最新作『無人地帯 No Man's Zone』(2012)
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第62回ベルリン国際映画祭フォーラム部門正式出品作品
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6/11/2008

Diary of a Taxi Driver

引き続き秋葉原通り魔事件の話。犯人の書き込んだと思われる掲示板が見つかって、報道の大変な注目を集めている。動機の解明について警察からの、それも主にリークの情報にしか頼れない報道にとってこれが異例の、それも願ってもないソースになるから注目して当たり前だし、実際に通常の事件で警察が尋問と決めつけで推定し公表する動機よりも、説得力がある。

だが犯人がこういう書き込みをしていたことそれ自体をなにか異常なことのように捉え、「劇場型犯罪」と現代的で特殊なもののように言うのは勘違いだろう。ラスコーリニコフ型の孤独で反社会的な、革命家になり損ねた犯罪者は、相当に緻密な日記や手記を書いて、自分の思想や思考、内面を克明に描写する傾向が強い。そして現代では日記を書くよりも、携帯電話で掲示板に書き込む方がずっと身近な表現・執筆行為になっているというだけのことだ。強いて言えばそうしたものが簡単に公開できてしまう状況があることが現代の特異性ではある。ただ、この掲示板は結局誰もレスをつけないように、犯人が排除している。結局,犯行前に誰か読んでいたかどうかと言えば、誰も読んでいない。あくまで孤独な営みに過ぎないし、本人もどこかで分かっていたはずだ。



それにしても、新聞の社説・オピニオンでも、テレビのコメンテーターでも、誰も『罪と罰』や『地下室の手記』、あるいは『異邦人』、『嘔吐』を読めとか、『タクシードライバー』を見ろとか言わないのが不思議だ。あるいは太宰治や寺山修司、中原中也を読んでも、勘の鋭い人はこの犯人という「異常者」が、行き着いた先はとんでもないのにも関わらず、動機や心理の展開ではそう異常でもないことに気づくのではないか。少なくともこうしたことが古典的な文学上のテーマでもあることは忘れない方がいい。言い換えれば、この犯人のような人間は昔からいて、ただそうした人格が追いつめられていく状況や、その人格の選ぶ自己表現の手段が、やや変わって来ているに過ぎない。

とりあえず『タクシー・ドライバー』はあまりに符合することが多い。犯人の掲示板への書き込みが日記の一種ってのも、この映画では主人公が日記を書くシーンが随所にあり、夜の街をタクシーで流す光景にその日記の文面が主人公のナレーションとして響く。「I am God's lonely man」というタクシ−ドライバーの日記の通奏低音が、掲示板書き込みで繰り返される孤独感に共通するのは誰でも気づくだろう。「自分は孤独である」という無自覚であるだけに厳然と絶対不動な思い込みに、トラヴィス・ビックルも、今回の犯人も、歪んだ論理で必ずそこに陥って行くことの不気味さも含めて。掲示板から見えて来る「彼女がいない」ということと自分は「不細工」ということへの執着、自分を愛する人間などいないという彼らの無自覚の大前提も、『タクシー・ドライバー』を見ればより精確に理解できるはずだ。たかがフィクション映画と思わないでもらいたい。フィクションは現実の分析的な反映、反射像であるからこそ価値があるのだから。

あるいは昨年,アメリカで起こったヴァージニア州立工科大学での30数人を射殺した韓国系の学生の事件も、いろいろな意味で今回の通り魔事件との共通点が相当にある。この青年の場合は、犯行前にヴィデオで自分のメッセージを撮影していて、それをNBCテレビに送りつけている。恐ろしく真剣でありながら、まるで『タクシー・ドライバー』のパロディのようにも見える。

ただとても気になるのは、そりゃポール・シュレイダーが書いているのだから『タクシー・ドライバー』の日記の言葉がかなりの名文なのは当たり前にしても、シュレイダーがこの脚本を書く際に相当に参考にしたらしい実際の知事暗殺未遂犯人アーサー・ブレマー (http://www.spartacus.schoolnet.co.uk/JFKbremer.htm) の日記だって相当な文章だ。ヴァージニア工科大学の虐殺犯のメッセージも、子供っぽい思い込みに囚われてはいても1800ワードのマニフェストとしてそれなりの論理の展開がある。それに対し、今度の通り魔犯の書き込みは、携帯掲示板に書き込んでいる以上、そんなに考え抜かれて研ぎすまされた文章を書けるわけもなく、所々に幼稚なのか文学的なセンスなのか判別がつかないがかなりユニークで詩的でさえある言葉が飛び出してもいるが、断片でしかなく相当に稚拙だ。あるいはマスコミがそこだけを取り上げてるだけなのかも知れないが、シュレイダーが書いた『タクシー・ドライバー』のナレーションや、ブレマーの日記、あるいはその大本のネタかも知れないドストエフスキーの創造した、病理に囚われているが故に病理には病理なりの緻密で冷徹でさえある論理性の展開が、そこにはない。一行くらいしか書けない携帯掲示板の連続であるせいでもあるだろうが、ほとんどただの条件反射にしかなっていない。

日記であろうが『地下室の手記』(ドストエフスキー)だろうが、それは誰にあてられたのかは不明ではあっても表現行為であり、ラスコーリニコフ的な革命家になり損ねた犯罪者にとっての犯罪という表現行為の一部であるはずだ。だがそういった表現としての自覚性が、掲示板書き込みにはまったく感じられない。それは今回の犯罪行為としての結末にも同じことがいえる。サバイバルゲーム好きだった軍事・兵隊マニアだっただけに一突きで命を奪う刺し方をしているとは言っても、考え抜かれ訓練されたものというよりは、本で読んだ知識を付け焼き刃でやってみただけのようで、どれだけがトラックではねられどれだけが刺されたのかの数字は出ていないものの、17人殺傷で死者7人では、不謹慎な言い方ではあるが成功率はあまり高くない。

だいたい、トラックではねるというのは軍事・兵隊マニアでナイフを6本も購入している割には、やり方が安易すぎるし、ナイフも1本しか使っておらず、一本は靴下のなかに隠していて現場に落としたらしい…って、落とすでしょう、ああいう激しい動きをしているのなら。落ちるという可能性に気づかなかったのか? サバイバル・ゲームとかもやってたらしいというのに。それとも「戦争ごっこ」のレベルではそこまで考えられなかったのか? 『タクシー・ドライバー』ではトラヴィスが全身完全武装していく様子を丹念に見せていて、それはそれでちょっと滑稽な仕掛けも含むのだが、ブーツにナイフを仕込むときには、ちゃんとテープ留めしている。そうでなくては落ちて当たり前だ。

あえて言ってしまえば、決死の表現行為のはずなのに、その表現としてのやり方の詰めが、あらゆる局面で安易すぎる。ラスコーリニコフはそこらじゅうにいてもおかしくない。だがネット掲示板に書きなぐられた雇用主への不満にも契約・派遣という雇用体系の安易で劣悪な搾取への批判に発展させようとする努力も感じられない(むしろ雇用側の記者会見を取材したテレビがみごとな瞬間を撮ってしまった−−思わず「切る」と言ってあわてて言い直す雇用側とか)し、これを「劇場型」というには相当に無理がある。「劇場型」にするために不可欠な他者の目線への意識が、この社会性がまったく欠如した犯人にはない。そういう意識を持たないが故か、すべてが安直で安易なのだ。そこには小児的な自己主張はあっても、“表現” は欠如している。これが彼の表現であるはずなのに。

もうひとつ気になるのは報道の姿勢だ。掲示板で「彼女がいない」という言葉が繰り返され、犯行のためのナイフを買った福井の店でしばし女性の店員と談笑している姿の防犯カメラ映像をそこらじゅうで流しながら、ナイフの購入後に「人間と話すのはいいことだ」と彼が掲示板に書き込んでいることまで報道しながら、しかも犯行の現場がメディアによって「メイド喫茶」と「ミニスカ・コスプレ」とロリコン・アニメの「聖地」にまつりあげられた、電気街転じて歪んだ性欲の発露の場になった「アキバ」だというのに、しかも20代前半か半ばの青年が主人公の事件だというのに、そこに無視しようもないほどセックスという問題が避けようもなく明らかになっていることに、誰もが決して触れようとしない。ストーカー判事やら児童ポルノ(しかもスプラッタ系サディズム)をネットで流した小学教師や、援助交際に手鏡大学教授などなどをセンセーショナルに報道しながら、ここでこの青年のそれ自体は相対的に健全でさえあって、「性欲」と言うのも気が引けるほどのオクテな渇望が、動機の重要な一部になっている可能性を、なぜ避けるのか。

一方で、秋葉原を紹介する映像や写真ではどう見たってこりゃビョーキだろう、気持ち悪いとしかいいようがないロリコン・アニメが天下のNHKのメインのニュース番組であるニュースウォッチ9で流される。いったいなんなんだコレは?

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