ゴダール、ワイズマン、クリント・イーストウッド、故・黒木和雄と同い年だったんだ。それにしても訃報が多い今日この頃…。
12/27/2008
12/24/2008
映画批評状況の鈍感
うちの実家は、父が現役時分には某一部上場企業でそれなりの立場だったせいだろうが、日経新聞をとっている。たまたま実家に戻ったら、新聞は年末総括のシーズンで、日経夕刊の最終面の文化欄では今年の映画ベストスリーを何人かの映画欄執筆者があげている。
読んでいてちょっと唖然とした。作品の選択のことではなく、評言にである。
たとえば「あさま山荘事件」を「再現」したつもりの映画について「万人がこれを見て自分の戦後史の再確認を迫られる」。イヤミで言ってるんだとしたら高級すぎて逆に伝わらないんだけど…。つまり、未だに自分たちの失敗を総括もできず、勘違いを反省も再確認できていないで自己正当化を繰り返すだけの世代を戦後史が創り出してしまっていることにおいて、戦後史に蔓延する無責任さと強度の小児的自己愛くらいは、確認できるんだろうね。
数人の評者の合計では最高点になっていたのがニコラ・フィリベール監督の『かつて、ノルマンディーで』なのは棄てたもんじゃないと思ったら、評を読んでさらに唖然とする。二人の評者が挙げているのだが、どちらもが30年前に撮られた劇映画の現場を再訪したということに触れただけ、その歳月の意味を云々としか書いていない。
2008年の日本でこの映画を見ているのにこの反応って、いったいなんなんだ?
映画を見た人なら当然分かることとして、30年の歳月云々については映画の前提の枠組みではあるが、その30年の経過についてはせいぜい頭の15分くらいで紹介されるだけ、それ以上の意味をこの映画はとくになにかしようとはしていないし、主題からしてそんなことは不可能に近い。
なぜって30年の歳月と同時に、その30年前に撮られた劇映画がさらにその過去の、19世紀に起った事件の映画化で、30年前の劇映画もそのきっかけになったミッシェル・フーコー編纂の本も、そして30年後のこのドキュメンタリーも、すべてその事件という過去とその事件の記録との関わりにおいて成立するように、映画が意図的に構成されているのだ。
その19世紀に起きた一家惨殺事件について、二人の評者はまったくなんにも反応していない。この2008年の日本で公開された映画だと言うのに。フランス革命後でもいっこうに平等なんて実現はしていないノルマンディーの片田舎で、貧農の息子が一家を惨殺した「理由なき大量殺人」事件ですよ。動機の解明はまったくできないまま、フランス革命で実施されたはずの近代法規の原則、責任能力とか精神鑑定だとかを結果としてまったく無視する形で、惨殺事件があり旅に出た容疑者が逮捕され、王政復古の政府の超法規的な意向で処刑された経緯を、映画的な表現としては難しいのを覚悟で、事件や裁判のドキュメンテーションとドゥルーズの論考を丹念に紹介しながら、もちろん最初からそうなるのは分かっていると言えばその通りに、やはり理解する術もないというその強烈な不条理が、静かに語られる映画なのだ。
その構造のなかでは30年の歳月も、事件以来百数十年の歳月も、当然ながら普通の三十年とはまったく異なった位相を示すはずだ。出演者の時間であるだけでなく、これは少なくとも社会の時間を包摂し、演じられた時間、演技を通して再現された時間を考察させる映画だ。まあ『かつて、ノルマンディーで』がその点ではいささか理屈っぽい予定調和に収まってしまうというか、やはり理解不能でしかないなにかに狼狽えることから逃げるように、行方不明の30年前の主演男優捜しに収斂してしまうおとなしい映画にも見えるように構成されているのは(よくも悪くも)否めないにしても、だからってそこを無視します、普通?
もちろん触れるにはデリケートな話題なのは分かる。短い年間総括にとてもおさまる内容ではないだろう。でもそうは言っても、よりによってこのニッポンの2008年だったというのに、事件の中身にはまったく触れないまま、「一人一人にとって30年の歳月には意味がある」とかって、いったいどういう神経で書けるのか…。人に人生において30年の歳月に意味があるのは、そもそも当然のことだろうに。そんなこと今更映画や映画批評にお説教されても困りますがな(汗)。
僕はこういうふうに褒められたことないけど、もし『かつて、ノルマンディーで』のような映画を作ってこういう褒められ方したら、「自分はいったいなんのためにこの映画を作ったんだ?」って逆に絶望して、それこそ映画評論家宅を狙った連続テロ事件でも始めちゃうかもしれない。これだったらまだ無視された方がマシ。無視してくれてありがとう、と言いたいくらいだ(まあ別の「30年、40年の歳月」は慇懃無礼に無視した「批評」が大半でしたが--案の定、こちらの予想通りに)。
だって不可解で犯人の動機の真相なんてわかるはずもない事件と分かっていてあえて映画で取り組もうとしたこと、30年前に劇映画で取り込んだ監督とその助監督で今度は自分が取り組もうとしたその意思を、「それは無意味だよ。まあ30年の歳月ごしに作ったからそれは偉いねぇ」とバカにされたみたいにしか思えないじゃんか。だったら我々が映画なんて儲かりもしないギャンブル稼業をやって、ピエール・リヴィエール事件なんて厄介なものに取り組む意味って、どこにあるんだよ?
いや我々映画を作ってる側の感情なんて、まだたいした問題ではない。もっとも腹立たしいのは、今年にあの映画をこの国で見たごく普通の観客が、当然この国の今そこにある現実を当然反射させる知性と感受性を持っているのに、映画評論家という肩書きのある人々がその観客/読者を愚弄しきっていること。まして「日本経済新聞」、社会経験も豊富なはずの、いわば大人の読者を想定した記事のはずですぜ。
そりゃ映画の観客が減るのも当たり前でしょう。っていうか、それって「映画」を馬鹿にした態度以外のなにものでもないようにも、思えて来る。

ドキュメンタリー『靖国』騒動でも、芸術文化振興基金の選考審査員だったであろう批評家だとかは、誰も名乗り出なかった。一応守秘義務があるといっても、それは選考時の癒着を防ぐという目的で、毎年メンバーは変わるはずだから『靖国』を選んだメンバーが職を解かれた後で自分の見解を表明したって問題はないはずなのに。プロデューサーとか実作に関わる立場ならともかく、批評家たるものとしてなんだかあまりに無責任すぎませんか? 他人様、お客様、読者や観客に、そして社会に対して自分の作品とか自分の言葉で向き合うって、まして他人の作品を切り口に不特定多数の読者に対して何かを論ずるって、もっと厳粛なことではなくてはならないのでは、ありませんか?
読んでいてちょっと唖然とした。作品の選択のことではなく、評言にである。
たとえば「あさま山荘事件」を「再現」したつもりの映画について「万人がこれを見て自分の戦後史の再確認を迫られる」。イヤミで言ってるんだとしたら高級すぎて逆に伝わらないんだけど…。つまり、未だに自分たちの失敗を総括もできず、勘違いを反省も再確認できていないで自己正当化を繰り返すだけの世代を戦後史が創り出してしまっていることにおいて、戦後史に蔓延する無責任さと強度の小児的自己愛くらいは、確認できるんだろうね。
2008年の日本でこの映画を見ているのにこの反応って、いったいなんなんだ?
なぜって30年の歳月と同時に、その30年前に撮られた劇映画がさらにその過去の、19世紀に起った事件の映画化で、30年前の劇映画もそのきっかけになったミッシェル・フーコー編纂の本も、そして30年後のこのドキュメンタリーも、すべてその事件という過去とその事件の記録との関わりにおいて成立するように、映画が意図的に構成されているのだ。
その構造のなかでは30年の歳月も、事件以来百数十年の歳月も、当然ながら普通の三十年とはまったく異なった位相を示すはずだ。出演者の時間であるだけでなく、これは少なくとも社会の時間を包摂し、演じられた時間、演技を通して再現された時間を考察させる映画だ。まあ『かつて、ノルマンディーで』がその点ではいささか理屈っぽい予定調和に収まってしまうというか、やはり理解不能でしかないなにかに狼狽えることから逃げるように、行方不明の30年前の主演男優捜しに収斂してしまうおとなしい映画にも見えるように構成されているのは(よくも悪くも)否めないにしても、だからってそこを無視します、普通?

だって不可解で犯人の動機の真相なんてわかるはずもない事件と分かっていてあえて映画で取り組もうとしたこと、30年前に劇映画で取り込んだ監督とその助監督で今度は自分が取り組もうとしたその意思を、「それは無意味だよ。まあ30年の歳月ごしに作ったからそれは偉いねぇ」とバカにされたみたいにしか思えないじゃんか。だったら我々が映画なんて儲かりもしないギャンブル稼業をやって、ピエール・リヴィエール事件なんて厄介なものに取り組む意味って、どこにあるんだよ?
そりゃ映画の観客が減るのも当たり前でしょう。っていうか、それって「映画」を馬鹿にした態度以外のなにものでもないようにも、思えて来る。
ドキュメンタリー『靖国』騒動でも、芸術文化振興基金の選考審査員だったであろう批評家だとかは、誰も名乗り出なかった。一応守秘義務があるといっても、それは選考時の癒着を防ぐという目的で、毎年メンバーは変わるはずだから『靖国』を選んだメンバーが職を解かれた後で自分の見解を表明したって問題はないはずなのに。プロデューサーとか実作に関わる立場ならともかく、批評家たるものとしてなんだかあまりに無責任すぎませんか? 他人様、お客様、読者や観客に、そして社会に対して自分の作品とか自分の言葉で向き合うって、まして他人の作品を切り口に不特定多数の読者に対して何かを論ずるって、もっと厳粛なことではなくてはならないのでは、ありませんか?
12/19/2008
ブッシュ大統領と靴
いま世界で話題?のゲーム(ここをクリック)です。

けっこうクセになるかも知れませんぜ(笑)。
って本当はこの程度では済まない怒りでもおかしくないのが、ついこういう風にギャグにされてしまう、ギャグにしかならないってのがなんとも…。
オリヴァー・ストーンがこんな映画も作っちゃってますが、日本ではいつ見られるんだろ? 父親へのコンプレックスという、極めてオリヴァー・ストーン映画的なこだわり丸出しの解釈をしてるみたいで、直球勝負なだけに意外と最高傑作かもしれない?
それにしてもブッシュ政権のいう「テロとの戦争」における「Shock and Awe (衝撃と畏怖 )」戦略って、テロリズムの定義そのものじゃんか。

けっこうクセになるかも知れませんぜ(笑)。
って本当はこの程度では済まない怒りでもおかしくないのが、ついこういう風にギャグにされてしまう、ギャグにしかならないってのがなんとも…。
オリヴァー・ストーンがこんな映画も作っちゃってますが、日本ではいつ見られるんだろ? 父親へのコンプレックスという、極めてオリヴァー・ストーン映画的なこだわり丸出しの解釈をしてるみたいで、直球勝負なだけに意外と最高傑作かもしれない?
それにしてもブッシュ政権のいう「テロとの戦争」における「Shock and Awe (衝撃と畏怖 )」戦略って、テロリズムの定義そのものじゃんか。
12/17/2008
あのピーター・フォークが…
ちまたではロス市警のコロンボ警部補で有名な、映画ファンにとってはジョン・カサヴェテスの映画や『ベルリン天使の詩』が印象深い名優ピーター・フォークが、アルツハイマー病なのだそうです…。もう80過ぎで、盟友カサヴェテスが亡くなってもうそろそろ20年、という感じですから、しょうがないか。

『ベルリン天使の詩』だって気がつけば20年前の映画だし…。勘定してみて驚くけど。
12/13/2008
アメリカ自動車産業は没落し、イーストウッドはアメリカ映画を撮る

《『Gran Torino』 予告編 》
気がつけばイーストウッドは最後の、本来の意味でのアメリカ映画作家なのかも知れない。レーガン=ブッシュ父12年の共和党政権の末期に自ら “最後の西部劇” と銘打った渾身の『許されざる者』を発表して以来、イーストウッドの映画は常にアメリカ社会のその時々の現実についての、アメリカに生きることを生々しく反射して見る映画、アメリカとはなんなのかを考えさせることをその力として持った映画ばかりだ。一方でアメリカ映画、というかハリウッド映画はアメリカ社会とほとんど関係のない国際市場向けの、「グローバリゼーション」の名の元に均質化して無国籍化した世界向け商品になっている。だいたいアメリカを舞台にしているはずの映画ですら(国内製作費の高騰のせいで)カナダだったりオーストラリア、ニュージーランド、時代物なら旧東欧で撮影されているわけだし。


監督イーストウッド予想外の大躍進のワリを喰った大作が、たとえばコッポラがAIDS時代の吸血鬼映画を愛=セックス=死の寓話に仕立てた『ドラキュラ』だったりする。洗練された宣伝キャンペーンに大きな資本がつぎ込まれた話題作だっただけでなく、今見直せば大変な野心作だし、『地獄の黙示録』以来の渾身の傑作なんだろうけれど、公開時は「ぜんぜん怖くない」という印象しかなかったし、AIDS時代のメタファーもなんだか直接の理屈だけで考え過ぎにしか見えなかったのは、比較対象として『許されざる者』の肌身で感じるアクチュアリティが、それだけ強烈すぎたのだろう。










12/06/2008
12/03/2008
円覚寺









これがどうやったら虎の頭に見えるのか分かりませんが、そう見えるのが禅の奥義なのかも知れん。いずれにせよ自然の岩を生かして池などを配置した庭作りの妙。いかにも日本的な自然との共存の美学って説明すれば感心して頂けること請け合い(笑)。



つまり円覚寺のいちばん奥、ってことになります。いや違った。その奥の山も含めて円覚寺なんだっけ。



まあ外国人に仏陀と菩薩の違いとか、見分け方とか、観世音菩薩とはなんぞやとか、説明するのは大変なんですが(汗)。最近はダライ・ラマが国際的有名人なので、「ダライ・ラマってのはこれの生まれ変わりなんだよ」と説明すればいいから少しは楽か。でも西洋人は「仏陀の生まれ変わり」だと思ってたりするので、「いやだから菩薩ってのは仏陀じゃなくて、悟りを開いて仏陀になる前段階が菩薩で、だから観音菩薩はまだ悟りには達してないから装飾品を身につけていて…」とか「まだ悟りに達してないからダライ・ラマとして転生できるんであって、悟って仏陀になったら輪廻転生から外れるから生まれ変わらないのであって」とか、日本語で説明しても、自分だってよく分かってないんだから難しい…。









<さらに円覚寺の写真>
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