
この離宮は一般庶民にもしばしば開放されていたという
修学院離宮には水田も広がり 農家が耕作に当たっている
奥に見えるのは上御茶屋・浴龍池を形成する堰 石垣は緑で覆われている
上御茶屋・浴龍池 実は山の中腹に水を堰き止めて造営された人造湖
後水尾上皇が具現化した詩歌と風流・文化の理想郷
上御茶屋の御座所 窮邃亭 風景こそが最大の贅沢とはいえ極めて簡素な造り

孝明天皇に関しては、過去に流布した俗説では尊王攘夷運動はこの天皇が西洋人嫌いだったからと言われがちだが、史実はかなり異なる。孝明帝はむしろ西洋列強の進出で幕府の権力基盤が流動化したことを憂慮し、国民のために平和が続くよう幕府や諸大名を戒め、政治の安定を求め続けたという方が正確だろう。

後水尾天皇の中宮 徳川秀忠の娘・徳川和子建立の鐘楼 京都 六地蔵

最初は以前からの決まりごとだからと鎖国政策の維持を求めた孝明天皇だが、それは非現実的だと一橋慶喜に説得されると納得し、妹の和宮を14代将軍家茂の妻とする公武合体に同意し、慶喜が15代将軍とって徳川家を中心としつつ外様の有力大名も加えた新体制の成立を模索したことにも協力を惜しまなかった。

だがその孝明天皇が急死し、少年だった明治天皇を味方につけて(「傀儡にした」という方が精確かもしれない)、その先帝の信頼が篤かった徳川慶喜の江戸幕府を倒したのが明治維新だ。

その政府が明治21年に天皇の名で出したのが「教育勅語」である。

すでに述べた通り、そこに列挙された(「皇国」の子どもが守るべきとされた)徳目は、最後のひとつを除いて儒教の引き写しだ。江戸時代でも朱子学は武家の公式学問だったので、一見歴史伝統を引き継いでいるように見えるが、基本的な一点で決定的な逆転があることに気づく。

江戸幕府が朱子学を学ぶように定めたのはあくまで武家相手、つまり支配階層に対してだ。

儒教的な論理が最初に直接日本史に登場するのは「日本書紀」に書かれた聖徳太子(厩戸王)の「十七条憲法」だが、これも官吏の服務心得であって、国民に向けて発せられた国家理念ではない(この辺りは現代では誤解が多い)。

聖徳太子の古代から(ただし「十七条憲法」は「日本書紀」の創作とみなす説もある)江戸時代の朱子学まで、儒教の倫理はまず支配階層相手のもの、統治する側が自らを律し範を示すものであって、統治者の側から一般人に課されたものでは必ずしもない。

だいたい、その道徳に従えば敬われることになる側が「これが道徳だから従え」というのでは自己撞着の手前勝手に過ぎるし、江戸時代に寺子屋で論語の素読が一般庶民レベルで普及しても、それは「聖賢の教え」だから将軍家が筆頭になって(範を示して)尊重したのであって、上位にある者が自らに従えと言いたいことの自己正当化で儒教の徳目の遵守を命じた(押し付けた)わけではない。

だが教育勅語は、こういう当たり前の論理にはまったくなっていないのだ。

まず「朕」つまり天皇自身が、2600年近く日本という国が存続したのは天皇家(つまり自分の一族)が君臨したからであり、そこで儒教引き写しの徳目を列挙した上で、国民がそれを守ることで天皇家が今後も維持され栄えることに貢献せよ、と結んでいる。

何重にも奇妙な話だ。

天皇とその一族に「徳」があるとしたら、その「徳」はその行いから自然ににじみ出るものでなければ「徳」とは言い難いはずが、逆に自分たちが栄えるために国民は道徳を守れ、と命じていることになっているのが、教育勅語の転倒した論理だ。

これでは「実るほど 頭を垂れる 稲穂かな」とも喩えられたような日本的な「徳」からはほど遠い。あまりに厚かましくて「徳」どころではなく、「あさましい」し、あまりに「はしたない」。

明治政府が公式に信じていたことにしていた通り、天皇家が2600年間(記紀の記述を単純計算で加算すると、初期の天皇が極端に長寿なのでこうなる)日本の単独王朝として維持されているとしても、それは歴史上の然るべき、複雑にからみあった理由が積み重なっているからであって、天皇がいたから日本が2600年続いたというのではまるでカルト信仰だし、ましてこれだけ続いたのだから天皇の系譜には(自動的に?)徳があると言うのでは、話がアベコベの論理倒錯だ。

今の政界でこれもひどく揉めていて、これまた自民党の特に右派にとってはおもしろくないらしい「天皇の生前退位」問題にしても、明治維新の以前には天皇は退位できるのが当たり前だった。
ほとんどの場合、その理由は「徳がなくなった」、つまり自らが天皇の位にふさわしい「有徳の君主」であり続ける自信がなくなったから位を譲ったとされている。 
だいたい謙譲の美徳も確か教育勅語に入っていたはずだが、なのに命じている天皇が「自分には生まれからして絶対的で不滅な徳がある」とふんぞり返っているのなら、なんとも謙虚さに欠けた増長慢・傲慢でしかないだろう。

そもそも徳目を尊重することで自らを高められるから道徳、モラルというのであって、上位にあるものが「これを守れ」というのはただのルール、命令で、従ったところでその本人の「徳」とはなんの関係もない。

「徳」とはあくまで自らの内から発するものだからこそ他者からの尊敬に値するわけで、命令に従うだけならその本人の人格の良し悪しにはなんの関係もなく誰でもできること、本来「徳」とは無縁の話だ。

まただからこそ、儒教は本来なら封建的社会構造においてまず統治する側に課せられた倫理規範だったわけでもある。従うだけの統治される側が「徳」を持つことは、そもそも原理的に不要だった。

江戸時代には朱子学の倫理観から不貞は「不義密通」として処罰対象だったが、これは武家および一部の格式を与えられた豪商には適用された罪だったが、一般庶民は自由恋愛を楽しんでいた。 
夫に愛想を尽かした妻から切り出した離婚の成立も、考えようによっては現代よりも通り易かったとさえ言える。

近代の意識変革で、明治政府が個々の国民が「徳」を高めれば結果として社会全体がうまく行くはずだと考え、それを国民に提案したのならまだ分かる。

だが教育勅語では十二番目の徳目つまりは最重要の結論の位置づけで、天皇の国家をなぜか「義」として論理を歪め、そのためにいざというときは死ぬことを「徳」とみなしている。天皇が自分とその一族のために死ねというだけでもおよそ「有徳の君」とは言い難い厚かましさであり、「義」の概念を自分の一族が繁栄することと掏り替えているのは公私混同も甚だしい。「有徳の者」となることを命じられた国民の側にしても(そもそも命令するものではない)、普遍的な社会的正義(「義」)ではなく天皇自身の私的な一族のために、それも死んでしまうのでは、なんのインセンティヴもなければ本来の「義」つまり社会正義にも貢献できないわけで、ますます持ってえらく厚かましい公私混同、天皇家による国民の私物化でしかなく、「徳」のかけらもない。

歴史的な天皇制の(それ自体人間的には不可能に近い)原理は、天皇が完全に「私」を棄てて「公」の存在になることを要求するものだったと言えるが、明治の新体制のなかで教育勅語はこれを逆転させて、国とその民の「公」を天皇とその一族の「私」にスリ替える公私混同に基づいている。これでは、それが国民に道徳的な範を垂れる天皇の言うことか、という話にしかなるまい(もちろん一人称が「朕」つまり天皇であるのは、単に天皇がそう「言わされている」だけだろうが)。

まっとうな信仰や宗教といわゆるカルトをどう見分けるのかにはいろいろな価値基準があり得るが、まず不合理があからさまで論理的に破綻しているもの、そして教組なりなんなりの教団トップが自らを神と同一視して、その身勝手を神格化によって野放しが許されてしまう、崇拝される側の人間に一方的に都合が良いものを、危険なカルトとみなすことには、まず異論はないだろう。

だとしたら「朕」つまり天皇の一人称で国民に命じる形で書かれた教育勅語のロジックは、カルトそのものだ。

だいたい「自分のために死ね」というのを道徳として言って来る側こそえらく不道徳ではないか、としかならないわけだが、それ以外の(儒教模倣の)11の徳目にしても、個々に文句をつけるほどのものでもない一方で、およそ絶対的なものでもないのも分かり切ったことだ。

親孝行が道徳だからと言ってDV虐待親だったり反社会的な犯罪者だったりしたら「親に従え」もその限りではないし、夫婦和合でもそれが夫唱婦随を前提とするなら、夫の側が自制心(つまりは徳)を持っていて始めて成立するものだろうし、どちらも逆にうまく行っている家庭ではわざわざ言うほどのことでもない。

だいたい、いくら親孝行が道徳と言ったところで、親が子、特に父親が子らに親孝行を直接に要求するのは控えめに言ってもあまりに手前勝手ということになろうし、一方では子が親を、とりわけ男子が父親をなんらかの形で超えることは、少なくとも父権優位の社会では成長の過程で避けられないと同時に、それがなければ社会の進歩もない。

儒教の孔子のロジックに立ち返れば、孝養の義務は子にある一方で、より大きな社会的な大義や天命があれば、横暴な父が子に排除されることもあり得るはずだ。

ちなみに今では戦国武将といえば織田信長や豊臣秀吉が圧倒的な人気を持っているが、かつてもっとも尊敬され崇拝された戦国大名は軍神・武田信玄だ。 
その武田晴信(信玄は出家後の名)は父・信虎をクーデタで排除した「親不孝もの」でもある。さらにちなみに言えば、信虎が亡くなったのは信玄の死の翌年だ。 
親より先に死ぬのも、まあ親不孝そのものだろう。

教育勅語に列挙された徳目それ自体にしても、「日本人として当然」でもなければ、決してそんな絶対的なものでも、反論の余地がないものでもないのだ。

道徳的な項目というのは自ずから限界があるか、普遍的な倫理規範であってもそれを解釈する個々の人間の側の限界の壁が常に立ちはだかる。だから儒教ですら「易姓革命」のロジックを組み込んで道徳の絶対的な金科玉条化は避けているし、それでもおよそ普遍性のある思想とは言い難いのが率直なところだ。

たとえば仏教のようなより普遍的な思想体系は、より成熟した哲学体系にこそ裏打ちされている。歴史的に生き残っている思想や宗教の体系は、基本論理や基本的な倫理は絶対的かつ普遍的であるとしても、現実への援用は常に相対的で解釈の幅を持つと同時に、その人間による解釈はどれひとつ絶対的にならないように出来上がっているのだ。

ではそういったさじ加減(釈迦によれば中庸の道、中道)を見極める知恵はどこから得られるのかと言えば、その規範こそが倫理道徳の本質であり、近代科学以前には哲学と宗教が担って来た領域だ。だからこそ倫理・道徳的なメッセージは古代の神話以来、常に物語や説話にこそ託されて来たのでもあって、倫理道徳を説く説話構造の物語というのは、なにも子ども相手に限ったことでもない。

本当に子ども達に道徳を教え込みたい、現代の教育には道徳観が欠如していると危機感を抱くのなら、幼児には幼児に分かるレベルの物語(それこそ「因幡の白兎」だっていい)を教えた方がいいし、もっと言えば自分達が教わった道徳が現実の世界で有用であることを大人が範を示すことで理解させなければ、どんなに立派な「道徳ルール」を連ねようが、子どもだましにしかならない…というよりも、子どもこそ騙されないだろう。

いやこの森友学園をめぐるスキャンダルを見ていると、教育勅語だの五個条御誓文だの、あるいは「十七条憲法」よりも遥かに簡単に子どもが覚えられる日本的なモラルがあったことを思い出さずにはいられない。

「噓つきは泥棒のはじまり」

この極めて単純な道徳が、日本では危機に瀕しているどころか、完全に崩壊してしまっている。

12/17/2016

「北方領土」「日露平和条約」の同床異夢(にすらなっていない)


承前 (12/14/2016 北方領土は帰って来るのか 
        12/16/2016  山口県へのプーチン訪問と沖縄でのオスプレイ墜落の皮肉な偶然

いったいなにがなんだったのかよく分からないが、安倍さんがどんなに「個人的な信頼」を強みにしたつもりだろうが、経済援助つまりロシアに金をバラまくのと引き換えに北方領土が返って来ることはどうもないらしい、というのがこの度のプーチン露大統領訪日の顛末のように、なんとなくは思われている。

今年の5月から安倍が言い始め、9月には「手応えを感じ」たはずの「新しいアプローチ」とはなんだったのかの正体もよく分からないが、それでも中には、今度は「特別な制度」という言葉が飛び出したことに、安倍さんがなにか凄いことをやってのける実行力があるように期待した人もいるのかも知れない…のだが、その「特別な制度」がなんなのかも、なぜそれが必要なのかもよく分からないままでは、なんとなく「安倍さん凄い」と思う国民がいることに、安倍政権は一縷の期待をかけているのかも知れない。

二日目の東京での首脳会談のあとの日露共同記者会見でも、北海道新聞の質問に安倍はまともに答えず話をそらし、「特別な制度」がなんなのかはさっぱり分からなかったし、「旧島民の高齢化が進んでいる」ので「人道的な見地」を今回の交渉の大義名分に掲げているはずが、いつ頃までに実現できるのかの目処どころか、「私の任期中にぜひ」という程度の決意や目標くらいあっていいはずが、ただ逃げて誤摩化しただけだった。

夜のTVニュースにわざわざ生出演しても「前例がないから説明が難しい」と言い逃れをしただけだ。もちろんそんな「前例」があろうはずもない。そもそもそんな「制度」自体が、あり得ない話だからだ。

すでに前夜の山口県長門市での首脳会談後に、安倍が「特別な制度」を自慢げに発表したのとほぼ同時に、ロシア側では「ロシアの法律に基づく」と大統領補佐官が発表している。即座に両者のズレが鮮明化していたにも関わらず、二日目・東京での首脳会談でも、この認識の違いの擦り合わせは行われなかったようだ。

いやそもそも日本の世論では、この北方四島での経済活動や旧島民の訪問について、なにやらロシア側の問題で四島への日本人の立ち入りを禁じているから、「特別な制度」や交流拡大の交渉が必要なのだと思い込まれているが、これは大きな誤解だ。

ソ連時代ならともかく、今でも旧島民を含む日本人が北方四島に行くことも、日本企業が経済活動を行うことも、禁じているのは日本政府だ。ただ罰則は特にないし、罰することが出来る法的な根拠がない。国への忠誠、愛国心、政府に逆うなというような曖昧な理由だけだ。

日本政府が一方的な理屈で、ロシアの国内法に基づき日本国籍者がロシアのビザを受けて北方四島に行くことは、理屈の上ではロシアの施政権を認めることになるから行ってはいけない、としているだけなのだ。

確かにパスポートには、それが正式には他国政府に自国民の法的な保護を求める文書であることが明記されているから、日本人がその日本パスポートでビザの発給を受け北方四島に行けば、ロシアの法的管轄権を認めてその保護を求める格好になる。

もっとも、領土紛争がある土地について、公職にある者ならまだしも、このような理由で自国民の渡航・入域を認めない、という例を、他に聞いたことがない。

国境線の変更で元々自国だった土地が他国のものになったり元に戻ったり、というのは世界史上どこにでもある話だが、たとえば普仏戦争でドイツ領になったアルザス=ロレーヌ地方のフランス人は、第一次大戦まではドイツの支配下でそこに住み続けたし、ヴェルサイユ講和条約でこの二地方が再びフランス領になれば、今度はそこでの生活を保護する法はフランス国内法、警察権を持ち住民を保護し治安を維持する役割を担うのはフランスの官憲となった。「ドイツ領と認めないからフランス人はそこに住んではいけない」などとフランス政府は言わなかったし、そこにフランス人がいなくなればフランス政府は戦勝によりアルザスとロレーヌの返還をドイツに求める根拠を失っていただろう。

ナチス・ドイツの時代になりヒトラーがヨーロッパ各地に領土を拡張したのも、第二次大戦の勃発以前のその正当化のロジックは、「ドイツ人が住み続けているからドイツの土地だ」だった。

北方領土には1948年以降日本人はまったくいない。だから旧島民がより自由に行けるようにして、企業の経済活動で足場をつくる、そのための「特別な制度」という安倍のロジックは一見もっともらしく聴こえるが、これは二つの点で荒唐無稽だ。

まず第一に、当たり前の感情論として、将来的に日本領にするためにまず旧島民の日本人と今の島民のロシア人の交流を深め、旧島民がより自由に渡航できるようにして、日本企業の経済活動をやれば、ロシア人も日本の支配を受け入れてくれるはずだ、なんてことがあろうはずもない。

いったいどこの国に、「これからお宅の領土を乗っ取ります」とやってくる外国人や外国企業を歓迎して理解し、「だから仲良くしましょう」と真に受けて交流を深める国民なんてものがいるのだろうか?

「いずれ日本領にするために日本から来ました」などと言われては、ロシア人住民が旧島民ですら受け入れるわけもなく、一部にある旧島民への同情論や、ロシア人全般にある親日本感情なぞ一瞬にして消し飛ぶし、日本企業がそんな前提で進出すれば激しいボイコットが起こって当然だ。

これは日本外交がしばしば失敗する大きな原因で、安倍政権の場合は特に顕著なのだが、他国民、他国政府のいわば他人様の立場からは物事がどう見えるか、想像力どころか当然の論理的帰結すら考えられない日本側の独りよがりが、外交で通用するわけがない。

第二に、安倍が「前例のない」というのも当たり前で、そんな「特別な制度」は法の支配の基本論理にまったく矛盾し、そもそもあり得ないのだ。

安倍は主権、施政権といった国家の権利を為政者が気ままに権力を行使することだと勘違いしているようだが、主権、施政権というのはその土地の治安を守り住民の生命財産と生活を保護する責任を意味する。安倍のいう「日本の法的な立場」がいかなるものだろうが、その土地での法的な保護が担保されないところで生活をしようとするのは狂気の沙汰だし、ロシアの法に基づく保護のないところでの経済活動とは、つまりは日本企業がロシア人住民による略奪に遭おうとも文句が言えない、ということにすらなる。

安倍が時期的な目処を言わなかったのも当然だ。どう逆立ちしようがそんな「特別な制度」なぞあり得ない、「制度」というのならその制度を施行し運用に責任を持つのは誰なのか、それが保証されない「制度」は「制度」ではない。

「特別な制度」をどちらが言い出したのか不明だが、ロシアが提案したのならそれはあくまでロシア政府が運用の責任を負う経済特区とかそういうものでしかあり得ないし、ロシアが最大限妥協しても共同統治で、これとて双方が主権を認め合う、つまり日本もロシアの主権を一定部分で認める、ということにしかならない。

首脳のみの単独会談で安倍が言い出したことならば、プーチンは「なにを馬鹿なことを言っているのだ」と呆れつつ、安倍の言うことも考えてみるとその場で話を合わせただけだろう。そもそも安倍があり得ないことを言っているわけで理解する義理すらないのだし、今回の会談については、表面的だけでも話がまとまったように見せかけることがプーチンの戦略の一つでもあり、だから「特別な制度」とはロシアの法制下での新たな制度的枠組みの話だと誤解した風を装い続けつつ、誤解を解こうとはしなかっただけだろう。

それにしても今回の日露首脳会談や北方領土の問題を巡っては、こうした基本的な前提も含めて、あまりにも日本側の(政府が分かっていないはずはなく、分かっていながら世論操作で国民を騙している)誤解が多い。

今回の首脳間交渉の結果を「ロシアの食い逃げ」と酷評するのも誤解で、これは5月以降他ならぬ安倍政権自身がさんざんそのような誤解を振りまいて来たのに、日本での首脳会談が終わったとたんに「誤解だ」と安倍自身が言い出している。

日本が提案し、今後は約束するのは決して経済援助ではなく、安倍政権が発展途上国相手に繰り返して来たバラ撒き懐柔外交とは違う。あくまで相互の経済協力であり、ロシアは日本の企業などの経済活動にロシア領内での便宜をはかり、日本は日本企業によるロシア東部(シベリアやサハリンつまり旧樺太)への投資や進出を後押しする、というのが基本だ。

「協力」つまり日本企業にとってのビジネス・チャンスを日露双方で整備し、便宜を図ることであり、「食い逃げ」批判は当たらないし、儲けのチャンスがなければ日本企業は進出しないし、ロシア側からみればことシベリアなどロシア東部には、豊富な地下資源など、日本企業にとっての十分なメリットがあるはずだ。

現に安倍政権が提案している具体的な経済協力プロジェクトには、日本企業がすでに独自に立案して進めている事業も多数含まれている。 
領土問題を動かしたいからといってこんな見え透いた欺瞞の恩着せがましさは、相手国の不信を買いかねないのだが。

ソ連崩壊後の混乱期なら経済援助もロシアは確かに必要としていたが、時代が違う。

ウクライナ情勢やクリミア併合の経済制裁は大きなダメージではあっても、大統領がわざわざ援助をせびるか懇願しに来日するほど、今のロシアは落ちぶれていない。

いや今さら安倍が「誤解だ」と言ったところで、同じ誤解に基づいていたのが、安倍が今年の5月から「新しいアプローチ」で北方領土交渉を始めたきっかけ、最初の動機だったし、今に至るまで安倍自身が同じ誤解を引きずって、ロシア側の狙いを完全に読み違えているではないか。

プーチンが狙っているのは、現在の経済的な苦境の最大の、というかロシアからみればほとんど唯一の原因であるG7を中心とした対ロシア経済制裁を崩壊させるか、少なくとも日本を籠絡して対日本に関してはその制裁を事実上無効化することだ。

それが分かっているから日本でも外務省は他のG7諸国、とくにアメリカとの関係を理由に当初から安倍のこの計画に納得しておらず、だから安倍はこと夏の参院選以降は外務省を事実上蚊帳の外におき、世耕経済産業大臣にロシア担当大臣を兼任させ、経産省ペースでこの話を進めて来た。

その結果にっちもさっちも行かなくなったのも、世耕氏にも安倍に近い経産省官僚たちにも(たとえば経産省から出向している今井首席秘書官)、そして安倍首相自身にも、そもそも現在の世界情勢だけでなく、国際法や国際常識どころか、国家とその法の基本的役割についてさえ、基礎的な理解が欠如していたことが原因だと断じざるを得ない。

安倍首相も世耕大臣も経産省も、そもそもプーチンがこの話に乗って来た動機をまったく誤解して「北方領土を取り返して人気回復できる」と思い込んでこの計画に前のめりの極致で迷走を続け、プーチンは安倍の勘違いを百も承知で利用して来たのが、5月以降の日露交渉の全体構図だ。

ではそのプーチンの狙いはなんだったのか?

まずウクライナの内戦に肩入れして以降、G7が主導する欧米、つまりEU諸国とアメリカ、いわばロシアから見れば旧西側諸国との対立関係が深まっている国際的な孤立の打破だ。

今年のG7議長国である日本が自ら擦り寄って来たのだから、こんなにおいしい話はない。

いや「国際的な孤立」というのも、あまり正確ではない。

プーチンのロシアは一方で、かつての先進国であるアメリカやヨーロッパ以外の国々との関係は必ずしも悪くない。たとえば歴史的な怨恨もあったトルコとすら、今もシリア内戦ではアサド政権を支持するロシアに対しトルコがトルコ系住民の反政府勢力を支援していたり、昨年には撃墜事件で一時は対決しそうになったことすらうまく水に流して、連携を深めている。ソ連時代には戦争にまでなった中国との領土紛争も解決した。

またロシア国内では今も後進地域である東部、シベリアやサハリンは、一方で地下資源も豊富で有望なフロンティアでもあり、プーチン政権はこの地域の開発を大きな政策方針、成長戦略としている。そこに日本と中国の資本や技術が導入できることは大きなメリットだ。

だいたい今さらヨーロッパやアメリカとの経済関係にプーチンはさほど期待していないし、はっきり敵視しているのはアメリカと、EUの盟主となったドイツだ。

ちなみにEUのなかでの対ロ強硬派は先頃離脱が決まったイギリスなどで、ドイツのメルケル首相は当初から、人道主義と民主主義の基本理念で妥協はしないものの、話し合いと説得を重視して来た。 
だがそれでも、女だから気に入らないとでも言うのか、ドイツのEU内での覇権を警戒しているのか、プーチンのメルケルへの敵意は相当なものだ。



これにはロシア国民の歴史的な怨恨も無関係ではない。ドイツはなんといっても、第二次大戦でソ連(ロシア)を侵略し、2000万人ものロシア人を殺した国だし(そしてプーチンはその最大の被害を出したレニングラードの出身だ)、東西の和解と相互の尊重による世界平和を信念として冷戦を終わらせた最後のソ連書記長、ミハイル・ゴルバチョフですら、冷戦後にロシアはアメリカに一方的に敵視・差別され、裏切られ続けて来たと考えている(これは必ずしも偏向した、誤った歴史観ではない)。

今のロシアは、ヨーロッパがあまり好きではないし、アメリカには敵視されていると考えているし、プーチン政権が中国との連携を強めるなどアジアに重点を置きつつあることには、ロシアという国と民族自体がヨーロッパであると同時にアジアでもあり続けて来た歴史的なアイデンティティが深く関わっている。

帝政ロシアはこと実はドイツ人だったエカテリーナ女帝以降、目に見えてヨーロッパ化し、そのロマノフ朝を倒した旧ソ連もヨーロッパ起源のイデオロギーに基づく国家で、結局はロシア庶民を苦しめて崩壊したのが、18世紀以降のロシアの歴史だ。


アレクサンドル・ソクーロフ監督『エルミタージュ幻想』2002年

その過程では先述の独ソ戦の惨禍だけでなく、19世紀初頭のナポレオンの侵略もあった。帝政ロシアはナポレオンを撃退したことを誇りとしつつ、風俗や宮殿建築や文化ではそのナポレオンのフランスを模倣したのだから矛盾した話だが、ロシア革命の時代となると、皇帝一族や多くの貴族はフランス語を日常語としていて、ロシア語ができなかった者すら少なくなかったと言われる。

プーチンの標榜する新しいロシア・ナショナリズムは、そうしたヨーロッパ化した過去の支配層・エリート層に一派庶民層が培って来た歴史的な反発も背景に、アジア的なものにシフトする傾向を内包しているし、それはシベリア開発や中国、そして将来的には日本との連携を志向するものでもある。

こうした直接的な実利・国益の一方で、もうひとつプーチンが対日交渉ではっきり目標としている理念がある。これは本人もはっきり、正直に繰り返している通りだが、戦後71年間棚上げになったままの日露平和条約の締結だ。

ここがまた、日露間のボタンの掛け違いというか、安倍側の大きな誤解になっている。

北方領土にこだわる日本側からみると、1956年の日ソ共同宣言も「平和条約締結後に歯舞・色丹が返還される約束」という理解に偏りすぎて、平和条約イコール領土返還だと思い込みがちだが、ロシアが、特にプーチンが求めているのは、平和条約そのものなのだ。

平和条約はぜひとも結びたい、だがそれには色丹と歯舞の返還の約束が伴う。このジレンマをどう切り抜けるのかがプーチンの悩みどころで、そこを考え抜いて来ている点では、平和条約を領土返還の手段くらいにしか考えていない日本はとてもではないが太刀打ちができないのも当然だ。

また平和条約の締結こそが日露交渉の最大のテーマであることに気づいていない時点で、日本側が常にちぐはぐに陥り話が噛み合ない失敗を繰り返して来て、それがロシアの不信を買い続けているのも当然ではある。

プーチンが言っている「信頼関係が必要」とは、そういうことだ。

そんなことすら日本側にはまったく理解されていないこととなると、さすがのプーチンでもどこまで理解できているのかは怪しい。なぜ日本側がこんな当たり前のことすら思い当たらず、人口3000人程度の小さな、こういっては悪いが「僻地」の島が最優先されているのか、客観的には相当に理解不能な感情論へのこだわりでもある。

プーチンの言うように経済協力が信頼関係において不可欠だと考えるのは、別に「金よこせ」ではない。

日露の経済関係が密接になればなるほど、日本としてもロシアとの友好関係が日本企業が儲け続けるためには不可欠になり、結果たとえば安全保障リスクも下がる、という冷静な現実主義に基づく考えであり、平和条約もまたそのためにもぜひ締結したいのだ。

平和条約の締結こそが重要なのにはもう一点、防衛政策の問題があるし、今回の共同記者会見でロシア側の記者の質問に答える形で、プーチンは安倍の目の前で臆面もなくそれを滔々と述べた。

その発言の過激さの意味に安倍が気づかず、反論すらしなかったのは日本側の利害を考えると相当に不可解だ。

その日本からみればあまりにもの過激さに、テレビ中継の日本語同時通訳も大混乱に陥っていたが、だからといって要所要所で出て来た単語だけでも、それでも安倍がさっぱり理解できなかったとしたら、この人の外交センスの欠如は呆れるばかりだ。

プーチンは日露の平和条約締結問題と領土問題の歴史を説明するなかで、はっきりとアメリカを名指しで非難した上で、今後の平和条約締結に向けての信頼関係の醸成で最大の障害になるのが日米関係だ、とまで明言したのだ。

日本の日米安保条約に基づく義務は理解し尊重するとは言いつつも、その枠内でどれだけロシアの安全保障に日本が協力する気があるのかが問われる、とも問題提起をしている。

すでに初日の晩の首脳会談で、ウクライナ問題と経済制裁以降中断している日露のいわゆる2プラス2会議、つまり双方の防衛担当相と外務大臣が定期的に会合する安全保障連絡会議の復活を提案したことからも、今回のプーチンの最大の狙いが日米関係にくさびを打ち込むことであるのははっきりしていた。

日本のメディアの分析がいずれもここを見落としているのもおかしな話だが、共同会見でプーチンはこのポイントを激しくだめ押ししている。

北方領土問題の歴史についても、プーチンのアメリカ批判は激烈だった。日ソ共同宣言とそれに基づく平和条約締結交渉を、冷戦下にアメリカ政府が妨害したと明言したのだ(言い換えれば、そのアメリカの言いなりになる過去の日本政府は信頼されなかった、という意味でもある)。平和条約締結で色丹歯舞のみの返還で納得するのなら、アメリカは永久に沖縄を返還しない、と鳩山一郎政権に裏で圧力をかけたいわゆる「ダレスの恫喝」にも言及した。

また実際、56年の共同宣言から本格化するはずだった日ソ平和条約の構想は、最終的に1960年の日米安保条約の改訂で完全に頓挫しているし、領土問題でも四島一括を日本が国是としたのはこの時からで、だから共同宣言でも色丹と歯舞の返還にしか言及がないのだ。 
この辺りでも現在の日本国内の理解は史実に反しているし、政府が国民を騙してきたプロパガンダだったという誹りは逃れ得ない。

その上で、アメリカの敵意とその軍事覇権にロシアが防衛上は対抗せざるを得ない以上、択捉島・国後島はロシア艦隊の西太平洋への出口を確保するために手放せないこと、色丹島も日米安保に基づきそこに米軍基地が作られるようなことが絶対にないと日本が約束しない限りは返還は難しいとも明言した。

日米安保があるなかで日本はどうロシアが信頼できる国になるつもりなのか、と記者団とテレビ生中継の前で安倍に迫ったに等しい。

こうした論点は95分あったという首脳どうしの単独会談(通訳のみ同席)で出て来たはずだし、そもそもプーチンから見れば当たり前の前提で、安倍がなにも考慮していなかったとしたらそれだけでも「信頼関係」とはほど遠いことになる。

ペルーのリマでの前回の日露首脳会談や、訪日直前に読売新聞と日本テレビの合同インタビューでの発言、さらに同内容のビデオ・メッセージをロシア大統領府のウェブサイトに掲載するなど、ほとんどけんもほろろなまでに極めて厳しく安倍を恫喝するに等しかった態度からすると、プーチンは大遅刻こそしたとはいえいざ日本に来たとたんに、とても愛想がよくなった。日本や長門市へのリップサービスを繰り返し、安倍にも親しみを込めた態度だったのは、すべてこうした思惑から来るプーチンの演出だったと考えるべきだろう。

記者団の前で、日露両国のテレビで生中継され、当然アメリカ国務省やEU諸国の外交担当部局でもウォッチしている共同会見で、以上を滔々と述べたことからも、プーチンの今回の訪日の目的は、日米同盟にくさびを打ち込み、はっきりとアメリカを牽制することだった。

そこに日本がどれだけ乗って来るかまでは、さすがのプーチンにも読めていないだろう。その意味ではこれは大きな賭けの大芝居ではあった。

とはいえ安倍が理解して話に乗って来るならしめたものだし、これまで十数回も日露首脳会談を重ねて来た経験則からして、安倍が自分に向かって真っ向から反論なぞしない(そんな度胸がない)ことまでは読んでいたに違いないし、共同会見でも反論も制止もなく安倍が愛想笑いに終始するしかなかった(というか頭が真っ白になっている、という表情にもなっていた)だけでも、アメリカが日本に不信を抱くことは確実だ。恐らくはそこまで、プーチンは計算している。

そんなしたたかなプーチン相手に、北方領土の旧島民の手紙を読ませたり、会見でもその旧島民の複雑な思いを安易な感情論に言い換えてご都合主義に利用した安倍が、いかに見当違いの勘違いで場違いなことをやっていたか、結果として他ならぬその旧島民を自らの外交手腕の欠如、稚拙さ、自己保身で裏切ったことの無能の罪、身勝手の罪は大きい。

だいたい旧島民の故郷への思いなら、日本が北方四島の主権に形式的にこだわるあまり、渡航を禁じたり難しくして来たのは日本政府なのだ。単に墓参がしたい、故郷の島に泊まりたいだけならロシアがビザ発効要件を緩和して旧島民に優先的な配慮をすればいいだけだし、日本がアメリカの意向なぞ二の次に、平和条約を早く締結しておけばよかった。「ダレスの恫喝」のようなことがあっても、それを国際社会相手に公表してアメリカを非難していれば、解決ないし無効化できた。

択捉・国後はポツダム宣言やサンフランシスコ講和条約で日本が領有を放棄した南千島(ロシア語では南クリル)列島の一部というのもプーチンが共同会見で明言したことだが、ソ連(ロシア)の公的な認識(ゆえに返還の対象ではなく、領土問題にならない)であるだけでなく、そもそも56年の共同宣言以前には日本側でもこの認識を共有していて、だから二島の返還しか求めていなかったのだ。

それが今では四島返還に凝り固まっているのは、「ダレスの恫喝」などを受けた対米配慮というか対米従属の方針転換で、それがあたかも日本の国是のように国民も騙して来た結果、収拾がつかなくなっているのが現状ではある。客観的にはアメリカの妨害が日露友好を阻んでいる(つまりは日本政府の二枚舌外交と対米追従が諸悪の根源)と言う指摘には、反論が難しい。

それにしても安倍はどうするつもりなのだろう?

今回の一連の事態で、アメリカは明らかに不信感を抱いているはずだ。今月末には、安倍はこんどはパールハーバーを訪問し、オバマとの日米首脳会談を控えている。

ここでも曖昧な愛想笑いで二枚舌を誤摩化し、報道に圧力をかけて国内向けに体面を取り繕うだけなのだろうか?

いや安倍は、オバマはどうせもう辞める、これからはトランプのアメリカなのだから、とタカをくくっているようにも見える。夜のニュースに生出演した際に対米関係を問われてはぐらかしたときも妙に余裕があり、そうしたニュアンスが垣間見えた。

だがトランプが選挙戦中にプーチンを偉大な指導者と持ち上げた言葉尻だけをとって、トランプとプーチンで米ロ蜜月が始まるかのように思い込んでいる安倍も日本のメディアも、あまりに考えが甘い。

トランプがプーチンを持ち上げたのは、オバマやクリントン夫妻をこき下ろす比較対象として都合が良かったからに過ぎない。

しかもトランプは人道主義や国際平和よりも自国の利益を最優先しロシアの強さを誇示するプーチンのやり方を褒めて「自分も同じやり方でアメリカ・ファーストを守る」と言ったのであって、アメリカもロシアも自国第一主義を掲げる指導者になるのなら、むしろこの両国が今後対立を深める可能性も十分にある。

プーチンは今回の訪日でターゲット、いわば「戦う相手」を日本ではなくアメリカに設定していて、だから日本との領土問題をあいまいに済ませ安倍への配慮まで見せたのも、オバマのアメリカ以上にトランプのアメリカを見据えた戦略だと考えておいた方が、「希望外交」の大きな勘違いでのちのちひどく後悔することがなくて済むだけ賢明だ。

だいたい、11月のペルーでのAPEC会合の際の首脳会談以降、プーチンが一時極めて厳しい態度を見せていたのも、別にトランプが次期米大統領に決まって米ロ関係の好転が見込まれるからなどではない。安倍がリマでけんもほろろの扱いを受けて記者団相手に半ばパニック状態で弱音を吐く状況にまで陥った原因は、その直前に安倍がNYに寄ってトランプに媚を売っていたから、その姑息な二枚舌の土下座媚び売り外交を「信頼に値しない」とやられただけである。

安倍の自称「地球儀を俯瞰する外交」では、トランプのアメリカになればプーチンとトランプが蜜月になり、そこに日本が取り入ることで「対中包囲網」ができるとでも考えているのかもしれない。だがかくも地球儀を俯瞰できていない、世界情勢がまったく理解できていない勘違いもない。

ロシアは既に述べた通り、そもそもアメリカをまったく信用していないし、歴史的にも信用できない。中国との関係も重視しているプーチンが狙っているのは、西太平洋・東アジアでのアメリカの覇権を低下させることで、その点では中国とも利害が一致している。

シリアやウクライナの情勢からすれば、日本がロシアべったりになることは国としての信義に反するのも確かだし、ことシリア問題でプーチンに擦り寄れば、日本にとって極めて重要な中近東・アラブ諸国の信頼を決定的に失うことにもつながる(ちなみに今回の首脳会談では、ロシア側は「シリアとウクライナについて両国首脳の見解が一致した」との主旨を一方的に報道させているが、日本側はこれもまったく否定できていない)。

だからプーチンの誘惑においそれと乗ることにはまったく賛成はできないが、しかし対アメリカについては、プーチンが提起して来たことを日本は真剣に考えた方がいい。日本の対米従属・対米追従外交の「戦後レジーム」は、もはや成立しないのだ。

そもそも白人至上主義の狂信者が重要な支持基盤で、国防長官にも白人至上主義者の「狂犬」が就任するようなトランプのアメリカに、安全保障や外交で依存するなどというのは、狂気の沙汰だ。まさか日本がそんなことすら理解できていないと知ったら、さすがのプーチンも呆れ、自分の読み違いに困惑するかも知れない。