このブログの読者の中には、なぜこの筆者が秋葉原の通り魔犯を擁護するのかと訝しがる人もいるかも知れない。念のため言っておくと擁護などまったくしていないのでそれは勘違い。ただ特異で異常な、我々「罪もない一般市民」と無縁な狂人だと決めつけたところで、それは現実から目を逸らす逃避でしかないというだけのことだ。
殺人が許されないことは言うまでもないわけで、「罪のない一般の通行人を」とコメンテーターなどがことあるごとに言うのだが、そこでハタと立ち止まらざるを得ない。じゃあ「罪がある」のなら殺していいのか? 実際、死刑制度存続派の人は「死をもって罪を償う」とか微妙な言い換えで誤摩化すのだが、江戸時代に詰め腹を切るのならともかく(あれだって実質上は刑罰の形式に過ぎないわけだが)、死刑というのはあくまで、せいぜいが「償わせる」のであって、平たく言えば「罪があるから殺す」ということにしかならない。
で、「罪がある」と司法なり社会が認定すれば殺していいのかと言えば、その資格を我々の社会やその司法制度に誰が与えたのかということになる。少なくともそんな権限を司法に与える資格が主権者の一員である僕自身にあるのかと問われれば、「ありません」と答えるしかない。だってそこまで自分の「正義」には自信が持てませんから。言論や表現での批判ならいくらでもやるが、殺すというのは、そこまではねぇ。「どんな理由があろうが殺人は許されない」と言うことを貫かない限り、彼らは彼らなりの正義でやっているこの手のラスコーリニコフ的犯罪を断罪する倫理的な根拠を、我々は持ち得ない。始末の悪いことにある程度までは彼らは正しい、「世間が悪い」「社会が悪い」と言わざるを得ない現状があるのは,確かにその通りなのだし。
司法にしたってどれだけ当てになるのか? 最高裁判所が今日出した判決だとか、これを「正義」と言われて納得する人間も少ないだろう。確かに報道やドキュメンタリーで「期待権」とか言う概念が認められてしまえば我々などは困ってしまうが、そうは言っても東京地裁も東京高裁も政治家の発言に過剰に反応したNHKが編集の独立性を自ら放棄して番組を改編したという事実認定を行った上で、その特殊な状況においては原告の期待権を認めるという論理で筋を通したわけであって、その事実認定を議論することすら意図的にすっぽかした横尾和子判事に、司法の最高機関の判事を務める資格があるかといえば,知的にも倫理的にもこりゃ職務放棄に近い。
しかも取材者側はこの人民裁判の趣旨をちゃんと伝えるという約束で取材が出来たのに、肝心の判決部分を政治家の圧力を感じて(という事実認定は東京地裁も高裁も行っているのに、なぜかそこに一切触れずに判決を覆した最高裁)カットしたNHKは、我々の職業的論理から言ってもおかしい。それに賛成できないのなら「賛成できない」と自分で言えばいいし、もっと高度な映画的表現でいえば、おかしなことを言ってる人間はそのおかしなことを言ってるままにちゃんと見せればいい。
「放送の公平」なら反対意見を並行して流すというおなじみの慣習だってあり、ちなみに今回の判決でも「(4)意見が対立する問題はできるだけ多くの角度から論点を明らかにする-という条件が放送法で規定されている」と指摘してますよねぇ。ならなぜ「天皇有罪」判決シーンをカットしたんでしょうかNHKは? それこそ放送法の精神に違反してるじゃん。なぜその事実関係の議論が、判決要旨でまったく触れられていないんでしょうか?
ちなみに従軍慰安婦問題で天皇個人に法的な責任を求めるのは、いささか無理があると個人的には思いますから「『戦争と女性への暴力』日本ネットワーク」に必ずしも賛成はしませんし、「天皇有罪」で喜ぶ意味もよく分からない気はするが(天皇個人でなく「国家」をちゃんと断罪した上で、具体的な責任は立案・実行した軍人・官僚に問うべきでしょう)、賛成にせよ反対にせよそれを報道することを避けてどうやって「自律した編集に基づく番組制作を進め、報道機関としての責務を果たして」(NHK発表のコメント)行けるのかは大いに疑問だ。まあこういう厚顔無恥なコメントを出す時点で、また当分受信料は払ってやんないからね。
しかしどうでもいいけど、4月のこのブログでとりあげた有村治子議員は、放送や報道などにおいて「期待権」そのものを法的な権利として認めないと判断したこの判決について、どういうご感想をお持ちなんでしょうね? いやだってその「期待権」を前提とした国会質問までなさったんですから。
このブログでは秋葉原の通り魔犯をラスコーリニコフ的な犯罪者と捉えて理解しようとして来ているが、ラスコーリニコフ的な人間がすべて殺人を犯すわけではもちろんないし、それもこういう極端かつ稚拙な犯罪に走った理由は、一般論的な意味での「ラスコーリニコフ・コンプレックス」だけでは説明できないだろう。
やはり現代の日本社会のなかでこそ彼の心理が大量殺人の殺意として醸成されたことは無視できない。そこを分析するには心理的な問題と倫理的な問題、内的・個人的な要因と外的な状況とりあえず大きく分けられるだろう。もっともこの両者は究極的には一人の人格のなかで一致しているからこういうことが起こるわけだし、それをまとめて捉えなければ本当は意味がないわけで、分けるのは言葉・文章というメディアを使う上での方便に過ぎず、僕の本業である映画であれば渾然一体と密接に結びついたその全体を見せて表現することもできるはずだが、ここはブログなので論理的なかっこうを整えるためにもとりあえず分けておく。
んでもってとりあえず外的な状況と倫理的な問題の方を先に議論するならば、早い話が司法までがこのようにデタラメで子供にも詐術と分かるような表層の論理のフリを振り回し、その程度のレベルでしかない司法が他人の死を命ずる権限をどうしたことか持ってしまってる現状があるときに、つまり「世間が悪い」「社会が悪い」のはやはり確かに現実としてそうであってそれでもその世間・社会による殺人が合法化され世間の支持も受けている世の中で、彼らに殺人を決して許されない罪であると納得させるのにはいささか無理がある。
もっと始末が悪いのが、NHKが「圧力」と感じた政治家たちで、その部類には「オタクのアイドル」を自任する麻生太郎なんかも下手すれば含まれかねないのだが、民間人を殺傷しておいて数の問題だけで「南京大虐殺はでっちあげだ」と言い張り、数は兎も角民間人が殺傷されたことは事実としてあることを指摘されれば「戦争なんだからそういうことはある」。従軍慰安婦にしても強制の度合いがどれだけだったのかは議論の余地がある(って、名目上はどうであれ実体として強制であったと思わないのは、よほど神経がどうかしているか世間知らずのどちらか)にせよ、「聖戦」を戦ってるはずの兵隊さんがヒマがあれば犯すために女性を従軍させていたのだ。
「戦争なんだからそういうことはある」つったって、それでも「正義の戦争」で「アジアを解放する」云々と言ったところで、そのアジアの女性を兵隊専用の売春婦にしておいて、「アジアを解放する」と言えるその神経の方がおかしい。「罪もない一般市民」と言ったって、その我々も含む一般市民がこうした倫理的な倒錯を容認していることもまた現実なのだし、そんな狂った倫理観を振り回す世間で育った彼らに、まっとうな倫理観を持てという方が無理がある。
別に秋葉原の通り魔犯がそういうことまで考えているというのではないし、たぶんまったく考えてもいないだろう。ただここまで最低限の倫理観すら倒錯しているなかで、彼のような人間が育ってしまうことを避けられると思う方が無理がある。
日本社会の全体が戦争責任の問題から逃げ続け、今や忘れてしまってさえいることは、一例に過ぎない。政治の世界でも官僚でも…あるいは彼らの成長過程であれば学校に行けば「弱いものをいじめるのはいけないことです」という当たり前のことすら教えられない教師がいて,逆に「いじめられる側にも原因がある」とか言って、学級会をいじめられっ子の吊るし上げ大会にする教師がうじゃうじゃいて、その教師が日教組の上層部に盲従しているだけで「『戦争と女性への暴力』日本ネットワーク」に全面賛同して生徒にそれを教えたりするのだから。
言ってることとやってることが一致していないで子供に信用されようとすること自体に無理がある。我々は見事なまでに倫理観が吹っ飛んだ精神構造のなかで子供を育てているのだ。
この青年は「ゆとり教育」世代になるわけだが、「ゆとり教育」の理念は間違ってはいなかったと思うが現実には完全に失敗している。失敗して当たり前なのだ−−「ゆとり教育」は教えている側により高度な観察力と指導力、そして子供のことを考えるだけの倫理観がなければ実現しようがない。文部官僚の大半にも、教師の大半にも、そんな高度なこと要求しようがないぢゃん。
だから「ゆとり教育」は手抜きを誤摩化す偽善にしかならなかったし、教師の手抜きが放置されたことも、偽善に過ぎないことも、子供には、感受性がそれなりにあって頭がよければよいほど、直感的に伝わる。そしてそういう子供は大人も世間もまったく信用しないように育つしかない。
ここでちらっとこのブログのプロフィールを見て頂ければお分かりのように、僕自身は帰国子女だ。少なくとも小学校の大半を過ごした某国の小学校では、こういうふうに先生がおかしい、大人が信用できない、偽善者だと思ったときに、それを最低限にちゃんと言語化できるだけの教育は確かに受けていた。まあそんな調子だから日本に戻って先生がおかしいと思えば子供なりに理論武装して、実際に論破さえできちゃったりしたのだが、逆に言えば小学校高学年くらいに倫理上の筋論・正論であっけなく論破されるような教師が、「長いものには巻かれろ」を丸出しで子供に接している。
そんな偽善的な現実のなかでこういう「怪物」が育ってしまうことは、そりゃ事件が起こってみれば驚きはするが、よく考えてみればこうなることを予測できなかった方が間が抜けている。
より重要な心理的・個人的な問題については後ほど…。今日の題名は本当はそっちについてのものなので、なんだか羊頭狗肉になってしまった。
殺人が許されないことは言うまでもないわけで、「罪のない一般の通行人を」とコメンテーターなどがことあるごとに言うのだが、そこでハタと立ち止まらざるを得ない。じゃあ「罪がある」のなら殺していいのか? 実際、死刑制度存続派の人は「死をもって罪を償う」とか微妙な言い換えで誤摩化すのだが、江戸時代に詰め腹を切るのならともかく(あれだって実質上は刑罰の形式に過ぎないわけだが)、死刑というのはあくまで、せいぜいが「償わせる」のであって、平たく言えば「罪があるから殺す」ということにしかならない。
で、「罪がある」と司法なり社会が認定すれば殺していいのかと言えば、その資格を我々の社会やその司法制度に誰が与えたのかということになる。少なくともそんな権限を司法に与える資格が主権者の一員である僕自身にあるのかと問われれば、「ありません」と答えるしかない。だってそこまで自分の「正義」には自信が持てませんから。言論や表現での批判ならいくらでもやるが、殺すというのは、そこまではねぇ。「どんな理由があろうが殺人は許されない」と言うことを貫かない限り、彼らは彼らなりの正義でやっているこの手のラスコーリニコフ的犯罪を断罪する倫理的な根拠を、我々は持ち得ない。始末の悪いことにある程度までは彼らは正しい、「世間が悪い」「社会が悪い」と言わざるを得ない現状があるのは,確かにその通りなのだし。
司法にしたってどれだけ当てになるのか? 最高裁判所が今日出した判決だとか、これを「正義」と言われて納得する人間も少ないだろう。確かに報道やドキュメンタリーで「期待権」とか言う概念が認められてしまえば我々などは困ってしまうが、そうは言っても東京地裁も東京高裁も政治家の発言に過剰に反応したNHKが編集の独立性を自ら放棄して番組を改編したという事実認定を行った上で、その特殊な状況においては原告の期待権を認めるという論理で筋を通したわけであって、その事実認定を議論することすら意図的にすっぽかした横尾和子判事に、司法の最高機関の判事を務める資格があるかといえば,知的にも倫理的にもこりゃ職務放棄に近い。
しかも取材者側はこの人民裁判の趣旨をちゃんと伝えるという約束で取材が出来たのに、肝心の判決部分を政治家の圧力を感じて(という事実認定は東京地裁も高裁も行っているのに、なぜかそこに一切触れずに判決を覆した最高裁)カットしたNHKは、我々の職業的論理から言ってもおかしい。それに賛成できないのなら「賛成できない」と自分で言えばいいし、もっと高度な映画的表現でいえば、おかしなことを言ってる人間はそのおかしなことを言ってるままにちゃんと見せればいい。
「放送の公平」なら反対意見を並行して流すというおなじみの慣習だってあり、ちなみに今回の判決でも「(4)意見が対立する問題はできるだけ多くの角度から論点を明らかにする-という条件が放送法で規定されている」と指摘してますよねぇ。ならなぜ「天皇有罪」判決シーンをカットしたんでしょうかNHKは? それこそ放送法の精神に違反してるじゃん。なぜその事実関係の議論が、判決要旨でまったく触れられていないんでしょうか?
ちなみに従軍慰安婦問題で天皇個人に法的な責任を求めるのは、いささか無理があると個人的には思いますから「『戦争と女性への暴力』日本ネットワーク」に必ずしも賛成はしませんし、「天皇有罪」で喜ぶ意味もよく分からない気はするが(天皇個人でなく「国家」をちゃんと断罪した上で、具体的な責任は立案・実行した軍人・官僚に問うべきでしょう)、賛成にせよ反対にせよそれを報道することを避けてどうやって「自律した編集に基づく番組制作を進め、報道機関としての責務を果たして」(NHK発表のコメント)行けるのかは大いに疑問だ。まあこういう厚顔無恥なコメントを出す時点で、また当分受信料は払ってやんないからね。
しかしどうでもいいけど、4月のこのブログでとりあげた有村治子議員は、放送や報道などにおいて「期待権」そのものを法的な権利として認めないと判断したこの判決について、どういうご感想をお持ちなんでしょうね? いやだってその「期待権」を前提とした国会質問までなさったんですから。
このブログでは秋葉原の通り魔犯をラスコーリニコフ的な犯罪者と捉えて理解しようとして来ているが、ラスコーリニコフ的な人間がすべて殺人を犯すわけではもちろんないし、それもこういう極端かつ稚拙な犯罪に走った理由は、一般論的な意味での「ラスコーリニコフ・コンプレックス」だけでは説明できないだろう。
やはり現代の日本社会のなかでこそ彼の心理が大量殺人の殺意として醸成されたことは無視できない。そこを分析するには心理的な問題と倫理的な問題、内的・個人的な要因と外的な状況とりあえず大きく分けられるだろう。もっともこの両者は究極的には一人の人格のなかで一致しているからこういうことが起こるわけだし、それをまとめて捉えなければ本当は意味がないわけで、分けるのは言葉・文章というメディアを使う上での方便に過ぎず、僕の本業である映画であれば渾然一体と密接に結びついたその全体を見せて表現することもできるはずだが、ここはブログなので論理的なかっこうを整えるためにもとりあえず分けておく。
んでもってとりあえず外的な状況と倫理的な問題の方を先に議論するならば、早い話が司法までがこのようにデタラメで子供にも詐術と分かるような表層の論理のフリを振り回し、その程度のレベルでしかない司法が他人の死を命ずる権限をどうしたことか持ってしまってる現状があるときに、つまり「世間が悪い」「社会が悪い」のはやはり確かに現実としてそうであってそれでもその世間・社会による殺人が合法化され世間の支持も受けている世の中で、彼らに殺人を決して許されない罪であると納得させるのにはいささか無理がある。
もっと始末が悪いのが、NHKが「圧力」と感じた政治家たちで、その部類には「オタクのアイドル」を自任する麻生太郎なんかも下手すれば含まれかねないのだが、民間人を殺傷しておいて数の問題だけで「南京大虐殺はでっちあげだ」と言い張り、数は兎も角民間人が殺傷されたことは事実としてあることを指摘されれば「戦争なんだからそういうことはある」。従軍慰安婦にしても強制の度合いがどれだけだったのかは議論の余地がある(って、名目上はどうであれ実体として強制であったと思わないのは、よほど神経がどうかしているか世間知らずのどちらか)にせよ、「聖戦」を戦ってるはずの兵隊さんがヒマがあれば犯すために女性を従軍させていたのだ。
「戦争なんだからそういうことはある」つったって、それでも「正義の戦争」で「アジアを解放する」云々と言ったところで、そのアジアの女性を兵隊専用の売春婦にしておいて、「アジアを解放する」と言えるその神経の方がおかしい。「罪もない一般市民」と言ったって、その我々も含む一般市民がこうした倫理的な倒錯を容認していることもまた現実なのだし、そんな狂った倫理観を振り回す世間で育った彼らに、まっとうな倫理観を持てという方が無理がある。
別に秋葉原の通り魔犯がそういうことまで考えているというのではないし、たぶんまったく考えてもいないだろう。ただここまで最低限の倫理観すら倒錯しているなかで、彼のような人間が育ってしまうことを避けられると思う方が無理がある。
日本社会の全体が戦争責任の問題から逃げ続け、今や忘れてしまってさえいることは、一例に過ぎない。政治の世界でも官僚でも…あるいは彼らの成長過程であれば学校に行けば「弱いものをいじめるのはいけないことです」という当たり前のことすら教えられない教師がいて,逆に「いじめられる側にも原因がある」とか言って、学級会をいじめられっ子の吊るし上げ大会にする教師がうじゃうじゃいて、その教師が日教組の上層部に盲従しているだけで「『戦争と女性への暴力』日本ネットワーク」に全面賛同して生徒にそれを教えたりするのだから。
言ってることとやってることが一致していないで子供に信用されようとすること自体に無理がある。我々は見事なまでに倫理観が吹っ飛んだ精神構造のなかで子供を育てているのだ。
この青年は「ゆとり教育」世代になるわけだが、「ゆとり教育」の理念は間違ってはいなかったと思うが現実には完全に失敗している。失敗して当たり前なのだ−−「ゆとり教育」は教えている側により高度な観察力と指導力、そして子供のことを考えるだけの倫理観がなければ実現しようがない。文部官僚の大半にも、教師の大半にも、そんな高度なこと要求しようがないぢゃん。
だから「ゆとり教育」は手抜きを誤摩化す偽善にしかならなかったし、教師の手抜きが放置されたことも、偽善に過ぎないことも、子供には、感受性がそれなりにあって頭がよければよいほど、直感的に伝わる。そしてそういう子供は大人も世間もまったく信用しないように育つしかない。
ここでちらっとこのブログのプロフィールを見て頂ければお分かりのように、僕自身は帰国子女だ。少なくとも小学校の大半を過ごした某国の小学校では、こういうふうに先生がおかしい、大人が信用できない、偽善者だと思ったときに、それを最低限にちゃんと言語化できるだけの教育は確かに受けていた。まあそんな調子だから日本に戻って先生がおかしいと思えば子供なりに理論武装して、実際に論破さえできちゃったりしたのだが、逆に言えば小学校高学年くらいに倫理上の筋論・正論であっけなく論破されるような教師が、「長いものには巻かれろ」を丸出しで子供に接している。
そんな偽善的な現実のなかでこういう「怪物」が育ってしまうことは、そりゃ事件が起こってみれば驚きはするが、よく考えてみればこうなることを予測できなかった方が間が抜けている。
より重要な心理的・個人的な問題については後ほど…。今日の題名は本当はそっちについてのものなので、なんだか羊頭狗肉になってしまった。
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